00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回も引き続き、西田幾多郎さん、やっていきたいと思います。
はい。前回ですね、2番目のキーワード、自覚っていうものを使ったんですけれども、
これがね、純正経験から始まって、経験と判断というものをどう統合するかとか、
そういったものを考えた時に、自分が自分であるという経験とか判断というのは、
実はそれって一個の繋がりを持って考えられるということを前回話したと思うんですよね。
なんか、経験だけじゃないよねっていうね。経験と判断一つのセットでよろしくっていう感じだったね。
よろしく、これでいきたいっていう感じなんだけど、そこで新たに出てきたボスっていうのが、この意識というものでしたと。
これも繰り返しになっちゃうんだけれども、西田さん、観念論っていうところを最初大事にして、
後半、後世とかは、ちょっとそこからまた離れるとかもあるらしいんだけど、
この時期は結構観念論とか心っていうものを大事にするんですよね。
なので、世界っていうのは意識が現れたものですよという感じなんだけど、
意識する意識とか、意識というものを何か返り見ようとする、反省しようとすると考えると、
どうしてもやっぱり別れちゃうよね、と。
どうしてもならないよね、というふうなことにぶち当たっちゃうんだよね。
どうするかっていうと、やっぱり西田さんが取ったアクション、いろんなアプローチがあるんですけど、
いろいろ考えたんですけど、この意識とか、要はそれって何かを判断する、経験する、返り見るとかって、
そういうふうな推揚をまとめてるんだけど、それを飛び越えちゃいましょうと。
飛び越える、ほうほうほう。
飛び越える。要は意識の根底にさらに別の意識っていうものを求めちゃうと日長さちもいかないんで、
違う見方ってできないのかなっていうふうに考えるんだよね。
それが言葉としては、まずわからないと思うんだけど伝えると、意思ですと。
意思?ほうほうほう。
意思。何だろう、willとかっていうのが英語だと、何かする意思があるとか。
前回の言葉、最後だけちょっと増えたんだけど、絶対自由意思っていう言葉ちょっとだけ出たんですけど、
この意思っていうものが、この意識。意思と意識って言いにくい、分かりにくいね、耳で聞くと。
03:04
ちなみにしかも漢字で言うと、意味の意に志のほうの意思だね。
っていうふうなそういうものを導入しますと。
なんじゃいって話だと思うんですけど、ちょっと説明していくんですけど、
例えばそういう何かを知ろう、意識しようとかでもいいんだけど、
そういうしようっていう言葉とか、そこには必ず意思が含まれてるねと。
ほうほうほう。
つまり意識する意識っていうものを、何か思考とか理性で何かっていうふうにやっておくと難しいんだけど、
まず感情というか心の動きとして、その意識するみたいなことにも、当然その意識をしようとする心、そこらへんがすごくややこしいんだけど、
意識するという意思っていうものが働いてるじゃねえかっていうことに気づくわけなんだよね。
うーん、そうなんだ。
もっと言うと、別の哲学者、西洋の哲学者とかも言ってたらしいんだけど、
ニーチャーとかもそうかな。ニーチャーとかもやっぱり、人っていうのは意欲とか力みたいなものに動かされていると。
僕らが何かを知ろうとか聞こうとか、そもそも意識しようっていう、そういう経験の奥には常にそういう意思の力みたいなものが支えてるっていうことが言えるんだよね。
うんうんうんうん。
言えるんだよとか言っても、おそらく否定が難しいんだよね。
ほうほう。
どうだろう、この辺ちょっと考えてみほしいんだけど、
例えばじゃあリンゴ、自分がリンゴを見るという時に、経験とか判断っていうものが根底にあるっていうのは前回お話したと思うんだけど、
さらにその奥に、そもそもそういう判断をしたいと思うみたいなこととか、
それは何か前向きにしたいかどうかを置いといて、
判断をするというふうな心持ちとか、リンゴを見るというふうに思った心持ちとか、
そういうのがありそうだなっていうのはなんとなくイメージ湧くんじゃないかと思うんだけど、どうかな。
まあそうだね、それはわかると思う。
いわゆるこれはどっちが先かみたいな話になっちゃうんだけれども、
名前がついている物事っていうものは必ず人たちにとって何らかの意味があるもの。
06:05
そうだね、はいはいはい。
だからそういう名付けようっていう意思がないと名付けないわけで、
そうだねそうだね。
っていう意味でそう思うかな、わかるかなっていう感じかな。
そうだね。
だからリンゴにせよ、例えば別にリンゴ好きだろうが嫌いだろうが、
