1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2025-01-26 51:14

#287 自我は自我である?「純粋経験」の壁を超える「自覚」という概念

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

今回のエピソードでは、西田幾多郎の哲学における「純粋経験」と「自覚」という概念が探求されています。特に自我と自己認識の関係性に焦点が当てられ、経験の中での判断や反省がどのように作用するかが考えられています。このエピソードでは、自我の定義と西田の「自覚」の概念が深く掘り下げられ、自我が経験と判断の中でどのように形成されるかについて考察されています。また、純粋経験との違いや、経験をラベリングすることの重要性についても触れられ、自己認識の発展が論じられています。さらに、自己の認識と「自覚」の概念が探求され、西田の哲学がどのように世界を理解する手助けをするかについて議論が展開されています。経験と意識の関係についても詳しく掘り下げられています。このエピソードでは、「自我」と「意識」に関する深い考察が展開され、特に「純粋経験」とそれに対する「自覚」の関係が探求されています。西田の哲学を通じて、無限の意識とその認知過程についての難題が提起され、意識の本質に迫る議論が行われています。また、純粋経験を通じて出現する自覚の概念と、その壁を越えるための戦いが語られています。

純粋経験の難解さ
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今日も西崎太郎さんということで、前回まで純粋経験の話をしてきたんですけれども、
まあ、なんか分かったような感じだけれども、最後の方で全部が純粋経験だって言われ始めた途端、ちょっと分かりづらくなっちゃったなーみたいな。
はいはいはい。
うん、そんな感じでしたね。
そうですよね。やっぱりこれも毎回そうなんですけど、やっぱり僕の話だけで全部が分かったとか、
全部西田さんのことを理解したぞってやっぱり絶対にならないと思うので、
なんとなく純粋経験ってそういうものかもなーみたいな雰囲気を掴みつつ、
今回からまた4つあるよって言ったキーワードの中の2つ目、自覚っていうのを取り上げていくんですけど、
4つまで話していけば、なんとなく西田さんが言ってることってこういうことかもとか、
こういうことを考えた人だったのかなーみたいなところが残るんじゃないかなと思うので、
そういう気持ちで言ってますね。
そう、超入門、そうですそうです。
うんうんうん。
はい、まあね、そんな形でちょっと引き続きお話ししていこうと思ってますっていう感じなんですけど、
ここは復習なんですけど、西田さんがやりたいことって基本的には真の実在を明らかにするみたいなこととか、
あとは西洋から西洋哲学が入ってきたときに、やっぱり東洋文化、
それこそ仏教的なことも含めて、こういったものに哲学の基盤を与えたいっていうのがやりたいことなんですよね。
それは変わんないんですけど、
なんで純粋経験とか考えたのに、また次に行かなきゃいけなかったかっていうと、
やっぱり純粋経験って、経験っていうのが根底にあるよと、
かつその経験の中でもより根源的なものとして、主観と客観が分かれる前の状態、
自分が肌を見るとかっていうのを考える前に、それを経験してるじゃないかみたいな。
そういうところから全てを説明しようっていうふうにしてたんだけれども、
やっぱりどうしても無理が出てくるんだよね。
そうなんだ。
これちょっと前回もお伝えしたんですけど、
全てが純粋経験だっていったときに、
例えば、何かを判断するとかっていう言葉があると思うんですけど、
例えば、判断する、判断する、何かいい言葉あるかな。
物事の良し悪しを判断するとかそういう話?
なるほどね、確かに確かに。
良いね良いね。物事の良し悪しを言った瞬間に、良しと悪しでもう二つに分かれちゃってるじゃない?
はいはいはいはい。
みたいな話とか、判断するってなると、
結局判断する主体、例えば自分でいいんだけど、
自分と判断される対象っていうのがやっぱり分かれちゃうんだよね。
あー、そっか、それ前提の言葉ってことか。判断って。
自覚の概念の探求
そうそう、判断って分かりやすいからね。判断自体が分けるとか立つっていう意味だから。
なんか前もやった気がするね。言葉自体がすでにそういう働きを持ってるというか、理論的なというか。
切断しちゃうっていうね。
だからやっぱり言葉もそうだし、判断とかっていう動作とか、これも経験じゃない?
良し悪しを判断したっていうのも経験だとしたときに、
それ自体が純粋経験で資格が無い分だとかって言われちゃうと、
ちょっとよく分かんないし、反論できないとすると、
ちょっと宗教っぽくなっちゃう?
