声で届ける起業家の物語、Startup Now、MCのお稲荷です。
本日のゲストは、株式会社SAMANSA代表取締役CEOの岩永祐一さんです。
SAMANSAは、ショート映画配信サービスSAMANSAを展開されているスタートアップで、
2025年の9月、シリーズAラウンドにて総額7.4億円の資金調達を発表されたばかりとなります。
岩永さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
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本日の配信では、岩永さんの人生の物語を紐解いていきたいなと思うんですけれども、
その前にですね、まずは事業についても教えていただけますでしょうか。
サムアンサーなんですけども、短い尺で完結している映画だけを、
世界中から集めて配信しているサブスクリプトサービスになります。
それは、もともと短い映画を集めてきてるんですね。
そうですね、もともと短い映画ですね。
今までショートフィルムとか短編映画と呼ばれていたジャンルの作品ですね。
海外には、たくさんそういうフォーマットが作品としてあるんですか。
そうですね。
僕もともとサムアンサーさんのことをまだよく知らない時に、
いわゆるショート動画の文脈って、スタートアップもたくさん出てきているじゃないですか。
その文脈なのかなと思ったんですけど、
ショート動画というよりかは、ショート映画。
つまり、ショートが流行っているからというよりかは、
映画の見せ方としてショートがあって、そこに注目されているみたいな順番ということですか。
そうですね。
なので、うちで配信しているものは、SNS向けというよりは、
基本的には映画館で見るようにクリエイターも作っていますし、
間の詰め方とかもSNSの詰めて詰めてというよりは、
ちょっとゆったりしているのが多いですね。
海外では短編映画も映画館で流れているんですか。
国によりますね。ヨーロッパとかだったらあったりしますし、
日本でもちょっと前まで東京でそういう映画館があったりとか、
ちょいちょいできてはなくなり、できてはなくなりみたいな感じですね。
なるほど。
あと、そもそもの映画のビジネスモデルみたいなものも、
ちょっとよくわからない部分があって、
なんとなくイメージしているのは、
たぶん作っている制作の人たちと、配給と呼ばれる人たちがどうやらいるらしいみたいなところとか、
映画館、ネットクリックスみたいなVODとか、
そういうののイメージなんですけど、
今でいくとサマンサはどこになっているような形なんですか。
配給とサービスとしてのサブスクのお金をいただくっていうところですかね。
なるほど。
これはまた今後拡張する可能性とかも場合によってはあるんですか。
そうですね。
ありがとうございます。
じゃあそのあたりもまた追って聞いていきたいなと思っています。
ありがとうございます。
早速岩永さんの人生についても迫っていきたいなと思っておりまして、
生まれてから幼少期どんなふうに過ごされていたか、
だいぶ昔の話かと思うんですけれども、
このあたりからよかったら教えてもらえますでしょうか。
鳥取県に生まれて、すごく田舎なので、
本当に海とか山に囲まれた場所で育ったっていう感じですね。
祖父母の家とかすごく近くて、
毎週遊びに行って好き勝手暴れまわってたという感じですね。
おじいちゃんおばあちゃんってやっぱり甘いじゃないですか、孫とかに。
本当に思いっきり甘えて育ったという感じですかね。
どんな遊びをしてたとか覚えてます?小さい時。
子供の頃のビデオを見ると演劇、桃太郎ごっこみたいな。
桃太郎の格好とかおじいちゃんとかが作ってくれて、
それでテレビの上からジャンプしてみたいな。
昔のテレビってちょっと厚みがあるじゃないですか。
そこからジャンプして飛び降りて、
人を斬るっぽいことをやって、おじいちゃんがうわーって倒れるみたいな、
なんとかごっこみたいなことをやってたりとか、
近所に自転車で探検に行ってとか感じですかね。
いろいろ記事とか拝見してると、
それこそ鳥取があまりにも田舎というか、
こんなところに生まれたんだろうみたいな、
疑念を昔から入れ替えたみたいな。
実際に壁に世界地図があったかどうかわかんないんですけど、
僕の中の記憶では、
たぶん本当に物心ついた時ぐらいに世界地図を見てて、
なんで世界こんなに広いのに、こんなよくわかんない島に生まれて、
しかも東京じゃなくてなんでここなんだって、
すぐ思ってた記憶がありますね。
それも本当に幼稚園とか小学校で。
たぶんそんぐらいだと思いますね。
じゃあなんとなく外への憧れじゃないですけど、
そういう意識っていうのはあったんですね。
そうですね。
あと、祖祖父が映画館と俳句業を営む家庭だったというところも、
お伺いしたんですけど、
これは地域の映画館みたいな雑魚という感じですか?
