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始まりました、志賀十五の壺。
みなさんいかがお過ごしでしょうか。
タキシードサムです。
番組あてにギフトをいただいております。
うなきちさん、パッシュさん、みいさん、じゅんさんからギフトをいただいております。
どうもありがとうございます。
この番組では、ラジオトークというアプリから送ることのできるギフトや、
ラジオトーク以外からもね、送ることのできるお便り、随時募集しておりますので、どうぞよろしくお願いします。
前回のエピソードで、クマの語源が、
クマの語源ちゃうわ、その、英語でクマはbearですけど、このbearの語源っていうのが茶色いやつだっていうね、
そういった話をしたんですよね。
そういった遠距く表現がだんだん固定化されてくるみたいな話をして、
で、その中で、詩とかね、排説とか、こういったものに関わる言葉は、特に遠距く表現になりやすいっていう話をしました。
例えばトイレとかそうですけど、便所っていうのはもともと遠距く表現でしたけど、
まあ、現代ではかなり直接的な言い方になっています。
で、その代わりに新しい遠距く表現として、化粧室っていうのがね、別に化粧しなくても化粧室っていう言い方をしたりするんですよね。
まあ、あとは死ぬっていうのをなくなると表現したりとか、あるいは行くという言い方をしたりすることもあります。
まあ、いずれにせよ直接的な言い方を避けてるんですよね。
こういった遠距く表現が生まれるところっていうのは、タブーと非常に関わりがあるんじゃないかなと思います。
タブーっていうのは、まあやったらダメなことみたいなね、感じですけど、
このタブーという単語自体はポリネシア系の言語が元になっているようです。
日本語では近畿ということもあります。
当然何をやったらダメかっていうのは文化的側面も多いわけですけど、
ある文化ではタブーだけど別の文化ではそうでもない。
まあそういった現実に驚くことも古今東西よくあることでございました。
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今回参考にしている本は、
ちくま新書から出ている山内ひさし先生のタブーの謎を解くという新書です。
非常に読みやすいんでね、皆さんも読んでみてはいかがでしょうか。
これは文化人類学の本なので、
僕自身はその辺全く明るくないんですけど、
タブーっていうのは一言で言えば、
境界にあるものだっていうふうにまとめられるんじゃないかなと思います。
世界の物事を、何て言うんですかね、
これはこっちのカテゴリー、あれはあっちのカテゴリーっていうふうに分類したときに、
分類できずに、その境界の上に乗っかっちゃってるもの。
それがタブーであって、人間は嫌悪感を抱くということなんですね。
そもそもこの世界っていうのは、自然と言い換えてもいいと思うんですけど、
最初から綺麗に秩序が与えられているわけではなくて、
カオスというか連続体であると。
その連続体を無理やりというか、半中化することによって、
人間はそれを知覚することができるということなんですね。
人間も当然動物なんですけど、
無理やり人間というカテゴリーを作ることで、
人間と非人間というかね、それ以外の動物が分けられていると。
自己と他者っていうのもそういったものかもしれません。
最も根本的な区切りかもしれませんけど、
自分とそれ以外を分けるということを行っているわけです。
そういった区切りをつけるっていう作業の中で、
例えば自分と自分以外の境界にあるようなものがタブーになりやすい。
これはまさに排泄みたいなものがそうですよね。
切った髪とか爪とか排泄物とか、
こういったものに嫌悪感を抱くのは、
それがさっきまで自分だったものなんですけど、
今は自分以外となっているということで、
自分とも言えるし、自分でないとも言えるという、
そういった曖昧性がタブーにつながっているというんですね。
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あるいは近親相関がタブーになっているのも同様に説明ができるようで、
血縁関係にある家族っていうのは、もちろん自分とは違う存在ですけど、
他者というほど遠いわけでもないという、
境界上にあるということで性的な関わりを持つことが禁止されていたりとか、
あるいはペットを食べるとかっていうのも一種のタブーで、
というのはペットっていうのは動物のようであり、
自分の家族のようなものであるっていう、まさに境界に位置するということで、
タブーになりやすいんですよね。
あるいは地域によってはタコを食べないっていうところもあります。
このタコっていうのもある意味分類が難しいもので、
海にいながら魚ではないものっていうことで、
そういうカテゴリー化できない、どっちつかずのものがタブーとなっております。
こういうふうに世界を切り分けるっていうのは、
言語学でもよく言われていることで、
言葉っていうのを用いて、
人間は世界を切り分けている、カオスを質上立てているというふうに言われます。
これについては関連エピソードがあるので、
概要欄のリンクから合わせて聞いていただけたらと思います。
多分そのエピソードでも似たような話をしているはずなんですけど、
例えば水とお湯っていうのを区別するのは、
区別できるのは、水とお湯というふうに名付けたからであって、
物理的には水とお湯っていうのは連続しているものだし、
本来切り分けられるものではないのかもしれません。
それが言葉を与えられることによって、
人間は別のものとして認めているわけですよね。
ただ、そういうふうに物事を切り分けた世界を半中化したとしても、
どうしてもね、どっちつかずのものっていうのが現れてしまって、
それがタブーになるということなんですね。
生と死っていうのもそうではないかなと思います。
生きてるか死んでるかっていうのも非常に分かりやすい区別だとは思うんですけど、
その死んだ途端というかね、死んだ直後っていうのは、
さっきまでこっち側だったのに、向こう側に行きつつあるというかね、
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ある意味境界上にあるということで、
嫌悪感を抱いてしまうようなところがあると思います。
それが時間が経って、完全に向こう側のカテゴリー、死というカテゴリーに行ってしまえば、
ある意味どうってことはなくなっちゃうんですよね。
歴史的事実になってしまえば、嫌悪感というのもなくなります。
というわけで今回は、言語学というかね、文化人類学の話でしたかね。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
お相手はシガ15でした。
またねー。