1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #289 重要なのは主語か述語か..
2025-02-02 46:06

#289 重要なのは主語か述語か?アリストテレスに触発される西田幾多郎

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、西田幾多郎の思想を通じて、意識と意志の関係を探り、経験と判断の統合について語ります。また、プラトンやアリストテレスの概念がどのように西田の哲学に影響を与えたかに焦点を当てています。さらに、アリストテレスやプラトンの思想に基づき、西田幾多郎の「場所」概念がどのように自我や意識に適応されるかを探ります。絶対無や純粋経験の観点から、物事の根源を考察し、知識の深まりを追求します。西田幾多郎は、存在の理解において主語と述語の関係を論じ、特に東洋的感覚に根差した無から有が生まれるという考え方の重要性を探求しています。彼の哲学は、空間や場所の概念を通じて論理化と説明のプロセスを進めることに挑戦しています。また、西田の哲学におけるアプローチや教え方についても展開され、「わからない」という姿勢が哲学者としての重要性を示しています。次回は言葉の論理化についての考察が予告されています。

意識と意志の関係
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続き西田幾多郎さん、やっていきたいと思います。
はい。前回ですね、2番目のキーワード、自覚っていうものを使ったんですけれども、
これがね、純正経験から始まって、経験と判断というものをどう統合するかとか、
そういったものを考えた時に、自分が自分であるという経験とか判断というのは、
実はそれって一個の繋がりを持って考えられるということを前回話したと思うんですよね。
なんか経験だけじゃないよねっていうね。経験と判断一つのセットでよろしくっていう感じだったね。
よろしく、これでいきたいっていう感じなんだけど、そこで新たに出てきたボスっていうのが、この意識というものでしたと。
はいはいはい。
これも繰り返しになっちゃうんだけれども、西田さん、観念論っていうところを最初大事にして、
後半、後世とかは、ちょっとそこからまた離れるとかもあるらしいんだけど、
この時期は結構観念論とか心っていうものを大事にするんですよね。
なので、世界っていうのは意識が現れたものですよという感じなんだけど、
意識する意識とか、意識というものを何か返り見ようとする、反省しようとすると考えると、
どうしてもやっぱり別れちゃうよねと。
どうしてもやらないよねというふうなことにぶち当たっちゃうんだよね。
どうするかっていうと、やっぱり西田さんが取ったアクション、いろんなアプローチがあるんですけど、
いろいろと考えたんですけど、このね、いわゆる意識とか、
要はそれって何かを判断する、経験する、返り見るとかって、そういうふうな作用をまとめてるんだけど、
それを飛び越えちゃいましょうと。
飛び越える、ほうほうほう。
飛び越える。要は意識の根底にさらに別の意識っていうものを求めちゃうと、
日長たちもいかないんで、違う見方ってできないのかなっていうふうに考えるんだよね。
それが言葉としては、まずわからないと思うんだけど伝えると、意志ですと。
意志、ほうほうほう。
ウィルとかっていうのが英語だと、何かする意志があるとか。
前回の言葉、最後だけちょっと増えたんだけど、
絶対自由意志っていう言葉ちょっとだけ出たんですけど、
この意志っていうものが、この意識、意志と意識って言いにくいって分かりにくいね、耳で聞くと。
そうね、ちなみにしかも漢字で言うとこれあれだね、意味の意に志のほうの意志だね。
そうですそうです。
っていうふうなそういうものを導入してますと。
なんじゃいって話だと思うんですけど、ちょっと説明していくんですけど、
例えばそういう何かを知ろう、あるいは意識しようとかでもいいんだけど、
そういうしようっていう言葉とか、そこには必ず意志が含まれてるよねと。
ほうほうほう。
意識する意識っていうものを、何か思考とか理性で何かっていうふうにやっておくと難しいんだけど、
感情というか心の動きとして、意識するみたいなことにも、
当然意識をしようとする心、そこらへんがすごくややこしいんだけど、
意識するという意志っていうものが働いてるじゃねえかっていうことに気づくわけなんだよね。
うーん、そうなんだ。
もっと言うと、別の哲学者、西洋の哲学者とかも言ってたらしいんだけど、
ニーチャーとかもそうかな。ニーチャーとかもやっぱり、
人っていうのは意欲とか力みたいなものに動かされていると。
僕らが何かを知ろうとか聞こうとか、そもそも意識しようっていう、