そうですね。
もともと祖祖父は九州で生まれて、
育ったのも九州なんですけど、
当時、鳥取の僕の実家らへんが、
新しい商業の街みたいな感じだったらしくて、
そこに商売するために祖祖父が一家で来て、
まずは御服屋から始めたんですけど、
そっから歌舞伎とかの劇場工業とかを始めて、
その延長で映画館も始めて、映画の俳句も始めて、
っていうのを鳥取県各所でやってたっていう感じです。
映画ビジネスっていうのは当時は結構盛んだったりもする?
そうですね。本当に映画が一番伸びてた時期ですね。
結果的にはその事業自体は縮小?撤退されたりとか?
そうですね。逆に今度はテレビが出てきて、
みんながテレビを見るようになって、
どんどんお客さんが減っていったっていう感じですね。
時間軸でいくと、お世話は今長さんが大人になってから
亡くなっていったって感じですか?
それとも幼少期の時からそういう姿っていうのは見ていたというか?
いや、もうね、僕の父親が子供の時にはもう畳んでたみたいな。
そうなんですね。
じゃあ実際に映画館でやられてらっしゃるとかを見てたわけではない?
全然見てないです。
じゃあそういう話は聞いていたみたいな?
いや、でもそれも本当に思春期過ぎたぐらいに認識したっていうか、
なんか祖父の家にチャップリンのビデオがあったりとか、
ポスターとかあった記憶はあるんですけど、
そういう授業をやってたっていうのを明確に知ってたかっていうと、
そんな感じじゃなかった気がしますね。
まさにさっきおっしゃっていただいた、
チャップリンとかの映画もすごく見られていたっていう話で、
僕、幼少期そういうのを熱中した記憶が全くなくて、
あと実は今娘たちもいるんですけど、
娘たちもいわゆるアンパンマンとか、
プリンセス系とかプリキュアとか、
そういうのばっかり見てるなと思ってて、
チャップリンにハマるお子さんってすごいなっていう感覚なんですけど、
これはどういう熱中の仕方をしたというか。
いや、でもそれも本当に物心ついたときから見てたので、
面白いコメディーのおじさんっていうか、
動き方が面白いっていうか、
っていう感じでしたね。
で、例えば、
志村健さんのコントとか、
ドリフのコントとか、
いろんな映画を見たときに、
あ、これチャップリンから来てるなっていう、
なんかすごいおかしかった。
影響を受けてるなっていうのをすごい感じてたりっていう、
映画の源流を結構見てたので、
すごい影響を感じてるものとか、
別に映画だけじゃなくて、
そういう目はしなわれてたかもしれないですね、
子供の頃から。
映画、演劇とか、
広くエンタメとか、
お笑いとかそういうのが入ってくるんですか?
そうですね。
例えば最近、
ジョーカーって映画があったと思うんですけど、
あれもすごく影響を受けてて、
随所にチャップリンの。
ジョーカーっていう主人公自体が結構似てるんですよ。
コメディアンで、
ちょっと恵まれない境遇。
チャップリンってホームレスの役なんで、
そういう境遇とかも含めて。
たぶん、
ジョーカーってエンタメ作品の、
あの役の一番最初、
始祖がたぶんチャップリンみたいな、
オマージュはすごいありましたね。
チャップリン、僕なんか勝手に、
面白おかしい系のイメージが多かったんですけど、
結構それ、資料深いというか、
深い部分をテーマとしては大きいんですか?
