1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #117 【フッサール雑談】子供..
2023-06-07 42:07

#117 【フッサール雑談】子供と直接経験/ヘレンケラー/次回からハイデッガー


「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

▼おたよりフォームラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7


幻想学の概念について
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、今回はフッサールの幻想学の雑談会というか反省会というところで、またのんびりやっていきたいと思います。
お疲れ様でした。久々の西洋、どうでした? 難しいし、言葉の定義を忘れるというか、それこそエポケ状態に持っていくことの難しさを改めて感じたね。
はいはいはい、そうだよね、僕も台本作りながら6つって思って、久々にうなりながらやってたんですけど、
前回話したアフリカの奥地の人間っていうものが全部知識だみたいな話ってあったじゃないですか。
あれも多分幻想学の話をしない人からすると、なんのこっちゃいって話だと思うんですよね。
あれも嘘だね、わかんない。 だって、アメリカの奥地から来た人じゃん、正しく描写できてるじゃんって話だと思うんだけど、
それは客観的にその人の存在っていうのを前提としているっていう、そのいろんな前提の上に成り立つ話を実は僕らはしてるんだよっていう話なんだよね。
それが途中、兄貴に伝わらなかった、大威嚇されるみたいな話。
その時は僕も言葉にできなかったんだけど、今こうやって話してて感じるのは、やっぱりいかに僕らがいろんな概念とか前提とかっていうものを土台にして普段生きているかっていうことだなと思うんだよね。
でもやっぱりフッソンの原初学って、その前提を一旦全部剥がしてみましょうというか、その前提があるっていうことからまず始めてみましょうよっていうのがエポケというか、その判断提示だから。
そう、だからまさに直接経験ってその直接っていう意味だよね。だから僕らは普段経験は直接じゃない。要はいろんな土台とか概念とか知識とかっていうものを通じてものにやっぱ接しているから、そこにはすごい厚みというか距離があるんだよね本当は。
まあね、確かにエポケ状態というか、直接経験してるしてないみたいな話で言うと、今回も赤ちゃんの例というかさ、赤ちゃんもうちらも子供にこれはリンゴだよとか赤いね、おいしいねとかさ、こっちはみかんだよとかって教えるわけで。
なんなら言葉もだよね、言葉も自然に覚えていくというか、教えながら使えるようになってくるんだけれども、そういった意味で赤ちゃんが最初に物に触れるとか物を見る状態が直接経験なのかなとも最初は思ってたんだけれども、今回のフッサルの電子枠の話を聞くとそんな単純なものでもないみたいなさ。
むしろ赤ちゃんのうちから経験してくることって実は結構直接経験じゃないものも意外と多くて、言葉もやっぱり教わってるし、リンゴとかももちろんね、親に教わる前は直接経験的なものはしてるんだろうけれども、結局これはリンゴだよって言葉でも果物だよ、食べれるよみたいなところも含めて全部やっぱり、
どっちかと言っても教わっちゃうよねっていう意味で、もう生まれた瞬間から結構そういうこの現象学的な意味でのエポケ状態だったりとか、その状態で物事を経験していくってことを意識してだったりもしくは無意識であっても、それを経験してる人、その状態である人って結構難しいんじゃないか。
その赤ちゃんはみんなそうなんじゃないかと思ったけど、意外と違うぞ、違うんじゃないかっていうのもね、そこはちょっと面白かった。最後5回目にして、今回の現象学の全体の風景が少し掴めた気がするんだけど、そういう面白さを感じたかな。
