カント哲学の探求
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回でカント会バージョン2というか第2回ですね、終了ということで、今回は雑談会やっていきたいと思います。
よろしくお願いします。
どうでした?やっぱカントは重い?
重かったね、重かったねって僕ら言うのもあれなんですけど、難しかったな。
やっぱり、今回も何となく分かった気で喋ってはいたんですけれども、本当はもっともっと緻密な議論をしているし、定義とかも、
純粋理性ってのはこういうものでとか、判断力っていうものはこういうふうに切り分けられてるとかって結構やってるんですよ。
でも、やっぱりそれを読み解いて、ちゃんと噛み砕く力がまだまだ足りないなと思ってて、
そういった意味で伝えきれてないなとか台本も、やっぱりこう、まだまだ全然それのいいところをなぞっているのに続いてないな。
感覚は正直ある。正直あるんだけど、でもやっぱりロックヒュームであったことで、
なんで経験っていうものが大事なのかとか、そこに対してなんでそういう誤性みたいなものを当てはめたのかっていうこととかは結構ちゃんとお伝えできたんじゃないかなと思うので、
そういう意味では、ちょっと自分自身としても少し成長したし、皆さんに届けられた部分もあるんじゃないかなとは思ってる。
なるほどな。だから哲学を扱うとなると、ストイックに考えると、それこそ底なし沼みたいな話だろうな。
ある意味前回よりも、ハヤト的にも納得感というか、カントの改造のほうが上がったみたいなポイントはあったってことだね、さっきの。
前回のESK経験論とかの流れからみたいなところだったりとか。
あくまでも個人非みたいな感じではあるんだけど。
その辺でいうと、一番面白かったなみたいなのは、さっき言ってたESK経験論とか大陸合理論からのその繋がりみたいなところ?
実はそこもなんだけれども、その先の道徳、実践理性が結構自分でやってたら面白かったんだよね。
思ってると、前回カントをやったときって実践理性までいかずに、なんとなくお茶は濁して終わってた記憶があるのよ。
自己の成長とホワイトヘッド
それも純粋理性を、初心者というか素人がやるだけでも結構な回数になっちゃったみたいな。
そうそう。それ以上いくと記録もなかったから、当時。
カントはやらなきゃいけないからやるけど、正直興味持てなかったみたいな話を当時したんだよね。
ああ、だってか。
当時はどっちかっていうと、自分のなんで生きるのってこんな苦しいのとか、どうしたら楽になれるんだろうって答え探しみたいなところもあって、哲学と向き合ってたから。
カントを読んでも別にその答えに近づける気がしないって、やっぱり3年前だと思ってたんだよね。
なるほど。だからある意味本質的すぎて、抽象的すぎて、例えばどう幸せに生きるかとか、人類にとって幸せは何かみたいなところに直接繋がるイメージが持てなかったみたいな。
持てなかったし、そういうふうな哲学者じゃないと思ってたんだよね。
どっちかっていうと、世の中どうなってるのかとか、真理を明らかにするみたいな方の哲学者だと勝手に思ってて。
ああ、そっち系は興味なかったんだ、あんまり。
なかったっていうか、それよりも今の俺のこの苦しみは何とかしたっけみたいな。医学を知りたいんじゃなくて、効く薬が知りたいんだみたいな。
結構そういう感覚が強かったんだよね。
それはやっぱりソイテッドラジオを始めた頃も割とそっちの要素が強かったみたいな。
強かった強かった。
7,3ぐらい?7,3で7。
でももしかしたら8人ぐらい、そっちとそっち。
そう、それはただ続けてるのはもったいないから、こういうふうな場で愛知兄貴と話して自分も整理したいしとか、なんか哲学興味あるなっていう人に届けられたら、それはアウトプットとしていいかなみたいな。
結構そういう感覚では当時あったんだよね。
それで言うと今は何なんぐらいだったの?割合で言うと。
今はやっぱり届けたいとか知りたいっていうのが6ぐらいかな、でも7ぐらいかな逆に。
そうなの?じゃあある意味自分の幸せとか人生観みたいなものは若干折り合いついてきたというか。
ついたね。やっぱホワイトヘッドのおかげだね、これはね。
そこも結局哲学で解決というか。
そう、哲学のおかげで。
そうなんだ、ホワイトヘッドなんだ。
そう、やっと自分の感覚に当てはまる哲学に出会えたっていうのがそこであって。
へー。
そうそうそう、別にそんな苦しまなくていいんだみたいな。
じゃあその辺はなんかあれなんで、今あれでしょ、たぶん哲学の先生だよね、教授、元教授みたいな人とホワイトヘッドやってるんだっていうか。
そうですそうです、月に1回。
それっていつ終わるの?1年ぐらいで終わるの?