そうですね。
当時、ヒトラーを批判した映画とかも作ってましたし、
コメディが有名ですけど、
どっちかというと社会風刺とか、
感動ドラマとかっていう部分の方が、
好きな人は好きなんじゃないかなと思います。
それをじゃあ幼少期から見てると、
結構影響を強めに受けそうですね。
そうですね。
で、小学校、中学校とか、
例えば、
熱中してたこと、
映画以外に何かあるとか、
部活とかそういうのってどんな感じでした?
何ですかね、
結構運動も好きで、
幼稚園の時から掛けっ子とかも結構、
1番か2番ぐらいだったりとか、
小学校とかも水泳と体操やってたりとか、
結構体動かすこと好きであったし、
これも映画の影響ですけど、
ジャッキー・チェンとか、
そういう漢風映画とかアクション映画の影響を受けて、
弟がいるんですけど、
ずっと常に格闘ごっこというか、
そういうのを、
中学校はさすがにやってないですけど、
中学校はずっとやってたと思いますね。
中学校に入ってからは、
結構でも勉強も好きだったんで、
結構座学で勉強を粛々とやってた感じもありますね。
特に何の教科とかあるんですか?
全部好きだったんですけど、
特に好きだったのは歴史とかですかね。
あとは図画工作とかもすごく好きでしたね。
歴史は確かに映画とかに若干通ずる要素もありそうですけど、
何が好きだったとかってあります?
今スタートアップやってるのもそうですけど、
昔言った偉人とか、
起業家でも部長でも何でもそうですけど、
何かを成して名前が残ってる人を調べるのがすごい好きでしたね。
なんでこうなったのかとか。
今はなっちゃったから後出しですけど、
結構昔から渋沢栄一こそ1万円なんじゃないかってずっと思ってて。
なんでですか?
やっぱり日本の近代の基礎を作ったのが渋沢栄一っていうか、
彼が始めた事業が100個以上形になって今残ってたりするので、
思想は福沢諭吉かもしれないですけど、
実際に具体的に作り上げたのは渋沢栄一だなって結構昔から思ってたので、
やっぱり1万円になるよなと思いました。
結構ロールモデル的な存在目指してますか?
すごい好きですね。
でもいっぱい好きな人はいますね。
あとは高校ぐらいから映像制作ちょっとずつし始めたみたいな話も見たんですけど。
高校の最初、その前からやってたと思うんですけど、
明確にはっきり覚えてるのは文化祭用にコメディ映画というか、
そういうものを作ったのが結構最初のきっかけかなと思いますね。
映像を高校生とかで始めるって全然イメージつかないかも。
ツールとかもまずないですし。
どういう風な始め方だったんですか?
どういう始め方だったんだろう。
でもクラスのみんなで映画作りたくてみたいな感じになったんだと思うんですけどね。
そっからホームビデオとか、多分学校にあったやつを借りて、
こうやって片手で回すとこから始めてって感じだったんですね。
それも他のクラスとか先輩たちも映画とか動画、そういうのも作ってたんですか?
大学で行くと、慶応ですか?
大学入ってから趣味でもっと映像作るようになったっていう感じですかね。
趣味で映像作るってのはどういう感じで作っていくんですか?
そういうサークルに入ってたとかそういう話でもないんですか?
そういうサークルではないんですけど、
所属してたサークルの記録ビデオとか、ちょっとしたコメディというか。
記録の動画って結構ある気がしますけど、コメディとかまで作るんですね。
面白いなって。
そうですね。CMのパロディ映像とか、
本当に内輪で笑えるようなものをただ楽しく作ってたという感じですね。
学部はでも理工なんですね。これはどんな感じだったんですか?
