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  2. #364 ヘーゲル『精神現象学』..
2025-10-26 48:35

#364 ヘーゲル『精神現象学』その3。「理性」は自分と世界のどっちにある?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ヘーゲルの『精神現象学』の第4回では、意識から自己意識、さらには理性への進展が論じられ、自己と世界の関係について考察されます。特に、奴隷の経験を通じて自己意識が成長し、次の段階である理性が現れます。理性的なものが現実的であり、現実的なものが理性的であるという概念を深く探ることで、自己と世界をつなげようとする欲求が描かれます。このエピソードでは、ヘーゲルの『精神現象学』における「理性」の概念が、自己と世界の関係においてどのように展開されるかが論じられています。特に、理性が自己の欲望から他者や共同体的な視点へと移行し、真の世界の理性と結びつく重要性が強調されています。また、自我と世界の関係をどうつなげるかがテーマとなっており、意識が自己認識を深め、成長する過程で、自己と他者、民族の認識に至る道のりが描かれています。ヘーゲルの『精神現象学』における理性の探究を通じて、自己意識と世界の関係が議論され、精神という概念への展開が示されています。

意識から自己意識への旅
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回ヘーゲル第4回ということで、 精神現象学の意識の旅ですね。意識から始まって自己意識、そして前回で理性までたどり着いたというところでした。
後で復習をすると、自己意識という自分、自己というものを捉えようという時に、 最初は他者を否定したいとか、異のままに扱うということをやっていきます。
そうすると、他者がなくなった、否定しすぎた先には何も自分を理解する媒介がないとなって、 自己意識さんが脱出をする、混乱をするという時に、
それ以外の自己を求めますという話だと思うんですよね。
そこで主人と奴隷だとかって話を前回したと思うんですけれども、 実は主人というものがより良いのかと思いきや、
実は奴隷の方が挫折をちゃんと経験しているからそう成長できて、 その奴隷的な部分から自分の限界を知った自己意識というものが、
いわゆる自分の限界ではあるんだけど、そこで世界とどう関わるかみたいな、 そういうことを試していくんだよというふうな話をしたと思うんですよね。
はいはい、実はこっちの方が、奴隷側の方がより世界を知るとか、 自分を知り続ける、認識し続けるっていう意味では、 実はこっちの方が良かったかもしれないみたいなところに気づいちゃったという話だね。
そういうことですね。そういうきっかけが生まれたよということなんですけど、 最後、前回不幸な意識、不幸せな意識っていう、ちょっと不思議な言葉に至ったと思うんですけど、
要はこれは、自分は限界があると。 そこからこそ、どこかに無限の存在、神みたいなものがいて、 前回何人かも言ってくれたけど、そういったものがあればサステナブルじゃないですか。
要はそれは、亡くなりもしないし、自分に異のままにもされないし、 なので、その自己意識の媒介としてあり続けてくれるんだけど、
そうすると結局、自分が欠けた存在であるっていうことは、 どうしても抜け出せない。
やっぱり意識さんはそれを乗り越えて、何とかもっと次のレベルに行きたい、 もっと次の意識に行きたいっていうふうになっちゃうんですよ、っていうところまでいたと思うんですよね。
はいはいはい。もう、その絶対者みたいなものを想定してしまうと、 そこの絶対者を知りようがないっていう、多分それこそ挫折というか、 そこに関してはもうそれは許されないっていう感覚なんだろうね。
そうなんです。世界と自分って分かれて分断しちゃうんだけど、 意識さんはどこかで世界を知り尽くしたいっていうのがポンポンっていうか、 むしろそこから始まってるから、これはやっぱり耐えきれないんだよね。
はいはいはい。そんな闇の部分というかね、場所を作れないと。
そうなんです。っていうのがあって、次の段階、今回お伝えする理性っていう段階にきて、 何とかその世界と自分、もっと言うと絶対者的なものと、
このかけられた事故っていうものの、この分断っていうものを何とか乗り越えたい、 つなぎ止めたいっていうふうに思うっていうふうなステージが出てくるんですよ、というふうなところなんですよね。
前回最後、不幸な意識の最後で話してたイエス・キリストが実は、 そこを乗り越えたロールモデルなんじゃないか、みたいなところまで話してたけれども、
それはもう、不幸な意識の次がイエス・キリストとかではなくて、 その不幸の意識の絶対者みたいなものを想定した中で、「あ、でもイエス・キリストいるじゃん!」っていうその中の話なの?次のステップっていうのは。
どっちかって言うと、歴史を見た時に、それこそ前回ストア派とかさ、会議主義とかって見たと思うんだけれども、
そういった歴史を見た中にイエス・キリストっていう人が実際にいて、 その人がまさにこの段階で乗り越えた人であるっていうふうな、それ紹介に近いかな。
なるほどなるほど。だから、この不幸な意識云々とか絶対者云々の中で出てきたイエス・キリストではなくて、
いわゆるその、もうこの精神現象学の意識さんのロールモデルとしてのイエス・キリストぐらいの取り上げられ方だったのか。
そういうことです。