今ね、一応今年の11月ぐらいに終わる予定で。
一旦、はいはいはい。
上下巻を今1ヶ月にとりあえず60ページぐらい無理やり読もうみたいな。
無理やり、はいはいはい。
感じで進めてるんですけど。
へー、じゃあそのうちあれだね、個人的なあれだけど、私とホワイトヘッドをやってほしいね。
人間関係の哲学
私を救ってくれたホワイトヘッド界。
いや確かに、ちょっと年末ぐらいにちょうどいいかもね、作ってやらせていただけるんであれば。
そうだね、だからその意味ではその見つかったっていうのもそうだし、
あとやっぱり当時何回か言ってますけど、やっぱりどこかに真理があるとか、
やっぱり自分の求めてる答えがあるって思い込みすぎてて苦しくなってた部分があったけど、
はいはいはい。
やっぱりそうじゃなくて、いろんなものがつまみ食いしながら、さっきホワイトヘッドって言ったけれども、
私それだけじゃなくて、いろんな発想をなんとなく受け入れながら、
そういうことで仏教とかももちろんあるし、
っていう中で自分のちょっと安定、良いところになる考え方を身につけてこれたかなっていう感じではあるんだよね。
へー、それは面白いね。
今回のカントのさ、人格のあたりの感覚でさ、説明というかさ、ちょっと読み解けるそうな気もして、
ちょっと質問してみたいんだけど、今ハヤトが寄りどころっていう表現をしたんだけれども、
やっぱりなんだろうな、ホワイトヘッドにしろ何にせよ、今も寄りどころっていう感覚なのか、
ある意味自分の中で、自分の定言明報的なものを作っていく感覚を与えてくれたっていう意味での、
思想的な寄りどころというか、感謝してるみたいな感覚なのか、どっちかの感覚ってあるの?
ここまではあんま考えたことなかったけれども、やっぱり自分の中でそういう法則をちょっと作りつつあるっていうのはあるかもね。
例えば、すごいわかりやすい例で言うと、人の言葉を聞くときは、そこに乗っかってる気持ちも含めて聞くべしみたいな。
例えばね、物があったときに、そうやって確かに自分のルールでもあるし、世の中一般のルールになったらいいなとも確かに思ってるのよ。
逆にこれまでは僕はどっちかというと言葉に全て乗っかってるから、
例えば愛してるって言ったらそれを疑わずに愛してるって言っとってくれって思ってた人間はね。
でも普通そんなふうにはならないじゃない、人間。
相手はそう取ってくれないっていうか、そう取ってくれない人の方が実は多いっていうことを知らなかったっていう話だったりか。
知らなかったっていう話。
意識してなかった。
なんでこんなに言葉で言ってるのに伝わらないんだろうって思ってたんだけれども、
やっぱり言葉みたいなものも当然言い方、伝え方、文脈、受け取る人の気持ちっていろんなものは当然載ってるよねっていう。
本当当たり前すぎて恥ずかしいんだけれども、
そういうところをちゃんと自分の中で納得をしたときに、
自分が話すときだけじゃなく、相手が話しているときにも、
そういうものをちゃんと受け取りながら聞こうっていうことが、
自分のある思考土台になってくるわけよね。
それはちょっとだけ言うと、ホワイトヘッド的に言うと、
その相手の気分も含めて自分なんだというか、
その自分の聞き方と相手の話す気持ちも相互作用しながら、
そういう出来事が生まれていくんだっていう発想になったときに、
自分っていう枠がだいぶ広がった感覚があるんだよね。
ホワイトヘッド的な考え方をすると今の話になるんじゃなくて、
ホワイトヘッドが具体的に今のような話をしてるの?
