はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回はショーペンハウアー第5回ということでやっていきたいと思います。
はい、前回ですね、結構色々兄貴と話す中で、イデアレベルで人間の存在が地獄だというかさ、この世は地獄だみたいな話を
結構最後におっしゃったと思うんですよね。
そうね、その悲観主義っていう言葉に引っ張られて、なんかね人間一人一人というか自分に引きつけて考えちゃってたんだけれども、結構最後の方であれこれ違うぞと。
人類レベルというかね、人間のイデアレベルじゃんみたいなね、構造的にそうなっていることに対してショーペンハウアーが悲観するというか、やべっていう感覚なんだねっていうところがね、面白かったよね、前回ね。
そうそうそう、なのでなんとなくね、例えばカンのハヤトっていう個人がこの世は地獄だとか、なんか生きててもしょうがないとかっていうことじゃなくて、
ショーペンハウアーはいろいろ考えた結果、そもそも人間がその存在性とかもっと言うと生きているっていうようなことから出てくる構造として、この世は苦しみであるとか地獄であるとか、どうしようもないみたいな、そういうことを考えてましたよね。
ショーペンハウアーも悲観主義っていうのは、だから悲しいとか辛いとかってことじゃなくて、どっちかって言うとしょうもないっていうか、所詮そういうもんだよね、みたいな。意味がないっていう感じが。
ああ、ショーペンハウアー自身はそういう感覚なのか。
取るに足りないものだ、みたいな。そういう感覚なんですよね。
これちょっと補足というか、自分の中でアップデートしなきゃなと思ったんだけど、前回、人類のイデアとかって言ったときに、何かを表現するとか、言葉みたいなところで伝えていくみたいなことを伝統に置いて言っちゃってたなと思うんですけれども、そういうことを言ってた記憶があるんですよね。言ってなかったかな、あんまり。
言ってたかもしれない。人類というか、の都道としてみたいな話だよね。
僕は無意識的にそういう前提を持ってたんだけれども、ごめんちょっと雑談っぽくなっちゃうんですけど、先週その録音をした後に、元教材の総長の山際先生という方がいらっしゃるんですけど、聞いたことあるかな。
VGとか霊長類の研究で有名な人で、ゴリラとかオラウンタンとか、そういうのを研究して、人との違いとか、あるいは何が同じなのかということを研究するという第一人者の方がいるんですけど、
ホワイトがおっしゃっててめちゃめちゃ面白かったのが、言葉っていうのは、所詮人類の歴史のここ10万年くらいの話なんです。
10万年ってめっちゃ長く聞かれるんだけど、いわゆる類人猿から人間に分かれたみたいな話でいくと、その歴史は700万年くらいあって、
つまり人類の歴史の690万年は言葉を使ってませんでしたよね、みたいなことをおっしゃってたのね。
言葉じゃなくて、鳴き声みたいな音とか、あるいは身体的な表現とかっていうものは多分使っていたんだけれども、
言葉になって文字になってっていうのは、本当に人類の歴史でいうとめちゃめちゃ最近の話です。
なので、前提として言葉とか、いわゆる論理みたいなもので、どうしても僕も考えちゃってたし、哲学っていうものを見てたんだけれども、
哲学の歴史、人類の歴史700万年に比べたら2500年くらいだから、言うても短いですね。
なので本当に、ある種人類のイデアというか、共通みたいなものを考えると、言葉っていうよりも何かを表現するとか伝えるとか、そういうことは多分言えると思うんだよね。
ただそういうふうに言葉を排した、言葉を除外したとしても、やっぱり時間と空間っていうものを中で捉えるとか、
何か世の中を構造的に切り取るっていうこと自体はやってただろうから、700万年前の人もね。
そう考えると、やっぱりこのショーペンハワーが見出した、いわゆる絶望というか、
人間として生まれた以上、そういうふうな構造で世界を捉えてるっていうのは、言葉を使ってないと変わらずあるんじゃないかな。
ああ、なるほどなるほど。
うん、いうところで。なので、言葉とか理性っていうものを前提に応じてたことはちょっと間違いだったなと思うんだけど、