とか別に意識してないから、自分に関しては別にリンゴ見ようと思ってねしとも言えるんだけれども、
そういう時限の話じゃなくて、もうなんかリンゴっていうふうに名付けられてる時点で、
リンゴっていうものは食べれるよねとか、赤いよねとかめっちゃ目立つよねとか、
いろんな物が含まれちゃってて。
そうだねそうだね。
それに対して好き嫌いっていうのはただの反応でしかないから、
それも好きも嫌いもどっちも意思でもあるし。
そうだね、そうそうそう。
だからそこを突き詰めていくというか、
掘っていくとさっきの、結局もう誰かが名付けてる時点で、
もう一心が込められてるじゃんみたいな、その結果じゃんみたいなふうに思うのかな。
そうそうそうそう、確かに確かに。
そうね、これまでさ、経験判断意識とかって、どんどん奥底に来たんだけど、
さらにその奥を掘ったら、どうやら意思というものがありそうだってことに気づくわけなんだよね。
そうするとさっき言った意識する意識みたいなボスも、
これは意識するというふうな、やっぱりその根底にも当然意思があるし、
その意識を変えりみて、それを何か意識しようとする。
まずラベルをつけようとすることにも当然意思がありますと。
だからその根底には、両方意思というものは共通になるから、
その意思というものが、より自我と自我の間に自覚があったのと同じような感じで、
意識と意識の間に意思がある、というふうに彼は考えますと。
その意思を絶対自由意思っていうちょっと特殊な言葉で使うんだよね。
はい、どうでしょう?
ここまで聞いただけだと、ちょっと後戻りしてない?って思っちゃう。
なるほどね、後戻り。
っていうのが、意思って言った瞬間にだいぶ個別的なものに戻っている感じがするんだよね。
普遍的なものに進んできてさ、無限側みたいな感覚にいたのに意識とかね。
意思って言った瞬間に、あんまり無限のものが想像できなくて、
それぞれの個別の意思みたいなものを想定しちゃうかな、なんか。
09:03
はい、どっちか。ありがとうございます。
そこはね、逆に僕は、この意思みたいなものが持ち込まれると、
すごく神みたいなものを想像しちゃうと思ったんだよね。
例えば、ウパニシャットとかやったと思うんですけど、
ブラッフマンとかっていうのも、絶対的な存在のブラッフマンっていうものが、
例えば自分は、あろうと思って世界が生まれたとかさ、
ウパニシャットとかその前のベーダーの時の神話で、そういう風な話をしたの覚えてるかな。
わー、そんな感じだったっけか。
そうそう、世界を生もうと思ったから生まれたとか、
自分が何かになろうと思ったから水になったとか火になったとか、
そういう話をした記憶があるんだけど、
そういう感じで、ある種無限の意識みたいなものが、
何かそういう意思を持って事故を限定すると、
そういう自覚された意思が出てくるみたいな感覚なんだよね、これって。
うーん、そうなんだ。
個人の意思というよりは、ある種世界の意思みたいな感じになっちゃうんだけど、
そうすると神みたいな話にどうしてもなっちゃうんだよね。
うーん、まあそうだね、そっち考える。
そうすると人間はそれで作られたものみたいになっちゃうのか、そうすると。
そうそうそう、意識から生まれた意識の一つが人間と名付けられているみたいな、
人間とラベリングされているみたいな、そういう話だよね。
そういう話になっちゃうのか、はいはいはい。
ここまで来ると個人をある種超えちゃって、
天的なものとかより大きいものの意識とか意思みたいなものを考えてるんだけど、
これ自身を西谷さん自身は、ある種ポジティブに捉えている部分とネガティブな部分があって、
ポジティブでいうと、ある種そういう考えるとか、そういうふうな何かを判断するとか、
そういうところでやっぱり発せられない深さっていうところに、
やっぱり意思があるんだ、そういうふうな極限的な概念というものが意思なんだっていうふうに、
そういう意思っていうものをやっぱりやっと取り付いたっていうふうに思ってる部分もあるんだよね。
うんうんうんうんうん。
やっぱりやっとここまで来たっていう思いはあるんだけど、
一方でやっぱりそういうなんかもう人知を超えたものというか、
なんかよくわかるところで踏み込んじゃったってことはやっぱり気づいてて、
実際これも西谷さんが書いてるらしいんだけど、
いわゆる戦いに敗れたみたいな、刀が折れて矢も尽きて、神秘、神様みたいな、
12:01
そういう軍門に下ったみたいな、そういうふうに言われてもちょっとしょうがないかもねみたいな、
そのぐらい言ってるらしいんですよね。
わー、徹底的に自覚的度はあるんだね、その辺は。