いや、前者、ホワイトヘッドな形をなんとなく受け取ると、そういうふうにも言えるよねって話。
なるほど、なるほど。
みたいなことがあって、自分っていうものの認識がアップデートされるとか、
人と人の関わりっていうものが主観と客観と分断したものじゃなくて、
全然そこって色んな繋がりがあるよねっていうふうな世界観で生きていけるとか、
そういうことを通じて寄り所が増えたりとか、
そういう低減名法とまでは言えないかもしれないけれども、
やっぱりこういうふうに考えてみたらとか、こういうふうに行動してみたらっていうのが変わってきた。
っていうのはやっぱりあるかなと思うね。
はいはいはい、なるほど。やっぱりそのバランスなんだろうね、面白いよね。
言葉で全部伝わるはずだっていうのが、それは多分ちゃんと自分の頭でもしくは感覚で考えてるスタンスだと思うんだけど、
それが一般的なルール、一般的な道徳じゃないけどね、一般的なルールとか社会的なルールというか、
それがメジャー、マジョリティなのかどうか、一般的などうかというと踏まえずに、
みんなそうかもって思ってると、そうやってちょっとこじらせるじゃないけど、こうなっちゃうし、ぶつかる不具合が生じやすいし。
そう、本当に自分にぶつかって、なんで俺こんな苦しいんだとか、なんでみんなわかってくれないとかって、そっちに行っちゃうからね。
逆に一方でね、自分の考えなしに、そういう風になってるから自分もそうしてるみたいな。
もしくはそう風になってるからそうしてる自分に無意識みたいなね。
はいはい。
部分っていうのも、逆に確かに怖いし、自分の頭で考えろって言われちゃうしみたいなね。
本当はあなたはどこにあるんだって言われかねないみたいなね。
カントと実践理性
両方あるとは思ってて、言葉の話だけで言うと別にね、愛してるって言われて、そんな伝わんないって言われては伝わんないんだっていう風に経験としてわかるところも全然あるわけじゃない?
だからそういう経験から学べばいいと思うんだけれども、ちょっと無理矢理カントにこじつけると、
カントは経験だけじゃなくて、個性を大事にしたって言うと、
兄貴が言ってくれた通り、それに自覚的であるかとか、自分はどういう風なカテゴライズのもとに言葉が伝わらないっていうことを納得してるのかみたいなことが役立つ部分があるとは思うんだよね。
そうだね。確かに確かに。
自分の場合はちょっと極端にやってしまったから、なんで俺はこんなに苦しいんだとかっていう時期を過ごしましたけれども、
今ちょっとそれを乗り越えたときに、やっぱりカントっていうものの向き合い方としても、
やっぱり、ある種の純粋理性で世の中をジャボライズしていくっていう方というよりは、道徳とか実践理性っていうもので、
人間はどういう風に生きていくべきって言うと大げさかもしれないけれども、
そういう風な自分を信じる世界とか生き方ってものを作っていけるんだろうかとか、
それを独りよがりにならずにやるために、そういう自分だけじゃなくって世界のルールになった方がいいと思えるかどうかっていうことを知ってたんだなとかっていうことが、
ちょっと共感できた気がして。
はいはいはいはい。
そういう意味で道徳とか実践理性っていうものが、今回中で言うと自分の中では面白かったなって思うんだよね。
でも今、ハヤトは生き方というと大げさかもしれないけどみたいな話はしたけれども、
これももしかしたら大げさなのかもしれないけれども、ある意味、例えばスーパーに行ってお菓子コーナーで、
今日はポッキーにしようか、トッポにしようかという選択があったとき、
実はでもそれも生き方を決めてる人じゃないと、実は選べない可能性もあるっていう。わかる?これ。
はい、わかるわかるわかる。
何の話したいかわかる?
