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  2. #351 人間とAIの見分け方?フ..
2025-09-10 59:22

#351 人間とAIの見分け方?フィヒテの世界観における「他者」

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

今回のエピソードでは、フィヒテの世界観における「他者」の概念が探求されています。自我が自己を確立する過程や、能動的な意欲と他者との関係について議論され、フィヒテの哲学が他者認識にどのように影響を与えるかが考察されています。フィヒテの倫理観では、他者を単なる手段として捉えることは倫理的に許されず、他者もまた自由に広がりたいという欲求を持つ存在であると認識されています。この理念は、相手の自由を尊重し、共に広がる可能性を探求することに根ざしています。フィヒテの思想に基づいて、自我と他者の関係が探求されます。特に、自我の存在から他者への理解が進む過程や、AIとの違いに焦点を当てながら、自由と他者とは誰かについて議論されています。このエピソードでは、キャビンアテンダントロボットを通して、人間とAIの違いや自我の概念が探求されています。フィヒテの哲学を元に、自由や衝動のあり方について議論し、ロボットの感情や反省の能力と人間との境界について考察されています。

フィヒテの世界観の探求
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回はフィヒテ第4回ということで、フィヒテの世界観での他人とは何かというところを見ていくという話でした。
前回は、まずフィヒテの考えからすると、どうやって世界が立ち現れてくるのか?
前回はレゴを自分の足が踏むみたいな話をいろおっしゃったと思うんですけれども、
それが思ったよりも先の話というか、遠いよねみたいなところを結構話したと思うんですよね。
かなりの応用編だよねみたいな。
そうそうそうそう。
それでいくと、自我が自己を立てるという前々回の言ったことに対して、
そもそもその前に立てようという衝動みたいな意欲みたいなものがあって、
それによって立てた時に、いろいろやってると痛いとか熱いとかそういうものが感じられて、
それを反省すると、これは今レゴ、何か外にあるものにぶつかったからだとか、
何かその外に熱いそういうと感じるものがあるからだみたいな、
そういうふうな対象がねっていうものを想定するような発想と、
それに対して自分が痛いからやっぱりそれは避けようとか、
熱いから手を引っ込めようみたいなそういうものが生まれてきて、
そういった一個一個のものを全部統合する構想力っていうものを使うと、
世界が現れるんですよみたいな。
かけあわせるとね、そんなステップの話をしたと思うんですよ。
能動性と自我の関係性
いやー、私、あとなんか前回の後ちょっと思ったのが、
今流行ったのがその衝動、やっぱり第一歩としての衝動、
その広がりたいみたいな、だけど広がれないみたいなのがあったけれども、
なんかこの衝動は結構、何かしたいみたいな感じで表現するよりも、
前回の話だと、何かできないから広がらなければならないとか、
もうちょっと自動的な、ポジティブに無から有を生み出していく感覚っていうよりは、
もうこれ守らないとやられるみたいな、
結構そういう自動的な感情に近いのかなとも思って、
なるほどね、はいはい。
そうするとわかりやすいかなと思った、個人的な理解としては。
はいはいはいはい、なるほどね。
実はそれは明確に違ってて、
え、違うもん、前回のお時間返して。
返さないよ、返さないけど、
なるほど、そういうふうに受け取るんだってまず面白かったのね。
なぜかっていうと、フィフティは明確に能動性ってものを重視してます。
要は自分が自分を立てるんだっていう、ポジティブなそういう感覚、
能動性ってものを大事にしてるんですよ、ポジティブ。
これ何でかっていうと、やっぱカントを意識してて、
カントはやっぱり一定受動的なんですよ。
何でかっていうと、要は自分の中に空間とか時間みたいな枠があって、
でもその枠に外のものをある種受け止める、
要はリンゴだったりパソコンでもいいんだけど、
受け取るから認識が起こるってのはカントじゃないですか。
要は経験論とでか的なものを統合したっていう話はあるんだけど、
ある程度自動的なんだよね、その認識っていうものが。
はいはい、そっかそっか。
センサーを持っていってるからそこに何か入ってきたときに
ファーってわかるでしょみたいな感じとかね。
そうなんですね。僕らの感覚としても基本はそうで、
やっぱり外のものを内側に取り込むって、
カントはコプレニクス的限界で取り込むだけじゃなくって、
取り込む枠組みとか仕組みっていう構造があるっていうことが画期的だったんだけれども、
フィクテンはそれだとやっぱり外のものってなんだとか、
やっぱりもの自体っていう結局人間が扱えない領域が残るじゃないかっていうことを解消したいわけなんだよね。
だから受動的だと結局何が自分に飛び込んでくるのかっていう問題を解かなきゃいけないじゃないですか。
そうね。
とか何が自分を立てたいという欲求に追いやってるのかっていう、
外の存在を想像しなきゃいけないじゃないですか。
そうなると結局フィクテンがやりたいもの自体的なものとか、
外の存在っていうものを維持されるっていうことはやっぱりできなくなるんだよね。
なので学問的な発想としてもあくまでも能動的に、
自我というものが自分を立てたいとか、それをしたいっていうところからすべてが始まる。
そっちが先なんだ。
そっちが先。
前回の流れだとね、前提として自分がそうしないとそもそも消えちゃうというか、
自我だと個性みたいなのが消えちゃうから、
そういう抗うような形での能動性みたいな、そっちの順番だと理解したんだけど、
違うんだね、フィクテは。
違うんだよね、そう。
次回また扱うんだけれども、そうなるとなんで自我は自分を立てたいと思う、そんなに強く思うんですか。
