誕生日パーティーと配信の開始
おっすおっす、おはようございます。
こんにちは、こんばんは、こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
今日は家族の誕生日会ということでですね、誕生日のパーティーの準備をさせていただいたりとかしていて、
この時間に、まあちょっとイレギュラーな形ですけれども、ライブ配信ということになりました。
はい、まあかなりね、楽しいパーティーが繰り広げられておりまして、
今ちょっと中締め、中締めっていうんでしょうかね、一旦お開きというか、そんな感じになっていて、
まあこの後もう1回みんなで集まってね、パーティー繰り広げられるというようなところになっております。
まあそのね、パーティーとパーティーの間の時間に、今日はこのライブ配信をさせていただきたいと思っております。
いやもう今日はね、雨が降っておりまして、雨の中ですね、朝は農業にまつわるお仕事をさせていただいてきましたよ。
もうね、本当にね、今いる職場、職場っていうか、もうちゃんが今関わらせていただいているお仕事って本当にね、年配の方々ばっかりなんですね。
もうちゃんが最年少でありまして、あとはですね、もう6、7十代っていう感じなのかな、もうおじいちゃんおばあちゃんたちに囲まれてね、お仕事をさせていただいているんですよ。
だからね、しかもね、この高知弁、土佐弁っていう感じがあってね、もう何を言っているのかがわからない時が本当にあって申し訳ない、もう何をおっしゃっているのかがわかりませんみたいなところがあったりします。
そらにゃん、こんばんは。ゆっくりしていってくださいね。ありがとうございます。今日もありがとうございます。
本当にね、何を話されているのかがわからない。でも、このね、曲がりなりにも3年間、今丸4年目になりますけども、高知県に住ませていただくとですね、なんとなくこの土佐弁、わかってくるものですね。
相手が何を伝えたいのかっていうのがなんとなくこうわかってきてですね、僕の中に土佐弁のボキャブラリーっていうんでしょうかね、語彙が増えたかって言われたら、まあ3年前とさほど大きくは変わってはいないんだろうなと思うんですけれども、その鉛とかね、方言めいたね、その話し方っていうのがもうちゃんの中にですね、こうスッと入ってくるようになった。
ニーチェの影響と人生の導き
そして意思疎通ができるようになったんだというようなことがありますね。今日はですね、タイトルに光を覗くとき、光もまたこちらを覗いているのだとしたら、なんていうねテーマを掲げさせていただきました。これはフリードリヒニーチェですね。
ニーチェの言葉でね、深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだというね、そんな深い深い願蓄に富んだ言葉があるんですけれども、それをね、もじらせていただいて作らせていただきました。
最近もうちゃん思うのがですね、自分の力で何ともならないことっていっぱいあるんだなと思いつつ、それは決して悲観的になることではなくてですね、面白いことに、なんかこう自分の力だけではない、いわゆるですね、追い風みたいなものが自分の背中をグンと押していくことがあるよなぁと思ったりするんですね。
また自分が進もうと思っていたような道ではないところに、何かしらこう導かれているような気がしているんですね。
そう思うと、様々な偉人たちのですね、過去のその経験とか教訓とかをね読み解いていくと、一人一人のその人生に触れていくとですね、
いやー、この人もそうだったか、みたいなね、自分の意思で決めたのかと思っていたけども、迷わずまっしぐらその道を行っていたのかと思ったんだけども、かなり数奇な人生運命を辿って、そしてその人にしか成し遂げられない、そんな仕事に巡り合ったんだなぁということをね、まあ感じるわけですね。
ということで、今日はそんな話をしていきたいと思っているんです。
今日ね、この番組の応援をさせていただこうと思っております。応援コールですね。まずね、やらせていただきたいと思っております。
この番組は色鉛筆画家、色鉛筆ですとても繊細な作品を仕上げてくださっている松梨香さんを応援させていただいております。
松梨香さんの作品が本日、僕の元にも届きまして、まだですね、一番最初の一つ目の作品しか見ていないんですけれども、
色鉛筆ってこんな表現ができるのかと感動をしているところでございます。もしよろしければ、松梨香さんのこともチェックしていただけたらと思います。
ということで、本題始めていきましょう。
そらにゃん、いいコメントありがとうございます。絵にたどり着くまで30数年でした。