そういう経験の奥には常にそういう意志の力みたいなものが支えてるっていうことが言えるんだよね。
言ってもおそらく否定が難しいんだよね。
どうだろう、この辺ちょっと考えてみほしいんだけど、
例えばじゃあリンゴ、自分がリンゴを見るというときに、
経験とか判断っていうものが根底にあるっていうのは前回の話だと思うんだけど、
さらにその奥に、そもそもそういう判断をしたいと思うみたいなこととか、
それは何か前向きにしたいかどうかを置いといて、
判断をするというふうな心持ちとか、リンゴを見るというふうに思う心持ちとか、
そういうのがありそうだなっていうのはなんとなくイメージ湧くんじゃないかと思うんだけど、どうかな。
まあそうだね、それはわかると思う。
いわゆるこれはどっちが先かみたいな話になっちゃうんだけれども、
名前がついている物事っていうものは必ず人たちにとって何らかの意味があるもの。
だから、そういう名付けようっていう意思がないと名付けないわけで、
っていう意味でそう思うかな、わかるかなっていう感じかな。
リンゴにせよ、例えば別にリンゴ好きだろうが嫌いだろうがとか、
別に意識していないから、自分に関しては別にリンゴ見ようと思っていないしとも言えるんだけれども、
そういう次元の話じゃなくて、
もうリンゴっていうふうに名付けられている時点で、
リンゴっていうものは食べれるよねとか、赤いよねとか、めっちゃ目立つよねとか、
いろんな物が含まれちゃってて、
それに対して好き嫌いというのはただの反応でしかないから、
それも好きも嫌いもどっちも意思でもあるし、
だからそこを突き詰めていくというか、
放っていくとさっきの、結局もう誰かが名付けている時点で、
もう異心が込められてるじゃんみたいな、その結果じゃんみたいなふうに思うかな。
これまで経験判断意識とかって、どんどん奥底に来たんだけど、
さらにその奥を掘ったら、どうやら意思というものがありそうだということに気づくわけなんだよね。
そうするとさっき言った意識する意識みたいなボスも、
これは意識するというふうなその根底にも当然意思があるし、
その意識を変えりみて、それを何か意識しようとする、
まずラベルをつけようとすることにも当然意思がありますと。
だからその根底には、両方意思というものは共通にあるから、
その意思というものがより自我と自我の間に自覚があったのと同じような感じで、
意識と意識の間に意思があるというふうに彼は考えますと。
プラトンとの関連
その意思を絶対自由意思というちょっと特殊な言葉で使うんだよね。
どうでしょう?
ここまで聞いただけだと、
ちょっと後戻りしてない?って思っちゃう。
なるほどね、後戻り。
意思って言った瞬間にだいぶ個別的なものに戻っている感じがするんだよね。
普遍的なものに進んできてさ、無限側みたいな感覚にいたのに意思意識とかね。
意思って言った瞬間に、あんまり無限のものが想像できなくて、
それぞれの個別の意思みたいなものを想定しちゃうかな。
どっちか、ありがとうございます。
逆に僕は、この意思みたいなものが持ち込まれると、
すごく神みたいなものを想像しちゃうと思ったんだよね。
例えば、ウパニシャットとかやったと思うんですけど、
ブラッフマンとかっていうのも、絶対的な存在のブラッフマンっていうものが、
例えば自分はあろうと思って世界が生まれたとかさ、
ウパニシャットとかその前のベーダーの時の神話で、
そういう風な話をしたの覚えてるかな。
そんな感じだったっけか。
そうそう、世界を生もうと思ったから生まれたとか、
自分が何かになろうと思ったから水になったとか火になったとか、
そういう話をした記憶があるんだけど、
そういう感じで、ある種無限の意識みたいなものが、
何かそういう意思を持って事故を限定すると、
そういう自覚された意思が出てくるみたいな感覚なんだよね、これって。
うーん、そうなんだ。
個人の意思というよりは世界の意思みたいな感じになっちゃうんだけど、
そうすると神みたいな話にどうしてもなっちゃうんだよね。
うーん、まあそうだね、そっちで考える。
そうすると人間はそれで作られたものみたいになっちゃうのか?
そうそうそうそう。
意識から生まれた意識の一つが人間と名付けられているみたいな、
人間とラベリングされているみたいな、そういう話だよね。
なっちゃうのか、はいはいはい。
そうそうそうそう。
ここまで来ると個人をある種超えちゃって、
天的なものとかより大きいものの意識とか意思みたいなものを考えてるんだけど、
これ自身を西谷さん自身はある種ポジティブに捉えている部分とネガティブな部分があって、
ポジティブでいうとある種そういう考えるとか、
そういうふうな何かを判断するとか、そういうところでやっぱり発せられない深さ?
