1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #258 宇宙も人間も同じ?スト..
2024-10-16 49:51

#258 宇宙も人間も同じ?ストア派の賢者が至る「認識論」

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。




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サマリー

ストア派の認識論では、宇宙や自然を理性で理解することが重要とされている。ゼノンの考えを通じて、認識の確実性やそれに伴うプロセスを深く掘り下げ、真の知識とは何かを模索している。ストア派の賢者たちは、認識論について探究し、人間の魂や宇宙の理性的な一体性について語る。このエピソードでは、正しい知識と判断力がどのように結びつくのか、また、ストア派的な世界観が真理に到達するプロセスが紹介されている。ストア派の哲学を通じて、宇宙と人間の理性の関係性や認識論の重要性について考察される。人間が認識する真理と誤解を通じて、自己批判や学びのプロセスが真理の回復に寄与することが語られている。ストア派の哲学と人間の認識の限界について考察し、宇宙と人間の関係性を探っている。

ストア派の認識論の紹介
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回からストア派を見てきたということで、前回はどっちかというとゼノンの話だったりとか、ストア派ってこんな感じだよねっていうところをふわっと見てきたんですけど、今回はどんな感じになっていくんでしょうか?
今回は、ストア派の認識論と倫理学を取り上げようという中の認識論の話をしたいと思っております。
認識論って言うとね、めっちゃ固くなっちゃうんだけど、平たく言うと、要はあるものというか、ある認識だよね。何かを見るとか聞くとかなんでもいいんだけど、そういうものが真、要は正しいと知るっていう時に、どんな働きが起きてるんだっけっていうことを考えていくことなんですよね。
なんでそれをやらないといけないかっていうと、前回もお伝えした通りで、やっぱりストア派って大元の根幹が、宇宙、自然とか神みたいなものが理性によっては作られたものですと、構築物ですと。
だから人間の理性を使うと、それをちゃんと理解して正しく調和して生きていくことができる。それが勝手に理想的だっていうふうな世界観なんですよね。
そのためには、理性を正しく使って、宇宙とか自然というものを理解しなきゃいけないという時に、その認識の正しさって何っていうことが大きなテーマになってくるんですよ。
これっていわゆる僕らが今、自然に勉強して学ぶようなものを見るっていうのは、光が反射して目で細胞が受け取ってとかっていうこととは全然違う話なんですよね。
何点だってまだ2千何百年前の話なんで。だからあんまり現代の常識にとらわれすぎずに、ちょっと思考実験的に、宇宙が理性的な構築物だとしたら世の中ってどう見えるのかとか、
そういう世界において何かを知るとか認識するっていうことを、一から考えるとしたらどうなるのかみたいな、そういう冒険に付き合ってみようみたいな、そんな気持ちで聞いていただけるといいのかなと思いますっていう感じですね。
一旦ちょっとまっさらな感じで。
久々の裸で聞いてくださいっていうことね。そういうのが自分の世界観を広げてくれるというか、もしこうなったらみたいな発想力にもつながるかなと思うので、そんな感じで今日お話ししていくんですけれども。
ちょっといきなり行くんですけど、ゼノンさんによるとですね、人が何かを知っているとか、何かを理解している。何ですかってもしゼノンさんに聞いたとすると、こう返ってくるんですって話があって。
何かを知る、把握するっていう話なんだけど、そういうふうにしている物事がいかなる議論によっても覆されない。そういう形で把握されていることなんだっていうふうに説明するんですよね。
なるほど。あてでの街を歩いてて、知っているとは何かって聞かれたときに、こうですよって言って、いや私はこう思うけどそれは違うじゃないですかって言ったときに、あわあわあわってなるようじゃあもうダメだってことね。
ダメだってこと、そうそうそう。別にそれが視覚的な目で見るリンゴとか雲でもなんでもいいんだけど、でもそれがある、私はリンゴがあると知っているって言ったときに、本当にああだこうだ言われてもリンゴがあるっていうその確信とか認識とか把握って揺るぎませんかっていう話なんだよね。
ただね、これが当時の理解の一つなんだけど、例えば仮に目の前のリンゴを僕らが見ますって話を考えたときに、当時どう考えていたかっていうと、リンゴを囲む物質。光とかは当時概念としてあんまなくって、ちゃんと空気とか水って考えたっぽいんですけど、リンゴが何らかでそれを動かすんですよ、空気とか水をね。
リンゴが動かす?
リンゴが動かす。
はいはいはいはい。
そのリンゴが動かす動きっていうものを人間の感覚器官がキャッチして、それを体の中を触って、心臓の部分にある魂、魂っていうものがその動きを感知すると、ここに認識とか表情が生まれるっていうふうに説明してるんだよね。
いや凄すぎない。凄すぎないか。
凄すぎる。
思ったより凄いんだけど。
良かった良かった。
全然ゼロでもないし裸でもないじゃん。
はいはい。
めっちゃ凄いね。え、そんなこと考えてたの?
