1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #218 ホワイトヘッド哲学と言..
2024-05-29 46:27

#218 ホワイトヘッド哲学と言葉。言葉という抽象的な存在との付き合い方

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:12
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回はホワイトヘッドの具体性を取り違えるコーヒーだったと。
そうです。
抽象的なものは何かという話をしてきたということで、
すごいね、アンダーアーニングでアンダーアーニングを重ねるみたいな、アンダーアーニング式の部分。
すごい怖い、面白くも怖い話ではあったんだけど、何が怖いと思ったかというと、
やっぱりね、あまりにも無とかさ、
例えば何か聞こえたとか何か動いたとか、そういうのすらも抽象的だとか言われちゃって、
そういう方向に行くと、じゃあその、自分がいなくなっているというか、
だから自分が自分になっているというのとは逆の感覚で、
自分がどんどん薄まっていくとか、自分も結局は大きなものの中の一つで、
しかもそれが何か探検したときにパッと現れたものの、後付けの理解でしかないみたいな感覚を突き詰めていくと、
さらに虚無というか、自分がないというか、逆に危ないほうに行っちゃうんじゃないかなというのを、ちょっと怖いというふうに表現したんだけども。
そういう意味で、今回テモン協とかとも企画してると思うんだけど、
やっぱりこういう話、宗教みたいなのが逆に必要なのかもって思った。
冒頭からいきなり感想なんだけど。
ありがとうございます。本当にそれはその通りだなと思っていて、逆に言うと僕らがどれだけ西洋的な感覚というか、
私があるとか、ものがあるっていう世界にどっぷり使って生きてますか、その世界しか知りませんかって話なんだよね。
実はこれ、今日ちょっと前回も少しだけお話しした通り、言葉とか表現というものを扱っていくんですけれども、
言葉ってさ、僕ら学校とかで文法の授業とかってやるじゃないですか。
主語があって、述語があって、形容詞が、副詞がとかってあると思うんですけれども、
あれってそもそも文法っていう発想自体が西洋のものなんだよね。
昔の日本の人たちが、西洋で言語学とか文法論みたいなところを日本に持ってきて、日本の言葉に当てはめましたっていう考え方なんだけれども。
03:05
後から日本語があって、後付で文法というものを解釈したり、日本語を解釈することになる。
例えばさ、僕らってやっぱり主語とか述語って言うんだけど、日本語って主語なくても伝わるじゃんって話あるじゃない。
うん、よく聞くよね。
あっち行こうぜとか、ちょっと疲れたとかって言っても全然伝わるときに、やっぱり主語は消えるんだけれども、
私があるとか主語があるっていうことも、すごく西洋的な感覚なのよ、実は。
はー、はいはいはい。
だからやっぱり西洋の論理とかロジックからすると、こういう仏教的なものとかホワイトヘッド的なものって、
ちょっと宗教チックじゃんとか、私が消える感覚からして怖いって兄貴の正しい話なんだけれども、
そもそも私があると強固に思ってるっていうこと自体が一つの価値観なんだよね、やっぱり。
うんうん、まあ価値観でありある意味宗教かもしれないけどね、ある意味ね。
宗教的とも言えるかもね、別の人からするとね。
私があるという宗教に囚われているとも言えるから。
まあ宗教的だとおかしいけど、さっきその別の宗教的な感覚が必要かもしれないって表現したところからするとあるなっていう。
でもね、それも一つの価値観、まさに価値観だし観念だし、説だから。
そういう意味では、結構足元がガラガラ崩れる感覚っていうのはもしかしたら人によっては持つと思うんだよね。
私っていなかったんだとか、物って存在しなかったのっていうことで、本当に自分の世界観がガラガラ崩れていくっていう人は全然いるだろうから。
まさにホワイトヘッドはそうだよね、要はニュートン物理学ではなかったんだとか、
数学もこれまでは絶対に正しいと思われてて、物が違かったんだっていうふうにガラガラ崩れたときに、
本当に自分が手紙売りにできるものはなんだっていうことから考えて、
やっぱりこういう勇気だったっていうものをある種生み出していたというか、考えていったって話だから、
それはそういう意味では別の宗教って言われても確かに感覚的にはそうかもって思うんだよね。
ちょっと何気の感覚も含まれながらなんですけれども、やっぱりそれとすると言葉の問題が大きくて、
今日はその言葉みたいなものを軸にしながら、