それを取り払って、言葉を使ったことのない人類というか、そういう何百万年前の人のことを考えても、
多分このショーペンハワーの分析って当てはまるよねっていう、そういうことが思ったんだよね。
なるほど。そこはあれだね、たぶんショーペンハワーはそこまで想定してないよね。
おそらくしてないと思う。
仮に、うちらが勝手に人類のイデアっていうふうに言ってるのかもしれないけれども、ショーペンハワーは言ってないよね。
そういう表現はしてない。
ただ、ショーペンハワーが言うところの人間とか人類というか、我々みたいなものに、
さっきの何百年前あたりの人類は含まれてないよね、たぶん。
ショーペンハワーの議論ではってことだよね。
うん、そうそうそう。
うん、ショーペンハワーの議論では特に含んでない。
あー、オッケーオッケー。
で、ハヤトの驚きポイントってことだよね。
そうそうそう。僕がそうやって人類っていうものの幅が広がるお話を山際先生の講演を聞いたときに、
言葉を使ってるという10万年の話じゃなくて、
類似現代から分かれた700万年っていうスパンで考えても、この分析って当てはまるんじゃねって驚いたって話だった。
なるほど、はいはいはい。
前回までは言葉とか理性っていうところの枠で僕も話してたんだけれども、
もうちょっと広い歌とか踊りとかそういう表現すらも含めて、
人間の営みすべてが、このショーペンハワーのいうところの悲観とか絶望に含まれちゃうんですよ。
というところで今回話していこうと思っているんですけれども。
おー、そうなんだ。はいはいはい。
そこでいくとですね、前回の話についていくと、
要は人間っていうものが生きていくにあたって、どうしても世界っていうものを切り刻んでいきますよねと。
それによって自分っていうものの個とか、本来は自分と相手っていうものは一個の意思の表れでしかないんだけれども、
自分っていうものを個別化して、相手っていうものを個別化してみたいな、
そういう個体化の原理というのが働くっていう話をしたかなと思います。
これが前回言った、頭と尻尾が分かれても頭と尻尾でお互いを争い合うみたいな、
そういうふうなことが起きてるよって話をしていたんだけれども、
でもね、そういう悲観的な絶望的な世界で良しとしたっていうか、
やっぱりそうじゃない、それをどうやって乗り越えるかってこともショーペン派は考えてるんですよ。
んー、乗り越えるんだ。はいはいはい。
やっぱりそこの世界とか、そういう人間観において、
じゃあ我々はどう生きていくのかっていうことを考えていくんだよね。
それを今回と次回っていう意味では、ちょっと希望というか、
ある種のショーペン派が見出した救いみたいなものとして捉えていこうと思ってるんですけど、
まず今日取り上げていくのが倫理というか、要は道徳的な話なんですよね。
道徳って何かっていうと、その人と人がどう繋がってるかとか、
どういうふうに生きていくかっていう話だと思うんだけども、
この根本っていうところからショーペン派は考えていくんですよ。
どうかというと、例えばね、皆さんも想像してほしいんですけれども、
目の前で誰かがめちゃめちゃ怪我していたそうだとかさ、
何かすごい苦しいことがあって辛そうだみたいなことがあったときに、
やっぱり僕らって、あくまでもそれって他人なんだけれども、
その人の苦しみとか辛さっていうものを自分ごととして感じるとか、
胸が締め付けられる思いがするとかってあるじゃないですか。
はいはい、やべーってね、大丈夫ですかっていう感じになるよね。
そうそう。科学的に言うとミラーニューロンの働けじゃんとかってなるかもしれないんだけれども、
一旦そういうのを置いといたときに、やっぱりそういうやべやべ大丈夫ですかとかっていうふうに、
自分とは違う人の痛みを自分もある種引き受けるとか感じるみたいな、
そういう瞬間ってありますよね。
この瞬間にある種その子の壁というか、その切り分けっていうのは解けて、
自分と相手が繋がるっていうふうな、
そういう実感ってありませんかっていうことを証券派は考えるんですよね。
ほうほうほう、なるほど。
そうやると意外と確かに、子っていうある種ガチガチなものっていうよりも、
ちょっとした他人に開かれているというか、繋がる経路があるみたいな、そんな感じしません?
