1. そろそろ美術の話を...
  2. #137 プリミティブからコンテ..
2025-08-09 59:56

#137 プリミティブからコンテンポラリーへ アボリジナルアートの現在(アーティゾン美術館 学芸員 上田杏菜)

アーティゾン美術館の上田杏菜さんをゲストに、オーストラリアの近代史やアボリジナルアートについて伺いました。⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://sorosoro-art.vercel.app/ep/13⁠⁠7⁠  番組の感想は、⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#そろそろ美術の話を⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ でお願いいたします。

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠番組公式Twitter⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠もフォローをお願いします!


Guest Profile

上田杏菜(うえだ・あんな)

  • 石橋財団アーティゾン美術館学芸員。 早稲田大学第一文学部総合人文学科美術史学専修卒業、アデレード大学大学院(オーストラリア)にて学芸員・博物館学修士課程取得修了。南オーストラリア州立美術館インターンを経て現職。


Show Notes

アーティゾン美術館について

アボリジナルアートについて

告知・お知らせ系

サマリー

アーティゾン美術館の展覧会『彼女たちのアボリジナルアート、オーストラリア現代美術』は、オーストラリアの先住民であるアボリジナルの女性アーティストに焦点を当て、彼女たちの多様な美術表現と文化を紹介します。アボリジナルアートは、伝統的な形態から現代的なアプローチに至るまで幅広く、多様なコミュニティの影響を受けています。このエピソードでは、アボリジナルアートの定義とその歴史的背景について語られています。リチャード・ベルの作品を通じて、外部からの視点に基づくアートの評価とオーストラリアにおける多文化主義の影響が探求され、アボリジナルアートの現代的な発展が紹介されます。アボリジナルアートの歴史的変遷と現在の評価が取り上げられ、その起源や現代アートへの移行について議論されます。また、アーティストとしての認知度向上や、女性アーティストの役割の変化にも焦点が当てられます。このエピソードでは、アボリジナルアートの現代における重要性と特に女性アーティストの役割について議論されています。エミリー・カーマイングアリーの名前の変遷や、彼女が影響を及ぼしたアートの世界についても触れられています。アボリジナルアートに焦点を当てた展覧会がアーティゾン美術館で開催され、特にエミリー・カーメイングアリーの作品が取り上げられています。彼女の作品は、オーストラリアの伝統的な物語や儀式に基づき、文化的な背景を反映しています。