ホワイトヘッドの勇気の手作っていうものをもう少し味わってみましょうって感じなんだけれども、
前回もちょっとだけおっしゃった通り、ホワイトヘッドの手作ってすごい深く深厚に入り組んでるんで、
やっぱり独特の用語っていうのがめちゃめちゃあるんですよね。
06:03
例えばハイデッカーで言うと、世界内存在とか、
なんかその言葉があると思うんですけど、そういうふうにやっぱその、
哲学者が生み出したとか、その哲学者の考えをちゃんと表現するために作られた言葉ってやっぱり色々あるんですよね。
例えばホワイトヘッドで言うと、もうちょっと挙げるだけでも、
現実的正規、これアクチュアルエンティティっていう言葉の日本語訳なんだけど、とか、
法悪とか、永遠的虐待とかって、まあまあ一生聞かないような言葉がずらっと並んでるんですよ。
一生聞かないよね。覚えれないし。
で、最初こういう言葉を一個一個説明すればいいかなって前回も思ったんですけれども、
それよりも、なんかその、剥き出しの事実ってないよね、とか、
まさに具体的なものは何かってわかんないけど、
でも僕らが普段思っている具体的なものって、実は抽象的なものなんだみたいな、
そういう感覚を味わっていく方がホワイトヘッドは面白い部分、
なんかつまみ食いできるんじゃないかって思ったんですよね。
なので今回も、やっぱりこれまでもずっと言っているんだけど、
事実とか世界とか経験っていった時に、僕らはそれを言葉で表現したわけだよね、基本的には。
もちろん踊りとか音楽とかってあるかもしれないけど、
言葉っていうものについてホワイトヘッドの哲学を踏まえると、
どんな風に捉えられるんでしたっけっていうことをちょっと見ていきたいなという風に思っておりますよと。
言葉自体はさ、なんか、やっぱりその構造主義とかさ、
ウィトゲンシェとかナーガールジュナとかっていろいろ含めて、
兄貴もね、結構興味持ってくれてたかなーとか。
あれ?そういうことなかったっけ?
言葉って面白いんだよとか言ってなかったっけ?
ナーガールジュナもあったっけか、言葉。
普通の話、言葉には本体はないとかさ、
話をしたと思うんですよね。
だからあれか、そういうのを含めて前回のラストさ、
言葉もやっぱりその抽象的なものだからみたいな話をしたんだけど、
これは、あれだね、こういう話を聞いて自分の中でさせられてるんだろうね。
なんとなく残ったかもね。
だから、僕らはその言葉が指すものがあると思って、
鳥と言ったら鳥という存在を指していて、
ロイという存在があると思っているんだけれども、
それっていうのもすごく抽象的というか、
いろんな前提があっての話ですよと。
09:03
今回の話はホワイトヘッド自身がそういうふうに言ってるよというよりは、
ある種そういうふうなことを解釈して、
言葉とホワイトヘッドの関係みたいなものを論している論文があったので、
ちょっとその内容を解釈しながらお伝えしていくみたいな。
それを楽しんでいただくっていう感じでやっていきたいなというふうに思っております。
ちょっといきなり全然違う話からするんだけれども、
例えばね、いわゆる僕と兄貴が話していて、
例えばさ、僕が、
昨日ちょっと夜本読んでたんだよねとかって言うとするじゃないですか。
昨日は夜に本を読んでいましたと。
これっていうのはもちろん一つの事実だし、僕の経験なんだけれども、
よくよく考えるとこれってめちゃめちゃ単純化された言葉になっていますよねと。
なんかヒントくる?
自分の場合だと、例えば本を読んでいたって、
何のためみたいなさ、
本当の目的みたいな。
そこも話すかなと思った。
まさにその目的、何のためにという意図の話でもそうだし、
あと例えばさ、その時僕は座ってたんですよとか、
メガネをかけていたんですよとか、
実は本を読みながらも、外の車の音を聞いていたんですよとか、
そんなふうに本来はいろんなことが同時に起こっているわけなんですよね。
なるほど、そういう写真があったとして、
そういう表現図みたいな。
そうそう、もし写真を撮ったらとか、
イメージ、まさに映像で伝えたらそれがわかるみたいな話なんだけど、
言葉にしちゃうと、僕は昨日夜に本を読んでいましたっていう風になっちゃう。
逆に読みにめちゃめちゃ集中している時とかは、
本当に目の前の本とか文字しか追っていません。
外で例えば救急車の音が鳴っても、
聞こえていませんでしたってことは起きるわけだよね。
なので経験とかで言うと、
そんなふうにいろいろフォーカスが取ったり、
近づいたり遠ざかったりするんだけど、
それを言葉にするっていう時に、
実はものすごい省略が起きてますよと。
なので、もちろん普通のコミュニケーションを考えると、
そんなことももちろんしなくていいんだけれども、
どうやってどうやって?
座って立って?みたいなね。寝て?
