カントの道徳的原則
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回もカントということで、前回は実践理性に入っていたということですけれども、今回はどういった話になってくるんでしょうか。
はい、前回ちょっと最後お伝えしたんですけれども、カントは定言名法というところで、要は判断基準ですよね。
自分の行動の原則というものが、全ての人にとって同じように原則になって良いですかみたいな。
そういう基準に照らして、それが言えるなら道徳になるし、そうじゃないなら道徳にならないよっていうふうな話をしたと思うんですよね。
はいはい、それが人間の無意識というか、アプリ用になる部分にあるよみたいな話ってことだよね。
あるよっていうか、もうちょっと言葉を補うと、そういう基準は人間の経験とかによらずに、
やっぱりよりに、それは道徳的だよねとか、それは明理に従うべきだよねっていうふうに言えるよねっていうような感じかな。
なるほどなるほど。
要は道徳を作るだけじゃなくて、自分が判断するだけじゃなくて、自分が道徳的なものに出会ったときの判断基準にもなってるみたいな。
そうだね、そうそうそう。
それは経験によらない。
例えばどんなに嘘をついて、自分にメリットがあったとか、嘘なんて最高じゃんとかっていう経験をしたとしても、
このアプリよりに仮に嘘はダメですってものがあったとしたら、それは経験によらずに、
例えば従うべきものだとか、その道徳っていうものをちゃんと受け入れるべきだっていうふうな、そういう感覚かな。
なるほどなるほど。だから仮に神とか知らなくても、なんか両親が痛むみたいなこともあるかもしれないみたいなね、人によっては。
そうですそうです。
っていうふうな感じで考えるとわかりやすいかなと思うんだけれども、
そうしたルールという考え方の中でも、パンパンによって結構有名なですね、
人間っていうものを手段じゃなくて、常に同時に目的として扱いなさいみたいな言葉があって、それをちょっと扱っていきたいんですよ。
これもうちょっと正確に言うとね、これすごいわかりにくい言葉をあえて今から言うんですけど、
人間の人格について
あなたの人格並びに他のすべての人の人格のうちにある人間性を、常に同時に目的として使用し、決して単に手段として使用しないように行為せよ。
言葉になります。
うん、まあわからんよねって。
わからん。
はい、話なんだけれども。
なんとなくね、人間を手段じゃなくて目的として扱いなさいとかって言うと、ちょっと名言っぽいというかなんだろうな、
自己啓発っぽくさ、人を手段として扱っちゃダメだよとかなんだろうな。
手段ってやっぱりツール、道具っぽい感じだから。
まあ、鉄砲玉みたいな。
そうね、例えばね。そういうのじゃなくって、やっぱりソウル鉄道ラジオなんで、これまで頑張って勘とか理解しようとしてきたじゃないですか。
なので、このさっき言った長い意味も、どういうことなのっていうことをもうちょっと理解していきたいというふうに思っていますよ。
OKです。ちなみに前提として、今回の話も実践理性批判の中の話ってこと?
実践理性にまつわる話とか道徳にまつわる話で、この言葉自体はカントの別の本で、
人倫の刑事条約の地図付けっていう本があるらしく。
何の?
人倫。まさに道徳だね。人倫って人の倫理。
はいはいはいはい。
の刑事条約の地図付けっていう本があって。
いろんな本。3冊だけじゃないんだ。
カントさんいろんな本書いてるんですよ。
混乱するんであんまり入れてないんですけど、いろんな主要著書がたくさんあって。
いろんな本があって、その中で言われてる言葉なんですよね。
ただ扱ってるテーマとしては道徳とかなので、そこが同じなんだけど。
そこを入れていきます。
こういう流行ったらしい、NEXTを人間を主弾ではなく、常に同時に目的として扱いなさいっていうものを出した背景なんですけど。
前回はそれを兄貴が言ってくれてすごいなと思ったんだけど、人間って何ですかって話があるんだよね。
カントにとって。
ここで言う人間って何かっていうと、人間とは理性的存在だっていう前提があるんですよ。
やっぱりこれは理性が大事で、理性を持つ者って要は欲望にまみれ、まみれとは別にいいんだけど欲動に流されるとか、
衝動的に行動しちゃうとかじゃなくて、ちゃんと自分の理性、それは実践理性とか流通理性もそうなんだけれども、
そういうものを使って、自ら法則とか、まさに命令道徳だよね。
それを立てて、それに従う力?