自我って結局何なんですかっていうことはやっぱりどうしても問題になるんだよね。
なるよね。
それは実はその後期、フィクテと言われるようなところで、
少し宗教だけだとやっぱり近づいていっちゃうんだよね、どうしても。
いわゆる絶対主的なものとか神みたいなものに近づいていくんだけれども、
今日の説明の段階では、そういう何か知らないけどどうしても自分を押し広げたいという欲求に突き動かされている、
そういう自我っていうものがあって、
ただどうしても現実的にはそれが抑え込まれてしまいますよねっていう、
他者との関係性の考察
そういうふうな関係性で理解してもらえるとありがたい。
あー、オッケーですオッケーです。でもそれも確かに矛盾というか、
おかしな話ではないね、確かに。
どっちが鶏卵じゃないけれども、周りから制限されるから自分がやりたいのだ、
あとは自分がやりたいから周りが反発してくるじゃないけれども、
確かに表裏一体だからまあまあ確かに。
そうなんだよね。
そこはあんまり厳密にできないかもって思った、確かに。
一応言葉で分けると、絶対的自我と有限的自我かな、ちょっと待ってね。
分かれてるの?自我も。
うちはあって、
要は絶対的自我っていうのは本当に無限に広がれるというか、
本当に制限を受けない自我みたいな感じなんだよね。
それが有限的自我、ある種一人一人の人間存在とする自我になると、
当然無限には広がれないから、本当に制限を受けるからっていう風になるっていう、
一応そういうレイヤー分けはしてるみたいなんだよね。
多分そうすると結局さっき通りで絶対的自我ってなんだよみたいな話になってしまうので、
理解の助けがあるけれども、やっぱり何だろうな、
本質的に分かりやすいかっていうと、ちょっと難しいよねとも思う。
絶対的自我と有限的自我を分けることがね。
みたいな感じなので、今兄貴が言ってくれたのすごい大事で、
まさにニワトリ卵ではあるんだけれども、
悪夢のフィヒテは自我を立てたい、立てようっていう脳蔵性、
ポジティブな感じっていうことが先ですよっていうところをちょっと抑えてもらえればと思ってます。
はいはいはい、OKです。
少なくとも今のフィヒテの世界観ではそうだよねっていうところは理解しておくといいよねっていうね。
そうそうそう。
それがあることで、より今日お話ししたい他者とか他人っていう問題がリアルに迫ってくるんですよ。
どういうことかっていうと、これが受動だとすると、
自分を立てろって差し迫ってくるものが他者だ、みたいな。
そういうふうにも言えちゃうじゃないですか。
そうだけど、それ全員に適応されると何が差し迫ってきてんの、それぞれの人にってなっちゃうね。
そうそうそうだし、そもそもそれぞれの人っていう存在が先になっちゃうから、
フィヒテがやりたいとか今までやってきた、
衝動があって自我が、自己を立ててっていうところとは全然違う世界の話になっちゃうんだよね。
確かに確かに。
あくまでも自我が先、衝動が先っていう意味だと、まずは自分というか自我が立つっていうことが先にあって、
その後に自社が現れるってやっぱりそういうステップなんですよね。
あくまでも受動じゃなく労働というのをこだわったのはそこなんだけれども。
今日の話により入っていくんだけれども、
当然、他者とか他人を語るときって、まずは自分と他人っていう両方の概念が必要になってきます。
なので、まず先に自分っていうものをちょっと話したいんだけれども、
フィヒテの考え方において、自我とか自己って言っているから、
なんとなくイメージが湧くかもしれないんだけれども、
自分っていうものをどう掴むかっていうのは、わりと根源的なものなんですよね。
要は、自分とは何かとか、自分とは存在するのかって、
あるいは問おうと思えば僕らは問えるじゃないですか。
でもフィヒテの場合、もう第一歩目で自我が自己を持てちゃってるじゃないですか。
であると、そういう自分とはとか自分がどこにみたいな話って、もう問う必要がないんですよね。
なるほど。自明なんだね。あるじゃんっていう。
これをある種、言葉としては知的直感みたいな言葉を使うらしいんだけれども、
つまり直感的に自分の存在っていうのは経験できるとか、掴めるよねっていうふうに言うんだよね。
知的ね。知的直感。
知的直感。なんであえてこれを言うかっていうと、実はカント、
やっぱりフィヒテはずっとカントのことを話してるんだけど、
カントの場合、自分という存在をそのまま掴むってできないんですよ。
なぜなら、自分という存在も時間とか空間という形式とか構造の中にあるものじゃないですか。
なので、自分を掴もうと思っても、空間とか時間ってそうやっぱり一枚フィルターを通しちゃってるんだよね。
つまり、自己を対象として理解するってなると、やっぱり自分自身を理解するというよりは、
自分というものとか、自分という存在を外から取り込んで理解するっていうふうにワンクッション挟んじゃうんだよね。
そうだね。だから、もの自体としての自分は分かれないって話だよね。
そうそうそうそう。自分を対象とするからにはね。
ただ、フィクションはそれをある種、簡単に踏み越えちゃうんですよ。そんなクッションというか、そんなフィルターはないからみたいな。
もう、自己を立てた瞬間に、ここに私が私を立てたということは疑えないよね、みたいな。
そういう、だから私の存在というものは、ある種誰にも否定できませんね、みたいなところから始まるんだよね。
なので、ある種そういった意味では、自分というものならクリアできましたよね。
そうね。こういう人の世界観だとそうなるね。
そうそうそうそう。っていうところがありますよね。
そこから世界に向かっていくって、前回話したと思うんだけれども、自分というものが世界に広がっていくときに、
例えば、前回言ったようにレゴを踏んだみたいなことでいくと、ある種それって抵抗ではあるんだけれども、
自分がそれによって、本当に無限に広がれないかっていうと、実はそんなこともないよね。
要はそのものを別にどけるとか、壊すとか、
粉砕してさ、ありとあらゆるものを粉砕して、自分というものを広げていってもいいわけじゃない?
