1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #397 芸術はイデアへの扉?シ..
2026-02-15 44:34

#397 芸術はイデアへの扉?ショーペンハウアーのペシミズム(悲観主義)への対抗策

▼「それ哲ラジオ」おたよりフォーム

ラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!

https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7



▼「それ哲公園」とは?

それ哲フォーラム(掲示板)を中心に、それ哲カフェ(オンライン哲学カフェ)も開催しています。参加をお待ちしています!

https://www.soretetsu.com/



▼それ哲ラジオ 公式X

更新案内や、番組の周辺の話など。

https://x.com/soretetsu_radio



▼哲学事務所ルディクレア

https://ludicrea.jp/

00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、ショーペンハウアー第6回ということで、最終回やっていきたいと思います。
はい、前回までね、兄貴もね、だいぶショーペンハウアーちょっと見えてきたわーみたいな感じだと思うんですけれども。
うん、うん、うん。
うん。
うんではないけど、まあね。
はい、まあもちろんね、前回言ってる通りね、これがショーペンハウアー全てですなんていうつもりもないですけれども。
まあでもなんとなくね、その世界というのは意思と表彰のね、裏表で折り重なってますとかさ。
うんうんうん。
で、意思っていうのは、その盲目的な理由も目的のもない、まあエネルギーみたいなもので、それが人間に入ってくると、まあ要は生き続けたい、あり続けたいっていうのになって、結果苦しみっていうものになっちゃうんです、みたいなさ。
うんうん。
なんかそういう話をしても、まあなんかこう、あ、確かにそのこと言ってたなーっていうところまで、なんかこう、会話がつながるなと思うんですね。
そうそうね、なんか入ってくるっていうよりは、なんか総理一体だから入るっていうか一緒だよねーみたいな、認識やってるみたいな、なんか話はできる感じかな?
ね、はい。ということでね、5回分話してきたんですけれども、そこのイメージが湧いてると、今日の話はだいぶわかりやすいというか、テーマ者が芸術っていうね、僕らが日々触れてはいるものなので、そことの繋がりはやりやすいかなとは思っていますか?
なるほど。私は触れてないですけど、残念だから。
まあ、例えばさ、日々音楽を聴くとかさ、何か絵を見るとかさ、そんなに、いわゆるこう、なんだ、美術館に行って、なんか有名な人の何かを見ますとか、コンサートホルイン行ってとかってことまでではなくとも、
何かしらそういう誰かの表現したものとかに増えるっていうのはあると思うんですね。
あーなるほど、それでいいんですね。はいはい。
一旦、一旦それ大丈夫と。で、普段ショーペン派はやっぱりそういう、いわゆる、なんだろうな、アート、芸術、まああの、エンタメ的な話と、やっぱりこうなんだろうな、もうちょっと、まあ、上って言ったらだけれども、結論を先にすると、要は、そのプラトンのイディアってあったじゃないですか。
はいはいはい。
あれと繋げてくれる芸術があるっていう風に考えるんですよね。
そうなんだ、はいはいはい。
もっと言うと、芸術の役割っていうのは、そういうプラトンのイディア的な世界、もっと言うと、本来僕ら認識ができない、認識の外なんだけれども、それを垣間見せてくれる。
かつそれによって、僕らに切り裂かれた世界じゃなくて、意思の世界とか、認識の外にある世界っていうものがあるってことに気づかせてくれる。そういうふうなものなんだろうって考えるんだよね。
03:14
あー、なるほど。ほうほうほうほう。
うんうん。
じゃあそれってどういう芸術なのとか、なんでそんなことが起きるのっていうことを今日話すことで、そのショーペンハワーが哲学的な観点から芸術をどう捉えたんですかみたいな。
ということをお伝えしようと思ってますっていう感じなんだよね。
だし、あれだもんね。今回この芸術っていうのも、あれでも意思と表彰があって、あるいは人類のイディア的なレベルで、絶望だみたいな、悲観主義だみたいなところから逃れるというか、その世界でどう生きるのの一つの形っていう話だよね。そこと繋がってるんだもんね。
