1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #105 【意味 雑談】意味とは何..

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



▼おたよりフォーム

ラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!

https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7

意味の世界についての雑談
それてつらじを今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回は100回記念の意味シリーズの雑談ということで、今回は全体的に雑談っぽかったっちゃ雑談っぽかったと思うんですけど、今回はさらにまとめと、感想ということで、ゆっくりやっていきたいと思います。
はい、よろしくお願いします。
どうでした?今回は100回目して初の哲学者を取り上げないで、なんとなくハイアドの課題感からスタートした企画だったんですけど、どうでした?
そうですね、まず本当にですね、皆さんお聞きいただいて、あと兄貴もお付き合いいただいて、ありがとうございましたと。
結局、やってみたら意外と哲学者ベースで話してたなっていう感じもあるんですけど。
そうね、いろんな意味とはないかをいろんな人からみたいな感じだったね。
でもやっぱりなんか楽しかったな、自分の趣味とか、趣味というか興味関心の観点から好きなことを話せるので、それこそさ、平気な時とか苦しい苦しいって言ってたと思うんですけれども、
そう、やっぱりああいう感じはなかったんですよね、今回。
自分の思ってることをお伝えしてるっていう感じだったから。
はいはいはいはい。
でもなんかね、あの実はちょっとやってる中で自分自身が変わってきた部分もあって、
なんか本当はその今回のテーマで意味とはこういうものだみたいな、なんかそれこそ俺は分かったんだみたいなことをお伝えしたいと思って、1ヶ月長い準備してたんですよ。
ああそうだ、一応結論みたいなものは準備というかあるだろうみたいなことを考えてたの?
そうそうそう。で、やってたんだけれども、なんかそれこそさ、その途中から山内さんみたいな、なんか宗教に近づいていくとか、
前の世界だと、それこそ前回やったと思うんですけど、俺は分かったっていう時点で価値の世界に生きてるよねみたいなことを感じるにあたり、
なんかその態度は違うのではないかみたいなことを思って。
はいはいはいはい。
なので、なんかやっぱり僕としても、これが意味の世界だとか、これはすごいことなんだとかっていうよりは、
こんな世界もあるんですよ、素敵じゃないですかみたいな、それが語り口自体がちょっと変わってきたというか。
うーん、なるほどね。
哲学者と宗教者の陥りやすいところ
そっか、みんなあれなんじゃない?意味に挑戦した哲学者とかさ、宗教者の方は皆さん陥るところなんじゃない?もしかして。
何かを成し遂げようと思って、意味について成し遂げようと思ったけど、結局そこに落ち着いて何も世に出さずに終わっていったみたいな。
だから少ないんじゃない?
それはね、あるかもしれないというか、やっぱりその前もちょっと、仏教の十牛図みたいな話をしたの覚えてるかな?
なんかあったね。
そう、なんとなくね、その十牛図で牛っていうものをある種悟りというか、細けに捉えて、その前の段階を伝えるよみたいな話があるんですけど、
この第八段階で悟るというか、いわゆるその無二一元論みたいな、そういうこう、分別をしないみたいな世界に行くんだよね。
行っちゃうんだけど、九十に何があるかっていうと、まず家に帰ってきて、街で楽しく酒を飲んで暮らすみたいな。
へぇ~、そうなの?
そうそうそう。
っていう風に戻ってくるっていうような話があって、
でもまぁ、その時にも、あなたの隣の人は実は悟ってるかもしれないみたいな、ちょっとホラー映画みたいな話をしてたんですけど、
やっぱり分かんなくなる可能性はあるんだよね。
一元論について
だから普通に見たら価値の世界で普通に飲み食いして楽しんで生きてるんだけど、
その楽しんでいる、その人から見たら、その楽しんでいる自分も相対化というか、別に捕らわれてない。
うんうんうんうんうん。
ただ、本当にありのままに過ごしてる結果、そういう笑顔とか喜びが溢れているだけで、
でもその心はちゃんと仏の世界というか、
別にその楽しみを失うのが怖いとか嫌だとかそういうことではない世界に、
共知に至ってるかもしれないみたいな、そういう話はあるんですよね。
なるほど、苦情とか節制最高ってわけじゃないぞみたいな話にね。
そうそうそう。
そう。それで言ったらさ、僕は別にさ、やっぱ美味しいもの食べたいし、仕事もできるならもっと楽して、
ふわふわ生きていきたいしとかって思いがあるから、全然悟ってはいないわけなんだけど、
でもやっぱり意味の世界とか、大事なとか価値の世界だけじゃないよねっていうことはなんとなく思っているから、
