意識の旅の始まり
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でヘーゲル第3回ということで、引き続き意識さんの旅ということでやっていきたいと思います。
はい、ヘーゲルの精神現象学ですね。これは今、みんなで学んでいきましょうということで前回からやってるんですけれども、
意識さんね、やりましたよね。一番最初、目の前のリンゴがあった時にさ、
リンゴそのものみたいな、この目の前にあるリンゴを見ているこの意識こそが正しいのだみたいな、そういうところから始まるんだけど、
でもそもそもこれリンゴって言ってる時点で、他のリンゴのことを想定してるじゃんとか、
はいはい、あったよね。
なしとかって他のものの区別がないと、そもそも目の前のリンゴって理解できないから、
そんな説明の前を捉えるなんて、実は無理なんだぜみたいな、そんな話をちょっとしたかなと思うんですよね。
いやー、だいぶね、申し訳ないけど忘れてるね。
収録ね、1週間ごとにやってますけれども、わからないよね。
そうなんだよね、1週間開いちゃうとね、そうなんですよ。
なので是非補足をおめえというか、何だっけ、もうちょっとリンゴがあって何だっけ。
もうちょっと前提で言うと、このヘイゲル様は人間の、もっと言うと世の中の在り立ちみたいなものを、
本当にゼロ地点からいろいろ一歩一歩作っていこうとしてるんだよね。
ゼロ地点って言っても宇宙の始まりとかっていうことじゃなくて、
今の地点を平たく言うと、どうやってその意識とか僕らの認識っていうものが世界を見ていく、理解していくのかみたいな、
そういうことをちょっとずつちょっとずつ考え深めようとしてるんだよね。
一応最初はさっき言ったみたいに、とにかく目の前に何かものがあるとしたときに、
あるということはそれこそ疑えないよねみたいなことも含めて、一番根源的な認識だろうって言うんだけど、
根源的であるがゆえにめちゃめちゃいろんな問題があるよねっていうようなことを前回言ったと思うんですよね。
さっき言ったみたいに、リンゴって言った時点でいろんなものと比較したくなるじゃんみたいなものがあって、
そこから意識って感覚的革新かっていうふうなことだから、次知性だよね。
今目の前にあるリンゴとか、前回塩の話をしたと思うんだけど、
白くてちょっとしょっぱくて立体的なものが塩であるとしたときに、
これらが甘いと砂糖だとかっていうと、
でもそれって塩と砂糖を見てるんじゃなくて、甘さとしょっぱさって味覚ってまた別のものを味覚してるじゃんみたいな。
そうすると果たして我々はこの目の前の塩を見てるのか、
甘いとかしょっぱいっていうそっちのちょっと抽象的なものを見てるのか、それがわからんくなるよねみたいな。
どっちがどっちなんだかってなって混乱をして、
その奥に統一する何か法則みたいなものとか、そういうものがあって、
それによってこれはリンゴだとかこれは塩だ、砂糖だって見えてるんじゃないか。
それを合成っていうふうに言うと思うんだけど。
あったわ。そもそも白いとかっていう感覚も、
感覚、白っていう名前つけちゃった時点で実はさっきもリンゴと同じことが起きてるから、
みたいな話だったよね。
そうですそうです。
白は色であり、色は何々であり、光でありとか言っちゃうと、
結局我々何を見てるんだっていうふうになるよね。
ここで前回最後、伝えきれなかったというかイメージしきれなかったかもしれないんだけれども、
そういうふうに物事の奥に何か法則があるとか、
何かそれを統一する力みたいなものがあるんじゃないかって想像すること。
実は世界そのものを見てるんじゃなくて、
僕らが、もっと言うと意識だよね。
意識が世界を理解しようとする時に、そういう世界観を作り上げているよねと。
はいはいはい。
つまり、世界そのものを見に行くんじゃなくて、
僕ら、もっと言うと意識自身がどんなふうに世界を理解しようとしているのか、
その働きのほうを見に行くことで、
もっと世の中のことがわかるんじゃないですかっていうところにジョブチェンジして、
今日お伝えする自己意識ってどうなるよっていうところまで前回話したと思うんだよね。
自己意識の概念
はいはい。前回が第一段階で、次が第二段階ぐらいの感じだったよね。
そうです、そのイメージ。
大枠ね。前回意識の中でもさらにさっきの…
感覚的確信と措置性と個性ってまた3つに分かれるんだけど、
これはレベルアップ。小学1年生、2年生、3年生みたいな感じで、
小学生から中学生になりましょうっていうのが意識から自己意識への変化みたいな、そんなイメージだね。
はいはい。段階としてはさっきの白とかいうところまでいって、
白、黒、赤、これは色だぐらいまではカテゴリー分けできるぐらいまでなってるんだって意識さんは。
そうそう。だからその奥に光とかそういったものがあるよねみたいな。
ああ、そこまでいってるのも。
いってるいってる。
ほうほうほう。
いってるんだけど、実はそれって要は、外に外に正解を探しに行くっていう発想なんだよね。
まあそうだよね。
そうそう。その外に正解を探しに行くっていう働き自体が、実は自分の営みじゃないですか。
そういうふうにしたら世界が分かるんじゃないかっていう。
なるほど。ここにいるとあれだよね、意識さんのね。
そう、意識さんの営み。
だって前回あれだもんね、この意識っていうのが人間の意識とかじゃなくて、
人間がもうできる以前のただの意識みたいな話してたもんね。
そうそう、思い出してきた、ちょっと。そうですそうです。
思い出してきた。
ごめん、今僕ら意識さんになりきって喋ってるから自分のとか言っちゃうんだけど、