あー、オッケーですオッケーです。そこは流れで出てきたのかなーって思ったんですけど。
そうだよね。ちょっと僕も多分前回の意識さんがイエス・キリストを見たとおっしゃるみたいな、そういうことを言っちゃったと思うんだけれども、
あくまでもそうじゃなくて、ある種その、もう我々の生きている歴史、世界にそういう人がいたじゃないかと。
つまり、その自己意識から理性っていう強い段階に至った人がいるよねっていう、そういうふうな話なんだよね。
あー、なるほどなるほど。オッケー、そういう意味でロールモデルって言ってたのか。
この不幸な意識を乗り越えたロールモデル、そこだけじゃなくて、全体的にね。
そうですそうですそうです。
はいはいはい、オッケーオッケーです。
という中で、今日理性の話をしていくんだけれども、これも有名な言葉がありまして、ヘーゲルでよく言われてるんですけど、
理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である、みたいな言葉で言い換えることが多いんですよね。
ここに今理性って出てくるじゃないですか。理性的っていうのがまず今日お伝えしていく理性なんだけど、
今日の話を踏まえて、この理性的なものは現実的だってどういうことだみたいな、それをちょっと皆さんと一緒に解き明かしていこうと思ってます。
はいはいはいはい。
で、これ常に難しいんだけど、やっぱり理性って僕らも使うじゃん。理性的って言ったらちょっとロジカルなのかなとか、落ち着いて冷静な人なのかなとか。
そうね。
そんなイメージじゃない?
うん。
でもここで理性って全然そういうものじゃないんですよ。
あ、違うのか。はいはい。
そう、違う。難しいんだけど、そうじゃなくて、要は自己意識がジョブチェンジして理性になりましたって言うじゃないですか。
じゃあこの理性って何なの?っていうと、ここで起きてる欲求は、いわゆる世界と自分の分断ですよね。
絶対者と自己の分断って言いますときに、それをつなぎ止めたい、つなぎ直したいっていうのが、ある種ここの欲求なわけなんですよね。
おー、なるほど。はいはいはい。
そういうときに、要は存在的に言ったら、もうそれってつなぎ止めようがないじゃないですか。
存在っていうのは、無限なものと有限なものっていうものっていうのにとられたときに、そこってどう頑張ってもつなぎ止めようがない。
うんうんうんうん。
だけれども、いわゆるこれってちょっと観念論的な話なんだけれども、その理性、要は頭で考える世界とか、何かその抽象的な何だろうな、働きみたいなレベルで言うと、
何かその世界に働いている働きと自分に働いている働き、これっていうものが一致するみたいな、そういう世界観ってないのかね、みたいなことを考えていくんだよね。
うーん、どういうことだろう。
ちょっと説明していきますと、例えばまずこの理性っていう、これが何かまだわかんないけどっていう点で聞いてほしいんだけれども、
まず理性さんは何をするかっていうと、世の中を観察しだすんですよ。
うんうんうんうん。
観察。つまり、何か世の中にある法則とかパターンとかがあったときに、それが例えば自分にも働いている。
例えばだけど、人間って夜寝て昼起きますと。昼って朝起きますと。
例えば他の動物も、例えば夜寝て朝起きるし、植物もどうやら夜寝て朝起きるみたいなものがあるらしいとか、もし見えたとすると、
この世の中は夜には寝て朝には起きるっていう、そういう風な法則があるんだみたいな。
そのときに、あ、事故。ちょっとこれは事故というか人間になっちゃってるんだけど、人間と例えば自然は同じ法則のもとに生きているんだっていう風に言えたりするよねと。
うんうんうん。
っていう風に、この共通の法則を探しに行くんだよね。
うーん、なるほど。
当然ね、僕らはわかる通り、やや夜行性で夜起きる動物もいるじゃんとか、っていうものがあったときに、その法則は崩れるんだけれども、
何かそういう通常とか法則を理解しに行って、それを見つけることができれば、世界と自分をつなげられるんじゃないかっていう、そういうことを試すのね。
うんうんうん。
これって、外に法則を探しに行くっていうと、前々回からやった五性っていうのがあったじゃないですか。
赤とか白っていう、奥に色っていう共通のものがあって、それが光っていう、またさらにさらきがあるんじゃないかみたいなさ。
うんうんうん。
そういうのがあったと思うんですけど、そこと近いけど実は違うっていうものがあって。
はいはい。まあそうだよね、第一段階の意識の段階でやってたことと何が違うのっていうのはあるよね。
そうそうそう。何が違うかっていうと、第一段階はそもそも事故とかでもなかったんで、とにかく外の世界に何かあるんじゃないか、何かあるんじゃないかっていうふうに探しに行ってましたと。
なのであくまでも力探しなんだよね。
でも今の理性がやろうとしていることって、世界の法則を知りたいだけじゃなくて、それが事故の法則とつながっていることを知りたいなんだよね。
うんうんうん。
だからもし仮に光というものがあったときに見つけたとしたら、事故も光というもので動いているのかどうかってことを確かめたくなるんですよ。
うんうんうん。
っていうふうに、この理性っていうものは世界の法則と自分の法則っていうものをつなげてみようとして、まずは世界を見に行くんだけれども、そうすると結局、やっぱり外に外に探しに行くことになりますと。
うん、そうね。はいはいはい。
なので外で仮に見つけたとしても、これって本当に自分の事故の中にもある法則なんだっけっていうところが、どう頑張ってもやっぱり見えなくなる?