そういうバランスで話した結果、今回みたいな、そんな素敵なものもあるんですよみたいな、
そういう話になったのかなっていう感じですね。
そうか、でも今後は今の話聞いた上で思うのは、一旦その十流図か、の上で八までちょっと見せてほしいよね。
意味とは、こうである場所でみんな、そうだそうだ苦情最高、無最高、一元の最高ってなった上で、
八九だよね、まあとはいえ違いますけどね、そこまで行くっていうところが大事なのかもね、
そこで一旦長尻を合わす、じゃないとただの二比二済になっちゃうから、それは。
そうそうそう、そうなんだよね、だからやっぱりその、前もちょっと話したか、お話だったんだけれども、
その二元論と一元論みたいな話も二元論だみたいな話を、今回の冒頭でしたと思うんですよ。
でも一元論ってその二元論手前にあるものだから、普通に対立しなくないとかって自分の中で思ってたんだけど、
まさにそういう禅の話をした時に、一っていうのは必ず二を含むと、
要はもう概念上一っていうってことは、その一と一があると二になるから、そういうもう区別してる発想だから、
やっぱり一っていうのはダメで、それを仏教では無二というんだとか、不二とか無二、要は二ではないっていう風な言葉に出会って、僕はめちゃめちゃ衝撃を受けたのね。
あああったね、不二、はいはいはい。
そう、不二。これはシャンカラっていう人が言ってる不二一元論みたいな話があって、要は一だけ言っちゃうと、
要は個とか独立した存在ってやっぱり示しちゃうんだけど、不二っていうと二ではないだから、分かれてないとか、
意味とは何か
そういう言葉を使わなきゃいけないっていう言葉でやっぱり考えてるんだとした時に、やっぱりめっちゃ衝撃を受けたのね。
なるほど、だから不二なんてよく分かんない言葉を使うんだみたいな。
だから一であることが大事なんじゃなくて、不二であることが大事だし、だから自分の生きている意味とかって言ってたと思うんだけれども、
そもそも自分っていうのは他人を含むから、自分だけで考えてたらダメだなみたいなことをめちゃめちゃ思ったのよ。
おお、なるほど、はいはいはい。
これも最近読んだ本のことばーって言ってるからなんだけど、上田静照さんっていう哲学者の方がいらっしゃって、
その人は愛と仏教系の人なんだけど、その人がキリスト教系の人と対談をしてるっていう本があるのね。
イエスの言葉、禅の言葉っていう本なんですけど、そこでまさにその始まりが、我は我でなくして我であるっていう言葉から始まるのね。
うんうんうん。
要は、我とか自分ってものの中に、前提として我でなくしてっていうことが入ってますと。
つまり、他人との関わりとか、そもそも自分っていうものも独衣者存在ではないみたいなところから始めてみましょうよみたいな話があって、
それが不二なんだと。
不二(我)みたいな。ちがうか、我(不二)か。
そうだね、我を不二の次元から捉えるとそうなる。だから、我は我であるとか、
考えるのよりに我であるって言っちゃうと、その不二感がなくなる。
うん、さっきの1、2で言うと、1っていうのを定義しちゃったねってなっちゃうから。
そうそうそう、そういうことそういうこと。
1なんだけど、でもそうではないんじゃないか、世の中はみたいな話をしてて。
それは感覚としてはわかる。
それっていうのは、我は我でなくして我であるっていうのは、多分正しそうだなっていう感じはするんだけど、
やっぱり矛盾してるし、理性的には捉えにくい。
そうだね、だし相当いきなり難しい本だよね、最初にそれ言われちゃうと。
哲学や禅をビジネスに取り入れることの難しさ
そうそうそう。
なんかやっぱりそこの感覚的には正しそうとか、感覚的には意味の世界って大事っぽいんだけど、
でも僕らやっぱ価値の世界に生きてるし、自分は自分だと思って生きているし、
もしやっぱりそうじゃないと、なんかアイデンティティークライシスだみたいになっていくと。
そうだね。
そもそもアイデンティティーなんてないんだみたいな話もあるんだけど、
なくていいんだっていう話もあるんだけど、
やっぱりそれだと、本当に困ってるとか切実に目の前の課題を何とかしたいっていう人に届かない言葉になっちゃうんじゃないかっていう感覚が自分の中にあって、
結構今の関心としては、そういうまさに自分らしくあるとか意味の世界に軸足を置きながらも、
価値の世界、現実世界とか仕事の世界とか家庭の世界とかで、
なんかご機嫌に生きるにはどうしたらいいんだろうみたいなことを、いっぱいと考えてるんですよね。
はいはいはいはい。
いいよね。なんかその一周回った実存主義だったりとか、
十九図でいう九十みたいな感覚がちょっとするよね。
まあまあまあ、ちょっとそこまでとそれ多いけどさ。
まあでもちょっと螺旋的に、ただ働くとかただ生きるだけじゃなくて、
やっぱりもうちょっとそこをね、あの混ぜ合わせるというか、
くっつけるにはどうしたらいいんだろうなぁとかっていうのは、最近すごいやっぱ考えるかな。
なるほどね。そこはちょっと自分の中の発見だったりとか、ちょっと今よりは違う感覚でもあったりするんだ、その辺は。