今回言うと意識さんっていうふうな存在と言っていいのか概念と言っていいのか、
そういったものがいろんな旅をして挫折をして、レベルアップをして、
ジョブチェンジをしてっていうふうなものを今描いているので、
ちょっとこれ途中で変わるんだけど、一旦それを置いといて。
今その第二段階、第二ステージの自己意識のところまで来ました、
みたいなイメージを捉えてほしいなというところですね。
はいはい、OKですOKです。あとだいぶ時間使っちゃったけど、だいぶ思い出した。
でも大事大事。たぶんこれ次回以降もやるんで。
今日は自己意識の話しするけど、次回はたぶん冒頭も自己意識の話ししないと分かんないと思うんで。
そうはね、そうはね、ぜひぜひお願いします。
っていう感じでね、やっていこうと思っておりますよと。
意識に自己がつきましたっていう話で、逆に言うと前回も自己がなかったんだよね。
要は世界を知るみたいなことを言ったときに、
要はこの知る意識、知る自分っていうものは一旦度外視とか目に入ってなくて。
あー、確かに一度こなかったね。
文字通りその世界を見る視点っていうものは世界の外にあって、
自分の意識の外にあるものばっかり見てたんだよね。
でもそうじゃなくて、さっきも言った通り、やっぱり自分の世界をどういうふうに理解しようかとか、
どういうふうに世界を捉えようかっていうところから実は始まってるから、
むしろそっちが大事じゃない?ってなるっていうのがこの自己意識っていう段階なんですよ。
あー、なるほど。さっきハイトが言ったことか。
言って、その意識が世界を作ってるでしょ?ぐらいの。
そうそうそう。
聞い取ってるでしょ?名付けてるでしょ?意味付けしてるでしょ?みたいな。
そうそうそう。そうなんです。
でもこれが面白いのが、意識っていうものを概念的に捉えると、
意識って働きもあるよね?なんだけど、
でもこれ意識さんの話をしてるじゃないですか。
うん、そうね。
意識と他者の関係
意識さんからすると、あれ?外見てたけど実は俺がいた?みたいな。
意識っていう事故の中に何かあるぞ?みたいなところに、すごい驚きがあるわけだよね?
はいはい。いろんなものを見て、白黒とかしょっぱいとかって言ってた中で、
気づいたら、あれ?私って言って、その概念である意識が気づいちゃったの?
気づいちゃって、そう。ドキドキになっちゃって、それを知りたい、そこを掴めていこうとなりますよと。
あ、私じゃないか。これってなんだ?だね。
そうだね。事故ってなんだ?だね。
だから事故も世界の一つだっていうところにやっとたどり着くんだよね。
意識さんの思いとしては、それを知りたいとか、それを掴みたいみたいな、そういうのはずっとあるわけですよ。
これを平気な欲望っていう風に言っていて、
僕らは普段言うような、飲みたい、食べたい、寝たいとかっていう欲望とは若干近くはあるんだけれども、
もっと言うと、飲みたいとか食べたいとかっていうものも、結局何かを消費する行為じゃないですか。
寝たいはちょっと違うかもしれないけれども、
結構欲望って何か外に向くときって、目の前のものなんかを使って発散するとか、そういうのって結構あると思うんですけど、
事故意識もそういうふうな気持ちになってくるんだよね。
事故っていうものを知るためには、要は外のものが必要なわけですよ。
例えばね、人間に置き換えると、何でもいいな、じゃあそのリンゴを食べましょうと言うときに、
そのリンゴっていうものを食べる自分とか、もっと言うとリンゴっていうものを自分の胃のままにする、
そういうふうな関係性を通じて、リンゴを胃のままにできる私みたいな、
そういうふうにある種反射して事故を捉えていくんだよね。
あー、そっかそっか。そうだね、確かに。
前回の塩とか砂糖みたいな、そのものの意味付け名付けみたいなさ、
ところも結局その赤そのものを説明することはできないよねと。
赤じゃないものを通じてだったりとか、
他のものとの相対的にしか、実は何かを意味付けとか名付けってすることができなくて、
絶対的にこれが赤だ、絶対的に白だっていうふうに、そのものをいきなり理解するのって難しいから、
私ってこれだって絶対的に理解するのは不可能ですよみたいなのと同じイメージだね。
今その時点では不可能ですよが正しいかな。
はいはいはいはい。
今の井口さんのレベルで言うと、難しくって、
もう一回冒頭に戻っちゃうんだけども、さっきリンゴを直接理解できますかって話をしたじゃないですか。
これ前回ちょっと言ったんだけれども、ヘイデルは何かを直接、
もうダイレクトに理解するっていうことを否定というかね、それを疑ってるんですよ。
そうなんだ。
これシュリング批判というのは前回も伝えたかもなんだけれども、
シュリングはその絶対性とかっていうものを直感みたいな感じで、
よく分かんないけど直接捉えられるんだっていうふうに言ってるんですよね。
いい成果置いてるけどねみたいな話つけてる。
そうそうそうそう。
でもそれって本当はみたいなところがヘイデルにはあって、
何かを媒介にして今の井口さんのストーリーで、
何かを経由しないとそのものって本当は分かんないよねっていうことを考えるんですよ。
ほうほうほうほう。
なので事故意識の事故に対しても、
じゃあ自分そのものを直接捉えられますかってやっぱり難しくって、
今言ったみたいに何か他のものをまさに鏡にしてというか、
媒介にして事故を知るみたいなことをやっぱりやっていくんだよね。
なるほど。
じゃあここでは相対化云々っていうよりは、
他のものを媒介としてみたいな表現で、感覚でっていう感じじゃない?