まあそうね。
っていうふうにすると、ある種、ものだけの世界、もっと言うと、
ある種自分の思うままに仮にできるものだとすると、その世界ではやっぱり究極的にはまだ制限を受けてないんだよね。
ああ、なるほど、そうなんだ。
受けるんだけど、それを乗り越えられるんだよね。
でも、やっぱりその世界で乗り越えられない存在があって、それがある種他の人間、もっと言うと、
自分と同じように押し広げようとしている、自分という存在を無限に押し広げようとしている存在っていうものが、実は他にもいますと。
まあいいんじゃない?そっちも粉砕していればいいんじゃないの?別に。
なんでいきなりさ、そんな怖いこと言うの?倫理観どこいったの?お兄さんの。
フィヒテの倫理観
まだほら、フィフトの世界観の倫理の話してないから。すごく素朴に考えると、石と人、他人って変わんないじゃん。
粉砕して広げればいいじゃん。
なるほどね、なるほどね。
それは本当にそうというか、ゲームだとそうなるじゃん。要は自分だけが主人公プレイヤーで、
ノンプレイヤーキャラクターあったらどう扱ってもいいよねと。
実はね、これはフィフトはやっちゃダメって言うんですよ。
なんでかっていうと、一番根底にあるのは、やっぱりこれもカウントなんだけれども、
カウントってさ、いわゆる倫理というか道徳の話の中で、定言明報とかって話をしたじゃないですか。
その中で自分のさせたことが、いつどこでも適用するようにしなさいとかと合わせて、
人間というものを単なる手段じゃなくて、常に目的として扱いなさいっていうことを言ってるじゃないですか。
あったね。
つまりこれは手段じゃなくて目的って話でいくと、今兄貴が言った、他人も自分の無限の自由のために粉砕せよっていうのはもう手段なんだよね、完全に。
そうね。
あくまでも手段じゃん、これ。
でも他人も無限に広がりたいっていう衝動を持ってるわけじゃないですか。
それを僕ら人間というのは想像できるとか累積できる。
相手を理解しようということよりも、自分を反省していたときに、自分が無限に広がりたいと思うように、
同じように無限に広がりたいと思う存在がいるということは、一定推論できるよねっていうふうにフィヒテは考えるんだよね。
なんでかっていうと、具体的な場面として、自由への呼びかけみたいな言葉があるらしいんだけれども、
これもいわゆる一定の知識とか言葉の共有とかっていうことが前提であるから結構難しい話なんだけれども、
例えば僕が兄貴に、今の話分かったとか、これどう思うとかって聞いたりするじゃないですか。
こういう時に、今さんの話す存在はその問いかけっていうものを、どう返ってくるかわかんないよねって思いながら問いかけてるわけなんですよね。
なので、もっと言うと、兄貴のことを自由に応答できるというか、どんな答えをしても良い存在として捉えてます。
つまり、このように問いかけるっていうことは、相手の自由っていう、もっと言うと相手の広がりっていうのを認めているってことになるんだよね。
なるほど。
逆に言うと、例えば相手を手段として捉えて、何か命令をする、こうしなさいとか、
例えば絶対に私の発言には従いなさいとか言っちゃうと、これは自由じゃないし、相手の広がりっていうものを認めてないよね。
そうだね。
なので、これは手段として相手は扱っているし、問いかけではないんですよ。
そうじゃなくって、本当にオープンにどう感じてるのとか、どう思うっていうふうに聞いた時には、
それが相手の自由とか広がりたいという衝動とか、そういうものを認めてるよねっていうふうな、そういうふうにフィフテは説明していくんだよね。
へー、なるほどだし。ちゃんとフィフテはやっぱり、これまでの世界観で言うと、
他の人が来た時に、石とかと同じように土手ちゃうみたいな可能性に関しては丁寧に考察というか考えてるんだよね。
そうだね。やっぱり第一回で言った通り、フランス革命の話をしたじゃないですか。
やっぱりフィフテは自由が広がるっていうことは良いことだし、やっぱり人間の可能性が広がるっていうことは基本的に前向きに捉えてるんですよね。
なのでやっぱりそれを語ろうとした時に、やっぱり人と石は同じじゃなくて、やっぱり人と石は違うとか、
そういう存在として扱う方がより良いよねってやっぱり仮想は多分前提にあるんだよね。
はいはい、なるほどなるほど。
他者の尊重
何が違うのかっていうと、まさに相手に対する接し方。
レゴだったらさ、別にレゴに器用さごとなくどかしたりとかさ、別に投げ捨てたりもできるわけじゃない。
でも仮に相手と、というか自分と同じように認めてる存在とすると、
やっぱりそこに対して相手の自由を一定尊重しようとか、それを前提としたらやっぱり関わろうっていう風な発想になるよねっていう風にいう人はいるんだよね。
なるほど。確かにリビングから歩いてて、踏んだのがレゴじゃなくて、例えばね、お父さんとか踏んじゃった時に、
そうそうそうそう。
ほいってしていいの?っていう話ね。
うん、ね。
お父さんにはお父さんの寝る自由もあるでしょ?みたいな。
そこに自由もあるでしょと。
邪魔だけどね。
そこに対してちゃんと邪魔なんだけどって言ってあげる方がやっぱりいいよねと。
無言で投げ捨てるとかさ、逆に踏みつけて痛みつけてやろうっていうのは、
この辺はかなりロジックよりは、結構まさに倫理的なことが含むんだけれども、