まあ、いわゆる共感的な感じだよね。
そうそうそう、まさに共感。
これの証券派はその共感の中でも、苦しみに対する共感。
ほうほうほう。
苦しみに対する共感っていう意味で、
共に苦しむっていう恐怖っていう言葉で訳されるものを作ったんですよね。
そうなんだ、この苦しみに限定してるんだ。
そうそうそう。
その話はちょっとこれからしていくんですけれども、
いわゆるこの恐怖っていうのは、単純にかわいそうだなとか、
辛そうだなっていう同情っていうことじゃなくって、
やっぱりその相手の苦しみそのものが、
自分の苦しみにもなるっていう、そこの共通体験の話なんですよね。
ほうほうほうほう。
つまり、この、
主語編派関係としてお伝えしている通り、
その意思っていうのは共通で、
我々人間とか存在ってのは表れしかありませんっていうときに、
その存在としての表れは別個のものに見えるんだけれども、
苦しみっていうレベルでは繋がり合っていますよね。
これは意思のレイヤーとまでは行かないんだけれども、
そこに近いところにありますわっていうことを考えるんですよね。
へー、はいはいはい。
うんうんうん。
あ、そこってイメージ湧くかな。
まあまあまあ、それはうん。
ただ、なんでその喜びとかさ、
そういうのじゃなくて苦しみに焦点、
苦しみにだけ焦点を当ててるのはなんでなんだろうな、みたいなのは。
はいはいはい。
そこはね、これからまた話していくんですけど、
実はここで東洋思想とかと絡んでくるんですよ。
ふーん。
はい。
どういうことかっていうと、
これまでの西洋的な観点で、
カントだったりとかプラトンが引き継いだショーペンハワーの話をしてたんですけれども、
やっとここでインドとかの仏教が出てきますと。
おー、はいはいはいはい。
どういうことかっていうと、
まず前提、ショーペンハワーもやっぱり西洋の人なので、
基本的にはキリスト教的な発想が強いは強いんですよ。
なので、例えば、生まれていること自体が苦しみだとか地獄だっていうことも、
いわゆる現在の考え方、
つまりキリスト教的な生まれるっていうこと自体が罪であるみたいな、
そういうふうな発想はあるんですよね。
あー、なるほどね。はいはいはい。
うん。
生まれることが罪みたいな話が、
いわゆるキリスト教的なことだけじゃなくて、
実は東洋の方にもあるんじゃないかっていうことを発見するというか、
そういうふうに結びつけた、あるいはこの時代の割と初期の人なんですよね。
うーん、はいはいはい。
実際にパニシャット、インドの施策のものだったりとか、
仏教の本とかと読んだときに、
例えばこういうことが書いてありますと発見するんだけれども、
これインド海でやったの覚えてるかな?
何時はそれなり、みたいなさ。
うーん、覚えてないね。
やったような気はするけど、覚えてない。
古代インドとかの海でね。
そうですね、パニシャットみたいなところなんですけど、
どういうことかっていうと、
ボンガイチニョっていう言葉があって、
ボンっていうのがブラフマンっていう宇宙の根本原理というか、
全体の存在で、
アートマンっていうものはそれが別れた子として現れてくる存在。
ブラフマンとアートマンっていうのは実は一緒で、
一つの存在と全体の存在っていうものは繋がってるんだよ、
実は同じなんだよって話なんだけれども、
これってショーペンハーバーの文脈で言うと、
その世界には意志っていうものがあって、
それが表象として現れた個々の存在があって、
表象と意志っていうのはセットだよ、裏表だよっていうことに、
めちゃめちゃ似てるっていうか近いんですよね。
そうだね、ショーペンハーバーもびっくりしただろうね。
パクってんじゃん、インドパクってんじゃん、
みたいな感じで思ったね、たぶんね。
さすがにピクって人は思わないけど、
実はキリスト教というか、西洋がたどり着いた、
私がたどり着いたこの発想っていうのが、
何千年前もインドの方にはあるじゃん、みたいな。
これって実は限られた文化圏の自分が考えたことじゃなくって、
東洋とか全然違うところでも、
全く同じ真理にたどり着いてるから、
やっぱりこれって本当に世界の姿なんだ、みたいな、
そういうことを思うわけなんですよね。
そういう意味で自分のたどり着いて、
たどり着いてことの正しさを考えていくんだけど、
さっき言った通り、キリスト教では現在というのがあるじゃないですか。
仏教には一切皆苦というのがあるじゃないですか。
つまり、これも仏教界でおっしゃったと思うんですけど、
