1. そろそろ美術の話を...
  2. #025 板橋区立美術館と池袋モ..

板橋区立美術館学芸員 弘中智子さんをお迎えして、板橋区立美術館や池袋モンパルナスについてお聞きしました。

https://sorosoro-art.vercel.app/ep/025 番組の感想は、#そろそろ美術の話を でお願いいたします。

Guest Profile

  • 板橋区立美術館学芸員 弘中智子 (ひろなか さとこ)
    • 一橋大学大学院言語社会研究科博士課程単位取得退学。板橋区立美術館学芸員。「新人画会展」(2008年)、「福沢一郎絵画研究所展 進め!日本のシュルレアリスム」(2010年)、「池袋モンパルナス展」(2011年)、「東京⇔沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村展」(2018年)などを担当
  • 主な論考に「井上長三郎の1930年代 シュルレアリスムと社会への意識」(「武蔵野美術大学研究紀要」47号、2017年)。2018年、一橋大学より博士号(学術)取得。
  • 共著『超現実主義の1937年——福沢一郎『シュールレアリズム』を読みなおす』(みすず書房、2019年)、共編著『さまよえる絵筆――東京・京都 戦時下の前衛画家たち』(みすず書房、2021年)。

Show Notes

  • 板橋区立美術館
  • 狩野派
  • イタリア・ボローニャ国際絵本原画展 | JBBY
  • ダンシングホテイ
  • 板橋区立美術館の幟芸! | アートテラー・とに~の【ここにしかない美術室】
  • 東京大仏(乗蓮寺)|板橋区公式ホームページ
  • 不動の滝〈記念物(史跡)〉|板橋区公式ホームページ
  • BELCA賞 板橋区立美術館
  • 2019年1月23日 ロゴマークもリニューアル!|板橋区立美術館
  • 池袋モンパルナスとよばれたまち|豊島区公式ホームページ
  • 小熊秀雄
  • 寺田政明
  • 麻生三郎
  • 吉井忠
  • 古沢岩美
  • 靉光
  • 熊谷守一
  • 福沢一郎
  • しもだて美術館
  • 瀬戸市美術館:施設案内|公益財団法人 瀬戸市文化振興財団
  • 酒田市美術館/Sakata City Museum of Art
  • 美術の窓 No.449 2021年2月号 - 生活の友社
  • 「池袋モンパルナス」の時代 芸術家たちの街はどこへ消えたのか? ~池袋モンパルナスを探して~【前編】|さんたつ by 散歩の達人
  • さまよえる絵筆ー東京・京都 戦時下の前衛画家たち|板橋区立美術館
  • 寺田農
  • 北脇昇
  • 小牧源太郎 :: 東文研アーカイブデータベース
  • 須田国太郎
00:11
始まりました、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、私アートテラー・とにが、アートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日は、板橋区立美術館学芸員、広中さと子さんをお迎えして、トークをしていきたいと思います。
ということで、ご出演いただきましてありがとうございます。
よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
広中です。
はい、ということで、今回板橋区立美術館に来ましたので、まず板橋区立美術館ってどんな美術館ですかっていうところから、よろしくお願いいたします。
板橋区立美術館は1979年にできましたので、今から41年前にできた美術館で、東京の23区の中では初めてできた公立の区立美術館というふうに言われておりまして、
板橋という地名もついているので、板橋区ゆかりの画家だとか、あと江戸可能派の作品と、あとボローニャ国際絵本原画展をはじめとする絵本の展覧会を3つの柱を中心にして展示をしている美術館です。
僕のイメージで言うと、板橋区立美術館ってちょっと昔というか、江戸美術のキャプションがすごいふざけてるって言ったら失礼だけど、なんかこう愉快なキャプションが多いイメージがあるんですよね。
僕の聞いた話だと、そんなに1979年とか80年代ってあんまり江戸美術の人気がなかった頃から、江戸美術に力を入れてたっていうのを聞いてたんですけど、そう思ってたっけ?
そうですね。江戸時代の絵画ってタイトルが何々図みたいな、ホテイズとかいう堅いタイトルのものって多いんですけれども、
昔館長をしていた安村さん、安村利信さんが江戸時代の絵画の中心にやっていらして、
あと今の今年、一昨日から館長になった松岡が一緒になって、固いよねっていうので何か変えられないかっていうので、
ホテイズっていうのを、ホテイさんがちょっと踊っているように見えたので、ダンシングホテイっていう名をつけたりなんかして、
解説をしたところ、わりと、もちろんホテイズっていうのをちっちゃく書いたりするんですけれども、非常にわかりやすいということで、
通称みたいなのを使うことですよね。
そうですね。で、親しまれるようになりました。
ある作品家なんかは、僕まだ板橋区立美術館と仲良くなかった頃というか、今別に仲良くなかったけどね、
普通にお客さんとして一流さんとして見に来ている頃に、それこそアートテラー始めた頃ですから、もっと美術館って面白くなるべきだって、
まあ、とがした時代だったんですよね。で、他の美術家やっても全然キャプション面白くないなっていう中で、板橋区立美術館初めて来て、江戸美術展見たときに、
03:07
キャプションに書いてあったのが、なんか目つきがいやらしいとか書いてあったんですよ。
なんかちょっと嫉妬したというか、面白いやんみたいなのがあって、で、どこの美術館かわからない、忘れちゃったんですけど、
ある美術館がある時期から急にキャプションが緩くなったときに、他の美術館の学園生さんが板橋化し始めたよね、みたいな感じで、
なんかわかんない、業界とかなんか知らないけど、緩いキャプションイコール板橋みたいな謎の因果ができているところに驚いたことがあって。
嬉しいですね。嬉しいことだと思います。
そういうのがありますよね、板橋。
それからもう一つ、僕が板橋クリス美術館に来るときに楽しみにしているのが、上りが立っているんですよ、美術館の横に。
何年前だったか、ふといつものように通ってきたら、素通りしないでって書いてあったんですよ。
こんな切実なことを書いている美術館は他にないなと思って。
楽しみに毎年毎年見ていたときに、ある年は永遠の穴版みたいなのがありましたね。
あれってどうやって決めてるんでしたっけ?
