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#73 地域で異なる『合理性』を考える【前編】
2026-05-29 29:00

#73 地域で異なる『合理性』を考える【前編】

みなさんは学校教育での作文をどんなふうに書いていましたか?

今回はプロデュース事業部のナイルさんをお迎えして『国や地域で異なる合理性』について討論しました!

ぜひ育った環境と自分自身の考え方との結びつきについても考えてみてください◎


『水星移住計画』では皆様からの質問や感想などを募集しています!すべての宛先はsuisei.podcast@gmail.com または⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠お便りフォーム⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠までお送りください。


【参考】

「論理的思考」の文化的基盤/渡邊雅子

ゆる言語学ラジオ『「論理的」は、地域によって違う #372』


【Personality】

⁠籔田晃平⁠(HOTEL SHE, KYOTO)

中島こと(HOTEL SHE, KYOTO)

木村七音流(プロデュース事業部)


【Company】

株式会社水星 https://suisei-inc.com/

感想

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サマリー

今回の「水星移住計画」では、プロデュース事業部の木村ナイルさんをゲストに迎え、「国や地域によって異なる合理性」について深掘りしました。番組では、アメリカ、フランス、日本、イランといった国々で合理性の捉え方がどのように違うのか、特に作文教育や歴史教育がその背景にどう影響しているのかが議論されました。アメリカでは結論から理由を述べる「5パラグラフ・ライティング」が主流であるのに対し、日本では情景描写から入り感情の変化を経て結論に至る構成が一般的であることが紹介されました。また、フランスではテーゼ(主張)とアンチテーゼ(反論)を提示し、それらを統合していくような思考プロセスが重視される傾向があることが示唆されました。さらに、東京と京都の都市のあり方や人々の感覚の違いにも触れられ、東京の「上に拡張していく」感覚と、京都の「あるものの中でやりくりする」感覚との対比が興味深く語られました。ゲストの木村さんは、自身のモデル事務所での経験から、時間感覚の違いや、国や地域によって異なる「生き方」の根底にある価値観についても考察しました。番組後半では、京都の「狭すぎず広すぎない」人間関係の規模感や、地域に根差した商売における「人の良さ」や「縁」を大切にする非合理性が、長期的なコミュニティ形成やファン作りにおいて合理的である可能性についても言及されました。

