民俗学の魅力
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
今回は民俗学についてということで、民俗学の一番面白いところをやります。
僕の趣味ということで、趣味に全振りする形で話していきます。
民俗学ってめちゃくちゃ面白いですよね。
民俗学の定義についてネットで検索すると、
民俗学とは、民間伝承を集め調べることによって、
庶民層における伝統的生活様式、社会形態を明らかにしようとする学問と出てきます。
日本史とか世界史のような歴史って、基本的に王様や殿様の歴史じゃないですか。
武力的な覇権を握ったグループが何とか王朝みたいなのを作って、
勝者が歴史を記述することになります。
敗者には歴史を記述する権利はありません。
したがって、征服した側が記述したテクストが歴史ということになるから、
日本史や世界史は王様などの権力者の歴史ということになります。
一方で民俗学は、さっき言ったように、民間伝承を集め調べることによって、
庶民層における伝統的生活様式、社会形態を明らかにしようとする学問です。
民衆ってなかなか文字記録を残すのが難しいじゃないですか。
そもそも読み書きができないという人もかつては多かったし、
紙に書くにしても、ちゃんと保存がきくような紙って値段が高いから、
そう安々と誰にでもたくさん買えるようなものではありません。
なので民衆は、自分らの歴史を文字として記述して後世に残すというのは難しいわけだけど、
代わりに交渉文芸のような口伝えで出来事を記録していました。
そういう民間伝承を集めて、民衆側の歴史をつまびらかにしようとする試みが民俗学なわけで、
いわば民衆側から見た世界史、民衆側から見た日本史とでも言うべきものです。
境界の概念
僕が特に興味があるのが、昔の民衆が有していた世界観です。
彼らがどのような世界観で生活していたか、
これは通常の世界史や日本史などのような表には出てこない裏にある歴史ですよね。
そこで極めて興味深い補助線になり得るのが、境界という概念です。
境界とは境目のこと、境界線の境界です。
境界とは、あちらとこちらとを分ける境目となるゾーンのことですが、
民俗学における境界とは、人間の世界と異界とを分けるものです。
異界とは異なる世界、おばけとか妖怪がいる世界であったり、
あの世と呼ばれる死後の世界であったり、そういう人間の世界ではないところみたいな意味です。
人間界と異界とを分ける境界については、
小松和彦先生の異界と日本人という本に書いてある説明が良かったので引用します。
ちなみに余談ですが、民俗学といったら柳田邦夫とか織口忍が有名ですけど、
個人的には小松和彦先生の本が一番面白いと思います。
では境界という概念に関する説明ですが、そもそも人間は二元論でものを考えます。
あの世とこの世、昼と夜、人間と妖怪みたいな感じです。
で、あの世とか妖怪みたいなあちら側、つまり異界とは境界の向こう側に広がっている世界です。
ここからが引用です。
二つの世界が境界を持たず、それぞれがそれ自体で完結した世界を構成しているならば、
この二つの世界は相互に何ら関係を持たない世界ということになる。
ではなぜ境界が重要なのだろうか。
それはそこが人間界でもあり異界でもあるという量儀性を帯びた領域だからである。
人間が異界に赴くときは、その境界を越えていかねばならないし、
神や妖怪などの異界の住人が人間界にやってくるときも、この境界を越えてやってくるのである。
したがって境界をさまよっていると、神や妖怪に遭遇する可能性が高く、
また境界に住む者は、人間界と異界の双方の性格を帯びた者としてイメージされることになる。
そして通常の人間が行くことができるのは、この境界までであり、
その先は特別の能力を備えた者、選ばれた者しか行くことができなかったし、
多くの人は行こうともしなかったのである。
したがって異界をめぐる物語の多くは、この境界をめぐる物語でもあった。
これは簡単に言うと、何らかの怪異が出現するのって、
いつも境界となるゾーンであるっていうことなんですよ。
そのことは、昔話や民話を俯瞰してみると明らかだと思います。
例えば、多くの昔話では、山道を歩いているときに怪異に遭遇します。
山道で天狗にさらわれるとか、山道でひだるしんに取り憑かれるとか、
山道でぬりかべに遭遇するとか、まいきょにいとまがないです。
山道っていうのは、うっそーとした山という異界と、
人間界との境界に位置しているわけですね。
もっとメジャーな例だと、桃太郎なんかも川の上流から桃が流れてくるよね。
おそらく川のすごく上流に異界があって、異界からの漂流物として桃が流れてきて、
川という境界で異界からの恵みに遭遇するというわけだから、
時間と境界
これもやはり境界で起こる出来事です。
山道とか川とかは境界の代表的なものです。
あとは浜辺、海という異界と人間界との境界として、浜辺も境界としてみなされます。
浦島太郎も浜辺で神に遭遇するよね。
葉っぱなんかも川辺に出没して水の底に人を沈めようとするし、
水の底には異界が広がっているという世界観が見て取れます。
他にも橋とか辻なんかも境界だし、村境なんて境って言ってるからストレートな境界です。
だから村境には道祖神を置いて、村の外という異界から悪いものが入ってこないように守らせているわけですね。
以上は空間的な境界の話でしたが、
この世界は時間と空間によって構成されているわけだから、
当然時間的な境界というのもあります。
昼の太陽の光の下は人間界に属する時間で、夜の闇の中は異界に属する時間です。
昼と夜との間、夕方は境界にあたります。
夕方のことは大間が時とも言いますよね。
魔物の間、間に合う時間と書いて大間が時。
大間が時には怪異と遭遇しやすいとされています。
これも昔話や民話を思い出せばわかるように、
なんか山で仕事を終えたある村人が日が暮れそうだから、
急いで家に帰っている時に怪異に遭遇するとか非常に多いし、
そもそも大間が時って呼ばれているくらいだから、これも明らかなことだと思います。
あと、大晦日からお正月にかけて、年と年との間っていう境界もあって、
このタイミングにはお正月様と呼ばれる年徳神という神様が来訪するって言い伝えも日本各地で見られます。
このように境界は異界の入り口とみなされていたって補助線を引いて、
昔話や民話を見てみるとまた新しい読み方ができることがわかるかと思います。
以上、境界と異界について説明できましたので、
次回、闇の民族学について話します。
次回に続きます。