そうだね。繋がってます。前回は倫理とか道徳、宗教みたいな話をしたんですけれども、芸術は根本解決にはならんけれども、ちょっと避難場所みたいな感じで、一時的に苦しさっていうのを逃させてくれるよねみたいな、そういう考え方をしてるみたいですね。
なんで芸術に触れるとか、それってどういう芸術なのって話をしていくんですけれども、普段僕らが好きなアーティストの音楽を聴いたりとか、好きなイラストレーターさんの絵を見てるときって、やっぱりほっこりしたりとか、すごく心地よかったりするじゃないですか。
もちろんそういうレベルの芸術もあるんだけれども、小編半話はもうちょっと僕らの認識を変えるとか、もっと言うと、いわゆる時間と空間とか因果関係とか、そういう見方を超えたものに連れていってくれる芸術があるよねってことを考えるんですよね。
そういうことかっていうと、例えばですね、何か絵を見ましょうと。それが一本の木とかでもいいし、風景画とかでもいいんだけれども。
僕も全然絵とか苦手すんで、本当に聞いただけでは話なんですけれども、やっぱり絵が上手い人というか、そういう人っていろんな線を引いたときに、一本の完璧な線というか、これしかないっていう線を何本も何本も引く中で見出していくみたいなさ、そういう話って聞いたことないですか?
うん、ある気がする。
だったときに、もちろん目の前にある木とか風景とかも描いてはいるんだけれども、それをただコピーしているわけじゃなくて、木なら木ってものを通じて、そこにある木の本質だったりとか、本来の姿をやっぱり描こうとしているわけですよね。
06:15
あー、なるほどね。はいはいはい。
で、これが小ペン派に言わせると、一部の天才は、みたいなことを言ってるんだけれども、天才的な芸術家は木というものに向き合いながら、その木のまさにイデアっていうものを描くことができるんだと。
そういうものを直感して、そのイデアっていうものを本来に普通の人には見えないイデアを直感して、それを描いているんだっていうふうに考えるんだよね。
おー、なるほど。
なので、風景が綺麗じゃなくて、この目の前の風景を描きながら、この風景の奥にある時間が変わっても変わらないものとか、あるいは空間が変わってもそこに残り続けるものみたいな、そういったものを描いていて、我々の目に見せてくれるんだと。
そういう意味で、芸術っていうものはイデアの世界と繋がって、イデアの世界を我々に見せてくれるんだっていう、そういうことを考えるんですよ。
おー、なるほど。面白いね。そういう特殊技能を持った人たちって考えるとわかりやすいね。
うん。そうそうそうそう。なので、やっぱりこうなんていうのかな、さっきの木の話もそうだけれども、やっぱり僕らは標準の世界でどうしても生きているから、目の前の木っていうものはそこにあるこの木としか見えないわけだよね。
私にも自分とは違うとか、バラバラの木があって、木なんて100本あったら100本なんかわからんじゃんみたいな感じになっちゃうんだけれども、
そういう優れた芸術家とか天才っていうのは、これもやっぱり趣旨学っぽいよね。やっぱり1本の木にその木の本質が宿っていて、
そうそうそう。で、自分と木を一体化させるみたいなさ、そういう風な発言もあったりするじゃん。何か対象と自分が重なるとかさ、でも解き合うみたいな、やっぱりそういう表現ってあると思うんだけれども、
そのぐらい自分の存在を解かすことができると。これって要は世界を切り裂いて個別なものにしちゃう、個体化の原理って本当逆じゃないですか。
そうね。そう。
そういう働きができる人が、逆に言うと天才的な芸術家だっていう風な発想なんだよね。
なるほどね。表彰を表彰のまま描くじゃなくて、石川、もしくはイデア川だよね。この前3段階だったもんね。石、イデア、表彰ってあった時に、せめてイデアの香りがする?
09:06
もしくはそこまでアクセスしたものを、この表彰、世界に持ってこれる人みたいな感じだね。
そうそう、まさにその通りです。
それが人類には時々いるよねっていう話をするんだよね。
なるほど。
今イラストとか絵の話をしたんですけれども、表彰はいろんな芸術があると思うんだけども、音楽っていうものをすごい取り上げるんですよ。
なんでかって言うと、もちろん絵とか詩、いわゆる言葉で作る詩とかもそうなんだけれども、
これは今言ってる通り、イデアの世界っていうものを絵馬に見せてくれますねと。
で、実際にそういったものを触れさせてくれるんだけれども、やっぱりどうしても止まっているというか、その瞬間しか描けないわけですよ。