っていう風になってしまうので、
やっぱりこの純粋経験の何かを判断するとかってしようと思ったときに、
なんかもうそれ純粋経験じゃないじゃんみたいな、そういうことになっちゃうんだよね。
うわー、恐ろしいなー。
恐ろしい。
西田さんはそこはたぶん、もどかしかったんだろうね。
そうだね。
純粋経験と名付けないと人には伝わんないけれども、
名付けた瞬間に日本語の世界に立ち現れてしまうから、そのもの自体が。
まさに、まさに。
前回も人からの批判に対して、
それは純粋経験を外から見て、内側から見てないみたいな話とかしたと思うんですけど、
でも俺らは外からしか見れないからみたいな話だよね。
ますます宗教を築くようになっていくって話だよね。
人にも漢字ろしか言えないみたいな世界になっていくっていうね。
そうなんだよね。
あとやっぱり哲学の基盤を与えたいっていうことから外れちゃうので、
やっぱりこれをなんとか哲学的に論理付けるとか、
やっぱり言葉で表現するっていうのを、やりたいとかやらねばならぬっていう感じなんですよね。
そういう文脈の中で、次に出てきたのがこの自覚っていう概念。
自ら覚える、自らと覚える自覚っていう言葉ね。
なんですけど、これ結論から言うと、さっき言った経験、純粋経験みたいなものと、
判断っていうものをよく帰り見るみたいな感じで反省するとか、
要は後悔するとかっていう意味は反省じゃなくて、
何かを帰り見るとか、何かをもう一回考えるみたいな意味での反省するっていうこともあるんだけど、
その経験と反省をくっつけちゃうというか、統合しちゃう、
そういう概念がこの自覚だっていうふうに言ってるんですよね。
次の問題って、純粋経験っていうものを考えるとしたときに、それを反省するって言ってるんだけど、
それを反省するときに経験とその反省が分かれちゃうっていうのが問題なんだよね。
一般的にはっていう話。
西田さんの考えることを考えるとしたときにだね。
そうなんだ。
もっと言うと、さっき言ったみたいに何かを判断するって、
要は判断する人と判断されるもの、対象が必要じゃない。
でも西田さんはそれも分けたくないんだよね。
そうだよね。
どうするかっていうと、判断するっていうことと、
そもそも何か善悪を感じたとか、何かを判断しようと思ったっていうのは、それすら経験なわけじゃない。
それを何とか一つにできないかっていうことを考えるんだよね。
はい、なるほどね。
それも純粋経験ですよっていうふうに何とかしたいというか。
ああ、その大変さを感じるな。
たぶん西田さんの感覚からすると、西田さんの経験からすると、
今、例えば、そういう善悪を判断するみたいなものも、純粋経験で完全に説明できるのに、
やっぱりその純粋経験っていう概念だけだと、
どうしても、うちらが一般的に感じるような善と悪があってね、
それを自分がね、あなたが判断するんだよね、みたいな。
どうしてもそこの同じことを考えようとしてるのに、絶対に埋まらない溝があるんだろうね、西田さん。
それを何とか埋めようとしてるっていうのはわかる気がする。
そうです。
自覚っていう概念でね。
自我の哲学的考察
その概念はどうなのか、まだわかんないけど。
そこからね、その自覚っていうものを振り下げてお伝えしていくんですけれども、
西田さん曰く、この自覚、普通の言葉で言うと、自覚って何か自分を認識するとか、
例えばね、自分が怒ってると自覚するみたいな感じで、
そういう自分を認識するみたいな感じじゃないですか。
でもやっぱりちょっとここでは、違う意味合いで使われてるんだよね。
例えばさ、判断とまで言わずとも、自分がリンゴを見るみたいなことを考えたときに、
自分っていう主観とリンゴっていう客観がやっぱり分かれていて、
そういう二元論の世界なわけなんだよね。
どうしても見たものをリンゴだと判断したといっても、いいだろうからね。
そうそう。見るときにはそういう判断がくっついて回りますよと。
これはね、僕らが普段生きてる世界なんだけど、
ここで自分が自分を見るって言うとどうなりますかと。
自分が自分を見るね。
これ鏡に映った自分を見るとかだと、別に物理的な像の話なんで、
全然二元論でいいんだけど、
ある種、本当の意味で自分を頼り見るとか、
自分というものをまさに自覚するみたいなことを考えたときに、
そのときの見る事故、主体としての事故と見られる事故、
客と相手としての事故って分かれてるんだっけ、どうなんだっけって言うと、
やっぱりよく分かんなくなってくるんだよね。
うーん、そうだね。
うん。
で、時々その事故認識みたいな問題で、
過去にも何回か話したことあるかもしれないんですけど、
自分を認識するとか、私が私を認識するとかってなったときに、
それはもう私と離れてる別の私がいるじゃねえかみたいな。
うんうんうん。
過去にも何回かお伝えしたことがあるんですけど、
西田さんってまさにそこに踏み込んでるんですよね。
そうなんだ。
なんかその純粋経験で考えたときに、
私が私を見るっていう経験っていうところに頻度があるんじゃないかと、
いうことを考えていきますと。
うんうんうん。
で、これをちょっと深掘っていくんだけど、
西田さん自体はもっと率直に、
自我ってあるじゃないですか、そのエゴみたいな。
うんうんうん。
自我は自我であるっていう言葉を取り上げてるらしいんだけど、
自我イコール自我だよね。
うんうんうん。
これも同じで、1番目の自我と2番目の自我であるの自我。
で、同じですか違いますかっていう問題が出てくるわけよ。
出てくるんですか。
出てくるんですか。
出てくるんですけど。
だいぶ哲学チックになってきたね。
いや哲学の方知ってるんだけど。
自我は自我であるって言われても、
自我イコール自我って書いてあるから、
自我イコール自我じゃんって。
間違えちゃった。
この自我と1番目の自我と2番目の自我って一緒だと思う?