うーん。
というところにやっぱり意思があるんだ。
そういう極限的な概念というものが意思なんだっていうふうに、
そういう意思っていうものをやっぱりやっと取り付いたっていうふうに思ってる部分もあるんだよね。
うんうんうんうん。
やっぱりやっとここまで来たっていう思いはあるんだけど、
一方でやっぱりそういうなんかもう人知を超えたものというか、
なんかよくわかるところで踏み込んじゃったってことはやっぱり気づいてて、
うんうんうんうん。
実際これも西谷さんが書いてるらしいんだけど、
なんかその、いわゆる戦いに敗れたみたいな、
刀が折れて矢も尽きて神秘、神様みたいな、
そういう軍門に下ったみたいな、
そういうふうに言われてもちょっとしょうがないかもねみたいな、
へー、はいはい。
そのぐらい言ってるらしいんですよね。
わー、なんか徹底的に自覚的度はあるんだね、その辺は。
そうそうそうそう。
今自分がやってることに対してね。
意識する意識を超えようと思って頑張って、
どうにか意志って思いにたどり着いたんだけど、
でもこれってやっぱりみんな納得しないかもねみたいな、
でも今の自分でこれしか見えなかったみたいな、
やっぱそういう感覚なんだと思うんだよね。
はいはいはい、なるほど。
そういう意味では個別的っていうよりは神に近いほうになっちゃうんだね。
なるほどな、ちょっと若手的だと思う。
宇宙意識による宇宙意識みたいな感じになっちゃうから、
なんかちょっとSFチックになっちゃうよね、そういう風に言っちゃうと。
そうだね。
そんなところで、前回も言ったけど、自覚って割り付いて頑張ったんだけど、
やっぱりこのロンリーで全部を片付けるとか、
世界を哲学っていうもので、保養文化を哲学で基礎付けるというところまでは、
やっぱりやり切れたかっていうと、やり切れてないかもみたいな、
こういうような状況なんだよね。
はい、なるほど。
ここまでで2段階目の自覚の旅が一旦終わるんだけど、
彼はですね、あらさめて哲学を学び直すんですよ。
へー、そうなんだ。
哲学ってもちろん自分のものを考えてもあるんだけど、
この自覚っていうものを考え出したから、その本が出たときに、
当時47歳だったらしいんだけど、
ここからさらに10年かけて、あらためて哲学を古代技術者から紐解いていくらしいんですよね。
へー、すげー。そうなんだ。
アポハラ州、ジャンプでいうと修行期間だよね。
ワンピースを2年間修行してましたみたいなやつ。
あれを10年やるみたいな感じなんだよね。
わー、すごいねー。
すごい、そう。
で、やっぱりたどり着くというか、見つけるんですよ。
何を見つけるかっていうと、これが自分の問題の鍵になるかもしれないとか、
ここからインスピレーションが湧くかもっていうのが、
なんとやっぱりまさにプラトンとアリストフィレスなんだよね。
うーん、どうなるんだ?
うーん、そう。
中西さんがこのプラトンとアリストフィレスを手引きにして、
3番目の場所という概念に移っていくんだけど、
まずプラトンからなんだけど、
これ実は結論明記の話なんだけど、
この場所場所ってずっと言ってると思うんですけど、
この場所っていう概念を直接プラトンから引っ張ってきるんですよね。
えー、そんなに影響受けてるんだ。
そうそうそう。
プラトンがそういうことを言ってるっぽい点が見つかったというのがあって、
これがプラトンからちょっとだけ触れたんですけど、
ヴィマイオスっていう本があって、
デミウルゴスっていう神様っていうか、
哲学の継承
そういう存在があって、
それが宇宙を作るぜみたいな物語なんですよね。
あー、ちょっとやったよね。
やった記憶ある、デミウルゴス。
そうそうそう。
これで、デミウルゴスっていう人っていうか、
デミウルゴスさんは、
イデアね、やっぱりプラトンなんで、
ゼンのイデアとかいろんなイデア、まさに本質みたいなものから、
宇宙を作っている時の媒介者みたいな感じなんだけど、
実はここに空間とか場所っていう意味のコーラっていう言葉があるらしくて、
このコーラっていう要素が重要だっていう話があるんですよね。
へー、はいはい。
どこかというと、イデアから宇宙を作りますよっていう時に、
当然イデアって何か工房みたいなもののイメージが欲しいんだけど、
何かを作った時に当然、いわゆる作業台みたいなものとかさ、
作ったものが生まれる場所みたいなものが必要なわけじゃん。
っていう時に、何らかの空間的要素っていうのが必要だっていう風に
プラトンが書いてるらしいんですよね。
なのでそれはコーラはイデアではないんだけど、
イデアが立ち落とるとか、イデアが働く度には必要かけた要素なんで、
その意味で例え話として、イデアっていうのは父なんだけど、
コーラ、場所とかっていうのが母で、
一切の宇宙とかそこから作られたものっていうのは子だみたいな、
そういう風に言われてるらしいんだよね。
プラトンはプラトンでやべえやつだね、やっぱりね。
すごいよね、こうやって聞くとさ。
厳密なんだね、本当にね。
その辺だってね、イデアから物が生まれますでいいじゃんみたいな話にならないんだね。
そっちはそっちで。
ちゃんと考えて埋めてるんだよね、穴を。
うん。
それをある種ディズダーさんは再発見をして、
このコーラ、場所っていう概念っていうものを、
自覚っていうものに適応できるんじゃないかと。
使えるんじゃないかっていう風に考えたんだよね。
なるほど、なるほど。
これちょっと前回ね、僕口走っちゃったんだけど、
前回その事故が事故を見るとか、また自我が自我であるみたいな、
そういう言葉を使ってきたじゃない。
これに足りないものがあるじゃんって気づくわけよ。
ほうほうほう。
何だと思う?