ああ、はいはいはい。
うん、わかんない。詩だったら流れもできるじゃないかっていう方もいらっしゃるかもしれないんだけれども。
でも、音楽って、やっぱりいろんな要素が絡まり合いながら、時間の中で演じられるんだけれども、
時間を超えたものを表現するみたいな、そういうことができる装置だよねっていう風に小編派は捉えるんですよね。
おおー、そうなのね、はいはい。
うん。つまり、客観的に見ると音楽って、例えばね、1曲だいたい最近3分かな、いやもっと短くて2分かなとかってあったりするんだけれども、
そうじゃなくって、音楽の中に本当に入り込まされてしまうと、時間とかの感化もなくなってしまうみたいな。
3分の曲聴いてるのに、10分くらい聴いた気がするよとかもあるだろうし、そういうことも含めて、
その音楽そのものが、時間とか空間、こういった体験っても届けてくれるよねって。
おおー、なるほど。
で、それっていうのは、もうイディアっていうもの通り過ぎて、わりと意志そのものの世界っていうものを表現できるんだみたいな、そういうことを考えるんですよね。
ああー、そうなのね、はいはいはい。
うん。なので、やっぱり音楽を聴いて、もちろんこれは人の感実性にもよるとは思うんだけれども、
やっぱりこうね、すごい前回のトーク、苦しいみたいな話でいくと、やっぱりこの曲すごい悲しいとかさ、
本当、僕の時だけは音楽聴いただけで泣くこととかあるんだけど、
そのぐらいやっぱり心を揺さぶったりとか、あるいはね、その賑やかで楽しい、サンバとかでもいいけどさ、やっぱりそういうもう、とにかく体動き出したくなるぜみたいなさ、
そういうものだったりするじゃないですか。
はいはいはい。
12:01
うん。っていう時に、やっぱりその、なんだろうな、その、意志って衝動にもなり得るから、
その衝動そのものにアクセスをして、それを呼び起こす、そういう働きってやっぱ音楽ってめっちゃ強いよねっていうようなことを考えるんだよね。
ああー、言わんとすることというか、わかる気がするよね。
えっと、なんだろう、これちょっとハヤトに聞いてみたいんだけど、あの、瞑想ソムリエのハヤトに聞いてみたいんだけど。
もう、その方だけはね、ダメだよ。嘘だね。
はい、嘘。
嘘、瞑想はちょっとやってるぐらいの人ですが、はい。
いや、やっぱさっきほら、最近の曲は3分とか2分って言ってたけどさ、
当時の例えばクラシック、今で言うクラシックとかだったとすると、30分とか1時間とか全然あり得るわけじゃん。
で、そこがやっぱ浸ってると、なんか気づいたら、やっぱ1時間のはずが、もうなんか、あれもう終わりみたいなさ。
もう10秒ぐらいに感じるというかもうゼロに感じるみたいな話ってさ、ちょっと瞑想に近くない?なんか。
あー、はいはい。
その時間、別の世界と繋がってる感覚を得るみたいなさ。
はいはいはい。
まあ、結果として得られるみたいな感じだとは思うんだけど、なんかちょっと近くない?なんか。
そうだね。時間とかを気にしないとか、その方が上手くいくっていう意味では近いなって思うんだよね。
はいはいはいはい。
で、瞑想とか手順書とか見ると、なんかまずは15分ぐらいやりましょうとか。
手順書あるんだ。
手順あるある、そう。
で、10分ぐらいからちょっとこういう心地いい感覚になってきますとかって書いていたりするのよ。
へー、はいはいはい。
で、そっちから入っちゃうと、ちょっと15分アラーム鳴らしてみるかとかさ、そろそろ10分経ったかなとか、やっぱそういうことが気になっちゃうんだよね。
なるほどなるほど。
うん。
でも、そういうのをある種超えて、もうとにかく今この瞬間座って何も考えませんとか、集中して、もうとにかくあるがままにしておきますとかってなると、
やっぱり時間の感覚っていうのがやっぱり溶けてくるというか、分かんなくなってくる感じっていうのは近いかもしれないね。
へー。
うん。
あくまでも素人がね、それも、瞑想も素人がやってるだけの感想ですけど。
はいはいはい。
だからそれで言うと、まあ分かんないよね。
そこはこう、ショーペンハウアーの好みというか、このね、天才っていうものがどう定義するかだけれども、好みだったり相性だったりがあるのかもしれないけれども、
それを感じさせてくれる芸術が確かにあったなっていう感覚があったんだろうね。
15:03
わあ、みたいな。わあ、これちょっと繋がったわ、今みたいな。ちょっと意思と繋がったわ、今っていう。
うん。
あったんだろうね。