あれは毎年一回、美術館の私たち学芸だとか事務方、受付監視の人とか、その場で声をかけられた人なんかに、
あまり文字が長いと読めなくなっちゃうので、大体何文字くらいで、ちょっと今年のコピーお願いしますみたいな感じで、
みんなから募集して、無記名で。
それでそれを集まったものを貼り出して、それをまたみんなで投票していくっていうやり方で毎年決めてます。
今までひろなかさんの方が採用されたことはあるんですか?
一度としてないです。
今まで自分の中でこれはって押したのあったんですか?
ボツになっちゃったやつで。
覚えてないですね。
その場のノリで、結構ジジネタみたいなのが盛り込んでいくんですけど、
キワドすぎて落とされるみたいな感じで、ダメですね。
これは毎年、大体いつ頃に変わるんですか?
いつもボローニャ展の時にリニューアルされるようにしてるんです。
ゆけ本の展覧。
はい。
ってことは大体6月ぐらいですかね。
そうですね。
だから今年また2021年バージョンも楽しみにしていただけたらと思うんですが、
永遠の穴場っていうのはどういう意味でついちゃったんですか?
永遠の穴場を考えたのが、今江戸会がやってる上松なんですけど、
その通りですよね。
祖神からも遠いし、
そんなに派手な何かがあるというわけではない穴場でありながらも、
穴場ってちょっと見つけると嬉しいじゃないですか。
確かに。
人にも言いたくないけど言いたいみたいなところもあるので、
そういう気持ちになれる美術館っていうことじゃないかなと私は解釈してます。
06:03
これで思い出したんですけど、
月曜から夜更かしっていう番組のスタッフから僕のところに連絡があって、
僕はブログで紹介してたんですよ、これを。
この画像使わせてくださいみたいな。
多分板橋特集かなんかの時に、これぞやっぱり板橋らしさだみたいな感じで、
すごい熱いメールが月曜から夜更かしなんです。
ぜひ使ってくださいって言って送ったのは覚えてますけど。
あれなんですよね、その穴場っていうだけあって、
ちょっと駅から遠いですよね。
アクセスにちょっと。
そうですね、そうですし、
あと最寄りの駅まで着くにもちょっと癖がある感じで。
なのでいい運動にはなると思います。
そうですよね。
全部の駅から遠いんですよね。
全部の駅から遠い。
いますからもっと多いです。
地下鉄赤塚もしくは西高島大学ですかね。
全部歩いてこなきゃいけないですけども、近くには大仏も。
そうですね。
東京大仏が。
あとここちょっと見えてますけど、
裏山も23区とは思えない感じのワイルドな裏山があって、
最近見ないですけど、パヌキが住んでたりも。
そう、公園もありますしね。
あと僕のお勧めはここから大仏国立美術館が歩いて2、3分の場所にある不動の滝っていうのがあって、
どんな滝なんだろうと思って楽しみに行くと蛇口の締め忘れぐらいの水量がある。
不動かもしれないけど。
すごい水量のものがあるので、
そういうのも含めてちょっと楽しんでいただきたいなと思うんですが、
あれなんですよね、2019年にリニューアルしたんですよね、美術館が。
そうですね、40周年を迎える年に、
大体1年間ぐらい閉めていて、リニューアル工事をして生まれ変わりました。
どんなイメージですか。
僕は来た時にだいぶ綺麗になっちゃって。
正直ですよ、もちろん昔の感じの昭和から取り残されたような感じが、
板橋国立美術館さんらしいなと思ってたし、
やっぱりその上りが自虐ネタが多かったんで、
マッチしてたじゃないですか、雰囲気が。
それがやっぱりリニューアルしてめちゃめちゃかっこよくなったので、
一発目の時の上りが全然笑えなかったんですよ。
だから山里さんが結婚したら、
急に自虐ネタ笑えなくなっちゃったみたいな感じの、
大逆転な感じなくらい、
しかも賞も取られたんですよね、リニューアルの。
そうですね、古い建物をうまく回収して使っているという建物に対して贈られる
ベルカ賞という賞を最近決まったんですけど、受賞をめでたくいたしました。
これもすごいことですけど、中の人、広中さんも含めて、
どういう印象でリニューアルしたことに。
リニューアルするにあたって、本当にしょっちゅう工事現場に来てたんですよ。
09:02
結構衝撃的なのが、まず見慣れた状態から、
全部見える範囲のものはリニューアルしているので、
壊すという作業を先にするんですけど、
見慣れたものが壊れてくて、まず寂しくて、
あーみたいな、展示室も全部壊すんですよ。
ビフォーアフターでおばあちゃんが泣いているシーンですよね。
そうなんです。私たちがいたこの事務所がボロボロだみたいな、
床剥がすとこうなるんだみたいなことから始まって、
その悲しみを乗り越えていったら、
あ、綺麗になってきたみたいな感じで喜んでいって、
それでまさにビフォーアフターの最後の回みたいに、
みんなで訪れて、あーっていう。
あの曲が流れる感じで、
展示室がこんなに綺麗になったんだ、使いやすそうみたいな。
展示室もだいぶ使いやすくなりました、今回のリニューアル。
そうですね。ちょっとやっぱり40年前の設備だと、
機械だとかの技術もすごく変わっていくので、
燃費が悪い部分もちょっとあったんですけど、
そういったところの問題なんかも解消されていますし、
あと電気も全部LEDに変わったので、
安定した照明なんかもできるようになったので、
よかったなと思っています。
他の展示室以外の施設でここが大きく変わりましたよとか、
ここが見どころですよみたいなことはありますか?