確かにね、あんまりそう言ってなかったかもだけど、現象学とかエポケってあくまでも哲学的な操作なんだよね。操作とか態度だから、例えば禅とか仏教みたいにそれが良いとか普段からそうしなさいみたいなことじゃなくて、
物事の正しさを突き詰めるとか、本念から考えるっていう目的に対して、そういう態度を取りましょうっていう手段なんだよね。だから別にそっちの方がいいとか、赤ちゃんはそういう経験をしてるとかっていうよりは、
そもそも言葉で何かを言おうとした瞬間に、やっぱり絶対そこって出てくるわけよ。目の前のものは赤いって言った瞬間に目と前と赤っていう概念を使ってるんだよね。
だからそれは直接経験からすると、言葉では言った瞬間に概念が滑り込んでくるっていう問題があるから、なかなかそこは難しいんだよね。
なるほど。
言葉と概念について
だから、目の前のものを経験した時に、今の自分が持っていることだと、ありありとその赤さっていうものを感じて、その赤さっていうのはワインが熟成した時のような濃密なとかっていうようなことを尽くして、それをなんとか表現しようとすることができる。
ただその赤と、自分が実際に本当に経験した赤の赤さと、言葉で表現した赤さっていうのは絶対に違うんだけど、それはやろうとしても自然だよね。
バラは赤くて赤くて赤くて赤いみたいな話と一緒で、みたいな話だったりとか、これはちょっとどうなのって思われるかもしれないですけど、僕はそういう感覚を持っているから、子供に対してちょっとやったことがあって。
出た。子供で実験してるやつ。
実験しようやつ。
そういうことさ、やっぱりいるじゃん。これがリンゴだよとか、梨だよとかって時に、これ何でしょうかって出す時があるのよ。桃とか初めて買った時とかにね。
そのリアクションがやっぱり面白くて、うちの子は普通に分かんないよって言うんだけど、それは分からんよねって思うんだよね。だって概念にないんだから。
そうだね。
でも、なんだと思う?みたいなことを聞くのね。
なるほどね。そこで許さない。分かんないっていう自然的態度を使わせないんだね。
そうそうそうそう。
なるほど。
別にそしたら、思ったら丸くてでも果物かなとかいろいろ言ってくれるかなと思ったら、分かんないって言って、そっぽに置かれちゃったんだけど。
そうなんだ。
普通に来てたら別に目の前のものが赤くて丸くて食べられてとかって、わざわざ称号する必要はないわけですよ。
まあね、確かに分かんないって。そっかそっかそっか。
分かんなくていいからね。
子供と直接経験
食べれるかも分かんないし、そこを判断する必要もないってことか。子供からすればね。
だからさっき言った通り、それは何か正しいことにとどり着こうとするとか、何かを根本から明らかにしたいっていう欲求が始めて、たぶんこのエポケ状態では成り立つんだよね。
なるほど。早いとあれだね、自分の子供に対して子供の好奇心を無視した質問をしたんだね。
僕の好奇心で質問した。
そこが一致しなかったんだね、その好奇心。
本当に子供が何かを知りたいとか、これ何?って言うときには有効かもしれない。
逆に言うと、これ何?って言うときに、例えば外で飛んでる虫を見て、僕がこれとんもだよって言ったら、それはたぶんすごくつまんない返しになっちゃうと思うんだよね。
まあまあそうね。
なんだろうねって言って、一瞬追いかけてみるとか、捕まえてみて、こんなんだよって虫嫌いだからうちの子には絶対起きないんだけど。
モモも同じかもね。モモもなんだと思うじゃなくて、これ何だろう、親も知らないみたいなスタンスで一緒に考えてみるみたいなね。
一緒に考えたから、経験するとか体験するとかって、まさにその体験型学習みたいな。本当にそれを経験するってやっぱりそういうことじゃないの?みたいなのが原子学的には言いやすいよね。
なんか今の話で思い出した、いいエピソードというか、あれだ、エピソードってこれも自分が直接経験した話じゃないから、おこがましいんだけど。
いつも引用して申し訳ないけど、コテンラジオであれはサリバン先生とヘレンケラーの回で、ヘレンケラーって目も見えない、耳も聞こえないんだっけか?