00:10
はい、アートテラー・とにがそろそろ美術の話を。この番組は私、アートテラー・とにが アートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日はアーティゾン美術館学芸員 上田杏菜さんをゲストにトークをしていきたいと思います。
はい、上田さんよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
初めましてということで。
はい、初めましてです。
顔は知ってるというか、内覧会で説明されているのを聞いたりとかしてるんですけども、
はい、初めましてなんですが、僕のことは知っていただけて。
はい、海塚さんとの東海のセザンヌとか、いろんなところで海塚さんとコラボされているのは。
この番組では実はアーティゾン美術館扱うの2回目で、今からもう4年前ですか、エピソード23で海塚さんが出演していただいている。
海塚さんは今や千葉県水美術館の館長になっているんですけども、
海塚さんからたまにメールが来るんですよ。
それ何かなと思って開くと、アーティゾン美術館時代のそれこそ、たぶん子供の広場みたいなタイトルで何本か海塚さんの動画を撮ったやつが、
いまだにYouTubeで流れているんですけども、
〇〇が再生回数すごい伸びてるよとか、いまだにアーティゾンの動画の、たぶんチェックされてて、
その再生数、これが急に伸びてるんだよ、トニー君みたいな感じでメールが来るんで。
へー。
たぶん海塚さんね、あの動画をすごくチェックされてますので、
まだ見てない方はぜひご覧いただきたいと思います。
上田さんはいつから?
私は石橋財団に入ったのが2019の春なので、
ちょうどあの時にはもう知ってる、だからもう、
教育普及部長でした。
そうですよね、行ったけどお会いしてなかったってことなんですね。
これまで僕ら二人はってことですかね。
はい、そうです。
改めて今回どうしても出ていただきたかったのがですね、
今開催中の展覧会が非常に興味深い展覧会で、
ありがとうございます。
この番組、実は前回のゲストが中国の青銅器を取り上げて、
その前がピカスのセラミックという、
本当にいろんなジャンルを取り上げてきてるんですけど、
今回もかなり言い方が難しいのでマニアックって言ったらあれかもしれないですが、
ちょっとこれまでこの番組で5年間で取り上げたことがないジャンルなので、
ぜひその話を伺いたいなということで、
ちょっと上田さんに今回出ていただこうということで、
お会いさせていただきました。
ということで、まずは現在開催中の企画展について、
改めて教えていただきたいと思います。
展覧会の概要
はい、現在開催中の展覧会が、
彼女たちのアボリジナルアート、オーストラリア現代美術、
日本語のタイトルをつけている展覧会でして、
そこにエッセンスがかなり詰まっているというところはあるんですが、
まずはオーストラリア現代美術に焦点を当てた展覧会でして、
その中からさらにオーストラリアの先住民であるアボリジナルの人々が創作をする美術ということで、
アボリジナルアートにさらに範囲を狭めていって、
さらにそこから彼女たちの女性、複数の女性に焦点を当てた展覧会になっています。
ジャンルとしてはアボリジナルアートということで大丈夫でしょうか?
この番組を取り上げるのがオーストラリア現代美術も初めてであれば、
アボリジナルアートが初めてということで、
この番組を聞いている人でもアボリジナルアートって思った人もいると思うので、
簡単にざっくりとアボリジナルアートっていうのはどういうジャンルになりますか?
オーストラリアの先住民文化
アボリジナルアートはオーストラリアの先住民の方たちが作る視覚形術のことを指すんですけれども、
まず日本でアボリジナルアート、アボリジニとよく一般的に知られていますが、
オーストラリアの先住民は大きく二つのグループに分かれまして、
一つがオーストラリア大陸とタスマニア島に住んでいる方たちでして、
彼らをアボリジナルの人々と呼んでいます。
けっこう広いわけですね、そう考えると。
そうです、かなり広いです。
パファニューギニアとオーストラリアの間にトレス海峡という海があるんですね。
そこに270以上の島々があるんですけど、
そこに住んでいる人々の先住民の人たちのことをトレス海峡諸島民。
トレス海峡の諸島の人たち。
なので、いわゆるオーストラリアの先住民って呼ぶときには、
このアボリジナルとトレス海峡諸島民って呼ぶのが、
けっこう全体を本当に捉える言い方として、
オーストラリアでも正式に呼ばれていたりします。
今回取り上げるのは、そのトレス海峡のところも含めてってことですか?
含めません。なので今回は割り切って、
オーストラリアのアボリジナルアートとして題名をつけています。
これ、今本当に不勉強なジャンルなので、
今日も本当に一から教えてもらおうと思っているんですけど、
オーストラリア大域、めっちゃ広いじゃないですか。
例えば日本でも、先住民民族って言い方はちょっと語弊があるかもしれないけど、
日本だとアイヌのアートとか、沖縄のアートって感じで取り上げられるじゃないですか。
日本を見た時には、端って言い方もちょっとまだ難しいんですけども、
中心からはちょっと離れたところに、2つ民族がある気がするんですよ。
あんまり東京で先住民族のアートとかあんまりないじゃないですか。
オーストラリアってめちゃくちゃ広いじゃないですか。
どこに皆さんがいるのかなっていうのが、
すごく今イメージが全くわからない。
あまりに広すぎて、どの辺に分布されているんですか?
今回、5階の展示室に一つ地図を掲げていまして、
そこがすごくビジュアルでわかりやすいかなと思うんですけど、
オーストラリアはですね、いわゆる言語が、植民地以前なんですけど、
250ぐらいの言語がそれぞれのコミュニティで話されていて、
そこからさらに方言とかを含むと、もっと数は数百あるんですね。
今度は250ぐらいある言語が、
いわゆるアボリジナルの人々のコミュニティを形成していると考えていただいて、
ほぼほぼよかったので、
オーストラリアの中で250ぐらいのアボリジナルのコミュニティが、
もうそもそもあるんですか?
そもそもあるんです。
もうほんとに散らばっているんですか?
散らばっています。
大陸に散らばっています。
別にどこか端っこにあるとかじゃなくて、
オーストラリア全土にそれぞれのアボリジナルがある。
そうなんです。
地域によって言葉も違いますし、
信じている信仰体系といったものも違う。
そうすると今度は、
信仰するときに行う儀式とか儀礼で、
体に装飾をするんですけど、
その装飾文様とかも全く違いますし、
それに用いる素材も違うというところで、
本当にアボリジナルアートと括って読んでますけど、
実際は本当に多様のアート形態でもありますし、
文化形態でもあるというところが、