そうそうそう。そうですそうです。
実はそれが結構弁償法の根本にもある考え方で、
やっぱりAっていうものだけだと分かんない。
Bを立てるとそこに例えば矛盾とかそういう何か違いが生じて、
それをある種全体的に捉えることでCになるよみたいな話だから、
結構それ媒介っていうよりはAがBを媒介してCになるみたいに言うと、
まさに同じなんだよね弁償法と。
はいはいはい。
なので意識っていうものが他者を媒介にして、
事故意識として事故を理解するみたいな。
そんな感じのイメージなんだよねここって。
なるほど。
うん。そこの弁償法ってやることとイメージ繋がるかな。
うん。弁償法はそうなんですよ。
あとさっき自分が話した相対的なところと、
この媒介の違いが何かあるのかないのかなみたいなところは、
もうちょっと聞きながらなのかなと思った。
いいです。ここは結構面白くて、
さっき言った通り、ある種事故意識さんは、
他者を否定する、他者を異のままにする、
そういう能力があるものとして自分を捉えるんだよね。
うんうんうん。
そうすると、仮にだよ仮に、
あらゆるものを異のままにしつくしましたっていう風になってしまうと、
また事故が認識できなくなっちゃうじゃないですか。
まあそうだね。さっきのリンゴ食べちゃって、
自己意識の発展
リンゴと自分しかいない世界でそれ食べちゃったら、
もう自分しかいないから、自分を理解する手立てがなくなっちゃうよねみたいな。
うんうん。そうなんです。なので、
そういう世界において事故っていうのは事故を失う可能性を常に持ってるんだよね。
うんうんうん。
そうするとこれも挫折で、やっぱりそれはダメだと。
要は他のものを否定してとか、他のものを媒介にして事故を理解するっていうのは、
結構いつか無理になるぞっていうことを学ぶんだよね。
サスティナブルじゃないんだね。
そうそうそうそう。森を切り尽くしたらそれはなくなるよみたいな。
それと一緒ですね。
うんうんうん。
なるんで、それ何を今度求め出すかっていうと、
自己意識さんは今度は他のものじゃなくて、他の事故を求め出すんですよ。
おー。ほうほうほう。
つまり、自分が否定しても否定し尽くせないとか、
他の相手も要はお互いに反射し合うような存在。
鏡が1個だったら反射し終わりだけど、鏡2個も並べたらずっと反射し続けるっていう、合わせ鏡みたいなやつ。
そういうふうなものがあれば、常に自分を照らせるんじゃないかみたいな、そういうことを考え出すんだよね。
おー。賢いね。
賢いんですよ、意識さんはね。
そうやってどんどんレベルアップしていくんですよ。
ここに来て初めてこの意識さんの世界の中に、
他者っていう要は、事故を持つ存在が生まれてくるんですよ。これまではなかったの。
そういうことだよね。今事故って言ったら別の事故があればいいのにっていう話ってことだもんね。
そうそうそうそう。
イコール他者っていうね。
他者、そうそう。ここまでは別の事故っていう発想すらないから、
他者との戦い
そういう存在がこの意識さんの世界にはなかったんだよね。
うん、そうね。
レベルアップして初めてそういう存在が見えてきましたと。
これよくあるって言ったら、ごめんなさい、ゲームわかんない人にもあれだと思うんですけど、
オンラインゲームとかでさ、よく自分のレベルが低いと見えない敵とか出会えない敵とかっていたりするじゃないですか。
あー、はいはいはい。
エリアに行けませんとかさ、自分が30だとレベル60の敵はちょっと近づけませんみたいなのがあったりするんだけど、
そういうのに近いかもしれない。
いるんだけど関われないみたいな。
あー、なるほど。この世界観ね。精神現象学のこの世界観ね。
精神現象学の世界観的にね。
みたいな感じで初めて他者が出てきますよっていうのはここなんだけど、
ここが面白いっていうか、話の持っていくとしてはなるほどなって思うのが、
この他者って基本的に仲良くないんですよ。
へー、そうなんだ。
そう、なんでかっていうと、その自己意識さんからすると、
要はこの今の出てきた他者ってあくまでも自己理解のための手段なんですよね。
あー、まあそうか。
うん。要はさっきリンゴとかで反射して媒介にしてたらなんかそれが尽きちゃったから、
尽きないものが欲しいな、じゃあ他者を求めようと。
で、その他者がいればずっと自分を媒介し続けてくれるから、