体験型学習としての経験
なんかそうだよね。
っていうのがあった時に、その状態で物事をどう捉えるかみたいなのがすごく難しかったみたいで、結構2歳くらいの時に病気でそういう状態になっちゃって、
そうすると親も医師卒もできない。耳聞こえないから言葉も教えられないし、目も見えないから何か差し示してやることもできない。基本的には手の触覚というか、触った感じとか匂いとかでやるしかないんだけども、
本人にも物事を伝えることはできないし、本人も物事を表現することはできないというので、すごくやっぱり大変だったみたいなんだよね。
だけども、サリバーン先生が来た時に何をやったかというと、とにかく物事を触った感じとか、触った時に一生懸命手に例えば机だよとかご飯だよとか書いてあげるとか、
そういうことをひたすら根気強く、お母さんがいたらマザーとか書くとか、そういうのをひたすらやってあげたんだって。そうしたら、そういうのを続けて1ヶ月かずっと根気強く暴れる。飯も食わないし、
しかも親とも話されて、親どこだみたいな。泣き喋ってるし、体当たりはして苦しいみたいな。泣くし、泣き喚くし、そういうふうなのを根気強く続けた結果、ある日、ヘレン・ティラーが水を触っている時に、
ウォーターみたいなのを書いた時にハッと、ヘレン・ティラーがこれは水なんだみたいな、今手に当たっているこれは水なんだっていうことと先生が書いているウォーターが一致した瞬間があったらしくて、
その瞬間から言葉っていうもの、値とか物音に対する認識がすごく変わって、どんどん物事を覚えていったとか、大人しくなっていったりとか、意思疎通を測れるようになってきたみたいなのが、今パッと思い出したんだけど、
たしかにね。 それってすごい直接経験というか、すごく特殊な状況なんだけれども、だからこそ見えてくる人間の経験、赤ちゃんとも違う、さっき言ったところってあるなーって、そこが勝手に感動した。
その尊さというか、すごさというかね、あとはその難しさも含めて。
たしかにね。今のエピソードはもちろん聞いたことがあったもの、確かに幻想学と重ねて考えたことはないなって今確かに思ってて、でも確かにすごく身体的主観みたいなところに近い話だなと思ったし、
あと、それを聞いて何を思ったかっていうと、やっぱり目も見えない、耳も聞こえないみたいな状況において、自分の外にあるものと概念と結びつけるみたいなことがそもそも起きないんだなっていうのは今感じたのね。
はいはいはいはい。
直接経験がもたらす認識
要はリンゴが3つあったらこれは3つのリンゴであるっていう風に目で見て言えるんだけど、もしそれができないとしたら、古物、古物、古物なのよ、多分。
はいはいはいはいはい。
そのリンゴと、AとリンゴBが似たものであるっていう、その似たものとしてくるっていう働きにそもそも思えてられなかったんだろうなって思うんだよね。
うんうんうんうんうん。
でもそこで初めて、サリバン先生だっけ?が、物には共通性とか類似性とか違う、古物と古物にも同じ名前があるとか共通性があるっていう概念を教えてあげたことで、初めてそういう理解につながったのかなーみたいなことを今思って。
あー、はいはいはい。面白いね。それはあれでしょ?例えばさっきの例で言うと水が最初だったんだけど、多分そこの手に当たるこの何かが水っていう風に、それってさ、今で言う赤とかさ、数字とかっていう概念ではないんだけれども、
ただ、ヘレンキラーからすると、多分赤ちゃんは目で見えたりとか耳で聞こえるからやりやすいと思うんだけど、っていうだけの話だと思うんだけど、その何かの物と水っていう言葉だよねっていう概念が結びついた瞬間に、
例えばその3つあるとか、嬉しい悲しいみたいな、そういうちょっと抽象的なものも捉えられる土台が生まれるのではないかみたいな、そういう話かな。
あ、ごめん、ちょっと違った。
違かった?