それを自立、まさに自立している、自分を立するか、その自立っていう力を持つんだ。
そういう存在が理性的存在だり人間だっていうふうにカントは考えるんだよね。
わー、そうなの。
結構厳しいよね。
私は人間じゃないね、そしたらね。
僕も人間じゃないね。
結構厳しいな。勘弁してくれ。
やっぱりカントはね、人格なんだよね。
制限によらないとか、ある種理想的な世界のことを考えてるから、厳密にそこを立てるんですよ。
こういうふうに自立性、自分が立てた法則に自分で従えるっていう力を持った存在のことをカントは人格って言うんですよ。
まさに人格者とかの人格なんだけど。
こうやって僕らが普段に使う、要は優れた人だとか得を継ぐなとかっていうことじゃなくて、
でも近いって近いよね。要は自分に厳しい、自分を立することができるとか、
自分との約束を守り続けるとか、そういうふうな感じだよね。
っていう意味で、人間の中でもそういう自立する力を持った人のことを人格っていうふうに呼んでます。
人間を分けてきたね。恐ろしい。
そう、分けてくんです。逆に言うと、自立する力がない人は人間じゃないんですよ。
そうはね。人間とは名乗らないようにします。
人間とは名乗って大丈夫。
人格とは言えないね。
そう、人格とは言えないって言いますよね。
これでね、この人格っていう存在の人は、ここまで至ると尊厳を持つようになるんですよ。尊厳。
嘘をつくことの倫理
この尊厳も日常的な言葉と近くて遠いんだけど、
本とかいう尊厳って、要は何て言うのかな、
まるし他のものに置き換えられない、無条件の価値を持つみたいな。
だから人格がある人は、人格という存在はそれだけで素晴らしい。
そういうふうに、存在する価値があるっていうふうなものを貯められるっていうのは本当なんだよね。
で、この人格というものは、手段として扱っちゃダメで、
手段としてだけは扱えなくて、同時に目的として扱いましょうっていうふうに言います。
ちょっとこの辺は抽象的すぎてわかんないと思うんで。
ちょっとよく出る例らしいんですけど、殺人者と嘘みたいな、そういう問題を取り上げたいんですよ。
あるんだ。こういうの。
あるある。
よく関東あるあるの話。
関東あるあるらしい。
いっぱい出てくるんだけど、前回は嘘をついちゃダメとか、自分にとって都合のいい嘘とかってあったじゃないですか。
っていうのをちょっと繋がってくるんだけど、ちょっと皆さんもイメージしていただきたいんですよ。
あるとき、家とか部屋にいたときに、その部屋に友達が逃げ込んできますと。
すごい生き切らしてね、逃げ込んできて、外に殺人者がいて狙われてるんだと言って隠れるんだよね。
したときに、後からドアが開かれて、人が来ましたと。
なんなら別にナイフ持つとか、すごい武器持ってる人でもいいんだけど、明らかに殺人者だみたいな。
人が来て、その人が言うわけですよ。
人を追ってきたんだけど、この中にいる?って答えてくるのね。
っていうときに、あなたはどう答えますかって話なんだよ。
うん。お兄さんだったらどうする?
えー、どなたですかーって、何しに来たんですかーって。
冷静。
一旦聞いてみようかな、一旦。
対話を試みる。
一旦聞いたら、めっちゃ目千葉しててナイフ持ってる人が、誰か来たいんですかねーって。
いや、でもあれだね、わかんない。怖くて、とっさにやっぱりいないですって言う気もするけど、
ちょっと冷静にできたとすると、やっぱりちょっと対話を試みにしてみようかな。
リスクじゃん。
例えば、実はその人が、うちにその友達が逃げ込むのを見ていて、
分かっていながら誰か来てないですかねーみたいな感じで来てたとしたら、
それはリスクじゃん。
噛まかけてたらね、そうだよね。
お前を殺すみたいな嘘ついてたりとか言ったら、
そうなんですかねーみたいな。営業がちょっともったいないですけどねーみたいな。
確かにね。
なので兄貴の答えは、じゃあそれちょっとコミュニケーションが通じるかを試みる。
まあまあまあ、シミュレーションゲームとして。
はいはいはい、そうね。
それにじゃあ、いわゆる嘘をついていませんよっていうか、
嘘をつかずにいますよって言うからとすると、
普通に考えたら、まあまあ嘘をついて隠まう方に行く人が多いと思うんですよ。
そうね、そっちルートに行きたいよね。
行きたい。もちろんね、怖い。
嘘ついたら殺されると思って怖いから友達を撃っちゃうとかは別にいいとか、
それはそれであると思うんですけど。
ただここでちょっと思い出してほしいのが、
今日カントの話をしてますよね。
はいはいはい。
カントが提言名法っていうものを使って、
嘘をついてはいけないっていう風な提言名法があるとしますと。
という時に、提言名法って絶対的な無条件の例だったじゃないですか。
この時にカントって嘘をついてダメっていうのか、いいっていうのかどっちなんでしたっけってことを考えたいんだよね。
なるほどなるほど。
そういうふうに思った兄貴はどう思う?
難しいよね。一般道徳的にはアウトだけども、
しょうがないじゃんみたいな。カント的にどう考えるのかわからない。
私人間なので、人格じゃないんで無理です。
これはちょっとカント及ばなかったと思う想像にね。
期待としてはさ、例外的にこういう時はいいよとかさ。
でもやっぱり人の命って大事だから道徳的に言うと、
これとか人の命を優先しましょうとかって言っててほしいじゃん。
そうだね。
ほしいんだけど、一切の余談なくカントは嘘をついてダメって言うんだよね。
そうなんだ。どういうことだろう。
要はこういう時でも嘘をついてはいけないっていうルールがあるんだったら、
それを破っちゃダメなんですよ。
これ今人格の話をしてるの?