寝てみたいな。
手はどの角度で?とか。
うるせえ!みたいなのあるじゃないですか。
なんでそこで聞く?ってなっちゃうよね。
質問によってはね。
12:00
それは日常界ではそうなんだけれども、
今僕らはホワイトヘッドのことを考えていて、
ホワイトヘッドの哲学というか世界観では、
考えるものは他の別のものと関連するっていう話をしてるじゃないですか。
なので、例えばそれを世界観で、
仮にものを説明しようと思ったらどうなるかっていうと、
例えば本というものを一つ取ってもさ、
それはどんな紙でできていて、
その紙っていうのはどこどこの工場で作られてとかでもできるし、
その本がこういう物流の経路を通って、
どこそこの印刷所に集まれて、
その本を通じてその出版社、
どこどこの出版社が誰っていう編集者の下で、
この本を作り、
その本は何色で、著者は誰で、
その著者はどこどこの表示でとかっていうふうに、
あらゆることを説明できるわけだよね。
確かに。
つまり、本を一つ取っても、
それだけの関係性っていうものは膨らむし、
その本、紙とか出版社とか著者っていう関係が、
さらに別の関係を辿っていくと、
それこそ世界の果てまで行っちゃいますよ。
わー、なるほどね。
うん。
なので、つまり、
ちょっとこれはすごく、
ホワイトヘッドそのものの話じゃないかもしれないんだけれども、
あるものが無数のものと関連しているっていうふうに言うと、
そういう連想ゲームっていうのは、
果てしなく続いちゃうんだよね。
そこまで出道、出道というか膨らませていくとね。
やろうとしちゃうとね。
当然、僕らは普段の回ではそんなこと意識しないし、
求めないし、
相手からも別に期待されてないから、
やっぱり昨日は本を読んでいました。
なぜかっていうとね、
相手の期待に応じた、
すごく簡略化した言葉で該当しています。
もっと言うとこれは、
現実を相手との関係性とかコミュニケーションという場で役立つ、
というために抽象化した表現で、
僕らは普段生きているんですよって感じなんだよね。
うんうんうん。
ここまではOKかな。
うん、OKだと思う。
さっきのハヤトが、
夜本を読んでいたよっていうのを一つとっても、
私たちはもう宇宙全体の話、
今でやっぱり、
エクトミックの説明、
宇宙の話でしょか。
なんていうような話だけども、
うちらが普通に生きていく中で、
そうなってるっていう話だと思うんですけど、
生きていくためにではなくて、
そうなってるって書いてあると思うんだけど、
コミュニケーションのレイヤーというものはある程度決まってるよね。
うん、そうですそうです。
やっぱりそういうふうな状態の中で、
僕らは言葉を扱っているし、
15:00
言葉はそういうふうに、
いろんなものを省略したものとして、
情報を伝達できるコミュニケーションツールだって話なんだよね。
これがホワイトヘッドの思想とどう繋がりますかっていう話なんだけれども、
これまでお伝えしてきた通り、
ホワイトヘッドさんっていうのは、
いわゆる明確な理性とか、
明石な理性で世界を理解するっていうこと。
そのもの自体にすごい不信感を持ったんだよね。
そういうことできるわけないと。
やっぱり理性による理解とかって考えたときに、
結局これって当然言葉で行われるじゃないですか。
お伝えした通り言葉っていうのは、
事実を省略したり抽象化したりしてしまう。
つまり本当の事実っていうものがあるとして、
それも抽象的な概念なんだけれども、
そもそもその事実っていうのは歪めてしまうものである。
もっと言うと、今言ったような歪むことのない事実とかっていう言葉自体が、
前回お伝えした具体性を取り違えるモビュー。
これに陥っているから出てくる言葉ですよと。
言葉を使って何かを表現しようとした瞬間に、
まさに兄貴が前回本当に言った通り、
抽象化した世界で生きるってことになっちゃうって話になるんだよね。
これはホワイトヘッドが詩的に表現している。
詩っていうのはいわゆるポエム。
ちょっとポエミに表現してるんだけど。
弟子であり共同研究者だったラッセルに対して、
君は世界っていうのを天気の良いお昼に似てると思っているが、
私は世界っていうものを人がまず深い眠りから覚める早朝に似てると思っている。
っていう風に言ったらしいんですよね。
これもちょっと例えとして分かりにくいかもしれないんだけど、
世界っていうのは、僕らのいわゆる明石の理性である感覚で言うと、
太陽の光に散々と当たられて、
いろんな一つ一つのものがきっと見えて区別されている。
そういう風な世界に思っちゃうんだけど、そうじゃなくて、
寝ぼけた人がすごいぼんやりした中で、
しかも薄暗い日の光がまだ入ってない中で捉えていて、
それぞれの輪郭性も曖昧であるみたいな。
そういう風なものが世界なんだよっていう風なことを言っているんだよね。
例に近いというのは、家具を配置するというか、