今自分がやってることに対してね。
意識する意識を超えようと思って頑張って、どうにか意志って思いにたどり着いたんだけど、
これってやっぱりみんな納得しないかもねみたいな、
でも今の自分でこれしか見えなかったみたいな、そういう感覚なんだと思うんだよね。
はいはいはい、なるほど。
そういう意味では個別的っていうよりは神に近い方になっちゃうんだね。
なるほどな、ちょっと若手的だと思う。
宇宙意識による宇宙意識みたいな感じになっちゃうから、
なんかちょっとSFチックになっちゃうよね、そういうふうに言っちゃうと。
そんなところで、前回も言ったけど、自覚って割り付いて頑張ったんだけど、
やっぱりこのロンリーって全部を片付けるとか、
世界を哲学っていうもので、保養文化を哲学で競づけるというところまではやっぱりやり切れたかっていうと、
うーん、やり切れてないかもみたいな、こういうような状況なんだよね。
はい、なるほど。
ここまでで2段階目の自覚の旅が一旦終わるんだけど、
彼はですね、あらさめて哲学を学び直すんですよ。
へー、そうなんだ。
哲学ってもちろん自分のものを考えてもあるんだけど、
自覚ってものを考え出したから、その本が出たときに、当時47歳だったらしいんだけど、
ここからさらに10年かけて、あらためて哲学を古代ギリシャから紐解いていくらしいんですよね。
へー、すげー、そうなんだ。
アボハラ州、ジャンプでいうと修行期間だよね。
ワンピースを2年間修行してましたみたいなやつ。
あれを10年やるみたいな感じなんだよね。
わー、すごいねー。
すごい、そう。
で、やっぱりたどり着くというか、見つけるんですよ。
何を見つけるかっていうと、これが自分の問題の鍵になるかもしれないとか、
ここからインスピレーションが湧くかもっていうのが、なんとやっぱりまさにプラトンとアリストフレーズなんだよね。
んー、どうなるんだ?
そう、中西さんがこのプラトンとアリストフレーズを手引きにして、3番目の場所という概念に移ってくるんだけど、
まずプラトンからなんだけど、これ実は結論めいて話なんだけど、
この場所場所ってずっと言ってると思うんですけど、この場所っていう概念も直接プラトンから引っ張ってきるんですよね。
15:02
えー、そんなに影響受けてるんだ。
そうそうそう。プラトンがそういうことを言ってるっぽいっていうのが見つかったというのがあって、
これがプラトンからちょっとだけ触れたんですけど、
ディマイオスっていう本があって、これがデミウルゴスっていう神様っていうか、
そういう存在があって、それが宇宙を作るぜみたいな、そんな物語なんですよね。
あー、ちょっとやったよね。
やった記憶ある?デミウルゴス。
デミウルゴスっていう人っていうか、デミウルゴスさんは、
プラトンなんで、ゼンのイリアとかいろんなイリア、まさに本質みたいなものから宇宙を作ってる時の媒介者みたいな感じなんだけど、
実はここに、空間とか場所っていう意味のコーラっていう言葉がらしくて、
このコーラっていう要素が重要だっていう話があるんですよね。
へー、はいはい。
どこかというと、イリアから宇宙を作りますよっていう時に、
当然イリアっていう、何か工房みたいなもののイメージが欲しいんだけど、
何かを作った時に当然、いわゆる作業台みたいなものとかさ、
作ったものが生まれる場所みたいなものが必要なわけじゃん。
はいはいはい。
っていう時に、何らかの空間的要素っていうのが必要だっていう風にプラトンが書いてるらしいんですよね。
なので、それはコーラはイリアではないんだけど、
イリアが立ち落とるとか、イリアが働く度には必要かけた要素なんで、
その意味で例え話として、イリアっていうのは父なんだけど、
コーラ、場所とかっていうのが母で、
一切の宇宙とかそこから作られたものっていうのは子だみたいな、
そういう風に言われてるらしいんだよね。
いやー、プラトンはプラトンでやべえやつだね、やっぱりね。
いやー、すごいよね、こうやって聞くとさ。
なんだか厳密なんだね、本当にね。
そうそうそうそう。
その辺だってね、イデアやから、
ものが生まれますでいいじゃんみたいな話にならないんだね。
そうそうそうそう。
そっちはそっちで。
そこにちゃんと考えて埋めてるんだよね、穴を。
うん。
それをある種ディズダさんは再発見をして、
このコーラ、場所っていう概念っていうものを、
自覚っていうものに適応できるんじゃないかと。
使えるんじゃないかっていう風に考えたんだよね。
なるほど、なるほど。
うん。
これちょっと前回ね、僕口走っちゃったんだけど、
前回その事故が事故を見るとか、また自我が自我であるみたいな、
そういう言葉を使ってきたじゃない?