ずっと自己意識でいられるじゃん、みたいな。
なんかそんな感覚なんだよね。
相手からするとたまったもんじゃないし、
もっと言うと相手もそういう欲望を持った存在なんですよ。
まあまあそうだよね。
だからね、僕と兄貴がいたときに、
お互いにIDを使って自己意識をずっと持ち続けてやろうって思ったらどうなるかっていうと、
お互いを否定し合い続けるんだよね。
まあそうなるか。
じゃないとサスティナブルじゃないからねっていうね。
自己意識にとってはね。
こっちの自己意識にとっては。
要は相手がギリギリしないところで、
要はなんだろうな、
ヒットポイント赤の状態でいてほしいわけよ。
そうじゃないと、
そうじゃないといつか兄貴がさ、
僕の自己意識を破壊して、
自分の自己意識の方が強いっていう風に言うかもしれないじゃん。
破壊はしないんだけど。
なるほど。
お互いが、
もうどっちもヒットポイント赤なんだ。
その結果がね。
その結果赤になることもあるし、
これがね、面白いのが、
ヒゲラは何を言ってるかっていうと、
これ有名らしいんだけど、
有名だって解説本にいろいろ書いてたんだけど、
お互いにというか、
自己意識は承認を求めるんですよね。
相手からあなたは事故ですよって承認を求めるんだけど、
それをお互いに求めると何が起きるかっていうと、
承認を求めると戦いが起きますと。
ここでは生死をかけるみたいな話、
生き死にをかけるっていう話をしてて、
要は、相手が本当に死んでしまうと、
ものと、さっきのリンゴと一緒で自分を認識するものがなくなるから困るんだけど、
でも死ぬギリギリまで追い詰めないと、
結局今度はこっちが得られるかもしれないっていう、
そういうふうな世界観なんだよね、
ここの事故、
意識のこの人との出会いって。
主人と奴隷の関係
へー、そうなんだね。
なぜかっていうと、
一個前まで要はリンゴを食べますとかさ、
他のものをいいのままにしますっていう、
そういうふうなことでしか関わり方を知らないじゃない、
今の自己意識さんって。
そうだね、はいはい。
なのでいきなり他者が現れたとしても、
他者に対してもそういう関わり方やっぱしちゃうんですよ。
あー、そっか、その順番で来てるから、
自然とそうなるよねっていう話ね。
自然といいのままにしよう、いいのままにしよう、
それが自分以外の事故であっても、
いいのままにしようってまずなるんですよね。
でも、いいのままになりきらないっていうところに、
ずっと自分を、
事故を事故とし続ける察せなぶるさがあるんだけど、
でもそれを維持するためにも、
結局は相手をいいのままにし続ける、
そうじゃないと相手にいいのままにされてしまうっていう、
そういう風な発想で、
この自己意識さんは今生きてるんですよ。
いや、すごいね、大変だね。
そう、大変でしょ、生きづらいでしょ。
うん、ずっと戦い合ってるね、なるほど。
そうそうそうそう、なので、
ちょっとここは分かりにくいかもしれないけど、
まさにその意識さんのテレビっていうのはそこで、
意識さんはガラッと、なんだろうな、
やっぱり自分の生き方変えれないんですよね。
僕らと一緒で。
2、30年生きてきたらさ、いきなりなんだろうな、
生き方変えて難しくなったりするじゃない。
まあそうね。
それと一緒で、今の意識さんは、
他者をいいのままにするってことしか知らないから、
人間っていうかね、
自分と違う事故に対してもそれをやっていくんだけれども、
当然やっぱり戦いの果てには、
勝者と敗者が分かれるわけなんですよ。
分かれちゃうんだ、はいはいはい。
分かれちゃう、うん。
で、分かれちゃってそのバランスが崩れちゃうと、
何になるかっていうと、
これちょっとまた言葉も面白いんだけど、
つまり主人と奴隷に分かれますと。
要は、なんだろうな、
その相手をちょっと言いなりにした方と、
言いなりにされちゃう方みたいな。
これを平家では死を押せるないもの、
要は自分の命を落としてそれをかけきったっていう人と、
人というか事故と、
命を惜しんでそれを守りに入っちゃった事故っていう風に分けるんだよね。
へー、そうなんだ。
うん。
はいはいはい。
そうそうそう。で、そういう風に分かれるんだけど、
ここでもね、なんだろうな、またそれを転換してくんだけど、
一見さ、死を恐れずに相手を屈服させた者が勝者で、
うん。
守りに入った方がシャイ者だっていう風に見えるじゃない?