家具がある部屋で目隠しをとられるみたいな感じで。
18:00
そうそうそうそうです。
すべてはものが明確に区別されていて、
ピキッと分かれているんじゃなくて、
それを理性で捉えているのはやっぱり違くて、
もっと曖昧もことした、それぞれの存在がくっついているというか、
関連しあっている。
そういう風な世界において物を見なさいよという話なんだけど、
もっと言うと、
世界ってやっぱり迷惑には区別できないというのが当然なんだよね。
哲学においても、世界を理性で正しく捉えようとか、
唯一絶対のものを論証してやろうみたいなことは、
仮に別にそれを求めるということはできるんだけれども、
根源的なものを求めるということから、
ずれちゃうよという風なことを考えるんだよね。
じゃあ、ホワイトヘッドの勇気の哲学って何を求めているのか、
結局どこに行き着くのって話ってあると思うんですよ。
そうなの。
無に向かってそうなものって。
そうそうそう。
なので、どこから出発してどこに行きますかって話なんだけど、
やっぱりまず出発点はどこまで行っても経験なんだよね。
はいはいはい。
やっぱり経験というのはこれまで言っている通り、
特定の状況とか環境とか、あるいは関係性の場みたいなものだったときに、
そこを切り離さないで、その物事とか出来事を捉えましょうと。
やっぱり鳥そのものがいるんじゃなくて、
何か歩いているという事象のこの場において、
鳥というものがさえずっているというものがあり、
それが鳥であったと理解するみたいな、
そういう風な世界の現れ方から経験というのが生まれている。
経験というのはそういうものなのって話から始まっていて、
なので、そういった中で節約をするというのはどういう事かというと、
今まさに思考に入ってくる、鳥がさえずっているとか、
自分はそれを聞いているとか、という風に入ってくるもの全ての観念、
近くに近いものなんだけど、
それの適応範囲の理解を拡大しようとする、
断固とした試みだという風に言われていますと。
要は、さっきまでもホワイトヘッドの行き立て策というのは、
何かどこかに到着するという到着点があるというよりは、
その試み、プロセスの中に重要性とか必要性がある、
という風な話なんだよね。
だから、ある種、決まりきったというか、
僕らの独立してある世界というものを、
言葉とか理性を使って分析をして解釈をしていくということなんじゃなくて、
21:03
新しい言葉の意味を広げていくとか、
新しく世界を捉え直していくということによって、
まさに世界を作り上げていくというか、
瞬間瞬間でその世界を生み出していく。
そういう風な試みがホワイトヘッドの行き立て策である、
という風な感じなんだよね。
これってちょっと前回も言ったんだけど、
プログラマティズムっぽいというか、
やっぱり真理があるんじゃなくて、
真理というものを作って間違えたらまた次の真理をさせていくという風に
どんどんどんどん真理というものに近づこうとしているか、
近づいているという営みであることによって、
真理があるということを浮き上がらせていくみたいな、
そんな感じだったと思うんだけど、
まさにホワイトヘッドもそういう風に、
世界を作り続けていくことによって、
世界というものがあるということに近づいていくみたいな、
そういう風な営みなんだよね。
なるほど、面白いよね、確かに。
長い間にどんどん収縮していく?
無に向かっていくというよりは、
どんどん拡散していくという感じがしますね。
そうそうそう、そうなんです。
ある種、切り分けて切り分けてやっていっちゃうと、
何も残らなかった無だってなるんだけど、
そうじゃなくて、むしろ無いところというか、
無いからこそ作っていくというか、
そういうポンポンというのは、
抜き出しの事実じゃなくて、
あくまで我々の経験なんだと、
その経験というところから、
抽象的な世界というところまで、
一歩一歩踏みしめていったら、
作り上げていくことができるかもしれない。
割と並みというのが、
ホワイトヘッドの手伝いだろうなという話なんだよね。
早く言ったら、プロセスというところではね、
結果を何かに向かって、
普通のアディティとかじゃなくて、
フィルターそのものを見て、
これが手伝いなんだというのはね、
スペシーとかもいけないし、
スペシーというのがレンズというかフィルター部分なんだと思うんだけど、
確かにそう言うと、
プラグマティックさは確かにあるかもね。
実はじゃないみたいな部分で言うと。
ある種、ホワイトヘッドの実は、
プロセス哲学ということがあったりとか、
名前でも一番有名な本が、
家庭と実在、まさにプロセス&リアリティという本なんだよね。
ああ、そうなんだ。
リアリティというのは今言ったような、
24:00
まさに物そのものとか、
抜き出しの事実という話で、
プロセスというのはまさにそういう、
それを作り上げていくとか、