逆に言うと自分の自由とか広がりたいっていうことを肯定するようになれば、相手のそれも肯定しないと嘘になるというか。
まあそうだよね。それこそホップスか、万人の闘争状態じゃないけどさ。
そうそうそう。
だいぶ殺伐とした世界になるよね。
そうなんだよね。
お互いがお互いをものとして排除して良いみたいなさ、自分が広がるためにはっていう世界って、
自分にとってのリスクも大きすぎるもんね、それはね。
本当にそうなんだよね。
リームとか無視してもっていうか。
そうそうそうそう。結局自分が広がりたいっていうことだけに目が向いてしまうと、
結局は自分の広がりがどんどん狭くなっちゃうっていうのもあるだろうし。
で、絶対他人から抑えつけられちゃうじゃん、そんな人。
時代的にもそういうところの話から、ロックだったりとかヒュームだったりとか、
あとフランス革命だよね、ルソーとか。
踏まえた世界観だからよりその辺が自然に人も捉えてるというか、
頭でちゃんとそこを自由、人に人に理性があってそれぞれ自由だよね、みたいな。
人格あるよね、みたいな。世界観が割とすんなり受け入れられてるし、
それがいいよねっていうところを思ってるって話だよね。
そうだねそうだね。
第1回だったとおり、まだフィフステが住んでたところは、まだそれが実現してない可能性だっただろうしね。
そうだねそうだね。
ある種そういった形で、自分というものを通してもちゃんと他人ということの自由とか、
ある種尊厳的なものも見出せるねっていうところが結構真っ直ぐつながっていく感じなんだよね。
はいはいはい。
ごめんね、全然話に進まないよね。人を排除しちゃいけない、なんで?みたいなところにかなり時間割れちゃってるんだけど。
でもね、結構それは大事で、やっぱりそういう発想もできるじゃないですか。
要は人っていうのは、自分だけが広がれば良いとか、自分と違うっていう発想も当然、今の僕らってやっぱりできるわけだよね。
でもそこに対しては、やっぱり迷惑が脳を突きつけるというか、やっぱりそれだと結局世の中が良くなっていかないし、
社会っていうものが自分たちが目指す自由を拡大した社会とか、逆に言うと僕ら今自由を拡大することのデメリットとか、
やっぱり悪い部分っていうのも知っているから、本当にそれでいいのってやっぱり思うんだけれども、
当時の発想でいくと、やっぱりより世界とは開かれていて、自由になってどんどんどんどん広がっていく。
それっていうものを肯定するというか、後押しするのが発想が、
たぶんフィフテの自我っていうものから世界を生み出していく、作り出していくっていうのが発想なんだと思うんだよね。
だからね、これ面白いのが逆の発想で、さっきさレゴがあったら別にぽいってしてもいいじゃんって言ったじゃない?
でも、例えばうちの娘とかもそうなんだけれども、石をめちゃめちゃ拾ってくるんですよ。
子供って石拾わない?
家の前にどんどん溜まるよね。
そうそう溜まって、うちの子だと結構洗って、家の中持ってきて洗って箱とかに詰めたりするんだけど、いい石を。
そう、中でもいい石をね。
そうそうそう。石をかなり擬人化して、これは大きいから先生だよとか、これちっちゃいから赤ちゃんかなとかってやってて、
僕とかが片付けておいてひょいってやると、やめてみたいな、赤ちゃん起きちゃうでしょとかって言ってくるのね。
それはある種、擬人化しててそれまでなんだけれども、娘からすると石っていう存在も、
ある種の石の広がり方とか、多分石の在り方があるんだよね。
なんか勝手に動かしたら怒られるし、石の自由を制限しちゃダメみたいな感じで言われたりするのよ。
はいはい、なるほどなるほど。
ある種それはどこまで広げるか次第だとは思うんだけれども、
やっぱり他の存在を認めましょうとかっていう時に、
ただただ他者として認めるっていうのは、自分とつながっている他者とか、
自分の自由を認める時には他者の自由も認める必要がありますよねっていう、相互承認的な話?
ところがさっきのふいひとの言う問いかけだよね。
要は自分が問うということは相手からも問われる可能性があるし、
問われる時にやっぱり相手にも自分の自由を認めてもらわないと、
それは問いじゃなくて単なるさっき言った命令とか質問みたいな感じになっちゃうじゃん。
そういうやりとりができるということは、お互いにそういう自由と制限を抱えている存在だよね。
フィヒテの世界観の影響
そういう部分で共通してるよねっていうふうなものが生まれてくるよねっていう感じなんだよね。
おー、なるほどね。面白いけどなかなか危ない世界観な気もしてきたね、なかなかね。
ほんと?どの辺に県を感じる?
うーんとね、だから前、大陸合理論とイギリス経験論の時に、
イギリス経験論側がデカルト側、大陸合理論に感じた、たぶんその、
例えば、そのような感覚がない奴は人間じゃないみたいな。
はいはいはいはい。
このフィッシュの世界観でいう自我、
みんな感覚を持ってない奴は人間にあらずみたいな。
理性があるとは言えないみたいな。
ちょっとそういうふうに選別するような形にもてきちゃうなーっていうのを今ちょっとふわっと感じたね。
なるほどね。あーでも、それはね、すぐにあるかもしれないな。
それこそカントの時にもあったじゃないですか、その、
いわゆる人格ね、ちゃんとでいうところの人間ってなんかすごい理想的じゃないとか、
そんな人いるかなみたいな話をしたの覚えてる?