うん、まあそうよね。
うんうん。ということで、要は外を観察する、これ観察的理性とかって呼ぶらしいんだけれども、この段階の理性だと、世界を何とかして理解しよう理解しようとするんだけれども、結局はそこどまりで事故とつなげるっていうのができなくなるんだっていうふうにヘーギルは考えるんだよね。
はいはい、なるほどね。世の中のことは分かっても結局自分は分からないじゃんっていう状態になっちゃう。
そうそうそう、そういうことそういうこと。
なので、もうちょっと言うと言葉的には例えば世界の理性っていうものがありますと、事故の理性っていうものがありますと、これを統合する共通の理性が欲しいんだよね。
うんうんうん。
なので、意識が自分のことを理性と呼んでいるのと、世界の方にも理性があるってここがややこしいんだけれども、でもこれも実は自己意識と同じで、その自己意識からすると事故と世界っていうのは一つにしたかったわけなんですよね。
うんうんうん。
でもそれができなくて分断させちゃったっていう脱出があったと思うんだけど、理性はそれをもっかい捉え直して、私である理性と、世界とかそこの奥にある法則との理性っていうものを一つにしたい。つまり理性こそが全てであるっていうふうに言いたいんだよね。
はいはいはいはい。
なんかごめん、ちょっと今ややこしい説明したとかかもしれないけど、なんとなくイメージわかるかなここって。
多分、前回やっぱり自分だよね、自己意識の段階で、自分っていうものと絶対者みたいな感じで二つに分けちゃって、それはもう絶対に一つにできないじゃん。
そうね、交わらない。
そういうところでやっと理性でどうだ、みたいな、次の今チャレンジをしてるっていう段階で、周りを見ながら観察しながらだよね。
最初意識とは違う状態、ちゃんと自分っていうものがあって、自分と世の中は一つであるとか、全部知りたいっていうもとで、外を見ることでやっぱり自分がわかるんじゃないって意味でちゃんと観察をすると。
だけれども、確かに植物の仕組みはわかったかもしれない、天体の動きはわかったかもしれない。でも、じゃあ自分とこれってどう繋げるっていうところが、そこが全く見えてこないねっていう、本当に気づいちゃったみたいな段階なのかな。
世界との関係の探求
まさにその感じだね。今ちょっと兄貴言ってくれて、朱子学だなって思ったんだけどさ、朱子学も松だっけ竹だっけ、竹の木とか木を知れば全てがわかるから、とにかく竹をやりなさいって言って、王陽明とかが一週間ぐらいやったけど発狂しちゃいましたみたいな。
竹を一週間見続けるみたいな。
そうそうそうそう、わかんないわかんないってなるみたいな感じだけれども。これもごめんなさい、あえて誤解を承知で言うんだけれども、この平原の理性っていうものは、たぶん朱子学の理とか木に近い。
要は世界と自分とかっていうのを貫く、そういった根源的なものがあるっていう発想なんだけど。
なんだっけ、博物知知だっけか。
博物知知あってるはず。朱子学の言葉です。
物に至りでっていうのがあってるんだけど、この平原の精神現象学で絶対に大事なのは、そういう根源的にあるものとか、自分を超えたものっていうところから出発したいんですよ。あくまでも意識のゼロ地点がスタートだから。
意識を超えてそれより根本に何か理とか木みたいな世界の動きがあるっていうふうに言わないんですよね。
そこは想定せずに、ただ真摯に自分と世界っていうものを理解するにはどうすればいいかって時に、外見ればわかるかもしれないっていう。
別にたどり着くゴールってものを、この段階ではもう一旦捨ててるんだよね、その絶対的なものみたいなさ。
理というものがあるはずだ、みたいなものはもう一旦捨てた状態でゾロベースで、それを今頑張ってますっていう状況っていうのは、朱子学のその理の感覚とは違うよねっていう話だ。
そうですそうです。ちょっと脱速になっちゃうかもだけど、だからやっぱり同じことをやってるように見えるようには、外の世界を観察しつくしましょうとか、その法則を見ましょうっていうことは同じなんだけれども、朱子学の方は、そもそも何か根源的な理とか木があるはずだとか、それまでたどり着けるはずだっていうものから報道が生まれてるんだけれども、
でもこのペーゲルの理性っていう段階は、挫折した、分断したとどうしよう、なんとかつなぎ止めたい、だから世界を観察しようっていうふうな、内側からとりゃやっぱりこうしたらいいんじゃないか、ああしたらいいんじゃないかっていう探りなんだよね。
そういうところのスタンスが違うよっていうところは結構大事かもしれないなと思ってます。ちょっとごめん、横に座っちゃったんだけれども、戻るとそういったふうに外を観察する、分析して法則を見ていくってのは無理だってなりましたと、挫折するんだけど、次どうするかっていうと、
じゃあねと、さっきさ、世界の理性と事故の理性って分けたときに、事故の理性の方がまだ残ってるじゃないですか。なので今度は事故の理性の方を世界に要は実現してやろうと、要は事故の理性が世界に行き渡れば、それって理性がどっちにも浸透するようになるから、法律できるじゃんっていうふうに考えるんだよね。