自己紹介と今回のテーマ紹介
こんにちは。
ちょっと待ってください。
これ読むから入るでいいんですか?
一人で楽しそうですね。
やっぱりいい声ですよね。
じゃあ始めます。
この番組、水星移住計画は、株式会社水星による、聞く人皆様のライフスタイルの選択肢を広げることを目的としたポトキャスト番組です。
私、ホテルC京都の中嶋です。
ホテルC京都の矢舘です。
プロデュース事業部の木村です。
今回はですね、プロデュース事業部の木村さんに来ていただいております。
私も前からお話したいと思ったんですけど、今回、前回の私と前田さんの回を聞いてくれて、
ぜひ話したいことがあるという風に企画をいただき、今回ゲストとして来ていただくことになりました。
なので、ここで自己紹介をお願いできますでしょうか。
よろしくお願いします。
プロデュース事業部の木村です。
プロデュース事業部には木村っていう人間が2人いるんですけれども、
女性の方は東京にいて、僕は今京都に住んでいる木村ナイルと申します。
ナイルさん。
両親の新婚旅行がエジプトだったので、帰ってきて生まれた子供にナイルって付けたっていうので。
インドじゃなくてよかった。
インドじゃなくてよかった。
ガンジスになるとこやった。
ガンジスだから。
木村ガンジスになるとこやった。
弟とかでありえたんでよかったですね。
兄弟姉妹はいらっしゃらない?
一応妹いるんですけど、川じゃないです。
川の名前ではない。
山の名前でもない。
山の名前でもない。
地名ではないです。
素敵な名前だね。私たちも多分ナイルさんって普段は呼んでます。
呼ばせていただくかと思います。
今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
では早速ですが、今日木村さんが話したいと思っているトピックをお願いします。
はい。
えっとですね、ちょっとこれ、若干長くもらっていいですか?
もちろんです。
ありがとうございます。
「論理的思考の文化的基盤」と作文教育の違い
前の前田さんがゲストの回で、ことさんと一緒に東京と京都の暮らしの違いみたいな話をしてて
それめっちゃ面白いなと思って聞いてるタイミングで
ちょうどよく聞いてるゆる言語学ラジオっていうYouTubeで紹介してた本が結構面白かったんで
それの話と絡めて喋れへんかなと思って
その本がちょっとタイトル難しいんですけど
論理的思考の文化的基盤っていうので
これめっちゃ面白そうと思って買ったんですけど
1ヶ月くらい前にこれ買って
これ喋りたいですって言ったんですけど
まだ読んでないっていう状態で
それは結構読むのに体力がいるというか
僕が耐えぬに耐えたであるという感じなんですけど
ざっくりとした内容はゆる言語学ラジオで見ていただければわかるので
僕もそれで履修したので
ちょっと読んでないんで正確な知識ではないんですけども
ちょっと軽くご紹介して
その上でその話できたらなと思ってます
私もナイルさんに教えてもらって
そのゆる言語学の会話聞いたんですよ
めっちゃ面白いと思ったんですけど
本を買おうとは思わなかったです
もう十分面白くてそれで
もちろん本買ったらより面白いんだろうけど
買ったのさすがですね
高かったんですけど
なんかポッドキャストで喋るからには
原点当たらんと喋るわけにはいかんかと思ったのに
読み切れなかった
読み切れなかったというかまだ5ページぐらいしか読んでないんで
5ページですか?
僕はKindleで最初の読めるところだけ読みました
読んだんですか?それ何ページぐらいですか?
あれでも最初の5、6ページぐらいかな
同じぐらい
じゃあ僕より読んでるかもしれない
知らないなりにどういう本かと言いますと
我々が普段合理的だと思っていること
こう言われたら納得するよなって言われてるものっていうのは
実は世界中で共通のものではなくて
国ごとにその合理性みたいなのが結構変わってくるんじゃないかという
この中ではアメリカとフランスと日本とイランかな
合理性の考え方が違うんじゃないかというような話をしていまして
それちょっとあんまり詳しく話していくと長くなっちゃうんですけど
ざっくり言うとその国の歴史をどういう風に認識しているかということと
その国にどういう風な歴史教育とか作文教育が行われるかによって
合理性っていうのが変わってくるんじゃないかっていうような話なんですね
それぞれの国の作文教育がどうなっているかっていうのが分かりやすいんですけど
アメリカの作文教育はまず5パラグラフリライティングっていうのが有名で
まず結論があってその理由1理由2理由3で結論みたいな風に
目的があってそれを強化していくような文章の作りになっている
なんでそうなっているかというと