見える見える、うん。
実際そうっぽいんだけれども、よくよく考えると、
恐れなかった方が主人で、守りに入った方が奴隷なんだけど、
うん。
今主人の方を考える、要は事故が主人になりましたという時に、
主人って実はこれまでの事故とほとんど何も変わってないんだよね。
つまり、奴隷を作りましたと、相手を屈服させましたと、
うん。
その奴隷によって事故を意識してますって、
結局前やったりんごを食べて事故を意識してますと一緒じゃないですか。
そうだよね、うんうんうん。
っていう意味では全く成長しないんだよね。
してないよね。だって、もう奴隷になっちゃったら多分反射がないから、
また別の事故と戦いを始めなきゃいけないよね、もしいたとしたらけど。
そうそうそう。ギリギリ奴隷もちょっと反射はあるぐらいだと思ってほしいんだけど。
はいはいはい。
でも、相手を屈服させていいのままにして事故を意識するっていう、
その構造は何にも変わってませんと。
うんうんうん。
っていう意味で言うと、レベルアップしようがないんだよね、こっから。
確かに。
そう。っていう意味でもっと言うと挫折してない。
要はその話を言った時に、今勝ったと思ってる主人って、挫折をしないからレベルアップもできないんですよね。
うんうんうん。
物語が進まないってなった時に、何が大事かっていうと、
実は奴隷の方に挫折があるっていう話をやっぱりヘイゲルは考えるんですよね。
確かにね、はいはいはい。
つまり奴隷っていうのは他者に異のままにされる恐怖だったりとか、
主人の方に対して反射、自分が媒介になって事故っていうものを感知させるっていうふうな、
まるで奉仕みたいなことをさせられるんだけれども、
むしろそれによって、その反射したことによって、主人の側に奴隷っていう存在が刻みつけられていくよねと。
うーん、そうなんだ。はいはいはい。
ここをちょっとイメージしてほしい。
じゃあちょっと今、兄貴とか皆さん主人の方になってほしいんですけど、
主人の方はあくまでも相手を否定するとか異のままにするって感じじゃないですか。
うんうんうん。
で、それが最終亡くなってしまうから、そこに事故もなくなってしまうっていうふうな流れだったよね。
うん、そうね。はいはい。
今度は逆に奴隷の方になってほしいんだけど、奴隷は今度は異のままにされるっていう方なんだけれども、
異のままにされるという事象を通じて、主人の方に詰めていくじゃないですか、それが。
うんうんうんうん。
つまり主人っていうのは逆に奴隷がいないと事故を保てないっていうふうに、その奴隷に依存していくんだよね。
まあまあわかる。これ前の話くらいだったね。
逆に奴隷の方は、その事故があるから主人がいるっていうふうに、事故の存在理由が主人の側に広がっていくんですよ。
あー、なるほど。
つまり、自分という事故、奴隷という事故と、主人という事故っていうものが切り離せなくなるというか、
世界にその事故が広がって、奴隷の方はむしろ広がっていくんですよね。
うん、そうね。世界観が変わったね。
そうそうそうそう。だからさっき言った、いいのままにしようっていう世界から、むしろいいのままにされることによって、世界の中に事故が広がっていくっていう不思議なことが起きてくるんですよ。
うんうんうん。そうだね。はいはいはい。
ここでちょっと座説によって経験をして次に行くみたいな、ちょっとそういうイメージ湧くかな。
うん、湧く湧く。うん、大丈夫。
意外と自分から働きかけて相手を滅ぼし続けないと、その存在が認識できないというか、分からんみたいなところから、逆だよね。
逆に自分がやられることで、自分がいるんだってことが分かるんだみたいな、そのサスティナブルさあるんだっていうことに、他の事故に負けて初めて気づくみたいなね。
そうそうそうそう。
相手はそれは分かってない。こっちだと気づいてる状態っていう話だね。
その通りです。なので、奴隷になった事故はある種、自分がやっぱり有限性だと限界を知るんだよね。
ほうほうほう。
ただその限界を知ることで初めて、自分には何ができるのかとか、どこまでだったら事故っていうもので本当に世界とか変わるのかっていうことに思考が一歩進むんですよ。
ほうほうほう。
これ面白いのが、いわゆる奴隷って、主人の代わりに働く人じゃないですか。
そのニュアンスでいくと、奴隷って何かしらの労働とか仕事をしているんだよね。
労働と自己意識の拡張
これは労働一般というところにもつながるんだけれども、この事故意識の感覚からすると、そういった労働とか仕事っていうのは、
要は自分が働きによって、その世界に事故を広げていく。