場所ね。
場所でしょ。
今回場所の話してるんだから。
なんだけど、要は事故が事故を見るっていう時に、まさにどこでって話があるんだよね。
これがある種言葉にすると、事故が事故において事故を見るっていう。
事故においてっていう場所の感覚っていうのがあるんだよね。
すごいね。今プラトンと父母みたいな話が出てきたときに、
このプラトンなんですよ、アリストテレスもあって、
どっちかというと異言論的な方のヒットみたいな人たちの話を引っ張ってきて、
西田さんはどっちかというと、一言論的な世界観でやろうとしてるのに、どう適応するのかなと思ったんだけど、
なるほどね。
なるほどねって思った。そういうことね。事故が事故において事故を見るっていう。こうするんだ。
こうする。こうするとこの場所っていうものを使って、まさに一言論だけの世界観をつけるじゃないかと。
イデアとモノはもちろん分かれてるっていうのがプラトンなんだけど、
そこに場所っていう概念があるってことは、一気通貫できるじゃんっていう方を取るんだよね。
うわー面白いね。
絶対プラトンはそう言わないよ。
プラトンも絶対言わないんだけど、西田さんはそこを持ってきて言います。
そうだよね。せっかく分けたのに戻すんじゃねえよっていう話だね。ちゃんと分けたのに。
ちゃんと分けたのにって。
そう考えたのにって感じなんだけどね。
これはすごく面白くて、よくよく考えてみると、確かに事故は事故を見るのもいいし、自分がリンゴを見るのもいいんだけど、
これってやっぱり何らか空間の上の経験なんだよね。
言われればそうだけど、ものすごい話だね。
気づかないじゃん。それこそコロンブツの卵みたいな話でさ。
そりゃそうなんだけどみたいなね。
こうなってくると、自覚とか意志とか一生懸命考えたんだけど、
別にそれを考えなかったとしても、まさに見られる事故とか見る事故ってあったときに、
それが同時に存在してある場所っていうのが自分だよねって言えたりとか。
意識する意識とかっていうとこも、そういう空間とか場所みたいなものがあるじゃんって。
別に抽象概念なわけじゃないんだから。
っていうとこの場所っていうのを共通項として根底に置くようになるんだよね。
散々自覚とか意志とか考えて、根底はなんだ根底なんだって言ったんだけど、
いいじゃん、場所でいいじゃん、いけるじゃんってなったっていうのが、この場所っていう概念の気づきですと。
だいぶ自由度が上がるじゃんっていうね。
別に場所の奥に何があるかって別に考えなくていい。
でもそういう空間というか場として定義してるわけだから、
もちろんその場はなぜ出てくるんですかとか別に言えるんだけど、
別にそれはそれの問題で解けばいいから、
敢えて奥に奥に行き続けるっていう必要がなくなってくるんだよね。
はいはいはい。確かにそこから先に掘る必要がなくなるんだよね。
そうそうそう、なくなる。
まさに場面設定をちゃんとしちゃいましょうっていうのがあるんだよね。
で、思ったら言うと場所っていうものがある。
場所がなかったらそもそもイデアはものにならないし、
自分が自分を見ることが生まれてこないわけですよ。
だからその場所っていうのは単なる空間とか舞台じゃなくて、
自我と空間の関係
まさにそこからあれものが生じてくるような、
そういうふうな根源的な領域とか、
前回意識って言ったけど、
場所っていうものがいろんな物事とか経験とか、
そういったものを生み出している、
そういう領域なんですっていうことを言うんだよね。
わー、これ興奮しただろうね、10年越しに。
やったと思う。
西田さん純粋経験から始まった世界観が、
一旦この場所っていう概念でガチッと土台で、
一番根源のところにたどり着いた感覚ありそうだね。
感じる?それ。
うん、感じる。
西田さん自身がこの場所っていうものにたどり着いて、
知り合いの手紙とかにやっと自分の言いたいことが言えた気がするみたいな。
ずっとこういう感覚を持ってたんだけど、
語れない、言葉にできないって思ったのが、
やっとこの場所コーラっていうものを使うと、
説明できるような気がするっていうふうに言ってらしいんだよね。
はいはいはい。
この場所っていうのも、とはいえ日常的な言葉なので、
いろんな意味合いになっちゃうから、
これをちょっと限定して、絶対無の場所っていうふうな言葉がしますと。
絶対無?無、無いか。
絶対の無い、無いの無なんだけど、
これ絶対無ってなんじゃいって話なんだけど、
ある種、変わってなくって、
やっぱり西川さんは常に一言論で物事を考えたいですと、
語りたいですと、
語るときにどうしても言葉って二言論的になっちゃうんで、
なんとかそれを一言論的に表現したいって思うんだけど、
完全に無とか無いとかって言ってしまうと、
だいたいある、無いとか有無っていうふうに比較されちゃうじゃない?