新しい。
この人たちは、認識とは何かっていうのを。
そうそうそうそう。
凄すぎない。光とかはね、さっきハイトが言ったね、目から入ってウンタラカンタラみたいなのはないとはいえ、考え方合ってるじゃんほぼ。
ほぼ合ってる。魂じゃなくて脳だよとか、神経とかっていうのはもちろんないけど、ほぼ合ってるじゃん。
そうなんだ、このリンゴが目に映ってるからOKとかじゃなくて、その映り方までちゃんとリンゴがあったとして、それが我々に届いて認識するっていうことは、
リンゴってものがあったときに、リンゴの理性からファファファファファって何かしら、目まで何かしらの距離があるから、その距離を何かしらの方法でこの目に到達し、
運動が伝わって。
それを目だけじゃ見えてるだけだから、認識とは何かその次?
それが何か巡って心臓まで来ると、人間がそのリンゴっていうものを把握する、認識するんですよってさ。
もういいじゃん、ゴールじゃん。もういいよ。
100点だったこれ。
100点じゃないの?すごいね。
すごいでしょ。
しかも今ちょっとはしょって言っちゃったんだけど、魂がその働きに触れるじゃないですか。
それが例えばさ、言っても最初はリンゴだってやっぱりならないわけよ、まだ。何か赤い丸いものがあるなっていうぐらいなわけじゃん。認識というか意識の状態ではね。
そこに魂の働きで、これはリンゴだっていうことが承認されるっていうことまで言ってるんだよね。
やっぱり恐ろしいな。
もちろんデドモンさんがスッとこういうことを言ったっていうよりは、いろんな人と議論をしながらとか、40年くらいの蓄積の中でっていう話だとは思うんですけど、
ここまで分解してちゃんと理解できてるってこと自体がすごく理性的なストア派らしいなって思うんですよね。
恐ろしい。
だから感覚とかもさ、なんとなく嬉しいとかさ、なんとなくこう感じるとかじゃなくって、
なんでそう感じるの?その仕組みって何?ってどこまで踏み込んで考えてた?っていうことがこれだけでもわかるよね。
もうちょっとおかしいね。
こんだけの人がいるってことは、当時の人たちも理解してたのかもしれないけど、
多分わかんないよね。
街歩いてる、それこそ哲学関係ない市民捕まえて、これ話してもさ、は?ってなるよね。
見えてますよ?みたいな。あるでしょ?みたいな感じだと思うんだよね。
やっぱり何かを知ってることを突き詰めようと思うとそうなってくるんですけど、
今、把握するとか認識することについて説明してるんですけど、
これがどういう発想に繋がっていくか、いわゆる分けたじゃないですか。
分けていくと当然いろんな問題が出てくるんだけど、
例えばどういう考えが出てくるかっていうと、
さっき言った通りで、単なる意識、要はリンゴを見たときに、
なんとなく赤いね、丸いねっていうふうなものと、
これはリンゴであると把握するってことの間に、
要は何か一個、プロセスが含まれてるじゃないですか。
このプロセスが、まさにさっき言った魂による受け入れというか、
魂がそれをちゃんと判断するみたいなことが挟まってくるんですよね。
確かにそうだよね。
これ前回ちょっと触れたんですけど、
素赤において子供、生まれたばっかりの人間っていうのは、
まさに魂による受け入れとか働きっていうのがないから、
リンゴを見てもリンゴだっていうふうに判断、把握できないんだっていうふうに発想なんですよ。
そうだよね、実際ね。
実際にそうだと思う。
それをいろんな経験とか知識とかを踏まえていくと、
これは例えば木になっていて、赤くて丸くて、みずみずしい。
しかもこの時期が今、例えば秋だから、
これっていうのは基本的にはリンゴであろうっていうふうなことが確信できますね、みたいな。
そういうことを魂はやってんじゃねえかっていう話になってくるんだよね。
なるほど。
なので、そういう意識に昇ってくるとか、なんとなく目に入るっていうことと、
ちゃんと把握する、認識するっていうことは違うんだっていうことが、
まず1個大きなストア派の考え方になってくるんですよ。
認識の問題と批判
ここまでOK?
OK、OK。
そうなるとさ、これ次もイメージ湧くと思うんですけど、
じゃあよと、これはストア派を批判する人の立場になったときに、
なるほどと、それと区別して魂が承認するってのはわかるんだけど、
果たしてね、本当にそうやって魂が受け入れたものっていうのは、
それ、真だと言えるの、要は正しいって言えるんですかと。
あんたはリンゴがあるって言うけど、そのリンゴって本当に正しいんですかっていうようなことは、
すぐに批判できるわけなんだよね。
そうなの?
だってさ、幻覚かもしれないしさ。
そうなの?そう?
うん。
どういうことだ?