はいはいはいはい。
うちから育ててやるんだけれども、そうすると今度はただ観察する理性じゃなくて、今度は行為する理性、つまり自分の行動とか動きによって、世界の理性、もっと秩序みたいなものを作ってやろうみたいな、そういうことを考え出すんだよね。
今ちょっと存在になってきたっていう感じがするんだけれども。
そうね、どうすんだこれっていう感じはあるけど。
実際存在なんですよ。
例えば最初は、じゃあ自分の理性を浸透させようっていう時に、要は世界を知り尽くしたいっていう欲望から生まれてくるじゃないですか。
そういう欲望っていうものを、要は世界に行き渡らせればいいんだみたいな。
そこを考えるんだけれども、もうちょっと考えばわかるけど、当然そんなことをしたら世界は崩壊するじゃないですか。
なんかあの、一周回ってまた最終的に意識に戻ってるよね。
そうそうそうそう。
要するに螺旋的な感じはあるんだけれども、やっぱり事故を持ちながらも、まさにこれとはフィフティに近いんだけど、要は自我は事故であって、そこから被害が生まれるってことと一緒で、全部を事故に吸収しちゃうんだよね。
はいはいはいはい。
そうなると結局は、社会の秩序とかでも崩壊するし、結局自分の理性っていうものが、やっぱり世界に行き届かないものになるっていうのが、やっぱり致命であると。
まあそうだよね。
うんうん。
で、今度は欲望じゃダメだったねと。まあ確かにそんな自分の欲求とかじゃダメだから、分かった。今度は善とか理性、あの善悪の善とか、正義みたいな、そういう道徳的なものを持って世界を変えてやろうというふうに考えるらしいんですよね。
へーそうなんだ。
これもなんかヤバい匂いするでしょ?
まあヤバいっていうか、そっちそうなるのかっていう感じだね。
うんうん。要は事故の欲求ってダメだったから、今度は世の中的に良いとされてるものでやってやろうとするんだけど、そうやったら結局これも存在で、要は私は正しい、私が善であると。
私のこの善を世界に行き届かせようというふうになるんだけれども。
ああ、結局そうなるのか。世の中的に自分の善の押し付けになっちゃうのね。
そうそうそうそう。当然これぐらいじゃ他の事故があった時に、その人が同じ善を信じてくれたらいいんだけれども、当然やっぱりそうじゃないわけじゃない?
まあそうだよね。
前回とか第1回からヘゲでもお伝えしたけれども、世の中は革命の混乱期で、いろんな正義とか善とかがわーって入り乱れてる時代だから、何か一個善とするのは難しいかっていうのはもちろんヘゲでもわかってるんだよね。
なので理性、この段階の理性さんとしては、要するに自分の善を世界に行き届かせよう、それが素敵なことなんだって思うんだけれども、
まあ当然他の善とも衝突するし、世の中には悪もあるしみたいなところにおいてやっぱり挫折して負けちゃうんだよね。
はいはいはいはい。
うん。なので、こうやって世界に理性を探しに行こうと思ってもダメだし、自分の中にある理性を広げようと思ってもダメだしっていうふうにまた挫折してるんですよ、ここで。
共同体的理性への移行
そうね。はいはいはい。
そうそうそう。っていうふうになって、どうしようどうしようってなるんですけど、ここではたと気づくんですよね。
ほう。
どういうことかっていうと、今言った自分の理性を世界にやろうっていうのはもちろん無理なわけじゃん。
当然反発を食らうから。
で、さっき1個前に言った観察する理性で世の中の法則を発見しましょうって言ったとしても、この発見した法則が本当に世界の法則かどうかってどう示すんですかっていう話が出てくるんだよね。
まあ確かに。
どう確かめるんですかと。つまり私はこのAこそが世界の法則だと分かったって言ったとしても、その分かったAをどこやったら他のあらゆる事故も確かにそれが理性ですねって言ってくれるのかっていう、ここが今欠けてるんですよ。
つまり今の理性っていうのはめちゃめちゃ事故中なんだよね。
なるほど。そうね。はいはい。
これ前の理性はずっと存じてたんだけど、事故がないところから始まって事故ができて、どうしたら事故と世界をつなげるかって言ってたんだけど、結局それは事故の中に世界を吸収するというか、やっぱり世界を知り尽くしたい、自分のものにしたいというところは離れてなかったんだよね。
あーはいはいはいはい。
うん。っていうところがここまで来て明確に至りますと。どうするかっていうと理性さん気づくんですよ。なるほどと。理性っていうのはやっぱり自分の理性と世界の理性っていうふうに考えている。
こういうふうな図式ではどう頑張っても実現できないと。そうじゃなくて、自分の理性じゃなくて、いわゆる我々の理性とか、もっと言うと共同体的な理性、こういうものに至らないと結局世界の理性っていうことは繋がらないんだっていうことを考えだすんだよね。
うーん、なるほどね。はいはいはい。
うん。ここに来て理性さんは事故っていうところから、いわゆる我々っていう集団的なことを考えだすんですよ。
うんうんうんうんうん。
なんかここのバージョンアップちょっとイメージわかるかな?
