アボリジナルアートはオーストラリアの先住民の方たちが作る視覚形術のことを指すんですけれども、
まず日本でアボリジナルアート、アボリジニとよく一般的に知られていますが、
オーストラリアの先住民は大きく二つのグループに分かれまして、
一つがオーストラリア大陸とタスマニア島に住んでいる方たちでして、
彼らをアボリジナルの人々と呼んでいます。
けっこう広いわけですね、そう考えると。
そうです、かなり広いです。
パファニューギニアとオーストラリアの間にトレス海峡という海があるんですね。
そこに270以上の島々があるんですけど、
そこに住んでいる人々の先住民の人たちのことをトレス海峡諸島民。
トレス海峡の諸島の人たち。
なので、いわゆるオーストラリアの先住民って呼ぶときには、
このアボリジナルとトレス海峡諸島民って呼ぶのが、
けっこう全体を本当に捉える言い方として、
オーストラリアでも正式に呼ばれていたりします。
今回取り上げるのは、そのトレス海峡のところも含めてってことですか?
含めません。なので今回は割り切って、
オーストラリアのアボリジナルアートとして題名をつけています。
これ、今本当に不勉強なジャンルなので、
今日も本当に一から教えてもらおうと思っているんですけど、
オーストラリア大域、めっちゃ広いじゃないですか。
例えば日本でも、先住民民族って言い方はちょっと語弊があるかもしれないけど、
日本だとアイヌのアートとか、沖縄のアートって感じで取り上げられるじゃないですか。
日本を見た時には、端って言い方もちょっとまだ難しいんですけども、
中心からはちょっと離れたところに、2つ民族がある気がするんですよ。
あんまり東京で先住民族のアートとかあんまりないじゃないですか。
オーストラリアってめちゃくちゃ広いじゃないですか。
どこに皆さんがいるのかなっていうのが、
すごく今イメージが全くわからない。
あまりに広すぎて、どの辺に分布されているんですか?
今回、5階の展示室に一つ地図を掲げていまして、
そこがすごくビジュアルでわかりやすいかなと思うんですけど、
オーストラリアはですね、いわゆる言語が、植民地以前なんですけど、
250ぐらいの言語がそれぞれのコミュニティで話されていて、
そこからさらに方言とかを含むと、もっと数は数百あるんですね。
今度は250ぐらいある言語が、
いわゆるアボリジナルの人々のコミュニティを形成していると考えていただいて、
ほぼほぼよかったので、
オーストラリアの中で250ぐらいのアボリジナルのコミュニティが、
もうそもそもあるんですか?
そもそもあるんです。
もうほんとに散らばっているんですか?
散らばっています。
大陸に散らばっています。
別にどこか端っこにあるとかじゃなくて、
オーストラリア全土にそれぞれのアボリジナルがある。
そうなんです。
地域によって言葉も違いますし、
信じている信仰体系といったものも違う。
そうすると今度は、
信仰するときに行う儀式とか儀礼で、
体に装飾をするんですけど、
その装飾文様とかも全く違いますし、
それに用いる素材も違うというところで、
本当にアボリジナルアートと括って読んでますけど、
実際は本当に多様のアート形態でもありますし、
文化形態でもあるというところが、
結構アボリジナルアートを理解する上で大事な部分だと思います。
250あるとして、
それぞれ250通りあるんですか?
それともここは全くアートをやってないなとか、
そういう感じで言うとどんな感じになるんですか?
この250というのはイギリスの植民地か以前でして、
植民地を経た経過の中で、
多大な影響を受ける地域があるんですね。
文化がもうなくなってしまったというところもあって、
現在は100ぐらいの言葉が残っているだろうと言われていて、
世代が変わるとどんどんと現地の言葉を
喋れる人たちがいなくなってしまうというところで、
言葉を復興する活動も現地で結構積極的に行われています。
100のところは全てにそれぞれにアボリジナルアートがあるんですか?