感動ポイントがちょっと違った。
ちょっと違った。
えーとね、例えば、純粋、直接経験してみてほしいんだけど、
直接経験してみてほしいんだけど。
試行実験としてね。
ちょっとごめん、面白い。面白いね、それ。
エポケ、いや、直接経験してみろってさ、いいね、それ。
でもね、まずエポケしましょうみたいな。
まずエポケしてほしいんだけど、
直接経験と概念の関係
まあでも言葉で言うからも絶対にこれはできないってのは分かりながら言うんだけど、
あの、冷たい水を触った感覚をまず思い出してほしいですと。
で、今度は熱い水を触った経験を思い出してほしいですと。
これって経験からしたら全然違うじゃん。
あー、確かに。
そう。でも、僕らはどっちも水、まあお湯だけどね、日本語で言うと。
でも、エゴとウォーターとホットウォーターの時に、
これは絶対に概念を使わないと同じものだって思えないはずなのよ。
いやー、確かにね。
冷たいと熱いだけだもんね。ある意味その、
高温に触ったのか、あと火に手を突っ込んだのかと変わらないというか。
そうそうそうそう。
熱を持つ妨げないものと、
冷たさを持つ妨げないものっていう経験だとした時に、
これは絶対に一緒だとは思えないはずなのね、経験だけだと。
そこに冷めたらぬるくなるとか、放置したら高くなるとかっていろんな経験を積み重ねたら、
これは同じ水という概念で作られる対象物なんだっていうことが初めて理解できる、経験できる。
わー、なるほど。
水っていうものに、H2Oという物質に出会うっていうことも、
そんだけの営みがあるって話ね。
おそらくね。だから嬉しさとかって言っちゃうと、対象の個物がないからちょっと違うなって思ったんだけど、
水であれ、リンゴであれ、ハサミであれ、たぶん全部そうで、
尖った危ないものっていうものから、
ハサミと、ハサミだと難しいな。
釘と針と霧を分けるのって無理なのよ、たぶん。
尖っているもの。
これが実は次のハイデガーにもかかってきて、めっちゃ面白いな。
そうなんだ。
道具っていう概念が出てくるんだけど、
ハイデガーで?
ハイデガーで。中心的に出てくるんだけど、
道具や分類の概念と関連
尖った危ないものとか、金属でできたものが、
なぜ霧とか釘とか、ネジとかっていうものに分けられるかって、
道具だからみたいな話が出てきて、
ちょっとテンション上がってきた。
まだ習ってないから分かんないけど。
分かんないけど。
はいはいはい。
よいよいよい。
え、そうなの?
でもまさにそういう、やっぱり、なんだ?
その概念って何で結びつかえるのとか、
その経験からいかに、
そういう対象の個物というものを分ける必要性が生じてくれるかっていうのは、
すごくたぶん面白い話だと思う。
なるほど。
そうだね。それで言うと、今回、前回の5回目かな?
で、他者を理解する、理解というか経験するという時の話で、
自分には及びつかないというか、
全くその認識できない部分があるからこそ、
だからこれは自分ではない、イコール他者だという経験の仕方みたいな話があったんだけれども、
その逆接的なね。
その理解の仕方が、前、たぶん構造主義の時とかでやったと思うんだけど、
ソシュールの言語で、
例えば犬とかを定義する、
動物とか犬とかだった時に犬ってどう定義するかって、
犬とそれ以外のもの。
犬じゃないものを犬と呼ぶみたいなさ。
分け方だったと思うんだけど、言葉の分け方って。
それと通ずるものがあってね、
さっき入ったのが道具?カテゴライズの仕方みたいな話だったと思うんだけど、
そこは言語の話とその通じて、
人がものを認識するとか、
カテゴライズすることの面白さみたいなものが、
結構ここでも出てきたなっていうのはあった気がする。
そうだねそうだね。
その辺のね、時代とかさ、
エポケーを通じた物の理解
学問的にどっちが先かとかわかんないから、
なんとなく同じだなと思ったぐらいの話だったんだけど。
時代的には原種学の方が、
名前というか思想的には多分先で、
逆に言うと原種学とかサルトルを乗り越えるための、
乗り越えてレベルスローズが出てきたみたいな話をしたと思うんですけど、
サルトルは元々原種学的な考えをしているから、
直接経験するとか直接物に向かうっていうようなやり方と、
そもそも差異しかない。
直接物に向かうなんていうことはできなくて、
その違いっていうところに意味を持つことしかできないんだ。
そっちが重要なのっていうのが構造主義だから。
そこの結論は似てるけど、
たどり着くプロセスとか、
やっぱり大事にしているものは違うみたいなことは多分言えるよね。
さっきの水の変形の話はすごく面白かったし、
自分もそうそうそういうことだよねっていうのをちょっと思ったな。
でも思ってたでしょ、
本当に目も耳も聞こえない状態でさ、
熱いお湯と冷たい水を触ったら、
それを同じものとは思えないっていうのはすごく納得感がない?