うん。
で、これに足りないものがあるじゃんって気づくわけよ。
ほうほうほうほう。
なんだと思う?
いや、まぁ場所ね。
ははははは。
18:01
場所でしょ。
正解。
今回、場所の話してるんだから。
なんだけど、要は、事故が事故を見るっていう時に、
まさにどこでって話があるんだよね。
はいはいはい。
これがある種言葉にすると、
事故が事故において事故を見るっていう、
事故においてっていう場所の感覚?
はいはいはい。
そういうのがあるんだよね。
わー、すごいね。
今そのプラトンとこの、なんだろうな、
父母みたいなさ、話が出てきた時に、
このその、プラトンなんてさ、ほらあの、
アイスとテレスもあってやるともう、
どっちかって言うともう二言論的な方のヒットを見てる人たちの話を引っ張ってきて、
本当にそうです。
西田さんはその、どっちかって言うとその、
なんていうの、一言論的な?
世界観でやろうとしてるのに、
どう適応するのかなと思ったんだけど、
はい、なるほどね。
なるほどねって思った。
そういうことね。
事故が事故において事故を見るっていう、
こうするんだ。
そうそうそう。
こうする。
こうするとこの場所っていうものを使って、
まさに一言論だけの世界観をつけるじゃないかと。
まあ、イデアとモノはもちろん分かれてるっていうのがプラトンなんだけど、
そこに場所っていう概念があるってことは、
一気通貫できるじゃんっていう方を取るんだよね。
うわー面白いね。
絶対プラトンはそう言わないよ。
そうそうそう。
プラトンは絶対言わないんだけど、
西田さんはそこを持ってきて言います。
そうだよね。
だってせっかく分けたのに戻すんじゃねえよっていう話だよね。
ちゃんと分けたのに。
そうそう。
そう、考えたのにっていう感じなんだけどね。
これはすごく面白くて、
よくよく考えてみると、
確かに事故は事故を見るのもいいし、
自分がリンゴを見るのもいいんだけど、
これっていうのは何らか空間の上の経験なんだよね。
言われればそうだけど、
もうそういう話だね。
気づかないじゃん。
それこそコロンブツの卵みたいな話でさ、
そりゃそうなんだけどみたいなね。
こうなってくると、
自覚とか意志とか一生懸命考えたんだけど、
別にそれを考えなかったとしても、
まさに見られる事故とか見る事故ってあったときに、
それが同時に存在してある場所っていうのが、
自分だよねって言えたりとか。
意識する意識とかっていうとこも、
そういう空間とか場所みたいなものがあるじゃん。
別に抽象概念なわけじゃないんだから。
場所っていうのを共通項として根底に置くようになるんだよね。
なるほどね。
散々自覚とか意志とか考えて、
根底はなんだ、根底はなんだって言ったんだけど、
場所でいいじゃん、行けるじゃんってなったっていうのが、
この場所っていう概念の築きです。
だいぶ自由度上がるじゃんっていうね。
21:02
別に場所の奥に何があるかって別に考えなくていい。
でもそういう空間というか場として定義してるわけだから、
その場はなぜ出てくるんですかとか別に言えるんだけど、
それはそれの問題で解けばいいから、
あえて奥に奥に行き続けるっていう必要がなくなってくるんだよね。
はいはいはい。確かに。
そこから先に掘る必要がなくなるんだよね。
そうそうそう、なくなる。
場面設定をちゃんと使いましょうっていうのがあるんだよね。
奥って言うと場所っていうものがある。
場所がなかったらそもそもイデアはものにならないし、
自分が自分を見るみたいなことも生まれてこないわけですよ。
だから場所っていうのは単なる空間とか舞台じゃなくて、
まさにそこから荒いものが生じてくるような、
そういうふうな、まさに根源的な領域とか、
前回意識って言ったけど、
場所っていうそのものが、
いろんな物事とか経験とか、
そういったものを生み出している、
そういう領域なんですってことを言うんだよね。
わー、これ興奮しただろうね、10年越しに。
やったと思う。
西田さん純粋経験から始まった世界観が、
一旦この場所っていう概念でガチッと土台で、
一番根源のところにたどり着いた感覚ありそうだね。
おー、感じるそれ。
本当そうで、西田さん自身が場所っていうものにたどり着いて、
知り合いの手紙とかにやっと自分の言い出ことが言えた気がするみたいな。