まあそうだね、言ってることはわかるけど、我々ってまた難しいよなと思うから、それをどう表現していくんだろうっていうのは思うよね。
そうだね。
同じじゃなくて、我々の意識はこれだっていう時にさ、いっぱい事故がいた時にさ、俺はこう思う、俺はこう思う、俺はこう思うみたいな。
そうやって我々になりようがないじゃんみたいなイメージもあるから、これはどう扱ってるんだろうっていう。
ね。これすごく難しい問題で、まさに今言ってくれた、事故があって集団ができてて、これどこかでも多分言ったと思うんだけども、
やっぱりその、じゃあね、いわゆるAさんとBさんっていう個別じゃなくて、それが我々ってAとBにやっぱ慣れてると、どんな畑なんだっけってすごく的確的に難しい問題でもあるんだけど、
一旦ここはヘーゲルの中でいくと、要は既に言ってあるじゃないかと、要は国家であったりとかそういう民族的なもの?
何であったり?
国家、国みたいなものとか、民族みたいなものとか、あるいはもっと言うと、これまで歴史の中で積まれてきたいわゆる監修とかさ、いわゆる起き手みたいなもの?
もっと近代的には法だよね、法律。
そういったものが既に我々の世界にはあって、それが現実的に、例えばこういう時にはこういうふうに振り回ったほうが良いとか、こういうことをするのが我々にとって良いことであるみたいな、そういうものとして機能しているよねと。
つまり、この理性さんはゼロから別に理性を世界に振動させる必要ってなくって、既にある法則とか、既にある起き手とか監修みたいなもの?これっていうものを使って自分と世界をつなぎ止められるんじゃないかっていうことを考え出すんだよね。
うーん、そうなんだ。だからその意識さんが生まれたというか、生きている世界は、上から生まれてきたっていうよりは、今ここにいたって、だいぶもう他の事故もいるし、ある意味その他の意識くん、意識ちゃんみたいないっぱいいる世界で、
こうやって国家だったりとか、だいぶ周りの環境も一緒に変わってきてるんだね。最初なんか一人で生まれたような言い方してたけど。
そう、これがちょっと難しくて、フィクテンの時には、自我みたいなものが本当にゼロ地点というか、無から自我が生まれて、そこから世界が広がっていったみたいな感じだったじゃないですか。
でもヘーゲルの精神現象学の世界観って、意識だけがあるというよりは、意識が世界を認識していく旅なんだよね。
あー、そうか。だからハヤットが今日、前回か今回か忘れたけどさ、レベル10だと見えるものが見えるけど、レベル30にならないと見えないものは、現段階では知覚できない、みたいなのはそういうことね。
そういうことです、そういうことです。
そのワールドはあるんだけど、その意識はレベルが低いがゆえに、その世界ではいろんな人がいろんな営みをしていて、いろんなことが起こってるんだけれども、レベル低すぎて、毎回見ると塩とか砂糖と言ってるものがあったりとかも、わからんっていう状態で、
生きて、なんとかその同じ世界の中で今成長し続けてるよね、みたいなイメージってことか。
そうです、そうです、そのイメージ。
あー、オッケースオッケース。
そうそう、だから前期の他者っていうものは初めて出てくるって言ってたもんだけれども、別にいわゆる他者とか、事故以外の事故がいなかったわけじゃなくて、
はいはいはい。
本当はいたんだけど、それを認識できる力が、意識さんの方いなかったんだよね。
あー、なるほどね。ここでなんか世界観というか、頭の中のイメージがちょっと変わったね。
そうだね、そうだね、確かに。
真っ白い世界でやってたからずっと。
うんうんうんうん。
なるほど。
そうじゃなくて、意識さんからしたら真っ白な世界なんだけど、本当はその中には黒も赤もあれば、別に人も動物もいれば、私もあんたもいればっていう、そういう認識の世界の話なんだよね。
なんか小説とかでありそうな設定だね、なんかね、そのトリック。
うんうん、ジューストリック的なね。
そうそう、意識のさ、主観で物事を進めてたら真っ白い世界に、自分とリンゴしかない世界観で生きてたつもりが、この第4章ぐらいに至って、実はそうじゃなかったみたいなね。自分が見えて、周りからは全部見えていたみたいなさ。
はいはい。
そういう気持ちになった、今。
実は精神経済学自体がやっぱりそういう本なんだよね。
へー、あ、そうなんだ。
意識の成長と認識
うん。だから、なんかやっぱり、読んでいくと、僕ももちろんちゃんと読めてるわけじゃないんだけれども、いきなり意識の旅が始まって、意識とは世界がこう見えてるなんだけど、世界がどうあるのかとか、そういう話って、やっぱりこうやって進んでいかないとわかんないんだよね。
あー、そうなんだ。へー。