アメリカ人はイギリスからやってきて広い土地をどんどん開拓していった
自分たちで広い土地を耕してきた歴史があるから
こういうことをしたいとまず意思を打ち立てて
それをやるためにどうすればいいかとか
タスクに分解したり理由を述べたりっていう風な
ストレートな論理構成みたいなものが求められてきた
でもそれに対して日本の作文教育ってどんなやったかって覚えてます?
だらだらと情景描写しがち
そうです
読書感想文とかやらされたと思うんですけど
基本的に本を読む前の自分が言って
僕はもともとこんなんでした
この本をこういう風に読んでみて
こういう風に気持ちが変わって
今の僕はこんな風に思いますみたいに
結論からではないし
スタートがあってそこから時間の中でうにょうにょ経過していって
その結果こういうところにたどり着いてたみたいな感じの構成になってる
そうでした
それがすごくある種対照的やなっていう風に思っていて
合理性がどう違うかって話若干ムズいんであれなんですけど
物の考え方の時に目的があって
それをするためにこれがあってこれがあってこれがあるのにやみたいな
風な考え方をするか
僕はここにいて
こっち行ってこっち行ったらこうなりましたみたいな風な感覚
結構この間言ってた東京と京都の感覚に対応してるような気がなんとなくしていて
それをちょっと喋りたいなみたいなのでやってきたという感じでございます
アメリカとフランスの作文・思考様式
実際中島さんは
仕切っちゃった
仕切ってください
今日は中島さんが仕切るはずやったもんね
アメリカで小学生時代を過ごし
日本にまた戻ってきて
中学生以降で日本
アメリカは小学校の2年間しかいなかった
小学校4年生と5年生の2年間
実際読み書きする年齢でアメリカにいたっていう点で
日本に戻ってきてからだいぶ文化的な違いとか
今のいった合理性の違いみたいな部分を感じるみたいなことはありました
私もそれこそ
ポッドキャストも聞きながら思ってたんですけど
それこそアメリカで教育を受けたはずなんですけど
なんかそんな
私はっきり喋るのあんまり好きじゃなくて
好きじゃないというか苦手なんですよ
私はその5パラグラフなんとかは
習ってないか
習ったけどあんまり理解できてなくて
落とし込めてないかだと思って
逆に大学の時に
教授がフランス哲学の先生だったんですよ
私も本は読んでないんですけど
ポッドキャストでフランスはどちらかというと
どんな感じでしたっけ?
フランスか
ここに出てきてない
今話してなかったので
フランスとイランというのがあるんですけど
フランスは最初に
テーゼっていうテーマがあって
例えば焼肉は美味しいとか
最初に美味しいみたいな話を1パラグラムで書いて
逆に美味しくないみたいな話を
2パラグラフ目で書いて
3パラグラフ目で1つ目と2つ目を
考え合わせた結果
やはり私は美味しいんではないかと思って
対立する意見を
うにょうにょするみたいな考え方をするのがフランス
セルフディベートみたいな
そうなんですよ
そうで
フランスでだからフランス映画は何回なんじゃないか
みたいな話もされてたと思うんですけど
ポッドキャストの中では
でも私も大学の教授が
ある時いつも授業とか受けてたんですけど
ある時僕は実はね
いつも授業の最後
どういう感じで行き着くか決めてないんですよね
ああとか言って
私はそうなんだ
確かにこの人めっちゃただ喋るなと思ってたな
ってその時思ったんですけど
それは違いとして感じました
やっぱフランス哲学やってる人は
そういう風に喋るし
その場で醸造される何かを
最後の結論
はっきりとして結論まで持っていくかどうかは
わかんないですけど
そうやって思考するんやなっていうのは
あと別エピソード話したいんですけど
時間感覚と文化の違い、ブラジル人モデルの例
私前職がモデル事務所で
いろんな国の子たちが
来て日本で仕事するとか
国によっても全然みんな違くて
特に私が一番びっくりしたのは
時間の概念がわからない子がいたんですよ
ただ遅刻し続けるだけじゃなくて
これは明日の仕事ねとか
明日の仕事を毎日送るわけなんですけど
明日の仕事ねって言っても
わかんなかったりとか
もちろん英語が通じないとかもあるんですけど
でもどんだけ翻訳しても
遅刻したり
モデルが来ませんとか
今どこにいるのって聞いたら
家みたいな
仕事だよ?いつ?
みたいなことを言われて
はぁーって思って
だからもう事務所に呼んで
あなたは何曜日と何曜日と何曜日に
今週は仕事があるから
明日はここで
明後日はここだからね
毎日前の日の夜に仕事を送るから
って言って
また家に帰った後に
あなた明日はどこどこの仕事だからね
上?とか書いて
はぁーって思って
でもその時に
はってはってって思ったんですけど
これはきっと
そもそも時間に遅れちゃうとか