人格の話をしてる。
カントっていうか人格の話ね。
人格。要は自分の立てた方に自分で従う、そういう力を持った人であれば、
さりにこういう状況でも嘘はつかないねっていうふうに言うんだよね。
なるほどなるほど。
やっぱちょっと違和感あるじゃん。
命かかってるのに友達の放送やるかもしれないのに嘘ついちゃダメなの?みたいな。
そんなのも認められないんだったら、そんな道徳にどんな意味があるの?みたいなさ。
じゃあちょっと無理やりだけど、
今の確かに自分が決めた方なら従うから、ここでもう嘘をつかないみたいな、
その人格側の話が今あったけど、
ちょっとそっちに憑依してみていい?
おーなるほどね。はいはいはい。
人間の兄貴から人格の兄貴に行きますと。
試しにね。
はいはいはい。
確かに普通に人間側から考えると、
なんでそんな固くななの?という感じもあると思うんだよね。
人が命かかってるのに、
なんでそこであんたの謎のルールを適用して、
友達を売るというか、
嘘をつかないで本当のことを言っちゃうの?というのは確かにそうだと思うんだけど、
この人格側、このカントリー人格側を想像すると、
その人格の人が、
自分のルールを作った経緯って実はものすごく深いはずなんだよね。
ちゃんと自分のこと、社会のこと、周りのこととかを、
めちゃくちゃめちゃくちゃ考えた上で、
俺は嘘をつかないんだっていうところに至ってるはずなんだよね。
はいはいはい。
いわゆる、こうした方がいい、こうした方が悪いっていう、
一般的なルールとしての良い悪いという判断じゃなくて、
そこを分かった上で、
自分はこうするんだっていう強い意思があるわけだと思うんだよ。
そういう人がそれに従って自分を教授として、
しかもそれが、
カントリーで言うと、
きちんと定言明報として、この嘘をつかないっていう挙動が、
一人弱いんじゃないと。
きちんと自分の周り、社会、世界、人類全体にとって普遍的だと本気で、
ちゃんと信じているっていう背景がある中で、
この嘘をつかないという方法に基づいて自分は生きているのが人格だとすると、
こういう殺人者が来たときの挙動として、
嘘をつかないっていうことは、実はすごく人格側から見ると自然なことで、
嘘と人格の関係
さっきだと人間側からすると、友達売るの?みたいなふうに言ったんだけれども、
嘘をつかないことが、友達を売るとも限らないから、
この人格の人に憑依すると、二択があると思うんだよ、ルートとして。
それは何かというと、
一つのルートは嘘をつかずに友達を守るっていう方向性がある。
さっきのように、いますけど何か、みたいな。
こっちも来るの分かってるから、その数十秒の間に武装しておいて、
きちんと管理体制を整えておきながら、いますけど何か。
何でもよいでしょう。
もう一つは、やばいと。
ここ鍵も弱いし、鍵ないから、
ここで判断を遅れたら全員殺されるっていう状況だったとすると、
その一瞬で、自分が頑張ってというか、考えて考えて、
培った自分のルールを、今この瞬間変更しようかどうかっていうのも自由なんだよ。
たぶんそういう人は、人格のある人だと。
自分で一般的な社会ルールを考えて、そこを分かって自分のルールをちゃんと作ってるから、
そのルールを改変するってことに対しても自由を持ってるはずで、
その瞬間に、やべ、このルール変えよう、みたいな。
こういう、どこまで想像してルール作っちゃった、みたいなところを一瞬で反省して、
そのルールを一旦撤回、もしくは一旦保留にして、
一旦こう言った上でそのルールをもう一回作ろうっていう反省をする、
の2ルートがあるような気がした。
カントの道徳観
もうちょっと話になかったけど、
この人格っていうのがすごい面白い概念だと思ったから、
ちょっと丁寧にというか、ハヤトに伝わるように話したつもりなんだけど、分かる?
いやー、面白いね。分かる分かる。
分かるし、だいぶ広い出来てるんじゃないかってそう思ったんだけれども、
たぶんね、1点目のそれは嘘をつかないという行動のもとに確かにいる人は、
もういるっていう前提で行動するから、
確かに武装するとか、守りたいんだったら、
いる前提で出来ることを最大限やるんだろうって思ったわね、確かに。
それはすごい納得して、
2点目のルールを改変するっていう方は、
たぶんやらないとか出来ないはずで、
なぜなら、不変的に時代を越えても成り立つルールしか提言名法としては立たないっていうのがあるから、
それを考え抜けませんでしたとか、
その時代のことまで想定出来てませんでしたっていうのは、やっぱり言い訳なんだよね。
わー、カント厳しいね。なるほどなるほど。
だから、今僕らは嘘をついちゃダメっていう、すごいふわふわしたルールを仮に提言名法っぽく扱ってるからなんだけど、
これはやっぱり提言名法ではたぶんないんだよね。へー、なるほどね。
確かに、でもすごい兄貴がさすがだなと思ったのは、
例えば、提言名法を立てようとすると、むちゃめちゃ考えなきゃいけない。
100年前はどうだ?1000年前はどうだ?100年後は?1000年後は?