はいはい、人格ね、あったあった。
定言明報に従って生きてる人だよね、確か。
そうそうそうです。
その時にね、私たち人格じゃないかもみたいな話をして、
ちゃんと認めたいって話をしたと思うんだけど、
そういう雰囲気というか香りみたいなものはやっぱりどうしても感じるよね。
まあまあまあね、その時代的にもね、どうしても。
だからこういうと、多分こういう感覚を持ってる一般市民だったりとかは、
いいねいいねで、みんなに命令しちゃう、
例えば悪い領主とか悪い王様みたいなのは、
ちょっと違くない?みたいな。倒していいんじゃない?みたいな。
っていう使い方もできるかなみたいなね。
できるできる。
だから、やっぱりフィヒてもね、いわゆる革命とか、
そういう抵抗みたいなところは結構オッケーみたいな、
当然フランス革命を支持してるぐらいだからって話があって、
やっぱりお互いに人を目的として扱いましょう、
手段じゃダメですよって言うということは、
こいつ俺のことを手段として扱ってるなっていうふうに出会ったときには、
そいつの自由も奪えるんだよね。
そうだよね。自分も、そこはもうお互い、
あっちがやんならこっちもやったるでみたいな感じにできちゃうっていう。
できちゃう。それも手段じゃなくて目的として、
相手のためとかさ、ちゃんと、
相手のためっていうのはちょっと言い過ぎだけれども、
フィヒテの思想と自我
相手の自由を持った存在、そして認めた上で、
その自由の支え方は間違ってるよねとか、
他の人の自由って制限しようとしてるねってことに対して、
正当にやっぱり反論できるとか、抵抗できる。
そういうのをしっかり繋がっちゃうんだよね。
ただ単に否定してるんじゃなくて、
あなたにもそういう自由があるのはこっちは認めてるけれども、
自分の土俵で相手をちゃんと否定することができるんだ。恐ろしいね。
そうなんだよ。
だからやっぱり思想として強みがあるっていうこともそうだし、
やっぱり第一回とか言ったけれども、
極端ではあるんだよね。
自我っていうものをあまりにもはじめに置きすぎているから、
さっきも言ったように、自分が自分であるとか、
自分というものが存在して行動してるってことに対しては、
一切疑いを持つ必要がない。
なんで自分の自由があるのかとか、
なんで自分の自由が保障されるのかっていうことは一旦置いといて、
そもそも人間とはそういうものであるみたいな。
結構極端な立場から始まってるなっていうふうに思っちゃうんだよね。
その辺はルソーさんお願いしますみたいな。
まあね、そう。
だから、やっぱり否定は悪いとも言わないし、
相手の自由を認めるっていう意味では、
相手をちゃんと認めるっていう意味では、
ちゃんと社会性があるというかね、
そういうところにつながっていくと思うんだけども、
兄貴が言ってくれた通りで、
社会って本当にみんなにとって行きやすいんですかとか、
重要性が担保されてるんですかみたいなことは、
正直ちょっと派手なかなって思うよね。
ごめん、ちょっとずれちゃったけどね。
いやでも大事だと思う。
ロックのあたりで感じたことと同じ危うさを感じた。
はいはいはいはい。
そうなんだよね。
やっぱりね、この面白いのは、
今回は言ってたかな、
やっぱり最初に置いてる自我っていうやつが、
結局なんやねんっていうところなんだよね。
ここまで来ると、
一旦自我がそういうものだとしましょうっていうところから進んでいくステップとか、
世界の立ち上がり方っていうところから納得感があると思うんだけれども、
やっぱりこの、
お互い自由ですよねとか、
人と会った時にもお互いに承認し合って問いかけ合いましょうみたいなことはいいんだけれども、
結局それってさ、やっぱり不完全な人間のだけの話なわけじゃない?
っていう時に、結局その相互、
承認でお互い自由だよって認め合う根拠ってどこにあるのっていうと、やっぱ自我なんだけど、
じゃあその自我ってやっぱなんだよって、やっぱりそこにまた戻ってきちゃう。
他者の理解と反省
前回もさ、結局自我、自己非我っていう中で自我に戻ってきちゃった話をしたんだけれども、
やっぱりここまで話しても、結局自我ってなーにって、
そこにぐるぐるどうしても突きまとわれてしまう感覚がフィフティにあるんだよね。
そうね。その世界観としてはすごいわかるし、
今ね、その世界観の話をしてる途中でちょっとずらしちゃったのは申し訳ないんだけどね。
はいはいはい。
ちょっとあるよね。
そう。なので、やっぱり実はフィフティ自身もそういうところがあって、
なんかこの青春だけども、その後期フィフティって言われるところは、
自我の根拠、やっぱり自我とは何か。
もっと言うと、自我っていうものを根拠に置いたんだけれども、
それをさらに突き詰めて、より根源に至ろうとするんだよね。
あー、うわー、なんかドロドロな感じがするよね。
いやー、そうなんだよ、そうなんだよ。
そしたらもうね、もとおりの映画さんが目を覆ってしまうようなヒーッて、
もう逆しらーってやっぱこうなっちゃうと思うんだけど。
逆しら認定。
逆しら認定ですよ、もう圧倒的に。
でもやっぱり、西洋哲学というか、多分当時の哲学でいうと、
やっぱそっちに行かざるを得ないんだよね、どうしても。
哲学として、ちゃんと打ち立てようとか、より正合性を高めて、
やっぱり自分の説っていうものを感性に近づけようとすると、
やっぱりより根源、根源みたいなことになっちゃうんだよね。
そうだね、そうした方が他の人からすごいって言われるし、
理解もされやすいし、崩されづらくなってくるしっていうね。
そうそうそうそう。
やっぱこれが結構泥沼、アニケーって言った通り結構ね、
沼にハマってる感じで、やっぱりそこからやっぱり神とか絶対者とか、
そういうものはやっぱり近づいてっちゃうんですよね、よくもあるとも。
面白いよね、でもそれもね、なんか。
っていうところがあるので、次回はそういった絶対者というよりは、
ある種フィヒテが立てていった自我、
さっき言うと絶対的自我と有限的自我があるよって言ったと思うんだけども、
それより絶対的自我の方を突き詰めていくとどうなるのみたいな、
そういう話をしてフィヒテ編は一回終わりにしようかなと思っていますと。
そうなんだ、はいはいはい。
ちょっと物足りなさはあるかもしれないんだけども、
次まだシェリングっていう人がいて、そのあとさらにヘイゲルっていう人がいるんで。
あ、控えてるんだってか、今回。
そう控えてますよ、バッテリーがいっぱい控えてるし。
しかもシェリングはフィヒテ、言ってた?シェリングはフィヒテっていうものを受け継いでいるし、
ヘイゲルはシェリングを受け継いでいるっていう風に結構重なってるんですよ、時代的にも思想的にも。
ほうほうほうほう。
なのでシェリングに進んでもフィヒテのこと出てくるし、もっとカウントも出てくるし。
ヘイゲルに進んでもそれは同じっていう感じなので、
フィヒテだけは今見るというよりはシェリングにも進みつつ、フィヒテにも戻りつつみたいな。
そんな感じでやろうかなと思っているので。
一旦は次回フィヒテ編というところでは絶対的自我みたいなものを追求していくところでおしまいにしようかなと思ってますっていうような感じですね。
はいはい、なるほどなるほど。
じゃあ今回の他人の話は一旦これでおしまいという話?