見どころですっていうのもなんですけど、
トイレが綺麗になったのがよかったなと思います、本当に。
確かに古いトイレのイメージはありましたよね。
確かに今パーッと思い返して、
日本にある美術館の中で一番古い感じの美術トイレでしたよね。
そうですね。
確かに。
悲しいのが、小学生なんかが集団で鑑賞に来た時に、
特に女子トイレ全部和式だったんですよ、ある時期までは。
だったので、私使えないみたいなのを小学生がぶつぶつ言って、
あと臭いとかそういうのも言っていて、
小学生すごくストレートなのでありがたいんですけど、
傷ついてそう言われないものにしたいという思いはありました。
そうですね。絵本の美術館もやるわけですからね。
子供が来ることも多いですからね。
出張授業的なだけじゃなくても。
確かに。
あとあれですよね、
みんなが集める場所みたいな。
今はコロナだからストップしてますけども、
そういう場所もできたりとか。
そうですね。
入り口入ってすぐ左のところにラウンジっていうスペースを始めて、
今までなかったもので作って、
美術鑑賞を終えた人にそこに過ごしてもらったり、
将来的には何かワークショップじゃないですけど、
ちょっとしたことなんかもイベントができるようにということで、
今いろいろ準備をしてますが、
今の状況なんでいつできるかという感じではあります。
そうですよね。
いやいや本当でもだいぶ変わったなっていう印象はあります。
あとあれですよね、
12:00
このリニューアルで美術館だけじゃなくてロゴも変わったんですもんね。
そうですね。
その前も駒形勝美さんに作ってもらったんですけど、
10周年ということで、
また建物の形を少し再現しつつ、
新しく生まれ変わったっていうことがわかるようなデザインを、
デザイナーの駒形勝美さんに作っていただきました。
いろんなグッズもありますので、
ちょっと注目していただけたらなと思います。
将来的にカフェ的なものもやったりするんですか?
カフェは儲からないと、
カフェをやっている方がつらくって、
よく他の美術館ともお話しするんですけど、
正直なかなか美術館のカフェって儲かるのが難しいそうなんですよ。
というのもあって、
ボローニア絵本店のときだけ臨時でカフェをやっていたんですけど、
去年コロナで取りやめて、
コロナと儲けの関係でどうなるかなというところは。
ちなみに、何度か出ているボローニア絵本店を、
ちょっとだけ詳しく説明してもらってもいいですか?
広瀬さん単独ではないですね。
中々しゃべれるかな。
でもここでは毎年やっているんですよね。
そうですね。
田沢市の主軸の一つですね。
毎年ファンも多い展覧会で、
何年前からっていうのが正確に言えないんですけど、
30年ぐらいやっているんだと思うんですけど、
イタリアのボローニアっていう町で行われる、
子どもの絵本の日本一で入選した作品を紹介する展覧会で、
板橋区立美術館が立ち上げコーディネートして、
全国のいくつかの美術館と、
アジアでも巡回したりもするんですけど、
そういった展覧会で、
世界中のヨーロッパだとかアジアだとか、
いろんな国のアーティストさんたちが参加する展覧会で、
板橋区立美術館では、
ただ紹介するということだけではなくて、
例えばお子さんが絵本を作れるワークショップを、
入選者の方が先生になってやるっていうのもありますし、
あとはちょっとプロを目指したいっていう方、美大生とか、
あとご自身で作られている方なんかが参加する、
それもまた入選作家さんが先生となった絵本の講座みたいなのもやってます。
実際実はこのワークショップに参加された方で、
それをきっかけにしてボローニア展に入選したっていう方もいらっしゃるので、
非常に上手く回っているというか、
展示して誰かが育ってまた帰ってきてみたいなサイクルができていますね。
だって去年なんか本当、2020年はコロナだから、
本場ボローニアではできなかったけど、
それを板橋ではやったんですか?
そうですね、見本市がやっぱり人が集まるので難しかったんですけれども、
いつものネットワークといいますか、
松岡という本庁がやってるんですけれども、
彼女のパワーだとか人脈もあって、
15:02
まとめて輸出してくださって板橋で展示することができました。
だから板橋みんな遠い遠いって言うんですけど、
ボローニア行くのに比べたら全然近いですからね。
そうですね、何時間も近い。
アクセス悪いとはいえ、ボローニアより近い。
だからそういうすごいことをやっている美術館だというのは伝わるといいなと思っているんですが、
今回広中さんにゲストに来ていただいています。
広中さんが得意とするというか、主に担当されています。
そして板橋区立美術館で、これも大名刺のようになっていますけど、
池袋モンパルナスの作家さんや、池袋モンパルナスの展覧会が多いですけど、
そもそも池袋モンパルナスって何ですかというのを改めてよろしくお願いいたします。
池袋モンパルナスっていうのが何か実体のある、
例えば池袋モンパルナスと名付けられたマンションとか、
グループがあるわけでもないんですけれども、
1920年頃から池袋といっても池袋駅から西武線の椎名町とか、
あと有楽町線や副都心線だと金目町とか、
あの辺りの駅周辺に、あの辺りがちょっとその当時はまだ、
ちょっと掘り返すとお水が出てくるような沼地だったので、
あんまり住宅地には適していないと言われてたんですけれども、
ある地主さんが自身のお孫さんのために、
お孫さんは美大生だったそうなんですけど、
アトリエ付きの住宅を建てたところ、
お友達がやってきて、いいねっていう風に言われて、
地主さんがそんなに喜ぶんだったら作ろうっていうので作り始めたら、
やっぱり学校に通っていると口コミで広がっていくので、
あれよあれよという間に長屋が埋まって、
そうなると隣の地主さんもうちも作ろうってなって、
たくさん作っていって、もう画家の町ができていったというのが。
それも画家って言っても、だから若手学生、画学生のための対象としては。
決して高級なものではなく、アトリエと言っても板張りの床があって、
北向きの天井窓があるだけの簡単な室内なので、
上京してきたばっかりの画家になりたいっていう若者とか、
本当に美大生だとか、画家だけじゃなくて彫刻家だとか、
アトリエが必要かどうかわかりませんけど、演劇だとか映画とか、
ああいった関係の芸術関係の方が多く住んでいたと言われております。
一番マックスだとどれぐらい住んでいたとかってわかっているものなんですか?