物と物が連関関係している世界みたいなことを
言っているって話なんだけど、
そんなに家庭プロセスと実在、
存在するということは、
ホワイトヘッドというのは究極的な概念というか、
何か二つ挙げられていたら家庭と実在だみたいな、
そういう風な感じの話なんですよ。
確かにな。そこ間違えんなよ、みんな。
みたいな創設実装は伝わってくるよね。
でもそこに至れるというか、
その二つだという、バンバンと並べられるのも
すげえなって話なんだけど。
そんな風に考えていくと、
物があるんじゃなくて、先に意味とか関係その場があるよみたいな、
前回の最初のことが少しクレーになってきたら嬉しいな。
これもクレーになってますよねとは言えない。
クレーになってきたら嬉しいですねということしか言えないんだけど。
そうなんだね。
これはある種、頭で理解しにくいというか、
それこそ悟りみたいなもので、
ちょっとそういう感覚があるとか、
世界の捉え方、そのレンズをかけたことがちょっとでもある
という風なことが必要だと思うから。
ここまでいろいろ話をさせていただくと、
いわゆる冒頭お伝えしたような、
現実的正義とか法悪みたいな言葉が
どうして生まれたんだろうという話と、
やっぱりちょっとそれを今回説明しないほうがいい
というかできないなと思った理由も見えてくると思うんですよね。
今回も言葉というのを扱おうと言ってたじゃないですか、
という時に、
やっぱりホワイトヘッドというのはあくまでも
これまでの西洋哲学の伝統、
元々デカルトから始まったようなある種、
いわゆる主体と客体を分けるとか、
精神とやっぱり体を分けるみたいな二元論、
というところから始まっている哲学の伝統とは
全然違う関係性というか、
あるいはプロセスというような向き合い方で
世界を語ろうとしているんだよね。
その場合に、いわゆる主体と客体とか、
普遍的なものと個別的なものとか、
そういうふうな二元論的な言葉を使っても、
やっぱりその体験というのは絶対に
その言葉で表現できないんだよね。
だからこそ、彼がホワイトヘッドが
観察した経験という言葉にするためには、
新しい言葉が必要であったし、
かつそれを、例えばホワイトヘッドは
27:00
現実的正義という言葉を使って、
これはこう定義されてますね、
と言った瞬間に、やっぱりその言葉が死んじゃうんだよね。
要は現実と規範されたただの言葉になっちゃうから、
その言葉の意味というのを扱おうとすると、
それはできなくなっちゃうみたいな話になります。
もっと言うと、やっぱり言葉の意味というような
現実の経験とか、もっと言うと、
その文脈によって定義されるんだよね。
だから、現実的正義という言葉が
消えだして理解することができなくて、
それがこの文の中で使われているとか、
その文がこの段落の中にあって、
この段落というのはこの章でこういう意味を
もたされているというふうに、
やっぱり理解しないと絶対に理解できない言葉なんですよ。
なるほどね。
面白いね。言葉も、
言葉1個ではない言葉じゃなくて、
やっぱり環境の中でその言葉を守らないといけない。
言葉を守られているとして考えると、
言葉があるんだと言った瞬間、おかしくなっちゃうって話なんだよね。
そう。
さっき言ったみたいに、昨日読んだ本という本そのものを
理解しようと思うと、
さては宇宙かってなっちゃうようなのと同じで、
現実的正義ということを理解しようとすると、
さてはホワイトネットの哲学全体を理解するということと、
しかぶんだというふうになっちゃいます。
うーん。
だから僕らは、いわゆるアップルというのはリンゴだみたいな、
そういう形で絶対にホワイトネットの言葉は理解できないんだよね。
うーん。
もっと言うと、アップルはリンゴだというのもすごく単純化された言葉で、
本当に例えば英語圏の人たちが、
アップルというものをどう捉えているかとか、
アップルという言葉を使うときに、
どんなふうにアップルというものを理解するかというのは、
やっぱりリンゴという言葉だけでは表現できない。
そんな感じなので、
今回僕が参考した論文の著者、いわくという感じなんだけれども、
ホワイトネットの哲学というのは、
想像力を働かせて、読者自身の具体的な経験や、
世界の事象、出来事に照らし合わせながら読まれなければならない、
というふうに書いているんだよね。
うーん。
言った通り、例えばリンゴとか現実的正義という言葉があったときに、
その言葉を辞書的に理解するんじゃなくて、
やっぱり自分が、というかホワイトネットがこれを、
こういう文脈で使っているということは、
こういう意味であろうというふうに、
受け取らなきゃいけないんですよ、と。
いやー、ギブラじゃなくて、
ホワイトネットの本を経験せよ、という話だよね。
30:00
そう。そうなんだけど、
ホワイトヘッドではない自分、
このカンのハヤトという人間が、
