1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2025-04-23 51:36

#311 心が白紙だとしたら?ジョン・ロックが教える世界の捉え方

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ジョン・ロックの哲学は、人間が物をどのように認識するかを探求し、心が白紙であるという考え方に基づいています。彼は、私たちの観念が経験から生じることを示し、日常の出来事をどのように捉えるかの違いを強調しています。ロックの思想に基づき、心が白紙であることから観念が形成され、経験によって観念が組み合わさり知識に変わる過程が探求されます。彼の単純観念と複合観念の概念に加え、認識のプロセスや世界との関わり方にも焦点が当てられています。ロックの理論に基づき、知識は経験を通じて形成され、観念同士を組み合わせることで新たな知識が生まれることが探求されます。特に、火の熱さの理解を通じて、直接的な経験を超えた知識の限界について考察が行われます。ロックの哲学では、理性に対する見解が議論され、人間の知性と経験の関係が探求されます。また、デカルトとの対比を通じて、知識の限界や認識の仕方について深い考察が行われます。ロックの哲学を考察し、心が白紙であるという観点から世界の捉え方が探求されます。

ロックの哲学の導入
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回もイリースのジョン・ロックということで、今回からついにジョン・ロックの政治思想というよりは哲学の中身を見ていくというような話でした。
そうですね、ちょっとね、やっとという感じで申し訳ないんですけれども、前々回から入ろうとしたらやっぱり難しくて、
前回、宗教とかキリスト教の違いとかも含めてお話をした上で、満を持してという感じなんですけれども、
大きなテーマでいくと、ある世界というものを皆さんが想像したときに、
例えば、人と物が仮になったとしますよね。
そういうときに、人って物をどんなふうに捉えていますかとか、そもそも世の中に物ってどんなふうに存在しているんですかとか、
そういうことをロックは考えていくんですよ。
いきなりさ、ものすごい宗教とか政治とかさ、話をしていたのにさ、突然古代理性を持った感覚があるよね、そんな話をされるとさ。
そっちは哲学的なんだよね、やっぱり。
一気に風景が変わったわと思って。
逆に言うと、まさに景色が変わるところで両方を掴んでいるというか、それが実績になっているのがロックのすごさなんだなって思うんですね。
それは別々に考えていったわけじゃなくて、やっぱりこういった人間性論の話があるからこそ、前回言った通り、
宗教っていうものも、それぞれ人が選んでいけるよねとか、逆に言うと選ばざるを得ない状況になるよねとかっていうふうに、ちゃんとロジックで話せるみたいな。
はいはいはいはい。
そういうふうな感じなんですよ。
今回の1回分は、人が物をどう捉えていますかっていう認識論的な話をして、
2回、物の在り方、ちょっと物理っぽい話もあるんだけれども、そういうところを話すっていう2回分で、ちょっと6回お届けしていこうと思っているんですけど。
経験と観念の関係
まずいよいよあってくんだけれども、出発点ですね。
これは何回も言っている通り、心がそっちであるっていうところなんですよ。
これロックが話しているっていうより、多分そういうところがわかりやすいっていうイメージなんですけど。
これまで何回も言っている通り、ロックは考えている中で、やっぱり人が生まれているときには何も持っていません。概念とか考えとかね。
何もっていうか、ある種特定のこれが正しいとか、神がいるとか、そういうことを持たずに生まれてくるんですっていうふうに言うんだよね。
なるほど。生まれたときから、俺プロテスタントって、例えば森に放置して狼に育てさせたとしてもプロテスタントになりますかね、みたいな話。
そうそうそう、そういうこと。それも当たり前っぽいんだけれども、ロック以前の考え方で言うと、人って生まれながらに罪の観念を持っているんだとか、
善悪っていうものの基準を持っているんだっていうふうに普通に思われてた。それが常識だったんだよね。
だから狼に育てられたとしても、何となく10歳とかぐらいの頃には神様を心に宿し始めるみたいなね。
そうでしょう。これは善の、これは悪だっていうものを同じ基準を持ち始めるでしょう。