一番多いときだと100とか200とかも長屋はあって、
多分長屋に本当は住んでいないけど勝手に転がり込む人もいたと思うので、
何百人もいたんじゃないかなとは思いますけど。
その中で代表的な作家さんというのを例えば。
そうですよね。
池袋モンパルナスっていう名前の詩を書いた、
18:04
詩人のオグマヒデオっていう北海道出身の詩人なんかは、
彼も絵を画家たちに処分されて描くんですけど、
彼が中心となったと言ってもいいと思うんですけど、
あと彼の周りにいた寺田正明ですとか、
麻生三郎ですとか、
あいみつだとか、
あと吉田だしとかもいましたし、
あと彫刻家の人たちもかなり住んでいたと聞いています。
池袋モンパルナスのエリアのちょっと近くというか、
時場層もありますよね。
少し時代がずれちゃう。
時跡は戦後になるんですけど、
同じように当時土地が安かったということもありますし、
芸術に理解があるという土地柄なんでしょうかね。
詰まってくるんですね。
でもやっぱり画学生のためのということは、
学生たちも当然絵を描いていったらプロになって、
多少お金も蓄えるようになると、
引っ越したもんなんですか?
そうですね。そこからお金を得た人は、
世田谷とかにアトリエを構えられたりとか、
実は再生期が1940年くらいだったんですけど、
一部分、戦争で焼けてしまうんですね。
焼けた後に、普通に池袋駅が近いので、
普通の会社勤めの方が住み始めるというのが始まって、
池袋沿線にある、東条線とか池袋線だとかの、
沿線にある部分に引っ越す方もいまして、
板橋区に引っ越す方も多くて、
寺田さんや古谷美さんや井上聡三さんなんかは、
池袋住んでたけど、戦後板橋にお住まいです。
だってそもそも池袋、豊島区ですもんね。
そうですね。
ここ板橋区立美術館じゃないですか。
なんで板橋区立美術館が、
池袋モンパラノスやってるのっていうのは、
そういうのもあるんですね。
だから池袋モンパラノス出身の人が、
その後板橋に住んでる。
そうですね。板橋に住んで、
さらに板橋区立美術館もできるときに、
寺田正明さんだとか古谷美さんが、
うちの国美術館を作りたいという、
ちょっと声掛けもしてくださっていたので、
作品もたくさんいただいたりもしてますし、
私はお目にかかることはなかったんですけど、
できたときはまだ御存命で、
どんどん絵も描いてらっしゃった時期なので、
一緒に作ってきた部分っていうのもあるんだと思います。
池袋。実は僕も個人的な話ですけど、
池袋モンパラノスに住んでるっていう理由として、
すごい場所なんですよ。
引っ越したときに衝撃を受けたんですけど、
引っ越してきて、
池袋モンパラノスのエリア住みたいなかな、
もともとあって、
引っ越し屋さん、
引っ越し屋さんじゃなくて、
不動産屋さんに行って内見するときに、
21:00
3、4件、じゃあこれどうですかって言ってもらって、
条件の中で。
じゃあ内見しますって言って、
女性の不動産屋さんだったんですけど、
じゃあ内見しに行きますって言って、
外出たら車が止まってるのかなと思ったら、
自転車が止まってて、
自転車についていくんですよ、僕。
何この内見と思いながら。
女の人が右曲がりますとか言って、
あーいとか言って右曲がって、
ただそれで思ったんですけど、
本当に土地が真っ平なんですよね。
自転車で一回も坂に引っかからなかったので、
ここに住もうと決めたんですけど、
多分それだけ本当に土地が、
もともと多分無町だったからだと思うんですけど、
真っ平の土地ですよね、あのエリアって。
そうですね、平坦なとこもあるんですけど、
でもあれですね、
ちょっとだけあいみつが住んでいた売風料のところだとこだけは、
少しだけ上がりますね。
もう広中さんはだいぶ歩き回ってますもんね。
決まりましたね、何回も。
でも変わっていくんですよ、どんどんどんどん。
やっぱり今副都心線を通って、
いい場所なので、
人気の住宅地で、
ちょっと前までここに古いアトリエみたいなのあったのに、
っていうところが更地になって、
次綺麗な育てが立って、
本当にしょっちゅう変わってきますね。
おしゃれな店増えましたもんね、最近は。
そうですね、おしゃれです。
今はアトリエとして機能している場所、
いくつかはあるんですか?
作家さんのご遺族がまだお住まいのところなんかは、
少し保たれたりもしてますけれども、
ほとんどないですよね。
ないですよね。
たぶん、強いて言えば熊谷盛一さんの住んでた場所が、
美術館に今なってますね。
そうですね、建て替えたんで綺麗ですけど。
でもそもそも、この池袋文化園は1940年から、
20年代ぐらいから始まって、
40年あたりがピークで、
復習で失われて、
戦後も少し残るんですけど。
そもそもなんでモンパルナスなんですか?
そうですね、モンパルナスっていうのが、
パリのモンパルナスがやっぱりピカソだとか、
画家たちが集まった場所として知られているので、
その画家、芸術家が集まる様子っていうのを、
パリのモンパルナスのように思って、
池袋モンパルナスと小熊秀夫が読んで、
詩にしたっていうので広まっていったと言われています。
当時は池袋モンパルナスの作家さんは、
池袋モンパルナス展みたいな感じで、
やったりはしてたんですか?
やってはいなくて、
池袋モンパルナスと言われるところにお住まいだった、
麻生三郎さんの奥様に、
もう亡くなられたんですけど、
生前お話を伺った時には、
住んでいるのどこ?みたいなことを言われたら、
実はそれぞれの事主さんたちが、
長屋の一角を名前を付けている時があって、
麻生さんが住んでいたのが、
桜川岡パルテノンっていう名前だったので、
パルテノンに住んでいますっていう風に答える。
24:01
ギリシャですよね。
やっぱりそこは芸術の匂いを残しつつ、
パルテノンと言えたそうです。
作家さんが住まれていたという、
なんとなく作家さんたちに共通する作風とかはあったんですか?
そうですね、まだ全貌が結構調べているんですけど、
掴み切れないところっていうのもあるので、
どうしても目立っている、
寺田さんだとか藍光とか麻生さんっていうのが、
紹介されがちなんですけれども、
一方で、いわゆるアカデミックな、
日展定典系の画家さんもお住まいだったので、
いろんな画風の方っていうのはいらしたんだと思います。
別にヨーガオンリーではなく、日本画の作家もいるし。
日本画家もありますし、彫刻家もいますし、
デザイナーみたいなのもいますし。
ってことですよね、当時の。
でもその池袋モンパルナスの作家さんは、
やっぱり美術して言うと前衛画家になるんですか?