一切皆苦というのは、全てが苦しみであるよりは、
思い通りにならないみたいな話なんですよね。
あらゆることは思い通りになりません。
求めてもそれは手に入れられないし、
手に入れたとしてもまた次のものがすぐ欲しくなって、
自分が満たされることはありませんっていうのが仏教じゃないですか。
これもショウペンハーは言うところの、
意思の衝動っていうものがあって、
欲望とかだったと思うんですけど、
欲望を求めても手に入れられないっていう挫折感があったりとか、
手に入れても結局退屈してしまうっていう風に、
いつまで経っても満足しないっていう風な、
そういうところにめちゃめちゃ近いんですよね。
意思と表彰ってあったときの、
表彰側としての人間の挙動の話をしてるよね。
そういうこと、そういうこと。
求めても再現がないと絶対到達はできないよっていう、
理想と現実の理想が埋まらない苦しみっていうのが、
行動的に絶対埋まらないでしょみたいな話だよね。
どちらも一切退屈にしてますという。
だから仏教で言うとそれは執着っていう、
本来離れるべきものに離れられてないからっていう話だし、
ショウペンハーバーで言うと、
本来は我々は意思でしかないのに、
その表彰の世界に行き去るを得ない、
そういう構造としても人間の偉大っていうものがあって、
だから本来意思に帰りたいのに、
後でまた話すんだけど、
意思というものは働きでしかないのに、
表彰というものに囚われてしまっているから、
そういうところで我々っていうものは苦しんでいる。
生存とは苦しみであるみたいな、
そういうふうになってるんだよね。
キリスト教の現在を取っても、
仏教の一切改革を取っても、
あるいはショウペンハーバーの意思と表彰の関係性を取っても、
どう考えても生きることそのものが苦しみだっていう、
そういうところからしか考えられませんよねっていうふうに、
ショウペンハーバー考えちゃうんだよね。
なるほど、はいはいはい。
だから苦難だね、その共通項がね。
だってみんな言ってるじゃんみたいな感じで。
ショーペンハンは勝ちですね、これはね。
みたいな世界を分析したときに、ショーペンハンはどうするんですかって話したんだけれども、
要は生きることは苦しみです、ごめんなさい地獄でしたって言われてもさ、どうしようもないじゃんやっぱり。
まあまあそうね、困っちゃうね。
そうそう、困っちゃうのでショーペンハンも考えるんですよ。
考えるときに、一個がさっき言った道徳とか倫理っていう意味では、
やっぱりショーペンハンはもうちょっと離脱的なというか、
意志そのものとの関わり方をどうしましょうっていうことを考えるんだよね。
今日のこの後の話で、
あと次回やるのが、やっぱり芸術とか音楽っていうものをショーペンハンはめちゃめちゃ高く評価していて、
芸術とか美っていうものに触れることで、この苦しみっていうものと少し正しく付き合いましょうみたいな。
そういうことを考えるんですよね、大きな二つの方向性として。
今日その前半の話をするんですけれども、
ショーペンハンは離脱って何?っていう話で、
これは仏教の言葉を使ってるんで、本来は適切ではないんだけれども、
ショーペンハンもそういうことを考えるんですよ。
要は何が苦しみの原因かっていうと、
我々の世界っていうものが、そもそも意志っていうものから生じていて、
この意志っていうのは、前回か前々回かお伝えしたと思うんですけど、
ソースで別に目的とか方向もなくて、ただあり続けるっていう時に、
それが人間として生まれてしまうと、生き続けたいとか、あり続けたいっていう、
そういう欲望に変わっちゃうっていうのが、苦しみの根源だって話をしたと思うんですよね。
この辺は覚えてるかな。
そこは大丈夫。
そう考えたときに、どうすればいいかっていうと、
この意志をある種否定しましょう。
つまり、生き続けたいとか、あり続けたいっていうことがあるから、
僕らの人生は苦しいわけじゃないですか。
つまり、生き続けたいという、そういう衝動とか欲望みたいなものを否定しましょうと。
そうすることで、意志そのものは否定できないんだけれども、
意志が僕らの人生、人間の生として現れたときの欲望とか衝動とか、
そういったものを否定することで、意志っていうものの働きを、ある種無効化するというか、
プリアインできるよねっていうことを考えるんですね。
あれだね、ちょっとジョーダブ仏教みたいな感じだね。
スタンスが。
やめたということ?