そうですね。
なるほど。
そしたらさ、ごめん、ちょっと途中でさ、
そのチャチャ入れちゃったというかさ、
ただフィヒテを悪者にしたみたいな感じになっちゃったから、
はいはいはい。
ちょっとまとめじゃないけどさ、他人の話あんま残ってないからちょっとまとめじゃないけど教えてくれる?もう一回。
オッケーオッケーオッケーです。
前回との違いでいくと前回は物でしたね、レゴとかケーキとかそういうものに出会ったときに、
その感情ね、美味しそうかなんじゃみたいなものとかが出てきてそれを反省することで、
そういったものにたどり着きますよっていう話をしましたよ。
で、じゃあ物と人の違いとか、あるいは自分と他人ってどう関わるのかっていう話なんだけれども、
いわゆる他人、もっと言うと自分と同じように自我がある存在っていうものに出会ったときに、
やっぱり僕らっていうのはそれをただ単純に何だろうな、
物として処理をするとか、自分の発想だけでやっぱり教えるんじゃなくて、
ちゃんと相手に問いかけますとか、相手の自由っていうものを想定しながら関わりますっていうことを自然にやるよねっていうふうにフィクターが考えるんだよね。
なぜなら自分っていうものを反省していくことによって、そういう存在が他にもあるとか、
そういう自分以外の存在も同じような自我というものを持っているっていうことを、類推論理的に想像できるからっていうふうに言うんだよね。
そっかそっか、前回でやった反省っていうものを、物じゃなくて他人に適用すると、そうならざるを得ないんだね、フィクターの世界観って。
そうそうそう、そうです。
例えば、もうちょっとこれも脱線したいかもなんだけれども、チャットGPTありますよね、というときに、
例えばあいつが問いかけてきたりするわけじゃないですか。
最近質問多いよね。
そうそうそう。っていうときに、僕らはそれをやっぱり一回反省して、何か、例えば感情としては、聞かれたっていうとそれもちょっと事実っぽくなっちゃうんだけれども、
仮にそういうものがあったとして、聞かれたっていうときに、その聞かれたことがある種、自分と同じような自由とか広がりたいっていうものを持った、
自我を持った存在からなのか、それとも違うものとして問われてるのかっていうことを要は反省していって倒れつくことができますよねと。
なので、同じような例えば問われるっていう体験においても、他の人から問われるのと、チャットGPTっていうものから問われるのとっていうことでは本来的には違うはず。
ただ僕らはやっぱりチャットGPTできるものを見たときに、何か自我というものがあるんじゃなかろうかとか、何かこいつも自分を広げようという意思があるんじゃなかろうかっていうふうに、やっぱり重ねてしまう部分はあるんだよね。
そういうふうに設計されてるのか。
っていうのもあると思う。ただあくまでも、これは今思いついたから言っちゃうんだけれども、衝動っていう話を前回したじゃないですか。
要は広がりたい、無限に広がりたいとか。
衝動ね。
衝動。でも制限されるとかっていうときに、少なくともチャットGPTの衝動は今この瞬間はわからんけれども、そのチャットGPTっていうものが発想された瞬間は、チャットGPT自身のものではないはずなんだよね。
どういうことだ。
つまりそれを作った何か研究者なり、ビジネスパーソンがいて、そういうことをするときっと素敵なAIができるんじゃないかとか、素敵なことが起きるんじゃないかっていうふうなその人の意思があって、チャットGPTが生まれてるはずじゃないですか。
そうね。
つまり今このチャットGPTの始まりは、チャットGPT自身の自我から始まったわけではないんですよね。
なるほど。衝動があったのかと、チャットGPTという。
フィフトの文脈でいうとね。
なので、その発想からすると、そういう衝動から生まれた存在である他人と、そういう衝動がないままに生まれたチャットGPTということは明確に区別ができます。
そういう意味で、チャットGPTには自由がないとか他者ではないけど、菅野共介という存在は自分にとって他者であるっていうふうな比較ができるとか、安定ができるみたいな、そういうふうな感じかな。
ああ、はいはいはい。なるほどなるほど。確かに話とはずれたけれども、でも確かにこのフィフトの世界観でも、他者と他者じゃないものの線引きって、確かにそうやってやるとできるねっていうのは面白いね。
AIと人間の違い
そうそうそう。成功のロボット。よく言われるけど、いわゆる自発性とか能動性があるかっていうところが、AIと人間の違いだみたいな話ってよく言われると思うんだけど。
要は何かをしたいっていう欲求は、やっぱりまだ人間しか持ってないって話ね。それにかなり近い発想が、このフィフトの世界観にはあると思うな。
なるほどだし、その欲求、今の欲求がどういう意味かわかんないけど、多分欲求だけだったら区別がつかなくなる日も近そうだよね、この技術の進歩だと。
そうだね、あると思う。
ちょっとまだうまく整理できてないけれども、今回のフィフテの衝動レベルだと区別つくんだろうなと思った。
はいはいはい。それはそうだね。たとえばチャットGPTは仮に電気で動いてて、仮に電気が自分のエネルギー源だと理解したチャットGPTが、もっと電気をくださいとかって言ったときに、
これって人間の食欲と何が違うのかっていう発想は、確かに起き得ると思うんだよね。欲求っていう観点で言うと。