そうそうそうそう。やっぱりなんか、やっぱりそのあれなんだよ、哲学とかやったりとか、
その仏教いいよねって思ってると、仏教の方がいいみたいなやっぱり風にやっぱりなりがちなんだよね。
はいはいはいはい。
他、あと例えばその、それこそ禅の考え方をビジネスに取り入れようみたいな本とか、
そういう論文とかっていうのはいくつかあって、そういうのを読んでみたんだけれども、
やっぱりあくまでもビジネスっていうのは主で、手段として禅の考えを取り入れようみたいな。
あーなるほど。本来はそうか、そういう考えの上にビジネスとか載ってあるべきというか、
べきって言うとあれだと、方が自然な感じするのにねっていう部分もあるってことか。
そうそうそうそう。
まあそういう風に、どっちがいいみたいにちょっと言っちゃってる部分は、じゃないと本売れないからね、しゃーないんだけど。
そうそうそう。やっぱり具体的には悩みを解決するためにはそういう言い方が必要なのかってのはわかるんだよね。
はいはいはい。
そう、で昔はそういうのを見て、こいつら禅の本質わかってないとか、俺はわかってるみたいなことを。
なるほどなるほどなるほど。
うん。そういう砂漠マイナーになってたんだけど、そうではなくあくまでもビジネスとかと、
そういう、まあ要は仮想世界と意味の世界とか、まあ禅的なものとかを、
自己実現と外的価値基準の葛藤
なんかちゃんと対等な位置づけてくっつけることって果たしてそもそもできるんだろうかみたいな。
ああ、なるほどなるほど。
そう。要は自分らしいとか、要はそういうあるがままでいいとは言ってらんないのがビジネスの世界じゃん。
うんうんうんうん。
基本的にはね。やっぱり君の好きなようにやっていいよって言う言葉があったとしても、
それはでもそれを最大限成果が出るんだったらってやっぱ禅というのを含むわけで。
うん、そうね。はいはいはい。
うん。やっぱりそれはそれで大事なことなんだけど、
やっぱりそうすると自分が、なんだろうね、こうすり減ってしまうとか、
なんか本当も自分じゃなくなってしまうとか、そういうことを外の価値基準で生きて、
本当に自分は何が言いたかったんだっけみたいな感じで悩むみたいな。
うんうんうん。
そういう人を再生産する仕組みになっちゃってるんじゃないかっていう思いは結構昔からあって。
うんうんうん。なるほど。
意味の世界とフラットな捉え方
そういうアプローチとして、逆針でもね、全的な方がいいみたいな風にやっぱりなりがちだけど、
実際そこはそこすらもフラットで、そこは融合、本当に融合できないかみたいなところにちょっとたどり着いてきてるみたいな。
そうそうそう。そこが今テーマとして見えてきたみたいな感じかな。
はいはいはい。
うーん。
うん。
そっか、まあでもそういった意味ではそうだよね。
この前の意味の話は、前回の最後の話だけど、その天秤を割とフラットに持っていくような感じはしたよね。
あ、そうそうそうそう。
うん。
そうなんだよ。なんかやっぱりこう、ちゃんとフラットであるというか、やっぱり、今回もずっと話してきたけど、
意味の世界の矛盾っていうのはある種含むし、
そういう世界の中で、結局なんだ何がいいか悪いかっていうところを現実的にまあ作っていきましょうみたいなところがあるから、
まずはフラットにするっていうのは結構自分の中での、なんか大事なことなんだなっていうのを、
まあ今回こうやって改めて話させていただいてとか、自分なりに色々調べる中で、
なんか改めて見えてきたっていう感じかな。
はいはいはい。なるほどね。
うん。
そう、だからそれで鶴城もやっぱりできるだけフラットというか中立でありたいみたいなことは結構言っていると思うんですけど、
やっぱり鶴城の話をするときは一旦鶴城の立場になりきってみるけど、
まあ別にそれがやっぱり絶対じゃないしとか、
うんうんうんうん。
そう、なりきりというかもわかんないけど、やっぱりそう思っているから、
なろうとしないとやっぱりその鶴城のことはやっぱり伝えられないっていう気持ちも、それはそれであるから。
うんうん。そうだよね。
じゃないと、そもそも鶴城取り上げる意味とか、このラジオやる意味すらなくなっちゃうからね。
あ、そうそう。
結局そうなっちゃうんだね。
無になっちゃう、本当の意味でね。
そう、虚無主義になっちゃうから、結局ね、生きている理由もないし、
なんかこんなラジオをやって、みなさんのお仕掛けいただいているのは申し訳ないみたいな。
そうになっちゃうんだけど、でもそうでもない。
はいはいはい。
うん。別にそれこそ山崎さんのところで言ったけど、
人生には根拠とか意味がないからこそそれが最大限の根拠として意味を持ってくるし、
だから意味がある人間だけが生きているんだったら、そののは先民思想というかさ、
うんうん。
うん。
にあってるから、意味がないんだけど、その中でも豊かに生きていけるのが、
まあ、人間であり生物であり自然であるっていう考え方の方が、
まあ、健康的化だとは思うんだよね。
うんうん。はいはいはい。
うん。
そう。例えばそうなると、じゃあ俺のこの目の前の、
例えばじゃあ、あれだけど、
例えば子供が、例えばすごい、なんだ?