自我は自我である。
だからこれどっちかっていうと名付けの問題に近い感じがするよね。
なるほどね。
自我、何かがあったときに、
それを私は自我だと判断しているみたいな話になるだろうから。
この自我は自我である。
最初の自我っていうのは、
今回の話でいうと純粋経験している何かなんだろうね。
で、私が経験しているこの何かふわふわしたこれになぜるとしたら自我なんだろうねっていう。
そういうふうに感じていることは可能かな。
そういうことか。
だから自分が経験して取られたものに名前を付けるとか、
それを自我と呼んだぞっていうことを、
この言葉で表現してるじゃないかっていう話かな。
そうそう。だから〇〇は〇〇三角であるみたいなときに、
〇〇は全て純粋経験であって、
仮に言葉で名付けるなら三角でこうであるみたいな。
〇〇は今回の話で言うとわかるかなーみたいな。
なるほどね。
わかるかなーっていう。
あー面白いね。
ちなみに今の兄貴の話だとあくまでも問題しているのは純粋経験の方であって、
自我の定義と観察
この後の自我であるっていうのはそれにラベルを付けたに過ぎないよっていうふうな話を今してくれたんだよね。
そうそうそう。
うんうんうん。
なるほどね。
あ、面白い。ありがとう。
近い。その発想はすごく素敵だなと思っていて、
そうすると結局は1個目の自我の話がしなくて、
2個目の自我っていうのはあくまでもレベリング言葉だよっていうふうな話なんだけど、
多分それは本当に正しくて、
これがいわゆる自我Aと自我Bみたいなのがあって、
よくよく観察したらこのAとBは一緒でしたみたいな、
そういうふうな言葉ではないんだよね。
はいはいはいはい。
そうそうそう。ではなくて、あくまでもこの考える自我というか、
1番目の自我っていうそれがそのまま2番目の自我であるっていうことを、
実は西田さんは言おうとしていて、
常にこう言ってくれとりでこうやって言ってるから分かれているとか、
なんかちょっと違うように感じるんだけど、
あくまでも一つの自我でしかなくって、
それにまさにラベルをつけているとか、
それを呼んでいる、呼びかけているだけなんだっていうふうに言えるわけなんだよね。
なるほどね。
で、これも兄が言ってくれた通りで、
1番目の自我はの自我っていうのは、
そもそも自我というものがあるっていう事実とか経験っていうものを指しているし、
2番目の自我であるっていうのはまさに判断だよね。
ラベル付けって判断じゃない。
はいはいはい、そうね。
そう。なのでこの自我は自我であるっていう言葉は、
その自我があるという経験とか事実と、
それに自我というラベルをつけましたっていう判断、
これが混ざってる言葉なんですよっていうふうに考えるよね。
自覚の概念
なるほどね。
はいはいはい。
っていうふうになりますと。
あー面白いね。なんか前言葉の時にやったような概念だね。
言葉を使わされてるよねっていう。
そうそうそうそう。
やっぱりそれに気づいてないよねっていう感じなんだけど。
うん。
うん。で、これを思った時に、
この自我、2つの自我、本当は1つなんだけど2つに分かれてる自我っていうものが、
まさに実はこの経験と判断っていうものが、
まさに1つの自我っていうところで起きている。
要はこれが例えば、
例えばリンゴはリンゴであるってことを言った時に、
それでもいいんだけど、
このリンゴっていうところでリンゴがあるという事実と、
これはリンゴだという判断をしたってことが起きてるわけじゃない?
なるほどなるほど。はいはいはい。
その自我の時にもリンゴの時にも、
あらゆる時にこのこと起こってるような、
この経験したものにラベリングだったりとか判断してるだったり、
あとさっきの話で言うと、
もちろん多分ラベリングさせられてるんだけど、
言葉を使わされてる。
思わされてるってことは、
その瞬間同時に起こってるよねっていう感じ?