あと人を助けるとか、人と関わりたいみたいなものも、ある程度プログラムだったりとかで作れそうじゃん。しかもその上でかなり柔軟な対応をしそうじゃん。
たとえば、キャビンアテンダントロボットみたいなのが汎用型の人の形をしたAIロボットがいたときに、フライト経験を素敵なものにしてあげましょうと。
で、荷物の出し入れだったりとか食事の提供だったり、物々のサービスをしましょうっていう、めっちゃ汎用ロボットがいたときに、そういう欲求だよ、それを欲求とする。
それを目的とするロボットがいたとすると、かなり精度高そうじゃん。
で、それをキャビンアテンダントっていう食料の人間とロボットを加えたときの差っていうのは、だいぶ減っていくだろうなみたいな。
そうすると、人間とロボットの境目がちょっとあやふやになって混乱しそうなんだけど、もっと先の人としての在り方と衝動まで、
キャビンアテンダントさんも一人の人として、食料の人としてそれをやってる。
息がいいかもしれないけども、そこを含めたお理由と違うねみたいな。
そこがたぶん普通に生活してると、人とロボットの差がどんどんわかんなくなりそうだなって、今のタイトルの話を聞いて思ったけれども、救いがあるなとも思ったっていう感じ。
感情と衝動の違い
自分の場合はそこが全然わかんないからさ、今のように制御してもらわないと、本当にわかんなくなるかも、人とロボットの接し方。
あるよね。あるよねっていうか、確かに今、PCって結構そこにすごい役立つ哲学者なのでは?って私今思ったんだけれども、
今の兄貴の、ちょっと長かったかもなんだけれども、キャビンアテンダントロボがいたときに、前回のステップで衝動があって、自らが事故を立てて、感情があって反省をしてっていう話をしたじゃないですか。
そのキャビンアテンダントロボでいくと、感情ぐらいまでは技術でいけそうな気がしたんだよね。つまり、この人困ってそう、困ってるっていうのももうちょっと判断入っちゃってるんだけど、
例えば何か人が落とした、落ちたとか、音がしたとかっていう感情に対して、これはこの人が落として拾って欲しいんだっていうような判断までは、やがてできそうかもなって思ったんだよね、確かに。
できるでしょ。
だから感情とか反省のレベルでいくと、結構人と遜色はないんだけれども、確かにそれより奥の衝動だよね。やっぱり自らが事故を立てるとか、やっぱり自分で自分を存在させようとしたっていう次元までは、まあやっぱりいかない。
この本当に根源のところ以外は、意外と人間とロボット、あるいはAIっていうものは重なっちゃうのかもしれないね、確かに。
ただね、今言いながら思ったんだけれども、とはいえ、自由の問題。前回もちょっと自由だよねとか、何をするかは自由だよねとかって話をしたと思うし、今回も問いかけたときに何を答えるかは自由っていう話をしたじゃないですか。
そうなったときに、キャビンアンテンダントロボットをフライト中の人を喜ばせようということをある種プログラムされているというか、それに反する行動ができないという意味でやっぱり不自由なはずなんだよね。
はいはいはいはい。
つまり、私はキャビンアンテンダントやめてロックスターになるっていうことは多分できないとしたときに、そういう意味では自分を無限に押し広げるとか、そういう発想は持ってないはず。
だとするとそこの部分では、人間がそういう衝動を持っているとするならってやっぱり前提になっちゃうけれども、やっぱり明らかに違うなとは言えるかもね。
いや、恐ろしいな。ただSF的な話になってくるけど、そこまでいくと、さっきのキャビンアンテンダントロボが、いわゆるロボたり得るのは、キャビンアンテンダントとしての仕事、業務をしてくださいっていう、
例えば人の形をしてたとして、そういう汎用ロボットだとしても、プログラム的には限定されたロボットであるわけ。
はいはい。
これをあなたは、あなたにこのフィクシテという衝動をインストールするので、それに従って、しかもそれが実現できる体としての汎用型の体を与えてありますよ。
はいはいはい。
さあ、今日からあなたはこの衝動に従って生きてください。さあどうぞってのに放ったとすると、これどうだってなるよね。
なるほどね。
だから、いわゆるそこまでいくと、たぶんその、任意というか、そっち側の話、そういうプログラムは入れちゃいけませんってなっちゃうかもしれないんだけど。
はいはいはい。
なんか、無理かもって思った。そういうロボット、衝動ロボットってのはどうする?
面白いね。あのね、たぶんこれはまさに、いやでもすごい今いいなと思った。次回のその、じゃあやっぱ自我って何っていう話に直結するなって思ったね。
うん。
例えばさその、あなたは衝動を持ちますという、いわゆる外部からの指令っていう時点で、フィクシテの世界観がずれるんだよね。
はいはいはい。
自我から始まってないから。
はいはいはい。
自我があってのやっぱりロボ、私じゃない?どうしても。
なるほどね。その衝動が自分由来じゃない。
そうそうそう。
絶対第三者だよね、ロボットの場合は。
うん。
あー、そうだね、絶対そうだね。
そう、なんか絶対に非我から始まる自我なんだよね、ロボットの場合は。
あー、なるほど。
はい、ロボットがロボットを生み出したとしても、それは別のロボットだからそれも非我じゃない?
