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2021-12-21 10:10

今日の10分de1テーマ「道徳を基礎づける〜孟子vsルソー、カント、ニーチェ」について②

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本職は編集者のエイドリアン太郎が1日1テーマを決めて10分話すpodcastです。 ※ご意見、ご感想、質問や話のお題などありましたら eidoriantarou@gmail.com へお便りください

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昨日の続きです。道徳を基礎づけるという本の書かれた経緯です。
西洋はキリスト教が元になっていて、それと一体だった時はそんなことを疑わずに済んだのですが、
キリスト教が疑わなければいけないという状況になっていた時に、
哲学的に基礎づけたい道徳というのは一体どこから来るのだろうね、
これはちゃんと基礎づけないと、我々何を指針に生きて、
この法律とか国というのが何を指針に運用されているのか分からないもんね、
ということが議論されました。
カントとかルソーとかのショーペンハウガーとかのタイミングで盛り上がりはしたものの、
ニーチェが冷水ぶっかけた後は、フロイトとかマルクスとかによってバラバラにされて、
解体され尽くして、その議論も誰も問うことすらなくなったという中で、
現前たる問題として、普通にどうやったらもっとよく生きられるのかとか、
よく生きるって何だろうみたいなことは、割と古代哲学的な、
ギリシャ哲学とかの問いみたいな、
今の現代哲学だとちょっと素朴に思えちゃうような問いというのが放置はされているという中で、
でも現前とね、よく生きたいとか、よく生きるって何だろうということは知りたいよということで、
その中でどうしようってなってですね、
よしこれはちょっと人形解くね、
哲学と比較してみようと、西洋哲学と比較してみようと、
言って申しを取り上げたのがこの本ですというような感じでした。
いきなり本題と関係ない話なんですけど、
この本なんでですね、西洋哲学と東洋哲学の話というのが割といっぱい引用されるわけですよね。
すごいそれを読み比べててですね、すごい思ったのがですね、
一言言うと西洋哲学目が滑るなと思ったんですよね。
東洋哲学の方がなんかスッと入ってくると。
何なのかなこの違いと思ってたらですね、
西洋哲学って定義付けなんですよね。
じゃあこれは何か、何と定義するのかみたいな感じで定義付けでですね。
東洋哲学ってエピソードなんですよね。
エピソードをふんだんに用いるというか、
こういう逸話があります、終わりみたいなのがですね、すごく多いんですよね。
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でですね、その西洋哲学の議論というのはですね、
その定義付けでこの現象はこういうふうに定義しようということは、
この現象とこの現象の関係はこういう関係で、
なのでこうなのであるみたいなことを言ったらですね、
なんか絶対か、まあ当然何でもそうなんですけどやっぱこぼれが出るわけですよね。
取りこぼしとかなんかちょっとほつれみたいなのが出てですね。
それに対して他の人とかがですね、
あの人は言ってたけど、僕はこういう定義だと思う、定義付け。
またこういう関係性でこういうふうに成立してんだと思う。
だからこういう原則があると思うみたいなことを言って、
持論を述べて、しかしまた何かほころびがあってみたいな感じですね。
それの繰り返しって感じなんですよね。
でですね、それに比べるとエピソードの方はですね、
本当にストーリーみたいなことを一つ語ってですね、
そこに何かの含意が含まれている、意味が含まれているという感じなんですよね。
これをちょっと比べるとですね、
その静鉄学の方はですね、スクリーンショットを撮っているみたいな感覚なんですよね。
すぐスクリーンショットを撮ってですね。
で、ちょっと運動している物体のスクリーンショットを撮っているみたいな感じですね。
静鉄学の方はですね、ちょっと流れ全体を描こうとしているみたいなところがあるんですよね。
なんでですね、じゃあどちらがなんというかな、精緻さが高いというか、
まさにですね、定義付けして言葉でカチッカチッと固めているかといったら、
静鉄学の方が全然そんな感じはするわけですけど、
ただですね、東洋哲学の方が全体の流れが分かるんですよね。