なのであると反対としては無いじゃなくて、
ある種、あるとか無いとかを超えた、
そういう存在を超えた次元、
それを想定して絶対無って言葉を使ったってことらしいんだよね。
かっこいいなー、ロマサガとかRPGに出してほしい。
注意心が優れられる言葉だなーって。
次は絶対矛盾的事故通りとかもかっこいいじゃんってなるんだけど、
普段僕らが使っている言葉では表せないものとか、
たどり着かなかったものを表現しようと思って、
ちゃんと使ってるっていう感じなんだよね。
そういう意味では、さっき言った、
全てがそこから生み出されるとか、
あるとか無いとかを超えているっていう意味では、
老子のタオルに近い。
万物の根源みたいな。
ただ万物の根源って言えるかっていうと、
絶対無の概念
そもそも何か一つのものってわけでもないから、
場所だからね。
そうだね、万物の根源ってなると、
やっぱり物が先にありきみたいになっちゃうから、
そこは徹底的に違うんだろうねっていう感じはするよね。
まさにまさに。
存在すらも超えているっていう意味では、
どうぞ万物の根源ゲームとも違うみたいな感じもあるんだよね。
うんうんうん。
っていうのが、絶対無の場所みたいな言葉になっております。
うん。
そう、なので、絶対無って思ったときに、
今さ、兄貴はさ、
割とこの絶対無って存在を超えてるねとか、
なんだろう、そういうんだよね。
すごい結構すんなり受け入れてくれてるように感じるんだけど、
そこがあんまり違和感ないのかなって。
なんかこれまでの話で。
うーんとその、今回徹底的に、
最初やったその純粋経験的な世界観。
一応その方向から見ようっていうところに行きましていて、
そうするとこの絶対無の場所っていうものが、
当初西田さんが考えていた純粋経験みたいなものを含んでいるとすると、
やっぱり概念、イメージはそんなに離れてないというか、
うんうんうん。
なんかその、物が何もないって言われたとしても、
さっきのプレトンのデミュールゴスの始末から、
やっぱり絶対無の場所ではあるんだけれども、
そこからいろんなものが生まれてくるんだろうなーっていう。
なるほどねー。
ただその、さっき言ったタオとも違くて、
いろんなものがごちゃごちゃごちゃーってめっちゃあるとか、
あと前回その、例えを出してしまったんだけど、
あのー、素粒子的な?
そういう、何かがわしゃわしゃわしゃーってあって、
やっぱストロボがあったら出てくるみたいな。
とも多分少し違うというか、
タオよりは近いかもしれないけど、
その、だから完全に無って言われても、
あんまり違和感ない。
ちょっと説明が上手くできないけれど。
はいはいはいはい。
でもわかる。わかるというか、
今の兄貴の話、やっぱり実在論がつかんでるのかって話を多分していて、
えー、はいはいはい。
やっぱりその、プレトンとか素粒子ってのはまさに実在論。
素粒子という物質があって世界ができているとか、
リリアっていう存在があって世界ができるっていうのは、
やっぱり実在っていうところから世界を始めているから、
これが実在論なわけなんだよね。
ほうほうほう。
ミシアさんは、ここでやっぱ観念論だから、
存在っていうところは前提にしないんだよね。
そう。そう。っていうのが結構大きな哲学のやっぱり、
なんか肝心にあるんだけど、
に、この場所っていうのはまさに言ってくれる通りで、
何かがこの、いわゆる倉庫みたいなところで、
何でもありますみたいな場所じゃなくって、
とにかく、なんていうのかな、
空間っていうかなんだろうな、
あらゆる可能性を含んだ領域みたいな、
そういう点しかちょっと表現できないんだよね。
うんうんうんうんうん。
その領域から出てきたものが、
存在だったりするし、意識だったりするし、
人間だったりするしっていうふうに、
まさにあらゆる可能性を含んだ場所。
絶対的な場所。
絶対的な場所しか言えないようなものを想定しています。
それって存在かと言うと、
たぶん存在すらも超えてるみたいな感じで、
やっぱり言わなきゃいけない。
そうだよね。それはあるって言った瞬間に、
その何論?何論の方に。
実在論。
実在論かな。
そっちの方になっちゃうからってことだよね。
そうそうそうです。
ここでも結構ややこしい。
なんかその、
何かが実在していますかって、
よく考えないけれども、
やっぱでも、
一生あさってそこを考えて、
純粋経験であっても、
やっぱりその近く身分の、
要は音が物事で現れる前の経験みたいなことを考えると、
存在よりも根底にあるようなことが始まってるからね。
アリストテレスと西田の考え
うんうんうんうんうん。
これ何かの時にやってた?