結構アボリジナルアートを理解する上で大事な部分だと思います。
250あるとして、
それぞれ250通りあるんですか?
それともここは全くアートをやってないなとか、
そういう感じで言うとどんな感じになるんですか?
この250というのはイギリスの植民地か以前でして、
植民地を経た経過の中で、
多大な影響を受ける地域があるんですね。
文化がもうなくなってしまったというところもあって、
現在は100ぐらいの言葉が残っているだろうと言われていて、
世代が変わるとどんどんと現地の言葉を
喋れる人たちがいなくなってしまうというところで、
言葉を復興する活動も現地で結構積極的に行われています。
100のところは全てにそれぞれにアボリジナルアートがあるんですか?
それともばらつきというか、
ここはそんなにアート作家じゃないな、みたいなところもありますね。
もともとこのコミュニティ的に、
いわゆるアボリジナルの伝統的な図像がない地域もあったりして、
今回の展示している作家の中で1人がその地域出身だったりするんですね。
もともとその図像がないところの地域もあれば、
現代でも何千年も受け継がれてきた図像や儀式を大事にして、
継承しているコミュニティもあれば、
例えば都市部ですね。
オーストラリアの中でもシドニーメルボルンとか、
そういう地域はやっぱりアボリジナルの人たちの文化への影響がすごく大きくて、
そういった意味ではやっぱりグラデーションがありますね。
もともと図像がない地域もあれば、
その植民地下によって様々な文化が継承が難しくなってしまった地域もあるという背景があります。
ちなみにアボリジナルのアートをやるアーティストの人たちというのは、
必ずアボリジナルの地を引く人たちなんだ。
そこはやっぱり一つ大事な部分。
移住してきてアボリジナルアートをやっていても、
別にそれはアボリジナルアートとは言われない。
言われないです。
その地も、例えば江戸っ子だったら、
3代そこに住んでいた江戸っ子みたいなのがあるじゃないですか。
あんな感じでアボリジナルだというのは、
外部の地もいっぱい入ってくるから、
ハーフの人とかミックスの人たちとかもいると思うんですけど、
その経緯的なのはあるんですか?
そこはちょっとやっぱり、私も当事者ではないので難しい。
きちんと説明はできないんですけど、
例えば今回の出品作家、
イワニスケースという女性がいるんですけど、
彼女は3つのコミュニティを自分のバックグラウンドに持っているんですね。
そういうパターンもあるんですね。
そうなんです。
アボリジナルのコミュニティでも、
複数のコミュニティを自分のバックグラウンドに持っていたり、
かたやマリー・クラークという作家も出品しているんですが、
彼女はもっと4つか5つくらいのコミュニティを
自分のバックグラウンドに持っていると言ってたりする。
ということは、コミュニティ同士でも交流はあるんですね。
あります。
なるほど。
アボリジナルのアートのアーティストは、
アボリジナルの血を引く人。
実際にアボリジナルのアートと呼ばれるものは、
現代アートとしてのアボリジナルアート
どういうものがあるんですか?
アウトプットされたものと考えながら。
そこがすごく面白いところで、
いわゆる日本人が想像するアボリジナルのアートって、
もしかしたらお土産屋さんとかで見るようなドットペインティングとか、
開花的な。
丸とかがあって、それがドットで表されているとか、
そういうものを想像する人は、もしかしたら多いのかなと思うんですけど、
そういう美術ももちろんアボリジナルのアートにはあって、
型や樹皮、ゆうかりの皮、木の皮をカンバスにして、
伝統的な図像を描いたりする地域もあるんですね。
そういうものは、やっぱりアボリジナルのアートだよねと、
みんなが受け入れやすい感じ。
でも、やっぱり現代の社会にアボリジナルの人たちは皆さん生きていて、
そこでアートを今でも創作をしているというところで、
そういう人たち、特に都市部の作家とかは、
普通に大学で美術の勉強をして、
だけど自分のアボリジナルのバックグラウンドについて向き合いたいとか、
自分の祖先が経験したことを作品を通して、
問題提起したいという時に彼らが作るアートっていうのは、
本当に現代アート。
写真を使うこともあれば、ビデオを使うこともあるし。
なので、アボリジナルアートだからこの素材っていうのは、
もう今はやっぱり言えなくて。
一昔前だったらそういうのがあったかもしれないけど、
現代って考えたらってことなんだ。
そうなんです。
そこはやっぱり私もすごく質問で来るところなんですけど、
そこでやっぱり作家に聞くと、
素材はあまり関係ない。
自分たちがプリントメイキングを最初に大学で勉強した作家は、
プリントメイキングの技術を使ってアボリジナルの歴史を伝える。
素材っていうよりも、そこにあるやっぱりテーマとか、
彼女たちが何を表しているのかっていう、
そこがやっぱり重要なんだなっていうのを、
アボリジナルアートの定義
やっぱり私自身いつも気づかされますね。
これちょっと改めて疑問に思ったんですけど、
アボリジナルアートって言葉としては外部が作った感があるというか、
多分100の民族があったとしたら、
自分たちでアボリジナルアートですって言わない気がするんですけど、
誰がどう定義し始めたんですか?
トニーさん、鋭いですね。
今ですね、リチャード・ベルという男性なんですけど、
クインズランド州のブリスベアを拠点に活動している作家がいるんですけど、
この人は何人ですか?
アボリジナルをバックグラウンドに持っているリチャード・ベルという作家がいるんですけど、
彼がですね、作品でアボリジナルアートは白人のものだっていうアートを作ったりしてるんですよ。
それはやっぱりアボリジナルアートって呼ばれるものは、
結局外部の社会がいわゆる白人ですよね。
オーストラリアの種類社会が作り上げたものであって、
未だにそのディスコース、言説とか評価っていうものは、
やっぱり白人中心に動いているということをズバッと言った作家がいて、
どうやって自分たちが自主決定を取り戻すかっていう部分が、議論がすごく頻繁にあるところではあって、
それは今の話なんですけど、じゃあ誰がアボリジナルアートをもともと定義したのかっていうところになると、
やっぱりイギリスの植民地の時代に戻っていって、
1788年にオーストラリア大陸はイギリスの植民地として宣言されて、植民地化が進むんですね。
その時にイギリスとかドイツから、いろんな人類学者とか植物学者とか自然学者とかもオーストラリアに来るわけですよ。
未知の土地として。
そこでアボリジナルの先住民の人たちと接触をした時に、
彼らが行っている儀式とか、その儀式で用いる装飾模様とかオブジェとかっていうものに対して、
アボリジナルの人たちが作る、その時はどちらかというとマテリアルカルチャーなので物質文化みたいな感じで、
