嵐が丘のあらすじ
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回の続きです。
今回は、芥川賞の《孔の太鼓》のテクストを参照します。
正確に言うとややこしいんですけど、エミリー・ブロンテの《嵐が丘》という小説があって、
《嵐が丘》を参照してジョルジュ・バタイユが文学と悪っていうテクストを書いていて、
さらにバタイユの文学と悪を参照して、《孔の太鼓》がテクストを書いていて、それを参照します。
だからまず、エミリー・ブロンテの《嵐が丘》のあらすじから説明しないといけないわけですけど、
この小説は、舞台はイングランド北部の荒野に建つ屋敷で、世間から隔絶されている場所にそのお屋敷はあります。
作中でまさに人間嫌いの天国と形容されるほど孤立した環境にあるお屋敷です。
この屋敷にはもともと2人の子供がいて、兄と妹がいました。妹の方はキャサリンといって作品のヒロインです。
で、そこに父親が身寄りのない少年、作品の主人公となるヒースクリフという少年を引き取り、
すると突然やってきたその子、ヒースクリフを兄はいじめるようになり、妹のキャサリンとは深く愛し合うようになります。
だから、お屋敷の家の実の子である妹のキャサリンと、引き取られた身寄りのないヒースクリフとの身分違いの恋愛がテーマであるわけです。
ただその後、キャサリンは金持ちと結婚することになり、ヒースクリフとは結ばれません。
しかしお互いへの思いは消えず、ヒースクリフとキャサリンは形としては破局したものの、お互い子供時代の幸せな時間を諦められないという話です。
この物語において、キャサリンとヒースクリフ、彼らの初感情は少年時代の時に固定されたままになっています。
これが嵐が丘の主題です。
近親相姦のメタファー
子供の頃のキャサリンとヒースクリフは、朝から二人で荒野へ飛び出して行って、一日中そこで過ごすのを一番の楽しみにしていました。
それでキャサリンのこういうセリフがあるんだけど、
ヒースクリフがハンサムだからではなく、彼の方があたし以上にあたしだからなのよ。
魂というのは何でできているのか知らないけど、彼の魂とあたしの魂は同じものなの。
また、キャサリンの有名なセリフに、I am Heathcliff 私はヒースクリフなのというのがあるんですが、
要はキャサリンとヒースクリフは魂が同じ形をしている存在であり、お互いがお互いを自分自身の半身、自らの体の半分であると認識しているということです。
これは前回言ったトマスマンの選ばれし人に似ています。
選ばれし人には双子の兄弟、双子の兄と妹との近親相関が出てくるんだけど、アラシガオカもこれなんですよ。
キャサリンとヒースクリフは血のつながりはないんだけど、近親相関のメタファーとして読むことができます。
前回渋沢達彦のテクストを参照して、近親相関とはユートピア的なシンメトリーを形成するものとしてイメージされるという話をしました。
まさにキャサリンとヒースクリフも子供時代に二人だけのユートピアを築いていました。
渋沢の言葉を借りれば、愛の千年王国を築いていた。
馬太由はこのことを、少年時代の王国という言葉を使って、アラシガオカについてこの作品の主題とは、
運命の定めによって自分の王国から追われながらも、その失われた王国を何としても再び見つけ出そうとする、
やけつくような欲望に駆られるままに、とどまるところを知らなかった呪われた者の犯行であると言いました。
馬太由は少年時代の王国と言いましたが、河野太古は一緒に荒野を駆けずり回ったあの輝かしい王国と呼びます。
で、このような輝かしい少年時代の王国の中には自分しかいないんです。
キャサリンとヒースクリフの場合、実は互いに相手が自分自身であったから、その王国の中に二人存在することができました。
自分しかいないということは、自分と同じ価値観、自分と同じ倫理観の人間しかそこにはいません。
だから絶対に衝突することもなければ、争いも生まれない、完全な世界です。
しかし彼らは絶対に結ばれない者同士でもあります。なぜなら自分同士で結婚することはできないからです。
最後にもう一回、馬太由と河野のテクストを引用します。
ヒースクリフの悪魔的な意思が、何としても断念しようとはしなかったあの少年時代の王国とは、
カノーとシトでなければ一体何を意味するだろうか。
互いに相手が自己であって、一つに結ばれぬ自分たちの運命の定めを自覚しておらず、
しかも無意識的な予感として、彼らは自分たちは一つになるとき存在が消滅する。
完全にシンメトリーの世界は、自己愛が完全に満たされる世界であり、同時にそれは不可能であり、死そのものです。
だから、死と不可能への憧れが閉鎖された自己愛であり、近親相関のメタファーでイメージされるということですね。
こういう完全な世界のメタファーって文学のみに存在しているわけではなく、エンタメにもあるよね。
映画、テレビドラマ、漫画、アニメにおいても、幼少期に遊んだ自分の分身のような異性、
つまり幼なじみとの恋愛関係をテーマにしている作品も、やっぱりエミリー・ブロンテやトマス・マンのように近親相関のメタファーで読み解くことができるんじゃないでしょうか。
キーワードとしては、不可能と死への憧れ、自己愛が完全に満たされる閉鎖された世界、ユートピア的なシンメトリー、
この辺りのワードから、なぜ神話や伝説、文学に近親相関が品質するのか、あるいは類似したメタファーとしての近親相関について迫れるのではないかという話でした。
というわけで今回はここまでです。また次回もよろしくお願いします。