あのー、
誰だっけかなー。
デモクリトスとかの時かなー。
あーはいはいはい。
いわゆるアトムを想定した時。
アトムと、
あとそれ以来の場所、
無の場所みたいなのを想定してるよね。
想定してるしてる。
でもそれあとアトムがあるだから、
ちょっと実在論的ではあるんだもんね。
そうね。完全に実在論だね、実は。
うん。
原子論はそうなんだよね。
そこに空間とかっていうのを確かに考えてるのは一緒というか。
うん。空間もあるって言っちゃってるんだもんね、たぶんね。
アトムと空間がある。
そう、アトムと空間があるっていう実在論なんだよね。
うんうんうんうん。
西田さんはアトムもないし、空間という存在もないけれども、
そういう領域はある。
あるというか領域が、
なんていうタイトルだろうね。
日本語があるって言葉が難しいよね。
そう、領域を場所と呼ぶって話なんだもんね。
だから西田さん的にはね。
そう呼ぶ。
あるじゃなくて場所と呼ぶ。
呼ぶ。ラベルをつけましたって言ったことだね、ほんとに。
しょうがないけどね。
障がい器はラベルをつけましたよって。
あれ置きでって、そうそうそうそう。
っていうふうな話なので、
それは難しいし、
それは難しいし、
それは言葉では説明しにくいよね。
無理だよね、確かに。
無でもないね。
さっきのデモクリとして言うと、
無もあるみたいになっちゃうから。
あ、そうそうそうそう。
それと、何でも置いていい空間とかとはまた違うんだもんね。
そうです。
その感覚こそが東洋的ではあるのかな、もしかすると。
それもあるね、やっぱり。
やっぱりその、
これもちょっとね、
もし海外とか聞いたら教えていただきたいぐらいの気持ちだったんだけれども、
やっぱりその、根本的に何も、
そういう根源がないみたいなところとか、
その、無からやっぱり有が生まれるみたいな感覚?
っていうのは、
どうにもやっぱり理解、
もちろんね、僕らもさ、
理解できてるかって言ったら難しいけど、
別にそこにめちゃめちゃ違和感は感じなかったりするじゃない?
なんかそういうこともあるよ、かな、みたいな。
だし、それが、じゃあ、いわゆるその、東化交換的な?
うん。
世界観無視してるかと言われると、別にそうでもないみたいな感覚だよね。
そうそうそうそう。
なんだけど、やっぱり特にヨーロッパというか、
キリスト教圏の方たちなのかな?
からすると、そこの違和感が、
すごいらしい。
これもなんかね、
僕も一人、二人くらいに知り合いに聞いて、
フランス出身の方とかに聞いて、
やっぱりそういう方は日本好きだし、
禅とか学んだりするから、
なんだか分かるようになったよとは言ってくださるんだけど、
やっぱり違和感は拭えないっていうことはあるらしいんだよね。
もし、短いそういう大学のお友達がいるよとか、
むしろ自分自身がそういう文化に触れてます。
日本人とかもしかしたら海外で生まれてる方もいらっしゃると思うから、
あったらぜひ教えてほしいなーって思う。
教えてほしいなーって言えるほど、
簡単に言語化できる部分じゃない気もするけどね。
でも違和感があるかどうか。
ムからユが生まれるとかっていう時に、
違和感感じますか?ってところだから。
逆に全然純日本人ですけど、めちゃめちゃ違和感ですみたいな人もいると思うし。
でも確かに難しいのは、
逆に違和感の無さを説明しろって言われたら結構難しいもんな。
そうなんだよね。
ムからユが生まれておかしいじゃんって言われたら、
確かにおかしいんだけどねみたいな。
でもやっぱりそこを考えると仏教が強いんだろうなって思っていて、
やっぱりクーとかって言ってる通りで、
別に無くても世の中は成立するんだと。
無いからこそ成立するんだっていう話だよね。
そういう縁起、働きとか、そういう相互依存的な関係であれば、
全然根源的なものとか、
そういう唯一の始まりの存在とかがなくても、
別にこの世界っていうのは成り立つよねっていう話もできるから。
そうだね、確かに確かに。
その考え方で言うと、
いわゆる物があるないも、
やっぱりこっちのラベリング次第だから、
っていうよりは、
うちらがあるって思えるのは、
ラベリングした物しかあるって思えないから、
ラベリングを取っ払っちゃうと何もないよねみたいな感覚を、
無いっていうふうに考えると、
オッケーのルールにすると、
絶対に無みたいなものが相当にできちゃうなって思うからね。
そうだね、そうだね。
ラベリングを取っ払うっていうのは、
まさに、
観念論とか意識の反射。
意識はラベリングした物だけが存在しているとか、
ラベリングをすることで、
この世界って立ち現れてるっていう感覚。
まあ、やっぱり近いだろうね。
そうだね、そうだね。
そうすると一元的なとこでも破綻しないもんね。
あるしないって言われても、
まあそうだよねみたいな話。
今はそうだけど、
来年は違うとか、
その瞬間は違うとか言われても、