ずっとこういう感覚を持ってたんだけど、
語れない、言葉にできないって思ったのが、
やっとこの場所コーラっていうものを使うと、
説明できるような気がするっていう風に言ってらしいんだよね。
場所っていうのもとはいえ、
日常的な言葉なので、いろんな意味合いになっちゃうから、
これを限定して、絶対無の場所っていう風な言葉がします。
絶対無、無、無いか。
絶対の無い、無いの無なんだけど、
これ絶対無ってなんじゃいって話なんだけど、
ある種、関わってなくって、
西田さんは常に一言論で物事を語りたいですと。
語るときにどうしても言葉って二言論的になっちゃうんで、
なんとかそれを一言論的に表現したいっていうものなんだけど、
完全に無とか無いとかって言ってしまうと、
ある、無いとか有無っていう風に比較されちゃうじゃない。
24:01
なのであると反対としては無いじゃなくて、
あるとか無いとかを超えた、
そういう存在を超えた次元。
それを想定して絶対無って言葉を使ったってことらしいんだよね。
かっこいいなあ、ロマサガとかRPGに出してほしい。
注意心が優れる言葉だなあ。
次は絶対矛盾的事故通りとかもやっぱり多いじゃんってなるんだけど、
そういう、
普段僕らが使っている言葉では表せないものとか、
たどり着かなかったものを表現しようと思ってちゃんと使ってるっていう感じなんだよね。
そういう意味ではさっき言った、
全てがそこから生み出されるとか、
あるとか無いとかを超えているっていう意味では、
老子のタオルに近い、万物の根源みたいな。
ただ万物の根源って言えるかっていうと、
そもそも何か一つの物ってわけでもないから、場所だからね。
そうだね、万物の根源って言うとやっぱり物が先にありきみたいになっちゃうから、
そこは徹底的に違うんだろうねっていう感じはするよね。
まさにまさに。やっぱり存在すらも超えているっていう意味では、
どうぞ万物の根源ゲームとも違うみたいな感じもあるんだよね。
というのが、絶対矛盾の場所みたいな言葉になっております。
それで絶対矛盾って言葉になった時に、
いま兄貴は絶対矛盾って存在を超えてるねとか、
そういうのが結構すんなり受け入れてくれてるように感じるんだけど、
そこがあんまり違和感ないのかな、これまでの話で。
今回徹底的に、最初やった純粋経験的な世界観、
その方向から見ようっていうところに決まっていて、
そうするとこの絶対矛盾の場所っていうものが、
当初西田さんが考えていた純粋経験みたいなものを含んでいるとすると、
やっぱり概念、イメージはそんなに離れてないというか、
物が何もないって言われたとしても、
さっきのプレトンのデミエルゴスの話もあったから、
やっぱり絶対無の場所ではあるんだけれども、
そこからいろんなものが生まれてくるんだろうなっていう。
さっき言ったタオとも違くて、いろんなものがごちゃごちゃごちゃって、
めっちゃあるとか、あと前回タトゥー出してしまったんだけど、
素粒子的な、何かがワシャワシャワシャってあって、
27:02
やっぱストロボがあったら出てくるみたいな。
とも多分少し違うというか、タオよりは近いかもしれないんだけど、
だから完全に無って言われてもあんまり違和感ない。
調節面がちょっとうまくできないけれども。
でもわかるというか、今の兄貴の話は実在論がつかんでるのかって話をしていて、
プレトンとか素粒子はまさに実在論。
素粒子という物質があって世界ができているとか、
リリアという存在があって世界ができるっていうのは、
実在っていうところから世界を始めてるから、これが実在論なわけなんだよね。
ミシアさんはここで観念論だから、存在っていうところは前提にしたいんだよね。
っていうのが結構大きな哲学の考え方にあるんだけど、
場所っていうのはまさに言ってくれる通りで、
何かがこの倉庫みたいなところで何でもありますみたいな場所じゃなくって、
とにかく空間っていうか、
あらゆる可能性を含んだ領域みたいな、そういう点しか表現できないんだよね。
その領域からできたものが存在だったりするし、
意識だったりするし、人間だったりするしっていうふうに、
まさにあらゆる可能性を含んだ場所、絶対的な場所、
これしか言えないようなものを想定しています。
それって存在かと言うと、存在すらも超えてるみたいな感じで言わなきゃいけない?
