で、最近確かにミミさんおっしゃった通り、わる日本でいう文系の方々の方が今まで何となく稼いでいたっていう印象もあって、でも一方で最近だとそれこそ私プログラミング教育を必修化してくれっていう話をしたときに、産業界もIT人材が不足してるっていうふうに言ってて、だったらきちんとものを作るIT系の人の待遇を良くしてくれないとそうならないよねみたいな話をしていたんですけど、
そういうのは改善されつつあるとはいえ、まだ何となく断絶あるのかなと思うんですけど、やっぱりこれからの時代ってオープンディスカッションは本当に大事じゃないですか。
で、いろんな多様性のある専門家たちがいかに連携できる環境を作るか、本当に世界の課題っていうのが複雑か多様化している中で、どこかしらの専門家だけが解けるものではほとんどの課題がない中で、どうやって多くの人たちが自分たちの専門を超えてきちんとお互いの方針っていうのを理解しあいて、新しいソリューション提起できるかってことが大事じゃないかなっていうふうに思うし、
それこそ幼少期から多様な考え方の人とディスカッションを通じて新しい価値を作るっていう体験をどれだけ積み重ねていったかってことっていうのが大人になった時の行動にすごく変容をもたらすような気がしていて、それももしかしたら学びの場のこれから先すごく大事な役割の一つなんじゃないかなっていう気もします。
なるほどね。僕も今、工業大学の学長として考えると、エンジニア、特に手を動かす人たちの社会的地位って日本低いんだよね。で、これ面白いのは歴史たどっていくとギリシャでも結局市民たちはリベラルアーツを学んで、奴隷たちはメカニカルアーツっていうのを学んで、手を動かしてもの作る人たちって昔から地位が低いんだよね。
で、確かルネサンス時代ぐらいに建築ってやっとエリートになるんだけども、で、もともとのMITなんかも結構二流で手を動かす役に立つことを学ぶ学校だったんだよね。で、多分第二次大戦の時にマンハータンプロジェクトでやっぱりエンジニアって大事だよねっていうのと、あと物を作った人たちがお金持ちになって、アメリカやっぱお金持ち偉いんで、だんだん偉くなっていって、ただ社会的地位っていうのは文系が強かったけど、アメリカもだいぶ一緒になったけど、
日本って組み立てたなきゃいけない時、戦争の後とか、例えば明治維新で鉄道作るとかって時は多少技術者は出てくるけれども、落ち着くとやっぱり空気が止める文系の人たちが全部上に乗っかって、やっぱりリーダーになりたい人たちもやっぱりそっちに行って、で、エンジニアたちってどうしても地位が低い。
ただお金はやっぱり技術のところに今集まってきてるので、ミミィが言うように研究費は今理系の人たちがいっぱい持ってて、で、この溝があるからあんまり効かないっていうのも多少あるよね。で、この間の一緒に参加したこのNeurodiversityのイベント、石戸さん理系が強いので、すごい面白いなと思ったのはやっぱり企業とか学生とかリサーチがすごいいっぱい出てきてたよね。
実は先日、石戸さんが所長を務める研究所が主催するNeurodiversityのイベント、みんなの脳世界が行われました。
ジョイさんが所長を務める千葉高大の変革センターと、ミミィさんが代表を務めるコネクテッドラーニングのメンバーも参加したんですよ。
このイベントに参加して、ジョイさん、ミミィさんは日本とアメリカのニューロダイバーシティ運動の違いに気づいたみたい。一体どんな違いなんでしょうか。
たぶんアメリカでニューロダイバーシティとか言っても、あんなに物作れる人って集まってないんだよね。だからその物作って集まって人たちに、今度石戸さんがいろんなビジョンとか方向性を持っていって、すごく面白い実験かなと思って。
アメリカよりも素直にお互い聞いてるような感じがするんだけども、ちょっとこの辺の話、ミミィも見たと思うんだけど。
いや、そのムードは全然違う感じですね。アメリカのそういうロボットとかテクノロジーの文化的背景が違うって私も感じました。
ニューロダイバーシティもどうなんだろうって思うんですよ。やっぱりアメリカの場合結構お互いぶつけ合ったり、文化側とテクノロジー側でもなかなかそういうハッピーに一緒に楽しく集まっている場っていうのがなくて、それは私も感じました。
今回集まってた研究者たちっていうのは全員が全員、もともとニューロダイバーシティっていうのをすごく意識して研究していた方々ではなくて、ただニューロダイバーシティ社会を実現しようと思ったときに、この技術すごい使えるよねとか、この技術こういう使い方したらすごいニューロダイバーシティ的にハッピーなんだけどみたいな研究者たちをちょっと声をかけた側面もあるので、
もともとみんながニューロダイバーシティってことっていうのをメインの研究主題に掲げてるわけではないんですね。ただ昨年のときにジョイさんにもシンポジウムにも登壇していただいて、そのときにもディスカッションになったんですけど、なんかすごく面白いなって思うのっていうのが、例えば当事者の困っている方々の何かサポートになる技術ってことがあるんですけど、でもそれの技術が導入されていくにしたがって、あれ?私たちも、他の人みんな?
ちょっとこの言葉が私あんまり適切と思わないですけど、いわゆる日本でいう普通とか健常とかって言われてる人たちにとっても、この技術があった方が実はすごい生きやすいよねとか、すごい自分の可能性が広がるよね。
今まで自分たちが当たり前って捉えてた常識の方が当たり前にしとくのにはちょっとおかしかったんじゃないの?こっちの技術を導入した新しい世界の方がこれからの当たり前として、すべての人にとってより生きやすい環境になるんじゃないの?っていう気づきがあって、結果としては私たちはニューロダイバーシティ定義がいろいろで、もともとはニューロダイバージェントの当事者の権利運動として始まったものかと思うんですけど、
最近だと抗議の定義では、脳や神経の多様性っていうのはすべての人にとって適用されるものであり、すべての人の社会運動だっていうふうに捉える抗議の捉え方もあると思うんですけど、私たちはその抗議の捉え方をしていて、そういうのっていうのはきっかけはどこであれ、なんとなく表面化してなくても心のどこかで生きづらさを感じていたり、どこかしらでそれってメンタルヘルスの崩壊につながる可能性を秘めた人たちにとっても、とても役に立つ
っていうか便利な社会なのかなって、そこを目指しているってところですね。
それは誰でも感じることで、ディサビリティーでもみんな年取るわけじゃないですか、サポートが必要になる。本当にニーズが高い人たちのためにデザインすると全員がサポートできるっていうのはすごい重要で、イベントでもロボットとか、アメリカではどっちかっていうとなんか戦争に使われて、なんか怖いイメージがアメリカがすごい多いんですけど、一緒に来てたアメリカとイギリスからビジネスでいたら、
空気が違う、もっとサポートのためにロボットがいて、かわいく楽しくロボットと接してみんなが楽しめるコンパニョンっていう、鉄腕アトムじゃないですけど、日本のそういうもっと多くの人が楽しめるっていうイメージがすごく文化的に違いが感じられたみたいですよ。