いわゆる、どっちかっていうと執着というかさ、
欲望とか、そういうのを無しにしましょうと。
はいはいはい。
無になることで悟りましょうっていうね。
結構難しいこと言ってるなとは思うけど。
そうね。
なるほど。そういう感覚でいいよね、感覚としては。
感覚としてもいいし、でも面白いのが、
ジョーダブ仏教が何だったかっていうと、
自分の努力だよね、修行をして、
いわゆるブッダのレベルまでいかないけれども、
アラカンみたいな、ちょっと手前ぐらいの悟りは開けるよね、みたいな。
そういうところを目指しましょうっていうものがあったじゃないですか。
あったあった。
で、そういう自分が下立をしようっていうものがあるんだけれども、
ショーペンハワーが面白いというか、
これを僕も初めて知って、なるほどって思ったのは、
とはいえショーペンハワーは西洋の人でキリスト教的な考え方の人なんですよ。
何が起きるかっていうと、
この意思の否定っていうのは、努力では無理なんだよね。
無理というか、何か自分が修行をするとか努力をするじゃなくて、
ある日突然神の恵みとしてやってくるんだっていうふうに言うんだよね。
面白い。そうなんだ。
そう。
へー。
そういう意味では、
阿弥陀仏が救ってくれるとか、
そういうより大きな存在が導いてくれるっていう方に近いんだけれども、
なるほど。大乗仏教の方に近いかもね、みたいなね、仏教で。
大乗仏教もいろいろあると思うんだけども、
どっちかっていうと、より大きな存在が救ってくれるみたいな話かな。
なるほど。はいはいはい。
これ何でかっていうと、すごく面白いところなんだけれども、
つまりこの、
世界は意思であり表彰であるっていう話をしたときに、
世界の根源は意思なんだけれども、
そこから神はまだ排除してないんですよね。
神どこにいんだ?その世界観で。
神もその意思の表彰として神があるのかな。
えっとね、ここはごめん、僕もちゃんと理解できないところなんだけれども、
その世界、いわゆる僕らの世界っていうものと、
神の世界っていうものは違うじゃないですか。
あれだよね、確か前回か前々回で、
自殺についての話のときに、
人が死ぬっていう、自殺することは一つの実験かもしれないと。
死んだ後の、いわゆる表彰の世界と、
我々が生きている世界の表彰は、
基本断絶してるというか、相互アクセスが多分不可能とされてる。
うちらの認識では。
だから自殺するっていう実験はあんまりできたらよくないよ、みたいな話をしてたと思うけど、
それと同じ感覚で、
我々の表彰、認識する表彰の世界と、
神がいるであろう、もしくは認識してる表彰は違うよっていうようなイメージでいるかな。
そうだね、そういうイメージ。
はいはいはいはい。
我々人間の生は苦痛でしかないし、
人間の世界の表彰っていうものはもう切り分けられているんだけれども、
おそらく神の世界っていうものは、もちろんそれも意思からできてはいるんだけれども、
当然人間の世界とは違うでありましょうと。
おー、はいはいはい。
かつ、やっぱりこの時代のキリスト教ってやっぱりプロテスタントが強いから、
神と個人がつながるってなったときに、
神様と自分っていうもののつながりにおいて、
この苦しみの表彰の世界っていうものから逃れる。
性の意思を否定して、生きる欲求とか、
そういう衝動に囚われない生き方があるでしょうと。
それが実現できるとしたら、
それっていうのはもう人間の何か努力とか、
修行とかじゃなくて、神の救いに効かならないよねっていうふうな、
そういうふうな接続をしていくんですよね。
おー、すごいね。
このショーペン・ハワーの世界観で、
すごい綺麗に説明できてる気がするね。
そうそうそう。
一応矛盾はないというか、
ツッコミのこれは結構少ないと思うんだよね。
この世界観の中でっていうと。
そうね。意思と表彰のとこさえクリアすればね。
そうそうそうそう。
なんで神は姿を表さないんですか?とかっていうと、
当然神は人間の認識を超えているって言えばそれで済むことだし。
人はいるんだけど、
それは死んだ人の魂と触れれないでしょ?