そらにゃんも前におっしゃってくださっておりましたよね。
私が絵を描いてもいいの?っていうね、そういうふうな心境、そういった心持ちになったことがあると。
それはお客様からだったっけ、人からあなた、あなたが描くべきものだよって、お客さんじゃないか、絵を依頼してた。
そらにゃんが絵を依頼してたんですよね、別の方にね。
でもそれ、あなたが描いた方がいいよっていうふうな言葉をいただいて、そして自分自身が絵の道に進むことになった。
あ、そうです。よかったよかった。
これってその人の一言があったからこそ、一歩進めたっていうことがあると思うんですね。
でも多分その言葉がなかったとしても、いつかは絵にたどり着けたと思う。
でもきっと自分自身の道を歩いている中で、様々なところからメッセージが届いていたんですよね、きっとね。
で、その中の一つが、そらにゃんに強くしたたかにメッセージを届けてくださる方で、あなたが描くべきよって言ってくださったと。
僕はそんなふうに感じたんで、僕はね、僕はそんなふうに感じたんですよ。
人はね、結構こういうことってあって、自分自身で歩みを進めていると思いきや、そうじゃないことがあると。
もうちゃんね、ちょっとね、キャリアの仕事をさせていただいたこともあって、この前はキャリアの本をね、ちょっと強調で書かせていただいたことがあるんですけども。
まあね、これよくあるんですけども、クランボルツさんという先生がいらっしゃってですね、もうキャリアの名家ですね。
クランボルツ理論というのがあってですね、この方がおっしゃるにはですね、なるほどと思うんですね。
まあ人ってほとんどが偶然で人生出来上がってますよっていうことです。
まあね、人生を成功しているって何をもって成功なのかって言うと分からないんですけども、例えば社長やったりとかアーティストやったりとか、
なんかこう自分の人生を謳歌しているなぁと世間一般では思われている人たちにこんなアンケートを取るんですね。
あなたはもう元からこういう人生を歩むと思ってましたか?なんていうふうにね、聞くんですよ。
そしたらそのアンケートに回答をされるんですね。
そうすると、いやこんな人生を送るなんて全くもって思ってませんでしたっていう人の方がほとんどだったってことなんですね。
まず自分のキャリアとか生き方を考える時にどんな筋道を立てて計画を立てて、ライフプランニングって言うんですかね。
何歳に就職をして、何歳に結婚をして、何歳にとかっていう様々な見通しを立てるんですけど、それを踏もうと思ってもその通りにならない。
だけど今めっちゃ幸せっていうことが本当にあって、人生っていうのは計画通りに一切思い通りにならないものだって思うと、そんな人だっているということなんですね。
そらにゃん、そうなんですが届きまくってたのをことごとくスルーしてきましたので。
そらにゃん、その届きまくってたっていうのっていつのタイミングでわかったんですか?
今振り返るとあの時っていう感じですか?
それともその過虫にいた時に、絵から呼ばれてるみたいな、絵を描くんだっていうことをメッセージにいっぱい届いてたけど、
でもその時にあえて、気づいてたけどスルーしてたみたいな感じでしょうかね。
いや、こういうことがね、面白いですよね。
だから人の生き方って面白いんだなぁなんていうことをね、思います。
あ、なるほど。そらにゃん、過虫は全くです。
へーって、なるほど。
過虫にいた時は届いているということはあまりわからなかった。
しかし、その一人の方があなたは描いた方がいいよっていうふうに言われていってくださって、それで気が付いたということですね。
なるほど、教えてくださってありがとうございます。
確かにこの過虫にいる時っていうのは本当にわからないことがいっぱいあるなぁって思ったんですね。
民族学と人々の営み
もうちゃん自身も今ですね、様々な偉人だとか、特にですね、僕、民族学とかっていう歴史、歴史じゃないね、民族学というものに興味を持っています。
民族学って一体どんな学問なのかというとですね、歴史っていうのは本当にこう中央の動きですよね。
政治的な動きがほとんどだと思うんですよね。
つまり、政治、制度、法律がどう出来上がってきたとか、戦いが起こってどっちが勝ったかっていう勝者の歴史、勝者の歴史がずっとずっと連なってきたのがこの歴史であって、僕たちが学校で学んできたものなんですよね。
なんですが、その子からこぼれ落ちてしまっている、その人々が紡いできた営みの欠片っていうものがいっぱい、この世界に満ちているよねということなんですよね。
本当に簡単に言うとですね、本当に考えつくもので言うと、農民の歴史なんていうものは表には出てこないんですね。