歴史が好きって言ったんですけど、物理とかもすごい好きで、
物理勉強しに入ったんですけど、でも本当にやりたいことが決まってなくて、
慶応も理工と経済が受かってたんですけど、
本当に当時偏差値が理工の方が高かったからっていう理由だけで理工入ったって感じでしたね。
勉強自体は学部の専門で熱中したというよりかは他のことでって感じですか?
そうですね。学校の授業とかに熱中したというよりは、
単純に自分で個人で物理の本を読むとか、そういうことがすごい好きでした。
でも物理自体もやっぱり好きだったんですね。
物理もすごい好きですね。
そっちの方の道に行くとかはあまり抜いたことはなかったんですか?
やっぱり大学4年生とか研究室に入るようになってから、
仕事にしようとするとやっぱりすごい狭い分野になっていくんで、
それで一生終わるの嫌だなって直感的に思って。
でも多分好きな人はそれが一番好きなんだろうなっていう。
でも僕に合わないなっていうのをすごく感じましたね、大学の後半で。
一番熱中してた理工とバックパックですか?
そうですね。やっぱり鳥取で生まれて、早く東京行きたいと思って東京来たら、
今度は海外が見てみたいってなって、大学4年生の夏にインドに行くんですけど、
そこで本当に世界の広さとか、国が違うとこんなに違うんだっていうことを
本当にリアルに体験して、すごいハマったっていう感じですね。
所定のインドも結構渋い選択だなって気がしますね。
東南アジアに行くとか、よくあるあるで行きやすいとことか行く気がするんですけど、
それって何でだったかとか覚えてます?
当時、本当はマチュピチュに行きたいねって高校の友達と行ってて、同じ東京に進学した。
で、マチュピチュに行くチケットを取ろうとしたんだ。
理由は忘れたんですけど、なんか結局取れなくて。
で、じゃあどうしようかってなった時に、2番目の案がなぜかインドでした。
多分なんか普通じゃないとこに行きたいって思ったんだと思うんですけど。
行ってみてどうでしたか?
まあ、大変でしたね。
多分1週間か2週間ぐらい行ったんですけど、1日2日目でもう早く帰りたいなって思ってましたね。
まず、糞尿臭いし。
匂いですね。
あと、基本的にみんな日本人を騙してくるっていうか、
タクシー乗っても料金もごまかされるし、
ここに行くって言うんだけど、全然違うとこに着いたりとか。
ごめん、聞き間違えてたとか言って、それでタクシー料金を多めに取ろうとしてくるとか。
そんなのが日常茶飯事だったんで。
後半はでも慣れてきて、そうでもなかったんですけど。
そういうの気にならなくなるとか、うまい塗りこなし方みたいなのがあるってことですか?
それが当たり前になると何も感じたくなってくるっていうか。
でも、刺激が好きなのかもしれないですね。
インド行くと好きになる人ともう二度と行きたくない人、分かれるんですけど。
僕は割と好きになりましたね。
何が好きでした?
すごくエネルギーを感じるっていうか、
インドってストリートチルドレンの人たちいっぱいいるんですよ。
行ったけど、すごい楽しそうなんですよ。
目もキラキラしてるし。
一方で東京で電車とか乗ってると、みんな疲れた顔してるじゃないですか。
僕はテレビとかインターネット上の情報で、インドはすごく貧しいとか、
今はちょっと違いますけど、貧困の子たちがいてみたいな、
悲しいイメージで現地に行ったときに、すごくエネルギーを感じたりとか、
まっすぐキラキラな目を見たときに、
体を動かして見に行かないとわからないことっていっぱいあるんだなっていうことが、
すごく自分にとって新鮮だったし、刺激になったし、
カルチャーショックになったというところですね。
それは本当に大切な現代圏というか、世界に出る大事さ。
そうですね。
あと、40カ国ぐらい行ったみたいなのを見たんですけど、
めちゃめちゃ多いなって思ったんですけど、これは本当にハマっていったって感じですか?