辛い目に遭っていて、まあ、いじめたのか、そういうことはわかんないけど、
そういう時に、じゃあどうしたらいいんだって、やっぱ節絶さには答えられない。
ああ、まあそうだね。
そこにも意味があるんだみたいな。
そういういじめられているということの、大いなる意味を捉えてくださいとか言われても、
やっぱりそれは、ちょっとやっぱ届きにくい。
うんうんうんうん。
うん。
とも思うんだよね。
はいはいはい。
確かに、まあそこに対してね、そうするとやっぱ意味っていうものがいろんな切り口から出てくるもんね。
そのさっきの大いなる意味みたいなさ。
そもそもね、みたいな純粋な意味的視点から捉えるのか、
やっぱその現実として、そこを、なんかあの、たとえばちょっとあの、嫌だけど、
子供が、例えばそういう辛い状況があるという時に、
子供が辛いと感じている、そこの意味っていうものを捉えた時は、
また違う次元での意味っていうものが生まれてくるだろうしっていう。
そうだね。
なんかそこにその意味は立ち上がってくるもんって話をしたと思うんですけど、Druzの時に。
やっぱりそうだと思うんだよね。要は、例えばじゃあ子供が辛い目にあっていじめられているときに、
そんな奴は殴ってやりたいって思う気持ちももちろん正しいし、
もうなんだ、子供が、なんでうちの子がって思うのも正しいし、
逆にこのうちの子が何かをしたのじゃないかって子供を疑うのも正しいし、
そもそもいじめられているっていうことを悪いことだって決めつけている自分は正しいのかって思うことも正しいしみたいな。
そういういろんなレイヤーの正しさがあるっていう感じだと思うんだよね。
そう、正しさだったりとか、そもそもの意味だよね。
現象に対する意味。
そうだね。正しいって言っちゃうと間違ってるってのが出ちゃうから、確かにいろんな意味が立ち上がってくる。
それはやっぱり、それぞれ相反するものもあるけど、でも全部意味の世界にはある。
っていうことをちゃんと捉えるっていうのは、大変だけで大事なのかなっていう。
そうだね。それを往々にして、いろんな現象に対して、自分がその意味を自分で思ってるって思っちゃってるんだけど、
ただやっぱり、結構多くの場合は、その現象に対して自分が思った意味っていうのは意外と常識に縛られてたりとか、
価値観に縛られてたりとかする可能性があるので、そこを冷静になろうね、そこをフラットになろうねっていう感覚はするかな。
だからそこを本当に自分で考えてるんだっけ?みたいな。そこで今回の意味についてフラットに捉えておく、
その現象とその意味を分けておくとか、というのはすごくいいなって思っている。
個人的にはその辺りはすごく、いつも多分こういう話をしてると思うんだけど、雑談でね、無意識に思っちゃってるみたいな話は多いと思うんだけど、
事実と感情の分離
そこが個人的には結構テーマだったりする。テーマというかね、面白いなと思う部分だから。
重ねれちゃうんだけど。
でもね、やっぱりこう、すごくいろんなものに派生するなぁと思っていて、そういうことよく仕事とかでもさ、事実と感情を分けろみたいな話ってあると思うんだよね。
例えば、事実としては売上げが上がった、下がったなんだけど、それを上がったから喜ぶとか、下がったからなんとかしちゃいけないと思うっていうのは感情だから。
で、やっぱり上がった時に、でも、のけなみ他者も上がってるのとは油断しちゃダメだよねとかっていう、それこそ現実に繋がるし、
下がってるのも、それがもしかしたらデータの間違いだったかもしれないから、ちょっと冷静に見なきゃいけないとかっていう風に、やっぱりその感情とかでやっぱり構造も変わってくるって思うと、
それね、事実と感情を分けろって話だと思うんだけど、まさに今回で言うと、価値と意味を分けるとか、やっぱりそういう発想自体は結構根本的に大事なんじゃないかなと思うんだよね。
うんうん、それは二元論的に、しかも二元論的にじゃなくて、みたいな話では。
二元論的じゃなくて、土台にあるものとして。
確かにさっきの経営の戦略的な話もそうだし、さっきのハエトの話を聞いた思い出すのは、仕事を憎んで人を憎まず。
ああ、はいはい。
うん、これもまさにそうだもんね。やっぱり上司部下とか、仕事で人と付き合う時の良い心得なのかなと思うよね。
そうだねそうだね。
やっぱりね、その人が何か憎まれ口を叩いてるっていうと、イラッととか、もう絶対聞きませんってなっちゃうけど、
その立場、例えば部長なのか、上司の立場として言わなきゃいけないんだっていう理解ができるなら、それはね、多分、ちゃんと聞いてあげようみたいな風にもなったりすると思うし。
うん、だったりな。怒る方は怒る方でね。叱る方は叱る方でね。