ただそれも別に、人間っていうものが前提にあるから、もっと言うと理性的存在っていうものがあるから、
カントが考える理性、純粋な理性とか実践理性とかっていう、そういう理性を正しく使う存在として人間が存在するならば、これは100年後でも1000年後でも成り立つだろうっていう、
そういうことをやっぱり緻密に考えていくはずなんだよね。
それをくぐり抜けたものだけが提言名法になる。もっと言うと道徳になる。
恐ろしいね。プラトンレベルじゃない?
何が?どこが?
いびやを作ったっていう、そういう概念を作ったというかさ。
なるほどね。
その徹底し具合というか、基本的に理想というか、現実で考えると実現不可能なレベルの話をしてるよねっていう。
本当にそう。
すごいっすね。
そうね。だから、ちょっと調べてていろいろ見てたんだけど、ネットとかでもいろいろ調べてたんだけど、
僕もやっぱりこの辺ってわかんなくって、なんでそれがダメなのとか、どうやって道徳としてどうなんとかっていったときにいろいろ調べてたところで、
とある哲学の教授の言葉であったんだけど、その教授曰く、関東の道徳っていうのは究極の奇麗事なんじゃないかと。
でもやっぱりその究極っていうのを見せてくれることで、僕らが普段生きるときに何が必要できるのかとか、
現実世界においてはどこまでが必要とされるのか。
確かにイデアみたいに、イデアそのものとかは僕らからするともう、図解知らぬ世界だし。
もしかしたら人格っていうものも、僕らは人間の一種として捉えてるけれども、人間の進化版というか、
普通にいけたらやっぱりどう考えても辿り着けない境地かもしれない。
何なら神だよね。
本当の意味で自分立てた法に従って生きるって確かにそうだよね。
しかもそれが完全定言明法みたいな。
そうそう。
想像つかないもんね。
つかない、そうそう。
っていう意味では、やっぱり人間を超えてるものになっちゃってるかもしれない。
あくまでも人間なんだけどね、勘と言わせると。
人間の中の人格とその他人間みたいな感じなの。
あくまでも究極の理想、究極の経営事ではある。
嘘みたいな話もさ、やっぱり教授のやり取りの中で見たんだけど、
日常的に言うとさ、ついてはいけない嘘があります。
でも状況によってはついてもいい嘘もあったりとか、
あるいはつかなきゃいけない嘘もある。
例えばここで本当のことを言うと、甚大な被害がむしろ生じちゃうみたいなときに、
嘘とかオブラートに積むってことをやったりするわけだよね。
僕らは嘘っていうものに対して、普段はうまく使い分けて生きてるよね。
日常はそれでいいんだけど、人間としてはそれでいいんだけど、
兄貴が今表現してくれた人格にいくと、そんなレイヤーで生きてないんだよね。
そういう、仮に殺人鬼が来た。
友人じゃなくて自分でもいいよ。自分が殺されるかもしれない。嘘をつかないと。
場面でも嘘はつかないんだよね。
それ以外のことに対しては絶対に嘘だと思う。
という意味で、関東の道徳って、前回もちょっと言ったんだけど、
かなり中小度が高い、純度が高いというか、
道徳の掲示枠なんだよね、やっぱり。
うーん、なるほどね。そっかそっか。
だからさっきのような、自分の法が適用できないっていうシチュエーションに出た時に問い直すってことは、
そういうシチュエーションはむしろないんだね。
ない。原則的にもありえない。
それは定言明法ではなかったっていう、
それを立てられる能力がつれなかったっていう、人格ではなかったっていう証明になっちゃう。
人格ではなかったね、人間だったねってなっちゃうってことだね。
あなた人間でしたねっていうふうになっちゃう。
確かにそう言われると打点したっぽいよね。神だと思ったら実はただの人間とか、むしろ打点師でしたって感じになっちゃうね。
学校は確かにすごいこと言ってるな、関東。
だからその評価できる人もいないだろうし。
そうね。だから原則ではね、前回お伝えしたあなたの行動原理、ルールが他の誰にでも普遍的にデザインを超えてでも適用する、
法則次第いたしますかっていうその基準だけがあって、
それが本当にそうかっていうのは、関東だったらできるのかもしれないけど、っていう感じだよね。
そうか。これはもう勝手にそれぞれの整理とか勝手にそれぞれの道徳を打ち出して良いっていうのとは全く違う話をしてるんだね。
道徳の普遍性と相対性
全然違う話。そうそうそう。
っていうところが、やっぱりちょっと厳格さというか厳密さが見えてきたかなと思うんだよね。
いやー面白いね。でも関東、多分関東法の頭脳というか、ここまで考える人だから、多分これがある意味理想論というか、
とにかく究極とか原理の話をしてるっていうのも理解はしてるんだよね。
そうだね、それはそう。
全人類人格化計画とかしてないよね、関東。