そうそうそうそうそうです。
いう風に同時に起きているっていうこの働きのことを、
西田さんは自覚っていう風に呼んでるんだよね。
なるほど。すごくわかったけど、
自覚なんだそれ。
自覚。やっぱり西田さんはどこまで行っても、
自分、おのれみたいなところから哲学を始めるんだよね。
前も意識が大事でした。心が大事ですって言ったことがあると思うんですけど、
なので、あくまでも自分の経験とか、
自分の判断から始めようとするときに、
自分の経験と自分の判断が一緒になるっていうところが、
この自我は自我であるっていう表現だっていう風な話を考えるんだよね。
で、この1個目の自我と2個目の自我って実は一緒じゃないかと。
いう風に理解する働きのことを、自覚だっていう風に呼んでるっていうのが、
わかりやすいとかイメージしやすいかなと思うんだけど。
どうだろうか。
そこの自我のコンセプトというか、
わかったんだけど、これをどう持っていくと、
誰でも西田さんの話す世界観がわかるようになるのか、
外から見たときに納得できるのかっていうのが、ちょっとまだつながってないかな。
OK、了解です。
実はね、結論先で言うと自覚っていうところでも、
ロジカルに全部説明したっていうところまでは正直言ってないんだよね。
それに向かってるのが、第3段階目の場所っていう概念の時だって言われてるんだけど。
なのでまだこの自覚の段階では、
いわゆるロジカルに哲学っぽく全部説明するというところまでは正直いけてないですと。
いけてないんだけど、純粋経験とちょっと違うのは、
いわゆる純粋経験にはできなかった、
経験するっていうことと、経験をある種変えりみるっていう、
まさに経験っていうものがどうしてもばらけちゃったんだけど、
それをなんとか統合できるんじゃないかっていうところまで進んだのが、
この自覚っていう概念なんだよね。
そうなんだね、なるほど。
だし、おそらく人に説明するときに、
確かにこの概念があることで、さっきのラベリングではね、
いわゆる経験そのもの、純粋経験とラベリングの問題っていうものが、
西田さん的には完全に分かれているけれども、
それも含めて一緒というか、
たぶん独自の世界観があると思うんだけど、
それを外にの人に話したときに、
それって当たり前じゃん、なったりとか、
それってなんか違うじゃん、とか、
たぶんいろいろ、その人に言うと違かったんだろうね。
だから、外から見て分かんないから感じろと。
誰もそれは感じてるはずだから感じろとしか言えなかったものを、
たぶん少しその辺の仕組みを、
ちゃんと言語化した、みたいな感覚なのかもしれないね、と思った。
そうだね、そうだね。
どうしても純粋経験のときって、経験と判断って分かれちゃうよね。
判断も経験だって言われちゃうと、
さっき言った判断する人と判断される対象って、
どうしても分かれちゃうよねっていうときに、
やっぱり一河さんはそれをくっつけたいんだよね、常に。
一言論できないんだけど、二言論になっちゃうじゃんって言われて、
やっぱ反論がしにくいみたいな。
一河から見たいからだとしか言えなかったんだけど、
この自覚ってものを考えると、
まさにまずは自我とか事故っていうものにおいて、
事故を経験するっていうのは、
事故っていうものを反省するとか判断することだから、
その経験と判断が分かれない領域、
要は一言論を保ちながら、
それを一緒に扱えるっていう領域があるじゃないかってことが
まず見えてくるんだよね。
経験と判断の統合
そこをいわゆる経験と判断っていうものをセットにすることでね。
そうそう、セットにすることで。
できるんで、ある種問題が一歩前に進んだよねっていう感じなんだよね。
なるほど、なるほど。
ここをさっきの言葉の時に思ったみたいな話したけれども、
西田さん自体はここで判断だよね。
判断を自分が主体的にしてるのか、
それとも自動的にというか、
何らかの価値観のもとに判断させられてるみたいな、
そこについては特には限定はしてないというか、
そこは分けてないのかな。
別にそういう話ではないからっていう感じか。
そうそう。
そこが面白いなと思ったんだけど。
そうね。
ただ、これは本を書いた人の感想というか意見だけれども、
自覚ってやっぱり自らに目覚めるの覚めるじゃない?
うん。
やっぱり本来の事故に目覚めるみたいな、
そういう意味もあったんじゃないかという解釈があって。
解釈ですけど。
それは解釈なんだけど。
だとすると、やっぱり押し付けられて
ラベリングさせられているというよりは、
自分がこの経験をきちんと自ら判断していくとか、
前向きに関わっていくみたいな、
そういうニュアンスはあったんじゃないかって思うんだよね。
私、それで言うと、
多分西田さんぐらい想像だけども、
多分こういう哲学系の頭いい人って、
デフォルトが、
その積極的に自分でちゃんとラベリングをしていくタイプだとすると、
確かにね。
ラベリングできないタイプの人のことは、
想像できないのか、考えていないのか、
想像分かった上で、自分の方の意味を使っている可能性もあるね。
そうだね、それはあると思う。
そういう意味で言うと、西田さんとしては、
いろんなものをちゃんと自分というものから説明していきたいから、
って考えたときに、
当然何かを判断すると、
判断した事故ってどうしても別れちゃうんだよね。
別れちゃうんだけど、
実はそれも新たな判断した事故を、
さらに経験できるっていうふうに回収できるんですよ、経験の方に。
そうだね、それをセットにすることでね。
セットにすることで、そうそう。
