00:00
♪
はい、アートテラートニーのそろそろ美術の話を
この番組は私アートテラートニーがアートに関わる方をゲストにお迎えして
トークを繰り広げるポッドキャスト番組です
本日は高村屋サロン美術館学芸員大田美希子さんをゲストにトークをしていきたいと思います
♪
よろしくお願いします
ちょこちょこお会いしてますので
今さっき始まる前に言ったのが
8年くらいなんですね、知り合って
たまにどこかで出会うこともありません?
ありますよね
で、なかなか最近お会いできてなくて
この前久々に高村屋サロン美術館に行ったら
何か覚えてますか?ぐらいに言われて
私のこと覚えてますか?ぐらいに言われて
忘れられてるかなと思って
そんなに記憶力はあやふやないので大丈夫です
ちゃんと覚える
その時にぜひこの番組に出演していただきたいということで
開学いただきまして
今回来ていただきましたので
よろしくお願いいたします
ということで
中村屋サロン美術館ってことなんですけども
僕は何度も言ってますけども
初めましての方も多分いらっしゃると思うんで
まずは中村屋サロン美術館について
教えていただけたらなと思うんですけども
母体は中華舞や月兵、狩りで知られている
中村屋です
新宿中村屋とですね
中村屋には創業者を中心に
芸術家や文化人が集まったという歴史があるんですね
その集まりが中村屋サロンというふうに
呼ばれていたんです
中村屋サロン美術館という名前は
そこから来ています
その集まった時代でいうといつぐらいになるんですか?
昭和初期ぐらいまでですね
明治末期から昭和初期ぐらいまでの間に
主に集まっていました
これは美術史に名前として残ってますもんね
そうなんです
東京国立近代美術館の展覧会でも
中村屋サロンも一人で見たら
小企画とかありましたもんね
だから実はそれだけすごい中村屋サロンなんですが
この美術館自体は2014年に開館?
はい、2014年の10月に
新宿中村屋ビルがリニューアルオープンしまして
その時に3階に美術館が設置されました
すごい駅地下の美術館ですね
駅地下です
地下鉄だと
今は地下鉄じゃないですね
メトロですね
別にそこは地下鉄でも問題ないですけど
メトロで行くと雨にも濡れずに
そのまま地下から上がってこられますので
しかもそのまま中村屋のレストランにも行けるんですか?
レストランにも行かれるし
もう絶好の場所です
結構安いですよね
しかも入館料も
入館料ね安いんですよ
コレクション店は300円で
03:01
今企画店が500円をいただいてますね
しかもチケットを買うと
レストランの割引券みたいなのももらえるんですよね
漏れなく
漏れなく
お得です
お得なビジネス
中村屋サロンについて改めて聞いていきたいと思うんですけども
中村屋サロンっていうのは誰が母体というか
何だろう
指示を作ったのか?
中村屋の創業者の相馬愛情をコッコー塞い
中村ファンではないんですね
そうなんですよ
そこはわりと
皆さん不思議に思われるところで
相馬なのに何で中村屋なんだっていう
これ何でなんで?
そこ聞きたいですか?
聞きたいです
教えないって言うのはないですけど
コッコーによっといて
ぜひ教えてください
相馬が出身は穂高なんですね
中村県の
じゃあ相馬さんの経歴というか
そこから順番にお話しましょうか
その方がわかりやすいかと思うんで
ぜひぜひ
創業者の相馬愛情というのは
1870年に生まれています
長野県安住市の穂高というところなんですけれども
愛情は東京専門学校
現在の早稲田大学を出ている人なんで
勉学は東京で学んでいたと
聞く話によると
数学はすごく得意だったんだけれども
英語が苦手だったんだよっていう話は
ちょっと聞いたことがありますね
ちょうど東京専門学校にいた頃に
キリスト教に影響を受けまして
このキリスト教を
卒業後穂高に変えるんですけれども
その教えに基づいた
東穂高菌酒会というのを設立
菌酒
お酒を菌酢
そうなんです
そういった運動を
仲間とともに地元で行ったりして
早稲田の前身というか東京に来たんだけど
一回戻るんですね
そうですね
卒業後
故郷に戻っています
そういった活動をしながら
食べていかなきゃいけないのでね
いろんな事業をやるんですけども
主なものとしては
養産
カイコとですね
カイコ
そこで
養産家として活動をしています
かなり研究をして
研究書も出しているぐらいなんですよ
すごいんです
研究熱心で
そういった研究書っていうのは
日本の養産家からもすごく評価されていて
外から勉強に来るぐらい
でも養産というと
この前青天をつけとかやってた
埼玉とか
いろんなところでやってるイメージありましたけど
安住野も結構
06:00
安住野
どう
元々そういう場所ではなかったけど
やっぱり相馬さんが
結構個人的に頑張った
相馬さんが頑張った
どうなんでしょうね
その頃は
ちょっとその辺りは分からないですけれども
他の養産家が認めるぐらいの人になっていた
北海道まで行って
養産を学んで
それで帰ってきているので
元々はあまり
他の方ではやってなかったのかも
可能性がありますよね
そういう勉強熱心なところがある人だったんです
片家その奥さんの個々はというと
黒い光とかってことですか?