人々がどんな風に動いて、どんな思いで生きてきたのか、そしてどんな儀式を紡いできたのか、そしてどんな戦いがあって、今この農業の一つ一つの技術っていうのが受け継がれてきたのかとかっていうことって、救おうとしなければこぼれ落ちてしまっているもの、でもその地域とかその人の中には必ず持ってあるものなんですよね。
そしてこの大きな社会っていうかね、世界を動かしているのって、実はその異性者、政治を行っている人たちだけではなくて、むしろこの一人一人の国民の中にある、この心の中に刻み込まれた、染み込んできた、そんな文化や伝統や思いや精神性っていうものなんじゃないかっていうことなんですよね。
なのでそういったところを紐解いていくと何が見えてくるのか、例えば伝承とか伝説とかね、そこにどんな言い伝えがあるのかとかね、それを思うと面白いことがいっぱい起こってくるわけですよ。
ここに何故人が住む場所ができているのかとかね、何でここよりも下のところにはできてないのかとかですね、そういうのがいろいろ見えてくるんですね。
例えば山の中腹に山集落、町とか村があるっていう場所があったりします。
その下には何で作られないのか、その上には何で町とか村が作られていないのかなんていうことは、実は伝承で残っていったりします。
たびたび竜が起こるからなんとかって言ってですね、これ一体何かっていうと、その下の方に住んでいると川のそばにあるですね、その木とかをやっぱり切らなきゃいけないと、その川の木を切ると竜が起こってですね、そして僕たちに牙を剥いてくるなんていう伝説が残っている地域があるんですね。
これ本当によくあるパターンの伝承でですね、それ一体何を意味するのかというと、木とかっていうのは川のほとりの木はね、その川の流れを守っているっていうことなんですよね。
でもその川のほとりにある木をむやみやたらに切ってしまうと、その川が氾濫をする。この川の流れっていうのは蛇に例えられたり、竜に例えられたりすると。
この蛇や竜の怒りを飼ってしまう。そうすると僕たちの民家とかね、家とか村とか町とかを襲ってしまう。だからこのそばには人は住まない方がいいよということがあって、そして中腹の方にあると。
それよりも奥は、ここは獣たちの住処だからなんていうことがあったりとかして、そういう伝説伝承があって、僕たちの町とか僕たちが今住んでいる場所っていうのは意味があってここにあるんですよね。
柳宗義の民芸観
なんとなくここに人が寄り集まってできたっていうことではなくって、実は一人一人の中に染み込んでいる伝説とか伝承とかっていうものがあるんだよっていうことなんですね。
そんなことを紐解いているとですね、一人一人のですね、暮らし向きっていうものにも目が行くようになってくるんですね。
今、モーちゃんが結構注目をしてですね、学ばせていただいているのが柳宗義さんという方なんです。もちろんもうとっくに亡くなられてしまっている方なんですけれども、この方はですね、民芸というものを発見をした人なんですね。
民芸品とかってあるじゃないですか。あの民芸品っていうのは、つまるところ生活で普通に普段使われていたものじゃないですか。例えばお皿とかさ、例えば焼き物だとかさ、そういうものがすごく価値があるものなんだよと。
普段その人たちが使っているものの、その道具の中にものすごく見た目以上のものが含まれていて、その神秘的な形であったり、意味合いであったり、それを使う人たちの心の中というところまで見ることによってですね、
その民芸というものは素晴らしいということを感じて伝えてくれていると、もうちゃんは解釈をしているんですけれどもね。こういった僕たちの普段使っているものの中にはそういう素晴らしさがあるんだけど、もうちゃんたちはそれはただの箸でしょとか、ただのコップでしょとか、ただのタンスでしょとか、ただの家でしょとか、ただの物欲しさんでしょとかね。
そうやってその機能ばっかりに目が行っているんだけども、その形とか形状とかその素材とか、そしてそこに刻まれたですね、職人さんたちの、メーカーたちのですね、思いとかに触れていくと、ちょっとまた見え方が変わってくるんじゃないかなということなんですね。
その柳宗義さんはどうしてそういうことに見出すことができるようになったのかというとですね、実はこれはですね、こんなことを言ってるんですね。すごく不思議な話なんですけれども、自分が何か見出したのではなく、向こうが自分のことを見出してくれたんだって言うんですね。