何かを判断した自分、それを経験する自分、
さらにそれを判断した自分みたいな感じで、
ある種、無限にこれが続いていくんだよね。
そうだよね。
そこはやっぱり仏教地区だけど、
一瞬一瞬作られ続けているから、
経験と判断がセットされたものを作り続けられているのが生きていることだみたいなのは、
それは可能だよね。
そうだね。
それは確かに仏教だけでは感覚としてはイメージしやすいかと思うんだけど、
そういうふうに、この振り返しを、
ある種、運動をし続けるのが、
こういう人間というか、自覚した存在だみたいな。
私、西田さんは逆を行っているわけだもんね。
仏教的な世界観からそれを理解しようじゃなくて、
その世界観みたいなものをきちんと、
哲学、言葉で表現し切るんだっていうことをやっているって話なんだもんね。
そうですそうですそうです。
そういう意味で言うと、ここで言う、
人間というか、そういう存在っていうのは、
いわゆる外部からっていうよりは、やっぱり内部。
内部の中にすごいエネルギーとかエンジンを持っていて、
それで自覚っていう、働きによって、
突き動かされていきますと、みたいな。
そういうふうな存在として描かれていくわけなんだよね。
はいはいはい。
ここまではなんとなく、なるほどなってなるとは思うんだけれども、
そうは言え、そうなるとあまりにも事故に研ぎすいちゃってるというか、
自我と自覚の探求
めちゃめちゃ狭い話してません?みたいな感じになっちゃうんですよね。
そうなっちゃうんだ。
自我は自我であるとかって言ってさ、
これも難しいけど、別にそんなこと考えなくても生きていけるじゃないですか。
うーん、まあね。
だし、じゃあそれって事故から、自我から、
もうちょっと社会につながっていくとかっていうときに、
その自覚って、どんなふうにそうやって働いてるの?みたいな。
なるほどね。
あまりにも個別主義みたいになっちゃうから、
そこと今の社会の相関というか因果関係というか、
そこを説明しようとするとまたそこは難しいんだね。
そうだね、そうだね。
ある種、事故とか自我に関しては、
そういう自覚っていうもので、結構証明とか説明できる気がするんだけど、
西田さんはあくまでも真の実態を明らかにするとかっていうふうに、
やっぱり世界をそれで説明したいっていう意図を持ってるんだよね。
うん、その社会の仕組みが云々よりもね、まず。
人間的な仕組みっていうよりは、
そもそも世の中ってどうなってるのっていうのを、
自分の自覚っていうものから説明できないかと。
そういうことを考え出していくっていうところで、
ここからその冒険というか、
頑張って世界を説明していくぜっていうものが始まっていくんだよね。
はいはい。あ〜、そうなのね。
すごいよね。
もうさ、この自覚みたいなとこまでさ、一応根底まで行ったらそれで終わりってしてるじゃん。
まあね、十分なんかとりあえず満足するというかね。
そうそうそうそう。
でもやっぱりそうじゃなくて、ちゃんとその概念でもって、
世界を説明しようとするときに、
なんかそこがないかとか、ちゃんとできるのかっていうことを、
なんとか頑張っていくっていうことをやっぱりやった人なんだよね。
経験と意識の関係
はいはい。到達点がそうだろうし、
レアルからこそ、
それじゃわかんねえよっていう批判も多分なくならないんだろうね。
本当にそう、本当にそう。
全部説明しきるっていうのはやっぱり、
人間の技じゃないみたいなことを言う哲学者もいるんだけど、
でもやっぱりそれをやり続けるとか、
そこに挑み続けるのがっていう話でやってらっしゃったと思うんだけど、
今回ちょっとまた西田さんの話に戻ると、
さっきその自分がリンゴを見るっていう言葉をずっと言ったじゃないですか。
そういうときに自分とリンゴは、
当然普通に考えたら別の存在だよねっていうところがあると思うんだけど、
これを自覚っていう立場から捉えましょうっていうことを考えていくんだよね。
明らかに普通に考えた自分とリンゴは違うんだけど、
ここで西田さんがいわゆる観念論、意識とか心っていうものを重視して、
世界を捉えていたことを思い出していただきたいんですよね。
そういうときに、自分がリンゴを見るっていう方は、
ある種、兄貴がさっき言ってくれた通りで、
自分っていう経験とか存在があって、
それがリンゴを見るというふうにその経験にラベルをつけたとか、
その経験を判断したっていうふうに言うわけなんだよね。
なると、やっぱりリンゴを見たっていうのも一つの経験なので、
何かの独立してリンゴそのものがあるとかっていうふうに考えないわけですよ。
そうすると、やっぱりこのリンゴを見るっていう言葉も、
繰り返しになっちゃうんだけど、リンゴを見るという意識とか経験とか判断が生じているというふうになっていくので、
そうすると、自分があるっていう意識とリンゴを見たという意識。
この両方があるから、その両方の意識でも自覚してるよねみたいな、
こういうふうなことが言えるわけなんだよね。
そうすると、自分がリンゴを見るという言葉、
言葉上の問題では分かるように見えるんだけど、
どっちもあくまでも意識っていうものは共通で働いていて、
それを自覚してるんだっていうふうに言えますと。
こういうふうに世界を捉えると、
結構あらゆる経験とか体験っていうものが、
この自覚っていうものにひも付けられるように考えていくんだよね。
面白い感覚だね。
自分が繋ぐ。
今パッとそれで思い浮かんだ景色というか、話を言うと、
ちょっとあれだよね。
これなんだっけな。
シュレリンガの猫ってソリューシーの話?