ああ、そうそうそう。
やっぱりその文脈が大事っていうのはね、言葉の時にもお伝えしましたけれども、
意味付けについて
やっぱり、それをね、全部捉えちゃうと、それはそれで、こっちがパンクするよみたいな話もあるから。
遅くなるもんね。あの、太陽がね、荒れるものに対してね。
そう、ある。だからね、それは、だから、ゆったりしてるっていう話もあるんですよね。
いわゆる、なんか、この、賢人とか聖人とかさ、そういう仙人みたいな人たちって、なんかゆったりしてるじゃん。イメージとして。
やっぱり、焦ると、やっぱりそういう反射的な反応になるから、結局、捕らわれちゃう。だよね。
そう、その焦り自体が捕らわれ、みたいな感じがあって、その仏教というか、そういう東洋的な感覚で言うと。
うん。だから、やっぱりそれは何かをやらなきゃって思った瞬間に、その、やるっていうことに捕らわれているとか、自分が乗っ取られている。
あ、でも、それをやるんだっていう風に思っている自分っていうのがあり、その自分っていうものはそもそもないっていう世界から、やっぱり生きているみたいな、そういう多重構造がやっぱりあるから。
うん、うん、うん、うん。
うん。だから、やっぱりこう、ゆったりするみたいなところがあるんだろうなと思うんだよね。
なるほど。まあ確かにね、そうだし、一方で面白いなと思うのは、そういった、例えば自分の頭で考えていくとか、あらゆる現象に対して自分で意味付けをしていく、みたいな感覚があった、ある人がいたとすると、これ面白いなと思うんだけど、
たぶんそれを、ちっちゃい頃、ある意味先天的にだったりとか、だいぶちっちゃい頃からその感覚を持っている方も多分いて、
はい、はい。
そういう方は、たぶん若い頃って結構大変だと思うんだよね。
いろんな物事があったときに、これはどうだろう、あれはどうだろう、とか、学校で先生にこうしろって言われたときにも、え、本当にそうかな、ああかな、って考えながら生きるっていう意味で、結構小さい頃苦労することが多いんだけれども、
うん。
それをたぶん小さい頃からずっとやっていると、たぶんこれ訓練だったりとか、っていうのもあって、ある程度年齢を重ねてくると、あらゆる反射神経みたいなのがすごく良くなってきて、
はい、はい。
だから頭が回転がめっちゃ速いだったりとか、自分が今まで生きてきてからずっと考え続けてるから、自分の考えっていうもので、かなり対処できるようになってきたりとか、しかもゼロベースで、
バワッと考えてこれだ、だったりとか、これは今までなかったからちゃんと考えようとか、結構そういう意味での反射神経がめちゃくちゃ速い人もいるんだよね、なんか。
頭脳の訓練
はい、はい、はい。
それはそういう意味でさっきの千人みたいな言ったりして、物事をちゃんと考えるっていうのもそうだし、結構この現実世界だと、そこをちゃんとやってる人は、ちゃんとやってるっていう人は偉そうなんだけど、
そういう感覚を持ち続けてる人って、そこの回路だったりとか、反射神経がめっちゃ良い人もいてびっくりするよね。
はい、はい、はい。
なんかそれが、パッと見た時に、ただ単に一般常識に囚われて、それをパッと出力しちゃう人なのか、自分の頭だったり経験から導き出されたものからしっかり出してくる人なのかっていうのは、パッと見れば分からないことも多いんだけど、そこは面白いなと思うかな。
うん、うん、うん。
いや、本当にそう。これは結構政治発達理論とかでもあるんだけど、やっぱりその、いろんなステージがあって、要はそういう言葉を使える人。
うん、うん、うん。
要は、その、訪れられたことに対してパッと答えられるっていう人と、それがもうその人の軸にあって、その人のスタンスになっていたようには、やっぱり段階の差があるよみたいな話があるんだよね。
へぇ、はい、はい、はい。
うん。
だからその、政治に発達理論はどっちかっていうと、その学術的な方の話だけれども、ちょっとまた脱線しちゃうんだけど、要はこれまで、これまでって言われたな、ちょっと前までは、教育っていうのは子供のもので、子供が育っていくときに発達していくんだっていう風に思われていたんだけれども、
大人になってもいろんな発達の段階があって、人っていうのは、なんだろう、こう変化し続けるとか、そういう学び続けることができると。
うん、うん、うん。
で、そっちはどっちかっていうと段階だから、上の方、上に行く方が、まあより良いみたいな感じではあるんだよね、考え方的にも。
その発達をどういう風に促すかとか、例えばステージ2の人をどうやって3とか4に上げていくかみたいな話なんだけど。
ああ、そういうのがあるんだね。