私は目の前にリンゴがあると確信してるって言っても、
その確信を何に支えられてるんですかって問えるわけじゃない。
なるほど、何に支えられてるのかね。
そうそうそう。
だから、あんたが見てるリンゴっていうのはもしかしたら幻想じゃないですかとか、
それはすごくリアルなイラストじゃないってなんて言えるんですかっていうことが問えるようになるわけなんだよね。
それが問題になってきます。
なので、おっしゃった通り、何かを知ってるっていうのはさ、
要はどんな議論でも覆されないっていうふうな条件というか、前提があったじゃないですか。
なので私はリンゴがあるとわかっている、なぜだろうってわーってしまったときに、
それはなんで幻覚じゃないと言えるんですか、どうしてそれが本当にリンゴとあなたが確信できるんですかっていうことがまた反論されるわけだよね。
それにどう答えるかとか、答えないとストア派自身が言うとか、ゼノン自身が言っている何かを知っていることには到達しないってことになっちゃうわけなんですよ。
確かに。今リンゴの話だから、たとえば道を歩いてる市民をランダムに捕まえて、
これは何ですかって聞けばリンゴですって。
10人中9人は多分リンゴって言うはずなんだけど、それは多分リンゴがあると言ってもいいでしょうと。
たぶん反論者も言うと思うけども、これがたとえば善とは何かとか、認識するとは何かみたいな、
やっぱり刑事上の話を始めた途端、そういった反論にうまく答えることが難しくなってくるってことなんだね。
そうそうそう、そうです。
それはあなたの意見ですよねっていうのに反論できなくなっちゃうってことなんだね。
できなくなっちゃう。
聞きづらくなる。
さっきのリンゴの話にしても、もし1人が違うって会員に言ったとしたときに、
その1人が違うってその人を確信、納得されない知識って本当に真なんですかっていうことも言えちゃったりするわけなんだよね。
確かに。その1人がダメだとかじゃなくて、そういう人が理解できないとしたら、
まだまだリンゴっていうものの把握具合がこっちが足りてないと。
そうそうそう、そういうことも言えちゃいますよと。
なので、前回のデュエゲンスの話でもおっしゃったんですけれども、
やっぱりこう、自分の外に基準を立てる。
それこそね、美しいとかさ、お金が、とかってやっぱりなっちゃうと、
やっぱりその、なんだろうな、その基準の正しさ、
要はじゃあアテネっても正しいから、この法律は正しいっていうときに、
じゃあアテネが崩壊したら、その正しさもなくなるんですか、とかっていう風になっちゃうじゃない。
いや、そうね。
そういうことがどんどんどんどん起きちゃうので、
自分の外に基準を立てると、その保障っていうのはやっぱり、どんどんどんどん弱くなっちゃうんですよ。
だからこそストラハっていうのは、その正しさの基準を自分の中、要は人間の内部に求めちゃうんだよね。
なるほど、難しいよね。想定処理なんかだにそうだし、なんか難しい。
そうなんだよね。
想定処理もそうでしたら、いわゆる独善、独我論とかっていう感じで近いのが、
要は自分が正しいと思ったら正しいみたいに、やっぱりそういう世界になりがちになっちゃうんですよ、と。
俺がこう思ってるからそうなんだ、みたいな。
そうそうそうそう。
ってなっていきますよね、と。
はいはいはい。
だからそういう危険を犯しても、そういう批判、要はそれってもうお前が言ってるわけじゃないかって批判を受けるのを覚悟しつつも、
やっぱりストラハって理性を重視する。
理性っていうものに立つ以上は、やっぱり人間の内部、人間の理性っていうものに、
認識の検証
その正しさの基準を求めに、ある種行かざるを得なかったっていう感じなんだよね。
どういうことかっていうと、やっぱりある種、自分がその魂がさ、目の前のものを見てリンゴだと思いましたと、
そういう把握をしたっていうときに、それを自分で検証するっていう働きを取るんだよね。
あー、なるほど。
これは本当にリンゴなのか、自分がリンゴだと思ったことは正しいのか、正しいとしたらどのくらい正しそうなのかっていうことを、
ある種疑問を挟んで、まさに鍛えていく、その仮説をね。
そういうことをしていくと、さっき言った通り、このリンゴって、
要は、例えば去年もリンゴがこの木になっていて、1年経ってまたなっているということは、
2年と同じリンゴであろうということは、ほぼ疑いなく言えるよね、みたいな。
そういうことを知識とか経験とか、そういうものを創造因して、一瞬のうちに行うっていうのが、
ある種人間の魂とか理性の働きであって、何かを知るっていう行為そのものなんだっていうふうな、
そういうことを言っていくわけなんですよね。
なるほど。だからあれだよね、ゼロンが最初に言ってた、何かを知っているとか把握しているということは、
どんな議論によっても覆されないみたいなところを、
その議論の相手、反論する一番強い相手を自分自身である、イコールみたいな、そういう状態ってことだね。
そういうこと、そういうこと。本当その通り、自分が知者、哲学者だったら、哲学者の自分で自分をある種批判すればいいわけなので。
自分を論破できるかっていうね。
そうそう。まさにセルフ論破みたいなものをやっていくんだよね。
これもね、ちょっと1年前の時のストア派の時にも言ってたと思うんですけど、
それこそ心を乱されないみたいな修行のときに、本当に街を歩いて怒ること、
犬が吠えたとか、自分が疲れたと思ったとか、そういう荒いことに対して、