例えば、よく職人とかで、壺でも指輪でもいいんだけど、そういうのを作ったときに、その壺があたかも自分の分身であるかのような。
自分っていうものが一個増えたみたいな感覚になるっていうことは、想像できるかないと思うんですよ。
もっと言うと、自分が作り出したものって自分のものだよね。自分の所有物だよね、みたいな。
例えば、そうなったときに、これも、所有物っていう概念もこれまでの事故意識はなかったんですよ。
へー、そうなんだ。
だって世界には物しかなくて、それを否定するっていうことしかなかったから、あくまでも自分と、事故と物とか事故と世界っていうふうに分かれてたんだけど、
ここに自分が作り出したものとか、自分の働きによって生み出されたものっていうものが出てくるんだよね。
そうすると世界の側に、オセロの全部食われたところにシェルが増えていくみたいな感じで、事故っていうのはちょっとずつ増えていくんですよ。
おー、なるほど。
そういうふうになっていくと、仕事とか労働っていうものを通じて、実は事故っていうものは世界に働きかけられるんだと。
わー、なるほど、確かに確かに。今物って言ったけど、確かにこの部屋掃除しとけよって言われて、きれいになった部屋とかがあったときにも、
あ、このきれいになった部屋があるってことは、私はやっぱりいるんだ、みたいな。
そうそうそうそう。
そういう感覚にもなりそうだもんね。
そういう感覚まさにまさに。それは物を作るとかだけじゃなくて、今の掃除とか、もっとね、わからないよ、こうされて提案したとかでもいいと思うんだけど。
今奴隷の話してんじゃないの。今労働の話のほうに移った。
今労働の話に移った。そうね、奴隷の話で言うとまさにそうだね。料理作るでもいいんだけどさ。
そういうことを含めて、結局その否定されて自分の限界を知って、自分にできることをやる、そういう労働をすると、なぜか事故が広がっているっていう、こういう不思議な現象が起こるんだよね。
はいはいはいはい。
これによって世界を否定しつつして、その反射で事故を理解したっていうところから、自分の限界を理解して、その中でやれることから世界が広がっていくっていう逆の方向性に、事故意識が変わってくるんですよ。
ストア派の哲学
おー面白いね。この限界を理解するっていうのは、やっぱり今回の精神現象学の石木さんのためで言うと、
最初が相手を滅ぼしちゃうから、必要な挫折っていう感じなのね。そういう限界を知って。
そうですそうです。世界をとにかく簡単に作り、世界をとにかく直接認識できるとか、世界ってもういいのままにすべてできるっていうことはやっぱりできなくて、その挫折を通じてってのは本当に今に言ってる通りだね。
なるほどなるほど。
で、こうなると、いわゆる意識から事故意識、要は外を見る目から内に見る目っていうところがどんどんレベルアップしてきてて、
ゆっくりと自分には何ができるんだろうとか、どこまではできて、どこまではできないんだろうって、そういうことを考えるようになるっていう風に進んでいくんだよね。
はいはいはい。
そこを考えていくと、ちょっとここ少し端折るんだけれども、ヘイゲル的には過去の哲学的な伝統も踏まえていくので、過去のこういった思想がまさにこの事故意識の段階だみたいな風に言っていくんですよ。
あれだね、これ確か1回目か前回言ってた、空海が他の宗派にやったことと似てるみたいな。
そうですそうです。他の仏教的な伝統を踏まえて、空海は自分が一番だって言ってたのとちょっと似てて、ヘイゲルも過去のこういう思想は良かったけど限界もあるよね。だから次こうなりましたっていうのをもしかしたら言ってくるんだよね。
おー、はいはいはい。
で、最初に出てくるのがストア派なんだけれども、ストア派もいつか前やったと思うんですけど、要はすごいざっくり言うとアタラクシアみたいな心の平和みたいなものが大事で、要は世の中はどうにもならんことがたくさんあるんだけど、それはそのまま置いておきましょうと。
でも自分ができることに全力を尽くしましょうということは結構ストア派的なところで、多分前ソイレスやったときにも、例えば風が強く吹いた、これは私にはどうにもならないから気にしないみたいな。
例えば何か目の前の木にぶつかりそうだ、これは自分が避けるから避けたほうが良いみたいな。そういうことを瞬間瞬間把握しながら、自分が本当にできることだけに関わることで内面的な自由を得るみたいな。そういうふうな発想がストア派だったと思うんですよね。
人で言うと誰だっけ、アウスティヌスとか。
人で言うと有名なのがマルクス・アウレリウス・アントニヌスみたいな。あれあんまりピンとこない?