だからそっちは多分、割と価値の世界的に自分の軸を持つとか、自分のそういう世界観を持つことで、よりよく新しい状況だったりとか、環境に対処できるようになるみたいな。
多分そういう感じがあって、千人とかどっちかっていうと、そういう軸すらもうないというか、それを立ててはこうして、こうして、こうして、みたいな、やり続けるみたいな。
そういう世界観なんだろうなっていう感じがしてる。
うん、うん、なるほど、はいはいはい。
だから本当、生まれ続ける、緑化するみたいな話があったけどさ、木が緑化するみたいな。
だからもう、人化し続けるみたいな。
はいはいはい。
自分が、そう、ある化し続ける。だから自分があるんじゃなくて、なんか、現れ続けるみたいな。
はいはいはい。だから千人のそのゆったり感みたいなものって、自分で意味付けられる人がどんどん反射神経が良くなっていくみたいな話はしたんだけれども、
意味の世界
多分、それを超えたレベルで千人は考えてるんだけれども、そんぐらいの時間を要するぐらいのことをしているみたいな話だよね。多分、早いと言いたい。
そうそうそうそう。
やっぱり、木が緑であることすら、葉っぱって緑だよねってことすらも常に忘れ続けられるような人ってこと、意味で使ってるってことだね。その千人のね。
そういうこと、うん。
常に、葉っぱの緑に感動し続けられるし、世の中に自分があるっていうことをありがたいと思い続けられるし、そういう気持ちになってくるかなと思うんだけど。
はいはいはい。それはやっぱり千人と言ってしかるべきかもね。確かにそれはね。
ね。そこまでいくとね。
はい。みたいな感じでね。やっぱりこう、でもそういう風に捉えると、別にそんな想像上とか歴史上のよくわからん人たちの話とかじゃなくて、意味の世界に生きてるから変えるわそうなのねみたいな、そういう納得できる部分もあり。
うんうん。そういう意味でそうだよね。確かに文脈の大切さみたいな話も今回あったからね。
そういう意味ではね、いろんな物事を意味っていうレイヤーで捉えるっていうのは僕の中では一個の方法論として役立つそうだなって思ってる感じですね。
うんうん。なるほどね。これはちょっと確かに人と物事を理解し合うとか、コミュニケーションの難しさもやっぱりね。
ある。
入れてくるねっていうね。
そうそうそう。だからね、そういう意味ではね、本当に兄貴もそうだし、やっぱり聞いてくださる方も、まさにそこに何らかの意味だったり価値だったり、楽しさとか面白さとかがあるから、
やっぱりこういうコミュニケーションが成り立つのであって、そんなことよりサッカーしようぜみたいな人とは相入れないくなっちゃうわけですよ。
はいはいはいはい。
うん。でもそこはもうしょうがないというか、そういうお互い世界に生きてるよねで、まあいいんじゃないかなっていう感じもありますよね。
コミュニケーションと意味
私もいいしあなたもいいみたいなね。
そうそうそうそう。だから別に、なんだろう、そこの、別にサッカーをすることとこういう手探側に反射するっていうことも別に分けてない。
どっちも豊かなになる生活の手段、行動だから。
うんうんうん。
豊かになるってことがまあベストではねみたいな。
うん。まあ大変だ。確かにそういった感じでそうはね、いちいち自分が話そうとする意味だったりとか、相手が話してる意味を確認するみたいな。
前、ほら早いと思ったじゃん、それどういう意味で言ってるとかって結構昔。
ああそう聞いてたよね。
人に聞いちゃうみたいなね。
うん。
まあ確かに、かついってそればっかり言ってると大変だなっていうのもね。
そうね。やっぱりね、こう人生のやっぱり深いところというか、それこそキャリアの話もちょっとしましたけれども、
仕事の話とかしたときに、やっぱりそこに気付かせてあげることが大事みたいなもアンプルんだよね。
その意味とかそれを言ってる意味って、なんか本当に自分がそう思ってるからですか?それとも誰かに言われたからですか?とか。
うんうんうん。
言葉では言ってますけど、本当にそれって思って言ってますか?とか、そう言ったときにどんな気持ちになりますか?みたいなことを結構問いかけることがあって。
うんうんうん。
そうすると、確かになんか言わされてるかもしれないですとか、言ってはいるんだけど、なんかちょっと気持ち悪い感じもしますとかっていう、例えば回答があったときに、じゃあ本当に言いたいことってなんでしょうねみたいな。
はいはいはいはい。
やっぱそれって意外と気付かないんだよね、自分では。
うんうん、まあそうだね。だからこそ悩んでるんですね。
そうそうそう。
そういう観点でも、人間ってやっぱ面白いよなっていう、これは心理学やってるときからずっと思ってますけど、人間の不思議さというか面白さ?