あるし、なんとなくハヤトの話から想像したのは、
手も触れないほどの熱いお湯を想像しちゃったんだけど、
多分ハヤト的にはお風呂くらいのお湯でもいいって感じだよね。
そうね、それでもいいと思う。
でも確かにキンキンの水と熱湯の方がもちろん違いが大きいから、
同じとは思わないと思うんだけど。
思いづらいって話ではない?
思いづらい。
それは面白い。
その観点はもはやないもんね。
そうだよね。
普通に行けたらさ。
でもやっぱりエポケースってそこまで徹底してることだなと思っていて、
だからこそ、
物がなんで正しいのかとか、
これとこれが同じであるとなぜ言えるのかっていうところまで切り込んでいける?
すごいね。
何回か言葉を使ったけど、
直接経験と自然的態度と素朴
アンラーニングとの違いだよね。
ただ忘れるだけでもないだったりとかね。
ただハヤトがたまに言う素朴な、
人間的な素朴なね。
今回は難しかったのは、
自然的態度と素朴っていうのがまた意味が違うっていうね。
そうね。
多分真逆の立場なんだよね。
自然的っていうのはあくまでも、
いろんな前提を持った上で生きている人っていう意味の自然だからね。
ハヤトがたまに使う素朴は、
もうちょっと直接経験に近い、エポケースに近い態度だよね。
そうだね、確かにそうだね。
難しいよねっていうのも変な話ですけれども、
全問含めて経験しないとわからないみたいなことって、
僕は逆にそれを教えてよかったなって思ってたんですよ。
頭で理解すれば、
あらゆることが理解できるって思ってたんだよね。
頭で活かす人間としては。
作曲みたいなことを思った時にも、
作曲理論を勉強し尽くせば作曲ができるようになると思ったんだけど、
そんなことはないわけよ。
でも思い込んでたんだよね。
むしろそっちの方が楽だからさ。
そうだよね、近道な感じするし。
でもやっぱりこういう、
体験しないとわからないとか、
身体的な理解をしないとダメな世界があるっていうのがわかったのは、
僕の中では結構大きくて、
そんなん当たり前じゃんって話したくても思うんですけど。
できる人からしたら当たり前というか、意識すらしてないっていうね。
逆にここまで言葉を尽くせば、
そういう世界がある、
要は身体的にしか理解できないことがあるんだっていうことは伝えられるんだとか、
身体的理解にたどり着く一歩を踏み出すところまでは、
連れてってくれるんだみたいなことが、
僕はすごく哲学のもう一個の意味というか、
スーパーマリオブラザーズの映画とクリエイターのこだわり
ただ難しいことを知るとか、新しい考え方を知るというだけじゃなくて、
そこまでちゃんと理論でいけるっていうのがすごいなって思うよね。
そうだね、確かに。
確かに今回もあったけど、
普通の現象学のすごさの一つで、
例えば過去というか、
先で言うと天才的なひらめきで作曲、いい曲を作れちゃう人とか、
天才的な発想で哲学とか理論を構築できる人がいたとして、
それが天才だからで終わるのはもったいないというか、
すごさをきちんと言葉で表現してあげることの意義とか意味って、
すごくそれはあると思ってて、
すごいんだけど終わるだけじゃなくて、
さっきの作曲というか、
芸術とかだとさ、芸術とそれを批評する、
二人三脚で、これちょっとビジネス的だけど、
マーケットとかは特に成り立っている気がして、
もちろんそれが美しいで終わってもいいんだけど、
それがお金に換算されちゃったりとか、
それでご飯を食べていく人がいたとすると、
それがちゃんとその人の天才性とかそのものがきちんと評価されるのか、
というとこも結構重要だと思ってて、
確かにね。
評価されるか、もしくは別の立場から言うと、
それをきちんと知ってもらえるように言語化できるかみたいな、
そこが芸術小学できちんと分解できる、
その、何だろうな、取っ掛かりがもらえる気がする。
確かに。
それさ、ちょっと今思い出して話そうと思ったんだけどさ、
全然違う話で、先週末に、
スーパーマリオブラザーズの映画を観に行ったんですよ、家族で。
観た?