そうなんですよね。で、時代で言うとね、これ僕もクラシックとか音楽のこと分かんないからなんだけれども、あのワーグナーっていう人がいたらしくて、ワーグナーって聞いたことある?
名前は聞いたことある。
そう。で、この人がやっぱり音楽っていうものを通じて、やっぱりその、なんだろうな、あらゆるものって誰なんだけれども、やっぱり世界っていうものを表現するっていうことをやったらしくて、
それがニーベルングの指輪かなっていうのが、なんかね、4日ぐらいにわたって演奏されるらしいんだけど、長すぎて。
やっぱりそのぐらいで、いわゆる世界の成り立ちとか、いろんな旅だったりとか、出会いと別れとかっていうものを表現する中で、まさに世界観を描き尽くすみたいなことをやろうとしたらしいんだけれども、
やっぱりそのショーペン・ハワーもワーグナーをすごく尊敬していたし、ワーグナーもショーペン・ハワーだから影響を受けてるのかな、ちょっとここ少し曖昧で申し訳ないんですけど、
交流がある中で、やっぱりそういった芸術が生まれてきたっていう風な時代の流れもあったらしいんですよね。
そうなんだ。
なので、さっき兄貴が言ってくれたような、長い音楽を聴くとか、そういった芸術を体験するけど、すごく短く感じるようなことも含めて、
それをちゃんと意図してとか、そういう世界に連れていこうとして何かを表現する人たちがいたんだよね。
なるほどね。
この時代において。
それが意図せずっていうよりは割と意図してみたいなね。
そうそうそう。それを実現しようとして音楽とか芸術をのめり込んでいたっていう話なので、
これなんとなくやってうまいものができましたじゃなくて、そこにはアクセントとか本当に気に入るものぐらいの表現があるわけです。
前回も言った通り、やっぱり基本的にはこのショーペン派の世界観って、人生は苦しみからしか始まらないですよね。
なので芸術っていうものも基本的には苦しみっていうものから生まれてくる。
やっぱり繋がりたいけど繋がれないとか、目の前の木っていうものを理解してるけどやっぱり理解できない。
どうしても自分と木っていうものが分かれてしまって一つになれないっていう苦しみから、でもなんとかしてそれを描きたいとか本当のことを知りたいとか、
そういうところから出てくるものだし、それは見たときに我々はそこにイデアが現れていて、
18:03
普段の僕らの世界では絶対に触れることができない、その第二段階でイデアの世界に近づくっていうことに喜びを感じるみたいな。
そういうことが芸術家と鑑賞者っていう中では起きているよねっていうふうに考えるんだよね。
面白いね。これをどう見るかっていうと、前回のさ、今日苦を共にする。
この芸術家の苦しみが上手く現れたものに恐怖したときに垣間見える世界なのかもしれないね。
それもあると思う。やっぱり天才と狂気が込み一人とかってあると思うんですけど、
やっぱりそこまで苦しみきるというか、世界を味わい尽くすからこそできるって言ってしまえば、
それまでというか、それをやりきれる人が天才と呼ばれるみたいな。
これがたぶん翔平派はできない世界観だと思う。
最近でこそ天才って言っても別に苦しむだけじゃないとか、楽しんでやった方がいいとかっていう話もあると思うんだけど。
まあね、それに越したことはないけど、そこはもうそれぞれだから。
今、前回の狂気っていうところと繋げちゃったんだけれども、
いわゆるこの翔平派はというところの悲観的なというか、
こんな感じか、みたいな世の中でどうしましょうっていうときの感覚からすると、
たぶんこういう芸術に出会ったときの感覚っていうのが、
どっちかというと芸術家との恐怖とか、
芸術そのものとの恐怖とか恐観っていうよりは、たぶんイデアだったり意思っていうもの。
自分は表彰だから、その表彰である自分が、実は意思から出たんだよ。
意思と表裏一体なんだよっていうことを、一瞬思い出すことができるというか。
そういう懐かしさ、教習みたいなものに近い感覚を呼び覚まさせてくれるのかなっていうふうに思ったね。
だからそれが、早藤さん前半で言ってた癒やしとか、一瞬この辛いというか、悲観的な世の中を忘れるみたいな。
そういうのにちょっと近いのかなっていうふうに思ったね。
でも本当にそうですね。
前回恐怖っていう話をしたので、そっちのイメージがあると思うんですけれども、
あくまでも芸術作品と自分っていう意味で言うと、兄貴が言ってくれたような恐怖というよりは、
やっぱりそこに憧れるとか懐かしいとか教習とかそういうふうな気持ちがあって、それで一瞬癒やされますねと。
21:03
