異界と境界の概念
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
今回は、マージナル・マンがテーマです。
前回、前々回と異界と境界の話をしてきましたが、部分的に続きみたいな内容になってます。
なので、まだ前回、前々回の民族学の回を聞いてない方は、そちらから先に聞いてみてください。
なぜマージナル・マンの話をしようと思ったかというと、異界と境界っていう概念がとんでもなく射程の広い概念であることを、十分に伝えきれてなかったんじゃないかという気がしたからです。
民族学を超えて、社会秘評みたいな文脈にも接続することができるから、その辺をお話したいと思います。
概念の射程範囲の広さといえば、境界の話で言っとけばよかったなぁと思った雑談的な話があるので、マージナル・マンの話の前にちょっとだけ。
異界と境界の概念はサブカルと結びつけて、アニメとか映画とかを読み解くための補助線として使っても面白いです。
民族学では妖怪とか幽霊の話がよく出てきますけど、その延長線上として一番サブカルとしてよくあるのが、何か怖い話、シャレコアみたいな怖い話では異界と境界は超たくさん出てきます。
有名な怖い話だと、キサラギ駅ってあるけど、あれはまず主人公が電車に乗っていて眠ってしまいます。
それで夢の世界という無意識空間が境界の役割を果たして、気がつくと異界で目を覚ますという構成になっています。
同じように怖い話で言うと、クネクネって有名な話がありますけど、あれは出来事が起こるのは田舎でしょ?
主人公はおそらく都市部に住んでいると思われるんだけど、この場合不思議な出来事は田舎で起こります。
要は都市部イコール日常の象徴、田舎イコール非日常の象徴としてイメージされていて、
都市部が人間界、自分に属する世界、田舎が異界、自分に属さない世界として機能しているわけですね。
こういう田舎を異界として機能させるというプロットはめちゃくちゃよくあります。
主人公が不思議な体験をする場として、田舎が異界として機能している作品で言うと、
それこそ隣のトトロとか、あとはもっとサブカル方面で言うと、日暮らしに泣くコロニーとか、
ゲームだとソニーの僕の夏休みなんかもそうだと思います。
夏休みって、学校生活という日常が免除される非日常への入り口として、
つまり時間的な境界として解釈することができます。
だから主人公が夏休み期間中に何か不思議なひと夏の体験を過ごして、
夏休みが終わるとともに日常へ帰っていくっていうプロットの作品も多いわけですね。
はい、こういう話はもう無限にできてしまうので、そろそろ本題に入っていきたいと思います。
コミュニティにおけるアイデンティティ
マージナルマンとは社会学の用語で、マージナルとは終焉、周りに縁と書く終焉のことです。
アメリカ的な他民族国家を念頭に置くとイメージしやすいと思うんだけど、
例えば人種だったら、黒人と白人のハーフって、黒人のコミュニティにも完全には溶け込めないし、
白人のコミュニティにも完全には溶け込めない。
そういうことが特に中学高校とかだと残念ながらよくあるわけです。
こういう黒人コミュニティと白人コミュニティは隣接しているわけだけど、
ちょうどその接点の場所、コミュニティ同士が接する部分に位置する人っているわけだよね。
接点の部分にいる人はどちらのコミュニティにも属しているとも言えるし、
どちらのコミュニティにも属していないとも言える領義性を持ちます。
このような互いに完全には浸透しておらず、
融合もしていない2つの文化や2つの社会の境目にいる人のことをマージナルマンと言います。
もちろん人種だけではなく他にもいろいろあって、
例えば地方とか田舎から上京してきたばかりの人も、
地元と上京してきたところの都会、どちらにもアイデンティティを持ちづらい曖昧な状態と言えるし、
あとは帰国子女がなんとなく浮いてしまうとか、
裕福な家庭出身の人が普通の人ばかりの職場で浮いてしまうとか、社会ではよく見られます。
以上のような話は、人間は自分と似た者同士のコミュニティを築きがちだし、
裏を返せば、自分と似ていない人をコミュニティからそれとなく弾きがちというホモサピエンスの社会性の話に還元できるかと思います。
それは多分本能的なもので、人間は二言論でものを考えるということと合わせて捉えると、
人間というのは自分の世界とそれ以外の世界で認知の仕方をしていると言えます。
こういう自分の世界とそれ以外の世界、異界と境界の話と全く同じですよね。
僕たちが異界と境界というプロットで構成された物語を好んでしばしば人気作品になるのも、
ホモサピエンスの根本的な認知特性とマッチしたものだから、
だからすんなりと理解しやすくて、理解しやすいプロットだから好まれる、王道パターンとなるという解釈もできるかと思います。
前回、異人の話をしましたが、とあるコミュニティにうまく溶け込めないということは、
コミュニティのメンバーからは異人だと認識されているわけです。
社会批評の文脈だったら、よくアメリカの文壇とか、
ホワイトカラーとブルーカラーの文壇とか言いますけど、
まさに異界と境界的なホモサピエンスの認知方法に根本的な原因があるわけですよね。
人間のよくわからないものには認知的不協和を感じるから遠ざけようとする性質って、
マクロには合理的である一方で、ミクロには当然色々問題もあります。
問題とは、マージナルな人を遠ざけようとするから、遠ざけられてしまっている人はかわいそうっていうのもあるし、
あとは歩み寄って理解しようとしてくれる人って必ずいるんだけど、
やっぱりどうしても、自分の中にあるパターンに当てはめて理解しようとするから、
何かステレオタイプのパターンに当てはめて理解されるのが嫌だとか、
一筋縄では行かないわけです。
こういうコミュニケーションの難しさの根底には、
人間は二言論でものを考える、
そして自分の世界とそれ以外の世界とで分けて理解しようとするって性質があるなって話でした。
そう考えると、異界と境界の概念って普遍的かつかなり射程の広いものであることがイメージできるのではないでしょうか。
というわけで今回はここまでです。
次回もよろしくお願いします。