どんどんイギリスとかヨーロッパに持っていかれて、
そこでアボリジナルの人たちがする美術のことをアボリジナルアートと呼ぶこともあったんですけど、
それはどちらかというと美術というよりは、やっぱり民族、民族史学的な視点でアートを見られていた。
そこでやっぱり重要なのが、アボリジナルの人たちは、
やっぱりヨーロッパの西洋の文化から比べると劣っている、進歩学的な見方をする。
自分たちの社会が優位社会、優位な文明が発達した社会だとすると、
彼らはまだ人間の進化の過程における石器社会を表している。
彼らの美術はそうすると人間のプリミティブな活動を表明しているということで、プリミティブアートとして紹介される。
よく美術史でいうとプリミティブアートというと、アフリカのアートがよく語られる。
ピカスとかのあれは実は、モデリアニとかもアフリカだという。
あの時には実はアボリジナルアートも行ってはいたんですか?
そうなんです。
イギリスの大英博物館には、かなりの数のオーストラリアのアボリジナルの人たちのその時代の物質文化が結構たくさん収蔵されていて、
それはもうまさにアフリカと同じようにプリミティブアートとして収蔵されていったという経緯があります。
その時から言葉としてもアボリジナルアートというのはなんとなくできていたということですね。
はい、そうです。
多文化主義への移行
そこからでも、なんかちょっとまた難しいなと思うんですけど、アフリカも同じくらいプリミティブアートだってなってたけど、
今そんなにアフリカンアートってありますけど、あんまりアフリカンアートって紹介されることはないよりは、アボリジナルアートの方が結構強いというか、
これはやっぱりどこかでさらに盛り上がりはあったんですか?アフリカアートとの違いというのは。
はい、ありました。
プリミティブアートと呼ばれていたアボリジナルの人たちの創作する芸術が、どうやって現代アボリジナルアートになったかっていう流れがありまして、
それはですね、オーストラリアは1970年代ぐらいから多文化主義に国が変わり始めるんですね。
それまでは白豪主義。
白豪主義、これどういう意味?
白い豪だから、いわゆるオーストラリアの漢字で書くときの豪ってことですね。
白いオーストラリア。
白人のためのみたいなイメージとしては。
そうなんです。
英語で言うと、ホワイトオーストラリアポリシーっていうのを。
すごい言い方がいいな。
これ誰が言うの?
すごい時代の感じがする。
そうなんです。
今これ選挙前に撮ってるから、あれだけでも。
大丈夫かな?みたいな。
当時の発言。
そうです、パッと言ってますんで。
大丈夫です。
あったんですね、1970年代より前は。
これはですね、まさにイギリス植民地としてアングロサクソン、
いわゆるイギリス系の白人の人たちを優遇してオーストラリアに移民を入れましょう。
その他の移民、いわゆるアジア系ですね、主に。
主にアジア系の移民とか、あとはアブリジナルの人たちも、
違う意味での政策があったんですけど、
そういうふうにしてオーストラリアを白人社会を保ちましょうっていう政策が、
実はかなり最近まであったんですよ。
それが1970年頃から変わり始めて、
それはやっぱりベトナム戦争があって、ベトナム難民の問題とか、
あと社会が、オーストラリアのジオポリティカルの問題がやっぱり起こってきて、
オーストラリアがイギリスとつながるよりも、やっぱりアジアとつながる方がめちゃめちゃ近い。
距離的な問題も。
そういう問題が浮上してきた時に、
オーストラリアがイギリスばかりを相手にしてたら国として成長できないから、
アジアに目を向けようっていう政策が生まれるのが1970年代ぐらいからなんですね。
そういうことなんですか。
よくサッカーとかでも、アジアとオーストラリア、オセアニア結構一緒にされてるじゃないですか。
なんでかなと思ってたけど、結構その時ぐらいから一体化しようみたいな動きがあったってことなの。
1967年にアボリジナルの人たちが市民権を得ます。
そんな最近の話なんですか。
そうなんです。
なので、それまでは市民としてアボリジナルの人たち認められていなかった。
社会保険がなかったり、選挙権がなかったり。
いわゆる…
1977年ですか。
1967年。
1967年。
ほんと最近なんですよ。
オリンピックの時にはまだだったんだね。
東京オリンピックの時には。
そうですね。
1960年ですもんね。
そうなんです。
だから、それまで国勢調査にまず彼らが入っていなかったので、
本当に全体像がよくわかっていなかった。
でも、少数ってわけじゃないですよね。
民族の数多いってことは、
全体の数パーセントとかってレベルじゃないぐらい人がいたのにってことですか。
でも、やっぱり少なかったことは少なかった。
やっぱり少数にはなってたからってことなんだ。
はい。
もちろんそれは差別的な政策がずっと影響してきたっていうところがあって、
ただ1967年に国民投票でアボリジナルの先住民、オーストラリアの先住民の人たちを
自分たちの国民として受け入れますかっていう国民投票をオーストラリアするんですね。
その時に9割のオーストラリアの人たちがイエスって答えた。
そこでアボリジナル先住民の人たちが初めて市任権を得るっていうのが1967年なんです。
そこからさっき説明した白豪主義が変わり始めるのが1970年。
現代アボリジナルアートの形成
多文化主義へとオーストラリアは向かっていくんですね。
その過程でイギリスから手をつなぐのを少し離して、
オーストラリアとして自分たちがナショナルアイデンティティをどういう風に作っていこうかってなった時に
参照点になったのがアボリジナルアート。
自国の人と文化の一つとしてってことですね。
そうです。
その時には自発的だったんですね、ある程度。
自発的、すごく政治的。
なるほど。
すごく政治的なことも関係はしているんですけど、
そこでオーストラリア的なものは何かって考えた時に、
やっぱり5万年前からアボリジナルの人たちいるって、
もうオーストラリア的でしかないよねっていうところで、
アボリジナルの人たちの文化とか芸術がオーストラリア固有の模様として盛り上げていこうっていうのを
政府が主導して行い始めるんですよ。
なるほど、なるほど。
それでその1900年、アボリジナルの人たちが市民権を得た後にアボリジナル関係省みたいな省を
できるんですね、国の機関として。
そこで国民になるっていうことは、経済活動に彼らを組み込んでいく。
経済活動に組み込むときに、どういうふうに先住民の人たちに
いわゆる現金収入とかを与えるかってなったときに、
そこでやっぱり注目されるのが彼らの美術だったんですよ。
アート&クラフト。
そこにお金をどんどん政府が助成をして、
アボリジナルアートっていうものの市場価値を高める。
そうするとアボリジナルのそれを制作する作家たち、