それともばらつきというか、
ここはそんなにアート作家じゃないな、みたいなところもありますね。
もともとこのコミュニティ的に、
いわゆるアボリジナルの伝統的な図像がない地域もあったりして、
今回の展示している作家の中で1人がその地域出身だったりするんですね。
もともとその図像がないところの地域もあれば、
現代でも何千年も受け継がれてきた図像や儀式を大事にして、
継承しているコミュニティもあれば、
例えば都市部ですね。
オーストラリアの中でもシドニーメルボルンとか、
そういう地域はやっぱりアボリジナルの人たちの文化への影響がすごく大きくて、
そういった意味ではやっぱりグラデーションがありますね。
もともと図像がない地域もあれば、
その植民地下によって様々な文化が継承が難しくなってしまった地域もあるという背景があります。
ちなみにアボリジナルのアートをやるアーティストの人たちというのは、
必ずアボリジナルの地を引く人たちなんだ。
そこはやっぱり一つ大事な部分。
移住してきてアボリジナルアートをやっていても、
別にそれはアボリジナルアートとは言われない。
言われないです。
その地も、例えば江戸っ子だったら、
3代そこに住んでいた江戸っ子みたいなのがあるじゃないですか。
あんな感じでアボリジナルだというのは、
外部の地もいっぱい入ってくるから、
ハーフの人とかミックスの人たちとかもいると思うんですけど、
その経緯的なのはあるんですか?
そこはちょっとやっぱり、私も当事者ではないので難しい。
きちんと説明はできないんですけど、
例えば今回の出品作家、
イワニスケースという女性がいるんですけど、
彼女は3つのコミュニティを自分のバックグラウンドに持っているんですね。
そういうパターンもあるんですね。
そうなんです。
アボリジナルのコミュニティでも、
複数のコミュニティを自分のバックグラウンドに持っていたり、
かたやマリー・クラークという作家も出品しているんですが、
彼女はもっと4つか5つくらいのコミュニティを
自分のバックグラウンドに持っていると言ってたりする。
ということは、コミュニティ同士でも交流はあるんですね。
あります。
なるほど。
アボリジナルのアートのアーティストは、
アボリジナルの血を引く人。
実際にアボリジナルのアートと呼ばれるものは、
やっぱり私自身いつも気づかされますね。
これちょっと改めて疑問に思ったんですけど、
アボリジナルアートって言葉としては外部が作った感があるというか、
多分100の民族があったとしたら、
自分たちでアボリジナルアートですって言わない気がするんですけど、
誰がどう定義し始めたんですか?
トニーさん、鋭いですね。
今ですね、リチャード・ベルという男性なんですけど、
クインズランド州のブリスベアを拠点に活動している作家がいるんですけど、
この人は何人ですか?
アボリジナルをバックグラウンドに持っているリチャード・ベルという作家がいるんですけど、
彼がですね、作品でアボリジナルアートは白人のものだっていうアートを作ったりしてるんですよ。
それはやっぱりアボリジナルアートって呼ばれるものは、
結局外部の社会がいわゆる白人ですよね。
オーストラリアの種類社会が作り上げたものであって、
未だにそのディスコース、言説とか評価っていうものは、
やっぱり白人中心に動いているということをズバッと言った作家がいて、
どうやって自分たちが自主決定を取り戻すかっていう部分が、議論がすごく頻繁にあるところではあって、
それは今の話なんですけど、じゃあ誰がアボリジナルアートをもともと定義したのかっていうところになると、
やっぱりイギリスの植民地の時代に戻っていって、
1788年にオーストラリア大陸はイギリスの植民地として宣言されて、植民地化が進むんですね。
その時にイギリスとかドイツから、いろんな人類学者とか植物学者とか自然学者とかもオーストラリアに来るわけですよ。
未知の土地として。
そこでアボリジナルの先住民の人たちと接触をした時に、
彼らが行っている儀式とか、その儀式で用いる装飾模様とかオブジェとかっていうものに対して、
アボリジナルの人たちが作る、その時はどちらかというとマテリアルカルチャーなので物質文化みたいな感じで、
どんどんイギリスとかヨーロッパに持っていかれて、
そこでアボリジナルの人たちがする美術のことをアボリジナルアートと呼ぶこともあったんですけど、
それはどちらかというと美術というよりは、やっぱり民族、民族史学的な視点でアートを見られていた。
そこでやっぱり重要なのが、アボリジナルの人たちは、
やっぱりヨーロッパの西洋の文化から比べると劣っている、進歩学的な見方をする。
自分たちの社会が優位社会、優位な文明が発達した社会だとすると、
彼らはまだ人間の進化の過程における石器社会を表している。
彼らの美術はそうすると人間のプリミティブな活動を表明しているということで、プリミティブアートとして紹介される。
よく美術史でいうとプリミティブアートというと、アフリカのアートがよく語られる。
ピカスとかのあれは実は、モデリアニとかもアフリカだという。
あの時には実はアボリジナルアートも行ってはいたんですか?
