民俗学の暗い部分
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回、異界と境界について話しましたので、さらに民俗学の暗い部分について紹介します。
なんとなく、権力者イコール悪いやつ、民衆イコールいいやつってされがちだけど、しっかりと民衆側にも闇の歴史があるということを見ていきます。
昔の民衆はほとんどが農業を営んでおり、村という単位で人生を完結させていました。
村は日常生活の象徴であり、一方で村の外から来る人、旅人などは異界からの来訪者であり非日常の象徴でした。
前回の終わりの方でちょっとだけ触れたお正月様と呼ばれる都市徳人も、村の外からの来訪者であり、村に富をもたらす良い神様です。
ちなみに異界っていうのは必ずしも災いをもたらす界というわけではなく、富をもたらすか災いをもたらすかのどちらかであるという良義性を持ちます。
日本の神様ってそうだよね。守り神でもありながらたたり神でもある。
良義性があり、だからこそ得体が知れない不気味さがあるわけです。
で、今回は小松和彦先生の「異人論・民族社会の神聖」という本を見ながら喋っています。
この本はマジでぶっちぎりで面白いです。
異界からの来訪者のことは、稀人とかマロードっていう言い方の方が有名だとは思うんだけど、小松先生の著書に倣って、異人、異なる人と書く異人という呼び方で読んでいきたいと思います。
この本、異人論はですね、異人殺しという村人が村の外から来た異人を殺してしまうという出来事が数々の民話から紐解かれています。
全国各地の民話を採取していくと、異人が死んでしまう系の民話が結構あるんですよ。
一個短いのを引用します。
山節塚。
昔、荷物を盗まれた山節がいて嘆いて死んだ。
盗んだ若者は心細くなって山節の屍と荷物を埋めて供養した。
民話ってこういうめっちゃ短いのも結構あって、柳田邦夫の塔の物語なんかもこれくらい短いのが結構あります。
で、山節って全国各地を暗夜して修行する旅人じゃないですか。
文字通り受け取るなら、荷物を盗まれた山節が悲しみのあまり死んでしまったって話だけど、
いや、これはやってるでしょうって話です。
荷物を盗まれた悲しみのあまり死んでしまったのではなく、
普通に考えたら、荷物を奪うために殺したと考える方が自然です。
これを解釈すると、民話というレベルでは、村の者がやった悪いことって隠蔽されがちということです。
殺してしまったわけだから、当時の宗教観では、供養しなければ畳られてしまうから、塚を作って供養する必要はある。
なぜこの塚を作ったか、理由も必要となる。
ただ重要なのは、本当に民話に出てくる若者がやったのかどうかということではありません。
端的な例として、もう一つ民話を紹介します。
旅人の物語
とある集落で不思議なことがよく起こるようになったので、霊媒師を雇って口寄せさせてみると、
何回やっても村人たちが知らない六部の霊が出てくる。
六部というのは巡礼する僧侶のことです。
そして六部の霊は、自分がとある百姓の家に一晩泊まらせてもらったところ、
百姓は六部を殺して持ち金のすべてを盗み取り、
柿の木に吊るして首吊り自殺に見せかけたのだという話をする。
その百姓の家は急に羽振りが良くなり金持ちになった。
しかしその百姓の家系では子供が障害を持って生まれるようになったという。
こういう民話が高知県高岡郡伊豆原町に伝わっています。
これは偉人殺しが遂行されたと隠蔽されることなくダイレクトに伝わっているように見えますが、
重要なのは裏にある当時の人々の世界観です。
集落という小さな世界で、ある家だけが金回りが良くなったということが起こります。
当然周りからは嫉妬されるし、なぜあの家だけが金持ちになるのか理由を知りたいという心理が動きます。
次に金回りが良くなった家系で、なぜか子供が障害を持って生まれるようになったということが起こります。
これも同様に、なぜそうなったか理由を知りたいという心理が動きます。
この二つを一本のストーリーで結ぶと、実は旅人を殺して持ち金を盗んで羽振りが良くなったんだ。
そして今はそのたたりによって報いを受けているのだっていうストーリーが自然と立ち上がります。
現在その金持ちになった家に悪いことが起きているのは、きっと過去に悪いことをやったからに違いなく、
悪いこととは金回りが良くなったことと関係あるに違いないというわけですね。
で、このさらに裏にある世界観があることを忘れてはいけないという指摘が本の中でなされています。
それは旅人を殺して持ち金を盗むという行為がたまに起きてもおかしくはないという当時の人々のコモンセンスです。
金持ちになった家でなぜそういうことが今起こっているか、みんな納得したいわけですよ。
だからある程度納得感のある、説得力のあるストーリーでなければ通用しないわけだけど、
このストーリーが通用しているということは、当時の人々からすれば、
ああ、やっちゃったかーと思える程度には、旅人を殺す、異人殺しという行為はありふれていたということが間接的に証明されます。
この異人殺しはある程度ありふれていたという補助線を引いて、昔の民衆の世界を見ると、彼らの心理的な闇を覗き見ることができます。
過去の歴史を学ぶにしても、征服する側の歴史だけではなく、征服される側の歴史を見る。
さらに民衆の心の中にある光だけではなく、闇をも直視する。
こういう見方を民族学は許してくれるし、そんな風な見方っていうのは、
まさに人間の意識や心の複雑性を理解するのに役立ってくれるのではないかと思います。
というわけで今回はここまでです。
完全に僕の趣味でしたけど、面白さが伝わってくれれば嬉しいです。
次回もよろしくお願いします。