ジャンルとして考えると。
そうですね、目立つ方は前衛アバンギャルドやってた方が
多いなという感じはしますね。
この人たちは繋がりはあったんですか?
近所としてやりとりしているのか、
それとは例えば師匠的な人がいて、
その人の元に集まっているのか、
どういう繋がりになるんですか?
今の流れのほうはご近所さんというだけな感じをするんですけど。
そうですね。
まず住むときに、例えば誰かが住むと、
アトリエ探している友達に、
池袋住みやすいから家探してあげるよ、
親さんに掛け合うよみたいな感じで住んで、
お友達同士が近所ということもまずありえますし、
あとは銭湯を使う時代だったので、
銭湯で有名な画家さんだみたいな感じで、
裸の付き合いみたいなのが起きるということもあるらしいですし、
あとは夜とか絵を描いていて、
絵の具が足りないっていうときにトントンとして、
貸してくれないっていう感じで借りるっていうのもあったみたいです。
あとは池袋美術家クラブっていうのが、
1937年に結成されて、
小熊秀夫なんかも絵を出していますし、
古沢さんとか南端達沖さんなんかも出品して、
池袋の駅前にあった喫茶店なんかの壁に展示をしていたっていうのが分かっています。
これってでも、そもそもこの時代に、
池袋モンパルナスに匹敵するぐらいのアトリエ村みたいなものって、
日本全国で見たらあんまりないの?
相当珍しいものなんですか?
珍しいと思いますね。
美術学校があった上野の近辺なんかには、
何人か画家さんが住んでいたとは思うんですけれども、
ここまで銭湯であったり、絵の具借りしてくださいみたいな、
付き合いみたいなのはなかったと思うので、
たぶん珍しい現象だったと思います。
やっぱりアトリエ村ができたことが、
最初にアトリエができたところから始まっているわけですよね。
リーダー的な人は小熊秀夫さん以外にもいたんですか?
27:03
リーダーっていうのは…
みんな同じ感じで仲いい?
そうですね。みんな出している、
画家のグループ、美術団体なんかも異なっていたりもしますし、
年齢も本当にバラバラなので、
特にリーダーっていうこともなかったのかなというふうに思います。
今突然チラッとかかったんですけど、
池袋モンパルナスイヤーじゃないけども、
展覧会が田橋以外でもやられている?
そうですね。地域創造さんという一般財団の法人さんが主催で、
全国の3カ所の美術館で、
田橋区と、あと豊島区。
豊島区さんはまだ美術館はないんですけど、
作品はたくさん持ちで、
この2つの区が持っている作品による池袋モンパルナス展というのを、
今年の8月から来年の1月にかけて行うんですけど、
1カ所目が茨城県の蓄生市にある下立美術館で、
そこでは池袋で暮らした森田茂という画家さんのことも一緒に紹介しますとおっしゃっていましたし、
あと2カ所目が愛知県の瀬戸市の瀬戸市美術館で、
こちらは池袋を住んでいた北川民二の作品も一緒に紹介します。
最後が山形県の佐方市で、
そこでは今井重三郎と斉藤長蔵という佐方出身の画家たちのことも一緒に紹介するので、
今まさに準備中なんです。
こんなに大々的に池袋モンパルナスがフューチャーされるとしてあまりないですか?珍しいですか?
ないですね。ないですし、
あとちょうど今年の2月に美術の窓で池袋モンパルナスの特集の号も出ましたし、
あと去年も散歩の達人で池袋モンパルナスの特集が出たんですよね。
だから最近池袋モンパルナス関係の取材などが多いなと思っております。
何かあるんですか?何周年みたいな。
いや特に何周年というのはないんですけど、
地域、自分たちの地元みたいな散歩だとかそういうことへの関心というのが、
一般的に今の人たちが振り返り始めるという時期もあったりするのかなと思います。
特に今コロナという状況もあって海外のフランスのルーフで行こうみたいなことはないんですけど、
自分たちの街にも芸術家がいてこういう暮らしだったっていうことだとかを、
もっと身近に知りたいとか、そういう時期なんじゃないかなと勝手に言いように感じています。
なんか広中さんが作られた池袋モンパルナスマップみたいなのあったじゃないですか。
あれって今もどこかで買えるんですか?
マップだけはまだ在庫があるので、板橋区立美術館で求めることができます。
30:00
ビフォーアとアフターがあるんですよね。
昔コロナだったけど表裏の地図になっていまして。
そうですね。1941年とその展覧会があった2011年のことが裏表で比較できるんですけど、
作っていてすごく面白かったのが、やったら銭湯があるんですよ。
いや、あります。
必需品だから仕方ないんですけど。
2011年になるとその銭湯に置き換わるかのようにコンビニが増えるんですよ。
コンビニすごいなって。
そうかもしれないです。
銭湯とコンビニっていう置き換わり方。
なんかで聞いたんですけど、これ噂レベルですよね。
広中さんの靴がめちゃめちゃ歩きやすい靴だみたいな話を。
誰の話?
そのある美術館の福沢一郎記念。
福沢一郎さんって池袋モーバーズに関わってくる人のアトリエがあって、
そこの息子さんにあたる方の奥様。
広中さんの靴がすごい良い靴なんだよ。
なんですか?
広中さんって歩き回るからすごい良い靴。歩きやすい靴履いてるのよっていうのを何故か教えてくれたんですけど。
その噂は本当ですか?