もう聞き直さないとダメやな。
自制録っていう結構有名な本を書いた人がいたと思うんですけど、実際は皇帝だけど、そういうストア派的な言い方をしたよみたいな人が有名だね。
いつも宗教哲学的なほうと混ざっちゃうんだよね。
ストア派。
名前がやっぱり難しいよね。かちゃくちゃ長い名前が。
さっき言ったとおり、自己意識は自分のどこに限界があったか、どこがコントロールできるのかってことを言ったときに、ストア派的には自分の内面、自分が意識で変えられるものとか、気持ち的なものがコントロールできるけど、外面はコントロールできません。
そういうふうなことをやったような思想であるというふうにヘーギルは捉えるんだよね。
それが一番レベル低いの?ヘーギルの中で。
低いっていうか、割と初期段階。要は、自己意識の立場からすると、要はここで今挫折をして、自分には限界があるって言ったわけじゃないですか。
そのときに限界はあるけど、自分の内側のことは自由にできて、外側のことは無理だっていうふうに。これって結構、内と外の二元論の中で、中はコントロールできる、外はコントロールできないっていうふうに。
そんなストア派も別に単純じゃないんだけれども、単純化するとそういうふうな切り分け方なんだよね。
はいはいはいはい。
割とシンプルっちゃシンプル。
あー、なるほどね。はいはいはい。
そうなると、確かに自分の内側はコントロールできるストアはできないよねっていうふうに納得しそうになるんだけれども、そうなると意識さんは世界を理解したかったわけじゃないですか。
それなのに世界のことはコントロールできません。自分の手に負えませんってなっちゃうと、本当にそれでいいんだっけって、そっちに戻っちゃうんだよね。
まあ、確かにバッドエンド感があるね、確かに。
そうそうそうそう。で、ここでやっぱり踏み戻れませんっていうふうになっちゃって、次に行きますと。
うんうんうん。
で、今度は定義主義、いわゆる全部疑うみたいなやつですね。
うんうんうん。
っていうふうに行くよっていうふうにヘーゲルは言っていて、何でかっていうと、内と外を分けるっていうのはダメだったと。
うん。
で、全部を自分のものに否のままにするともダメだったってなったときに、ある種全部自分のものにならないっていう否定の力を強めようっていうふうに行くんだよね。
うんうんうん。
うん、まあ選択肢はそっちもあると思うんだけれども、
そうすると懐疑心は全て真ではないとか何も確かなものはないっていうふうに、ある種否定に否定を重ねることで流動性を保っていくとかっていう感じなんだけれども。
うんうんうん。
そうするとさっきと一緒で、何かを否定しようとすると、結局否定される何かが必要じゃないですか。
そうだね。
そうすると否定し尽くした先には何も残らないってなると、結局自己意識っていうものもなくなっちゃうじゃないですか。自分自身もないんじゃないかみたいな。
あー、そのデカルトみたいに自分だけ残るならいいけど、残んないよねーみたいなね。
そうそうそう。我を思うゆえに我ありというのも疑えるって言ってさらに言っちゃうと、結局何も残んないじゃんみたいな。
うんうんうん。
でも結局、根本には何かがあるんだって言っちゃうと、全てを否定し尽くすっていうこともできなくなっちゃうから、そういった意味でこの会議主義っていうのも挫折するよねっていうふうに言うんだよね。
イエス・キリストと自己の探求
ここでストア派も無理で会議主義は無理だって、次何になるかっていうと、これは名前がちょっとあれなんだけど、幸な意識っていう言葉になるらしいんだよね。幸な意識。幸せではない意識。
これが人間の歴史的などのステージに当てはまるかっていうと、これは中世キリスト教だっていうふうに言ってるんですよ。
さっき言った兄貴がちょっと言いかけたアウグスティーヌスさん。人がまさにこの辺りなんだけれども。
結局これ何かっていうと、事故と外を分けたのがストア派だったじゃないですか。
事故と外じゃなくて、いわゆる絶対的な不変、変わらない世界と変わる世界。もっと言うと、限りある自分とある種、無限の存在としての神。
こういったものが2つあるんだっていうふうな世界観に行くぞっていうふうにヘイギロが言うんだよね。
へー、そうなの。
これだと難しいというか、ダイレクトにロジックで繋がってるかっていうと、たぶんちょっと難しいんだけれども。
でもさっき言ったように、否定しきれないものがないと、世界とか事故もなくなってしまうという時に、否定しきれないものが欲しいっていうふうな欲求が出てくるのはわかるじゃないですか。
まあそうね、はいはい。
でもその否定しきれないものが事故だっていうと、それもまたよくわからなくなっちゃうから、特に否定しきれない神のような存在を置いて、それがあるからなんとなく事故も保ててるよね、みたいな。
ああー。
そういうふうな発想に行くよっていうふうに考えるんだよね。
はいはいはい、これ面白いね。今回の意識さん、事故意識の話で言うと、わかりやすいかなって思ったんだけど、いわゆる事故をずっと認知し続けるために他の事故を立てたみたいな話があったけど、他の事故を立てるんじゃなくて、こういう絶対的なものを立てればめちゃくちゃサスティナブルだよね。
そうそう、まさに。
まあ、いのままにはもちろんできないし、する必要もないし、みたいな。ただずっとなんかあるから、そことの関係で自分が常にあるよねっていう感覚にはなれそうだよね。
そうそうそうそう。という意味で、まさにサスティナブル、太陽みたいにずっと輝いてくれっていう感じなんだけど、そうなると今度は何が起きるかっていうと、まさに有限な事故と無限の神とかっていうことを比べたときに、自分は欠けているんだと。
要は、自分というのは限られた存在で、神様とかそれに比べるとある種奴隷に足りない存在なんだっていうふうに事故は思ってしまうんだよね。
ほうほう、なるほどね。
それをされていいじゃないかっていう話もあるんだけれども。
いいじゃないかと思うけど。
そうね。一般的な人はここで生きてるんだよね。なんか絶対的なものとか自分を超えたものがあって、所詮人間なんて限られた存在だから、そういうふうに生きていこうなんだけど、石家さんは人間じゃなかったじゃないですか。
確かに。
なので、より完璧なもの、よりレベルアップした自分になろうとするんですよ。
はいはい。何ならその設定的なものもちゃんと暴いてやるぜ、分かってやるぜ、みたいなね。
そうそうそうそう。で、なっていくんだけど、じゃあどうしようかなって、この先どこに行ったらいいのかなっていうのを考えたときに、まさにいるじゃないかというのがイエス・キリストなんですよ。
えー、ちょっと待ってちょっと待って。
うん。
おー、そうなの?