これは受け入れるべき、これは受け入れないべきとかっていうのを判断するみたいな、
そういうことをやってたっていうふうな記録は残ってるんだけど、
まさにそれがストア派的な実践だよね。
こういう自分の把握したものを知っているってものが本当に正しいかっていうことを、
ちゃんと検証していくってこと。
これをストア派の言葉で言うと、把握的表彰っていうらしくて、
これっていうのは、要は把握する、認識する、
表彰って言うのは、いわゆる心に浮かんだ物事とか認識なんだけど、
それは絶対に正しい、そういうふうに確信することができる、
そういう表彰、認識っていうものを、把握的表彰っていうふうに呼びましたよと。
これがあれば、この把握的表彰っていうものが、
どんな反論とか批判にも覆されませんよっていうふうなこと。
あるいは理想の認識みたいなものを、こういう言葉で呼んだっていう話なんだよね。
わー。いつも、すぐ繋いでて申し訳ないけど、
宇宙と理性
はい、どうぞ。
結構、悟り状態に近い感じがするよね。
一瞬一瞬で、常にフラットな状態でいて、
一瞬一瞬世界を作っては壊すっていう状況にすごい似てる気がする。
それはでも鋭いですね。
鋭いっていうのは、ちょっとこれ後で言おうと思ってたんだけれども、
理想派的な世界観って、いわゆる真なるもの、これは正しい、あれは正しいっていうのがいっぱいあって、
それが連なってるっていう因果的な世界に近づいてるらしいんだよね。
前回から宇宙は理性の構造物みたいな言葉をわけわかんないまま使ってたと思うんですけど、
これって要は、宇宙っていうものも真なるものとか正しいものっていうのが繋がって、ある種ありのまもの姿になっている。
要は、朝になれば日が昇るしとか、お腹が空けば、
宇宙で言うと、塩が満ちれば引くしみたいな、そういうものってあったりするじゃない。
それも結局は、一個一個独立して起きるんじゃなくて、いわゆる正しいことが積み重なって、
その正しいものとか他の正しさの基準とか要素にもなっていく。
さっき言った通り、秋になればりんごがなるっていうことは、秋になるっていうことが規則正しく起きるっていうことが正しくないと、
これも死んだって言えないじゃないですか。
いろんなものが繋がっている中で、今自分が向き合っているものが果たして正しいかどうかっていうことを判断していくんですよね。
なるほど。
これは仏教的に言うと演技っぽいというか。
あ、そうなの。
あんまり結びつかないほうがいいとは個人的には思うけれども、ある種のものが繋がっている。
ある種、一瞬前に正しかったことが一瞬後には間違っているかもしれないっていうことが仏教で起こり得るじゃないですか。
真理の繋がり
いやー、まあですかーって言われても、演技を前から言ってるけど、この十二演技とか演技に関しては理解してないからね。諦めてるからね、途中で。
確かに確かに。
その話をまたちゃんとしなきゃね。スルスルって言ってしなかったですね。
なるほどとはなんないんだよ。だから演技を理解してないから。難しすぎて。
すごいフラットに言うと、あれが起きるからこれが起きるっていうだけの話なんだけどね、たぶん演技っていうのは。
その段階がさ、今回の把握とはさ、見て魂が云々とかってあったじゃん。そんな感じでいっぱいあるってことなんでしょ、確か。
いっぱいある。いっぱいある。
そこは似てるというか。
それが話なので、たぶん演技の直感的な似てるっていうのもすごい分かるなっていうのは確かに聞いてて思ったんだよね。
すごいちょっと無理矢理ね、東洋、最近東洋文不足してるからね。
次回東洋行くんで、私もね、押しにしてるだけだと思うんですけど。
このね、ただそれじゃあ、そとりとかもまさにそうなんだけどさ、
俺はそとったとかさ、俺はこのリンゴは絶対にないと確信したっていう人に対してさ、
それって本当って、それはそれで言えちゃうわけじゃない。
それってすごくあなたが思ってるだけじゃないですかとか、すごい独断的じゃないですかみたいな。
そうだね。
なので、それを乗り越えるためのある種のロジックってやっぱ必要なんですよね。
それがあったからこそ、たぶんね、400年500年続いたって話もあるんだけど、
それが何かって、要はスターハゼは何を言うかっていうと、
スターハゼ的な世界観においては、さっき言ったとおり、リンゴから運動が伝わって魂に届くって話をしたと思うんだけど、
魂であれ、そういうリンゴであり、いわゆる認識って働きであれ、
僕らはね、普段、リンゴはちょっと違うけど、
そういう魂みたいに普段精神的とかある種のものじゃないって基本的には思ってるんですよ、僕らって。
っていうふうなものでも、実はそれも全部物質的なものなんだっていうふうにスターハゼの人は考えてるんですよ。
はいはいはいはい。
要は、原理的なというか、物理的なものとして存在するかどうか一旦置いといて、
魂って物質的なものなんだ、そういう性質を持っているものなんだっていうふうに考えてるんだよね。
まあそうだね、理性で説明できるというか、そうなってるってことは、絶対何かしらの形では存在するってなるもんね。
だからこそ、魂がやっぱりものを把握するっていうのは、魂ってよくわかんないふわふわしたものがあるんじゃなくて、
魂って物質的なものが、ある種のリンゴみたいなもの、ある種のリンゴから発された運動と共感共鳴するみたいな、
そういう物理的な現象なんですよっていうふうに説明するんだよね。
