道徳の探求
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。今回からインセスト・タブーの話をします。
インセスト・タブーとは、日本語で言うと、禁心相関の禁止で、禁心相関は、個々の東西、いつでもどこでも、未開社会においてさえ普遍的に禁止されている行為です。
でも、インセスト・タブーの話に入る前に、まず道徳とはなにかみたいな話から始めたいと思います。
そもそも、僕たち人類には3つの禁忌、3大タブーというのがあって、殺人、禁心相関、食人が最も忌々しき行為だということになっています。
食人というのは、人間が人間を食べることね。
僕たちも例外ではなく、3大タブーにあたる行為には、極めて強い嫌悪感があるはずです。
殺人も禁心相関も食人も、完璧に道徳や倫理に反しているから、話題に上るだけでも吐き気を覚えるという人も普通にいると思います。
その一方、こうした道徳に反する事象を研究することは、極めて哲学的な探究でもあります。
なぜなら、普通は道徳や倫理が邪魔して、不愉快だから考えたくもない、道徳に反することは論じるにも値せぬとしてしまうから、探究しようとしないのが普通です。
しかし哲学とは、何らかの仮定を取り払う無仮定の学問です。
これが一体どういう現象なのかっていうのを、倫理も道徳も一時停止して突き詰めていくのが哲学です。
じゃあ逆に、道徳とは何かっていうと、仮定することということになります。
というのも、何でもかんでも突き詰めていってたら、僕たちは生活ができません。
殺人ってダメだよね、謹慎相関はダメだよねっていう道徳があることで、考えるまでもなくそれをやらないという選択をすることができます。
生活していて、何でもかんでも、そもそもあれはなぜやってはいけないんだろうとか考えていたら、無限に哲学的探究をしなければいけなくなってしまうから、それは人間の限界を超えているし、もう永遠に思考の中をさまようという羽目になるわけですね。
人間が考えられる事柄には量的な限界があるから、だから道徳に反するからあれはダメ、こっちは道徳的だからOKみたいに、そうやって思考をショートカットすることで、僕たちは社会生活を営むことが可能になるわけです。
だから道徳とは、そこで一旦考えるのをやめてOKだよっていうストッパー的な装置なのだと言えます。
別の言い方で言えば、そういうストッパーが弱い人は哲学に向いていると思います。
すごく昔なんかは、もうストッパーが壊れてる哲学者が、神の問題とかを突き詰めすぎて道徳に反しているとか言われて処刑されがちでしたよね。
文学における近親相関
はい。
一般的に近親相関にまつわる研究といえば、レビストロースの親族の基本構造です。
だけど僕たちはレビストロースについてはすでにやりました。
交換理論といって、結婚制度とは、親族の内部から親族の外部へ、若い女性を交換剤とかトレード品のように交換に出して、その手段をもって外部とのつながりを強くするためのものである。
だから近親相関のように、親族の内部で若い女性を自家消費してしまうと、外へ、交換へ、トレードに出せなくなってしまうから禁止されたのだということでしたよね。
なのでレビストロースについては扱わず、文学の観点から分析します。
というのも、オイリプス、ハムレット、旧約聖書のロトの娘たち、ペロードオアシュのロバの川、国頭の恐るべき子供たち、トマスマンの選ばれし人、ありとあらゆる文学にしばしば近親相関が出てきており、研究の対象とされているからです。
神話や伝説、文学に繰り返し出現するということは、そのテーマには何か謎の魅力があるということになります。
しかし、近親相関に何か謎の魅力なんてものがあるのか。
こういう文学研究の中でも結構ダークなあたりの話をしていきたいと思います。
というわけで次回に続きます。