有機体の哲学を学ぶとか、
アテイト自在という本を読んで、
本当にホワイトヘッドが意図したように理解できるのか、
で、やっぱり問題は残るんだよね。
あー、そういったらおしまいの話をしてるね。
なるほど。難しそうだな、これは。
難しいでしょ。
やっぱり同じ人間だからできるとかって言っちゃうと、
それやっぱり人の個性とかさ、
文化的な思想とか違いっていうのは、
あまりにも軽く見てるよね。
なるほどね。確かにさっきのリンゴの話をすると、
これ日本人が書いてても無理なのに、みたいな話だよね。
文化圏も理性とか神とかそういった価値観が全然違う。
そう。
そういうことを同じような経験できるかと、
そう思うんだ。
そうなんです。
だからホワイトヘッドがやっぱり難しい、難しいってね、
結構第1回からずっと言ってると思うんですけど、
それは結局、やっぱり頭だけでは理解することができないんだよね。
理解することができないんだけれども、
じゃあ体とか経験として理解しようと思っても、
結局それが正しいかどうかがなかなかわからんっていう、
それも影響してるんじゃないかなって思うんですよね。
はいはいはい。
逆に言うと哲学ではあるんだけれど、
やっぱり理性だけではダメで、
生きている実感、私さっき言った通り、
ちょっとでもなんとなくそういう感覚を味わったことがある。
なんとなく仏教とかそれこそ宗教的なものも含めて、
なんかわかる気がするとか、
なんかそれって感覚的に、それっての要は、
武器出しの事実って抽象的なものだよねとか、
なんとなく感じるっていうことがあって、
初めてやっぱり理解できるからこそ難しいんだみたいな。
それがでも逆に言うと、
ホワイトヘッドの有機体の哲学なんだっていう風なことなんじゃなかろうかと。
なんで神秘体験求めてくるんだろうね。
そうね。
そういう話だよね。神秘体験ない人には理解できないっていう。
でも神秘体験とは何かみたいなのはちゃんと説明してくれてるみたいな。
そうね。
難しい話だね。
そうなんです。
どんとシンクフィールではないんだけど、
やっぱりこんだけ言葉で説明してくれてるんだけど、
結局は感じなきゃいけないみたいな。
ところが言葉の限界でもあり、
でもそれでも言葉でここまでやってくれてるっていう話なんだよね。
今回の話に言うと、ニュートンが完璧じゃなかった。
33:05
そうね。
そこはたぶん本当に技術とかじゃなくてもいいのかもしれない。
そうね、本当に。
神秘体験がある程度ないと本当にこのホワイトヘッドを体験するのが難しい。
共感みたいな話なのかもしかするとね。
そうね。そう思うし、
もし今回ホワイトヘッドを聞いていただいて、
確かに人間的な世界じゃないなとか、
確かに私ってものは抽象的な感覚で、
私ってものは後付けだなってなじむ方がいるとしたら、
たぶんホワイトヘッドのコンテストワークっていうのはめちゃめちゃ面白いというか、
たぶんその人のもやもやしたものとか言語化できなかったものに
寄りどころを与えてくれるかもしれない。
うん。
ただ、
むずいっていう感じなんだけど。
そんな感じでね、
人物紹介もらえると5回分かな?
今回1目でね、
ホワイトヘッドのことをお伝えしてきたんですけれども、
いかがでしたかね?
冒頭に言ったけれども、
アンラーニングさせるだけさせといて、
あとどうぞみたいなさ、
ちょっとほってほられてる感覚はあるよね。
はいはいはいはい。
まあそうだよね。
じゃあ次私はどうすれば?
って言ったら、
うつろせっせみたいな話だったからね。
ちゃんとそのスタートで、
物事を体験しなさい、
企画していきなさいよってことだとは思うんだけれどもね。
うん。
まあやっぱりね、
これはどうしても刑事曜学なので、
やっぱりその、
現実の世界のことを語りながら、
現実の世界のことを語ってるというよりは、
そもそも世の中の在り方、
僕らにとっての世界とは何かって話だから、
あんまり現実的にね、
じゃあ一人一人の人間がどうするかっていうところには、
なかなか落ちにくいんだけど、
やっぱりその、
割と当時代はね、
そういうことだけだったわけじゃなくて、
やっぱりちゃんと政治のこととか、
世の中どうあれべきかみたいな、
歴史を踏まえた上で、
まさにこうやっぱり19世紀、
20世紀かの、
第一次世界大戦とかね、
そういうものを受けている世界の中で、
やっぱり我々の文明とはどうあれべきかとか、
そういうことももちろん考えたり、
発信している人ではあるんだよね。
ああ、ちゃんとやってるもんね。
うん、やってるやってる。
やっぱりそれは、
やっぱり哲学を構築していくホワイトヘッドと、
やっぱり世の中を良くしていこうとするホワイトヘッド、
っていうのがやっぱり、
ちょっと似て非なるものというか、
やっぱり違うようなものごと考えたりはしますよと。
ああ、そうなんだ。
あたりとしても発信、
そういった自分の価値観というか、