うんうんうんうん。
ではもう音叉みたいな感じでさ、音叉も1個叩くと別のものも揺れたりすると思うんだけど、
そういうふうにリンゴっていうものから発された何かが、自分の魂を震わせたっていうことを、ある種認識っていうふうな話で言っていきますと。
はいはいはい。
そうすると、その共鳴したっていう事実に対しては、間違いなく自分の魂がこのリンゴと共鳴したんだっていうことまでは言っているよねっていうふうな話になっていく。
うんうんうんうん。
で、その共鳴に対して、それを正しいととるか間違ったととるかっていうところは、ちゃんと判断するっていうふうな話がさっきの魂の話で。
うんうんうん。
で、その判断するときに、適切な知性とか、正しいその真理を見る、なんだろうな、その判断力って持っていれば、それはできるじゃないかっていうことが、このストア派の言いたいことなんですよ。
なので、自分が正しいとか間違ってるとかって判断するんじゃなくて、正しい知識を持っている人であれば、その判断はもちろん正しいであろう。
正しいっていう前提から出発していくからね。
うーん。
だからこそ、それは独断的とか個人の勝手なんじゃなくて、知恵を持った人が行う正しい判断だっていうふうなことを言うんですよね。
あー、なるほど。そこも難しいね、なんかね。
はい。難しい。だからこれは、ストア派っていう一派が、ストア派的な正しさを主張したときにたどり着いた結論だっていうふうな話ではあるんだよね。
ちょっと難しいもんね。身も負担もないというかさ、やっぱりこの人はすごいからすごいんだ、みたいな感じにはどうしてもなっちゃってる感じはする。
理性ってものを共通の土台として立てているので、本当に理性的かどうかって、ある種理性って呼ぶのは基準になってるって話もできるかな、そういう意味で言うと。
まあ、そうだね。だから無理矢理に言うと、誰かが言っちゃうものをつけたりする意地悪だね。
それ見えないけどどうするんですかとか、他の人に見えるようにしてくださいとかって意地悪言ったとしても、反論、議論みたいなものが理性的じゃない限り受け付けませんっていうことも言えそうでもあるかなとは思ったね。
まあ、そうだね。それはあると思う。
もっとちゃんと批判してくださいみたいなね。
うんうんうんうん。
意地悪言は受け付けませんとも言えるかな。
ちょっとそれも無理矢理な感じはするけど、でもなんとなくそのスタンスみたいなものは伝わってきた気がするな。
そうですね。なので、ここまで魂とかの話をした上で、もう一回大元に戻ると全体感が見えやすくなるかなって思う部分もあるんですけど、
まずこれまでの復習でいくと、スタッフっていうものは、宇宙とかあるいは自然っていうものを、理性的なものだ、物質だっていうふうに言ってるんだよね。
なんかここまで来て思ったけど、万物は理性であるみたいな。
はいはい。あ、そうそうそう。でもね、ロゴスっていうものはそうだから、ロゴスの働きによって動いているっていうふうな感じかな。
ああ、はいはい。であるというよりはね。
そう、であるというよりは。
っていう前提のもとだっていう感じなんだね。
そうですそうです。で、そうすると当然、万物の中に含まれる人間っていうものはもちろん物体なんだよね。
かつさらに人間の中にあると言われる魂とか、それが生み出す、把握したものも、
要は何かまさにさっき言ってくれた通り、物質、ものとして存在するかどうかわかんないけれども、物質的なものとして取り扱えるであろう。
宇宙も人間も魂も物質なんだったら、そこから生まれる観念とかっていうものも物質だと思って良いだろうっていうふうな話で考えていくんだよね。
なので、宇宙全体を理性的に捉えるっていうことと、自分の認識、これはリンゴだとか、これはリンゴじゃないとか、
そういう認識っていうのを理性的に捉えるっていうことは、同じ理性で捉えるっていうことを別の対象にやってるだけなので、
そうすると、宇宙全体と人間どころか、自分の認識自体も繋がってるんですよ。
これを繋がってるんだけど、正しくやるっていうことは勘体にできるわけじゃない。
さっき言った通り子供っていうのは、もちろん魂の働きがまだないわけで、子供は宇宙全体の理性的なものと自分の魂でも繋げることができないんだけど、
それを正しくできるようになった人たちっていうのが、いわゆる哲学者、ストア派でいうところの哲学者なんですよっていうふうな話なんだよね。
しかもこれさっきちょっと先取りしたんだけれども、そういうふうに宇宙全体と自分の魂が一個一個正しい正しいって繋がっていくじゃないですか。
そうするとこの世の全てが正しいで繋がっていくんだよね。
そうすると、それで繋がった全体のことをストア派の人たちは真理って呼んでるんですよ。
おー、すごいね。なるほど。
だから真理はどこかにあるんじゃなくて、正しさを紡いで世界中を覆い尽くした時にそれが真理であるっていうふうに発想が切り替わってるんだよね。
なるほど。すごいね。
認識と真理の探求
真理を探求するっていうよりは、そういう在り方をしていくと、真理イコール自分の認識というか自分みたいなところに到達するよねっていうね、イコールなんですよ。
そこがイコールになってくるんですよ、まさに。
どこかにある真理で水だとか火だとかっていうものを見出すんじゃなくて、自分もその真理の一つであったというか、もしかしたら今すごいこと言っちゃってるけど、
危ないこと言っちゃってるけど。