うん。
イエス・キリストってさ、さっき僕が多分人間じゃないからって言ってたと思うんだけど、やっぱり石家さんという人がキリストという存在を知っていたとしましょうと言うときに、キリストって要はもともと人間じゃないですか。
うんうんうん。
でも要は、その後のいろんな教義がある中で、その三味みたいなものがあって、つまり神でもあり、人でもありみたいな。で、精霊でもありみたいなさ。
うんうんうん。
そういう存在になったわけだよね。
はいはいはいはい。
うん。っていう風に要は、今、石家さんは自分は欠けていて、無限の神がいるなんだけど、でもキリストはその自分の欠けてたものを補って、神と同一化したじゃないかと。
はいはいはいはい。
つまりキリストってそれを乗り越えた存在だよねっていう風な認識が起きるんだよね。
話し合っていくとやばいよね。この石家さんは、いろいろ考えたせいに私はキリストであるって言ってるの?
私はキリストであるとは言ってないんだけど。
言ってない?
そう、言ってないんだけど、キリストというロールモデルがいるじゃないかって思うんだよね。
うんうんうん。なるほどね。
今私はキリストではない、イエス様ではないが、イエス様という人がいて、この有限の自己と無限の神っていう分断を乗り越えたじゃないかと。
うんうんうん。
意識から自己意識への移行
っていう意味で、じゃあ自分も乗り越えれるんじゃね?とは思うんだよね。
なるほどね。すごいな、石家さん。やっぱ意識高いね。
石家さん。石家さん。
意識が高まってきてるんだよね。
うん。
はい、石家大系の意識さんなんですけれども、なのでここもやっぱり挫折なんですよ、結局は。
そのような、やっぱり自分は分断してる神ではない、イエスではない、自分は分断された、取るに足りない存在であるっていうことを自覚したことで、
初めてそれを乗り越えるために頑張ろうと
つまりそういう神と人って神というかね
そのちょっと無限のものと有限の自己っていうものを
なんとか乗り越えるようなところまで進んでいきたいっていうのが
まさに欲求だよね
起きてきて
そこに進んでいきますっていうのが次のジョブチェンジ
要は意識が自己意識になりましたというような感じで
自己意識が次理性っていう段階に変わりますと
理性風な
そう理性っていう風なステージになってくるんだよね
はい
一旦ここまでは今日の自己意識のティピでございました
はいはいはいはい
わーすごいね
まあ確かにその何だろう
わかるというか理解はできるよね確かに
どこあたり
この意識さんの旅で
あーはいはいはい
この意識が生まれてからというか
うんうん
出てきてから
その世界を理解するっていうようなもとに相手を破壊したりとか
逆にドレインされちゃったりとかしながら
うんうんうん
であれっていう中で
もういろいろ考えていく
俺にはないわけに俺はどうすればいいんだみたいな
そうそうそう
そこの悩みと
これを解決する順番みたいなね
うんうんうんうん
まあこれが絶対的な答えかはわからないけど
この流れはわかるみたいな
わかったわかった
で今ねまだその2ステージ目なんですよ
全部で6段階ぐらいあるんだけど
えーちょっと待ってだいぶ長いな
そう次でやったら半分かな
わーはいはいはい
そういうところもあるんで
多分これを馴染んでいくと
なんか平気なよって言うと
ちょっと気持ちよくなってきたっていう風になってかなって思うんで
いいの?気持ちよくなっちゃっていいのかな
大丈夫です
大丈夫ってめちゃめちゃ怪しいね
怪しいよ
完全に宗教の人だったね
大丈夫です委ねてくださいってね
簡易委ねてされてたわ今
はいまあまあ
もちろん健全なちょっと批判意識というか
それを持ちながらもですね
次あの今回の自己意識っていう
この下手意識さんがですね
次理性っていうものに至るよという風な話があるので
こうですねあの次第4回かなで見ていければというふうに思ってます
という感じですね
はいはいわかりました
ちょっとまだまだね意識の旅はまだ始まったばかりみたいな
意外とね
そうですね
次で理性ね理性を持っていくというところで
楽しんでいきたいと思います
では引き続きよろしくお願いします
お願いします今回もありがとうございました