つだんとか選択の問題だよね。
そうそうそう。てか、一貫性みたいなところには関わってくるから、
全然生き方を決めるとか生き方を考えるっていうのは、全然大げさでもないかなとは思うかなっていう部分もあるよね。
でも面白いかもね。やっぱり僕はすぐ主語を落としてしまう癖があって、
ポッドキャストの参加
自分だけじゃなくてやっぱりね、世界はとか生き方はとかってすぐ言ってしまうんだけど、
それは自分の性なんだなって思う人があって。
でもね、ちょっと最近、これ言おうかなと思ってたんですけど、
今ね、僕もちろんスライドテストラジオっていうポッドキャストやってるんですけれども、
最近友人がやっているポッドキャストにゲスト参加させてもらったんですよ。
へー、あ、そうなんだ。
そうそう。
それがあらしろゆうきさんっていうのがやってる、読書のマニマニっていうポッドキャストで、
もう50回くらいやってるのかな。結構長くやってらっしゃる。
読書のマニマニっていうのが多分、検索で出てくるんですけれども。
もちろん有名人とかではないんで、めちゃめちゃバズってるとかではないんだけども、面白くて。
このあらしろさんっていう人が、本当に結構面白い人。
それだけでも時間が経っちゃうんで、スクッと言うと、
やっぱり人の話を聞くのがまずそもそも好きですと。
その聞くっていうこの人の中に、
それこそ昔から茶道をしてましたみたいな日本の伝統文化に触れてますとか、
あとは幸福とは何かみたいな、幸福学とかに興味を持って、
大学院に行って、前の先生って結構有名な方がいらっしゃるんですけど、日本のウェルビング研究みたいなので。
へー、そうなんだ。
そこの研究室に入って、大学院、社会寺などから行ったりとかして、
実践とかも結構してる人なんですよね。
なのでゲストとかも面白くって、詩人の人とか、
あとケーキ屋さんとか、あと料理家とか、
そういった方が、企業家とかも含めて来て話すみたいな番組なんですよね。
へー、そうなんだ。
結構面白いんで、ぜひこれもよかったら聞いていただければなんですけど、
僕は別に一般人なわけで、とりあえず友達だからって呼んでもらって行ったんですけど、
茶道さんって何してる人なんですかって言われて、
はいはいはい。
うん、みたいな。
普通に言うと、ミライフっていう会社でキャリアアドバイザーというか、
転職してやってます。
趣味でソウル鉄ラジオっていう鉄楽のポッドキャストやってます、なんだけど、
なんか今年の初めぐらいに、2つ言うのダサいなって思った自分がいて、
なんかもうちょっとこれ統合できないかなみたいな。
2つ言うのできないかな。
そのコンティネラモって何だろうとかって考えたときに、
実はもうXでそれを書いてるんだけど、
生き方の探求案内人っていう言葉を作ったんですよ。
怪しいね。
怪しいよね、生き方の探求案内人。
でも結局、キャリアとか転職に向き合ってるのも、やっぱりその人がどう生きるかとか、
どういうふうに日々の時間を過ごしたらハッピーなんだってってことを考えてるだけだし、
鉄楽はまさに今日ずっと話した話で、やっぱり自分がまさにどう生きるかとか、
どういうふうな考えをもとに生きるかっていうことにつながってるから、
結局自分はどこまで行ってもどう生きるかっていうことから逃れられないんだなって思ってる。
逆にそういう話をすると、そんなこと考えたことなかったとか、
マジでそんなこと考えてんのっていうことが多いので、
他の人よりもそういうことに関しては少し考えてる時間が長いかもしれないとか多いかもしれないと思うと、
いざ生き方ってどうしたらいいのかなとか、自分ってどう生きたらいいんだろうって考える瞬間って時々あったりするじゃないですか。
っていう時に役立てる人になってもいいかもなというふうに思ったんだね。
なるほど。偉いね。そこは役立つなのね。
役立つ、そうそう。でも一方で思うのよ。
当然、何言ってんの、またたかたか30半ばの一般人が何言ってんのっていうふうな声も自分の中でも聞こえてきたりはするんだけど、
それはそれでいいかと思って名乗る分にはただだし。
年齢は関係ないかな。
そう思ってくれるのはありがたいけど。
みたいなことがあって、そのポッドキャストでも生き方の探求案内人やってますって言ったら、何それみたいな。
そうだよ、キモいよ。構えちゃうよね。別に案内されたくねーし、お前なんかに。