黒い光
それが本名じゃないんです
本名は保守良
もともと結婚する前は
保守様の保守ですね
保守良という名前で
宣大に生まれてるんです
宮城県の
宮城県の宣大藩市に
仕える私族のお嬢さんだった
保守良って
神奈川の人の名前ですよね
そうですよね
そうなんです
そうですよね
そういう
じゃあ 高尚さんは
画傲というかペンネーム的な
そうなんです
執筆活動していた頃のペンネームで
女学雑誌に執筆したりしてたんですけれども
そこの編集長から
あなたの才能は光り輝いていると
それを黒く隠しなさいって
出過ぎてるぞみたいな
そういう意味で付けてくれて
国公自身もこの名前がすごく気に入ったそうで
これを生涯国公を使って
でも結婚する前では保守国公さん
結婚してから付いてるんですか
国公の名前は結婚してからですね
はい
そうです
それ以来保守良という名前ではなくて
国公という名前を使っている
結婚したってことは仙台出身だけど
安住野に行ったってことですか
そうなんですよ
国公が藍蔵の元に
訪いだのが1897年
藍蔵が26歳で国公が21歳の時だったんですね
当時国公はすごく
勉学心が 向上心がすごく強い人で
学校も宮城女学校 フェリスエイワ女学院
明治女学校3つも通っているんです
それぐらいで文学少女だったんですよね
その文学少女で
特にこの『ワード・ワースの田園』という作品がすごく好きで
密かに田舎暮らしというものに憧れを持っていた
なるほど
すごくいいものだと思ってたんですよね
それで友人の紹介で結婚することになったんですけれども
09:06
安住野だということで
田舎暮らしができるって
すごく理想の生活ができるって
喜んでおそらく突入だったと思うんです
ですけれども
やっぱり理想と現実って違いますよね
田舎暮らしってやっぱり不便なので
すごく辛いんですね
それで体調を崩してしまうわけなんです
普通逆な感じしません?
都心で疲れた人が田舎に行って
元気になったみたいな話は聞くじゃないですか
逆なんですね
逆だったんですね
やっぱりその家の嫁として生きていくのは
結構大変だったんだと思うんです
でもそんなこと言ったら
ちょっと時代錯誤なこと言っちゃうかもしれない
この当時はだったら
リエンというかってなりそうなもんだけど
ならなかったわけです
安住さんが「じゃあ都心に行こう」ってなるんですか?
そうですね
きっかけが国公が体調を崩して
入院したのが東京の病院だったんです
なるほど
東京の病院で国公が元気を取り戻して
国公のためには
きっと都会の方がいいだろうという話になりまして
安住も「じゃあ」っていうことで決心して
東京に出てこよう
でもとなったら
さっきまで成功したようさんの仕事は
別に東京ではできないというか
また一からやることになる
家はそのままで
その時やっぱり引き止められたらしいんですよ
出て行かないでくれと
家が大変になるからと
でも決心は固く
子供がその当時3人いたんですね
長女の敏子という
長女を残すと
何歳ぐらいの時ですか?
まだ小学生と言っても
子供ですよね
そうですね
何歳だろう
残してた時に何の意味があるかと言ったら
あれかもしれないですけど
人質みたいな
人質ですね
言うなれば人質ですね
戦国時代みたいな話ですよね
子供だけ残していた時に
長女を残し
あとは家業が忙しい時期っていうのが
やっぱりあって
その時は愛情が戻ってくるからと
そういう約束をして
戻ってくる
それが1901年のことなんです
結婚して4年後ってことですね
この1901年の12月30日に
とうとうこのパン屋の
中村屋が開業することになるわけなんですけど
年末の暮れも12月30日
これじゃあいまだに中村屋の創業日って
12月30日でしょ?