コミュニティの人たちに現金収入が入るっていうシステムを
政府が結構主導して作っていくのが1970年代なんですね。
このときにちょっと質問なんですけど、
今の段階での勝手なイメージですよ。
アボリジナルアートはお土産物といいますか?
って考えるとアーティストというよりは職人さんっぽい気がするんですけど、
どうですか?この段階で。
そうなんですよ。だから長らく結構アボリジナルアート、
お土産としてやっぱり作られていた。
それは本当にもう現金収入としてという側面が多かったんですね。
なんですけど、それお土産じゃない、
やっぱりもっと市場価値が高いものを作ろうっていう動きが
やっぱり同時に出てくるんですね。
そこで政府が主導している組織の中に
アボリジナルアーティストボードみたいな、
アボリジナルアーティスト委員会みたいなものが作られるんですよ。
そこのメンバーは本当にアボリジナルの方たちが
ボードメンバーを務めて、
その人たちが結構主導して
アボリジナルアートを今まではプリミティブアートとして見られていた
自分たちの文化とか芸術を
現代のコンテンポラリーのアートとして市場に売り出していく
戦略的な政策、司法、方策を立てていくのが
結構ここのアボリジナルアーティストボードの人たちで
この人たちはですね、結構海外に向けて
アボリジナルアートの展覧会を結構組んで行っていたんですよ。
結構な数。
海外では特にヨーロッパがやっぱり多いんですか?
ヨーロッパとかアメリカが多かったと思います。
その時にちなみに日本にも来てたりしてたんですか?
来てないですね。
やっぱりその時は日本ではまだアボリジナルアートって言っても
まだピントは来てないんです。
70年代だったらってことなのか。
っていうところでアボリジナルアートの見方が変わってくるのが
転換点というか。
この時代なんですよ。
でもその時のボードメンバーたちっていうのは
ヨーロッパとかでも学んで帰ってきてるんですか?
当時のものではないんですか?
結構コミュニティの年長の人たちが多かったです。
その時のいわゆるアボリジナルアーティスト、第一世代の人たちは
どういうものを作ってたんですか?
第一世代と呼ばれるのが
いわゆる現代アボリジナルアートの始まり、起点と呼ばれるのが
1972年にタパニアトゥーラと呼ばれる
どちらかというとオーストラリアの西沢区に位置している
コミュニティというか、これも政府が作ったアボリジナルの居住区があるんですけど
そこの白人教師が
コミュニティの年長の男性たちに
小学校に壁画を描かないか?って声をかけるんですね。
その壁画っていうのはもちろん
コミュニティの人に伝わるドリーミングと呼ばれる
土地創造神話を図像化したものがあって
それを壁画に描きます。
その壁画が結構ヒットしたので
アボリジナルアートの始まり
コミュニティの年長者たちがもっと描きたいって言うんですよ。
そのヒットは誰にヒットする?
学校の子たちというわけじゃなくて
やっぱり外部の人が見に来て、これは面白いぞってのがあったってことですか?
それもあったと思いますし
コミュニティの中でも盛り上がった
もっと描きたいって年長者たちが言ったんですね。
やる側も楽しくなったんですね。
それをきっかけに
はじめは遺体だったんですけど
遺体に天然のオーカーと呼ばれる天然顔料で描いてたんですけど
次第にアクリル絵の具を使って
キャンバス画に描かないか?
それを売ろう!
コミュニティの外に売ろう!
っていう話になるんですよ。
それがいわゆる現代アボリジナルアートの始まりみたいな
教科書とかで勉強するんですけど
その時には作家名で出してるんですか?
そうです。
本当にアーティストとして一人立ちしていくわけですね。
そうです。
それがやっぱり外の世界の人たちに目に留まるわけですね。
今まではそこに描かれていた図像っていうのは
例えば砂絵だったり地面に描く砂絵だったり
運べないわけですね。
そうです。儀式の時に体に施す模様だったりで
本当に一時的その場にいないとそれが見れないっていう
それがアクリル絵の具でキャンバス画に描かれると
もう美術館に
飾れるし展覧会もできるしってことですね。
そうなんです。
ってなった時にもうやっぱり爆発的に人気が出るんですよ。
それはやっぱりヨーロッパを中心にってことですか?
そうです。
イギリスに限らないんですね?
イギリスに限らないです。
どちらかというとオーストラリア国内じゃなくって
国外ですごく人気になって
なんでオーストラリア国内でそれが人気にならなかったっていうと
やっぱり未だに彼らに向ける差別的な目線が強かった。
その当時はどうですか?
当時はです。
かつその時に
これってアボリジナルアートじゃないよね?
って言う人たちも多かったんですよ。
それは他のアボリジニが言うんですか?
違います。
国民アートですか?
はい。
アボリジナルアートって
いわゆる天然顔料で
壁画とか描かれる
あれがアボリジナルアートであって
これは偽のアボリジナルアートだって
言う人たちも多かったんですよ。
その議論って結構向こうでは
ずっと長くあって
これは本物のアボリジナルアートじゃないって
多分それが結構今もこういう風に
大引いて
アボリジナルアートはこれしか認めないっていう
見方はやっぱりあるのかなって
他国のような感じがしてるけど
日本もきっとそうでしょうね
アイヌの民族のイメージが僕らあって
アニメのアイヌはアイヌじゃないよって
アイヌじゃない人間が言ったりするじゃないですか
あんなのは違うって言うけど
本人たちにとっては別に
自分たちのアイデンティティをやってるんだな
っていうことなんでしょうね
単純に描く素材が違うだけ
用いる素材が違うだけであって
描いているのは同じもの
確かに
っていう認識だと思うんですね
でも内部では盛り上がらないけど
外部ではすごい盛り上がっていくと
外部から例えばヨーロッパから
もっとアボリジナルアート作ってよって
なっていくってことですか
そうなんですよ
結構外部からお客さんが来て
もっと欲しいっていう動きが出てきて
そうすると今度は国内が
それを見て
あれ?なんかアボリジナルアート盛り上がってるね
そりゃそうなりますね
ってなっていく
内部と外部の視点の違い
しばらくは美術館が
アボリジナルアートに
目をあまり向けてなかったんですよ
オーストラリアのところですね
というのはやっぱりアボリジナルアートは
民族学の対象であって
博物館にあるものだっていう認識が
結構根強かった
なんですけど
こんなに美術市場でアボリジナルアートが
倍々が活発化してきて
これはもうやっぱり美術として
評価しないとダメだろうって
思う人たちがどんどん増えるわけですよ
そこでオーストラリアの美術館が
何をするかっていうと
1980年代くらいから
美術館の中に
アボリジナルアートの専門分野を作るんです
ようやくできる