意見の発信の、
36:01
全てこの、
実は勇気や哲学的な、
はいはいはい。
やり方をしているわけではないって話が、
一ついてる。
そうだね、うん。
もちろんベースにはあると思っていて、
やっぱりそれがホワイトヘッドの経験だから、
世の中をどう経験しているか、
そこからどんな意識が生まれるかだから、
そこに基づいて、
語ってはいるんだけれども、
じゃあ、
ホワイトヘッドの何か発信していることが、
ものすごく万人に当たるようなことを言っているかというと、
別にそのことは、
別にそうある必要はなくて。
ああ、そっかそっか。
つまり、この世の中を真偽をついているかみたいな、
完全な、
嘘を回答させる回答かみたいな、
ではないって話ね。
ああ、そうですそうです。
そういうこともあるので、
もちろんそういうことも興味がある方は、
ホワイトヘッドをどんなことを言ったのっていう、
ホワイトヘッド全集とかも、
いろいろあるので、
読んでみていただいてもいいかなと、
もちろん思うんですけど、
それは本当に一生の、
こう言ったらだけど、
一生の暇つぶしとか、
一生の反量みたいになると思う。
本当に。
ああ、そうなんだ。
だって、めちゃめちゃ分量あるしね、
ホワイトヘッド全集だけでも。
ああ、そうなんだ。
そうです。
なので、
ホワイトヘッド全集を、
どんな形でも面白いと思っていただけると、
面白いってね、
反省していただいて、
だから嬉しいなと思っているんですけれども、
今回ね、
ケゴン教とかを結構やってたので、
久々に西洋のかつ、
刑事学、
馬太医も言ってもさ、
別にガリガリの哲学っていうよりは、
そういう発想があるんだとか、
そういう考えを楽しめた人だと思うので、
久々の西洋のかつり、
哲学、
という意味ではね、
結構お求めだったので、
結構大変だった人も、
いるんじゃなくて、
僕が大変でしたよ。
僕が大変でしたじゃん。
なんで突然愚痴なんだみたいな。
やっぱりその上で、
すごい収穫が大きかったなと思っていて、
なんかね、
このままホワイトヘッド終わりで雑談ね、
みたいに思ったんだけど、
ちょっとやっぱりもったいないなと思ったっていうか、
自分の中でも一回ちゃんと整理をしたいな
っていうのがあってて、
あるいはタイユーとか、
ケゴン教とかホワイトヘッドって、
ちょっとこう、
何だろうな、
少し王道から外れるっていうか、
何だろう、
割ととってはしもないアイディアを持つ思想を、
バンバンバンと3つ、
結構ね、
続けてたと思うんですよね。
そうね、
王道というよりは結構止まっている人たちなんだね、
これを。
まあね、もちろんケゴン教とか王道ではあるんだけど、
やっぱりこう、
普段の僕らの言い方からすると、
やっぱり突拍子もないというかさ、
普段考えない考え方じゃないですか。
そうだよね、ケゴン教とキングをやったことは、
39:01
あまりにすごすぎて、
だいぶ丸くしないと不協和感があると、
言うしなかったっていうね。
言うしなかった。
大丈夫って言われて堂々しいとか、
そうなんですよね。
だいぶ丸くなって伝わっている、
継承されているという感覚があったので。
そうそうそう。
そうなんです。
すごいんだけど、
やっぱりホワイトヘッドを受け継いで
めちゃめちゃ発展させる人がいると
ちょっと違うよねみたいな話もあったりして。
まあまあまあ、
確かにそうか。
ケゴン教とかはね、
これこのままやれって言われたほうが
ちょっと無理だから、
もっと使えるようにしてっていう感覚は確かに。
そうそうそう。
やっぱりあるんですけど、
やっぱりそういうのを通じて、
結局ファンのハヤトっていうパーソナリティ、
ポッドキャストをやっている人は、
何を考えているのとか、
何でそんなことをやっているのみたいな話を
この辺で一回やった方がいいんじゃないかなって
思ったんですよね。
確かに聞いてみたいかも、
久々にというかね。
雑多にただ紹介している人みたいな、
わけでもないし、
自分が好きで、
ある程度テーマも選んでやっているわけですね。
うん。
そうなんです。
なので、
ある種、
皆さんにとっても、
大づかめにテーマを理解するっていうか、
年始から、
正義とか偶然みたいなもので、
テーマごとにいろんな人を見せると思うんだけども、
逆に、
いろんな人を見た後で、
結局そこにどんな共通テーマが
浮き上がってくるのか、
別にそれぞれに共通点があるわけじゃないんだけど、
もしそれを繋ぐ、
それこそ関係性だよね。
うん。
それぞれの関係性があるとしたら、
何なの?みたいなことをね、
ちょっと感想いただくことで、
理解が深まったりとか、
腹に落ちる部分もあるんじゃないかなと、
ちょっと期待しているところなんですよね。
はいはいはいはい。
はい。
なので、
次回もそういう、
これまでの話を踏まえて、
結局、
最近、かんのハヤトは何を思っているんですか?