まあね、何言ってないって感じだけど、嵐野さんはそういうことをちゃんと聞いてくださる人なんで、
それってどういうことですかとか、何でそう思ったんですかとか、
そういう嵐野さんの経験から来てるんですかとかっていうことを結構いろいろ聞いてくださって。
っていうのを話しましたよっていう感じなんだよね。
逆に言うと、聞いてくれる人がいたら、僕ってそういうことをずっと喋ってんだなって思ってしまったんだけど。
結構同じことしか言ってねえなみたいなね。
そうそう、同じテーマ、生き方についてしか言ってねえなみたいな。
なので、収録みたいなのはまだ公開されてないんですけど、おそらく公開されてるときにはそっちも出てるんじゃないかと思うので、
もしよかったら読書のまにまにの方も、もしお時間ある方は聞いていただけたら嬉しいなと。
すごい嵐野さん声が素敵で羨ましいことに。
そうなんだ。
めちゃめちゃ聞きやすくていい声なので、よかったらぜひ楽しんでもらえたら嬉しいなと思ってますという感じですね。
なるほど。
でも面白かった。
言ったのは、もちろん僕もメインで喋ってるけど、基本的には哲学のことを喋ってるから、
本当の意味で自分のことを雑談とかでもやってるけれども、喋ってる感覚ではないんだよね。
でもこの読書のまにまにの方では、やっぱり嵐野さんのことを教えてくださいって言ってくださったので、
結構引き出してもらったなというか、自分確かにこんなことも考えてたよねみたいな。
そう話しながら気づかせてもらった。面白い体験だったんだよね。
自己探求の重要性
なるほど。なんか発見はあった?
そうだね。新しい発見というわけではないんだけれども、やっぱり自分ってそこに共感してほしいって思うのが強い人間なんだなっていうのが改めて思ったんだよね。
へー、そうなんだ。
例えば嵐野さんとかはそういうのを、例えば自分がヒカトの案内探求案内人をしてますとかっていうときに興味を持ってくれたりとか、
その感覚わかるかもしれないですっていうふうに結構言ってくれるのよ。
はいはいはいはい。
だから多分仲良くて友人としてやってるって思うんだけども、
僕としてはやっぱり、さっき低減名法っぽいのって言ってるやつと思うんだけれども、
自分の中で生き方というものをより良くできるならした方が良いとか、
もっと言うと人間はそういう生き方というものに自覚的になって、より改善向上すべしみたいな、
多分そういう傲慢さがどっかにあるのね。
なるほど。
っていうと例えば、個人的にはというか、今の話で言うと、
そういう生き方のことを考えたことがないなら考えるとか自覚するっていうところ、
そこで止まると一定程度自由な感じにはなると思うんだけど、
そこじゃないってことなんだ。
そこをより良くするっていうところまで含めちゃうみたいな感じじゃん。
そうだねそうだね。
だからさっきその貢献とか役立つって言葉でちょっと狂っちゃったけれども、
そこそこキレイごとで、
いやもっと真剣に考えろよって気持ちがどっかにあるんだよね。
なるほど。
これはやっぱりどうしても親を見てとかもあると思ってて、
これ時々さ出るけれどもさ、あの身内のことだけど、やっぱり自分の父親とかを見たときに、
なんかこのままでいいと思ってすか?みたいなことを、
本当にその日の先が上手ければいいんだみたいな人間で、
それはそれでわかるんだけれども、
人生の探求と支え合い
子供っぽいね本当に?って思ってたなと思うんだよね。
はいはいはい、なるほどなるほど。
だからそういう意味で、
もちろんね、そういう人からすれば余計なお世話だと思うんだけれども、
やっぱり人生長いからさ、
やっぱり何歳に、俺の人生これでいいのかなとか、
あと40年しかないって気づいた瞬間に発動するってことって、
まあなくもないだろうと思ってて。
はいはいはい。
うん、っていうときに何か、なんだろうな、
気づいたんなら何かできる、支えてあげる、貢献してあげる、
でもやっと気づいたか、みたいな気持ちもたぶんどこかにあるみたいな、
そういう感覚が自分の中にあるなってことに結構話しながら思ってたかな。
あーなるほど、それは面白いね。
っていうのは、やっぱなんか、なんだろうな、
そういうのは自分にない感覚。
自分はたぶん白状なんだろうね。
ないっていうのは、無理矢理人に火をつける、
みたいな感覚は自分はたぶんなくて。
なるほどね。
その火がついてて何かやろうとしてる人?