まさに、まさに、まさに。
そういうとこなのかも。
ラベリングの付け外しというかが、
ある程度こっちなんだよな。
自由なのかもね。
そうだね、そうだね。
確かにね。
逆にやっぱりキリスト教で言うと、
神様が作った世界とか、
神様がラベリングした世界だから、
そのラベリングって、
勝手にね、
付け外しとか付け替えしちゃダメなんだよね。
たぶんね。
そう、そう、そう。
だからこそやっぱり、
この存在は神が作った世界とか、
そういう何か神じゃないけど、
何かそういう、
本源的なものからやっぱり生まれてきた、
世界っていうものを、
やっぱり理解するとか、
おきなかしにいくっていう格になるんだろうね。
うんうんうん。
うん。
結構違うね、やっぱりそのスタンスは。
うん、だね。
そうだね。
付け外しの感覚が違うのかもしれないね、
もしかするとね。
付け外しはダメとかじゃなくて。
そうだね。
逆に言うとたぶん西原さんのね、
この純粋経験から始まって、
自覚から場所へっていうところも、
やっぱりその、
少しその東洋的なところをある種許したというか、
うんうんうん。
そういう場所っていうものを使うことで、
まず根源は何かとか、
存在から始まるっていうところから
ちょっと離れちゃったかもしれないけど、
うんうんうん。
逆にその場所というものが、
ちゃんと想定できたからこそ、
やっぱりちゃんと論理化できるとか、
うん。
ある種人に伝えるような世界観の橋だと行くっていう感じは、
あるのかなと思うんだよね。
そうだね。
これはやっぱり空っていうのを呼ぶのと、
絶対無の場所、
それも同じかは別として、
うんうんうん。
絶対無の場所っていうのと、
やっぱりそのアプローチは違うけども、
全然また違うだろうしね。
そうだね。
そうそうそう。
確かにね。
そういうのもありますよって話なんだけれども、
実際ね、
ここからさらに、
場所っていうものを深掘りしていくんだけど、
やっぱりこれがさ、
進化なのかというと、
まだちょっと分からないじゃない?
確かにすごい発展してるなっていう感覚とか、
自覚とかから、
もう一歩進むなっていう感じに
兄貴は言ってくれたんだけれども、
本当にこれで、
ある種東洋文化をね、
いったいでき続けるのか、
できるのかっていうのはまだ分かりませんと。
そうだね。
結局感じろみたいになっちゃいそうな気もするし。
そうそうそう。
それをある種論理化していくっていうのが、
要は西田さんが今からやったことで、
今から説明しようとしてもたんだよね。
ああ、よかったよかった。
ちゃんとやってんだ。
一回ちゃんと山を登って、
場所っていうところまでたどり着きましたと。
さらにまた山から降りてきて、
場所っていうものでちゃんと説明できますよっていうのを、
ある種、我々、
世の中の人々に
伝えようとしてくれてるみたいな。
すごい、そこをもう一回ちゃんとやってくれてるんだね。
そうそうそうそう。
純粋経験とかでもやろうとしてた、
これで全部説明しますって。
そうそうそう。
それの場所っていうのがやってきますと。
はいはい。
で、
実はそこに出てくるのが、
さっき名前で出したんですけど、
空間と場所の概念
アリステレスなんですよ。
ああ、そっか、ここで出てくるのか。
そうですそうです。
10年で学び直して、
プラトンとアリステレスから
ある種インスピレーションを受けましたよと。
プラトンからは、
コーラ、場所っていうふうな概念を
ある種書いてきてやってるんだけど、
これを説明する、
場所っていう概念を
ある種論理化していくときに、
ある種アリステレスの方法論っていうものを使う
っていう感じになってるんだよね。
わー。
なるほど、そっか。
アリステレスの考え方そのものっていうよりは、
三段論法じゃないけれども。
そうそうそうそう。
そういうちょっとね、
考え出した構造を、
そうそうそう。
しかもひねって使うんだよね。
そうなんだ。
プレゼント先生なんだね、
内容っていうよりはね。
そうだね、そうだね。
だから前回さ、
ある種ボスが出てきてさ、
武器を作ってるって言ったけど、
ここまで召喚獣で
プラトンとアリステレスを召喚して、
はいはいはいはい。
で、なんかそれで戦うみたいな、
武器を鍛え上げますみたいな、
そういうことをやっていくのが、
この西田さんっていう感じなんだよね。
なるほどね。
はいはいはい。
だからこれもちょっと前回言ったけど、
我々からすると、
やっぱり西田さんっていう人を理解するとか、
西田さんの手伝いを理解しようとすると、
このね、第三形態、
場所の西田さんみたいなのが出てくる。
うんうんうんうん。
そこにまた立ち向かないといけないんだけど、
その時にはもう、
さっきのね、
純粋経験とか、
自覚っていうものを
倒した時の武器じゃ立ち向かないみたいな。
はいはいはい。
そういう感覚がやっぱあるんですよね。
わー、すごいねー。