柳宗義さんの例を挙げて言うとですね、一つはですね、仏像だったんですよ。でもその仏像っていうのは、もう当たり前のようにですね、集落の人たち、住んでいる人たちにとってはですね、受け入れられているものというか、もう馴染みのあるものでですね、その仏像を肌身離さず持って行ったりするんですけども、
まあね、このビニール袋、スーパーのビニール袋にポンと入れてですね、仏像さんに何にも包まずですね、なんとこのスーパーの袋に入れてですね、仏像を持ち歩くみたいなくらいですね、本当に乱奪に扱われている。でもその仏像をよくよく眺めてみるとですね、なんか自分の方に訴えかけてくれているような気がすると、なんかこの感覚ってありますよね。
ぬいぐるみがずらーっとさ、お店に並んでいたときに、なんか私を家に連れて帰ってって言っているような、言われているようなこの感覚にすごく似ているなと思いましてね。
で、それでですよ、その仏像に見出された自分っていうのがいて、そしてその世界、なんかこう昔の人がですね、大切に作っていった、そして大切に使っていたそのもの一つ一つに魅力を持っていくというか、魅力を感じていくというか、取り憑かれていくというかですね、まあそのような形になっていくんだそうです。
そしてですね、こんな言葉も残しております。それはですね、やはり自分自身、なんか大きな仕事だとか、何かこう大きなそうですね、成果を残すだとか、まあそんなことをするとですね、何かにやっぱり突き動かされるような感覚があって、それは自分自身の感覚ではないということなんですね。
まあ本当に僕たちが感じている繋がりとか五縁っていうのは、僕たちが感じられる程度のレベルっていうのは、本当にね、本当にもうこの爪の先ぐらいの、小指の爪の先ぐらいのですね、本当に些細なものであって、本当はもっともっと太い繋がりの中で僕たちは生きているんじゃないかっていうことをおっしゃっておりますね。
たとえがっていうことで、たとえが適切だったかわかりませんけれども、まあ可愛いたとえもいろいろ出させていただいておりますけどね、本当にね、だってさ、結構僕は不思議に思うのは、鳥がさ、なんでこう季節を巡って同じ場所にやってくるのかとかね、渡り鳥ってやつですね、ツマメとかね、とかさ、
あとすごく不思議だなって思うのはですね、あの蝶々ですね、蝶がさ、いつもその山奥のそのですね、なんか一輪の花、いつも同じ場所にその一輪の花が咲くんだけど、その花をめがけてやってくるんですよね、そんなのって僕たちにはわからない、この花が何を発しているのか、そしてその蝶が何を受け取っているのかなってわからないんだけども、
その蝶はひらひらひらひらとはためいて、その花にちゃんと来るんですね、毎年違う蝶だと思いますけども、でもなぜか来る、それはその蝶と蝶の間でコミュニケーションが行われていたりとか、あと蝶と蝶のこの水平的な繋がりだけではなくて、
この時空を超えた、つまりこの先祖っていうね、先祖じゃないな、自分の子供たちへのですね、何かこう遺伝子というものに繋がっているようにも思えますね、これ研究でも本当にあるみたいで、その蝶っていうのは自分一代で終わるものではなくて、何かその情報を次の世代に残して自分の代を終えていくなんていうことがあって、
だからこそその一定のですね、場所にどんどんどんどん集まってくることができるんだっていうようなね、ことを言っている人もいるくらいです、不思議な世界だよね、だから何が言いたいのかっていうと、僕たちが見えているようなこの繋がりっていうのはほんの一部だけなんだなーっていうことを思うんですね、
だから大いに僕たちは本当にこう目に見えないところっていうものも見ていかないとないとか感じていきたいねっていうようなことがあって、感じらんよりも感じた方がすごく豊かだよねって思ったり、信じないより信じた方が豊かだよねなんて僕は思うんですね、で、今日お伝えしたいのがこの見るっていうことなんですね、見るっていうことです、
見るっていう感じって結構あるんじゃないですか、あの目って書いてこの腹ってヒューってでしょって跳ねる、まああのよくある見るですね、もう本当小学校1年生とか2年生で見る、あの習うような見るっていう感じ、まああれ目に人足っていうものがついてるんですね、部首としてはね、部位としては、なので人の目っていうような意味がそこに込められていると、
あとは診療ですね、診療ね、何かこうお医者さんが診断をする時にやるのをあれも見るって書くし、あとやっぱり観光、観光するって言ったり観察するっていう時のあの観という字が見ると読んだりすると、
これの意味合いっていうのは皆さんも本当によくわかっているところだと思いますね、わかりますよね、なんかぼんやりと眺めるのが一番最初に言った一番簡単な見るでさ、医療とかそういったものとか、あとその人の見た目ではわからないところまでぐっと見ていくっていうのがこの診断の心であったりとかさ、