そうなんです
それまでのオーストラリアの美術館は
普通の油彩画とかそういうのだったんですか?
ヨーロッパ的な油彩画
当時の現代アーティストというのは
そういうものだったんですか?
アボリジナルじゃなくてっていう
いわゆる美術館は
モダンアートを展示する場として
そういうアーティストはいたってことなんですね
いわゆる当時の作家か彫刻家はいたってことですね
アボリジナルじゃなくて
それが主流だったけど
ようやく動き始める
そうです
オーストラリア美術っていう分野は
ずっとあったんですよ
オーストラリアに
でもそれはやっぱり
ヨーロッパの流れを組んだ美術を
オーストラリアが引き継いだっていうのが
オーストラリア美術でずっとあった
日本で言ったら明治の洋画みたいなもんですよね
別に黒田正輝がやってきたような
あれが主流になってるけど
一方でっていうことだった
なるほど
そうなんです
その前は美術館も
プリミティブアートっていうセクションを持ってる美術館は
あるにはあったんですよ
でもプリミティブアートとして彼らの美術を
現代アートじゃないんですね
そうです
もうかつてのものみたいなことなんです
そう
っていうのを
プリミティブアートをですね
例えばオーストラリアの国立美術館
キャンペラにあるんですけど
はじめプリミティブアートを
オセアニアアートに変えて
そしてそうようやく
アボリジナルアートっていう風に
名称を変えて
一回オセアニアアート自体変えたんですか?
あったんです
なるほど
っていう風にして
アボリジナルアートを一つの分野として
女性アーティストの視点
美術館が取り込むっていうのをですね
行い始めるのが
1987ぐらいなんですよ
結構ここ最近の話なんですよね
そうです
この時にはアボリジナルアートの
すごいアーティストみたいなの
国民的アーティストみたいなの
結構出てきたんだこの時には
いました
そういった人たちの作品を
美術館が最初に
収蔵し始めるっていうのが
80年代で
そうすると今度はですね
社会の動きとも連動して
アボリジナルアートの
キュレーターを
登用するわけですよ
その時にはやっぱり
先住民をバックグラウンドに持った
キュレーターを
登用し始めるんですね
っていう形で
美術館の中でのインフラ整備
アボリジナルアートを
現代美術として
取り込むインフラ整備を
し始めていくっていうのが
80年代から始まっていって
ようやく90年代ぐらいになると
専用のギャラリースペースとかを
美術館が持ち始める
っていうのが
本当に大きな
アボリジナルアートが
現代アボリジナル美術として
受け入れられていく
変遷っていうのが
こんな感じで
なるほど
これでようやく
アボリジナルアートについて
なんとなくわかったところで
今回展覧会の話に
ちょっと入れればなと思うんですけど
今回展覧会は彼女たちの方が
ついてるじゃないですか
今の段階70年代から
80年代90年代
ここはアボリジナルアーティストの中で
女性はどんな感じだったんですか
はじめはですね
作家として
女性たちは認められていなかった
こんなに言ってたアボリジナルアートが
盛り上がって
この中でもまだ分断というか
アボリジナルアートの中には
女性アーティストはいなかったんですか
最初は
はいそうです
パパニアトゥーラが
現代アボリジナルアートの起点って
先ほど言ったんですけど
そこには男性作家しかいませんでした
何が理由でなんですか
白人教師が
コミュニティの年長の男性に
壁画を描かないかって言ったのが
結構大きいきっかけになっていて
その時に動いていたのが
白人教師男性です
話しかけたのも
コミュニティの年長の男性です
アボリジナルのコミュニティはですね
もともと文化形態的に
女性と男性が
公にコミュニケーションを取るのが
タブーだったんですね
男性と女性はどちらも自立していて
儀式の時にも
女性の儀式と男性の儀式があって
それがお互いを補う
平等な関係だったんです
男性優位ってわけでもないんですね
そこに関しては
優位でもなく
本当に平等に独立していて
だけれども
それぞれが家族でない限り
公に話し合うとか
二人でどこか行くとか
っていうのもタブーだったんですね
なので外部から
白人の人たちが来る時っていうのは
往々にして
当時はやっぱり
男性の役所の人だったり
人類学者も男性が来る
ってなると
このコミュニティが対応する
カウンターパーソンは
男性が対応するしかないんですね
そうです
ってなると
男性で話が完結しちゃう構図が
出来上がってしまった
そのコミュニティの中にも
そもそも女性がいないんですね
そのやり取りしている中には
そうなんです
なので結構
人類学者って
アボリジナルアートを文脈化するのに
当時のすごく重要な役目を
負っていたんですけど
人類学者も男性でしたし
なので男性が行う
儀式とか男性の行動パターン
みたいなものを
すごく研究するんですね
そうすると
アボリジナルコミュニティは
男性が中心だ
みたいな言説も出来上がってしまう
取材してないからとしてないからですか
そうなんです
今度はそこにやっぱり
歴史的な
いわゆる女性別姿の目線というのは
もともと白人の人たちが
男性中心の社会で
持っていた
ってなると
アボリジナルコミュニティは
調査する対象ですよね
もともと自分たちより
劣っている存在だと見ていた
そこで今度はさらに
この男性に
従わざるを得なくなっている
女性たちっていう
さらなる
なんというか
実際そんなことないんだけど
ヨーロッパの当時の男性観が
入っちゃったんですね
そうなんです
なのでアボリジナルの女性たちっていうのは
調査の対象に
するべきじゃない
する必要もない
という風な人になっちゃった
かたたちになっちゃったんですね
コミュニティの中で
例えば男性は
槍とかブーメランとか
作っていて
それがあとは
図像も多くのコミュニティは
男性がずっと受け継いできてたんですよ
今度女性は
狩りにはいかないけれども
草とか小さい動物の
採取をする
そういう時には
草を集める小さいバスケットだったり
小さいカゴだったり
っていうのを作っていたんですけど
それもやっぱり
西洋の美術の価値観からすると
バスケット?小さい彫刻?
アボリジナルアートの変遷
これってクラフトだよね
やっぱり芸術としては
認められないよね
っていうバイアスも入ってきて
女性の立場が
もともと下に下げられていた
女性たちが
作るものもクラフトとして
見なされていた
構図が
出来上がってしまった
っていうのが
アボリジナルアートが始まった
時の
女性が出遅れちゃったわけじゃないんだけど
出遅れたようになっちゃったわけですね
そうです
どこから
変わるんですか?
たぶんこの後もその話が出ると思うんですけど
アボリジナルアーティストってパッと言われた時に
出てくるのはエミリー・ウンゴアレ
名前変わっちゃったので