うん。
はい。まあそんなことばっか考えてるわけですよ。さっきはさ、いろんな本読んでましたって言ったじゃない?
うん。
なんか僕逆に、テレビとか一切見ないんだよね。
ああ、はいはいはい。そうなんだね。
自己啓発
だからちょっと振り切るとさ、WBC、野球とかすごい盛り上がってたじゃん、多分。
うんうんうんうん。
あれとかも僕見てなくて。
ああ、そうなんだね。
最後のAmazon Primeやってた大谷のアメリカ戦の第9回の東急だけ見たの。
ああ、そうなんだ。はいはいはい。
そこだけ見て見た気になってるんだけど。
おお、それは良くないね。
そのぐらいに、世の中的な意味というか、ここからやっぱりちょっと離れてるから。
なるほどね。まあそういう現実的なところはみたいなね。
なるほどね。
それはそれでいいのかって思う時もあるよね。
難しいよね。そこは確かに時間は有限なので。
そうそう。
じゃあ2時間、3時間、野球の試合見てられるかみたいなね。そういった大きな試合であってもっていうね。
そこはあるよね、確かに。
別にね、どっちがいいとかではないんだけど、僕からするとそういうのも見ておいておいた方がいいんじゃないかみたいなとか。
みんなが盛り上がって話してると、入れない自分でいいんだろうかとか思う時もあるよね。
なるほどね。
確かに、そこは考えてみたらいいんじゃないかな。
そこに自分でどういう意味をつけていくかだし、そこも天秤な気がするけどね。
それだけインプットしたことを、実社会、実生活で感じる部分って多くなってくるはずだから。
そうだね。
やっぱり一流の人って何を見てもそれに通ずる部分って見出したりとかする。
はいはいはい。
そう。
なんかね、そういう話も前の話にあった。
うん。
作品分析
なんか、言葉させちゃったけど、いわゆる高い山に登るとお互いに目線が合うみたいな。
要は森の中とか谷の中にいたら、もううぞうむぞでごちゃごちゃに分かんないんだけど、
山の上に登った瞬間にお互いの高みが分かるみたいな話があって。
はいはいはいはい。
たぶんそれがね、今言ってくれたような一流の人は、例えば一流の人は見抜くとか、良いものを見抜くみたいな話に通ずるんだと思うんだよね。
はいはい。
「毎一流は他芸に通ず」っていう話のことね。
ああ、そうだね。
そうだね。
そういった意味の深みの、中小的な意味の深みっていうものをね、いろんなところに見つけるっていうのはあるから。
なんかね、ハヤトは例えば哲学でそうやってやって、毎一流か知らんけど、そうやってやってるとすれば、
なんか別の物意味を見てるというのは、時間が許せばだったりとかね、興味が許せばとか、自分の興味がある、立てばっていうのはあるけど。
面白いかもしれないよね。野球見ている時に何か悟るかもしれないしさ。
それもあるかもしれない。
それもあるかもしれない。
そういった意味でね、自分は何に対しても一流じゃないんだけれども、興味を広げるという意味ではいろいろ見るようには意識してそこはしてるかな、最近。
はいはいはい。
お蔵ばせながら、チェーンソーマンのアニメ見たりとか。
ああ、はいはいはい。
めっちゃ面白かったから原作読んで見てるんだけど。
ああ、面白かったね、やっぱり。
見た?
見てない。最近アニメとかも見れてなくて。
藤本拓樹さんって作者、原作者なんだけど、短編集とかも面白いよって説明られてみたら、実際面白くて、ルックバックってやつ見て面白くて。
今、さよならエリーっていうやつで、確か去年なんかの面白い本で2位になったみたいな。
はいはいはい。
確か、その前の年がルックバックが1位とか2位だったのかな?ちょっと適当な状況であれなんだけど。
ぐらいすごい評価されてる本だったらしいんだけど。
これも面白かったもんね。
で、さよならエリーっていう短編が、まずい、意味不明なんだよ。
ほうほう。
意味不明というか、かなり読み手に、結構委ねられる感じ。
どう解釈してもいい、現実なのか、想像の世界なのか、今なのか、過去なのか、未来の話なのか、結構わからない。
はいはいはい。
だから、それをどこから聞き取るか、結構捉え方が変わるよねみたいな感じで、まだネット上の感想を今あえて見ずに自分で何回も見直してるけど、
こういう人間が、物事をどう捉えるかっていうことを、多分逆転に取ったやつで、そういうのを感じたからね。
自分の興味と向き合う
ぜひ、早くも読んでみてほしいな。
さよならエリーっていう漫画?