してないね。それは望んでるかもしれないですけれども、そこまでのことはしてないね。
でもやっぱり理想の理性的存在を語るには、やっぱりこのレイヤーで語ってるって話はね。
やっぱり人間の生活の普段のレベルとは逆に違うところで考えないと、
そういうロックヒウムとかデカイアウトの統合だったりとか、そういうところを乗り越えて、
人間が扱えないものを扱うっていうところまで踏み込めなかったんだろうね、逆に言うと。
まあそうだよね、法則の話をしてるからね。
ちょっと納得というか、ただ思った以上に究極っていうかね、強かった。
そうですよね。なので、さっきも言ったように嘘をつかないっていうのも低減名法では本当はないですってことと同じで、
例えばいわゆる殺人者の話に戻ると、必要なときは嘘をついて良い、もしあるとしたら、
それは絶対に普遍化できないってカントの捉え方なんだよね。
前回も言ったけど、やっぱりそれって、全員が必要なときは嘘をついて良いって思ってしまったとしたら、
それってしょっかり成り立たないじゃないですかと。
やっぱりこれが見過ごせないぜっていうのが人格としてのカントの発想なんだよね。
今日は実はやりたかったことって、人間を手段とか目的としてとかってそういう話だったじゃないですか。
そうだった。そのための正義の話だった。
正義の話。そうそう。ちょっとひるわって回り道しちゃったんだけども、これまでの話をまとめると、
ではその、この場で仮に嘘をつくということを仮に選択できたとすると、
これっていうのは、自分が不尽者に対して友人を殺させない、
そういうふうにある種、自分の目的に対して不尽者のことを動かすというか、
そういうふうに仕向けるというふうな行為になっちゃうよね。はいはいはい。
なのでこれちょっと厳密には若干違うんだけれども、そういうことをある種手段として捉えましょうっていうふうに感じたんだよね。
へー、そうなんだ。ほうほうほう。
うん。で、一方で、でもそれってさ、友人をきちんと考えると、
友人が生き残りたいという目的があって、それを補助するっていう行為でもあるじゃないですか、嘘をつくって。
でいくと、例えば、殺人者に対しては手段なんだけど、友人に対して目的ですみたいなことになるんだよね。
ほうほうほうほう。
うん。っていうときに、じゃあ目的だからいいじゃんって思うんだけど、これちゃんとは何とかって言ってましたって言うと、
他のすべての人を目的として同時に使用せよって言ってるんだよね。
わー、ほうほうほうほう。
すべての人なんで、殺人者と友人を分けちゃダメなんですよ。
うんうんうん。
なので、どっちに対しても目的として扱おうってすると、道徳ってめちゃめちゃ厳密になるんだよね。
うん。なぜか伝わる、この感覚。
今ちょっと疑問に思ったのが、さっき人間を目的として扱うべき手段としてはダメだみたいな話があったけど。
もうちょっと正確に言うと、単に手段として扱うのはダメで、常に目的としても扱いましょうって実際言ってるんだよね。
ここで言う人間が人格だとすると、この殺人者も逃げてきたお友達も、たぶん人格じゃないだろうなーみたいな。
だからどう扱ってもいいんじゃね?っていう悪い解釈を想像してしまう。
そっちね。
面白い面白い。
それはなんだろうな、最初カントンは悪用で、まさに理性的存在でないならば手段として扱っても良いっていうような制限名法。
ごめん、これは不加減名法になっちゃった。もう一回言うね。
ルールとして、理性的存在とか人格は目的として扱うっていうのは制限名法になるとすると、それ未満の人間は手段でいいみたいな。
っていうのもあるかもしれないが、やっぱり人間っていうものが、ある程度理性っていう算定が見たときに、ちゃんと公平性とか平等性がある。
だから、それをアプリ用に経験なく持ってるってことは、みんな人格の可能性もあるよね。
可能性もあるし、人間だけじゃ悪いんだよ。動物は分からんけど、宇宙人とかは別にいいんだよね。
理性があればね。
理性があれば。逆に言うと、宇宙人に対してはその規則は適用されるかも。
要は、救済生命体だが理性を持たぬという判断をしたときに、もしかしたらこれは手段でも良いっていうふうな発想になるかもしれないね。
一緒に関東ってなって適用すると。
ただ少なくとも、人間っていうものにおいては、ちゃんと人格になる素養とかそういうふうな性質がある。
ちゃんと自分で保護させて、それに従う存在としての可能性がある。
だからこそ貧富の差とか社会的な役割とか、ちょっと頭が良い悪いとか知能があるないとか、
そういうことを超えて、ちゃんとあらゆる人間、人に共通する理性的存在の可能性っていうものをちゃんと見出してましょうね。
やっぱり考えてるんだよね。
それがないと本当にね、虐殺者というか、どっちでもいいんだろう。
カントの人格観
本当に独裁者になっちゃうからね。