その展覧会も見た覚えがあるので
僕が最初に出会った
アボリジナルアートは女性なんですけど
たぶんそれは
2010年代の話だったと思うんですが
どこから女性アーティストが出てくるんですか?
アボリジナルは
やっぱり1980年代
80年代後半ですね
アボリジナルの
キュレーターたちが
美術館に登用される
って先ほど
説明しましたが
その中にやっぱり
先住民のバックグラウンドを持っている
女性のキュレーターたちが
現場で活躍するのが
この時代なんですね
そうするとやっぱり
女性キュレーターが
何の展覧会をするかってなると
アボリジナリティの女性のアートに
フォーカスをした展覧会を
開催し始めるのが
この1980年代後半から
90年代になります
でもこの時には
さっきのアボリジナルアート
ヨーロッパ大ヒットみたいな
輸出はされてないんですよね
女性たちのアートっていうのは
ほとんどされてないですね
逆に言うと
アボリジナルのキュレーターたちが
こういうものはアートで
作ってるものはアートでやって
見出してきたってことなんですね
これは意味が外部じゃないんですね
それはやっぱり
世界的なフェミニズムの動き
っていうものと
何て言いますか
歩調が合っているって言うと
あれですけど
女性たちが作る芸術
それは西洋美術でもそうですし
やっぱり
問題提起して
その見方を変えていこう
っていう時期がやっぱりずっと西洋の中でも
ありましたよね
やっぱりその動きを
アボリジナルアートも
取り入れるって
訳じゃないですけど
あからさまにアボリジナルの女性作家たちが
価値が当たられていなかった
っていう現状があからさまにあった
その中でやっぱり
女性のキュレーターたちは
このアートをきちんと
芸術として
認めていくことをしなければいけない
っていうので
展覧会を通して
美術の再定義っていうのを
女性アーティストの台頭
積極的に行っていく
流れがありました
この時のアボリジナルアート
女性アートの第一世代
っていうのはどういう
この女性たちは
美術界で言うと
日本で言ったら
色々出していればいいわけです
そこから選んでいけばいい
ですけど
人族がそれぞれ好きに
自分たちで物を作っていて
どれを女性アーティストの作品だと
選んでいくかって
めっちゃむずくないですか?
コンペやったんですか?
これどうして決めていくんですか?
オーストラリアには
コミュニティに
アーツ&クラフトっていうセンターを
これも結構政府が主導しているんですけど
作るんですよ
そこに白人の
マネージャーとか
アドバイザーを
コミュニティに赴任させて
そこでコミュニティに
スタジオ付きの
販売
アウトレットを
作るんですね
リテールを
そこで作品を
このコミュニティはこういう作品を
作ってますっていう
一つの
物産店と言いますか
ビッグサイトで
見本市みたいな感じですか?
イメージ的に言うと
イメージで言うとそうかもしれない
っていうので
キュレーターが
コミュニティに行った時に
アートセンターにまず訪れる
そこでどういう作品が
このコミュニティはこういうのを
作ってるなっていうのがわかるわけです
わかるんですよ
そこでやっぱりすごい作品を
作ってる作家は
目がみんな止まって
この作品面白いから
この展覧会に入れようとか
この作品いいから
うちの美術館で買いたい
とかっていう動きで
結構コミュニティにある
アートセンターって呼ぶんですけど
そこがハブとして
エミリーの影響
そこからスカウトされてくるんですね
そうです
その時に女性作家も出してたんです
そういう場所には
それで
女性作家
90年代くらいから出てくるってことですか
女性さんは
そうですね
今回の展覧会は出展作家は
全部で7人でしたっけ
7人クラス1組
全部女性作家で
この後多分後半にも伸びて
ぜひ一人一人の作家掘り下げたいなと思うんですけど
現時点では男女比は
どんな感じなんですか?
そこは興味深い視点だと思うんですけど
私もちょっと調べられてはいなくて
どれくらいいるんでしょうね
男性作家もいることはもちろん
女性作家の方が
強いってわけでもないんです
でも
私が頭に
パッとアボリジナルのアーティストが
浮かぶ名前って
女性が多いんですよね
いつくらいから逆転現象が
起きたと思われますか?
やっぱり
エミリーが出てきたっていうのは
すごく大きいのかなと思っていて
もちろん日本でもエミリーの展覧会があったから
すごく人気なんですけど
やっぱり現地でも
エミリーの創作が始まった時くらいから
彼女ってすごい人気だったんですよ
いろんなアートディーラーが
個人が
エミリーのコミュニティに来て
注文が殺到するんですね
っていうのが彼女が
現存している時から起こっていて
それが
90年代の終わり
初めから後半くらいにかけて
なんですけど
あとはベネチア・ヴィエンナーレ
1997年の
ベネチア・ヴィエンナーレの
オーストラリア館代表に
初めて
先住民が選ばれるんですね
選ばれたのが女性3人
そん時にはもう女性しか
いないんですか?
女性が3人選ばれたんですよ
そういうところから
逆転現象も起きている
逆転という言い方も
女性たちがようやく認められて
男性と同じ土俵に
上がってきたっていうのが
それくらいで
そこから女性たちの
芸術っていうものが
すごく人気になってくるんでしょうね
それはやっぱり
女性たちの
創作の幅がやっぱり
すごい広いんですよ
男性はやっぱり
もともとコミュニティで
その図像がずっと
世代を越えて受け継がれてきた
自分たちのコミュニティの図像
っていうものを受け継ぐのが結構
男性が中心だった
それを次の世代に伝えなきゃいけない
責任があって
あまりそこに
個人的主張が入れられない
遊びができない
まず伝えることがメインだから
そこにアドリブなんか
入れようものなら
そりゃそうだ
でも女性はいわゆる
コミュニティの結構重要な
図像の継承っていうところが
もとあったんですけど
女性たちも女性たちなり継承するものは
あったんですけど
でももう少し自由度が高かった
なるほど
かつ
男性が作っているものは
どっちかというと絵画として
どんどん売り出されていたけど
女性はいろんな
ジャンルが広いんです
バスケットもあれば
ファブリックとかテキスタもある
ポタリとかも作っている
ポタリとかも作っている
ポタリとかも作っている
絵画だけじゃない
元々の表現方法が
広かった
なおさら今現代が
多様性って言ってるから
男子より女子の方が有利になります
なりますわなと思いました
今聞いてて
確かに今回の展覧会も本当に
多種多様なアートがありますもんね
ぜひ前半では
エミリーだけなるべく紹介しましょうか
改めて
僕らは知ってるから
当たり前にエミリー産まれって言ってましたけど
この人は初めて聞く人も多いと思うんで
しかも名前変わりましたよね
名前変わりましたよね
亡くなってる方だからあれですけど