危ないこと言っちゃってるけど、ちょっと大丈夫ってなってるんだけど、宇宙とか自然とか神っていうものがあるというか理性的なものとしたら
それを正しく理解することで自分もその真理に到達できるんだっていう、そういう道を切り開いてるんだよね。
そうだね、だから自分が神であるとは言ってなくて、
言ってない言ってない。
宇宙が、世界が理性で作られている、人間もそのうちの一部であるって考えて、人間はそれを把握することしかできないと考えると、
その中で人間が我々を把握して、ただその把握した世界とか認識している、その想像だよね、あくまでもね。
のものも、とはいえ理性的物質的なもので考えると、すべてが、はいとかいうと陰我だったりとか関係しているので、
それが全体を持って真である、真理であると言えることができるっていう世界観はわかる。
同じことを言ってるけど。
でも本当そういうことで、だから面白いというか、やっぱり現実、地にはついてるなと思うのは、
例えばさっき言った通り、リンゴを見間違えましたとかさ、
これはリンゴのすごい巧妙な絵でしたとかになったときに、それで要は、真理が回復するんですよ。
ある瞬間、自分はリンゴの絵を見間違えていたってことは起きるし、
そうするとリンゴだと思ったことが正しくないってなるんだけど、
誰かに指摘されて、正しい知識としてこれは絵だっていうふうなことをアップデートされると、
これはリンゴの絵であったっていうふうなことがまた正しくなって、
そういう真理の世界というのは回復されるんですよね。
それはすごく、これまで聞いてきたストア派っぽいというか、
自分の中に自分を批判するとか、フラットに見る何者かを想定するとすると、
確かにリンゴの絵をこれリンゴじゃんと思っている瞬間は、
リンゴは捉え損ねてるんだけれども、
リンゴの絵をリンゴだと思っている自分がいるこの世界は真なんだよね。
そうそう、それは真なんだよ。でも真理ではないんだよね、それは。
わかる?この真と真理の違いって、ちょっと不安って言っちゃったけど伝わるかな?
うん、わかったわかった。その状態は真だけれども、世界の認識としては真理ではなくて、
なぜならリンゴではないからね。
知識の更新と自己批判
で、これ違いを騙された、ヘイヘイって言われた時に、
あ、絵じゃんってなると、それは真理なんだよね。その状態は真理であり、真でもあるって話だよね。
そうそうそうそう。で、その人の知識がアップデートされるとか、
その人が新しい知識を新たに身につけることで、
その真理の世界っていうものがまた回復されたっていう風になってくるんだよね。
回復ね、なるほどなるほど。
そう。
だからその真をきちんと認めることができる、学ぶことができるかっていうのはとても重要なことなんだね。
とても重要、そう。
はいはい。
これはまさに自己批判とか丹霊って本当に大事で、
これはまさにその、知識があるってことが善で、無知であることが悪ってのはまさにそれで、
要は無知で、いやこれはリンゴに違いない、なぜなら俺はそう見えたからとか、
で、絵だって言ってるお前の方がおかしいんだとかっていうのは無知な態度なわけなんだよね。
はいはいはいはい。
うん。
それではやっぱ一生真理にはたどり着けませんよ、
要は善な良い言い方にはできませんよっていうようなことだとすると、
なんかわかるよねというか。
いやーそうね、そんなカタクラな人がね、確かに真理は絵なのに、
本当はリンゴだと思って今後見ていくって考えると、
もう回復されないものになる。
そうそうそうそう、そうなのよ。
世界がね。
うん。
その演技が回復されない。
回復されない。やっぱ真理っていうのは見ることができない、
イコール理性的ではないっていう風になるんだよね。
おー、あー繋がってくるねー、なるほど。
そうそうそうそう。
ただね、これできるのかってすごく難しいというか、
たぶんその範囲内で理想的な哲学者っていうのはそうなんだよね。
全ての正しいことの繋がりも含めて知っているっていうのは、
まさにイコール神なわけよ。
そうだね、誰かがそうだよね、これは真理であるって、
ちゃんと教えてくれる世界ならいいけれども、
誰も真理を知らないものとかもあるわけだし、
あるある。
その真理と言われてるものすらも下手したら、
仮の真理というか、ただの真かもしれない。
ことが本当はいっぱいあるんだもんね。
だからこそ、前回、1年前にお伝えした、
マルクス・アウリウス・アントニウスみたいな人も、
やっぱり自己死でもそういうものに近づこうとか、
ちょっとでも正しく生きられるようにしようって日々修練を積む。
別に自分は哲学者で、賢人で、しかも皇帝だっていうことじゃなくて、
やっぱり謙虚に生きていくっていうところが、
そういうふうな発想もあると思うんだよね。
確かにそうだね。
この精神姿勢、スタンスを正しく実践できる人に関しては、
ちょっとおかしな話だけども、
真理かどうかはどうでもいいじゃないけれども、
少しずつは真理に近づく可能性はあるっていう意味で、
すごく尊いもんね。
そうそうそう。やっぱりそのプロセス自体が、
よく生きていることなんだとか、
ちょっとでも機能よりも少しでも何か知識が増えたら、
それは自分にとっていいことなんだっていう、
まずそういうポジティブでもあり慰めにもなるよね、それは。
さっきの堅くなな人と比べると、
少しずつ前進してるもんね。
今日、今まで自分が真理だと思ってたものが、
実は違うと分かって、
より真理が回復したような状態に近づいてるはずだってなるもんね。