だからあれでもね、例えば状況をして、田舎から状況をして、
例えば東京のいろんなスーパーを回ったんだけど、あれと、自分が食べたいパンがないと、どうしよう。
福田パンね。
なんで答え言っちゃうんだよ。
言わないほうがいい?
いいけどさ、っていうときに、東京で見つけた福田パンたるいやみたいな、これだよっていう感覚が近いのかな。
ごめん。隠してたんじゃなくて、後で言おうと思ってたのね。
岩ってあらわれですけれども。
それが兄貴の中での、いわゆるスーパーのイデアであり風景のイデアであり、そこにやっぱり福田パンというのが欠かせない存在としてあるわけだよね。
スーパーの風景というよりは、自分の胃袋との話だけどね。自覚と胃袋の話だけれども。
はいはいはい、なるほどね。
やっぱりそういう本質が欠けているとかさ、あるべきものがないっていう感覚があったときに、
木を全部見てても、それぞれが一つ一つの存在としか見えないときに、
デュエース家の描いた木を見ると、これが本当の木の本質だったんだとか、
これを自分が求めてたんだっていうふうにほっと気づくみたいな。
確かにそうだね。自分のパンのイデアは福田パンだから。
自分の場合は仙台。実際東京じゃなくて仙台だったんだけど。
結構絶望したもんね。一人暮らしを始めて。
あれ?っていうのが、一番最初に一人暮らしで感じた違和感がパンだったんだよね。
パンコーナーとか行ってもないよね。
どうしよう。何買えばいいんだ、自分はみたいな。
どうしよう。
あとは京都行ったとき思わなかった。
それはさすがに遠かったからないだろうなって思ってたし。
あとは、そこまで僕福田パンにパンのイデアを感じないかもしれない。
そうなんだ。地元トークみたいなの知らない人にはごめんなさいって話したけど。
よかったらね、森岡とか行ったらね、ぜひ福田パン駅でも売ってるんでよかったら食べてみていただけたらあると思うんですけど。
でもそういうことはね、やっぱりあるべきものがないっていう感覚だったときに、それはもうしょうがない。
何度も言ってる通り、人間の生きてる現実の世界がそういうふうに切り取られてるからあるべきものがない世界なんだっていう話なんだけれども。
それをやっぱり繋いでくれるのが芸術家ですね。
やっぱりこれって映画みたいな話で、映画館にいて見てる間はいいんだけど、どうしてもやっぱり現実に戻っちゃうんですよね。
24:06
だからね、仙台の福田パンもさ、1個食べたらもうなくなっちゃって、次の福田パンがないってなっちゃうわけじゃないですか。
そういうふうにやっぱり戻っちゃうんですよね、現実のほうに。
だからやっぱり芸術っていうものは、もちろんそうやって僕らを作ってくれるというかね、
イデアと繋げてくれるんだけれども、やっぱりどうしても限界があります。
やっぱり1回見た絵の感動と、2回3回出るときの感動って違ったりもするし、
同じオーケストラとかクラシックを聴いたとしても、やっぱり最初の感動ってなかなかもう1回味わってやっぱり難しかったりすると思うんですよね。
それは多分自分のスタンスの問題かもしれないけれども、そういうふうにやっぱりそこに入り込み続けては難しいので、
やっぱりそれも、ある種、前回言ったような意思の否定っていうところまではなかなか至らないよね。
あとはやっぱり、あくまでも芸術作品、イデアと自分との繋がりっていうのはできるけれども、
それは現実世界の他の人、前回言った何時忘れなりみたいな、他の人とか木とかそういった存在も本来的には意思なんだと。
目の前の本当は1本の木もイデアの表れらしい意思の表れなんだけど、僕はそれを見る目がない。
そういうふうに感じる力がないから、やっぱり苦しんでいるんだみたいなところにはやっぱり効かないという。
そこまでは超えさせてくれないっていうふうな感じなんだよね。
はいはい。でもそうだね。もちろん芸術と触れ合う時間が終わったら、
現実に戻っちゃうみたいなものはあるかもしれないけれども、
ただやっぱりお土産としての、やっぱりイデアはあるのかもしれないみたいな感覚。
そういうお土産は重要なのかもしれないよね。
特に前回最後言ったような、せめてこの世界の構造というかどうなっているかをあれ程度認識するといいよねみたいなところで言うと。
そうそうそうそう。
逆にショッペンハウアーから言わせると、今回も音楽を聴いて感動したことあるでしょ、絵を見て素晴らしいと思ったことあるでしょ、みたいな。
それがあなたがイデアと繋がった瞬間なんですよ、みたいな。
そういうふうにして自分の世界観というものの理解を深めさせようとできるみたいな、そういう感じもあるよね。