そこも含めてか。
そうそうそう、誰かの善悪を持つんじゃなくて、同じ基準の善悪を持つであろうっていう話なんだよね。
この生まれながら持っている考え方のことを、ある種言葉としては正徳観念とかって言ったりして、生まれながらに得る正徳の観念っていうふうに言いますと。
ある種これが真理だよみたいな、そういうふうな発想なんだよね。
そこをちゃんと覚えておかないとね。それが当たり前の感覚だったんだね。
常識の時代において、やっぱりロックはこれは真っ向から否定してくれるんですよね。やっぱりロックさんの否定する精神すごいなって思うんだけど。
否定というか、違うと思っちゃったんだろうねってね。
いわゆる生まれながらに観念っていうものがないわけじゃないですか。真理様とか善悪とかね。
というものがどこから来るのか。でも我々は今生きている中でそういうものを持っているじゃんっていう時にどうなるのっていうと、結局ロックはずっと言ってるやっぱり経験ですと。
経験っていうものから人間を持っている観念っていうものが生まれてくるんだよっていうふうに言うんだよね。
いやいやいや、ロックさんなわけないでしょっていう立場からちょっと聞いていかないといけない。
つまり経験と何よっていう話をそこから考えていくんですけれども、大きく分けると経験には2つありますっていうふうにロックさんは言うんですよね。
1個は感覚。例えば目で見るとか耳で聞くとかそういうやつね。
っていうのは、すごくもっとざっくり言うと外の世界、人間の内と外があったとした時に、外の世界と触れることで得られる経験のことを感覚っていうふうに言います。
もう1つは何よっていうと、いわゆる内性っていうもので、これは内の世界ではね。
例えば考えるとか疑うとか信じるとかそういうものも含めて内面の動きっていろいろあるとは思うんですけれども、これもロックは経験だっていうふうに言うんだよね。
なるほどなるほど。どっちも経験なんだ。
どっちも経験です。僕が普段考える経験の意味はちょっと広いんだけれども、外の三角っていう経験と内の内性っていう経験のこれを足し合わせたときに、人間でも感念っていうものを得ていくんだというふうに考えていくんだよね。
感念っていうのがどういうものなのかってもうちょっと説明していくんだけれども、ロックからすると心っていうものがあったときに、心に映し出される像、イメージみたいなものだっていうふうにロックが捉えるんだよね。
感念を。
感念っていうものを。これがちょっとこの後難しくなってくるんだけれども、例えばリンゴっていうものを目で見ましたっていうときに、僕らはリンゴそのものを見てるんじゃなくて、リンゴの感念を捉えて見てるんだっていうふうにロックは考えるんですよ。
いやーどうだろうね。リンゴはリンゴですけどね。
ロックさんは心っていうものと、感念っていうものと、まさにリンゴそのものか、ものそのものっていう、この3つのキーワードっていうものを捉えて考えていくんだよね。
これ複雑なので、少し映画館の例えがわかりやすいかなと思ったので、ちょっとそれをお伝えしていくんですけれども。まず映画館、皆さん行きますよね。観客で行ったら椅子があって、目の前にスクリーンがあってって感じだと思うんですけど、この中に行くと映像を映し出せるスクリーンっていうものが心なんです。
心をちょっと忘れないように確認すると、心がスクリーンね。
はい、心がスクリーンです。
そこに例えばリンゴの映像が映し出されたとすると、その映像が感念です。
その心っていうスクリーンに映し出されたリンゴの映像が感念ね。
そうですそうですそうです。
リンゴそのものっていうと、映画で言うとフィルムになったからちょっとあれなんだけれども、そのリンゴを撮影したフィルムがあるとすると、それがモノそのものですっていう感じなんだよね。
おー、そうなんだ。
物の捉え方の多様性
なので、これがさっき言ったモノそのもの、ここで言うとフィルムそのものとか、あるいはリンゴそのものっていうのは見てるんじゃなくて、あくまでもそのスクリーン上の映像としてのリンゴを見ているっていうふうにロックが捉えるんですよ。
はいはいはいはいはい。
これさ、モノそのものとかって言うと監督っぽく言われるんだけれども、実はこれロックが主張したことなんですよね。
へー、そうだね。はいはいはい。
で、それを考えるとどうなるかっていうと、例えば同じ映画を僕が今日見たときにさ、あとで感想を言ったときに、やっぱり全然同じものを見ていても違うことを感じていたりとか、違う印象を持ったりするじゃないですか。