そうだね。僕はすごく自分は人格じゃなくて人間だみたいな発言をしたけれども。
でもね、もうちょっと純粋にというか、関東のさっき言ってた言葉を解釈するとすると、
人間には基本的に全員、人間は理性を持った存在である。
イコール、人間全ては人格であるとも言えるかもしれないからね。
そうそうそう。そういう意味でもやっぱり関東の理想、理想として究極なんだよね、これは。
本当にさ、僕らが内省した通り、人格になれねえよとか、なりたくねえよって思う気持ちわかるわけじゃない。
そんな厳しいことできないよみたいな。
でも関東からすると、いやいや人間は理性というものを正しく掴んで、それを活用するとちゃんと人格になるような、そういうふうな存在だよって考えてるんだよね。
みんな持ってる要素でね。
そうそうそう。それは関東人間観っていうふうに言えるんじゃないかな。
そういうふうに言うと、さっきの手段ではなく同人目的としてっていう話も、単にちょっといいふうな、人をいいように扱っちゃダメですよとか、人の気持ちを大事にしましょうねとかってことじゃなくて、
相手にも自分と同じようにちゃんと法を立てて守る、まさに自立の能力とか。
そういう道徳を選んで行動する自由とか、そういう尊厳とかっていうものがあります。
それをちゃんと意識して人と人として付き合いなさいっていうようなことなんだよね。
なるほど。
ある種、すごい平等ではあるけど、それもすごく理想的だよね。本当に対等の人間として、相手を自分と同じような存在として扱いなさいっていうことだから。
これはなかなか難しいことを言ってるなとは思う。
そうね。まさにさっきの殺人犯、殺人者の例だとわかりやすいよね。
わかりやすい。目の前で血走ってる、包丁持ってる殺人者を本当に自分と同じように尊重して扱えますかって話だからね。
絶対この人理性が扱えてないでしょうって思っちゃうもんね。
まあね、明らかにちょっと無理だよね。
少なくとも自分よりはみたいな手段として扱っちゃおうって。
結構この辺の話を広げていくと、それこそ死刑っていいの?みたいな話とか。
あるいは、いわゆる犯罪者に対してどういう扱いをするかみたいな。
そういう警報みたいなものにも適応できるんだよね。
死刑って、要は相手の人生、生きる権利っていうものをある種なくす行為だから。
僕個人が死刑に対してどうこうっていうのもないんだけど、
ちゃんとそういうふうな感覚からすると、相手が殺人者であっても、凶悪な犯罪者であっても、
やっぱり人格としてちゃんと尊重される必要はある。
っていうふうな話になってくるよね。
道徳の厳しさ
そんな感じで今回、手段ではなく目的として同時に扱いって話をしたんですけれども、
この辺の話で関東の道徳っていうのはどんだけ厳しいか、どんだけ徹底してるか。
それがまさに道徳扱っている意味の実践理性の伝え方なんだよね。
純粋理性は、可能性とか誤性っていうものを使って世の中を捉えますっていう話をしたんだけれども、
実践理性を正しく使うと、人は人格として法を立てて守るっていう、そういう動き方をするはずだと。
あの時から途中でも、嘘をついてダメだっていう意志とか意欲があるって言ってくれたんだけど、
それが人間の内側から出てくる意志なんだよね。
そういうふうなものを、この実践理性とか定言明報とかいろんな言葉を使って語り尽くしたんですよ。
もちろん、この2回では全然語り尽くしてないんで、
実践理性批判っていう本も、それはそれで膨大なものなんですけど、
僕、ちゃんと読めてないんであれなんですけど。
その一部を今回ご紹介しましたって感じですね。
なるほど、ごめん。最後まとめ的な感じでお願いできればと思うんだけど。
また、人間を手段としてだけ扱わず、目的として扱うべしみたいな。
はいはい。
同時に目的として扱うだね。
そこと今回の話がうまくまだ繋がってない気がするんだけど。
それでいくと、ちょっとさっきお伝えしたような、
相手も人格であるとして扱いましょう、接しましょうっていうふうに言い換えができるね。
なるほど。
さっき言った通り、こいつは人格じゃなくて人間だから何でもいいとかっていう発想が、
手段として扱う、要は人間という存在を手段として扱うって、
やっぱり関東に言わせるとそれはそれで間違いなんですよ。
私、自分は自立の力がないから人格ではないって思うのが間違いなんですよ。
なるほど、あなたにはありますからねと。
ありますと、理性の力がありますからと。
それも受けるのはしんどいけど、関東に言わせるとそうなんだよね。
なので、きちんと人格として敬意を持ちましょうとか、
自分と相手っていう存在、あるいは自分と両方の方を見たときに、
ちゃんと人間が理性的存在として生きていることを信じましょうとか、
そういうふうなことに言い換えができるかな。
わお、面白い。今までちょっとつながった気がする。
つながった?