そうだよね。それがあるって言った瞬間に、
何論?
実在論。
実在論かな?
そっちの方になっちゃうからってことだよね。
そうそうそうです。
ここでも結構ややこしい。
何かが実在していますかって、よく考えないけれども、
一生あさってそこを考えて、純粋経験であっても、
近く身分の、要は音が物事で現れる前の経験みたいなことを考えると、
存在よりも根底にあるようなことが始まってるからね。
これ何かの時にやったかな?
誰だっけかな?
デモクリトスとかの時かな?
いわゆるアトムを想定した時。
アトムとそれ以来の場所、無の場所みたいなのを想定してるよね。
想定してるしてる。
でもそれだとアトムがあるから実在論的ではあるんだもんね。
30:02
それは完全に実在論だね、実は。
原子論はそうなんだよね。
そこに空間とかっていうのは確かに考えてるのは一緒というか、
空間もあるって言っちゃってるんだもんね、たぶんね。
アトムと空間がある。
そう、アトムと空間があるっていう実在論なんだよね。
西田さんはアトムもないし、空間という存在もないけれども、
そういう領域はある。
あるというか領域が、
なんていうタイトルだろうね。
日本語のあるって言葉が難しいよね。
そう、領域を場所と呼ぶって話なんだもんね。
だから西田さん的にはね。
あるじゃなくて場所と呼ぶ。
呼ぶ。ラベルをつけましたって言ったことだね、本当に。
しょうがないけどね。障害期までラベルをつけましたよ。
あれ置きでって。
エグな話なので、それは難しいし、
それは言葉では説明しにくいよね。
無理だよね。確かに無でもないね。
だからさっきのデモクリとして言うと、無もあるみたいになっちゃうから。
あ、そうそうそうそう。
それと何でも置いていい空間とかとはまた違うんだもんね。
そうです。
その感覚こそが東洋的ではあるのかな、もしかすると。
それもあるね、やっぱり。
やっぱり、これもちょっとね、もし海外に来たら教えていただきたいぐらいの気持ちだと思うんだけれども、
やっぱりその根本的に何も、
そういう根源がないみたいなところとか、
無からやっぱり有が生まれるみたいな感覚っていうのは、
どうにもやっぱり理解、もちろんね、僕らも理解できてるかって言ったら難しいけど、
別にそこにめちゃめちゃ違和感は感じなかったりするじゃない?
なんかそういうこともあるよな、みたいな。
だしそれが、いわゆるその、東化交換的な?
世界観無視してるかと言われると別にそうでもないみたいな感覚だよね。
そうそうそうそう。
なんだけど、やっぱり特にヨーロッパというか、
キリスト教圏の方たちなのかな?からすると、やっぱりそこの違和感がすごいらしい。
これもなんかね、僕も一人、二人ぐらいに知り合いに聞いて、
フランス出身の方とかに聞いて、
やっぱりそういう方は日本好きだし、禅とか学んだりするから、
なんとなくわかるようになったよとは言ってくださるんだけど、
やっぱり違和感は拭えないっていうことはあるらしいんだよね。
もし身近にそういう大学のお友達がいるよとか、
むしろ自分自身がそういう文化に触れて、
日本人とかもしかしたら海外で生まれてる方もいらっしゃると思うから、
あったらぜひ教えてほしいなーって思う。
33:03
教えてほしいなーって言えるほど簡単に言語化できる部分じゃない気もするけどね。
でも違和感があるかとか、無から有が生まれるとかっていうときに、
違和感感じますか?ってところだから。
逆に別に全然純日本人ですけど、めちゃめちゃ違和感ですみたいな人もいると思うし。
でも確かに難しいよね。
じゃあ逆にその違和感の無さを説明しろって言われたら結構難しいもんな、確かに。
そうなんだよね。
じゃあ無から有が生まれておかしいじゃんって言われたら、確かにおかしいんだけどね、みたいな。
でもやっぱりそこを考えると仏教が強いんだろうなと思っていて、
やっぱり空とかって言ってる通りで、別になくても世の中は成立するんだと。
じゃないからこそ成立するんだっていう話だよね。
そういう縁起、働きとか、そういう相互依存的な関係であれば、
根源的なものとか、そういう唯一の始まりの存在とかがなくても、
別にこの世界っていうのは成り立つよねっていう話はできるから。
あー、そうだね。確かに確かに。
その考え方で言うと、
いわゆる物があるないも、やっぱりこっちのラベリング次第だから、
っていうよりは、うちらがあると思えるのはラベリングしたものしかあると思えないから、