とんでもない日に創業しました
12:02
社員の皆さんも大変ですよね
年末休み取り
もうちょい待ちゃいよかって
そうなんですよね
毎年この時期になると
なんで12月30日にしたんだろうっていう話が
声が出てるんですけど
聞いたことないですよね
会社で12月30日
そうなんです
じゃあそこで創業する
そうなんです
またその創業に至った経緯っていうのも
ちょっと面白いんですけれども
最初はミルクホールを
何か事業をやる
やっぱり生活していくのに
何かやらなきゃいけないということで
何をやろうって考えた時に
当時の先端のミルクホールはどうだろうか
って話になって
喫茶店のような
だけれども
何か走行しているうちに
近所に開店してしまうとか
じゃあ次どうしようかって考えた時に
当時なんかの
ハイカラな人たちが食べていたパン
っていうものに注目して
パンってどうだろうねっていうことで
それが物になるかどうかっていう
実験を始めるんですよ
そういうのがやっぱ好きなんですね
熱からの研究が好きなんです
毎日毎日パン屋さんに通って
それでパンってちゃんと
日本の食卓に根付くかどうかっていう調査をして
でもパンは作られているものなので
料理しなくていいんですよね
なので忙しい時もすぐ食べられるし
お客さんが急に来ても振る舞えるし
なるほど
これはいいっていうので
じゃあパン屋をやろうってなった
でパン屋をやろうってなった時に
どうしようか
市から作るのってすごく大変ですよね
パン屋さんを
パン屋さんをまず場所を決めて
建物を建てて機械揃えて
パンを作る人を探してっていう
でそれがちょっとなかなか難しいだろう
っていうことで考えたのが
パン屋をイヌキで買い取ることだった
なるほどなるほど
もしかしてそれが中村屋さんだったんですか
っていうのがあったんですか
あったんです
で自分たちがずっと通ったパン屋さんが
新聞広告をどうやら出したらしくて
パン屋をイヌキで売ってくれるところ
ありませんかっていうような
新聞広告を出したんです
でなんか2件ぐらい申し出があったらしいんですけれども
そのうちの1件が自分たちが長く通ったパン屋さんだと
それが中村屋さんだった
そういうことなんですね
そのまま引き継いで
だから外から見たら
パン屋も中村屋のまんまだった
すごい繁盛店だったらしいでしょ
でいっぱいお客様もついていたので
名前はそのまま残そうと
従業員もそのまんま
15:00
逆になんでその中村屋さん辞めちゃったのか
気になってきました
そうですよね
その子孫の方とか今どういう思いで
中村屋のビルとか見てるんですか
もしあの時に言い抜きにしなければみたいな
なんか問題点が2つあったらしいんですよ
で一番の大きな理由は
なんか米の相場に手を出してしまって
失敗してしまったっていう
なるほどなるほど
パン屋なのに
気にくな話ですね
そうなんです
でもう一つはあんまり従業員を
大事にしてなかったという
よかったですね
なるほどなるほど
そういうことがあって
中村さんはパン屋はできなくなってしまったんだけれども
その後相馬が買い取って
そのまま引き継ぐと
外側から見たら
オーナーだけが入れ替わっただけっていう
そういう形ですね
じゃあ最初は小さなパン屋だったってことですね
普通のパン屋さんだった
東大の前、正門前にあったパン屋さん
じゃあ東大生たちも通ってたんですかね
通ってたんですよ
当時の人たちは
そこからどうしてこんな大企業になるというか
何があったらこんな気がするんですか
すごく繁盛しまして
商売うまかったんですね
相馬府対は
とても繁盛して
その後に新宿にまず試点を出すんです
新宿の方が後なんですね
ってことですね
そうなんです
最初にお祝けのあたりに試点を出して
それが1907年ですね
お祝けに試点を出しました
今の新宿中村への場所に来たのが1909年のことです
じゃあもう100年以上経ってるんですね
今の場所に来て
今新宿は本店になる
本店です
当然東大前のもん今ない?
もうないです
じゃあ出た
今ちょっと手元の仕様で
クリームパンを日本で初めて販売したのは中村屋さん
そうなんです
クリームパンは中村屋発祥ですね
あまり知られてないんですけど
アンパンが木村屋とかはあるけど
クリームパンの発祥は中村屋と意外と知らない
中村屋はなかなか知らないですよね
これなんでクリームパンができた?
相蔵がシュークリームを食べたことがきっかけらしいですね
シュークリームは先にあったんですね
あったんでしょうね
外国のお菓子ですもんね
シュークリームを食べて
よっぽどすごく美味しかった
これをパンの中に入れたらどうかということで
クリームパンをあんこの代わりにクリームを入れて
それがヒットした
へー
それでどんどん拡大していって
そのお金でサロンに繋がっていくということですか?
18:01
そうですね
中村屋サロンができたのが
中村屋が新宿に来てからなんですけれども
それに大きく関わっている人物が
彫刻家の小木原守江なんです
六山と呼ばれている彫刻家なんですね