観てない。
あれさ、もともと海外でも大ヒットみたいな感じで、
本当にめちゃめちゃヒットしてて、
日本に来てもすごい工業収益すごいぜみたいな話で言われてるんだけど、
あれってもともとは公開直後は批評家たちからは国評されてたらしいんですよね。
そうなんだ。
そう。
それこそ中身がないみたいな、ストーリーがないとか、
深みがないみたいな風に言われてて、
実際そうなのよ。
あ、そうなんだ。
ただ、マリオがクッパとルイージを助けるためにクッパと戦うっていうだけなんだよね。
はいはいはいはい。
それは観たら僕もそう思ったんだけど、
やっぱそれでいいじゃんって思った凄さがあって、
それは何だろうと思ってインタビューとか結構読めたんだけど、
そもそもあの映画7年ぐらいかけて作ってるらしくて、
そうなんだ。
そう。
で、今任天堂にいらっしゃるのは宮本さんだっけ、宮本茂さん。
名前合ってるかな。
合ってるわ。
マリオとかのゼルダとかを作ったすごいゲームクリエイターというかそういった方がいるんですけど、
やっぱりこだわりというか、どういう風にマリオとかルイージとかピーチみたいなキャラを作ってきたかっていうのがすごくて、
映像を見た時にきつきつに、映画って尺がすごい限られてるじゃないですか、
その中でどんなシーンを入れるかっていうのを緻密にやってる中で、
後半の時に見てルイージが建物から出ていくシーンがあるんだけど、
ルイージはドアを開けっぱなしにしないので閉めてくださいって言ったのって。
あと宮本さんがそういう指示をした。
宮本さんがそういう指示を出して、
でもそんなシーンは入れられませんみたいな、きつげつでそんな無理ですみたいな、今から直せませんとかって言ってたんだけど、
でも直してくれたよみたいなインタビューの話があったんだけど、
やっぱそれってすごいことだと思ってて、
要はそこまでこだわってるからこそ別にストーリーとか深みとか人生訓とかがなくても、
映画「スーパーマリオブラザーズ」の評価について
ただただ90分ずつ楽しいみたいな、僕はそう感じたんだけど、
結構感動したんだよね。
ストーリーも別に教訓とかはなさそうというか、
たぶんない。
ぱっと見ねぱっと見ね。
シーンたぶん無くていいと思ってるし、宮本さんもそんな話をしてて、
ただやっぱゲームから出てるキャラクターだから、
そこでも結構面白い話があって、
映画を作ってる時に、やっぱゲームってそのまま映画にしてもつまんないよね。
要はゲームってインタラクティブだから、自分が操作した結果が返ってくるから面白いけど、
映画ってめちゃめちゃ受動的だから、
それをやろうとしても無理だっていうのは最初から分かったんだって。
でも作ってる時に横井軍平さんっていう、これも結構伝説的なというか偉大な倫定堂の方がいるんだけど、
ゲームウォッチ作った人だよね、確かね。
そうそうそうそう。
かずやが言ってたことを思い出したっていう話があって、
ゲームの楽しさっていうのは、横で見てる人が俺に勝てっていうことだみたいな。
要はそれだけ見てる人も没入できるとか、自分が動かしてる気になるみたいな。
聞いた時に、映画もそれでいいんだっていうことを思ったらしくて。
映画の中ではマリオがルイージを助けてるんだけど、
そこに自分をちゃんと重ねるとか、
自分がちゃんとキャラクターたちと一緒に動くように感じるみたいなことが大事なんだっていう。
そこまで言ってたからあれなんだけど、
そういうことを思って作った映画だからこそ見てて楽しい。