ラベリングを取っ払っちゃうと何もないよねみたいな感覚を、
ないっていう風に捉えてOKのルールにすると、
全然絶対無みたいなものが想定できちゃうなって思うからね。
そうだねそうだね。
確かにね、まさにラベリングを取っ払うっていうのはまさに、
観念論とか意識の反射で、意識はラベリングしたものだけが存在しているとか、
ラベリングをすることでこの世界って立ち現れてるっていう感覚が近いだろうね。
そうだねそうだね。
そうすると一元的なとこでも破綻しないもんね。
あるしないって言われても、
まあそうだよねみたいな話だよね。
今はそうだけど、来年は違うとかその瞬間は違うとか言われても、
まさにまさにまさに。
そういうとこなのかも。
ラベリングの付け外しというかが、
ある程度こっちなんだろうな。
自由なのかもね。
そうだねそうだね。
確かにね。
特にやっぱりキリスト教でいくと神様が作った世界とか、
神様がラベリングした世界だから、
そのラベリングっていうのは勝手に付け外しとか付け替えしちゃダメなんだよね。
そうそうそうそう。
っていうのはあるかも。
だからこそやっぱりこの存在は神が作った世界とか、
36:01
そういう何か神じゃないけど、
何かそういう本源的なものから生まれてきた世界っていうものを理解するとか、
おきなかしにいくっていう格になるんだろうね。
結構違うねやっぱそのスタンスは。
そうだね。付け外しの感覚が違うのかもしれないね。
付け外しはダメとかじゃなくて。
逆に言うとニシャラさんの純粋経験から始まって自覚から場所へっていうところも、
やっぱり少し東洋的なところをある種許したというか、
そういう場所っていうものを使うことで、
まず根源は何かとか、存在から始めるっていうところからちょっと離れちゃったかもしれないけど、
逆にその場所というものが、
ちゃんと想定できたからこそ、やっぱりちゃんと論理化できるとか、
ある種人に伝えるような世界観の橋だといくっていう感じはあるのかなと思うんだよね。
そうだね。これはやっぱ空って呼ぶのと絶対無の場所、それも同じかは別として、
絶対無の場所っていうのと、やっぱりそのアプローチは違うけども全然また違うだろうしね。
そうだね、そうそうそう。確かにね。
っていうふうなものがありますよという話なんだけれども、
実際ここからさらに場所っていうものを深掘りしていくんだけど、
これが進化の中というかまだちょっと分からないじゃない?
確かにすごい発展してるなっていう感覚とか、
自覚とかからもう一歩進むなっていう感じに兄貴は言ってくれたんだけれども、
本当にこれで東洋文化を伝え続けるのか、できるのかっていうのはまだ分かりませんと。
そうだね。結局感じろみたいになっちゃいそうな気もするし。
そうそうそうそう。
それをある種論理化していくっていうのが、
要は西田さんが今からやったことで今から説明しようとしてもたんだよね。
あー良かった良かった、ちゃんとやってんだ。
一回ちゃんと山を登って場所っていうところまで辿り着きましたと。
さらにまた山から降りてきて、場所っていうものでちゃんと説明できますよっていうのを、
ある種我々、世の中の人々に伝えようとしてくれてるみたいな。
すごい、そこをもう一回ちゃんとやってくれてるんだね。
純粋経験とかでもやろうとしてた、これで全部説明しますって。
そういうのを場所っていうところからやっていきますと。
で、実はそこに出てくるのが、さっき名前で出したんですけど、アリストテレスなんですよね。
あーそっか、ここで出てくるのか。
そうですね、10年で学び直して、プラトンとアリストテレスからある種インスピレーションを受けましたよと。
39:01
プラトンからは甲羅、場所っていうふうな概念をある種変えてきてやってるんだけど、
これを説明する場所っていう概念を、ある種論理化していくときに、
ある種アリストテレスの方法論っていうものを使おうっていう感じになってるんだよね。
なるほど、そっか。アリストテレスの考え方そのものっていうよりは、三段論法じゃないけれども。
そうそうそう、そういう考え出した構造を、しかもひねって使うんだよね。
あ、そうなんだ。プレゼント先生なんだね、内容っていうよりはね。
そうだね、そうだね。
前回、ある種ボスが出てきて武器を作ってたって言ったけど、
前回召喚獣でプラトンとアリストテレスを召喚して、それで戦うみたいな、武器を鍛え上げますみたいな。
そういうことをやっていくのが、この西田さんっていう感じなんだよね。
なるほどね。