中村屋サロンについてお話ししましょうか
はい
ぜひぜひ
中村屋サロンはとよく聞かれるんですけれども
明治末期から昭和初期にかけて
芸術文化人が東京の新宿中村屋に集まった
その事象だよっていう話をしてるんですけれども
その中心人物は
相馬家もそうなんですけれども
彫刻家の小木原守江
小木原が同じ哀悼と同じ出身地だったんです
安住野の穂高というところで
もう10代の頃から相馬祭と親しく
現地でというか
現地で 安住野で
そうなんです
相馬家には
国公が嫁入り道具で持ってきた絵が
油彩画があったんですよね
油絵
当時やっぱり油絵って
ヨーロッパの画材で描かれたものなんで
普通の人が気軽に見られるもんではなかった
すごく貴重なもので
その油彩画を描かれているのを見て
ものすごい衝撃を受けるわけです
日本しか知らない日本人が
油彩画の描かれたものを見ると
こんな風に描けるんだ
びっくりする
またまさにそれですよね
ちなみにその油彩画は誰が描いたのか
永尾木太郎という人が描いた
日本人の作家が描いたものを見て
風景画なんですけれども
ちょっとこう
どういうどちらかというと
バルビゾン派の日光
未礼っぽいようなものを想像させるような
亀戸風景という
亀戸なんですけど
牛がいたりして
そういう風景画なんです
それ見てもう感銘を受けちゃって
感銘を受けて
もう少年ながらに
絶対に画家になるぞっていう決意をした
もともと画家になるつもりだったんですか
画家になるつもりで
永原文家はいたんですね
で
外国にももちろん
ニューヨークとパリに留学するわけなんですけれども
中村屋サロンができたそのきっかけは
永原がパリから戻った年からなんです
パリから戻って
じゃあ安住野じゃなくて
新宿というか東京に来たんですよね
そうなんです
1908年のことなんですけれども
留学先で
最初は画家になるつもりで
海外に留学するんですね
でニューヨークにいて
ニューヨークで働きながら勉強して
その資金でパリに行くわけです
21:02
でそれが2回行われたんですけれども
ニューヨーク行ってパリ行って
ニューヨーク行ってパリ行って
でその時の2回目
1回目のもう資金が尽きて
ニューヨークに戻ろうとしていた安明
見たのがロダンの考える人
サロンに出品されていて
それを見たら
サロンに出品されて
だから発表した時の考える人を見てるってことですか
美術館に入ってるじゃなくて
でそれを見て
今度彫刻に浸水するわけです
彫刻というものはロダンにって言った方が
可能ではないと思うんですけど
ロダンの考える人
これはすごい
俺は彫刻家になるぞ
ということで
1回ニューヨークに戻るんですね
で戻ってまた資金を貯めて
またパリに行くんですけれども
その時には
もう今度は彫刻の勉強をする
ちなみにニューヨークに戻る時
ニューヨークでは別に勉強してるわけじゃなくて
お金を稼ぐためにいるから
美術学校に通ってました
その時は1回目は
画家と思って行ってるわけですよね
2回目のニューヨーク時代は
彫刻家を目指してましたね
主にデッサンなんかをたくさんやらせられるので
デッサン中心に勉強していて
パリに来て
同じアカデミージュリアンというところで
学んでたんですけれども
2回目は彫刻家の方に入りまして
人体デッサンももちろんしますけれども
彫刻を作る
ロダンに会えたんですか?
会えて
ロダンにも会いに行って
ロダンからも直接教えを受けたりして
そんなにしょっちゅう行ってたわけではない
みたいなんですけれども
ロダンも小木原のことは認めてたらしい
でも彫刻家にも完全モードとしてなって
日本に戻ってきたんですか?
日本に戻ってからは
彫刻家としての活動を始めた
それが1908年
これ前からすごい疑問だったのに
今更小木原、森江ってなったり
六山ってなったりするじゃないですか
これなんでこの人だけいつもこう
六山は画豪的な感じですよね
画豪を使っている人は画豪で通すのに
なんで小木原、森江だけ
たまに表記売れじゃないけど
森江(六山)ってなったりとか
そうですね
この六山っていうのが
またこれも面白くて
パリ時代、パリにいる時に
ちょうどその時期
夏目漱石が200刀家っていうのを
連載というか発表したんですね
それを読んで
すごく感動して面白くて
その小説が大好きだったそうなんです
その当時2回目の
24:00
パリの滞在の時だったんですけれども
ちょうどその時に
中村屋サロンの芸術家の一人として
数えられる斉藤頼という画家がいるんですが
その斉藤頼と同じ時期に
アカデミー・ジュリアンに同じ一緒に通ってまして
すごく仲良くなるんですけれども
2人ともその小説が好きだったんです
それでその200刀家の主人公の
青年2人いるんですけれども
その青年がKさんとロックさんっていう
Kさんはロックさんだったんですか
まさかロックさん
そうなんですその2人はふざけて
お互いをKさんとロックさんって呼び合ってたんです
危ないデカが好きだったら
ユージタカって言われた感じなんでしょ
そうですねそういう