あれはソリューシーだね、ソリューシーの話。
ソリューシーだよね。
ソリューシーと一緒で、観察しないとした瞬間に確定するじゃん。
どこにあるかとか。
一応ね。
それまではどこにあるかどういうふうに存在してるかもわかんなくて、
その一瞬だけわかるみたいな話で言うと、
世界ってやっぱそこらへん混沌としてて、
その一瞬をパッとストロボみたいに当てると、
あ、私はリンゴを見てるみたいなのが出て、
ストロボが消えた瞬間はまた混沌とした世に戻るというかさ。
いいねいいね。
一元論的だね。
だから一元論と二元論って、だからソリューシーって分けられないじゃん。
動いてるの動いてないのみたいな話で言うと、
それと同じで一元論二元論って分けられなくて、
たまたまこの今一瞬っていうストロボ、
パッと当てた時にはそういうふうにパカパカっていろんなものが出てきて、
それを我々は、私がリンゴを見たらしい、
リンゴ、そのストロボのついた瞬間を組み合わせていくと、
経験上、リンゴはある。
私たちもあるっていうふうに一応経験上、
仮定はできるよね、仮定しても破綻しないよねっていうふうにはなってるみたいな、
そういう世界観っていうふうに考えるとすごく納得というか面白いなと。
そうだね。
本当にそれを、
仏教の考え方はまさにそれで、
一瞬一瞬に世界が生まれては消えていくって、
まさにストロボがついたり消えたりしてるみたいなすごいスピードで、
消えた瞬間は世界が死んでるとか消えるんだけど、
次のついた瞬間には、前の瞬間の因果とか縁起でまた新しい世界が生まれてるみたいな、
そういうふうな感覚がかなり仏教的な感覚なんだよね。
そっかそっか、はいはいはい。
そこに近いというか、そういう秘話が出てくるのが面白いなって今思ったんだけど、
西田さんもまさにそういう形で、
永遠の存在みたいなのがあって、
それがやっぱり続いてるっていうよりは、
瞬間瞬間に、まさに経験だからさ、経験って、
常に新しく立ち上がってくるものだから、
それはやっぱり基準に考えてるんだよね。
なるほどー。
そういう時に、純粋経験は経験というものの基礎に置いてたんだけど、
その奥には、さっき言った自覚とか意識みたいなものがあるんだよね。
そうなんだ。
さっき言った通り、
自分があるという自覚、あるいは自分があるという意識。
自覚という意識は今ここであえて近く使ってるんだけど、
で、なんていうかな、
ある種、自分があるという意識とリンゴがあるという意識の両方があった時に、
意識が自覚してるみたいな。
意識というものがむしろこの世の本質であって、
意識が私を認識してるとか、
意識がこれはリンゴだと認識してるみたいな。
そういうふうな、
自分という主体すら意識っていうものから出てるじゃないかみたいな、
そういうふうな感覚になってくんだよね。
それは大きいです。
この世界観で語るとそっちが最初になっちゃうので。
そうですそうですそうです。
さっき兄貴のストロボの話でいくと、
舞台みたいなものっていうのはある種意識の舞台で、
意識の中にここに光が当たると、
それは自分がリンゴを見ている経験になるよねとか、
こっちに光が当たると、
自分が今たとえば眠ってるって意識になる、
眠ってたら意識ないな。
自分が今走ってるって意識になるよねとか。
あ、そうなんだ。
そうそうそう。
それぐらい感じで、
意識というものがある種、
普遍的なもの。
この世の全体みたいなもので、
特殊な在り方として、
自分があるという意識とか、
リンゴを見るという意識が分かれていくよねみたいな、
そういうふうな世界の在りようを考えてるんだよね。
石田さんの言葉としては、
無限なる全体、
これは意識なんだけど、
無限なる全体の自己限定作用って言ってて、
意識が限定されて出てくると、
それが個別の経験とかになっていくっていう、
西田幾多郎の哲学
そういうふうなことを考えてるんですよね。
なるほど。
ここでいう意識っていうのは、
個別的なものは想定してないんだね。
そうそう。
人間の意識とか犬の意識とかっていうものじゃなくて、
もっと全体的な意識みたいな。
そこに行くというか、分かんなくなるな。
そうだよね。
さっきのここまでのハヤトの意識の話も、
ちょっと分かりづらかったんだけど。
はいはいはい。
なるほどね。
これもたぶん荒屋敷とかに近いなと思う。
ずっとずいちゃうとね。
はいはい。
その人間を超えた、
いわゆる大きな、
大いなる意識みたいな。
そう言っちゃったら宗教だからよくないんだけど。
感覚としてはね。
感覚としてはね。
だから全体の意識っていうのは、
全体そのものみたいなものがあったときに、
さっき限定した意識みたいなものが、
ここの人間みたいな話。
そこはやっぱ分かりづらいよね。
はいはい。
言い方は分かるけど。
言い方は分かるけど。
頭の中に絵が浮かばなくなるの、一気にその瞬間。
そうだよね。
やっぱり常にそこってアラートが出ると思うから。
うんうんうん。
言ってることは分かるけど、
やっぱそれって結局、
ロジカル化って言われたら、
うんうんってなっちゃうと思うんだよね。
そうね、分かんない。どう想像していいか分かんないもんね。
大きなブドウの木があって、
大きなね。
それが意識全体だとして、
そこになってるブドウが、
じゃあ人が多かったか考えても、
多分そういうことでもなさそうだし、
なっちゃってるし、
もっと多分瞬間的なものだろうし、みたいなね。
そうそうそうそう。
そもそもやっぱ無限っていうものをどうイメージするかってやっぱり、
自我と意識の探求
これは数学の訓練を積んでる人はできるらしいんだけど、
へー、そうなんだ。
無限をイメージするとか、そうそうそう。
やっぱり僕らみたいな文系人間にはそれできないじゃん。
できない。
宇宙みたいなものしか出てこないよね。
そうね、そうね。
なんとなく広いんだよな、みたいな。
そう、っていうのがあるからやっぱりちょっと難しいんですけど、
何かそういう、なんだろうな、
どうしてもこの自覚、
逆に言うとさっきのとおりで、
自覚っていう概念をやっぱり頑張って突き詰めても、
どうしてもそういう無限みたいなものとか、
こういう意識みたいな、全体意識みたいな、
そういうところに行かざるを得ないっていう部分が、
ちょっとこれは限界ってあるっていう感じなんだよね。
この純粋経験の世界観を捉えようとしたときにね。
捉えようとしたときにね。
しかもだよ、しかも意識っていうものが、
ちょっとその本源的なものとか、
意識が自覚をするみたいな、
そういうふうな話をしたじゃないですか。
っていうときに、
そこまでよしとしましょうとさればね、
よしとしたとして、
じゃあさっきの自我、こういう自我みたいな話で、
意識という意識とか、
意識するという意識があるときに、
どうやって捉えられるんでしたっけ?