とか今みたいなハヤトが、
いや俺こうしたいんだよ、こうしたきゃダメなんだよ、
みたいな理想を抱えてる人のお手伝いは好きなんだけど、
別にそうとも思ってない人。
だからそうと思ってるけど無自覚な人は応援したいけど、
本当に何も考えてないとか、
そこに対してはもう悟ってる人。
それでいいじゃんって思っちゃうかな、みたいな。
なるほどね、確かに。
それは違うかも、白状なのかも、
人に興味ないかも、そうかもしれない。
でもそこはやっぱり、
自分は自分、他人は他人にとってはもちろんあるからさ、
そこは無理にっていうのはないけれども、
自分が特に生き方っていうものに目が向いているから、
みんな生きている以上は、
ある種こうなんだろうな、
切っても切り離さないじゃない?
生きているから。
だから多分そういうふうに思ってしまうんだろうね。
はいはいはい、なるほどね。
それはいいと思いますね。
傲慢さと相互関係
でも難しいよね。
さっき言った通り、それって傲慢じゃないとかさ、
本当に人の人生、生き方を変えられると思っても、
それは思い上がりだとも思うから、
これがちょっと楽になったっていう、さっきのホワイトヘッドの話で、
やっぱり自分が相手を変えてやろうとか、
自分と相手という別々の存在がいて、
その別の存在に対して仕掛けてやろうって思うと、
やっぱり無力感とか、なんでこんなにうまくいかないとかって、
そっちになると思うんだよね。
そうだね。
人類を救おうっていうのもさ、
一回転してさ、滅ぼしかねないよね。
そうそう。結局ね、恨みつらみだってさ、
それならゼロからやり直してやるみたいに、
魔王とかになっちゃうじゃん。
そうそう、なんで分かんないんだ、これがみたいな。
そうそうそうそう。
なりそうだよね。
それはすごい傲慢だし、やっぱり自分勝手なのと思うんだよね。
もっと言うと、ボクシング、卒走技とかでもさ、
とにかく力で倒してやろうみたいな、
それはやっぱりダメで、
やっぱり重力豪和精神じゃないけど、
自分が変わることとか、
自分が何かそういう精神的な厚みを増していくことによって、
なんかそういう生き方いいねとか、
カンノさんと話してたりすると、
ちょっと自分の生き方に目が向きますみたいな、
そういうふうに一緒に倒れ込む、
まあ柔道みたいなさ。
うんうんうん。
感覚の方が、なんかいいんだろうなっていう感じもあってきたんだよね。
それはさっき言ったホワイトヘッドっていうものが、
自分と立っているわけないで、
そういういろんな関係性の中で出来事が生まれていくっていうのは、
そう思っているから、
そっちの方が普通に役立ちそうだよね、
と思ったのもあるんだよね。
はいはい、なるほどなるほど。
まあそこがちょっと自分の中で重なってきた時に、
そういう生き方の探求案内という言葉を作って、
今これも初めてね、ホットキャスティングだし、
別に普段から言ってるわけじゃないけれども、
まあソイテス公園と作ったのと同じだよね。
やっぱりそういう公園っていうふうなメソッドで、
みんな自由に集まれるとか遊べるみたいな。
うんうんうん。
そういう感じで、
生き方の探求案内って言葉を使うことで、
別に何かそれを押し付けるわけでもなく、
一緒に探したいっていう人がいたら、
ちょっと手を引いて、
こっちじゃないこっちじゃないっていう人ぐらいはできるかなみたいな。
はいはいはいはい。
そういう感覚で今は思ってるかな。
なるほど、何かもっといい方が来ないかね。
そういうビーングとかだと、
すごい無害な感じするじゃん。
はいはいはい、なるほどね。
いい感じ。
騙されなさそうじゃん、あんまり。
ダメかな、でも。
探求員騙されちゃうかな、一方の探求人は。