そうそうそうそう。
ちゃんとそこを学び直せれば。
やっぱりそういうことをある種考えて、
ちょっと倫理、次とりあえず倫理に近づくんだけれども、
そういうことを大事に思うためにも、
そういう認識論とか、
僕らはどう物事を見てますか、宇宙とはどういうものなんですかって、
僕らはやっぱり正しい理解が必要なんだよね。
なるほど、確かに生き方みたいなスタンスみたいなものを、
そこまで納得不倫に陥るためには、
ここの世界観を理解しないことには、
自分が何をすればいいのか、
何のためにこんなにフラットであろうとしてるのかも、
分かんなくなってくるかもしれないよね。
自己批判とか毎日勉強しましょうというのは簡単だけど、
ストア派の哲学と倫理
なんであるわけじゃん。
なぜそんな厳しいことをしなきゃいけないんですかっていうときに、
なぜならねっていう話がこの前提にある。
へたしたらそうだよね。
自分の先生が朝正解だって言ってたことを、
夕方にあれはちやかったって喜んでたときに、
弟子がやっぱり、こんな朝礼僕がやる、みたいな。
そこも喜べるか、
この先生は言うことが毎回変わるぞ、みたいな。
怪しいみたいなね。
そこの、それが本物の先生なのか、
偽物の先生なのかも分かんなくなっちゃうよね。
やっぱりね、何を信じればいいんだってやっぱりなっちゃうだろうし、
そうなったからこそ多分キリスト教が広まっていった?
そうなの。
だってそうやって自分を鍛えましょうとかさ、
真理ってものが日々変わるものですって言われるよりも、
神が真理で神を信じなさいって言われたほうがさ、
楽じゃん、やっぱり。
なるほど、確かに大乗仏教的なね、
みんな仏でOKのほうが簡単。
そうそうそうそう。
みんな修行してるように。
全員が修行してやるよりも、
やっぱり多くの人に引きつけたんだと思う。
逆にそれは上がってもやっぱりあったからこそ、
それになかなかやりきれないとか、
そんなうちの神とか言っても、
世の中も混乱しててコロコロ変わるって無理だよみたいな。
確かに今日の飯が、
明日徴兵されて死ぬかもしらんみたいな。
っていう時に、
勉強せずは自分の判断を厳しく鍛え上げましょうとか言われてもさ、
無理じゃん。
死ぬもんね、死ぬもんね。
うんうんうん。
ね。
なるほどなるほど。
これは少し想像も含むんだけど、
やっぱりそういう時代的な背景とか、
ある種ストア派がこういう発想だったからこそ、
その次にキリスト教を受け入れる素地があったんじゃないかとか、
っていうことは歴史的な動きを考える意味でもすごく大事なんじゃないかって思うんだよね。
はいはいはい、なるほど。
というわけでね、今回ストア派のある種認識論とか、
宇宙とはみたいな話をしてきたんですけれども、
なので、そういう意味で言うと、
このストア派的な考え方ってすごく共感できる部分もあれば、
ちょっと難しい部分もあると思うんですけど、
ここでちょっと僕の想像というか、
少し感想になっちゃうんだけど、
ある種やっぱりそういう、
宇宙と人間の理性が等しいとか、
理性を使えば宇宙全体を認識できるって、
これは逆にね、ある種これをひっくり返すと、
宇宙とか神っていうものは人間の想像を超えないんだっていうような
発想にやっぱり繋がってくるんじゃないかって思うんですよね。
おー、はいはいはいはい。
そう、要は人間がある種宇宙っていうものを丸ごと理解できるってことじゃないですか。
やっぱりそうなったらそれはそれで問題になるというか、
やっぱり人間が宇宙とか自然を支配するとか、
人間っていうものが宇宙っていうのを好きに使っていいんだみたいな、
そういう発想に繋がっていくきっかけというか、
源流がストア派にもあったんじゃないかなって勝手に思ったんだよね。
へー、あ、そうなの。これ何だっけ。
プラトンの時にちらっと話したっていうか。
話したかも。あ、話したね。
要は二元論的なところで自然が作られていくとか、
そういう意味で言うと自然っていうものは人間がある種自由にしていいとか、
人間の理性っていうものを使って好き勝手できるっていう話はプラトンのところで話したね。
ストア派っていうよりは二元論的なというか、
人間の理性っていうものをある種一番上位に置く、
最上位に置く発想っていうのはやっぱりそうなのかもしれないんだけど。
あくまでもやっぱりストア派っていうのはディエロゲネスとかソクラテスの流れがあるんで、
あくまでも自分の伝えていく必要最小限の生活をして、
外じゃなくてやっぱり中に自分の内側に基準を作っていく中でどういう言い方をするのかっていうような話。
やっぱりストア派的な根幹にはあるので。
宇宙がどうとかっていうよりはそういった捉え方、理性っていうもので宇宙を捉えていける。
それが真理を積み上げていくというようなことを認識した上で、
よく生きるとは何か。正しく生きていくとはどういうことかっていうのを、
次回ストア派の倫理学を見ていくことで深掘りしていきたいですよというような感じで思っております。
じゃあ今の話はまた次回の話ってことかな。
次回です。
自然を支配するとかっていうのはちょっとまた、
ごめん僕はそう思ったよっていうちょっとまた脱足的な話をしちゃったんだけど。
その点で言うと、このストア派のこの理性、第一、宇宙イコールに人間であるみたいな、
宇宙の一部を人間であるか。
人間が宇宙とか自然を支配していくっていうふうに繋がったっていうふうにはいと思ってるってこと?