それと同じだよみたいなこと言われたら、
はー、確かにいいってね。
そうそうそう。
表彰としては見えないし、感知できないんだけれども、
働きはある。
それは意思が我々の世界で働いてるのと同じだよみたいなことに言えるから。
おー。
っていうふうにすると、結構いろんなものがスッと落ち着いてくるんだよね。
まあね、忘れちゃいけないのは前提ありきってことは忘れないようにしないと、
長ペン幅の世界に取り込まれちゃうから、ちょっと気をつけないと。
そうそうそう、そうです。
あくまでも世界観としては意思っていうものがあって、
表彰っていうふうに現れていて、
それは観との物自体とかっていう世界観に近いっていうふうな話と。
そこで生きている人間っていうものは、
やっぱりその意思の働き、ある種カオスの働きっていうものを受け継いでるだけでしかないから、
人生にも意味がないし、
でもその意味がない人生において、
世界を切り刻んで、
本来は一つである意思っていうものを切り刻め続けなきゃいけないっていう意味で、
苦しみだし思い通りにならないし、
そういう意味では悲観的にならざるを得ないっていうふうな、
そういう人間観とかも理解できるならばっていう、
いろんな前提があるけれども。
そういう前提をこれまでの4回分でお話させていただいたっていう感じだと思う。
ただその前提をね、
ちゃんと土台から積み上げてる感じがするもんね、ちゃんとね。
そうそうそうそう。
じゃあところなので、
ショーペン神話にとっての救いは、
神による救いだったりとか、
キリスト教的な神様とのつながりにおいて現れるものっていうふうな感じなんだよね。
なるほどね。だからプロテスタント的な感覚で、
日々ちゃんと信仰というか、
ちゃんとしてればいつか気づくよ、
気づかせてもらえるよみたいな感じなのかな。
これも分かんない。
前も言った通り、
前もマックスウェーバーのプロテスタリズムの理理と精神とかでもお伝えしたと思うんですけれども、
カルバンの予定説みたいなとこでいくと、
救われている人っていうのはもう決まっていますね。
それが誰かが分かりませんねっていう、
なんとでも言えるような感じだったじゃないですか。
なので、ある日突然恩徴がやってくるはずなんだけど、
それがいつかは分からないし、
本当にそもそも来るかも分かりませんねっていう感じなんだよね。
なるほど。感覚としてはそういう感じなのか。
そうそうそう。
その意味で言うと、まだやっぱり浄土真宗とかのきちんと阿弥陀仏を頼り切って絶対頼り切りで、
本当に自分というものを捨てて頼られれば作ってくださるっていう世界の方が、
まだやりようがある気がするよね。
まあまあまあ、そうはね。
ただ難しいね。
西洋的っていうとあれだけど、
いわゆる自分で努力していくみたいな、成長していくのだみたいな価値観を捨てないというかさ、
そこをちゃんと派生で成長していくのだみたいなところが大事だとすると、
さっきのプロテスタント的な予定説じゃないけどさ、
そこ分からないけど頑張んなきゃみたいな、そこを残しておかないとっていうのも分かるしね。
じゃないとね、よすとびとになっちゃうもんね。
本当にそうはね。
そこのいろんなバランスの中で、あるいは正面派話の根底でやっぱ価値観とか、
言い方の中でこういったものが出てきたんだっていうのでもイメージが湧いてくるよね。
そうね。
はい。なので、縦と横のつながりという話をしたんですけれども、
縦っていうのが今お話しした神様とのつながりだよね。
どうしてもない世界において、神とのつながりにおいて、
いつかその性の位置を否定することができるようになるとか、
そういうような音調がやってくるっていう話があるし、
横でいくと、これは神様というよりは人とのつながりの中で恐怖だよね。
お互いの苦しみっていうものを、お互いに本当に感じ合うとか、
自分がそこに目を向けることで、
バラバラに切り裂かれた世界の中にもちゃんとつながってるじゃないかと。
ちゃんと我々って一つだったじゃないかっていうことが見えてくる。
これによって、意思の働きなんだろうな。
意思っていうものがあるっていうこととか、
バラバラではないっていうことに気づくっていうことが、
意思の慰めだったりとか、この世界の苦しみっていうものを癒してくれるよねっていうふうな。