今回は何という名前で紹介されているのか
エミリーカーマイングアリー
前は
エミリーウングアレイ
だったけど
エミリーカーマ
イングアリー
なんで名前が変わってしまったんですか
えっとですね
まず現地の方の名前は
とても複雑だ
というところが
発音ですね
発音が難しいというところが
やっぱりあって
現地の英語に
訳すのも
結構彼女に限らず
いろんな作家って
まずスペルが結構変わったり
スペルを
2つぐらい持ってる作家って結構多いんですよ
だから別にスペル表記してる
名前じゃないからってことですね
それこっちが勝手に合わせただけだから
向こうの言葉で使ったら
元々アブリジナルの人たちって
文字を持っていませんので
彼らの
名前を文字で
現地の文字で表すということも
なかったので
本当にそのまま発音を聞いて
英語にスペルに落とし込むしかなかった
という背景があります
さらにそれを日本語にしようもんだから
伝言ゲームの伝言ゲームで
おかしくなってくるんだ
だから翻訳アプリ2回ぐらい
挟んじゃってるみたいなもんですよね
そうですよね
今回のイングアリーになったことで
より近くなったってことですか?
現地の表現にとって
エミリーも
つい最近
テイトモダンで
エミリーの個展が開催していて
もしロンドンに行かれる機会がある方が
いたらぜひ
見に行ってほしいんですけど
大規模な個展なのか
テイトモダンもオーストラリアの作家
オーストラリアの全体ですよ
オーストラリアの個展は初めて
それがエミリーなんです
テイトモダンでやる
逆に言うと日本のが先にやってたんですか?
2017年の国立新美術館で
やってましたけど
ようやくイギリスは追いついて
イギリスが最初に
オーストラリアと組んでたくせに
遅いもんですが
2025年になって
やっと個展をするんですよ
そういうところで
去年
一昨年くらいに
オーストラリア国内でも
エミリーの個展が
十何年ぶりに開催されたんですね
そこで調査や研究が
進んで
エミリーのスペルが
このタイミングで変わったんですよ
そういうことなんですね
このタイミングで変わったので
この展覧会でも
現地の最新の調査結果が
反映したいなと思ったので
最新の
エミリーのスペルに
エミリー・カーメイングアリーの作品
一番合う日本語の
読みっていうのを
今回見つけました
アーティソンさんは
エミリーの作品持ってますよね
これまでは展示しているとき
今回の展覧会の前に
展示しているときのキャプションは
エミリーイングアリー
エミリーカーメイングアリー
として
エミリーの作品を展示していました
カーメが変わった
イングアリーはこれから変わるんですね
今後は
戻すかもしれない
いや、ちょっと
エミリーは変わらないんですね
エミリーって呼んでおけば間違いない
間違いないです
エミリーは
僕も薄い知識ですけど
元からやってたというよりは
途中からアーティストになった
タイプの人ですよね
何歳から作家になったんですか?
いわゆる
アクリル絵の具にカンバスに描くのは
1988年から
89年の
年をまたいだときぐらいなので
ごめんなさい、彼女はそのとき78歳ごろ
だったかな
亡くなるのも
90代?
亡くなるのが86歳ぐらい
アーティストの期間は短いんですか?
8年
8年だけど作品数は結構あるんですか?
3000点以上あります
すごい働きましたね
最後の数年間
はい
コレクションの
数千点のうち
ほとんどやっぱりオーストラリアにあるんですか?
それでも結構回ってて
ヨーロッパにもあるし
アーティストの方も持ってるし
世界中が今
エミリーの作品を持ってると思います
さらに今回の
テイトの行うことによって
さらに評価が高まるんですか?
はい
絶対まず覚えておいた方がいい
今回展覧会では何点?
エミリーの作品は
11点
今回の作品は11点
その中でもぜひこの作品は見てほしい
ここのエミリーのコーナーでは
これを見てほしいというのが
こだわりがあればぜひ
今回1点だけ
カンバスじゃない作品を展示してます
それはバティックと呼ばれる
ロウケツゾメ
ロウケツゾメって日本語では言うと思うんですけど
シルクを素材に
作られてるんですけど
このバティックを1点展示してます
それはですね
エミリーがカンバス画を描き始める前に
実は10年くらい
絵画のキャリアよりも
実は長い期間
バティックを作ってたんですよ
プライベートでと
じゃなくて
やっぱりそれも
1977年からエミリーはバティックを作るんですけど
その時にやっぱり
コミュニティに
女性の
教育プログラムとして
白人の人が
エミリーのコミュニティに来て
何かスキルを
学ばせるというプログラムを
組むんですね
その中の1つがこのバティックだったんですよ
それで
エミリーは初期メンバーとして
このバティックの製作に
参加をして
その翌年には
ユートピアウィメンズバティックグループ
というのが結成されて
商業的に
バティックの製作と
販売を行うんですね
という活動が
実はエミリーの
絵画としての活動の前に
あった
初期というか
エミリーのスタート地点
それが今回
出展されているということなんですね
ただ
ここでバティックが
彼女のアーティストとしての
出発点かというと
それもそうではなくて
アボリジナルのコミュニティは
ずっと世代を超えて
物語とか
交渉で伝わってきて
そこにはダンスとか
儀式があって
そこには
物語を伝える
図像がもともとあって
儀式を踊るときには
女性たちも
体に装飾をする
ボディーペインティングを
もともとするというのがあるので
エミリーが描く
図像も
そういうものに由来をしています
伝統的な図像
自発的に生まれたものじゃなくて
ということなんですね
逆に言うとそこから
どんどんエミリーが
アーティストとしての自我が
展覧会の詳細
出てくるのがわかると思うんですね
比べていくと
そこはこだわりというか
展示の見どころ
今回の展覧会にはさらに
さっきも言いましたけど
他に6人のアーティスト
1組のアートがあるということで
ではこれは
後半にたっぷり聞かせていただきたいな
ということで
改めて展覧会の企画の
お話をよろしくお願いいたします
アーティゾン美術館で現在開催中です
彼女たちの
アボリジナルアート
オーストラリア現代美術
9月21日の日曜日まで
開催しております
企画中何かトークとかもあると
9月19日の金曜日
夜の
6時半から
7時半まで
私のギャラリートークがありますので
皆さんぜひ
植田さんに会えるんですね
そうですね
植田さんに会いたい方
これは普通に来ちゃえばいいんですか
チケットで
入場していただければ
ギャラリートーク自体は無料で
ぜひぜひ
皆さん19日金曜日だそうです
ということで後半もどうぞ
よろしくお願いいたします
次回も植田さんをゲストに
トークを続けていきたいと思います
59:56

コメント

スクロール