なるほどね。
すごく上質なゲーム実況を見てるというか。
でも、それはあるかもしれない。
ゲーム実況の楽しさもそこだよね。
自分が損するんじゃないけどっていう。
もうちょっとゲーム実況がやってる人の話とかもあるだろうけれども、
RPGとかでも横で見てて全然面白いとかもあるし。
そうだね、あるある。
僕もゲーム実況とかってあんまり馴染みない方からすると、
例えばマリオならマリオっていうゲームをやっている映像とか音声を配信するっていうジャンルのエンタメだと思うんですけど、
僕も割と最初否定的で、自分でやった方が面白いじゃんとか、
人がやってるのを見て何が楽しいのみたいな感じだったんだけど、
まさにそれを体験できるとやっぱりそれが面白くなる。
それを面白いと思える体験があるんだなっていうのは最近感じてて。
確かにマリオの映画はもちろんクオリティとかから比べるともちろん比較できないんだけど、
YouTubeのゲーム実況映像とは。
すごくそういう自分が体験したとか、なんかよくわかんないけどめっちゃ楽しかったみたいな。
そういう風になったからゆえに評論家とか批評家みたいな人の評価は低かったけど、
めちゃめちゃ世の中でこんだけみんなが楽しんでるみたいなとか、
それが興行中に現れてるみたいなことかなっていうのを、
現象学的なことも含めて話そうとしましたっていう感じだけど。
なるほどね。
でもそれは面白いね。
その批評家がちゃんと、
より多分映画だよね。映画っていうマーケット。
そこに特化したというか、映画の批評家からすると、
ちょっと評価はいまいちな部分は多かったんだけれども、
1エンタメとして消費者からの評価が高かったって、そこは痛快だろうね。
任天堂からしたらね。
そうだと思う。
逆に言うと、お前らは本当に映画を見てますか?
映画っていうものを体験してたんですか?みたいなことを批評家に言えちゃうわけだよね。
まあね、その批評家っていう職業は辛いところかもしれないけどね。
そう言われましてもみたいなね。
ただ楽しかったっていうだけじゃお金にならない仕事だからさ。
何か言わなきゃいけないってあったらそうなっちゃうと思うんだけど。
そういうところで結構、映画批評家たちのエポケレベルが問われるかもしれないよね。
自分と社会に対するね。
確かにね。
それでもちろんその中でも、とにかくただただ楽しかったですって言った方ももちろんいるだろうし、
ただその人が批評家として正解かどうかっていうのはまた別だと思うんだけど。
自分の感情を理解していくことの大切さ
そうはね。つまんないとか楽しい、どっちを思うかは自由で、その理由みたいなものはね、本当に大事だろうしね。
そうそうそうそう。
アニケーターが言った再現性とかもそうだし、まさになぜ自分が楽しかったって思ったか、それを言語化できるかとか、その楽しかったって思った自分すらも経験できるかみたいな。
これはすごく内勢力にもつながるし、やっぱり自分を言語化していくとか、自分を理解していくっていう方向性にもつながっていくと思うんだよね。
確かに確かにそうだよね。そこもやっぱり自分が、自分の感情っていうものも意外と自然的態度で接しちゃってる部分ってあるだろうしね。
そう、ほんとそう。それがね、例えばもうちょっとフランクに行くとマインドフルにするとか、今に気づきなさいとか、今の感情を味わうんだとかっていう方にもつながっていくと思うんだけど。
そういうのも結構増えてるの?