うん。
すごいね。この認識が合ってるかわかんないけれども、
ファントのさっきの言葉で、人間がどう道徳的にあるべきかみたいなのを、
一言で全部言っちゃってるんだ。
そうそうそう。同時に目的として扱うっていうことだよね。
すごいね。よく言うさ、みんなが相手のことを考えれば争いなくなる世界になりますよ、みたいな。
そういう話を相手を人格として、手段じゃなくて目的として扱うことで、
いい世の中になりますよ、みたいなさ。そういう感じだよね、多分。
そうだね、そうだね。
そこまで言ってるのかな。
前回話した通り、霊言明報って、個人のルールが全体に適応できますかって話だったじゃない。
そういう時に、でも例えばこんな人もいる、あんな人もいるって言うと、
そもそも普遍的なものって成り立たないじゃない。
はいはいはい。
ここで人間というものは、人格として自分を立成するんだっていうことを前提して初めて、
その自分を立成する力を持つ人間、要は人格ならばこれに同意できるだろうっていうふうな、
そういう説明につながってくるんだよね。
カントの考えっていうのはすごい理想というか、ちょっと実験室っぽいところがあって、
人間がそういう自分が立てた方に従うということを合意できるんだとしたら、
自分が考えているルールも合意できるだろうっていうふうな、やっぱりそういうふうなところは多分あるんですよ。
なので、手段ではなく同時に目的として扱うっていうのは、いいことのようにも見えるんだけれども、
ある種の人間を理想の存在として想定しちゃいましょうみたいな、そういうものを含んでるんじゃないかなって、
今日話しながらちょっと思ったね。
はいはいはい。
多分だけど、カントはある究極のイデア的な話をしてるんだけれども、
同時にカント自身の答えとして、基本定言名法無理じゃんみたいな、
定言名法自体が理想じゃんみたいな、実際ないじゃんみたいなふうにうちらは考えてたんだけれども、
カントはちゃんと定言名法をこうやって提示してるんだもんっていうそうさ。
だし、こうやってすごいあらゆるものを含んでるから、あんまこれに反論できないというか、
嘘をつかないは反論というか、いろんなシチュエーションが考えられるけれども、
この人間、人格、人間を人格として考えて、手段としてではなく目的として、お互い扱いましょうと。
お互いっていうのは定言名法だから全人類に適用可能という意味で、お互い定言できるけれども、
これ確かにあんま反論できないかもって思った。
はいはいはい。
さっきの殺人者の例みたいなものもうまく内包される気がするもんね。
うんうんうん。
そう。なので、いっぱい言ってもちょっと注意なのはやっぱり、
以前っていうと、そこまでの感覚は多分ないと思うんですけど、
どう頑張っても現実世界とは馴染まないもの、別世界にあるものなんだよね。
アイデアって、イデアの話。
プラトンのイデア。
プラトンのイデアはそうなんだけど、
あくまでもこれは人間世界にちゃんとあるんだよね、この定言名法の道徳っていうのは。
どれだけ理想だとか究極だとか、現実世界に馴染まないという人としても、
だからこそちゃんとそれを目指す方がいいんじゃないかとか、
その実現に対してある人格を磨く、まさに自律の力を磨いて人格になるっていうことに
意味があるんじゃないかっていうことを本当に多分言ってるんだよね。
だからこそ、前々からずっと挫折なんだけれども、
カントの道徳の実践
カントが永遠の平和のために、という本を書いて、今の国連の発送中になっているという話をしたと思うんだけれども、
そのぐらいカントってやっぱりそういう平和とか自由とか、人類の何ていうの?
慰霊みたいなものがちゃんと実現できるっていう、ある種そういうポジティブっていうか、何なのかな?
血に足ついてるんだね、ちゃんと。
そうだね、そうそうそう。だから単純に理想として輝くだけじゃなくって、ちゃんと現実にできるよっていう、なぜならって話をちゃんとしてるんだよね。
だからそこがプラトンのイディアとの違いというか、イディアよりは理想っぽく、
この世界の中には入らないように見えるけど、ギリギリ入ってる低減名法的な道徳と、
全然入ってないイディアとみたいな。これはやっぱり大きな違いがある。
そうだね。やっぱりプラトンは三角形のイディア。だから本当の三角形見せてくださいって言っても、たぶん見せてくれないよね。
無理無理無理。
なるんだったら、哲学者として知見を積んでやると、イディアが感じるようになるっていうのはある。
感じるだよね。見せらんないよね。
見せらんないね。
カントは究極の形見せてって言うときに、さっきの一言で表現してるから見せてるんだよね。
見せてる。
受け取りにくいって話だよね。
難しさはあるだろうけど。見せてはいるし。
カントが目の前に行って、私は輪郭です。あなたも人格ですねって言われて、はいとは言いにくいじゃん。
自立能力を持って、自分は自分を立てた方にのっとる存在ですって、まっすぐは言えないと思うんだよね。
言えない。その能力を持ってるんですよって言われるとしたら、そうなのかね?みたいな話になるかもしれないけど。
ずばに人格ですか?って言われたら、うーんとはなるよね。
そうそうそう。それについては厳しさというか、徹底具合があるよっていうところがカントの特徴だなって改めて思うんだよね。
だからこそさっきの定言明報。人格を手段として扱わず、目的として扱うべしが成り立つんだなと思うしね。
そうだね。
そんな感じでどうだろう?今回の定言、前回から含めた定言明報とか道徳とか、手段ではなく同時に目的でとかっていろいろ言葉として出たと思うんですけど、
なんとなくカントが言わんとしている道徳ってどんなことなの?みたいな話は感じられましたかね?どうでしょう?