そういうことをショーペン派は考えていくんですよね。
なるほど。面白いね。でもそれが解決して戻れるよじゃなくて、
せめても我々ができる挙動だよみたいな感じなんだね。
そうなんです。
だからさっき言ったとおり、意思に帰るとか言ってしまったけど、それはなくて。
しかしとも僕ら人間の表彰においては、意思というものは絶対にたどり着けないし。
そこにある種、否定するって言ったのも、
やっぱりその意思っていうものはすごい大事というか、それはしかないんだけど、
でもそれにいいようにされてると、自分というものはしっちゃかめっちゃかになっちゃうから、
意思の存在を認めつつも適切な書き方をしましょうっていうふうな。
はいはい。
そういうとこに落とし所を持っていくわけなんだよね。
ちゃんとその構造と挙動を自分で意識しましょうね、みたいなね。
そうそうそう。
その上で行動しましょうねと。
はい。
なるほどね。
どう?できそうですか?これお兄さん。
無理でしょ。
いやー、どうなんだろうね。
まあ、とはいえだよね。じゃあわかりましたっていう話で。
これは何だろうな、今回ショーペンハワーの、さっき言った現在とかプロテスタント的な感覚でやれって言われたら無理だよね。
わかんないもんね。
そうだよね。
せめてどうなんだろうね。
かといってね、じゃあ日本人が仏教に馴染みあんのって言われても、
東洋思想に馴染みあんのって言われても、はてなはつくんだけれども。
そうだね。
そういう意味ではなんだろうな、生ビダムツって家の方が馴染む気はするけど。
はいはいはい。やることは明確だしね。
ただあれでもね、できるかどうかっていうよりは、この構造をちゃんと認識しましょう、みたいな。
知った上で、あとは自分で判断してくださいね、みたいなところまでだったら、それこそ人類レベルでさ。
まずそこまでいきましょうっていうのはすごく面白いなとは思うよね。
でも嬉しいね。そこまで繋がってくれたならすごく嬉しいし。
知った通りで、この解決策がやっぱりベストですみたいな話って存在しないじゃないですか。人はそれぞれだし、価値観も違うし、
話せることも違うから、差の部分はどうしてもね、やっぱり馴染まないとあると思うんだけれども。
逆に言うとね、キリスト教であれ、仏教であれ、インドのものであれ、それ以外でもなんでもいいんだけれども、
そういったものはいろいろあるから、馴染むものを選びましょうと。
馴染むっていう根底には、小兵派に言わせると、こういう意思と表彰っていう世界の構造があって、
その中でやっぱり人間が苦しんでいるっていうような現実があって、
これに対してどういうふうに捉えますかっていう話なんだよね。
逆に小兵派は否定しようとすると、いやいや人間、人生って泣くじゃないから、苦しみってよくは始まらないからっていうことを言ったりとか、
そもそも意思とか表彰っていうような世界観では絶対に表現できないものがあるじゃないかっていうことは言わなきゃいけないんだけれども、
結構これ難しいと正直思うんだよね。
難しそうだよね。今回の話でも言ったけれども、なんだかんだ、西洋東洋問わずというかさ、
似てるようなとこ行ってるじゃん?みたいなね、さっきのインドにせよ、仏教にせよみたいなね。
もちろんそんな意思とか、グラフマンみたいな根本存在とかを考えるのが間違いなんですよって話はもちろんできるけれども、
そうすると、じゃあそういうのがない中で、なんで人間がこうやって生まれてるんですかとか、
それがたまたま歴史の中で進化っていうものが通じて、本当にたまたま偶然起きたわけなんですよって言えるけれども、
でも本当にたまたまでしかない世界で、なんで我々は生きているんだみたいな、そういった問題を考えるときにすごく難しくなってくるみたいな話があるから、
やっぱりそこはこうなんて言うだろうな、どっちの議論ももちろんあるけれども、やっぱりどちらにも難点というか、
困難がつけまとう中で、ショウペン派はここまでやりきったよっていう感じなんだよね。
いやーすごいね。すごいけど、やっぱあれなんだね。
これをショウペン派が生きた当時、ヘイゲルと戦うと圧倒的に負けたんだね。
なんだこの人って。
負けたね。
何言ってノッピングでなっちゃうんだ。
だって嫌じゃんね、世界は苦しみでしかありません。我々は地獄に生きているんですみたいな。そうはちょっとやっぱりしんどくない?