もうそこから長期休みになるたびに、長期で行って、
前半、エジプトから入って、
エジプト、ヨルダン、シリア、イスラエル、
トルコ、アゼルバイジャン、ズベキスタンみたいな、
結構複数カ国を一回でバーって回るっていうのを、毎休みでやってたっていう感じでしたね。
今だったら、目指したら入りづらそうな国とかもね。
そうですね。シリアとか結構今はね、大変かもしれないですよね。
そんだけいろんな国たくさん回って、
特に印象深い国とかエピソードとか、さっきのインド以外とかにも何かあったりします?
いろんなジャンルがあるんですけど、
大きいところで言うと、ペルーで全部荷物を吸われたことがあって、
やばすぎますよね。
その当時はだいぶメンタルきましたね。
どう立て直したんですか?
3日ぐらいは落ち込んでましたよ。落ち込んでたけど、
こうしててもしょうがないなっていう。
桃鉄ってやったことありますか?桃鉄でスリーのギンジって出てたじゃないですか。
あれをすごい現実でやられた感じですね。
桃鉄のシミュレーションが。
桃鉄って現実に即してるんだなって思いましたね。
山中さんがお一人で行ってたんですか?
それは弟と行ってましたね。
なんとか弟のデバイスがあるし、お金も多少あるしみたいな状況でしたか?
お金はなかったんですけど、東京から送金してもらって旅を続けたっていう感じでしたね。
それはなかなかな体験するすごい。
あれはすごかったですね。
でもなんとかなるっていう感覚も。
そういうバックパッカーの体験を通して、なんとかなるんだなっていう世の中、現実。
人生なんとかなるんだなっていうのはそこで結構培ったかもしれないですね。
あとは南米の村の子どもがアベンジャーズを教してるところを見たみたいなのも。
これはどんな話なんですか?
やっぱり僕中学ぐらいからやりたいことが見つからないっていうこともそうだし、
早く自分にとっての天職というか、これと思うものを見つけなきゃっていうすごい焦りがずっとあって。
そういうこともあってバックパッカーしていろいろ自分探しみたいなことをしてたんですけど、
南米で駄菓子屋さんみたいなところにでっかいテレビが置いてあって、
そこでアベンジャーズが流れてて、地元の子どもたちがもう微動だにせず直視して見てるのを見て、
映画って国境を越えるんだな、エンタメって国境を越えるんだなっていう。
自分も元々映画好きだったし、ここに自分のやりたいことのヒントがあるんじゃないかなっていう。
当時はそれぐらいの感じでしたけど、
そういう自分の中にざわつきというか、これかもしれないっていうヒントを得たっていう感じでしたね。
それでグッと映画とか映像エンタメ領域に至ってるか、本当にまずは何かを感じたぐらい。
そうですね。ここに何かあるっていう直感的な何かを感じたという感じですね。
将来そういう映像系のこと、映画系のことをしたいとまでも芽生えてないんですか?
いや、映画系をやりたいんだけど、でも次はその中で自分が何をしたいんだろうっていうフェーズに入ったという感じですね。
じゃあ一定そこの領域っていうのは決まったわけで。
そうですね。
そこから新卒とかで映画とか映像系の会社に行ったわけではないんですよね?
そうですね。ただリクルートに新卒で入るんですけど、リクルートがダメだったら映像制作会社を受けようかなと思ってましたね。
1.9の制作会社とか、なんか世界回れる映像系の会社行ったら楽しそうだなと思ってましたね。
じゃあもし持ち寄せたら全然そっちにショテリーって言った可能性は?
そうですね。それこそバックパッカーしてる時にそういうクルーの人とかにちょこちょこ会ってて、楽しそうだなって。
仕事で世界回れるんだなってすごい良さそうだなって思ってましたね。
とはいえリクルートを受けてたってのはどうしたんですか?