怠惰なことだとか
そういう子じゃなくて
そもそも生きてる
何かが違う
今生きる人みたいなのの
究極バージョンなんだなと思って
自分を眺めたことがあるんですけど
その子はどこの国の子?
その子はブラジル出身で
アメリカに住んでる子でした
なるほどね
向こうの国でうまくやれてるんかな
やっぱそのオーラカなのか
なんかその曜日がわからないけど
曜日じゃない
なんか別の言い方で言うのか
ちょっとわかんないんですよね
直前連絡なのか
なるほど
はい
そういうこと思いました
なるほど
東京と京都の都市感覚と合理性の違い
今喋ってた
散歩的に
うにょうにょ進んでいく
フランスの哲学の先生みたいな
うにょうにょ進んでいく感覚と
直線的に進んでいくみたいな感覚が
前田さんが言ってた
東京は
目に入る一番大きいものがビルなんだ
みたいなことを言ってた
人工物なんだって
逆に京都は
山が見えるからいいと言って
山とか川が見えるからいいって言ってた話と
なんか実は関係するんじゃないかな
みたいなことを思っていて
さっきアメリカの人が
広い領土に自分たちが開拓していたと
周りの余白でどんどん広げていける余地があると
無限に拡張していけるっていう感覚があるから
そこに意志を打ち立てて
それに向けてどんどん進んでいくぞ
っていう感覚があると思うんですけど
今それが都市においては
上の方向やと思うんですよ
ビルをより高くしていくとか
っていう風なことと
結びつくような感じがしていて
逆に京都は山とか川ってあるっていうのが
すごく大きい環境としてあると思うんですけど
それらが見渡せるように
建物が全部低いじゃないですか
だからなんかこう
建物を潰して建て替えると
損するはずなんです
今の不動産の考え方で言ったら
より高い建物を建てないと
回収する費用がわからないので
建て替えるモチベーションが
あんまり基本的にないと
ってなるとあるものの中で
やりくりしてこっちしかないと
そうすると自分で意志を打ち立てるっていうよりか
あるものとたくさん出会って
その中でどう暮らしていくかみたいな
風な感覚になるしかないんだなって思っていて
山が見えるっていうのも
すごく大きいと思ってるんですけど
なんかその
簡単な二項対立にするのが
いいかわからないんですけど
ちょっとあえてバカゲツに極端に話すと
どんどん上に拡張していける感覚の中の世界と
ある意味有限で
自分のできることもある程度限られているというか
いい無力さみたいな
我々にはこんなものしかできひんよね
みたいな感覚の中で
すでにあるものを遊んでいくみたいな
感じの感覚って
都市全体に広がってる感覚の違いとして
あるような気がするんですよね
確かに
それで言うと
日本って国土が狭いじゃないですか
だから人も
一人に対する面積小さいじゃないですか
だから東京とかって
より高い
建物とかはより高いし
より小さな面積の中に
人をいっぱい入れなきゃいけないから
そう思うと東京の人って
すごく
上に積み上げる感覚なんじゃないですかね
そんな気がします
世界に比べても人口密度が高い
確かにそうかも
今更ですけど
木村ナイルさんのバックグラウンドと京都の魅力
僕のバックグラウンド全然話してなかったなと思いまして
そういえば
視界が上手くいってない
僕は滋賀県で生まれて
高校京都に通って
浪人もしてるんですけど浪人も京都で
19歳まで関西に
滋賀京都にいて
20歳から東京の大学に行って
そこから10年間東京で暮らしていた
建築の勉強してたんで
ビルを建てていくこととかも結構興味があったんだけど
どうしても僕はあんまりツルツルしたビルとか好きになれなくて
リノベーションとか
それこそ生きられた家っていう本があるんですけど
人に建物がどう生きられていくかみたいな
人が手を加えながら
その人の暮らしの形と建物の形が
ユニゾンされていくみたいな
そういうプロセスはどうやったらできるか
みたいなことばかりやってたんですけど
その感覚とすごく京都が合うなと思って
東京にもそういういい感じの街たくさんあったんですけど
下北とかも再開発でどんどん高くなったり
みたいなことを目の当たりにして
やっぱりあの街をドリブンしてるのは不動産やし
より高く積み上げることだなと思った時に
するともっとお金を稼がなあかんとか
そのためにはこれをしなあかんっていうか
都市の営み自体が
ベースを目的を立てて
こうするぞこうするぞっていう風な感じになってる様を
毎日目の当たりにしてるのが結構なと思ってたら
こっち京都来てみると
なんか変な魔改造された
プランパーとかがいっぱいあったりとか
ぐちゃぐちゃの居酒屋がいっぱいあったりとか
そういうのを見てると
こういう感覚が当たり前にあるのがめっちゃいいなって
思ったりしてますね