ダメかな。
ダメかな。
その怪しさはいいのかな。
怪しいのか。
だいぶ怪しさを削ったつもりだったんだけどな。
個人的には水先案内人みたいなさ。
ちょっとそういう、旅行とかするときに、
ちょっと前に立ってくれてますよぐらいの感覚の言葉だなとは思ってるんだけど。
はいはいはい。
難しいよね、そういうニュアンスがね。
そうね、聞き方が。
研究家。
研究家ね、なるほどね。
まあ確かに、無害でもね、研究別に好きにやってくれるって感じだもんね、研究なら。
うん。
確かに案内人というのは、自分に向かってくる感じがして怖いのかな、なんか。
ああ、そうそうそう、笑うセールスマンの顔みたいなのが思い浮かぶよね。
どうですか、聞き方どうですか、困ってませんかみたいな。
確かに嫌だね、そのイメージ嫌だね、確かに。
お修理感があるのかな。
ああ、そっかそっか、いきなり土足で踏み込んでくる感あるか。
だから評論家とか研究家とか、ちょっとそういう方だな。
こっちから行くんじゃなくて、来てもらうだったら、そっちの実践家でもいいしさ。
なるほどね、確かに確かに。
まあ確かに、行き方研究家ぐらいの感じはいいのかな、ちょっと言葉として。
まあ、ゆるいかも。
なるほどね。
無害感があるかも。
確かにね、ちょっとポッドキャストでは、読書のマニマニの方ではタンキュラーニって言っちゃったけども、変えるかも。
なんか、万が一、その肩書き言い方どうでしょうって思う方が、もしいらっしゃればぜひお手紙いただけると、
ちょっと参考にさせていただきたいんで、ぜひご連絡お待ちしております。
難しいよね、肩書き迷ってるのか、生き方に、ハヤト自身の生き方に迷ってるのか、どっちなんだ?
生き方はね、だいぶ迷いはかかると思うんだよね。かかると思うんだけど、やっぱり伝わらないっていう問題はまだあるよね。
確かにその辺はもはやマーケティングというかね。
そうなんだ、表現の問題だから。
なってくるからね。
今、市場にない場所の話をしてるからね、ポジショニングの話をしてるから。
そうね、でも世の中的にはやっぱり、宗教的指導者とかなんていうのかな、そういう風になりがちなんだよね。
まあそうだろうね。
とか、あえてビジネスに振って、ビジネスコンサルの人が、そういう生き方とかスタンスとかを伝えるみたいなものはあるんだと思うんだけど。
まあでもそこではないしな。
そっちじゃないっていうね。
あの処方箋じゃないよっていうね。もうちょっと本質の話をしてるからねっていうね。
そうなんだ、でも難しいよね。
そういう人は立ち位置難しいと思うし、伝わりづらいと思う、多分。
そういう意味では、これも前にお伝えしたくないんだけど、占いの話なんだけど、好きな言葉があって。
当たる人はマーケティングいらないからっていう言葉なんだけど。
要は、ちゃんと本当に当たって、その人に役に立てれば口コミが広がっていくじゃないですか。
宣伝をするな、マーケティングをするなっていう言葉があって。
まあそれは、確かに占いっていう話があったから、占いをなりわいにしてる人っていうのは、多分個人事業主だもんね。
そういう意味では口コミで十分ご飯食べていけるぐらいにはなるはずだから。
そうなんだよね。
そういう、世の中に名前がついた仕事じゃないとか、名前がついてない場所のポジション。
かつ個人事業ぐらいの大きさだったら、全然アリだと思うね。
これがスタートアップでね、スケールがして、何百億稼いでいくのじゃ、みたいな感じだと、マーケティング必要だけど、自分がご飯食べていくっていう意味では全然いいかもしれない。
そういう意味ではね。
やっぱり提供価値の仕組みとして占いってどうしても、何ていうのかな。