うん。なので、ここに来て初めて、そういった掟とか民族が出てくるのも、やっとこの理性っていう、意識さんがレベルアップしてきた理性っていうものが、それを捉える認識に至ったよねとか、それが意味を持つ世界になってきたよね、そういう意識さんとして成長してきたよねっていうぐらいの話なんだよね。
なるほどね。はいはいはい。
うん。なので、ここに来てやっと、そういった我々感っていうものを、意識さんが認識になりましたと。
あー、オッケーです。なるほど。そっかそっか。だから我々感。はいはい。そう理解するとなんか、なんで我々っていうよりは、そこも確かに自然な流れというか、レベルアップして至ったのか、みたいなね。
そうだね、そう。だから、ある時ここに来てやっと、ずっとさ、意識さんがこれまでもう、自分がなんとかしようっていうところでしか生きてなかったわけよ。で、他人っていうのは、従わせるものか、従うもので。
生死をかけた逃走とかって前回も言ったと思うんですけど、そういう対象でしかなかったのに、ここに来てやっと挫折を繰り返して、あ、やっぱり私、自己だけじゃダメで、自己、私、私たちっていうところを踏まえないとダメなんだっていうところに至りましたよっていうところが今理性っていうところの段階なんだよね。
わー、はいはい、なるほどね。わー、そのなんか視点の展開というかさ、展開が。思った後で意識さんを見るとやべえやつだね、だいぶね。やべえやつがいたね。
ここまで、そうなんだよ。だから一緒に暮らしてると思ったら、そんなこと考えたの?みたいな人がポツンといたみたいな感じなんだよね。そんな世界で生きてたの?みたいな。でもなんかこれあるじゃん、やっぱりさ、僕らの世界とかね、普通に日常の中でもさ。
なので、結構この挫折と成長の問題ってすごくいろんなものに応用できると思うんだけども、ここで大事なのは、やっぱりもともとさ、世界と事故の分断をつなぎ止めたいというところから始まったじゃん、今回の理性さんの話って。
でも実はまだそこって解消してないんですよ。要は私たちにちょっと意識が移ったっていうのは正しいんだけれども、まだ世界と事故っていうのはやっぱり分断しているし、それがつなぎ止められたわけではないんだけれども、
なんかその間に、我々とか私たちとか民族とか国みたいな、それ中間段階があるよねっていう。そこまでは来たよっていうふうな感じなんだよね。なので、ここの理性さんの旅のイメージもちょっと湧きましたでしょうか。
たぶん手探りなんだね。この意識の視点で見るとね。
ないんだもん。意識の世界には我々ってものなかったわけだから、概念とかそういう認識の視点として。そこでやっと、あ、我々っていうそういう作り方、捉え方があるんだって初めて気づいた瞬間。
はいはい。その驚きはすごかった。そうだね。
そうそうそうそう。だからやっぱり世界は変わるよね、まさに。
で、いいなところがあるので、やっぱりそういった新鮮な驚きを繰り返して、意識さんが今レベルアップしてるんですっていう感じなんだよね。
はいはいはいはい。
分断と成長の理解
で、ここまで来ると見えてくるのが、理性っていうのは、何かその世界の理性と自分の理性ってものを知り尽くして継ぎ止めてやろうとやってたんだけれども、結局はそれでも無理だってことをやっぱり気づくわけなんだよね。
なので、ある種この理性の敗北なんだけど、これその自己意識と違くって、ある種一見負けた方が勝ってるみたいな。
主人と奴隷もさ、奴隷が負けてる、やられてるかと思いきや、むしろ良かったみたいな話だったじゃないですか。
なので、理性も同じで、理性が逆に何かをやり尽くすとか、世界っていうのを浸透し尽くすとしたら、それって結局、兄貴も言ってくれたけど、事故が世界になるっていうのと一緒だから、結局は事故は消えちゃうっていう、そこでやっぱり戻っちゃうんだよね。
だからそうやって成長しなくって、むしろ理性が敗北して、自分だけの理性みたいな、事故だけの理性っていうところの狭い檻を抜けて、まさに我々の理性とか、そういったものに目が向くっていうところがまさにここの挫折と成長っていうところの動きなんだよね。
はいはい。なんかちょっと見えてきた気がするな。世界とかさ、仮に絶対的なものみたいなのがあったとして、なんかちょっと近づいた感じがするね。
そうそうそうそう。どこまで行っても自分の殻にとっては無理なのを、ちょっとその殻を脱ぎましたみたいな、そういう感じなんだよね。
うん。そこまで行くとね、今日の冒頭でお伝えした理性的なものは現実的だって、その現実的なものは理性的だみたいな話もちょっとイメージしやすくなると思うんですけども、