京都の非合理性と地域コミュニティ
確かに
東京に住んだ経験がないので
僕は東京の合理性と京都の非合理性みたいな違いを
具体的に言語化は難しいんですけど個人的には
でもなんかやっぱあからたまに違うのは
建物もそうですけど
人口が圧倒的に違うじゃないですか
ってなった時に
例えば暮らしにも合理性と非合理性が
違いがあるんじゃないかなみたいな
頭の中で考えて
例えば東京とかだったら
法人とかサービスとかが京都に比べたら圧倒的に多くて
例えばもう行政に丸投げできちゃうとかを
京都とかだったら
もうちょっと規模の小さい自治体とか
民間とかがやってるとか
もっとなんか何て言うんだろう
街単位とかで言ったら
個人の集合体でやってることとかが実はあったりして
東京でも同じこと言えるかもしれないですけど
なんかそういう京都の享受できるサービスとかの有限性ゆえに
非合理な街づくりを
その街の人たち個人個人がやってるみたいな
それこそお店とかも全然少ないとか
会社も少ないってなった時に
比率で言うと個人事業主と法人の比率っていうのは
東京のその比率とやっぱり全然違ってくるみたいなのも
なんか妄想せざるを得ない非合理性みたいな
そうですね
とかなんか
有限性ゆえにそういう非合理性
京都は地方都市ですけど
もっと過疎地とかに行くと
なんか逆にもうその
例えば三馬さんがいるみたいなレベルの
個人の属人性ゆえの非合理性みたいなのが
その村とかの単位になると逆に合理的
みたいなこともあったりするとか
三婦人科の病院に車でめっちゃ走って行くよりも
近くに住んでる後何年生きられるか分からない三馬さん
呼ぶ方が今のところは効率がいいみたいな
ありますね
そういう不便さゆえの合理性みたいな
逆転現象みたいなのもある気はしますよね
京都の人間関係の規模感と店の雰囲気
確かに
今のお聞きして思うのは
なんか京都はその
なんかその狭いコミュニティーすぎて
息苦しいみたいな感覚からも
あの抜け出っていうところがあるような気もして
なんかなんやろ
田舎の方に住んでる時やと
例えばデートしてたらもう10日後には
もう村中全員知ってるみたいな
とかってあるじゃないですか
そういうふうななんていうか
なんですかね
こう息苦しくなるような優厳性だったりっていうのは
なさそうやなっていうような気もします
確かにそういう意味ではこう
狭すぎず広すぎず
ちょっと選べるんだけど
なんか無限に選べるわけではないという
その人と人の繋がりの規模みたいなのを
京都の場合
なんか僕の感覚ですけど
例えば
フラッと入った飲食店のお店の人と仲良くなったら
実は友達の友達だったぐらいの広さ
みたいなのが僕の京都の印象
確かにでもそんな距離感ですよね
そのスケール感というか
これが東京とかだと滅多にないのかな
そもそもお店の人とそんなに仲良くなることすらないのかな
みたいな
あるのかもしれないけど
その界隈が多分無数にあって
なかなかそんなに接近することがないのかもしれないし
確かに
京都の店の人の良さと東京の店の違い
私昨日ご飯屋さん行ったんですけど
普通に京都の五条ら辺のご飯屋さん
元気出して
おじさんが
そこのおじさんが
私5年ぶりぐらいに
学生の時に1回行ったことがある居酒屋さんで
昨日は2軒目でそこ近かったから寄ってみたら
すっごい感じが良かったんですよ
とりあえずニコニコみたいな感じで
はいらっしゃーいみたいな
全然普通のことなんですよ
当たり前のことなんですけど
ご飯とかも選んで
ごめんなやついっぱいあんねん
とりあえずアボカド美味しいよ
とりあえず聞いて何でもあるかどうか聞いて
みたいな感じで
クラッカーにアボカドつけるみたいな
おすすめで美味しそうだったから
すっごい美味しかったんですけど
それもごめんなクラッカー割れてるけど
って言って割れてるのをいっぱい出してくれて
もう一袋あげるからとか途中で追加してくれて
とりあえず本当にすっごい良い店で
それが2軒目だったんですけど
1軒目に行ったところが
もう一つちょっと新しくできた感じの
ナウイ系の小屋さんやったんですよ
そっちはもちろん店が広かったのもあるけど
もう店員さんはオーダーだけ
私それ帰り道で
2軒目の店めっちゃ良かったなと思って
1軒目は美味しかったです
ご飯も美味しかったし
雰囲気もすっごい良かったし
デートとかにも良さそうだし
久々の友達と飲むとかにも綺麗で美味しくて
京都のご飯とかも良かったけど
また行きたいのって校舎の方やなと思って
とりあえず本当にすっごい人が良い
それあんま東京になかったなと思ったんです
だから私の中では1軒目が東京チックの店
2軒目が関西チックの店やなと思って
それを今思い出しました
歴史教育と街の感覚、人の接し方
この本に戻ると
作文教育と歴史教育が