そういうのもあるんじゃないかなって感じだったのかね。
だからそこそこ理性二元論的とか、理性史上主義みたいなものにちょっとこれがなっちゃったかもね。
結びつくんじゃないかっていう。そうそうそうそう。
まあでもそれはあるだろうね確かに。あるだろうっていうのは。
ストア派の教えと宇宙観
でもストア派自体はそこまでは多分行ってないみたいな感じだよね。
このストア派の教えをそうやってちょっと理性の方、人間の方にあまりにも非常基準に言うとそうなっちゃうよねみたいな。
結構あやいバランスで、ストアは結構やっぱり半信論みたいな、神っていうのはいろいろいるよね、あちこちにいるよねっていうふうな感じのやっぱり発想になってるらしいんですよね。
なぜなら心理とか神なるものもたくさんあるわけなので。
半信論の間は多分バランスとれてるんだけど、それがじゃあ結局神なんてなんぼのもんじゃいとか。
ある種そのいろんな神がいてもそれは結局理性に基づいてある種理解できる、支配できるとかっていうふうに貫いちゃうと人間史上主義というか。
なるほどなるほど。だからある意味その宇宙イコール人間だったり宇宙の中の人間っていうのは一見謙虚というかフラットな感じがするんだけれども、
これもおこがましいって話だよね。さっきのハイアットの人は。人間の理解の範疇にしかない、想像を超えないっていう意味では、本来自然にしろ宇宙にしろ人間の予想だったりとか理解とか、
想像の範疇はもう超えてるはずなのに、そこ同じだっていうのはおこがましいと。ただそのおこがましさが自然を支配するとか宇宙を支配するとか進出できるみたいな、まだまだおこがましいんだぞぐらいの感じだとすごい理解できるかな。
だからこんなに同じだとかじゃなくて、やっぱり宇宙はすごいと。人間は宇宙の塵の一つじゃぐらいの謙虚性さえはね、謙虚ではなく、そういうふうに思ってないとイコールだりするとまだまだおこがましいぞっていう感じはすごい思った。
それは確かに僕はそういうことを言ってるし、それこそ前回ソクアテス以前で話した通り、まだ2、300年前までは、今の時代もそう思うんだけど、やっぱり神、ゼウスがいてとか、神のおぼしめしっていうものの中で人間はもうある種やりきるしかない。そこに影響を与えるなんてもう恐れ多いみたいな話だったと思うから。
やっぱりこの数百年という流れの中でここまで変わってきてるっていう話だよね。
だいぶ変わったね。そしたらだいぶおこがましいな、これは。
だいぶおこがましいと思う。
そういった、逆に言うととはいえ、やっぱり神に翻弄される人間じゃなくて、やっぱり人間が人間の自分の主導権を持っていくという話。
そういう際は一つの進歩だと思うので、そういった世界観の中でよく生きるって何なんですかっていうところを次回お伝えしていきますという感じですね。
ストア派全然覚えてなかったけれども、思い出したというよりは学び直して。
改めてね。
面白くなってきたね。
良かった良かったです。
すごい魅力的な。
こういうふうな話を聞いていただいた上で、前回取り上げたマルクス・アルベリウスのこんなこと言ってましたっていうのを聞くと、背景にそういうふうな発想とか世界観とかで認識があったからなんだみたいなこともちょっとわかりやすくなるんじゃないかと思うんで。
よかったらまたそっちもぜひ聞いていただいて、合わせていただけると嬉しいなと思いますという感じですね。
分かりました。では次回、ストア派のより広く深くというところで楽しんでいきたいと思いますので、次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
49:51

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