つまり、今日言ってきた理性ってさ、何かそのね、最初に言ったようなちょっと冷静だとかロジカルであるとかってことじゃなくて、何かその世界と自分の法則がつながっているとか、世の中にはそういったその、なんだろうな、世の中を貫く一個の、なんていうのかな、まさに起きてとか、そういったものがあるよねっていう発想だったじゃないですか。
うん。
で、これを初めて理性さんが見たっていうことは、つまり現実にもともとあったんだけれども、理性っていう段階にこの人見えなかったよねって話なんだよね。
そうね、うんうんうん。
つまり、理性的である、理性を通して見ることで初めて現実の世界が見えてくるし、逆に現実に我々が捉えているものは理性の目を通しているっていう、そういうことをこの冒頭お伝えした言葉を言ってるんだよね。
逆に言うと、自己意識までの段階って現実は見てないのよ。
うん、そうね、はいはいはいはい。
本当はね、さっき言ったオープンアルドみたいにいろんな敵もいれば他のプレイヤーもいるんだけど、自分と敵しか見えてませんとか。
はいはいはいはい。
そもそも我々とかそういう起きてがあるなんてことは知りも及びもしませんでしたみたいな世界だから、現実に生きてないんだよね。
うんうんうんうん。
うん。理性の段階にきて初めて現実っていうのは見えてくる。
うん。
っていうか、現実を捉えて初めて理性というものを捉えていたことを知るみたいな。
うんうんうんうん、なるほど。
そう、っていうふうなレベルがこの第三段階の理性ですって感じなんですよね。
うーん、なるほどね。
なんかちょっとわかるかなぁ。
難しいね。だから理性が先か世界が先かというか現実が先かみたいなさ。
うん。
どっちが先かみたいな話だと思うんだけど。
えっとね、実はそれを今日はそれをやって乗り越えたって感じなんだよね。
やって乗り越えた。乗り越えたんだこれ。
世界が先っていうのは最初の観察的な理性で、要は世界の方に一定の理性があるから、これを理解しに行きましょうって話だよね。
はいはいはい、なるほど。
でもそれ挫折しましたと。
うんうんうんうん。
理性が先っていうのは事故の理性と捉えると、自分の中に理性があるものを世界に行き届けらればいいと。
あー、はいはいはい。
理性が先で世界が後なんだけど、これも挫折しましたと。
理性が先か世界が先かっていうのはどっちから始めても挫折してるんだよね。
なるほど、はいはいはいはい。
じゃあどうなるのっていうと、実は世界と理性っていうものはお互いに影響し合って関係し合って、理性が発展すれば世界も発展するし、世界も発展すれば理性も発展するっていう、そういう相互作用があるんだっていうことをここでは言いたいんだよね。
あーなるほど、そっかそっか。
だから世界がバーンってあって、そこにいわゆる理性レベルが追いついたら、初めて世界を認識したことになるんですよっていうだけじゃなくて、
うんうんうん。
世界と理性の相互作用
えっと、なんだろうな。
そうなんだね。
今回の話で言うと、そこに着地しか出ないなっていう感じもあって。
なるほどね、はいはいはい。そっか、理性が追いついたから世界が見えるっていう、なんか世界が好きじゃないかって話だね。
そうそうそうそう。そこだ。そこはなんか、今のハエトンが言ってることと、今の認識の差があるなって思った。
そうだそうだ。
オッケーオッケー。それで言うと、ここもすごく難しいというか、一般的な感覚から遠いんだけど、
要は、じゃあ世界って、自己を離れて、ただ世界そのものとしてありますかっていうと、
石木さんからするとそれはないんだよね。
なぜかっていうと、石木さんは自分が認識したものを、今世界と捉えてるじゃないですか。
世界として捉えられるようになったじゃないですか。
なので、いわゆるこう、世界というものが物理的にものとしてあって、それを認識しに行くじゃなくて、
自分の認識力に応じて世界というものが現れてくるとか、
つまり、世界の在り方というのは、自分の理性のレベルとか、理性の仕方を切っても切り離せないよねっていうことの世界観なんだよね。
なるほど。その感覚は確かに難しいかも。今やっと繋がったね。やっと繋がった気がする。
繋がってきた?うんうん。
なるほど。
いや、難しいのよ。
だから、世界があって、そこに自分の理性レベルが追いついたのだ。だから世界があったのだっていうのと、
これさっき自分が言ったことだけど、
そうだね。
その感覚だと、今、ハヤトが言った感覚とはちょっと違くて、
世界はあると。
自分が今、レベル60なったので、60まで見えましたっていうのにおいて、
じゃあ、世界が先にあったんでしょって、多分見えなくもないんだけど、実はそうじゃなくて、
その世界を認識してるのはあくまで意識さんだったり我々の方だから、