思っているのは、
それは聞きたい人いないかもしれないけど、
なんだろうな、
そういうテーマから、
どういうことを関連づけているんですか?
ということを、
ちょっとお伝えしたい、
みたいなふうに思っておりますよと。
その後は普通の、
あの、
お伝えさまでしたというふうに、
ちょっと思っていますよ、
という感じですね。
はいはいはい。
わかりました。
まあ、
予想だよね。
まあ、
まあね。
人を紹介している、
ロボットじゃないからね。
そうなんです。
そういう趣味というかね、
やっている中で、
そう、そう、そう。
一貫性は何かあるはずだと。
42:00
そうですよね。
自分のね、
それこそ僕も僕の解釈でしか、
やっぱりそれぞれの話はできないし、
やっぱり僕が、
ホワイトヘッドを言いますとか、
ホワイトヘッドを言うとね、
体と経験で、
知覚、経験。
経験、知覚が入っているから、
ある人それを、
ちょっとかっこいいことを言ったら、
ホワイトヘッド哲学を実践しようと思っていますみたいなね。
うんうんうんうん。
うん。
恥ずかしい。
恥ずかしいですね。
ちょっと、
恥ずかしいか。
恥ずかしいよ。
真面目に向き合っている身からすると、
ある人ね、
そんなふわふわ、
哲学好きですとかって言っている人が、
何言っているんだって感じがあるんだけど。
真面目というか、
ライトだからこそ。
そう、ライトだからこそ。
だからこそ逆に、
ちょっと、
冗談目指して言えますとかもあるからさ。
うん。
でもそんなことやってみましょうよっていうのが、
次回の話で。
さらにその次の大きなテーマ、
何ですかって話なんだけど、
ちょっとこれはまたすごい大きいテーマなんだけど、
心?
心っていうものをテーマにしてみたいと思います。
ほうほうほう。
それこそ、
人間の心って何?とかさ、
心と意識って、
何か同じのと違うのかってあるじゃないですか。
まあそうね。
今回も同じ理性とかあったけど、
理性と心が違うのとかね。
ね。
そういったときと、
例えば当然ね、
いわゆるフロイトとかユングみたいな、
いわゆる臨床、
臨床心理の精神分析か、
うんうん。
みたいなところの、
やっぱり原理もあるし、
あとやっぱ最近で言うと、
心の哲学みたいな話っていうのも、
実はあったりするし、
あとはね、
最近より直近で言うと、
やっぱりそのChatGPTも40になりまして、
やっぱりより流暢にね、
アイデアができるっていうときに、
AIっていうのは意識とか心が生まれるんじゃないか、
みたいな話ってずっとあるわけだよね。
はいはいはい。
っていう風に、
やっぱその心って何ぞいとか、
人類って心をどういう風に扱ってきたんだ、
ぜいみたいな話ってさ、
普通にメリットというかね、
気になる部分もあると思うんですよね。
うんうんうんうん。
で、僕もね、兄貴も言ってくれてるときは、
いわゆる心理学を一大学ではやっていて、
臨床心理師になりたい、
心の問題っていうのを扱いたい。
それ今も思ってるんだけど、
いっぱいの興味関係があって、
いつものごとく台本をこれから作っていくんですけれども、
もう少しライトニングというか、
面白くお伝えできるんじゃないかなと、
ホワイトヘッドとかね、
奇言経よりは。
だいぶ頭を使うというか、
知らない靴に出会うのが多かったからね。
そうそうそう。
そうなんです。
でも馴染みやすいかなと思うんで、
改めてね、テーマ芸術の心を、
心の中でね、
45:01
どんどんね、
どんどんね、
改めてね、
テーマ芸術の心っていうものをですね、
楽しみにしていただけたら嬉しいなと思っております。
というふうな感じですね。
はいはい。
ちょっとだいぶ気軽に聞きそうで、
安心するね。
そうね。
辛かったよね、その奇言経をね。
面白かったっけ?
カロリーも使うよね。
カロリー使うね。
ジジ、ムゲ、北海とかね。
具体的にね、
具体性を取り違える語尾とかね。
言われてもしんどいじゃないですか、やっぱりね。
しんどいね。
はい。
もうちょっと気楽に行ける方に
ちょっと行こうと思うんで、
またお付き合いいただければ嬉しいです。
というふうな感じですね。
はいはいはい。
わかりました。
ちょっとホワイトヘッドカロリー使いましたが、
お苦労様でしたというところで。
お苦労様でした。
本当に皆さんも聞いていただいて、
本当にありがとうございます。
ここわかんなかったとか、
このところもっと深くとか、
ぜひそういう話をする方には
お便りフォームをお待ちしておりますので。
そうですね、ぜひぜひ。
ぜひご連携お願いしますと。
というところで、
次回以降も楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
46:27

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