福沢さんのところに行くと毎回服装とか靴とか非常に好奇心が旺盛な方なので観察をされてて、
そんな言うほどのことでもって感じで普通にスニーカーをよく履いてるんですけど。
ありがとうございます。そこまでこだわりは。
でも歩き回りますか、あそこらへん。調査という。
そうですね。調査で歩き回りますし、学芸員という仕事は割と靴のいだりとか多いので、歩きやすさは重要かなと思ってます。
今も2011年からさらにもう10年経つじゃないですか。
最近も歩いたりはするんですか、研究というか仕事の一環として。
そうですね。ちょうど全国3館回る池袋モンバルナス展の下準備として、
その3館の皆さんとお引き連れて、全部は回れなかったですけど、
去年の末ぐらいウロウロしてきました。
やっぱり変わりました、10年間。
変わりますね。また重い家なんだみたいな。綺麗な家できるんだなみたいな。
ちょっとずつ痕跡は減っていってますか。
減っていきますね。
一番大きかったのが、私が着任してしばらくの間ぐらいまでは、
画家たちが通っていた不動由という、お不動産の不動から来るけど、
不動由があったんですけど、何年か前に閉まって、そこが綺麗なマンションになってしまって、
33:00
お風呂屋さんだったから結構大きい敷地になっていて、
今そこのお不動産だけ残っている状態なんですけれども、
やっぱり銭湯があった時期っていうのは、
寺田さんたちも入ってたってなると、わーっていう気持ちがあると思うんですけど、変わってきますね。
でもさっきの話に戻って、時和荘だと、最近時和荘のミュージアムができて、
やっぱり手塚治虫さんとかの国民的に皆さん知っているから、
モニュメントとして残そうみたいなのがあるじゃないですか。
あんまり池袋モンパルナスに関して、やっぱり広すぎるのか、
なんとか総合、パルテノンの模型を作ろうとか、そういうことはあんまりないですか?
日は残っている感じですか?
そうですね。
利島区さんで、少し街歩きのための目印として看板みたいなのを立ててくださったりはしているんですけれども、
あと一軒だけ、都役じゃなくて個人というか、会社で保存されているアトリエがあって、
たまに見学会なんかもされています。
そうなんですね。それは何を見たら見学会?
私的にメールを送る。
そういう感じなんですね。
プライベートで。
一般公開ではない?
ないです。
広中さん的に、ここに行ったらいいよと聞きながらいて、池袋モンパルナスに興味を持ったという方には、
どういうところをめぐったらいいとかってありますか?
お勧め、スポットみたいな。
本当に残っていないから、お不動産があるとか、そういうので目印にするしかないんですけど、
こう言ってしまうともともと困るんですけど、
豊島区の共同資料館にアトリエ村の復元というかミニチュアの模型があって、
あれすごくよくできているんですよ。
あれを見ると雰囲気が割と覗けるんじゃないかなと思います。
ちょっとそれもチェックしながら行っていただけるといいなというふうに思います。
池袋モンパルナスは戦争、空襲で終わってしまったということですか?
そうですね。少し残るアトリエもあったり、
そこにまた次の世代の画家が集まってきたりもするんですけど、
規模は縮小されていってしまいます。
それこそ戦後とかに別に他に池袋モンパルナス的な場所ができたかというと、もうないんですね。
戦後になっちゃうと、あんまり画家の皆さんもどこかで、
第二次なんとかモンパルナスみたいなのができなかったんですね。
そうですね。やっぱり池袋モンパルナスで交流できるのって、
若いからこそっていうのもあって、
家庭とか持ち始めると、なかなか夜中に絵の具貸してということはないわけで、
皆さんも年を取られて、それぞれもっと立派なアトリエを構えてっていうので、
若いパワーみたいなのが集まったのが池袋モンパルナスだというふうに考えると、
ちょっとその熱気みたいなのが変わっていったんじゃないかなとは思います。
戦後に若い学生だった人たちもいるじゃないですか。
36:02
その人たちは集まらなかったんですね。
その次の第7世代とかじゃ分からないですけど、そういうのはないんですね。
やっぱりこの時代特有のなんか感じなんですかね。
あそこまでの大きさっていうのは、やっぱりその時代だけだと思うんですけど、
戦後も山下貴久寺だとか大塚之積だとか、ちょっと年下の世代の人たちが池袋あたりで、
割と近所に住んで、絵を描いて交流してっていうのがあったんですけれども、
あとはその池袋っていう土地が多分急激に価値が上がってしまったので、
アトリエをまとめて建てている場合ではなくなってきたっていうのもあるんだと。
そうか、土地がちょうど余ってた時代だった。
これから開発するっていうところと合致したんですね、学生さんが。
しかもだからそこが面白いですよね。
だってこれから土地作るっていうと、そういうことは田園町府とか浜ニュータウンとかじゃないけど、
もう学生向けに作るんじゃないですか。
土地が有り余っている以上、清少とかもそうですけど、
金持ち向けに作るのに、ちょっと珍しく、だから本当に若者向けに作った街だったんですね、当時。
そういうのが合致した。
さあ、そんな今、板橋区立美術館で、ちょうどこれ配信4月24日ですけども、展覧会。
また池袋モンパランスのテーマをした展覧会をやってますけれども、
さまよえる絵風伝。
どんな展覧会ですかね、今回。
3月27日から始まりました、さまよえる絵風伝っていう展覧会が、正式にはさまよえる絵風伝、
東京京都政治家の全映画家たちという展覧会でして、
この展覧会では、池袋に住んでいたメンバーでは、
藍光と寺田正明、麻生三郎、
あと南波田達夫君も一時期住んでいたので、なんかが住んでいた人なんですけれども、
こういった画家たちが戦争中にシュルリアリスムを一時期描いていた、
1930年代後半にシュルリアリスム絵画を試みていたことがあったんですけれども、
それはフランスのマグリットとかだいとかをやっているのを見て、身を見まぜてというか。
そうですね、ああいう真相心理みたいな思想の世界みたいなものを描くっていうのを
試みていた時期があるんですけれども、
1940年代に入ってくると、だんだんフランス本国でシュルリアリストたちが
共産主義者と結びついていくっていう動きがあって、
日本では共産思想がその当時非合法だったので、
フランスのシュルリアリストたちと日本の画家たちはくっついていないんですけれども、
分数ぐらいはするんですけど、そんなに密になっているわけではないんですけれども、
39:00
日本のシュルリアリストたちも危険なんじゃないかっていうことで、
急に監視されるようになり始めて、
共産主義じゃないのにってことですね。
そういう思想があった人も少しあるかもしれませんけど、
そういう目的では全くなく、
絵の表現の方法としてのシュルリアリスムに関心があったのに、
そういう疑いをかけられて、
画家たちの中でリーダー的な存在であった福沢一郎と、
技術評論家の滝口修造が41年に逮捕されるんですけど、
その前後からシュルリアリスムを描くと捕まるぞっていう空気が流れていて、
画家たちは絵は描きたいけど捕まりたいわけでも全くないので、
じゃあ一体どういうふうに絵を描いていくかっていう解決方法の中の一つとして、
今回一つテーマにしているのが、
画家たちがその中で古典だとか古代っていうものへの関心っていうのを深めていったっていうのが、