大学生の時にインターンをリクルートしてて、なんか面白そうな会社だなっていうのはなんとなくあって、
映画をやりたいんだけど何をやりたいかっていうのは決まってなかったから、
なんとなく自分の中で渋沢栄一とか、企業家に対するちょっとした憧れもあったんで、
遠回りになるかもしれないけどリクルートで学んでやれることあるんじゃないかなってすごい思ったっていう感じですね。
企業家になりたいがあって、それに目指すために必要なパーツを学べることがありそうだっていうのは結構大きかった?
企業家になりたいってその時強く思ってたわけじゃないんですけど、そういう道になんとなく進みたいなってふわっと思ったっていう感じですね。
リクルートは今で言うキャリアでしたっけ?何をされたんですか?
リクルートキャリアって当時カンパニーで人材系の営業をやってました。
それは法人に対して?
そうですね。
何年くらいいたんですか?
何年くらいいらっしゃったんですか?
3年くらいですかね。
からスタートアップに転職ですか?
そっからリクルートにいる間に、次何やるかっていうのをずっと考えてて、
映画なんだけど、やっぱり海外で映画をちゃんと一回学びたいなってすごい思って、
20代のうちにアメリカに行って、映画を学ぶっていうのを決めてから、
そのままアメリカに行くか、一回日本の中で映像系の会社に入って経験するか迷ったんですけど、
結果一回国内で映像系のスタートアップに入ったって感じですね。
それはどうして直で行かなかったんですか?
なんでですかね。
当時ウェブ動画みたいなのがすごい伸びてて、
今ね、消灯ドラマの市場がすごい伸びてますけど、
当時はウェブ動画を代理店挟まずに企業と直接やり取りして、
それがビジネスとして伸びるみたいなので、そういう会社がいっぱい出てきた時期だったんですよ。
そこに今しかこの業界でしかやれないことがありそうだなと思って入ったって感じでしたね。
そこに入ってみて、そこは何年くらいいたんですか?
そこは1年もいなかったです。
それはもう次のステージが見えてきて動いた?
やっぱりアメリカに行きたいなって。
入ってから思ったって感じですよね。
例えばリクルートにいる時代とかスタートアップに行った時代って、
ある意味元々企業も興味あったら、いわゆる事業家というか、
その映像を、ある意味興味をなくしていっちゃう可能性とかも、
場合によっては人に出るのかなって思うんですけど、それはなかった?
企業にしても映像で企業したかったって感じだったので、
大学の前半ぐらいは企業家に憧れちょっとあったんですけど、
じゃあでも企業して何やるの?ってすごい自分の中であって、
何の志もないのに企業家になっても何にもなれなそうっていうのがふわっとあったんで、
そういうものを決めたいって感じだったんですよね。
だから後半にリクルート入った時は、映像でやるぞっていうのは決めてたって感じ。
で、その後実際にアメリカに行く。
しかもあれですよ、行ってどの学校に入るとか何するって明確に決まってたっていうよりかは、
どっちかっていうとまず行ったみたいな。
割と僕、いろいろ計画したり最初にするんだけど、
もう行った方が早いよなって思って行っちゃうっていう感じですね。
確かにね、選択肢、今ある選択肢しか取れないですもんね。
そうですね。
現地に行って分かることもたくさんあるだろうし、
っていうのはやっぱバックパッカーした経験もあるかもしれないですけど、
日本にいて情報いろいろ喋ってもあんまり意味ないよなっていう思いもありました。
行く時は何歳ぐらいですか?
20代後半でしたね。
27、8とかじゃないですか。
それぐらいのタイミングで、
場合によっては、それこそリクルーとかスタートアップ行ってると結構出世してきてるとか、
友達がいたりだとか、そこに対してある意味、
もう一回身を捨ててじゃないですけど、
新しい挑戦をする怖さとか不安とかっていうのはなかったんですか?