そうなんです。
イギリスの大英博物館には、かなりの数のオーストラリアのアボリジナルの人たちのその時代の物質文化が結構たくさん収蔵されていて、
それはもうまさにアフリカと同じようにプリミティブアートとして収蔵されていったという経緯があります。
その時から言葉としてもアボリジナルアートというのはなんとなくできていたということですね。
はい、そうです。
そこからでも、なんかちょっとまた難しいなと思うんですけど、アフリカも同じくらいプリミティブアートだってなってたけど、
今そんなにアフリカンアートってありますけど、あんまりアフリカンアートって紹介されることはないよりは、アボリジナルアートの方が結構強いというか、
これはやっぱりどこかでさらに盛り上がりはあったんですか?アフリカアートとの違いというのは。
はい、ありました。
プリミティブアートと呼ばれていたアボリジナルの人たちの創作する芸術が、どうやって現代アボリジナルアートになったかっていう流れがありまして、
それはですね、オーストラリアは1970年代ぐらいから多文化主義に国が変わり始めるんですね。
それまでは白豪主義。
白豪主義、これどういう意味?
白い豪だから、いわゆるオーストラリアの漢字で書くときの豪ってことですね。
白いオーストラリア。
白人のためのみたいなイメージとしては。
そうなんです。
英語で言うと、ホワイトオーストラリアポリシーっていうのを。
すごい言い方がいいな。
これ誰が言うの?
すごい時代の感じがする。
そうなんです。
今これ選挙前に撮ってるから、あれだけでも。
大丈夫かな?みたいな。
当時の発言。
そうです、パッと言ってますんで。
大丈夫です。
あったんですね、1970年代より前は。
これはですね、まさにイギリス植民地としてアングロサクソン、
いわゆるイギリス系の白人の人たちを優遇してオーストラリアに移民を入れましょう。
その他の移民、いわゆるアジア系ですね、主に。
主にアジア系の移民とか、あとはアブリジナルの人たちも、
違う意味での政策があったんですけど、
そういうふうにしてオーストラリアを白人社会を保ちましょうっていう政策が、
実はかなり最近まであったんですよ。
それが1970年頃から変わり始めて、
それはやっぱりベトナム戦争があって、ベトナム難民の問題とか、
あと社会が、オーストラリアのジオポリティカルの問題がやっぱり起こってきて、
オーストラリアがイギリスとつながるよりも、やっぱりアジアとつながる方がめちゃめちゃ近い。
距離的な問題も。
そういう問題が浮上してきた時に、
オーストラリアがイギリスばかりを相手にしてたら国として成長できないから、
アジアに目を向けようっていう政策が生まれるのが1970年代ぐらいからなんですね。
そういうことなんですか。
よくサッカーとかでも、アジアとオーストラリア、オセアニア結構一緒にされてるじゃないですか。
なんでかなと思ってたけど、結構その時ぐらいから一体化しようみたいな動きがあったってことなの。
1967年にアボリジナルの人たちが市民権を得ます。
そんな最近の話なんですか。
そうなんです。
なので、それまでは市民としてアボリジナルの人たち認められていなかった。
社会保険がなかったり、選挙権がなかったり。
いわゆる…
1977年ですか。
1967年。
1967年。
ほんと最近なんですよ。
オリンピックの時にはまだだったんだね。
東京オリンピックの時には。
そうですね。
1960年ですもんね。
そうなんです。
だから、それまで国勢調査にまず彼らが入っていなかったので、
本当に全体像がよくわかっていなかった。
でも、少数ってわけじゃないですよね。
民族の数多いってことは、
全体の数パーセントとかってレベルじゃないぐらい人がいたのにってことですか。
でも、やっぱり少なかったことは少なかった。
やっぱり少数にはなってたからってことなんだ。
はい。
もちろんそれは差別的な政策がずっと影響してきたっていうところがあって、
ただ1967年に国民投票でアボリジナルの先住民、オーストラリアの先住民の人たちを
自分たちの国民として受け入れますかっていう国民投票をオーストラリアするんですね。
その時に9割のオーストラリアの人たちがイエスって答えた。
そこでアボリジナル先住民の人たちが初めて市任権を得るっていうのが1967年なんです。