なるほどなるほど、確かに確かにそうだね。
ショッペンハウアーの話をみんなわかってくれないから、少し短いに落としてやろうみたいなね。
27:06
そうそうそう。
これは第2回か3回だと思うんだけども、始まりはめちゃめちゃ現実の話だったじゃないですか。
つまり、自分の体っていうものを考えたときに、外から見て動いてる手っていうものと、動かそうとしてる意志というか、そういった衝動みたいなものがあったときに、
物理的なものにも二つの力があるし、働いてるというかその捉え方ができるってところから始まっているから、
本来的にはすごい現実的というか、地に足のついたところから始まってたわけではあるんだよね。
だからこそ、やっぱり体っていうものを大事に育ったりとか、音楽とか芸術っていうものとの接続とか、
あるいは前回やったような他の人の苦しみを感じるとか、結構そういう身近な例と繋がりが安いっていうのが、そういった出発点がそもそも地に足ついてるからっていうところもあるんだと思うんだよね。
はいはい。どうも面白いね、確かに。それで言うと、ショーペン・ハワワが言うところの、いわゆる天才的な芸術っていうのが、
その意志と表彰の距離というか、違いがすごく少ないんだろうね。
そうそうそう。
っていう話だよね。普通は意志と表彰っていうものは全然違うものとして現れたりするんだけど、
こういう芸術は芸術作品そのものと、表彰としての芸術作品そのものと、意志としての芸術作品そのものがだいぶ70%重なってるみたいな。
あーなるほどね。
普通の人は手を動かしたとかさ、そういう時にも、手を動かしたっていう表彰と、動かそうと思ったところの意志が、
そのマッチ具合が10%とかさ、そういうものが多いんだけど、みたいなイメージ。
なるほどね。それは人間の捉え方のバランスって話ではそうかなと思うね。
意志と表彰は基本的には表裏一体だって言ってたじゃないですか。
だから100%マッチしてるんだね。
基本100%マッチしてるんだよ。それを僕ら捉える時に別々なものにしちゃうっていう話があって。
なので僕ら普通に生きてると、先生のこと10%ぐらいしか意志のこと知らないってあるんだけれども、
その芸術家の作った、天才的な芸術家の作った作品っていうものが、
それをある種ちゃんと重なってるよねっていう風に捉えさせてくれるとか、
ある種それを剥がすことを許さないみたいな、そういう力があるよねっていう方が近いかな。
30:06
はいはいはい。なるほどなるほど。
つまりこれは1本の目の前にある木を描いたのだけれども、
その奥には木というものの本質とか、木というものに深く入り込んだ、
そういった視点というものは表現されているっていうことが見てる人にもわかるみたいな。
はいはいはいはい。
そういう感じだと思う。
なるほどなるほど。
ややこしいし、それを見る目が本当にどうしたら育つのかっていうのもあるけどね。
そこはね、ただその見る目っていうのは、
育つっていうのはこのショーペンハーブナーの言う、
天才ってみんなが認めないと天才じゃないからさ、基本的には。
確かにね。
そういう意味でそういった芸術にはその普遍性があるから、
そのセンスがない人にも届くものを作れる人のことを天才というのであれば、
あんまりこっちのセンスは気にしなくていいというか、
せめてセンスないかもねって思いながら、
本物のそういう芸術に触れながら磨いていくしかないんじゃないかなみたいなね。
それはあるね、確かに。
だからそういった意味で今日芸術の話をしてきたんですけれども、
前回のそういった倫理とか教育みたいな話と重ね合わせたときに、
前から縦っていう話で神様と自分という関係と横っていう他の人とか存在、
それが実は同じだって話をしたんですけれども、
天才が作った芸術作品でも対象にしたときに、
そこと自分の繋がりっていう中で、
意志の支配というか、
どうにもならない世界というものを一歩抜け出すことができる。
そういう抜け道っていうものを、
ショーペン派は示してくれてましたっていう感じなんだよね。
どうでしょう。
お兄さんも苦しい世界だけど、
芸術と神様と他の人も苦しんでいるっていう三つがあれば、
生きていけるんじゃないかと思うんですけど、どうですかね。
まあ無理だね。
前回もそうだったけどね。
いやまあ無理っていうとはね、
それもおかしいけれども、
西洋哲学の文脈の中でこういう話をしているのって、
すごい実は新鮮なんじゃないかって思ったっていうのがあって、
無理ではないけど、
これを目指す、