戦時中の前衛の一つの流れではないかっていうことを紹介する展覧会です。
シュルリアリスムと古典って結びつかないイメージがあるけど、
今回それをだからあえてテーマにしてみた。
そうですね。展示室には実はシュルリアリスム風の絵画っていうのがないんですけれども、
その後どうなっていくかっていう中で、
イタリアのルネッサンス絵画なんかのマザチオとかの壁画なんかの一部分を描き写して、
自分なりに解釈して描いたり、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザ風のものが出てきたり、
あとはイタリアのものに関心が向かうきっかけとしては、
日独の軍事協定なんかもあって、
イタリアのルネッサンス絵画っていうのが割と優遇して紹介されるようになってくるんです。
じゃあシュルリアリスム描いてると、
シュルリアリスムは敵国のフランスのものだし共産主義だしってなるけど、
イタリアの描いてると結構政府はよしよしみたいな。
そうですね。イタリアでも未来派とかいう前衛のものではなくて、
レオナルド・ダ・ヴィンチとかいう古典のものっていうのが優先して紹介されるようになって、
上野の池の旗産業館っていうところでも大きなレオナルド・ダ・ヴィンチの展覧会が行われたりもしますし、
あと美術雑誌の特集も、これまでダリとかエルンストの特集してたような美術雑誌が、
急にレオナルド・ダ・ヴィンチ特集とかいう分厚い本を出し始めたりするっていうのが40年代に起きてきて、
そうなるともちろん画家にとって、レオナルド・ダ・ヴィンチだとかって、
やっぱり画学生時代に学ぶものではあったんですけど、
それにもう一回帰っていくような部分っていうのがあったんだと思います。
これって古典的なの描いてて、戦時中だから目つけられないように描くじゃないですか。
戦争終わったら彼らは別のことし始めるんですか?
やっぱりこの一時のブームというか風潮なんですか?
42:05
それがどちらでも言える部分っていうのが実はありまして、
その古典っていうものに振り返るっていうことがもう自局的に仕方なかったっていう解釈も一つあるんですけども、
その一方で自分たちが絵を描くことの意味だとか、絵を描く、油彩画を描くっていうことの原点に一回戻るっていうことによって、
絵をもう一回リセットしていくような形で、そこから戦後の作品につながっていく人もいて、
吉田氏なんかも戦時中に人物を丁寧に描くっていうことをやっていくんですけど、
戦後もやっぱり人を描くっていうことには違いがなくて、それをもっと壮大なストーリーとして作っていきますし、
福沢一郎なんかも一時期イタリアの壁画なんかから持ち込んだような作品を描きますけど、
それもやっぱりイタリアとかヨーロッパの神話なんかに基づいていて、
戦後も福沢はギリシャ神話を元にレダと白鳥とかいったものを描いていくので、
必ずしも戦争が終わったからといってぱったりそれをやめるっていうのじゃなくて、
それも一つその時代を経て、また戦後を花開いていくっていうような部分が見えてきます。
今話し聞きながら、そういえば広永さんに昔教えてもらったことを思い出したんですけど、
あるとき僕が多分質問して、戦時中の絵って茶色絵が多いですよねみたいなことをポロッと言ったら、
当時廃棄されてたんですもんね、絵の具も。
だからやっぱり絵描きたいからって月に描ける時代じゃないっていうことはまず前提条件としてあるってことなんですね。
そうですね。絵の具とキャンバスも全部廃棄になっていたので、
まず画家の組合みたいなのに入って、組合費みたいなの払わないと引き換えのチケットがもらえないですし、
その引き換えのチケットを決まった画材屋さんに持っていって、引き換えてもらうっていうのが絵の具の入手方法だったんです。
さらに絵の具も鉱石から作られているので、高い絵の具と安い色の絵の具があって、
白なんかすごい高かったらしいんですけど、安いの茶色で、
茶色絵の具を使った作品が多いのは、もしかしたら割と手に入りやすいものだから、そういうのも考えられます。
前衛画家だから、今の前衛アーティストというと、日本の政府を批判したりとか、
別にそれ悪いわけではないんですけど、前衛だから尖ったことをやるぜって思いがちじゃないですか。
でも当時って本当に尖ったことをやると、本当にもう国から攻められるレベルだし、何なら画材ももらえないんですね。
そうですね。画材ももらえなかったと思いますし、
45:00
本当に福沢と滝口がすごく目立ちますけど、他の地域に暮らしていた画家たちも捕まっている人というのがたくさんいたので、
でも捕まらない範囲でどこまで、やっぱり絵を描くということを止めてしまったらもう画家ではなくなっちゃうから、
絵を描くということを優先しながらどういったものが表現できるか。
この状況で生きている自分、画家としての自分というのを表現したいという思いも同時にあったんだと思います。
配給でして、この絵、絵の具も貰えてやっているじゃないですか。
発表はどうしてたんですか、この戦時中ってこの人たちも。
発表が、ギリギリまでは美術団体の展覧会も参加していたんですけれども、
あとは、閉じていく中でギリギリ何箇所か画廊をやっていたので、
新人画会というグループが1943年から44年の時期に活動しているんですけれども、
日本画記とか資生堂の小さい画廊を借りて、どうにかこうにか展覧会をしていたんです。
だって1943年、44年、清掃もあったようなことですよね。
あのタイミングで展覧会をやっていたんですよね。
ギリギリまでどうにかやっていたし、
画廊をやっていたオーナーさんなんかもギリギリまでやりたいという思いがすごく強くあって、
そういった人たちを応援しているという部分があったんじゃないかなと思います。
画家たちはもうやっていると思うんですけど、
美術雑誌も結構ギリギリまで出しているんですか。
そうですね。
美術雑誌がたくさん出ていたものが、紙も配給制になっていくので、
統合されちゃう、2つの雑誌を1つにまとめてくださいみたいなことが起きるんですけれども、
ギリギリまでやっていますね。最後の方がすごく薄いですけど。
だってコロナだったりとか、それこそ2011年の大震災の時とかなんかは、
結構やっぱり世の中的に、今こんな時に美術なの?みたいな空気になっちゃったじゃないですか。
もう国民の生活も大事でしょうみたいな。
美術不要論、文化は身の過ぎだみたいな。
そんなもっと大変な時期に戦争でも、やっぱり美術の火を絶やさない人たちがこんなにいたんですね。
そうですね。
そう考えると。
私が2008年に新人画界というグループの展覧会を準備しているときに、
寺田正明さんのインタビューをビデオで見ることができたんですけど、
その時なんかに、あの時代に絵を描いてたっていうことについてどうですか?みたいな中で答える中で、
あの時、絵があるから生きてたんだっていうことをおっしゃってたんですね。
まさに皆さんそんな感じだったんじゃないかなと思います。
ちなみに寺田正明さんの息子さんは有名な俳優の。
そうですね。俳優の寺田実紀さんが。
ムジカの声出してる人ですね。
息子。
息子の声出してる。
あとは俳優さんとして今も第一線でいろんな、お父さん役されたり社長の役されたりいろんな。
48:07
寺田実紀さんはここでイベントをやったりしてましたよね?