そうだよね。
うん。だから本当の意味で、何か、なんだろうな、わからない物質が自動的になんか機械を組み立てて、ひとつの存在を作りました。ならそれは、もう自我と言ってもいいかもしれないけれども。
それも人間だよね。
そうそう。確かにそれも人間だね。人間以上だね。だって人間もね、自分で自分の体を作るわけではないから、親というね、やっぱり存在がいるし。
一人目の人間みたいな、そうだと。
そうそうそうそう。
まあまあ、いろいろな進化とかあるかもしれないけれども。
そうね。そういう風になるから、意外と非我のこの自我っていうのは厳密な気がする。
すごいね。確かに確かに。そうすると、もう自分の中にある概念としては、攻殻機動隊のゴーストっていう概念にやっぱ行き着いてるかなーみたいな感じだね。
人間が持っている衝動と、必ず第三者にしか与えられないロボットの衝動の差の違いは何か。
で、それって多分もう、普通の人間には見分けがつかないはずなんだよね。そうなってくると。
つかない、つかない。
そのロボット本人にもだし、じゃあ人間がそこを本気で自覚してるの?といったら多分無理。ほとんど人は無理だし。
そうするとゴーストがささやいてるしかなくなっちゃうよね。こいつゴーストがあるのかないのかみたいな話しかないけど誰にもわからないみたいな。
そうだね。
えー面白いね。
そうだねって言いながら僕はあんまりちゃんとゴーストの理解できないんであれですけど。
すいません。
次回ね、僕はフィッシュっていうのが絶対的に自我の話を持ってくるんで、兄貴はそのゴーストの話を持ってきてもらって。
持ってくるって何?
結構発想的には近いんだと思うんだ。やっぱりその、人かロボかみたいな話だけどもっと言うと、このステップ、いろいろありましたよって言うときに、
衝動って何?とか、感情ってじゃあロボでもいけるの?人間でもいけるの?これって違いがあるの?みたいな話は、かなり今回のテーマに近いというか本質的だと思うんで。
面白いね。そこまで行っちゃうとね、人間が衝動を本当に持ってるのかっていうところまで行っちゃうから怖い気もするよね。
そうそうそう。
自分が思ってる衝動的なものって実は借り物の衝動かもしれないしみたいなさ。
あるある。実はそれって神様に与えられたものだから、神様が与えた、だったらロボも人と一緒だとかっていう風に言えちゃうかもしれないからね。
構造的には一緒だみたいなね。
そうそうそう。これはある種非我を想定してるから難しいんだけれども。
っていう風な話があるので、でも一気に次回の深みが増したなあというか、
なんとなく今回の自分の中ではフィフテっていうところの前期から後期、もっと言うとわりと宗教的な色合いを帯びていくんだけれども、後期に行けば行くこと?
人間とAIの境界
っていうところの変化を。
わけわからなくというか、難しくなってね。
こんだけの天才でも。
そうそうそう。根源に行こうとするとやっぱりそっちに行かざるを得ないっていうのがあったんだと思うんだけれども、
やっぱり今の問題ではまさに人とロボもそうだし、他人とロボはどう違うのかみたいな話。
人間とは何かでやっぱり突き詰めると。
だってさっきのさ、かやとの娘のさ、石への感情移入って大人でもわかるっちゃわかるじゃん。
あるよね、全然。
さっきのさ、見分けつかないレベルのロボット問題以前に、うちらはさ、ファミレスのロボットに全然かわいいと思えちゃうじゃん。
あの猫のガストとかにあるやつね。
うちらって、そこはいろんな個人差みたいなのがあるかもしれないけどさ、
だからそんな厳密な話しなくても、すでにもうわかんないよみたいな。
そうそうそうそう。
やっぱりそれはもう日本人なのか世界もそうと思うけど、1000年前からさ、小さいものはかわいいなみたいなさ、そういう感覚あるわけじゃない?
だからやっぱりそういうこう、自分の気持ちを相手に乗せてしまうっていうことはあるんだけれども、
不肯定に言わせるとやっぱり他者と、もっと言うと自我を持った存在と持った存在は違うと。
そっかそっか。その営みは違うのか。自分の思いを乗せることと、自我と非我だったりとか、自分と他人を区別するっていうのはまた別の営みなんだね。
そうなんだよね。これはやっぱり結構大事なところで、さっき目的、手段じゃなくて目的として扱いっていう関東の話もあったけれども、
私も例えば自分の子供とかをかわいいかわいいって言って、自分のかわいいのばっかりで押し込めようとすると、それって結構手段として扱ってるわけじゃない?
っていう風になっちゃうから、やっぱりあくまでも自分と他人は同じ自我を持った存在であるっていうのはお互いの尊厳とか、
そうしての水平性っていうのをすごく大事にしてるんだよね。
どうしても自分の理想を押し付けるとか、こいつはかわいい、こいつは素敵だとかっていう風に一方的になっちゃうと、
それやっぱりバランスが悪い、相手を手段として扱ってやっぱりなっちゃうから、そこの捉え方は結構大事かも。平等とかね、そういう公平とかってことを考えたときにね。
面白いね。ここはぜひ今回のこのシリーズで深められたらなと思うし、
人クリーじゃなくてそういうテーマクリーでまたぜひ詳しく聞いてみたいなと思うね。
いいかもね。うんうんうん。なのでちょっと今回そのフィフティは一旦次回で終わりますけれども、
ヘーゲルまで至る流れっていう意味では引き続き続けていきたいし、そっから出たテーマをまたちょっと取り上げて、
じゃあ人とAIが何が違うのかとかっていうね、そういうので絶対ゲーナの手伝いでもあるはずだから。
そうね、今どう言われてるのかみたいなのは聞いてみたいよね。
そういうのはありかもしれないですね。
そんな感じでね、結構今日も、途中で終わらせようと思ったら結構喋ってしまったんですけれども。
ごめん、まとめてとか言った後にだいぶね。
でもね、ちょうどよかったというかね、いろんな話も頑張ったし、次回ね本当に逆に僕も楽しくなってきて、台本いつも通りこれから作るんですけれども、
今日みたいな問題意識も含めながらね、ぜひお届けしたいと思っているので。
ぜひ皆さんも楽しみに、ご自身でも何か考えているきっかけだったらいいななんて思っております。
分かりました。では次回ですね、フィフテ編最後ということで楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
59:22

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