っていうふうな話がまた出てくるんだよね。
そうなんだよね。
分かる、それは分かる。
純粋経験がピンポンだって言ってるのに、
なんで意識って出てくるんだよ。
そこ分けてんじゃんってなっちゃうから、
そこどこで一つにするか問題が出てくるのかなとは思う。
そうね、まさに。
それでいくと今だと、
純粋経験は一旦置いといて、
より意識のほうが、
本当の根源っぽいよっていうところまでが今来てるんだよ、実は。
ああ、そうなんだ。
なるほど、なるほど。
一旦ちょっと純粋経験は、
仮置きでいったほうが大丈夫ですと。
OK、OK、そうなんだね。
ごめんごめん、そこで言ってなかったね、ごめんごめんごめん。
ほうほうほうほう。
じゃあそうじゃなくて、
意識のほうがさらに、
奥に一歩進んだよぐらいの感覚でいるってことね、
その純粋経験って。
根底にあるかもねっていう話だね。
おお、OK、OK。
そうなんだ。
っていう時に、
意識、するという意識とかって、
これもちょっと言葉でしかないんだけど、
それをじゃあどう捉えますか?
意識っていうものに、
意識というラベルをつけることって、
果たしてどういうことなんですか?
っていう問題が出てくるわけなんだよね。
うわあ、そうだね。
もう一個この裏にあるんじゃない?みたいな。
例えばいうと、さっきストロボの話をしたけど、
じゃあそのストロボで光った瞬間に、
意識が作動してるとしたら、
そのストロボ誰操作してんのや?みたいな。
だったらそのストロボの方重要なんじゃないの?
みたいな話になってくるよね。
そういうこと、そういうこと。
だからそうなると、
じゃあそれをストロボを作ってる人は、
どんどんどんどん行けるじゃん。
行っちゃう、行っちゃう。
そういう風になって、やっぱ神かとかさ、
そうなっちゃうんだよね。
なので、やっぱりこれでもまだまだ、
ダメだというか、
行き着いたように見えてそうではないと。
だからその、もう一回戻るけど、
西原さんがこの世は観念論的で、
意識的な、
存在っていうものも意識的なものだと、
夢にしたときに、
意識、そこで言ってる意識って何?
っていう問いが出てきちゃうんだよね。
それがさっき言った、
自分を見るという自分とか、
自我という、自我ってよりも、
より根源的な問いになっちゃうんですと。
うんうんうん。
だから、そういう流れを踏まえると、
やっぱり自分があるっていう経験と、
それに自分というレベルをつけるっていう風な、
反省とか判断っていうのが、
ギリギリ統合できたんだけど、
意識があるっていう経験と、
その意識というものを、
これを意識と判断したというものは、
どう考えれば分かれちゃうんだよね。
あー、なるほど。
そこが分かれちゃうのか。
意識が自己限定するって言ったじゃん。
存在、他の意識っていうものが。
そういう時に、
ある種、無限の意識を、
レベルをつける意識って、
絶対に一緒にはならないんだよね。
ほんと?どういうことだ?
無限の意識が仮にあります。
無限はよく分からないけど、
そういうものは何か一個あります。
仮にね。
で、それに対して、
じゃあレベルをつけるとした時に、
その作業ってどうしても、
分かれちゃうんだよね。
なるほど。
それは、ちょっと待って。
それ自体にレベリングをするっていう話、
その無限の意識みたいな。
無限の意識に。
にレベリングをするっていうのが、
むずいよね。
むずいっていうか、おかしいよね。
どうしてもそう。
どうしても二つというか、分かれちゃう。
意識っていうものが、
別の意識っていうものは必要になっちゃう。
OKです。
その時点で、
レベリングできてる時点で、
たどり着いてないよね。
誰があって。
そうそう。
何があっていう。
OK。
さっきのストロボ問題と同じ話だね。
同じです。
自我はギリギリいけたんだよね。
自我っていうのは、
それを見る自我という、
判断する自我を経験するという風に、
自分に回収できるからギリギリいけたんだけど。
意識はそれで。
それだけになったんだけど。
自覚じゃ説明できない範疇の端になっちゃってるの?