じゃあ斉藤頼がKさん側だった
Kさんだったんですね
ロックさんと呼ばれていたロックさん
それがロクザン
そういうことなんですね
頼は別にKさん名乗らなかったけど
頼はKさん名乗りませんでしたね
ロクザンはそれを画号にして
そうですね
なんでみんなカタクナに
その森江本廟の方で行っちゃったりするの
他がなんかすごい
そうですねどうなんでしょうね
私もわからないです
アズミノにあるのはロクザン美術館ですよね
そうですねロクザン美術館ですけど
織原森江って言ってますよねロクザン
なんか不思議だなと思う
他の画家とか芸術家の場合って
もう画号が通ったらそっちで行くのに
やっぱりそのロクザンっていう
変な名前だからというか
なんかあれだからなのかな
なんだろう普通の画号なんですけど
なんか相性のようなものなんじゃないかな
カタクナって意味で
アダラティックニックネーム的な感じで使ってるんだ
でもロクザンで通じますからね
でもじゃあ森江って言ったらロクザン
ロクザンって
じゃあちょっと話戻すと
でその帰ってきて新宿にっていうのは
やっぱり当然その相馬夫妻のいるから
新宿に来たって感じですね
そうですねそれもあったと思います
あの今の新宿の西口にある
工学院大学があるあたりに
アトリエを作るんです
戻ってきてから
でそうすると歩いて行ける距離なんで
午前中は彫刻を制作して
午後はテクテク歩いて
中村屋にやってきて
もう毎日のようにそれが日課のように来て
で相馬夫妻の子供の面倒を見たりですとか
あと店番
国公が店番してたんですけど
店番徹だったり
なんかあんこ詰めをやったっていう
あれも残ってきて
中華版だから限定だからもしかしたら
もなかなんですかね
あんこ詰めやってたらしいですよ
あのロクザンが詰めたあんこ
あんこ詰めたもなか食べてみたいですけど
27:00
そういう感じで家族ぐるみというか
家族は当然でした
でやっぱりね
ロクザンってすごくあのいい方で優しい方で
包容力も多分あったと思うんです
自然と仲間が集まってくるような
みんなロクザン好きだったんですね
尊敬してたし大好きだったんですね
なのでニューヨークの時代に
知り合った芸術館の友達
それからパリに行って知り合った友達
そういった人たちがロクザン帰国すると
それ前後して
みんな帰国してくるわけなんですけど
そうすると遊びに来るわけですよ
アトリエに行くんだけど
アトリエにいないと
中村屋だっていうので
みんな中村屋に集まるようになって
その集まった芸術家を
ソウマッサイがもう入らない入らない入らないよって
みんなを迎え入れて
自然と芸術家が集まる場になった
じゃあ別にそもそも2人が
中村屋サロン作るぞっていうよりは
自然形成されてきた感じなんですか
だから中村屋サロンっていうのも
当時の名前ではなくて
その後に言われた言葉なんです
ああいう状態を中村屋サロンと呼ぼうみたいな
決まった感じがあった
サロンってヨーロッパフランスとかの
貴族なんかが
大体が白尺夫人とか
紅尺夫人みたいな女性がね
自分時間もあるしお金もあるんで
サロンに自分の今に芸術家を呼んで
話をしたりっていう
そのサロンっていうのが
17世紀の終わりとかあったんですけれども
そういう国公という女主人が中村屋にいて
若き芸術家たちが集まってっていう
その状況がね
まるでヨーロッパのサロンみたいじゃない
っていうことで
中村屋サロンって呼ばれた
中村屋サロンに関わる芸術家っていうと
大体何人くらいと考えてるんですか?
そうですね
まずは彫刻家としては
小木原守絵が挙げられますし
それから
戸張子安、中原定次郎なんていう彫刻家がいます
あとは堀新二ですね
画家といえば高村幸太郎
高村幸太郎は彫刻もやってますけどね
高村幸運の息子
知恵故障の
それから柳恵介、斉藤頼
それから忘れちゃいけないのが中村常
字が難しい人ですよね
中村常にしか使ったことがない字ですよね
書けないですよね
読める程度
そうなんです
常とか
あとは書家の藍津泰一
あとは中村屋のロゴを記号してくれた中村不設
中村さんが中村常だとか中村不設とか
たまたまですか?
これはたまたまなんです
紛らわしくて
皆さん中村常は中村屋の人なんですか?とか
30:01
そういう質問が
やっぱりたまにありますね
でも偶然です
そうなんですね
でも僕は何度か伺ってからですけど
中村常とロマンスがあるんですよね
そうなんです
相馬臭いの娘さんでしたっけ
そうなんです
中村常は中村屋に住んでたことがありまして
その間に相馬家の長女の
戸志子の絵をたくさん描くんですけれども
そこにロマンスが2人に生まれ
常は戸志子と結婚したいという申し出をするわけなんですね
なんですけれども
結局それは叶わなかったという比例があります
その戸志子さんが後に
可憐に繋がっていくんですよね
ラスビハリーボースという
当時のインドの革命家ですね
ボースが中村屋に囲まれていたと
イギリス政府から逃れるために
亡命してきて
その隠れ先が最初中村屋だったんです
それは何で隠れ先?
その繋がりがあったんですか?