じゃあ観察の観ってなるのかっていうのはじっくり見るとかっていうことなのかなぁなんていうこと思うんですけど、今日モーちゃんはこの見るっていうところの一つの文字をこの言葉からお話ししてみたいと思うんですね、それは観光ですね、観光地、旅行、ツーリズム、あれの観光っていうところですね、あれ光を見るって書くんですよね、
いやこの光を見るって書くっていうのはすごく不思議な字の並びだなぁなんて思って、光を見るのが観光、旅行をするっていうことなのかなんていうふうに思うとですね、なんか不思議な心持ちになるのはモーちゃんだけでしょうか、ということでですね、
リザさんこんばんは、ゆっくりしていってくださいね、ありがとうございます、いつもいつも、はい、この観光っていうのはもともとその中国の言葉に液晶っていうですね、そういう文書があって、本があって、その中に出てくる言葉なんですよね、
簡単に言うと何かっていうと、観光っていうのはこの光を見ることっていうのは、何の光なのかというと国の光を見ることっていうことで出てくるんですね、その国にある文化、歴史、それから自然、それから宗教、信仰だったりとか教育だったり、または経済とか様々なものがあると、
ただものを見るだけではなくて、そのもっともっと深いところ深淵にまで目をやることなんだっていうことが実はそこに込められているんですね、それでですよ、それで日本では古来、観光って何から始まったのかっていうと、もうこれですよ、神社とか仏閣巡りから始まるんですね、
その中でもやっぱり伊勢の、伊勢参り、伊勢のおかげ参り、伊勢神宮に行くっていうところから始まっているんだそうですね、どうもね、でこの伊勢参りっていうのはさ、面白いものでさ、なんかやっぱ一生に一度はその伊勢神宮に行きたいっていう思いがどっかしらに皆さんにあったそうなんですね、
だからそれまでさ、身を子にして、師匠に仕えてたりとか仕事に勤しんでいた、そういった奉公人がある時突然いなくなるんです、失踪するんですね、何してたかっていうと伊勢参りに出かけると、これね抜け参りって言うんですって、面白いよねもうね、こんなの愛かよって思うけども、そこまでしてやりたくなった、
あとはみんなで行こうよって言って、講座の講っていうのはさ、講座?なんとか講座とかってあるじゃないですかね、あの講座の講っていうのは、講演の講でもあるんだけど、あれはチームって意味なんですよね、団体って意味なんですよね、その講っていうものを作ってみんなでその伊勢まで歩いていった、
これが団体旅行の始まりなんですって、そんな歴史があってさ、でその方々が見てきたものっていうのは何なんでしょうかっていうことなんですね、
伊勢神宮にたどり着くまでにまあ様々な道のりを歩いてきます、そこでは様々な村とか町の景色だとか食事だとかそういうものをいただくんですけど、昔は旅をしていた人たちっておもてなしをされるっていう文化があった、だからそのおもてなしをするお接待文化、おせっかいとかおせったいとか言いますけども、
そうやってその人を招いて食事を提供する、それから寝床を提供するとかお弁当を提供するなんていう風に言って、そうすると自分自身もまたご利益に預かることができるということで旅人たちをすごく大事にされてきたっていう文化があったんだそうです。
だからそのおもてなされている側ですよ、旅人側っていうのはすごくね、人の霧に触れながらまた様々な人たちの悩み相談とかもきっと受けながらですね、俺は客だぞみたいな今みたいな旅行ツーリズムではなくって多分その皆さんがねありがたがってくれるから、
光の認識
だけどその中で文化とかに触れたりとか人の話とかにいっぱい触れながら伊勢神宮までのその道のりっていうものを歩んできたんじゃないかなと思うんですよね。
そしていざその伊勢神宮に立ち入った時にですよ、もちろんその佇まい、立派な建物、そういったところ、屋代もそうなんですけれども、そこに行った時に様々な道のりを思い返すことがあるでしょう。
そして神様を拝んだ時、お参りをした時に何か光に似たものがこっちを見ているということに気がつくんですね。
そしてそれと同時にこちらも光を見ると光を自分たちが見ていると思いきや、実は僕たちって光が目の中に飛び込んでくるのをこれ見ているっていうふうに認識をしているということだから、僕たちは何か真実を見ようとか本質を見ようとか神様に会いに行こうとか何かこう素敵なものを見つけに行こうっていうすごく主体的に、
自分を守護にして語ることがいっぱいあるけれども、それと同時に向こう側もこちら側を見出している。向こう側がこちら側を探していたんだっていうようなことがあるんだということですね。
