神義論の探求
ストーリーとしての思想哲学、思想染色がお送りします。
今回は、悪とはなにかというテーマです。
悪っていうのは、辞書的には正しくないこと、良くないこと、不道徳なことという意味ですが、
哲学の文脈においては、めちゃくちゃ概念的な奥行きがあるとともに、
悪というものが人間にとって不可欠なものだとして、肯定的に捉えたりされています。
ただ、その前に伝統的にはですね、悪っていう概念は、西洋哲学においてはキリスト教と結びついていたから、宗教的な文脈で捉えられていました。
だから、本題に入る前に、まずは神学の話をしておこうかと思うんだけど、
キリスト教神学では、神議論っていう有名な悪に関する議論があります。
神に正義の義と書いて神議論。
キリスト教における神って一神教だから、全知全能で無限な存在なんですね。
でも、神は完全であるはずなのに、この世界には悪というものがあるし、悪人もたくさんいます。
神が本当に完全であるなら、神が作ったこの世界には悪なんてものはないはずじゃないですか。
悪の反対は善ですけど、善に満ちた世界でないとおかしいのではないかって話です。
というのも、僕たちは普通、正しい人たちが苦しんで、悪い人たちが栄える世界なんておかしいって感じます。
すると、神が実在するなら、そんな世界を作るはずがない、本当は神なんていないんじゃないかって話になってくるから、
キリスト教的には結構重要なテーマになるわけです。
神学は歴史と伝統のある学問だから、この問いにも一定の答えをすでに見出しています。
まあその一定の答えといっても、もういくつもあるんだけど、
例えば、悪とは善が欠如した状態とみなすというロジックが代表的なところです。
善であるという状態に0から100までの状態があるとして、
善が100の状態、マックスの状態になれるのは神だけなんですよ。
なぜなら人間っていう生き物は、そもそも不完全な存在だから。
いわゆる聖人と呼ばれる人でも、善が95とか98の状態までしか持っていけない。
いわゆる普通の人は、せいぜい善のパラメーターは50くらいなわけです。
それで悪人というのは、善のパラメーターが10とか20くらいしかない、
パラメーターが少ない人という理解の仕方が今の話です。
つまり、善と悪という対立する2つの概念が存在するという2言論ではなく、
善という概念だけがあり、それが少ないか多いかなのだという1言論なわけですね。
すると、悪という概念は神が作ったわけではなく、
人間が徳を積んで、善のパラメーターを上げようとしないのが悪い。
したがって、人間が悪いのであって神は悪くないという方向に持っていきます。
こういうロジックは、神を弁護しているように見えるから、弁心論。
弁護に神と書いて弁心論とも呼ばれます。
あとは、自由意志という概念を持ってきて、
悪の存在の必要性を認めるという神学のロジックもあります。
さっきの、悪は存在せず、実は善しか存在しないんだっていう1言論だと、
結局のところ、最終的には人間は良い行いだけしかできないということになるじゃないですか。
善が欠如した状態というのはあるが、結局のところ善しかないという世界観なわけだから。
それだと、人間は善に向かうだけの、
一方向的な思考性しか持たない存在ということになってしまうから、
方向性を定められた不自由なものとしてしか存在できないということになります。
すると今度は、善しかない世界には、自由がないということにもなります。
もし自由が存在する世界であるならば、悪を成す自由もあるはずなんだけど、
善しかない世界には、悪を成す自由がないということです。
そうするとまた今度は、神は全知全能なのに、
自由という概念をこの世にもたらさなかった。
おかしい。やはり神なんて本当はいないんじゃないかって話になってしまいます。
したがって、この世界に悪が存在するのは自由意志があるからだ。
人間が自由意志を神から与えられた結果、
悪を成す自由を行使する人が出てきてしまった。
だから悪いのは人間であって、神は悪くないという理屈になります。
以上が伝統的な悪の宗教的解釈です。
弁神論の説明
次回は、悪の美学というものについて考えます。
次回に続きます。