当時中村屋には結構外国人の出入りがあったんですね
ロシア人のエロ宣告を済ませてたりですとか
中村常が書いて重要文化財になっている
エロ宣告のゾーンがある
それで外国人も来るので
ボースがいてもそんなに目立たないんじゃないか
他のところに外国人いたら怪しいぞってなるけど
他にいるよりは目立たないんじゃないかということで
どうやらそういう依頼が来たみたいな
やっぱり助けるためだったらということで
正義感強いんで
そうマッサーリどうぞうちに
当時英語が女学校に通ってた
トシコが英語もできたんで
中村屋にいて
中村屋で危ないぞってなると
隠れ家を転々としてたんですけれども
その連絡役をしたのがトシコだった
中村常と破局というか
あとですね
そういうことで中で結婚することになった
トシコはラスビハリボースと結婚する
ということで
ボースも自分が自由な身になってからも
中村屋にいて
トシコの方が早く亡くなってしまうんですけれども
その後もずっと中村屋にいて
役員にまでなって
その時に中村屋が喫茶堂を作る時に
日本のカレーはイギリスから来たものなんですかね
いわゆる小麦粉を使って作るカレーだったんですけれども
33:01
カレーはそういうもんじゃないっていうね
やっぱりインドのカレー
インドのカレーがそういうんじゃないんだよっていうことで
インドカレーのレシピを中村屋に伝授して
中村屋でインド式のカレーが
日本で初めて出ることになった
これが何年くらいになるんですか
何年だったかな
昭和2年
喫茶分ができた時、年なんですよね
だからあれなんですよね
恋と革命の味でしたね
そうなんです
今もそれを歌っているんですけど
恋と革命の味
ロマンスと
だからインドカレーが日本にあるのも
もしかしたら中村さんがなかったら
なかったかもしれないですね
中村屋、そうですね
ボースがかくまわれなかったら
一つ何かが欠けても
もしかしたら中村屋のインド式カレーは
なかったかもしれないです
しかもさっきチラッと出てたエロシェンコさんが
あれですよね
ボロシチを教えたみたいな
そうですね
エロシェンコが中村屋に住まわっていた
ということもあって
ボロシチが生まれ
そうですね
ピロシキも
ピロシキも生まれたんだ
喫茶分の衣装が
ルパシカの衣装だったんです
喫茶分で着ていた当時
それもルパシカ
中村屋さんとかいろんなのが
そうなんです
あとは六山の代表作の女の像
女の像
重要文化財になってますね
六山の最後の作品なんですけれども
この女性像
モデルが実はいて
岡田みどりさんという
当時有名だったモデルらしいんですけども
これは美術のモデルとして
そうですね
その方をモデルに作ったものなんですけれども
顔が国公にそっくりだということで
国公自身もそれを見た時に
あ、私だって感じたという風に
それも書いてあります
書いてありますし
子どもたちも見たら
母さんだって言った
それはやっぱりあったんですか
そこもロマンス的なもん
そうですね
小木原は国公のことをものすごく慕っていまして
恋心を持っていたっていうのもありますね
なのでたぶん心にいつも国公がいたんだと思います
じゃあそれはだから
岡田みどりさんを作ってるのに出ちゃった
出ちゃったんじゃないかなと
一番悲しいのは岡田みどりさんですよね
モデルにもなった
そうなりますかね
やっぱりモデルが必要ですもんね
36:01
でもそれもやっぱり重要文化だが
エロシエンコの像とかも
それも中村家さんがなかったら
生まれてなかったということですか
そうですね
エロシエンコに関しては
常が中村家を出てからのことで
その後に下地にアトリエを構えて
そこにも最後までいるわけなんですけれども
そこにエロシエンコを呼んで
常とあと鶴田五郎っていう
常をすごく親水していた画家がいるんですけれども
その二人で一緒に描いて
でもその当時っていうのは
エロシエンコは中村家に住んでいた時期だったので
てっきり私も最初中村家から紹介されたとか
そういう行き立つがあったのかなと思ったんですけど
どうやら違うらしくて
鶴田五郎がエロシエンコを見かけて
スカウトしたらしいんです
モデルになっていただけませんか
それでモデルをすることになりました
でも常の作品は重要文化財になってますし
鶴田五郎のはなったんですか
鶴田五郎のは今中村屋サロン美術館にあるんですけれども
それも賞を取りました
中村屋サロンで生まれた美術作品を
いろんな芸術家が作ってくれます
これは中村屋にそのまま所蔵されたというか
中村の元に行ったものなんですか
戦争がありまして
中村屋自体もすごい打撃を受けて
焼けたりしたんですね
当時持ってた作品が結構焼けてしまって
戦後買い集めたものを
今残っているのは買い集めたもの
どっか行っちゃったよ
買い集めて中村屋の所蔵になって
でも美術館ができたのは8年前ってこと
それまでは見せる機会はなかった
見せる機会はほとんどなかったですね
他の美術館から貸してくださいっていう
依頼はあって貸し出しはしていたようですけれども
じゃあこの新しいビルができるタイミングで
持っているものを見せようとして
美術館ができたってことなんですか
コレクションとしては何点くらい
そうですね
中村屋サロンの芸術家
そうでない芸術家ももちろんいますので
そうですね100点くらいですかね
常時見せられるものを
版画もあるんで
版画とか
そうですね
それくらいですかね
年間、常設展もやってたり
企画展もやってますけど
年間で言うとどれくらい展覧会やってるんですか
大体大きく4つに分けてまして
コレクション展が2回
企画展が2回っていうような感じです
この企画展の話もちょっと聞いてみたいなと思うんですけども
39:00
中村屋さんでちょっと特殊なというか
他の美術館ではやってない展覧会がやってますもんね
そうなんです
アーティストリレー
アーティストリレー
これはどういう展覧会ですか