ありもしない、認識もできもしない世界を想定するっていうのがそもそもおかしな話だから、
それはやっちゃダメで、
今60になったから60の世界が見えましたよっていうだけのことしかなくて、
これがレベル80だったら80の世界が見えましたよでしかないから、世界が先とかじゃなくて、
そこはもう一緒なんだよって自分が認識できることしかないから、
まだ自分がレベル100でもないのに100のことは想像できないし、するのも野暮だし、意味ないしちゃダメだと。
そういう意味で世界はあるんだけど、今は60レベルだったら60までの世界しかないとしか言えないみたいな、
そこはその限界を知れよみたいな話。
その限界を知らない奴が絶対者とか、絶対者と自分みたいな分断を生むような発想をしちゃうから、
そうじゃないんだぞっていうところにたどり着いたみたいなイメージ。
そう、ほんとそういうこと。
つまりそれが現実なんだよね。
意識にとっての現実。
なるほどね。
もう一回繰り返すけど、理性的なものは現実的である。レベル60の理性にはレベル60の現実があり、
レベル60の現実が見えているとしたら、自分の理性はレベル60なんだっていう、
それ以上のことは言えないよねっていう話なんだよね。
はいはい、それ以上でもいかでもないよねっていう話ね。
だから、その意識さんが生きてる環境の中で60でしょ。
今、レベル60の意識さんの周りに、もしレベル70の人がいたとして、
そういう人と話す中で、あれ?なんかこういう人と話し合わないな。
いろいろ教えてもらって、自分が70になったとすると、
70までは未類になりましたみたいな、そういうことは全然あるよねみたいな話ってことね。
そういうこと、そういうこと。
その時には、そのレベル60の理性さんの瞬間には、
その人がレベル70であることはもちろんわからないし、
その世界があるともわからない。
その人がレベル70の存在だよねっていう他者がいるってことはわかるかもしれないけれども、
レベル70の世界があるってことはもちろんわかんなくて、
そこと交わる中でもし自分がレベル70にちゃんと引き上げられたとしたら、
見えるようになるよねみたいなイメージってことはね、例えば。
イメージはそう。もちろん平気ではそんな風に言ってないし、
そんなにレベル刻みで理性が成長するものでもないんだけれども、
理性の探究と意識の旅
今回のレベルアップの旅とか、
挫折によって経験をしてみたいな世界観で言うと、
今みたいな兄貴の話はすごくイメージ掴んでると思う。
この感覚すごい微妙だね。言語化するのすごい難しい気がする。
難しいんだよ。
4回必要だったね、確かに。
必要。しかも何が言えるかっていうと、
もし世界が先にあって、それを認識するだけで良いのなら、
最初の感覚的確信、意識の段階で十分なんだよね。
ここに世界があります、それを直接捉えます、分かりました。
で、良いんだけど、そんなシンプルじゃねえぞってことをやっぱり言いたいんだよね、ヘゲルは。
はいはいはい。
どう?結構面白くなってきたんじゃない?
だってこれまだ途中なんですよ、これ。
まだ途中、まだ第3段階くらい。
面白くなってきた。
これどうなんの?ってこっから。
そうなんですよ。
こっからね、次がね、実は精神っていう方に行くんですけど、
またね、ちょっと逆転すると旅の方向性が変わるんですよ。
ちょっとね、第2幕になるっていうから。
あ、そうなの。楽しみだな。
イメージ。
そんなことがあるんで、ここまでは意識さんの旅だったんだけど、
実はそこには精神っていうものもありましたみたいな、ちょっと何と言っていいか分かんないんだけど、
そんな風に展開していくんだよね。
なので次にちょっと精神の話をするんですけれども、
ぜひここまでの意識、自己意識、理性っていうところを踏まえながら、
次どうなるのかっていうことを楽しみにしていただけるとね、
イメージ湧いてくると思うんで。
ぜひね、もうちょっと精神原初学をお付き合いいただけないという風に思ってますという感じですね。
分かりました。いや頑張ってちょっとあれだね、来週まで覚えとかないとな、ちょっとな。
そうだね。
この感覚。
振り返りというかね、それはもちろんやるんで。
無理せず気軽に楽しんでいただければと思っております。
分かりました。では次回ですね、今回やった理性の次ということで、精神ですね。
そこに入っていくというところで楽しみにしていきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
48:35

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