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2025-08-10 05:36

#134 インセスト・タブー2 ウロボロス/閉じたユートピア

サマリー

このエピソードでは、渋沢達彦の考察を通じて、近親相関や自己愛、ユートピアに関する哲学的議論が展開されています。また、ウロボロスの象徴が引き合いに出されながら、完全性やシンメトリーの追求が人間の欲望とどのように結びついているかが探究されています。

渋沢達彦の哲学的考察
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回の続きです。
道徳とは、皆さんここで考えるのをやめましょうっていうコンセンサスなわけだけど、
それを突破して、謹慎相関についていいテクストを書いている人がいます。
マルキドサドの翻訳や、悪徳の境じけんで有名な渋沢達彦大先生です。
大学で法律の授業を取ったことがある人なら、悪徳の境じけんはご存知だと思いますが、
マルキドサドの「悪徳の境」っていう本を翻訳したら、
それが、売接物反腐罪に問われたってやつですね。
ちなみにどうでもいい話なんですが、渋沢達彦ってめちゃめちゃエドッコみたいな人らしいですね。
昔のサブカルの、いわゆるエログロナンセンスのイメージだと、なんか暗い性格をしている感じがしますけど、
渋沢達彦は編集者が行くと、「おお、原稿できてるよー!」みたいな明けっぴろげな人だったようです。
話を戻して、渋沢曰くトマスマンの選ばれし人という小説について考察を加えているんだけど、
これは双子の兄と双子の妹との謹慎相関の小説です。
トマスマンは魔の山で有名な人ですよね。
で、選ばれし人っていう小説の主人公である双子の兄は、双子の妹の中に自分を捕捉するものを見出しています。
作中には、「私にはあなたを見る目があるだけで、あなたはこの世で私の対になる女性なのだ。
あなた以外の女性は縁無き囚状で、私と一緒に生まれたあなたのように私と同等のものではないのだ。」というセリフがあります。
性別の違う双子の兄弟、双子の兄と双子の妹は完全な対を成しているという意味です。
これを渋沢はユートピア的なシンメトリーと形容しています。
双子の兄の欠けた箇所は双子の妹が持っているし、妹の欠けた箇所は兄が持っている。
だから彼らが一つになれば、欠けたところのない完全なシンメトリーが形成されるっていうイメージは結構わかりやすいです。
日本神話のイザナギとイザナミとか、あるいはウロボロスの蛇もちょっとイメージとしては似ています。
ウロボロスの蛇は、自分の尻尾を自分で噛んで丸々を描く蛇のことで、丸々になることで始まりも終わりもなくなるから、
完全性とか無限といった象徴的意味を持つわけだけど、これにちょっと似てますよね。
でも現実世界には、完全なんてものも無限なんてものもないんです。
だから、完全性を求めるということ自体がユートピアの世界を求めることと同じなわけ。
渋沢はさらに論を進めて、血のつながった相手と一緒になることでシンメトリーを形成しようとすることは、
相手の中に自分の自己愛を見ていることに他ならないといいます。
近親相関とは、自己愛の変形として鏡を見ているようなものであり、
ユートピアと自己愛の追求
鏡の中に愛の千年王国を見出すという究極の自己愛であるというわけです。
話は少しそれますけど、学問には客観的な学問と主観的な学問があります。
科学的根拠に基づいてデータで分析するのが客観的な学問。
レビストロースの親族の基本構造なんかは客観的な学問ですよね。
一方で、こういう文学みたいなのは主観的な学問です。
もちろん本当だったらデータで分析するのが一番いいんだろうけど、
人間の脳みその中から感情が動いている様とか、
何かその対象に対して魅力を感じている時のメカニズムを、
データとして今現在だと引っこ抜けないから、
だから言語を操作してのロジックでもって真に迫ろうとするわけですが、
これは頭の中に象徴をイメージしないといけないから、
分かりづらさは結構あるよね。
はい。渋沢のテクストを引用すると、
謹慎相関、あるいは謹慎相関的な愛のことを、
相手の中に自分の自己愛を投入し、
しかもそれを自分の目で眺めることができるというユートピア状況、
と彼は表現しています。
つまり謹慎相関とは自己完結であり、
世界に自分一人しか存在していない、閉じた世界、閉鎖されたユートピアだと言えそうです。
この辺り、まだまだちょっと抽象的すぎて分かりづらいと思うので、
次回、馬対輸なんかを引きながら、具体例をもっと出してみたいと思います。
というわけで次回に続きます。
05:36

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