そうそうそう。
なるほどね。ちょっと読んでみよう、それは。
でもさ、ちょっと、深掘れの前だけどさ、兄貴がチェンソーマンを見て何が面白いって思ったの?
あー、いや、何がか、どういう意味で聞いてる?
だから、面白いってのはわかるんだけどさ、それこそ意味の話じゃん。兄貴にとって何が面白かったのかっていう話じゃん。今回のテーマで言うと。
そうだね、それはね、何個か聞く中はあって、今年の初めの雑談でも、多分新年明けましての話でもあったと思うんだけど、
結局自分にとって好きとは何かとか、好奇心とは何かっていうものが、結構わかんない。
そもそも自分が物事に対して好奇心ってないんじゃないかみたいなところが、結構今硬い。
言ってたよね。
そうそうそう。
だから、毎月1冊自分が興味今でなかったような本を読んでみるとか、って話してたと思うんだけど。
本当さっき偉そうにさ、一流は先に続くみたいな話はしてんだけど、自分の一流というか、自分が何かその一つに対して本当に好奇心をもっと取り組むかっていうと、
やっぱりそれがないんだなっていうのをいろんな感じる中で、っていうのが一つある中ではあるんだけど、
そうしてんで言うと、そういう流行ってるものとか、みんなが面白いものを見るっていうのは、すごく大事だし、面白いんだな、だし、実際面白いんだなっていう意味で、
チェンソーマンについての話
そうするとやっぱりアニメだったりとか、漫画とかっていうものって結構、読むはするんだけど、自分で探して読むみたいな、面白いから読もうと思うみたいなことってあんまなくて、だからちゃんとはまるだよね。
そういった意味では、アニメ見て面白かったから、原作にすると4巻ぐらい。
はいはいはい。
やっぱり短いんだ。
14巻まで出てるから、今だったらアニメ見て、チェーンソーマン見た、他の人とも見たよって話ができるみたいなところで満足してたんだけど、ちゃんと楽しむ。
アニメ良かったら原作も読もう、全部読んだんだけどとか、そういうのが多分なかったんだよね。
という意味で、一つ、それを一個一個やってるのに楽しみだったりとか、好奇心とは何かみたいなものを見出しているっていう、すごい、ある人からしたら滑稽な話なんだけど、そこは面白かった。
なるほどね。それに気づきながらチェーンソーマンを読んでいると。
そうそう。だからどっちの面でも面白い。なるべく感覚で楽しもうとしてるし。
その感覚で何だろうっていうのをちゃんと、できれば言語化というか、捉えようとしてるみたいな感じかな。
すごいごめんね。話長いけどね。個人的な話が長かったんだけど、さよならえりの話が長かったんだけど、でもそう。意味で言うとそう。
はいはいはい。やっぱりそうなってくると、いろんな方に触れたときの感じ方とか、やっぱり表現も変わってくるだろうから。
そうやって僕らも変わっていく中で、このラジオも色々変わっていくというか、ついてくると面白いですよね。
そうだね。それも、切なくも一つって感じは個人的にはするからね。受け入れとしてはね。
そうだよね。分かってくるとか、いろんなことを聞いていく中で、感じ方も変わるだろうし、今はそこら達だったら全然違う話になるだろうから。
はいはい。まあそうだね。それは前はあったけどね。
ちょっと最初の方やり直したい。音質的にも内容的にもね。いつかね。
なんかね、そんなこともやりながら、今回第100回記念というところで、少し僕の話について話すというのでやらせていただいたんですけど、
また次回から引き続き、林在という人をテーマにして、仏教の中の善という話を、ちょっと皆さんにもお伝えしていきたいなという風に思ってますし、
この後はね、どうしようかな、一回ちょっと腐るとかに、また西洋の方に戻って、そこから前回お伝えした中国の老子とか、僧侶。
こうやって、横にちょっと飛びながらやっていったりとか、途中でちょっと現代哲学を挟んだりとか、ちょっとそんなことも構想としてはあって。
ああそうなんだ。はいはい。
でも、割と向こう半として、僕がやりたいことがいっぱいあるので、ソレ哲学はまだまだ続いていきますので、是非お楽しみにという感じでございます。
はい、そうですね。哲学を中でもいろんなところに行きながらフラットな、哲学もフラットにというところでね、楽しんでいければと思いますので、
はい、じゃあ、次に続きによろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
♪~
43:56

コメント

スクロール