時代を経てですね、今そんな文化っていうのは本当になくなってきている。今はね、その神社とか仏閣を巡るっていうことはまだまだあってさ、なんで今その神社とか仏閣を巡るのかっていうと、もちろんこの信仰心を厚くするっていうこともそうかもしれないけど、その一体っていうのはやっぱり手つかずで残っている自然というものがあったりとか、
もしくは人がしっかりと管理をして整備をしてここまで受け継がれてきた昔ながらの風景っていうものがあって、そこにはまだあの頃のあの昔のですね、もう常しげの昔のその光っていうものが見えるそんな場所なんですよね。
光っていうのはそこだけにあるものではなく、僕たちが歩いている草の中とか道草食っていた時に出会う花と一輪の花とか川とか森とか空とかはたまた一つのビルとかビルに埋め込まれた一つのタイルだとかそういうところにも光があるし、また動物たちですね、そういったところにも光というものはあると思うんですけれども、
そういうものが実は観光のもともとの意味なんだっていうことですね。だから光っていうのはもともとはその中に入っている、もうこれ言葉を選ばずに言えば神様とかそれから仏様とか精霊だとかそういうものを見ていく、それを感じ取るっていうところが実は観光のもともとの意味なんだよねっていうことです。
で、今日何を言いたいのかっていうと、別に言いたいことはないんですけれども、なんかこうね、さっきそらにゃんがさ、30年絵に出会うまでにかかりました。
でもこの出会うっていうのはさ、なんかこう自分自身が選んだっていうこともあるかもしれないけど、たぶん絵に選ばれた、猫に選ばれたなんていうことがきっとあるんじゃないかなと思うんですよね。
っていうのは、もーちゃんが外から見ている限りそんなように感じます。なんか本当に100%自分の意思だったのかっていうようなことって、たぶんふと疑問に思ったりとか、あの時のなんか難い、わかんないけどみたいな。
昨日ですね、群馬県の森の中に住んでいる人からもお話を伺ったっていうのがあってね、その方がお話ししていたこともすごく興味深かったんですよね。本当に興味深かったんですね。
自分が山小屋の中に住んでみたいっていう、山暮らしをしてみたいっていう、そういうなんか思いがあったんだそうですね。なんとなくそれメッセージとして受け取っていたんですね、きっとね。
いろいろね、学校で勉強とかしていくんだけれども、興味のあることといえば、ナタ一本で森の中で生活する方法っていう本だったりするんですよね。
あ、さらにありがとうございます。そうなんですね。リラさん、そう、精霊ですよ、本当に。ここで精霊というものが出てくるんですよね。
これは小松につながるような話になってくるだけですけども。
そういったところに行くんだけど、なんで自分がその縁もゆかりもないその山奥に行って、そしてその山小屋を手に入れることができたのかっていうと、なんかね、自分が山小屋に住もうって思って。
そしてインターネットで検索をしたらですね、その日にアップされた山小屋の物件というものがポンと出てきていたんだと。
で、これは一体何なんだと思って、その日のうちに予約をして内見をしたんだっていうことですね。内見の予約を取ったんだっていうことですね。
で、その時にその方がおっしゃっていたのは、なんだか導かれているような気がしたと言っていました。
なんか自分自身だけじゃなくて、なんかここに行けというふうに何かに言われているような気がして、えいやと、なんか周りから見ればですね、思い切ったねとかって言われるようなことかもしれないけど、行ってみたんだっていうようなことなんですって。
そしてそこに住み着くようになり、そしてその周りをですね、もう本当に自分自身で手入れをどんどんどんどんしていって、それで地域の方々や先人たちの知恵というものをいっぱい借りながら、今やその山、森っていうのは外から来る方々が里山暮らしっていうのを体験できるような、そんな施設になっていると、そんな場所になっているというようなお話だったんですよね。
光と静寂
その時にやっぱり何者かに導かれているとか、森に呼ばれているとか、土地に呼ばれているとか、そんなようなことがあって、自分が探しているとと同時に何かがこちら側のことを探してくれているような気さえするというようなことがあって。
こういったことでさ、やっぱり僕たちが自然の中に入っていくことっていうのは、あくまでやっぱり自分たちが謙虚である必要があると思うんですね。