そうだね、増えてると思う。それはどっちかっていうと仏教とか禅系の話から来たもんだけど、流れ的には。
でもそういう、やっぱり目の前の経験を大事にするっていうような根本的な部分が共通してるところもあるのかなと思ってて。
全然世界観とかね、やろうとしてることは違うんだけど。
そういう視点でね。
見えるよね。
禅系の教えと共通する根本的な部分について
見えていくと。
だからやっぱり、世間でこそ体験が大事とかさ、体験があとアクティビティとかってあるけど、アクティビティがあった瞬間に本当に体験してるんですかっていう、それが常に滑り込んでくると思うんだよね。
蕎麦家体験行って本当に蕎麦作ってましたかみたいな。
はいはいはいはい。
そういう間を挟まない、ちゃんと自分が直接経験してるかどうかっていうことを時々大事にするっていうのは僕はすごく自分の人生豊かにしてくれたなと思うので。
うんうんうんうん。
なるほどね。
いやー、でも今回良かったな。
今年、好奇心とかね、物を好きになるっていうのは個人的な課題なんだけど、そこに対してすごくこの現象学、ふっさらの直接経験っていうのはめちゃくちゃ言語化してくれた感じがして。
うん。
やっぱり今まで自分は知識集めるとか、世の中が面白いと思ってることを自分も面白いと思おうみたいな。
キャノンね、そういう言い気学が多分働いてたと感じてるんだよね。そういうのを取っ払うとか、逆に言うか、やっぱりそれをアンラーニングだよね。
取っ払う、忘れなきゃいけないってちょっとそういう、それも多分自然的態度というか、それも思わされちゃってるんだなーみたいなところも思ったし。
そうだね。
今回は忘れるんじゃなくて、保留なんだみたいな、その感覚でこうやって教えてもらえると、自然的態度、人間からするとなかなかやっぱりたどり着けないというかね、思いもよらないスタンスだから、そこは個人的なすごく学びだった気がする。
いやー嬉しいですね。それが何らか伝わったならめちゃめちゃ嬉しいですね。
途中難しかったけど。
そうだよね。やっぱりそれだけね、視点を変えるって難しい話なので、やっぱりね、お会い聞いて分かったとかいう方もいらっしゃればね、まだ全然わからないという方もいると思うんですけど、幸いなことに次も幻術学なので、
ハイレガですね。引き続きやっていく中で、こういう感じなのかなとか、分かったような分からないようなみたいなことも楽しんでいただけると、僕らはソイデッドラジオをやっている意味があるというか。
はいはい、今回ね、分かった気にもならないっていうね、ちゃんとそこは常にエポケ状態の直接経験で見るというね、そこは常に意識して、常にじゃないか。
時々ね、必要な時に応じて意識していただけると役立つんじゃないでしょうかっていう感じだね。
次回からデカルト
ちょっとやってみよう。
ぜひぜひ。
ちょっとまた兄貴のエポケ体験も待ってるから。
エポケ体験ね。
エポケ体験、こんな風にエポケ体験してきましたっていうのはね、また次回の雑談とかで。
経験に向き合わなきゃいけないからね、確かに。
はい、そんな感じでですね、今日の雑談はちょっと以上かなとは思っておりますが。
はい。
はい、こんな感じで1回幻想学フッサルは終わりですけれども、引き続きこの幻想学的世界ということで、ハイデガーですね。
偉大な哲学者ということで、ちょっとどんな感じになっていくのかね、ちょっとまたまた引き続き楽しんでいきたいと思います。
僕も気合い入れて台本作るだけだと思ってるんで、頑張ります。
はい。
ではまた次回以降、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
42:07

コメント

スクロール