これも前回言ったけど、われわれからすると、西田さんの手伝いを理解しようとすると、
この第三形態、場所の西田だ、みたいなのが出てきて、そこにまた立ち向かないといけないんだけど、
その時にはもう、純粋経験とか自覚っていうものを倒した時の、武器じゃ立ち向かないみたいな。
そういう感覚があるんですよね。
すごいね。もう第三章ね。
第三章、第三形態。
それで来ましたよって感じだね。
第三形態とかって言うと、西田さんがボスっぽいけどね。
西田さんが変身してるっぽいな。
なんかね、やられてね。
西田さんの哲学だっていう感じですね。
ここからさらに論理化していきますというところは追いかけていくことで、
さらに哲学、西田さんの世界というものを深めていく、泳いでいくっていう感じなんですけど、
ここまで来ると正直ついていきにくいよとか、ちょっとわからんっていう人もいるかなと思っていて、
大きなところで言うと、もちろんね、真の存在とか実在というものを説明したりとかっていうものはあるんだけれども、
やっぱりそういう人間ドラマではね、やっとこんな壁にぶつかって、
ある種崩れた、いやもう折れた、力も尽きたって思ったけど、
こういうふうにやっぱり乗り越えていきましたよみたいな、
そういう向き合い続けた人としての冒険があるので、
そういうものをある種楽しんでいただくというか、
西田さんの人としてのすごみみたいなものを感じていただけると、
42:00
嬉しいなと思ってますっていう感じなんだよね。
まあそうだね。今回もだってね、簡単に言ったけど10年間哲学学んでんだもんね。
そうです。
10年だよ。
しかもだよ、教題の哲学教授としてキャリアが始まっている、
人に教え立ち場の西田さんがまた学び直すっていう話だからね。
普通に仕事をしながら、自分でそういう研究を深めてるって話なんだもんね。
これもエピソードだったんだけど、西田さんが大学で講義をした時のエピソードが、
学んだ人が残したのがいくつかあるらしいんだけど、
そういう思い出がありましたっていう話で、一度こういうことがありましたと。
それはいつもの通り、西田先生が熊のように教団のように行ったり来たりして講義されていたもんですが、
途中で話が止まってしまい、すばらく黙って考え込んでおられると思ったら、
急にわからんと言われ、講義をやめてさっさと帰ってしまわれたもんです。
そこで私たち学生は呆然として、むしろすごいと思って、わからんということに感動して教授に出たのでしたみたいな。
で、エピソードが残ってるらしいんだね。
ダメじゃん。仕事してないじゃん。ちゃんと仕事しようよ。
違うんだよ。手伝う教授はこれが多分、今の講義の方はやったらどうなるかわからないけど。
背中を見せてる場合もあるよね。
そうそう。たぶんクレームが教務課とかに入っちゃうんだけど。
どうなんだろうね。難しいところだね。
哲学を学ぶ者としては、その姿を見て感動、嬉しいというふうに、逆に怒られてほしいんだよね。
確かにね。やっぱりわからないということが、むしろそこに真摯に向き合っていることはすごい話だよね。
難しいところだね。
強烈だよね。
そこで教わるのは、哲学じゃなくて哲学の姿勢を教わってるよね。
哲学者としては生き方は生き様だよね。
なるほど。
これは大先生の授業ですよ。
そんな話について最後、余談も含めましたけれども、
次回ね、アイスフェレスから持ってきた場所というものの論理化、それをどういうふうに説明していくかという話ですね。
これもひとつ字なのでは行かないんだけど、
ああ、そうなんだ。
なんとか。
言葉で伝えられる、要は言葉で分かるように伝えましたという話と、
45:01
それを受け取って分かりますという話はまた別だからさ。
はいはいはい。
でも、とはいえ信じるところから一歩進んだねみたいなところはあるんで。
おお、すごいね。
それをなんとか伝えたい。
ちょっとまだ台本ね、これも結構何段で頑張って作ってるんですけど。
あそこ読み込んでるんだもんね、今ね。
頑張って読み込んで、3回ぐらい読んであがこうかなみたいな感じでやってますので、
ぜひですね、そういうところも含めて楽しんでいければなと思っておるという感じですね。
西田さんの魅力、かっこよさがだいぶ伝わってきたのでね。
そういうのも含めて、内容も含めて引き続き楽しんでいけたらと思います。
では、次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。