わが物顔でここを開発するぞとかさ、ここは自分自身の買った土地だから好き放題やっていいんだとかっていうことであると、多分見落としてしまうこととかメッセージがいっぱい来ていても、それを受け取ることができないことっていっぱいあると思うんですけれども、なんだかこう謙虚で謙虚でいることで、なんか向こう側からのメッセージっていうものを受け取ることができるような気がしますね。
リラさん、引き寄せかしらねということをおっしゃってくださいますね。
引き寄せ、引き寄せられているというか、引き寄せるというか、引き寄せるというふうに言うと主語が自分自身になっていくような気がするんですね。
引き寄せられるっていうふうに言うと、なんか向こう側に主導権があるという感じがして、どっちも大事なことかと思うんですけれども、引き寄せ理論みたいな話も結構いっぱいある中で、
もうちゃん自身は、もうちゃん自身はの感覚なんですけど、とにかくその様々なものにリスペクト払うことによって、何かに導いてもらえるのかなぁなんていうことをね思ったりもしております。
でですよ、それでですよ、もうちゃん自身って今何に覗かれているのかなぁなんていうことをやっぱり思うんですよね。
これがですね、結構もうちゃん自身の今の感じているところでございまして、様々なお仕事呼ばれるし、様々な経験をさせていただくしね、それからこだまこまちプロジェクトというプロジェクトもやらせていただいているし、
このこだまこまちプロジェクトはすげーなと自分自身でも思ってこれだって思ったりもしているんですけれども、このこだまこまちプロジェクトの先にさらに何か気づいてって言ってくれているメッセージが僕に投げかけられているような気もしているんですよね、どうもね。
だからこのこだまこまちプロジェクトはもちろんやっていくんですけども、それをやっていくことのその先にもうちゃんのことを呼んでくれている何かが待っているんじゃないかと思うとですね、まあまあまあまあもうこれから先もまだまだまだまだもうちゃん自身歩んでいくことができるなぁなんて思っているんですね。
はい、ということですよ。ありがとうございます。
リアさんこの間UFOを見たよ。
そうですか。UFOを見た。何でしょうかね。
僕も見たことがないんですよ。このさ、UFOを見たとかさ、私はさ、何かこう見えない力を感じることができるとかさ、何かこう宇宙の高次元な存在と繋がることができますとかさ、何かすごい魔法みたいな感じがして、もうちゃんはすげー羨ましいって思うんですよ。
本当にいいなぁって、いいなぁって、何かそれって自分選ばれてるじゃんって思えるねって思うんですけど、何かどうもどうもどうもどうももうちゃんはですね、そういう力というものが何かなかなかわかんないんですよね。
いや、信じてますよ。魔法を使えたらいいなって言ってさ、昔ですよ、アニメの大の大冒険っていうドラゴンクエストのさ、あのモチーフにしたアニメ漫画があってさ、で、これをさ、一つ一つの呪文と契約していくんですよね。
これ炎の精霊と契約が結ぶことができたら炎系の呪文メラっていう呪文を使えることができるとかさ、氷の精霊と契約ができたらヒャドっていう呪文を使えることができるとかさ、で、その契約の結び方みたいなのが漫画と漫画のね話と話のこの間のコラムみたいなところに書いてあるんですよ。
魔法陣を書いて、その中心に座って、それで何か大地の精霊よとか、氷の精霊よとかって言って、そして瞑想すると契約が結ばれるみたいなことを書いてあって、もうちゃんはもうめちゃくちゃそれに憧れてさ、契約を結んでいます。
結んでいるはずなんだけども、自分自身魔法を使えないというところではあるんですけれども、でももしかしたらですね、これねもうちゃんのことを見ている周りの方々は、あ、もうちゃん呼ばれてるよ、もうちゃん多分ここに導かれてるよっていうのは見えてるのかもしれないなぁなんて思ったら、何か教えてほしいなって思ったりもします。
もうちゃん自身が感じ取るものなのかなぁなんて思ったりもしますね。
ありがとうございます。
あ、もうそろそろ40分だ。
あ、リアさん上がりたい。上がりたいってこれUFOのところまで上がりたいということではなく、ここに話しに行きたいっていうことか。
ありがとうございます。
ちょっとですね、今日今ですね、家族の誕生日パーティーの最中でですね、この後もすぐまた誕生日パーティーの第2部が始まっていくので、ちょっとすいません、またお話しさせてください。すいません、申し訳ない。
そろそろ40分になるので、今日はこの辺にしたいと思います。いかがだったでしょうか。
今日はですね、あ、ありがとうございます。そらさんありがとうございます。ありらさん了解。すいませんね。またぜひよろしくお願いいたします。ありがとうございます。
うちね、なんかそのホームパーティーっていうか、ホームパーティーは外から誰かを招くことなのかな。