そこからさっき説明した白豪主義が変わり始めるのが1970年。
多文化主義へとオーストラリアは向かっていくんですね。
その過程でイギリスから手をつなぐのを少し離して、
オーストラリアとして自分たちがナショナルアイデンティティをどういう風に作っていこうかってなった時に
参照点になったのがアボリジナルアート。
自国の人と文化の一つとしてってことですね。
そうです。
その時には自発的だったんですね、ある程度。
自発的、すごく政治的。
なるほど。
すごく政治的なことも関係はしているんですけど、
そこでオーストラリア的なものは何かって考えた時に、
やっぱり5万年前からアボリジナルの人たちいるって、
もうオーストラリア的でしかないよねっていうところで、
アボリジナルの人たちの文化とか芸術がオーストラリア固有の模様として盛り上げていこうっていうのを
政府が主導して行い始めるんですよ。
なるほど、なるほど。
それでその1900年、アボリジナルの人たちが市民権を得た後にアボリジナル関係省みたいな省を
できるんですね、国の機関として。
そこで国民になるっていうことは、経済活動に彼らを組み込んでいく。
経済活動に組み込むときに、どういうふうに先住民の人たちに
いわゆる現金収入とかを与えるかってなったときに、
そこでやっぱり注目されるのが彼らの美術だったんですよ。
アート&クラフト。
そこにお金をどんどん政府が助成をして、
アボリジナルアートっていうものの市場価値を高める。
そうするとアボリジナルのそれを制作する作家たち、
コミュニティの人たちに現金収入が入るっていうシステムを
政府が結構主導して作っていくのが1970年代なんですね。
このときにちょっと質問なんですけど、
今の段階での勝手なイメージですよ。
アボリジナルアートはお土産物といいますか?
って考えるとアーティストというよりは職人さんっぽい気がするんですけど、
どうですか?この段階で。
そうなんですよ。だから長らく結構アボリジナルアート、
お土産としてやっぱり作られていた。
それは本当にもう現金収入としてという側面が多かったんですね。
なんですけど、それお土産じゃない、
やっぱりもっと市場価値が高いものを作ろうっていう動きが
やっぱり同時に出てくるんですね。
そこで政府が主導している組織の中に
アボリジナルアーティストボードみたいな、
アボリジナルアーティスト委員会みたいなものが作られるんですよ。
そこのメンバーは本当にアボリジナルの方たちが
ボードメンバーを務めて、
その人たちが結構主導して
アボリジナルアートを今まではプリミティブアートとして見られていた
自分たちの文化とか芸術を
現代のコンテンポラリーのアートとして市場に売り出していく
戦略的な政策、司法、方策を立てていくのが
結構ここのアボリジナルアーティストボードの人たちで
この人たちはですね、結構海外に向けて
アボリジナルアートの展覧会を結構組んで行っていたんですよ。
結構な数。
海外では特にヨーロッパがやっぱり多いんですか?
ヨーロッパとかアメリカが多かったと思います。
その時にちなみに日本にも来てたりしてたんですか?
来てないですね。
やっぱりその時は日本ではまだアボリジナルアートって言っても
まだピントは来てないんです。
70年代だったらってことなのか。
っていうところでアボリジナルアートの見方が変わってくるのが
転換点というか。
この時代なんですよ。
でもその時のボードメンバーたちっていうのは
ヨーロッパとかでも学んで帰ってきてるんですか?
当時のものではないんですか?
結構コミュニティの年長の人たちが多かったです。
その時のいわゆるアボリジナルアーティスト、第一世代の人たちは
どういうものを作ってたんですか?
第一世代と呼ばれるのが
いわゆる現代アボリジナルアートの始まり、起点と呼ばれるのが
1972年にタパニアトゥーラと呼ばれる
どちらかというとオーストラリアの西沢区に位置している
コミュニティというか、これも政府が作ったアボリジナルの居住区があるんですけど
そこの白人教師が
コミュニティの年長の男性たちに
小学校に壁画を描かないか?って声をかけるんですね。
その壁画っていうのはもちろん
コミュニティの人に伝わるドリーミングと呼ばれる
土地創造神話を図像化したものがあって
それを壁画に描きます。
その壁画が結構ヒットしたので