目指していいのだろうかっていうふうな視点で、
この考え方だったりとか挙動みたいなものを、
自分でも取り入れてやっていこうと思っていいのかどうかみたいなところで言うと、
33:06
もちろんプロテスタントの感覚がショーペン派にはあるみたいな話はしてたから、
我々というかね、別の文化圏の人がこれを100%理解できるのかっていうのは一旦置いといたとして、
人が真っ当なことを言ってそうだぞっていう意味で信頼していいのかなとは思ったね。
はいはいはいはい。
すごい良い距離感だね。
これまで結構兄貴すぐ肩組んで、分かる分かるとかって言ってた気がしてるんだけど、
すぐに肩を組むでもなく、羽根のけるでもない、
そのちょうど良い距離感が今、ショーペン派と生まれてる気がする。
ありがとうございます。
はいはい。
でもやっぱりおっさんが言ってる通りで、やっぱりどうしても西洋哲学で真理みたいな話をすると、
それを信じるしかないとか、
理解できたらいいけど理解できなかったらもう無理みたいなさ、
ゼロか100かみたいなところって多かった気がするんですよね。
今回もではあるけど、土台のところをすごく共感できるか理解できるかみたいなところにしたい。
もちろんそこはあるけれども、そこまで絶対ないよねとは言い切れない。
たぶんそれは恐怖みたいな話も、
確かに人生が世の中って苦しみに溢れてるみたいな話、
僕らの仏教的な感覚としてもあるだろうし、
構造的に確かに僕らは時間と空間という中でしか物を捉えられませんって言われたら、
確かにそうだよねって思うじゃないですか。
それを超えるための瞑想とか、たぶんいろんな認識法とかあるとは思うんだけれども、
基本的にはそうですねと。
かつ、僕ら生きていて普段欲望に強がされてるでしょ、
子として分断されてるでしょっていうのも、やっぱりなんかわかる。
200年ね、ショーペンハーワーの生まれた時代とは違うんだけれども、
200年後の全然違う文化にいる僕らが聞いても、
確かにそれって言われてみたら、100はわかんないけどあるよねって言える。
そういうものを積み上げてここまで語ってるっていうのが、
あらためてショーペンハーワーのすごさというか、
やっぱり否定しきれないっていうか、むしろ、
やっぱりもうちょっと知りたいって思ってしまうところなんだよなっていうふうに僕自身思ったんだよね。
なんかすごく面白いよね。
例えば、僕は芸術にしても、
36:01
その芸術って何なの?みたいな定義みたいなところも、
そこは結構バシッと言ってくれてて。
ハヤトは今回エンタメとかとちょっと違うけどみたいな話があったときに、
その境界線みたいなものを、
上手く、割と納得いくところで引いてくれてる感覚はあるのかなーみたいなね。
うん。
やっぱりいわゆるいっぱい限りのエンタメというか、
お祭り感っていうのもいいけれども、
やっぱりそのお祭りの本質とか、
何かそういうものがあったとしたときに、
それがより芸術的なお祭りであるとか、
よりイデアを見せてくれるお祭りであるとかってことも言えると思うんだよね。
だからそういうような言葉を与えてくれるというか、見方を与えてくれる。
すごい応用が効きやすいなって思うんだよね。
だから例えばさっきエンタメと芸術みたいなものに言論的に語ったけれども、
そうじゃなくて、このエンタメにはエンタメ成分と芸術成分がこんぐらいずつあるかなみたいな、
そういう、この芸術に関しても割合こうだよねみたいな。
だから芸術100、エンタメゼロみたいなものもあれば、
芸術100、エンタメ100っていうとんでもないものがあったりとか、
エンタメ100、芸術ゼロみたいなものはいっぱいあるかもしれないし、
そういう言論っていうよりは、そういう視点を増やしてくれたかなみたいな。
もしくはそういうのが割と納得性が高い感じをするかなーみたいなね。
なるほどね。確かにそういう意味で本当に、
僕らが普段の言葉で語ってもあんまり変にならない。
じゃあその根底にある意志とか、悲観主義とかっていう言葉だけ気をつけておけば、
ある程度いろんなことが話ができるっていう、
そういう土台を提供してくれるっていう意味ではすごく面白いというか、
ショーペン・ハワワが考えたことってすごく響くなっていう感じがね、
みなさんにも届いてると嬉しいなという感じですね。
いやー面白いね。
どうしてもね、もっと仏教だったりとかインド哲学とか、
何ならその現在とかさ、ちゃんとその辺もわかった上で、
混ぜると面白そうだなーみたいなね。混ぜるというかね。
あー確かにね。
