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スピーカー 1
例えば、まあ今となっては僕もね、ヨガをもう初めてだいぶ経ちますんであれですけど、ヨガはしてない頃に僕がヨガのことでマリコさんが言ったことを、いやでもそれ違くないみたいに言ったりとかこう思うけどなって言ったときにはきっとマリコさんはちょっとムキになってっていうか、いやいやそれはこうだからみたいなことを思ったこともあったかもしれないし、まあそういうのはあると思うんですけど。
で、そういった人が何か条件が揃ったときに自動的にね、もうオートマチックにそういう感情が揺れ動くっていうことって、まあよくあって、それを自分が知ることってすごく大事だなって思うんですよ。
大事だなって思うんですよっていうか、これも勉強会とかで学びの中で教えてもらったことでもあるんですけど。
で、もう一つ、さっきのその前に話した炎上のことのときに僕が過剰に反応した、あなたはそもそもその慈悲の心がない状態で投稿したんだからもうどうにもならないみたいな話についても同じで、
僕はそのケースで言うと、なんかその自分が善人だと思ってるわけです。自分のことをね。まあなかなか自分で自分のことを本当に悪人っていうふうには思ってる人はいないと思うんだけど、まあまあ僕も漏れなくそう思ってるんですよね。
で、その自分の善人性っていうのかな、そういう部分を否定されるようなことを言われたときに異常に反応してしまうとこやっぱあるんですよね。
で、それは多分ちょっとしたトラウマがあって、過去に誰かを傷つけたりとか、誰かに対してすべきでないことをしてしまったりとか、言うべきでないことを言ってしまったりとか、そういったことをしていた過去があったと思うんですよね。
そういう過去があって、その時にしたくてしていなかった、そういうことを言いたくて言っていなかった、要するにすべきじゃないってわかってるんだけど言わざるを得なかったとか言ってしまっていたっていう感情というか、そういう経験があったんですよね。そういう時期があったんです。
で、そういう時って自分でも苦しさがあるんですよね。その後ろめたさ、自分は本当はそんなことしたくないのにとか、何か自分を正当化していないとやっていられないことがあって、そんな過去があるもんだから、人から何か否定をされたときにすごく反発したくなる。
自分で何とかこう、自分はそういう人間じゃないみたいに思って自分自身を保っていたことがあったから、それを否定されるようなことを言われるとものすごく反応してしまう。まあそれがその慈悲の心がないみたいな話とかでもそうだと思うし、今までにあったことで言えば、性格悪いよねみたいなことを誰かに言われたりとかしたときに異常にそれを認められない。
まあ性格悪いよねとか、ひねくれてるよねみたいなことを言われたことが過去に何度もあるんだけども、当然ながらそれは僕にそういうふうに思われる要因があったからそう言われたんでしょうけど、でもやっぱりそれをさっき言ったような経験から言われたくなかった、言われると異常に傷つく、気にしてしまうっていうのがあったんですよね。
まあ話は戻りますけど、そういった過去のトラウマとか何かしらの経験から異常に反応してしまうことっていうのはやっぱり人にはそれぞれあって、まあ僕と同じようなことでなくてもそれぞれあるんですよねきっとね。
それを認識することによって、自分は今そこに触れられてしまったからそういうふうに過剰に反応してしまってるだけであって、本来そんなに反応することではないっていうふうに捉えたりとか、逆の場合もそうなんですけど、例えばマリコさんから見たときに僕はね、この人はそういう経験、過去の経験があるから今そうやって反応してしまってるんだなっていうふうに見れると、またそこに対して冷静でいられるっていうか、というふうになるじゃないですか。
わかります?言ってる意味。
うん。
うん。
はい。
っていう話なんですよ。
スピーカー 2
うん。
なんかその、私が認識してる慈悲の意味と、たぶんけんくんが認識してる慈悲の意味がたぶんちょっと違うんだと思うんですよね。
うん。
なんかそこでずれが発生したのかなと思って。
スピーカー 1
それもあるかもしんない。
それもあるかもしんないから、ちょっとその話もう一回してもらうけど。
でも今話してる話はそういう話じゃないからね。
うんうん。
そもそもそうなるかもしれないけど、だからそういう特定の何か、要はもう分かりやすい言葉で言うと地雷みたいなことだよね。
うん。
あるとそうなってしまうっていうことを、自分の地雷を知ることを、そういう状況に陥ったときに、地雷を踏んでしまったんだとか踏まれてしまったんだって知ることが状況を悪化させないための大切な要素だなっていうふうに思いますっていう話ね。