アーティストリレーは
先ほどしたような
歴史
美術的な歴史が中村屋にはありますので
それを踏まえて
原盗作家さんを支援しようという
趣旨の展覧会で
2018年から始まっています
2018年から毎年春に開催します
今年もあるので
今年は第5回
これが始まっている状態ですね
この配信時から
そうですね
支援するだけだったら
他の美術館でもやってそうですけど
ここの特徴がリレーってとこですよね
そうなんです
それがもうこれはね
形式としてはリレー
しかも作家さんが
指名した作家さんが
次の年に展示するっていう
他ではやってないような
企画なんですけれども
『ビートモデラスター』
テレフォンショッキング形式ですよね
そうなんですよね
たまたま新宿の繋がり
もうこれも右よ曲折というか
これに決めるまで結構悩みまして
もともとこの美術館が設置されて
私が呼ばれた時に
私のミッションの一つだったんですよ
この支援をする展覧会をやるっていうのは
ただ人数が少ないんですよね
ここの美術館
その当時私は学年一人しかいませんでしたし
スタッフも一人で
アルバイトさんがいてっていう状況で
企画展をやって
コレクション展を展示して
それプラス現存作家の展覧会って
もう無理だなと思いながら
だけどやらなきゃいけないと
やるっていうことで
美術館を作っているっていうことで
どういうことが中村屋でできるかな
この人数でこの小さいスペースで
っていうふうに考えて考えて悩んで悩んで
私がもう本当に頭を悩ませている時に
事務スタッフが慰めたことをくれたんですよ
悩みすぎてて
そこから閃いて
まず現存作家さんって
誰を展示するかっていうところが
一番重要で
どう集めるかっていうのもそうですし
支援ということだったら
お金を渡すとか
それは巷で
日本でもどこでも多くやっていることで
それが支援ということにもなっているんですけれども
42:00
お金もスペースも
職員の数も少ないところで
他と同じことは絶対できないなと思ってたんですね
で
誰を集めるってところで
私も現存作家さん
全てを知っているわけではないっていうところ
ただ
例えば公立館であれば
公の美術館で税金を使って運営しているので
やっぱり公平さっていうのは求められる
だけれども
幸いなことに中村屋は私立なので
独断と偏見も多少は許される
とはいえ
全くの脈絡のないところではやりたくないし
きちんと意味をつけてやりたいし
面白いことをやりたいしやるんだから
っていうので
思いついたのが
まず作家さんはこちらで選ばなきゃいけないけれども
次の作家さんを作家に指名してもらったら
面白いんじゃないかな
この人にやってもらいたいなっていう人を選ぶってことですね
作家さんですと作家目線で
この人すごいなとか
自分にはできないなとか
この絵好きだなとかっていう
美術館のスタッフ
我々のような学芸員の目線ではなくて
作家さん目線で選んでもらったら
我々の知らない作家さんも
みんなに知ることもできるし
広くね
もしその作家さんが
なかなか展示の場がなければ
中村屋で展示してもらえるっていう
作家さんにもいい
当館でも面白い
そういう企画になるんじゃないかな
っていうところから
そういう方式を編み出したわけなんです
もともと中村屋サロンの芸術家っていうのが
人の繋がりで集まってた
さっきの話でお城森絵が
いろんな人連れてきてみたいなものですもんね
なのでそういう意味でも
ぴったりじゃないかなと思って
ただ作家さんも友達を呼んでくるわけではなくて
友達じゃなくても知らなくてもいいと
作品しか知らなくてもいい
そういう人が中村屋で連絡を取って
あなたとあなたを繋げましょう
っていう意味合いもあるわけなんですよね
そういうパターンもあるんですね
これあれなんですね
しかも最初に
まず1年目に2人選んだんですよ
だから2つのルートができてるんですよね
そうなんです
2つのディレイバトンがあって
2つのラインが今できてます
毎年だから2人ずつ
バトンを受け継いだ2人がやるということですね
今年は今開催されてるのは
今年は宮森恵子さんという
インスタレーションなんですけれども
『記憶の海 ローズのプライロ』というタイトルで行います
宮森さんに来るまではどういう編成でスタート?
45:02
宮森さんのラインはですね
最初に新江美咲子さんという日本画家さん
新江美咲子さんはインドで
よく制作活動されてるんですね
インドとの関わり
中村屋もインドとの関わりが深いので
そういう共通点があるなというところで
それは太田さんがまず選んだと
1人目は
そうです
新江さんの作品は私は前からずっと知っていて
すごく力のある作家さんというのも
わかっていたので
新江さんにお願いしました
新江さんから2人目が
新江さんから及川さと子さん
この方は炭をよく使って描く
煙の作家さんでした
すごく神秘的な描き方なんですけれども
及川さと子さん
そこから次が
安泰孝子さん
この方も炭を使うんですけれども
裏面から炭を置いていく
独特の描き方をする
樹木を描く作家さんなんですけれども
次にバトンが渡ったのが
今まで日本画家さんで来たのが
炭みたいなのがある
来たのが
急にコンテンポラリーアートに行きまして
安泰孝子さん
この方はカッティングを
主としてやってくださる作品
これが去年というんですよね
安泰さんが指名したのが
宮盛慶子さん
宮盛さんは
今ちょっとインスタレーションって話もありましたけど
どういうところが見どころというか
宮盛さんの元となっているのが
フロッタージュという技法で
擦るやつですね
10円玉の上に紙を乗っけて
擦ったら出てくるよみたいなことですね
そうです
その技法を使って
樹木の表面を
自分で作った木炭で擦って
実際に生えている木の?
そうです
それを使って作り上げる
それが今回展覧会の会場にはどれくらい並ぶんですか?