そうですね。やっぱり寺田正明先生の時からうちの館は非常にお世話になっているので、
お父様についてお話しいただいたり、池袋モンパルナスの展覧会でお話しいただいたりもしています。
また作家さんのご遺族の方は全然、かなり昔の話ではないですもんね。
戦争の時の話ですもんね。
そうですね。ご記憶がある方もいらっしゃいますね。
お父さんがどういう感じで絵を描いていたかという話など。
今回の展覧会はさらに京都にも注目しているんですよね。池袋モンパルナスだけじゃなくて。
そうですね。今回のポイントとしては全員画家たちが東京が中心ではあるんですけれども、
伝統の町、京都にも実は全員画家たちがいて、
その画家たち、特に北脇昇と小牧玄太郎という画家なんですけれども、
彼らは福沢一郎のいる美術文化協会に参加して、
京都にも洋画団、洋画を描く人たちというのはいたんですけれども、
そこのトップの須田邦太郎に別れを告げて、福沢のところについてしまうという、
そんなこともしながら東京で発表するということをすごく重要視していたので、
じゃあ東京で発表する、京都に住みながら東京で発表するということの意味は何なのかというのを、
ちょっと第5章で問いかけるように作っています。
やっぱり京都は東京よりも扱いというか、全員画家たちというのは肩に狭いものなんですか。
相当狭いと思います。
まず今でもそうかもしれないと言われているんですけれども、
日本画だとか伝統的なものへの理解だとか伝統というものが非常にある土地柄なので、
油絵を描いているという人はまず少なくて、
やはりシュルレアリスムに関心があるとなると相当変わった方ということになってしまいます。
でもその中で北脇小脇という2人を中心にして、
やっぱりシュルレアリスムや福沢一郎がやっていることに何か可能性を見出したんだと思うんですけれども、
それもあって京都に住みながらも東京にちょこちょこやってきて、
その当時多分描きってすごくかかるじゃないですか、時間もかかるし、
だけどしょっちゅう東京にやってきて、会合に参加して絵を発表してというのをやっていたみたいです。
今更なんですが、前衛画家の皆さんって当時自分たちが前衛だと自称していたんですか?
そうですね。今2階でも展示しているんですが、美術文化協会なんかの端子を見ると、
51:01
前衛画家としてどういうふうに社会に向き合うかみたいなことも言っているので、
自負、前衛画家として何ができるかとか、そういうふうな思いもあったなと思いました。
ちなみに前衛画家の皆さんは若手の時は当然前衛。
芸人とかもそう思うんですけれども、若手は勢いがあって変えてやるぜみたいな感じじゃないですか。
でもベテランになってくると別に変えてやるぜじゃなくなるわけですよ、芸人さんに置き換えると。
この池袋モンパルナスの皆さんって結構最後まで前衛画家でい続けた人たちが多いものなんですか?
そうですね。やっぱりアイミツラとか松本しやすけは戦争で亡くなったりすぐ直後亡くなるんですけれども、
最後まで割とその時代時代、戦後生きていく中でも、やっぱりいろいろな日本や世界での社会問題だとかも起きていくので、
そういった時代の変化だとかも非常によく見ながら、絵画のスタイルも描く内容もうまく変えていくというか、
自分の表現というのを追求していった方の方が多いように思いますね。
同じものを描き続ける人いないですね。
ずっとその精神、スピリットを持っていたんですね。
あったと思います。
最後にこれだけ聞きたいなと思いますけど、今回展覧会に出ている作品でもいいです、そうじゃなくてもいいと思うんですけど、
板橋区立美術館が持っている池袋モンパルナスの作品で、これはぜひ見てほしいみたいな、
所蔵品の中で選ぶとしたら、いっぱいあると思うんですけど。
難しいですね。それかな。
本当にそれぞれの画家がそれぞれに描いているので、なんとも難しいですけど。
ざっくり池袋モンパルナス関連作品というのは何点くらいコレクションで思っているんですか?
何か持っているんだと思います。
徳島区はちょっと置いておくとしても、国内の美術館で考えたらそれは結構多い。
そうですね。一番多いと思います。
池袋モンパルナスってやっぱり多様性というのをすごく重視したのが特徴ではあると思うので、なかなか言い表しづらいんですけど、
あえて言うならば、今出している寺田さんの木の芽を描いた作品なんかは1938年に描かれているので、
だんだん戦争が激しくなっていくという時期なんですけど、
その中で木の芽を描くというのが、これから伸びゆく力だとか命だとか可能性というものが見えてくるように思うので、
派手な作品だけしていないんですけれども、何かその寺田さんの今後であったり、
今後38年以降というのが暗い時代にはなってしまうんだけれども、
その中でもうまく伸びていこうという風な意思みたいなのを感じられるので、
54:05
私の好きなおすすめの作品ということにしたいと思います。
はい、ぜひこれを見ていただきたいなというふうには思います。
ということで、まだまだ池袋モンパルナさんの話は尽きないということで、
これは次回に持ち越したいと思います。
次回はさらに広中さんのご経歴を交えつつ、
美術についての話を続けていきたいと思います。
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