でも内輪でのパーティーとかも結構大事にする家って、これね、もうちゃんの自分自身の実家ではあまりこうなかった文化なんですよね。
で、僕ね、これによってすごく家族って何なのかっていうことをね、すごく毎日気づかせてもらっていることがいっぱいあります。
学ばせてもらってるというとすごく固くなるような気がするんですけど、なんかね、そう自分にとってその家族っていうものが何なのかなっていうのをすごく気づかされるような経験に恵まれているなぁなんて思って、本当に今家族には感謝をしています。
すごく大事にしたい時間なんですよね。すいません。
はい、ということでございました。いかがだったでしょうか。最後まで聞いてくださったあなたはぜひいいねやフォローで足跡を残していってくださいね。
今日は光を覗くとき、光もまたこちらを覗いているんだとしたらということです。
最後にちょっと結論みたいなものをね残すとしたらですね。
なんかこう自分の中にやっぱり静寂っていうものがないと聞くことって難しいんだかなって思っています。
静寂っていうのは沈黙とか無音ではないということです。
何かしらがやっぱり音がある。夜外に出てみると星がすごく乱々と輝いているんですけども、その星々を見ているとなんか音がするような気が僕にはするんですね。
その音っていうのは実際にはさ、風がそよぐ音だったり、川が流れる音だったり、それからカエルが鳴く音だったり、虫たちのはためきだったり、いろいろするんですよ。
鳥たちのちょっとさえずりだったりもするんですけれども、なんだけど星をずっと見ていると不思議なものでね、流れ星が流れるんですね。
その流れ星がすごく音を立てて僕のところにですね、見せてくれているような気がさえするんですね。
これすごく不思議な気持ちになります。
僕の住んでいるところってすごく暗くて、流れ星がめちゃくちゃ大きく見えるんですよ。
本当に大きく見えて、えーってびっくりするんですね。
アンパンマンとかでキラーンって一筋のほうき星がスッと流れていくみたいなものではなくて、本当にバッときためいて、スッとUFOのように流れていくんですけども、
それがシューって音がしているような気がするんですね。
実際にはないんだけどね、音はないんだけどね。
こういうようなことがあってさ、本来聞こえていない音が聞こえてくる。
静寂と意識の関係
それが静寂に身をたゆたえるってことなのかななんて思ったりもします。
本当にもう隙間時間でも働いたり、隙間時間でもスマホを触ったり、隙間時間でも何かをしていなきゃっていうようなことがあるような、この令和の時代で静寂に耐えるっていうのはすごく大変なことかもしれない。
だけど、この何もしないで耐えるとかさ、ご飯を食べている時もテレビじゃなくて、その前の前の食事に向かい合うとか向き合うとかさ、
そういうことをしていくっていうこと、一つ一つのことが、実は静寂に身をたゆたえるっていうことになっていくのかななんて思ったりね。
本を読むっていうこともそうかもしれませんけども、音がないはずなのに何か音が聞こえてくるような気がする。
そういったものが、そんな足音が実は僕たちにメッセージを届けてくれているのかもなぁなんていうことを思いました。
リラさんありがとうございます。
ももちゃんもUFO見るはすぐに。
まじか。見たい。
近くにUFOラインっていう道路があるんですけどね。
高知県には。
これは雄大な峰と書いてUFOっていうそれぐらいの大きな大きな山をですね、繋ぐ、切り結ぶそんな道路なんですけれどもね。
それをUFOラインっていう風に通称言うんですけども、本当にこのほうではですね、UFOがある、いる。
高知県では結構目撃情報があるらしいんですね、どうもね。
でもももちゃんはまだ見たことがないので、ぜひぜひ見てみたいなぁなんて思っております。
エピソードの締めくくり
あ、まるちゃんこんばんは。
ありがとうございます。
ゆっくりしていってください。
とはいえ、今日はこれで終わりたいと思います。
もしよかったらアーカイブでお会いできたらと思います。
ありがとうございました。
ということでお時間をいただきありがとうございました。
あ、まるちゃんさんありがとうございます。
またお願いいたしますね。
お相手はこだまこまちプロジェクトのもうちゃんでございました。
またお会いできることを楽しみにしております。
今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ。
あなたとあなたの大切な人に森の精霊のご加護が訪れますように。
おやすみなさい。
りなさん、そらさん、まるちゃん、ありがとう。