インスタレーションなので
その塊で言うと5つくらいですかね
今回はフロッタージュの技法を使った作品と
映像も初めてですね
今回のリレーの中では映像も使われたり
これまでなかったですね
このアーティストリレーでは
映像は初めてなんですけど
使われたり
というちょっと今までにない作品が見られるんじゃないかな
これが3月1日から始まり
4月9日まで開催されています
その4月9日の次の展覧会は
もう一人の二名ということですね
そうなんです
二本目なんですけれども
今回は4月19日から5月28日まで
三宅一喜さん
よく存じております
彫刻家の
そうなんです彫刻家の
48:00
タイトルが「背景六山殿」
なるほど
六山を尊敬している作家さんで
中村家でやれることがすごく嬉しいって
言ってくださってるんですね
やっぱり六山がいた場所ということで
六山をリスペクトする意味で
このタイトルで
六山はブロンズだけど三宅さんは木鳥ですね
そうですね
木鳥からブロンズにとったりもしてるみたいなんですけど
基本的には木鳥ですね
このアーティストリレーが面白いのは
三宅さんの前が富田夏実さんで
富田さんも僕は10何年の付き合いなんですよ
三宅さんは別でしてるんで
こことここが繋がってるんだみたいな
面白さってありますよね
これってちなみになんですけど
喋れる範囲って思うんですけど
このアーティストさんが次この人指名って言ったら
基本これもずっと通ってるんですよ
やっぱり何人か挙げてるんですか
作家さんにもよりますけれども
いいでしょうかって出しにくれる作家さんもいますし
この作家さんがいいんですけれどもって
一人だけ挙げる作家さんもいますし
その作家もあるの?
ありますね
この選ぶのも責任重大ですよね
多分作家さんものすごく悩んでらっしゃると思います
自分の責任もあるって思ってらっしゃると思うんで
この時点では宮森さんも三宅さんも
次はもう指名はある程度知ってるんですか?
もう知ってます
そういう状態で望んでくれるんだ
このリレーを受ける条件の一つとして
次の作家さんを指名してくれないと
続かなくなってしまうので
受ける条件の一つになってますね
このだからそうですね
三宅さんのラインは元々一番最初は
染谷さんっていう
漆の作家さんが始まって
これが工芸系で始まってきて
なんとなく立体の作家が繋がってるなみたいな
そうですね
でもこれもすごく腹ん番状というか
面白くて
いや言える範囲でできるとは
染谷さんは漆で
やっぱり日本伝統の漆の工芸作家さんなんですが
作ってるものは全く現代アートのようなもので
でも言葉遊びがあったりとか
すごく遊び心があって
面白い作家さんだなと思って
その伝統と新しいものっていう融合っていうのが
中村家とあってる歴史がある中で
常に新しいものを求めて
運営している中村家と
そういう根本的なところが通じるものがあるな
っていうので染谷さんを選びました
染谷さん次が
鳥の巣を描いている作家さんで
鳥の巣のコレクションも
展示されててみたいな
だいぶ変わったなと
だいぶ変わりました
染谷さんが鈴木守さん
会ったことはないんだけれども
51:01
この人をどうしてもしたいっていうので
鈴木さんに
ウルシカが鳥の巣でしたもんね
そうなんです
ちょうどその時静岡の美術館で
展覧会をやっていまして
その美術館に染谷さんに会いに行って
染谷さんがどうしても鈴木さん次
やってほしいって言っているんだけれども
お願いできないでしょうかって言ったら
喜んでくださった
快楽にしてくださった
そこから折り紙作家の
伏瀬智子さん
そして冨田さんにつながり
で、今度三宅さん
面白いですね
大田さんは楽しいんですね
次誰が来るんだろう
それはものすごく楽しいですね
当然初めて知る人もいたりする
もちろんそうです
鈴木守さん
後で知ると鈴木守さんなんかは
絵本の写真をたくさんされてるので
この絵、この本そうかっていうのもあったりとか
あと伏瀬智子さんは
海外でもものすごく人気がある作家さんなんですけれども
やっぱり折り紙っていうことで
私もあまり馴染みが
折り紙作家さんと接点はあまりなかったので
こんな面白いことをやってる作家さんいるんだっていう
誰と出会えるかわかんないのが
この面白さですよね
これ大体だから時期としてはこの時期にやる
はい、春に
やりますので
ぜひ皆さん三宅さんの展覧会
見ていただきたいなと思います
さあそろそろ終わりの時間が近づいてきましたけど
中村屋サロン美術館で
あれ告知した方がいいんじゃないですか
月平が食べれる
そうですね
10月29日がリニューアル
ビルがリニューアルされた日で
中村屋サロン美術館も開館した
その記念日でもあるので
毎年その日は
月平を皆さんに
来館者にプレゼントして
中村屋サロンのロゴが入っているやつですね
中村屋サロン美術館っていうロゴで月平を作ってまして
その日だけしか食べられない
その日に行くともらえる
ぜひアーティストさんにリレー店も来ていただきたいですけど
10月とか29日も改めて来ていただけると
そうですね
お得ですよっていうことです
そうです
次回は太田さんのご経歴を交えつつ
美術についての話を続けていきたいと思います
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ん
(エンディングBGM)
54:09
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