この辺深まると、ビンとくる人っているのかなーみたいなね。
はいはいはい。確かにね。
39:00
そういうところはね、スウェーデンテッドラジオでも今後もしかしたらまた古代のインドをやりますとかさ、
古代インドが今現代でこうなってますとかっていうのもやる時も来るかなと思うので、
そこでまたショーペン・ハワワとか思い出したりとか聞き直すとまた新しい発見があるかなと思いますね。
という感じで今回全6回でショーペン・ハワワやらせていただきましたと。
はいお疲れ様でした。
本当にね、僕も全然実は知らないというかね、
名前ぐらいは知ってるけどってところから始まりましたけれども、
知れば知るほど面白いというか味があるというか、
そういうもっと知りたくなる人だなってやっぱ本当に思った哲学者だったなって思いますし、
たぶんこれってこの前のカウントとかもそうなんだけれども、
前回はさっきとおり次にニーチェやってくるんですけど、
ニーチェから聞いとったショーペン・ハワワ、
要は批判されるわけですよ、乗り越えられるわけなんですけれども、
観点で見ていくとまた違った発見もあると思うので、
ニーチェ界で割りつつショーペン・ハワワにもまた戻ってくるというかね、
繋がってくるみたいな、そんな感じで楽しんでいただけるといいんじゃないかなと思ってますね。
へー、楽しみだね。ニーチェはこれをいいねって言ったっていうよりは、
結構ここ足りなくないみたいな話をしてるって感じなの?
それでいくといいねって、ショーペン・ハワワすげえってやった結果、
いやまだ先があるぞとか、ちょっと違ったぞみたいな感じで、
田元を分かつというか、自分なりの方向に進んでいくっていう感じらしいね。
なるほどなるほど、なんかいいね。
朱子学とかでもなかった?誰だって、博物知事至らなかったよみたいな。
はいはい、朱希と大陽明かな。
大陽明がそれ無理だよって言って陽明学を作ったみたいな感じだったっていうか、
確か朱子学めっちゃやろうとしてたよね、大陽明か。
そうですそうです。
めっちゃ修行してたよね。
めっちゃ修行してたし、めっちゃ本筋でやってたんだけど無理だったみたいな。
そこには結構時代が離れているけれども、
ショーペン・ハワワとニーチェは結構近いんですよね。
一応生まれた年代も重なってはいて、直接の交流はなかったらしいんですけど、
ニーチェが結構若い頃にショーペン・ハワワの、まさに異種と標準の世界っていう本を読んで、
結構ショーペン・ハワワに傾倒するというか。
なるほど、一回そうちゃんとやってんだ。
そうそうそう。
っていうところを通ってるんですよね。
42:00
その後ね、やっぱりショーペン・ハワワにも乗り越えるところがあるって言って、独自の道を行くみたいな。
かっこいいね。
そういう流れがあるんですよ。
そういったニーチェの捉え方を見るのも面白いと思う。
ニーチェもやってからだいぶ経ってるからね。
キーワード超人とかさ、そういう英語の書きだけか。
そうだね。
そういうキーワードしか覚えてないからな。楽しみだね。
僕も当時でいくと、ニーチェ単体というか、
ニーチェはこんなことを言っていたぞぐらいのことしか当然言えてなかっただろうと思うから。
今回ね、ちゃんとヘイゲルやったように、ショーペン・ハワワニーチェって繋がりもあるし、
あとね、今の手元にあるんですけど、ヘイゲルからニーチェみたいな、そこの繋がりを書いてるような本とかもあるんですよ、世の中的に。
同じドイツで生まれた哲学者というか、人たちなので、そこをちゃんと繋げていくと、
カントからヘイゲルまでって話と、今回のショーペン・ハワワと、さらにニーチェみたいなところが繋がっていって、
より広い解釈というか理解につながるかなと思うので。
それを経て、いよいよ19世紀20世紀の哲学みたいなところに、今年は攻め込んでいきたい。
なるほど、そっかそっか。今やってるあたりが19世紀の哲学者の胴体みたいなね、ちょうどこう。
スシリって感じかなと。
なるほど、そうなんだね。
そういうところでね、僕自身も力を得らずではありますが、頑張って時代的な広がりも踏まえながら、
今回はニーチェですよとか、今回は誰ですよとかっていうのしかやってきてないと思うので、
ぜひ皆さんもそういう形で引き続き楽しんでいただけたら嬉しいなと思っております。
はい、わかりました。
では今回でショーペンハワー編終了ということで、次回ニーチェですね、楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
44:34

コメント

スクロール