なるほど、もう第三章ね。
そうするとね。
第三章、第三形態、はい。
論理化の進展
で、来ましたよって感じだね。
ほうほうほう。
西田さんがボスっぽいけどね、なんかね。
確かに。
西田さんが変身してるっぽいな。
なんかね、やられてね。
西田さんの実悪がっていう感じですね。
うんうんうんうん。
はい、なのでね、
こっからさらに論理化していきますというところは、
追いかけていくことで、
さらに実悪、西田さんの世界っていうものを深めていく、
泳いでいくっていう感じなんですけど、
ここまでくると正直ついていきにくいよーとか、
ちょっとわからんっていう人もいるかなと思っていて、
そういうわけではね、
大きなところでいうと、
西田幾多郎の教育理念
もちろんね、真の存在とか実際のものを説明したりとかっていうのはあるんだけれども、
やっぱりそういう人間ドラマではね、
やっとこんな壁にぶつかって、
なんかある種崩れた、
いや、もう折れた、
価値観はもう尽きたって思ったけど、
こういうふうにやっぱり乗り越えていきましたよみたいな、
そういうことをちょっとね、
向き合い続けた人としての冒険があるので、
そういうものをね、
ある種楽しんでいただくというか、
そういうところで西田さんの、
人としてのすごみみたいなものを完成いただけると、
なんか嬉しいなと思ってますっていう感じなんだよね。
はいはい、まあそうはね、
今回もだってね、
簡単に言ったけど、
10年間徹底学んでんだもんね。
そうです。
10年だよ。
しかもだよ、
兄弟の哲学教授として、
もうキャリアが始まっている、
人に教え立ち場の西田さんが、
また学び直すっていうふうな話だからね。
そうか、まあ普通に仕事をしながら、
自分でそういう研究を深めてるって話なんだもんね。
そうそうそうそう。
なんかこれもちょっとエピソードであったんだけど、
西田さんがね、大学で、
放行したときのエピソードで、
その弟子というか学んだ人が残したのがいくつかあるらしいんだけど、
そういう思い出がありましたっていう話で、
一度こういうことがありましたと。
で、それはいつもの通り、
西田先生が、
熊のように教団のように行ったり来たりして、
抗議されていたもんですが、
途中で話が止まってしまい、
すばらく黙って考え込んでおられると思ったら、
急にわからんと言われ、
抗議をやめてさっさと帰ってしまわれたもんです。
そこで私たち学生は呆然として、
いやむしろすごいと思って、
わからんということに感動して、
教室をずっと出たのでしたみたいな。
で、エピソードが残ってるらしいんだよね。
ダメじゃん。仕事してないじゃん。
仕事してない。
仕事してない。
ダメじゃん。仕事してないじゃん。
ちゃんと仕事しようよ。
違うんだよ。
哲学教授はこれが多分、
今の教授の方がやったらどうなるかわからないけど、
背中を見せてる場合もいるよね。
そうそう。
多分クレームが教務課とかに入っちゃうんだけど。
どうなんだろうね。難しいところだね。
哲学を学ぶ者としては、
その姿を見て感動、嬉しい。
逆に怒られてほしい。
確かにね。
やっぱりわからないっていうことが、
むしろそこに真摯に向き合っていることは、
すごい話だよね。
難しいところだね。
強烈だよね。
生徒は可愛い。
そこで教わるのは、哲学じゃなくて、
哲学の姿勢を教わってるよね。
まさに哲学者としては、
生き方は生き様だよね。
なるほど。
これはね、やっぱり大先生の授業ですよ。
そんな感じで最後、
余談も含みましたけれども、
次回ね、
アイスフェレスから持ってきた場所の論理化、
それをどういうふうに説明したいかという話ですね。
これはね、一つ字なのでは行かないんだけど、
ああ、そうなんだ。
なんとか、
言葉で伝えられる、
要は言葉で分かるように伝えましたって話と、
それを受け取って分かりますって話はまた別だからさ。
はいはいはい。
でも、
なんだろうな、
とはいえ、信じるとこから一歩進んだね、みたいなところはあるんで。
おお、すごいね。
それをなんとか伝えたい。
ちょっとまだ大学の時代だけど、
なんざんで今頑張って作ってるんですけど。
はい。
すごい読み込んでるんだもんね、今ね。
頑張って読み込んでる。
3回ぐらい読んであった方かな、みたいな感じで、
やってますので、
ぜひですね、
ちょっとそういう、
ところも含めて楽しんでいければなと思っておるという感じですね。
はい。
伝えきました。
そんなね、西田さんの魅力、
格好良さがだいぶ伝わってきたのでね、
うんうん。
そういうのも含めて、内容も含めて、
引き続き楽しんでいけたらと思います。
次回の予告
では、次回もよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
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