そうしんどいよね。今そういう空気じゃないからで終わっちゃいそう。
そうそうそう。たとえば偉い人からしても、そんなこと言うなよみたいな。
ヘイゲルみたいに我々は天の土壌にいて、むしろ歴史上の最先端の輝かしい未来を生きているのですって言われた方がいいじゃん。
そうだね。これは難しいね。それこそバブルの時だったりとか、去年とかも近かったかもしれないけど、
いわゆるマーケット、株価とかさ、そういうものの相場がイケイケのときに、
いや、今、いつか落ちるから、みたいなさ。もう、上がるものはいつか落ちるしかないのだ、みたいなことを言ってても、
いや、今上がってから今やんなきゃどうすんの、みたいなね。
そうそうそう。
行動しようよ、みたいなさ。
そういう意味で歴史は繰り返すって話だよね。
そういうことでいくと、やっぱりショーペンハワーが当時、なかなか耳向きをすれなかったのでもそうだし、
現代でもそんなに有名ではないというか、
その意味でショーペンハワー、それこそやっぱりソクラテスとかセニーチェとか、
ハイディガンはわかんないけど、そういう人たちに比べると、ちょっと名前としては、ひきなじみがないように感じる。
哲学者としてそもそも認識してなかったもんね。ただの本を書いてる人ぐらいのイメージだったもんね。
だからそういうところにもつながってるんだろうなと思うけれども、
やっぱりこれを知ることで、次回ニーチェ再びをやろうと思ってるんだけど、
ヘーゲルとかカントに次いでニーチェをもう一回やろうと思ってるんだけど、
やっぱりこのショーペンハワーのまさに提出した、
世界が苦しみであるとかさ、それを東洋的な話じゃなくて、
西洋から辿り着いてしまったところに対してどうするの、みたいな。
そこをちゃんと引き継いだのが、やっぱりニーチェだったりするんだよね。
はいはい、そうなんだね。
だってさ、これちょっと先読みになっちゃうけど、
さっきショーペンハワーは神様が救ってくださるって言ったじゃないですか。
ニーチェは神は死んだって言ったじゃないですか。
ああ、そうだった。そうだね。
そうそうそう。
じゃあどうするの?誰が助けてくれるの?みたいな。
そこに対して、いやいや、誰も助けられてくれないから自分で頑張るんだよ、みたいな。
なるほど。はいはいはい。
ああ、そうか。さっきプロテスタント、ハヤトが話をさ、
その辺の予定説、運命説だっけ?
はいはいはい。予定説だね。
予定説してくれたから、そっちの感覚で正当すれば、みたいなさ、
そういう風に言わされちゃったんだけど。
なるほどね。もっと救っていただけるように、みたいな。
いや、そこの救われてるか救われてないかわかんないんだから、
いずれにせよ頑張らないとね、みたいな感覚だったと思うんだけど。
はいはいはい。
そっか、ニーチェは神死んでるから、
お前頑張れで済んでるのかっていうのを、その視点なかった?忘れてた?
ただ、それがね、今僕らが言う、神は死んだ、お前頑張れ、自分頑張れっていうことじゃない世界だよね。
この神様っていうものが当たり前に存在すると言われていて、
そこを本当に、ある種人生の根幹に据えていた人たちが生きてる時代に、
そういうことを考えるとか、やっぱりそこまで突き抜けてしまうところも、
やっぱり面白さって改めて感じるんじゃないかなと思うんで。
はいはいはい。
あとそのニーチェに至るとき、もう一人ちょっとね、
この人もあんまり有名じゃないんだけれども、フィエル・バッハっていう人がいるらしくて、
この人はもうちょっと神様とかキリスト教的な発想を重視していた人で、
このショーペンハワワとかフィエル・バッハっていう人を軸にしながら、
ニーチェを見ていくと結構面白そうだなと思ったんで。
おーなるほどね。
そういう流れを今後はやっていこうと思ってるんですよっていう頭出しは一つ。
たぶんね、ショーペンハワワはまだ終わってないので、あと一回ですね。
今回は道徳・倫理、あるいは宗教の話をしたんだけれども、
芸術の話が残ってるんで。
あー言ってたね。
そうそう、芸術っていうものがなんでそんなに大事なのとか、
哲学と芸術って本当はつながってるんだけど、
普通は離れたものというか全然違うものっぽいじゃないですか。
なのでそこがショーペンハワワがどういうふうに結びつけたのっていう話をしながら、
次回ですね、ショーペンハワワはある種まとめ回、最終回としてお伝えしていこうと思ってますって感じですね。
分かりました。
次回ですね、最後その芸術ですね。
そういったものをどうショーペンハワワが捉えていたのか、
というところを楽しみながら見ていきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。