意識が。
まさにそういうことです。
そうなんだ。
自覚を超えちゃったんだよね。
そうだよね。
でもそういう話だもんね。
自覚するために、
そこ一歩掘ったら意識があったよって話だから。
そうそうそうそう。
その意識をさらに掘ろうとしてる時点でおかしいし、
ただ掘ってみたら、
限定された意識みたいなものと、
全体の意識みたいなもの、
まだ分かれてるみたいな。
そうそうそうそう。
ってなっちゃうんで、
ここにまた難問がぶち当たってくるって感じなんだよね。
OKOK。
そこも感じろとしか言えなくなっちゃうからね。
純粋経験の限界
そうそうそうそう。
意識って呼ぶのがあるんだと感じろとなっちゃうんで。
実はちょっと今回説明しきれなかったんだけど、
自覚っていうもので西田さんは結構いろんなものをちゃんと説明しようとしていて、
例えば論理的な体系って、
要は経験だけじゃなくて、
まさに言葉をどう扱うかとか、
ロジックをどう扱うかとか、
あとは数学とか数の体系っていうものも、
自覚っていうものから説明できるんだって言ったりしてるんだよね。
そうなんだ。
これ何かっていうと、
要は1個のリンゴがあるっていうのを経験できるじゃん。
1個のリンゴ。
でも1っていう数を経験しようって言われたら、
これ結構難しいんだよね。
ほうほうほうほう。
1っていう数字って抽象概念じゃん。
そうだね。
1を持ってこいって言われてさ、持ってこれないでしょ。
あー、そうだね。
うんうん。
っていう時に、
これってやっぱ経験とか判断だけから数学を導くのって、
実は結構難しいんだけど、
それも自覚を使ったらできるんだぜっていう風に西田さんは言ってるんだよね。
へー、そうなんだ。
そう、だからそういう意味では、
ある種、世界全体を人間が作った数学という風なものとか、
そこから出てくる社会的なものとかも含めて、
自覚って今から説明できそうだってとこまで行ったんだけど、
今言った通り、
意識っていうものだけはどうしても自覚っていうものから超えてしまうっていう風になってしまって、
やべやべ、説明しきれないっていう風になっちゃったっていうのが今の時点なんだよね。
次の思想の発展
はいはい、意識は自覚には取り込まれないし、
そこはもう意識があるから自覚があるっていう風になって、
どうしても因果関係みたいになっちゃってるから、
一方では結べなかったんだね。
そうそうそう、そうなんですそうなんです。
うん。
で、今のところで結構ね、くじけそいだったんだけれども、
くじけそい。
くじけそいになるんだけれども、
ここで終わらないってやっぱ凄さなんですよね。
どうしようどうしようって考え続けたわけですね。
そう考え続けて、
この意識する意識、意識という意識みたいなのをどう使うかっていうところをやっぱり、
ある種取り組んでいって、
さらに思想を発展させていくんですよ。
それで3番目の場所っていうのが出てくるんだよね。
これでキーワード4つのうち3つ目までね。
3つ目までです、はい。
で、次回その後で説明しようと思うんだけど、
場所に行く前にサブキーワード2.5ぐらいの感じで、
絶対自由意志ってのが出てくるんですよ。
絶対自由意志。
これが何かっていうところを触れつつ、
場所の概念っていうように移っていくみたいな、
そういうところで次回お話ししていきたいなという風に思ってますという感じですね。
わかりました。ちょっと西田ワールドにハマってきたね。
ちょっとやって見えてきた、
絡まり具合というか。
ストーリーは今回わかりやすく、
意識っていう、また次のボス出てきたみたいな話だからさ、
どうコネクトしていくんだろうなっていう。
まさにそういう感じ。
やっぱり本当に冒険なんだよね。
やっぱりこういうの見てると。
そうなんだね。
これは西田さんに借りらずっていう?
借りらずだと思う。やっぱり。
これをどう説明するかだと、ここでつまずいちゃったけど、
これをこうしたら乗り越えるんじゃないかみたいな。
そういうところがやっぱり、
自覚と純粋経験の関係
すげー泥臭い感じ?さっき言った通り、
諦めそうになるみたいな感じもありながら。
こういう人たちのすごいのがさ、
ボスとかも自分で作ってるし、自分で見つけてるじゃん。
本当にそう。
しかも見つけなくてもいいボスをね。
そうね、確かにね。
すごいことやってるよね。
それとね、ボスっていうより武器なんだよな。
場所とか絶対自由自在。武器なんだよな、どっちかっていうと。
それを使って、意識する意識とは何かっていうボスを倒すみたいな。
そういう感覚だね。
なるほど。
負けたけど新たな武器を持ってきてとか、
新たな仲間連れてきて、もう一回戦うぜみたいな、そういう感じだと思う。
なるほど、そっかそっか。今回も自覚は、
純粋経験をやってたら出てきたボスを倒すために作った武器で。
武器で、そうそうそうそう。
で、何とか倒したけども、第3形態みたいなのが出てきて、
どうする次みたいな話ってこと?
まさにそういうことです。
オッケーオッケー、わかりました。
ただ僕らからすると、自覚とか自由自在とかもやっぱりわかりづらいから、
ボスに言える。
僕らからすればそっちがボスだね。
なるほど。
全然わかんないよ、この武器どうやって使うんだよみたいな。
はいはいはい、わかりました。
じゃあその後にですね、含めて西田さんの世界、冒険倒しにいきたいと思いますので、
次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
51:14

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