いざこれをパッと言語化しろって言われると難しいよね。
いいよいいよ、雰囲気でいいよ全然。
じゃあごめん、最後一個質問なんだけど、今回道徳の話をしてきたわけだけれども、このカントの概念からいくと、
いわゆるすでに一般常識として流通している道徳ってあるじゃん。赤信号渡らないとか、必要な嘘はついていいみたいな場面もあるよね。
日常的にはね。
それがなんとなく共通認識としてあったりするわけで、それはカントから言わせると道徳なのかな?みたいなのはどうなんだろう?
カントから言わせると道徳ではないですと。
あ、そうだね。はいはいはい。OKですOKです。
あくまでも日常的な個別の話っていうところはカントからするとあんまり定義できなくて、
やっぱりそのもっと上位にある道徳そのものとか道徳の原則的な在り方っていうことを語ってるって感じだよね。
なるほどなるほど。
はい。なのでね、ちょっと今回で、前回と今回でカントの道徳ってのを見てきたんですけれども、
ちょっとやっぱり難しい部分とか、前回何とも言ってくれた通りやっぱり自分らの概念にない発想だから、
ちょっと難しかった部分もあると思うんですよね。
実際ちょっと僕も台本作って思ったんだけども、実践理性と何かっていう話は純粋理性ほどはできてないんですよ。
でもなんとなくカントってこういうことを言いたかったんだよね、みたいなこととか、
定言名法とかそういういろんな言葉を使ったところで一旦良しとしようかなと思っているんですけれども、
次回ね、カントの最終回かなと思っていまして、
3批判書ですね。純粋理性批判、実践理性批判の次にある判断力批判。
これの中身をちょっと取り上げたいなと思っております。
カントの道徳的判断
これが前回言ったような知、情、意ですね。知が純粋理性で、意志、意欲が実践理性理性っていうときの情ですね。これは感情とかと思うんだけど、
これまで認識とは、道徳とはって話してきましたよね。
っていうときに、最後残ってる情って何かっていうと、僕らが何かを触れたときに判断をするときがあるじゃないですか。
例えば、美しい、これは綺麗だとか言ったときに、綺麗な花は見ることはできるけど、
綺麗さと綺麗そのものって例えば経験できないよねと。
そういう意味でいうと、純粋理性では使えないし。
じゃあ、綺麗って道徳的な判断かっていうと、別にこれを見たら綺麗だと思うべしとかって言えないじゃない?
いやー、かんとそこも分けちゃったんだ。
分けちゃってるんですかね。
そう。
そういうときに、あるものは綺麗だとか美しいと判断する。
それって何ってことを、まさにこの判断力規範で見ていくんだよね。
そういうふうな人間の能力に関して、かんと進んでいくので、僕らももう一歩入り込んでみたいと思っておりますという感じでございます。
あの、前回の最後も言ったけれども、かんとのそこが知れない。
ね。僕も分かんない。
だから、本当にこれは何だろうなって言われてるのが、水曜哲学の流れっていうのがかんとに全部流れ込んで、そのあとかんとから全部出てきてるみたいな、そういうぐらいなんですよ。
あ、そのぐらい言われるぐらいかんとすごいの?
かんとすごい。そのぐらいすごいのよ、かんとって実は。
プロの中のプロみたいな、もうヤバい。
そうそう。だから本当に電動入りみたいな感じだよね。
あ、そんなすごい人はね。
ごめんね、それと言うとロックもヒュームもデカルトもみんな電動入りしてるけどね。
なんかその電動入りの中の電動入りみたいな、もうちょっとなんて証言してるかわかんないんだけど。
さっきの電動入りしてデカルトとか、ロックヒュームと比べてもより上位な感じがするみたいな。上位というか凄みがある。
そうだね、凄みがある。それを束ねて、後の哲学の土台を作ったという意味では本当にすごい人。
そこが上位っていうのは多分正しいね。やっぱり一般人みたいな、僕らみたいな人が、なんとシットなんて言ったらもうすごくおこがましいですよね。
なるほど。だから次回も楽しみだけれども、カント全体としてのカント3回目4回目みたいなのも全然ありそうだなと。
カント2回目みたいなのも全然あると思う。
一旦最後の締めとして判断力批判というところですね。次回見ていくというところで楽しみにしていきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。