いや全くなかった。
全くないですよね?
全く。
あんまり僕、人のこと気にしないっていうか、
逆にでもアメリカ行きますって当時映像機のスタートアップにいるときに先輩とかに、
今から一体どうするの?ってすごい心配されて。
否定とかじゃなくて心配?
心配されることなんだこれって思いましたね。
現地行ってもやっぱりロサンゼルスだと短期留学の大学生とかいっぱいいて、
え、脱サラしてきたんですか?って思って、
これ確かに美容によっては確かに脱サラなのかみたいな。
僕的には何の不安もなかったですね。
実際現地に行ってどんな立ち上がり方というか、
大衆短編映像の学科とかに入っていると思うんですけど、
どんなプロセスでそこに立ち着いていくんですか?
アメリカ行くって決めたときはあんまり起業したいとかはなくて、
監督になろうと思って行ったんです。
なので映画の学校に入ったっていうことですね。
最初は語学学校とか?
そうですね。語学学校を日本にいるときに入学の手続きだけして、
その語学学校の付属の寮みたいなのがあったんで、そこに入って、
1日目着いて、同じ部屋になった人がいたんですけど、
その方も先にちょっとちょい前からそこにいて、
すごい勉強してたんで、何勉強してるんですか?って言ったら、
こういう映画の学校があって、そこに入りたいから今、
入学試験に向けて勉強してるんですって聞いて、
これもなんか縁だし、その学校をとりあえず目指そうみたいな感じで、
そこから方向転換して、語学学校を辞めて、そっちに転入したっていう感じでしたね。
その学校は語学学校の寮なわけですから、
別に映像を聞けない人たちがいっぱい集まってるわけでもないのに、
本当にたまたまってことですか?
でもやっぱりロサンゼルスってだけでそういう人多かったですね。
映像をやりたいとか。
そういう街だからってことですね。
映像系かダンスかみたいな感じでしたね、学生とかは。
ダンス留学で来てる人もいました。
映像の学校は入れるもんなんですか?
僕が入ったところは、TOEFLとか、
英語の試験をパスできれば入れるって感じでした。
2年とかですか?何年くらいですか?
2年半、2年くらいですかね。
どういうカリキュラムというか、
どういう感じで学んでいくもんですか?
結構自由に授業を選べるんですけど、
座学もあれば、実際に映像を撮る授業もあったりとか、
いろいろありましたね。
あと演技の勉強とかも、
自分が演技する側で、
即興で英語で演劇をするって、
本当に苦痛でしたね。
めちゃめちゃ難しくないですか?
洗濯授業で撮ったんですけど、
なんで俺これ撮っちゃったんだろうって。
周りの授業を受けてる人は、俳優を目指してる人なんですよ。
僕は俳優を目指してないんで、なんでこれやってるんだろうって。
本当に地獄でしたね。
周りから見ても、なんで受けたの?ぐらいの。
でもね、ちょいちょい演技も学びたい、
監督として演技を学びたいみたいな人もいたんで、
2、3人は監督志望の人もいたんですけど、
僕は本当についてすぐそこに入ったんで、
英語もそんなにめちゃくちゃできるわけじゃないのに、
それをやってて、本当につらかったですよね。
挫折とかはなかったんですか?
そのまま辛いとかなかったんですか?
いや、日々挫折だったんじゃないですか、多分。
映像への思い、揺るがないものがあったんですか?
そのままくじけることはなくというか。
そうですね。やっぱり人生の前半で何やりたいかすごい悩んでたんで、
決まったからにはこれをやり遂げるぞって意思はすぐあったかもしれないですね。
周りもすごい多彩な人たちがきっと集まるんだなって思いますけど、
そこも別に周りと比べて悲劇することもなく、
ただ単に刺激というか切磋琢磨できるような環境だったんですか?