その人たちの折り線を作っているっていう話だったじゃないですか
歴史教育で言うとやっぱり東京って
教育は受けて
京都と東京で学校で習う歴史は一緒やと思うんですけど
でも周りにある歴史って違うと思って
東京って新しくてツルツルしたビルがいっぱいあって
新しいものがどんどん建って
再開発もいろんなところでいっぱいあって
っていう歴史感
京都は本当に街を歩くと自社物価がいっぱいあって
明治の建物とかもっと昔の建築
自社物価とかそういうのがいっぱいあって
それの感じ
それを人々がどう感じるかが
なんとなく人に取り込まれて
合理性やったりとか人の接し方やったりとか
影響しているのかな
居酒屋のおじさんの人に優しく
とにかく明るく優しく接するみたいなのも
何か
繋がっているんですよね
なんかある気がするんですよ
その街の感覚みたいなもののベースに
また人に来てもらうとか
人といい関係を築くとか
楽しくコミュニケーションするみたいなことが必要なので
ある程度閉じられつつも流動性のある世界に
求められるものな感じがしていて
もう二度とこういう人たちの
どんどん新しい集まりやったら
事務的にちゃちゃちゃっとやっていけばいいじゃないですか
もうこの人と会わへんわと思ってたら
もうはいはいはいって感じで済む気がするんですけど
なんかこう友達の友達かもしれんとか
なんかあの辺の子かなとか
そういう感覚
近すぎないけどちょっと遠すぎないというか
なんか縁のある誰かなのかもなーみたいな
こう距離感というか親近感みたいなのが
ある気がしています
なんかそれとそのクラカアゲワみたいな感覚って
繋がってそうな気がするな
確かに
共感とコミュニティ内での合理性
なんか縁を信じるとかはありそうですよね東京
まあわからないけど東京よりも京都の方が
確かにそう
ありそう
なんかもしかしたらさっきの作文教育の話にも
ちょっと通じていくのかもしれないですけど
なんか共感とかを大事にするスタンスというか
例えばその問いとか結論を最初にまず定義して
その過程を自分で開拓していくみたいなので
自分の行いを突き通す貫き通すことだけど
例えばその情景描写だらだらする
自分の感情をトロするみたいなのが
作文に盛り込まれてるのって
共感を誘発する作業になる
例えばその商売とか
それこそ大都市での商売と
そういう地域が狭い場所での商売となると
作文教育で言うとさっきの
公社的な考え方の方がもしかしたら
その地域でお金を稼いで生きていくって意味では
考え方のお店の作り方としては非合理だけど
その場でコミュニティの中で生きていくって意味では
合理性があるのかなみたいな
それが例えば日本内市は京都
さらにはもっと田舎の仮想地
みたいになっていくにつれて
その考え方が逆になっていくというか
読みましたこれ?
読んでないよ
買いました近所に
これ結構多分
僕も読んでないんですけど
読んでない人同士の会話
書いてあった気がしてペラペラめくってたら
やっぱり日本っていうのは
閉じられた狭い国で
その中である程度
結論を出すことが大事というよりか
ある集団の中で
共感を巻き込みながら
あるところに一緒に向かっていくっていうことが
どうしても必要っていう中で
その言葉の使い方ができてきたんじゃないかって
書いてあった気がするんですよね
多分
非合理性と長期的な関係構築
コミュニティっていうのはざっくりやけど
経済圏みたいな考え方の方が近いかもしれない
ビル拡張していくとかも
確かに
これがまた
貨幣経済の話やけど
これがもっと昔とかになったら
またちょっと違う考え方になるかもしれない
確かに
だから本当に何かを打ち立てて
開拓していかないと生きていけないみたいな
環境とかやったらまた全然違う話になってくるけど
これがブツブツ効果の成り立つ経済とかが生まれ始めたってなったら
それだけでは生きていけない
自分がやってることが
本来正しかったとしても
非合理的なことを複数でやってる人の方が
長生きできるとかが
もっと昔になったらあるかもしれないですよね
確かに
クラッカー追加で上げるのって
絶対非合理じゃないですか
経営的な点から見たら
だけどそれをやってみるということの
なんていうか
ゆかしさがあるし
その方が上手いこといくっていう感覚が
なんとなくある気がしますね
目先の利益だけを求めて
短命な人と
人情とかで
長期的にっていうのもあるけど
もっと根底の部分
優しさとか
普通に来てくれてありがとうの感謝とか
もう一回来てくれるからとかじゃなくて
彗星の施設というところのファン作りみたいな部分の
非合理性に通じる部分かもしれないですね
29:00

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