で、実際ですね、やっぱ物事とかね、どんどん推移したりとか、
もしくはすごい相互作用的だったりとかね、
すごいたくさんの要素が相互作用でお互いに影響を与え合って露天しているみたいなことが実態に近いので、
なんかですね、静鉄学的手法だとめっちゃスクリーンショットを撮らなきゃダメなんですよね。
で、撮って撮って撮ってみたいな感じでめちゃくちゃ積み上がっていくみたいな感じなんですけど、
東洋哲学の方はですね、もうちょい緩やかなんですけど、
なんかこう、フワッと全体の生態系みたいなものをスッとすくい取っている感じでですね、
やっぱり理解をしやすいんですよね。
なんでですね、本当に数値があるなと思って読んでましたね。
でですね、その中でもですね、なんか例えばそうですよね、
静鉄学の中でもですね、もう引用されているやつで言ったルソーとかの言っていることがわかりやすいんですよね。
なんでわかりやすいかと言ったら、ルソーはストーリーで書くからなんですよね。
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エミールって本とか、そのエミールという少年の育つ過程をですね、書いて、
教育哲学みたいな内容にしているわけですけど、小説みたいに書いているんですよね。
だからなんか手法がちょっと東洋哲学っぽいんですけど。
一方でですね、カントとかはですね、めちゃくちゃ精緻に精緻に言葉を定義してですね、
カチンと固めて書いていってですね、めちゃくちゃ難しいわけですけど、
でもですね、その結果ですね、その道徳について考えてですね、
その結果出てきたのが例えば定言明法って有名な、
カントの考えた道徳的な一つのスタンスみたいなのがあるんですけど、
何かというと、これが正しいと決めたらそれをどんな場面であろうと必ずやらなきゃいけないというか、
どんな場面であろうが通じる普遍的な正しさみたいなものを見つけて、
それを守らなきゃいけないみたいな、そんな考え方なんですよね。
有名なその例えで言うとですね、自分の親兄弟とかがですね、
警察から何か悪いことをしたのか警察から逃れてですね、
家に助けを求めてやってくると、囲まってくれって囲まると、
そしたら警察が来てですね、お前の親兄弟どこにいるって言われたらですね、
その人が嘘をついてはいけないという定言明法を持ってたらですね、
はい、うちに今囲まっていますと、どんな状況であろうと言わなきゃいけないと、
それを聞いてですね、直感的にそれは違うだろうって感じがしますよね。
なんですけど、政治に考えた結果ですね、
それが結論として導き出されちゃったりするわけですよね。
だからですね、でも直感的にいや違うと思うけどみたいな感じはするわけですよね。
だから別に西洋ディスで東洋アゲとか言うわけではなくてですね、
両方いいとこ悪いとこあると思うんですけど、
なんですかね、政治にですね、くっくっと定義付けして固めていくっていうのがですね、
なんかちょっと不便に感じるというか、特に道徳とかについて話してる時の、
このね、著者の人も申と比べたくなるっていうのも分かるなみたいな、
なんか申の方がですね、スッと入ってくるなみたいな感じだったんですよね。
ということでですね、いよいよこれようやく本の内容に入るぐらいの感じなんですけど、
じゃあその道徳を基礎付けるという時にですね、
じゃあ申は何を一番基礎に置いているのかというとですね、
これ結論から言うと、忍びざる反応ってやつなんですよね。
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忍びざる反応っていうのは、この間もちょっと話したですね、
王様の前はですね、儀式に使われて殺される運命の牛が引かれていて、
悲しそうにしていると。
それを見た王様が、ちょっとかわいそうだから羊に飼えてあげなよと言ったという話とか、
有名なね、子供が井戸に落ちそうになっていたら、
もうどんな人間もですね、何の利害関係もなくですね、
ドキッとなって手を差し伸べるでしょうと。
あの生前説の理由みたいなエピソードですよね。
そういうのを忍びざる反応と言ってるんですよね、その申が。
忍びざる、つまり耐え忍ぶことができない反応が起こると。
それが、もう何て言うんですかね、一番道徳の基礎にあると言ってるんですよね。
そんな話をしていたら、また10分経ったので、続きはまた明日お会いしましょう。よろしくお願いします。
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