そうですね。
東京にいたら周りの人、そんなに僕ほど映画好きな人いないっていうことが続いてたので、
ロサンゼルスに行って自分よりもすごい若い人がめちゃくちゃ映画見てる人っていっぱいいたんで、
それが単純に楽しかったですね。
楽しかったですね。いいですね。
結果そのまま本当に監督とかディレクターの方に行くんですか?
そうですね。
その時は別に企業とかも全く考えてなくて、監督になろうという思いしかなかったです。
それは卒業して、そういう団体というか組織に属してみたいな感じですか?
どういう動き方になるんですか?
アメリカでもフリーでやってましたね。
それできるもんなんですね。
一応ビザ取れればやれますね。
そこから何年ぐらいして帰国されるんですか?
でも1年半、2年経たないぐらいだった気がしますね。
コロナでも完全に帰国してということでしたね。
帰ってきてからこっちで映像の仕事とかってあるもんなんですか?
コロナだったんで、3密回避で全くなかったです。
多分半年から1年弱ぐらいは全くなかったですね。
結構長いですね。大変ですね、期間外じゃ。
そう、だからUber Eatsの配達してましたね。
当時は阿佐ヶ谷に住んでて、そこから西東京をママチャリで回りまくってました。
それも生活はできていた?
そうですね、なんとかそれでやれていて。
でも3ヶ月ぐらいしたらお尻痛くなってきて。
しかもママチャリだし。
でもお尻痛くなってきてやばいと思ったぐらいでやっとまた映像の仕事が戻ってきて。
そこからまたスイッチしていった。
そのまま一旦日本で映像制作の仕事をしばらくするんですか?
してたんですけど、自分が映像を作る以外でも
日本の映画業界とか映像業界に対してやれることがないのかなっていうのは
ずっとアイデアベースで考えてて。
映像系のスタートアップにいたっていう話があったと思うんですけど
日本の代表にアメリカから帰るたびに
アメリカはこんな感じですよっていう状況報告とかしてて
アメリカではこういう映像のビジネスがあったりとか
っていう話をしてるうちに
日本にもこういうのあったらいいのになっていうところぐらいから始まって
いろいろビジネスのアイデアを並行して考えてたって感じでした。
映画とか映像という領域に関連するスタートアップっぽいビジネス
進行ビジネスが向こうでは結構たくさんある?
そうですね。例えば僕がいたときに
亡くなっちゃったんですけどめちゃくちゃ良かったのは
ムービーパスっていうサービスがあって
月額1000円で映画館行き放題
それで毎日映画館行ってました。
そういう新しいサービスがね
今だとループってあると思うんですけど
全然アメリカでは昔からみんな乗ってましたし
割と新しいビジネス
4,5年は先にやってることが多いんじゃないかなと思いますね。
山中さんが実際に着手したものとか
本格的に検討した事業とかもあるんですか?
ありますね。最初に考えたのは
撮影機材の個人館でのシェアリングサービスを考えて
アメリカだと本当に個人館で結構高い
数百万種類のカメラをスーパーの駐車場に車に乗り付けて
そこから後ろの開けてカメラのやり取りをするみたいな
パッと見何かの取引してる感じなんですけど
そういうの僕もやってましたし
100万のなんて簡単に個人とかで買えないですよね
やっぱりロサンゼルスって映画の都なんで
持ってる人もたくさんいたりとかして
それを借りてやりたいインディーズ系の人もたくさんいたので
東京でもそういうのやれるんじゃないかなと思ったんですけど
色々調べるとやっぱりプライベートに
自分の私物をあんまり人に貸したくないっていうのが
やっぱり結構日本人は強くあるっていうのが分かって
それは結局アイデアの段階でやめちゃって
次は映画の脚本を簡単に書けるアプリサービスみたいなのを
これは実際に作ってリリースをして
すごい監督として成功されてる監督さんにも当時使っていただいて