合う合わないもあるよってその人の話でいくと、例えば俺が兄貴にしたとして、それをうっとってくれればどうかってやっぱりわからないじゃない。
だからやっぱりそういうふうにある種、お客も良くも悪くも選ぶというか、そういうことがまずは個人事業というか、そういうことだとやっぱりできるよねと。
逆にそれでマーケティング的に広すぎるとやっぱりメッセージがブレたりとか、そっちに引っ張られて自分が本当にやりたいことができなくなる。
だからそこは気をつけましょうねっていう話があって、ここは本当にそうだなって思ってるんだよね。
そうだね。だからそこを自分が間違えなければ変なことにはならなそうだね。
だから自分の生き方の本質追求だとかって言っても、人によっては本質ってなんじゃみたいな話。
生き方の探求案内
そもそもそれって意味あるのみたいなことになると思うんだけど。
でもどこかには、それってやっぱり大事だよね。そういうことを本当に考えたいと思ってたんですって人がいるんじゃないかと信じてて。
そういう人に届いたらいいなとは思ってるのかな。
はいはいはい。なるほどね。
いまだにね、その生き方を探求したいです、案内してくださいという人はもちろん現れないわけなんだけれども。
うん。ちょっと重いもんね。
まあそうだよね。確かに。でも面白いのは、キャリアアドバイスとかしてると自然と生き方の話なことがあって。
その時にすごい感謝はしていただけることが最近増えた。
それはある。
結局何なんだろうな。スーパーで買うお菓子にも通じる話だから、その重さをどう調整するかだよね。
まあ確かにね、そうね。自分の仕事から日々の行動までって本当そうだからね。
本当だよ。今日ズボン右足から履くか左足から履くか生き方だからさ。
まあね、気にしなくていいですってなるんだけど、それはね。
ダメだよ。そう言ってる人はダメだよ。そこ本質だからね。
お菓子の話も冗談じゃなくて、結構マジで言ってるからね。
リアルの話ね。
そこをわからないようじゃまだまだ名乗れないですね。
これ兄貴お得意のちょっと逆したやつかと思ってたわ。
違う違う違う。結構大マジだよ。お菓子の話。大マジだから。
それだったらね、たぶんまた全然違う話になるね。やっぱり確かに。
そう、その芯がないと。
芯があるからわざと今日はこっちにしようっていうところにも意味が生まれてくるから。
そうだね、それは本当にそう。
でもそこが本当に面白いと、やっぱり一瞬一瞬の決断に何をかけるかって話だからね。自分の人生の。
繋がるから。じゃないと生き方って、どこに適用するのって話だよ。
自分にとって、例えば10のうち5以上のリスクがありそうとか重要そうなものにはこの生き方を適用しましょうってさ、すげえ嘘じゃん絶対。
まあそうね。それは根本じゃないからね。
まあね、そんな感じで今日またダラシさんと喋ってしまったんですけれども。
どうでもいいね。どうでもいいハイトの肩書きの話をね。
それはそれでどうでもよくないよ、やっぱり。お互いに主張がめんどくさいね。
東洋の趣旨学への移行
次回からね、前回のパント会最後で言ったとおり、東洋のほうに行って趣旨学を扱っていきますと。
実はそれとしては孔子を扱ってないんですよ、実は。
ああ、そうか。
なんで、授業って何みたいな話とか、なんで扱わなかったのって話も冒頭触れつつ、
この趣旨学っていうものを改めて全然また違う文脈というか、新しい思想というか哲学としては学んでいきたいなと思ってますって感じですね。
わかりました。久々の東洋ということで、次回楽しんでいきたいと思います。では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。