はいはいはい。
っていうふうに、その同じ出来事とか同じものを見ても、いわゆるその関連の在り方とか、それを捉える心の働き方って違うよねっていうふうに言えるんだよね。
ふんふんふんふん。
で、逆に、もしモノそのもの、リンゴそのものを見ているとすると、それはその見方ってある種正しいとか間違ってるとかってないじゃないですか。
ふんふんふんふん。
だってリンゴそのものを見てるわけだから、もし例えばそれを僕がなしに見えたっていうと、兄貴はそんなの間違ってるよ、あれはリンゴで間違いなく真理だよっていうふうに僕を、ある種論破できるわけなんだよね。
まあそうだね、間違ってるね、それがね。
そうそうそう。でも例えばその映像だとしたときに、でもちょっと色味が黄色っぽかったじゃんとかって僕が言ったとすると、
確かにその映像としてはそうだったかもっていうふうに、その間違いがまさに競合できる可能性が生まれてくるじゃないですか。
あー、なるほどね。はいはいはい。だからなしていったのねーっていうね。
そうそうそう、っていうところに共通理解の道ができてくるっていうところが、まさに前回言ったような、人間が間違えることができるっていう発想につながるんだよね。
あー、最初からそう言えよ、だけれども、今のハヤト側からすると、あくまでスクリーンって言ったのは黄色いものだったから、
リンゴだかもっていう想像する余地はあんまなかったってことだね。
逆に言うと、相手があれリンゴだってっていうことを聞いて、初めてあれリンゴの可能性があったのかっていう、
それなんで?っていう、ある意味対話みたいなものが生まれるって話だよね。
そうですそうです。それなぜできるかっていうと、あくまでも僕らが見てるのは残念だからっていう話で。
もしそれが本当にリンゴそのものを見てるんだとすると、その会話とか認識違いって起きようがないし、
起きたとしたらそれは、僕の理性の姿が間違ってるんだっていうふうにしかならないんだよね。
そうだね。あれはリンゴだったんだからお前、成し直ってないだろ、以上って感じだね。
以上になります。
なのでこれがある種ロッカーすると、人が同じものを見たり聞いたりとか、世の中で過ごしていても、
普通に違う捉え方をするよねとか、普通に違うと考えてるよねっていうことも土台にある人と世界の関係性なんじゃないかっていうふうに言うんだよね。
わー、はいはいはい、なるほど。
なので、やっぱりそのものそのものを捉えられますとか、理性で世界っていうものをちゃんと捉えられますってある種デカイ的な発想からすると、
それってやっぱり議論の余地がないです。
逆に僕らは、現代の感覚からすると、それは人って捉え方違うでしょってなるんだけれども、
この発想自体が当時からすると新しいし、やっぱりロックの明確にした一つの大きなテーマなんだよね。
っていうのがなんとなく、なんでじゃあものそのものを見てるんじゃないって主張することに意義があるかってちょっと見えてきたかな。
全然違うね、起こってることが。
ロックから見た時にとか、たぶんほとんどの人から見た時には、
ロックの認識論の基礎
たぶん同じものを見たり聞いたりしてるのに、なんかみんな違うみたいなのって、そこそこ経験的には感じてるはずなんだよねっていうのは思うね、ロック側からすると。
デカイロット側からすると、やっぱりそっちを信じてるとすると、
この出来事はこうなんだから、お前ら勝手な想像すんな、間違ってるぞって思う気持ちも、気持ちの価値観もわかるし、
たぶんそっちの方が都合のいい人たちも多そうだなっていうのも感じるよね。
神はこれAっていう壁しかいないんだから、Aを信じなさいって信じた奴はダメだって言った方が楽じゃなくて。
そうだったりとか、何でもいいよね、出来事でもいいよね。
例えば、あの店でリンゴが盗まれたみたいな事件で、それをどう判断するかみたいなものも、
いや、あの店主が悪いんだよ、あの時、この前は礼拝サボったし、天罰だよ、以上、以上、みたいなさ。
やっぱり、終わりっていうね。
そうだよって、勝手な想像しないって。
その、好きすんな人はどうとか、言うてもあの親さんめっちゃいい人でね、みたいなさ。以上、みたいなさ。
確かに、強引に出来ちゃうね、それがね。
でもね、以上って言われて不本意だった方は、それは溜まっていくだろうな、とは思うし。
そうそうそう。
そういう時に、いやいや違うんです。やっぱり心理じゃなくて観念を見てるんですって言うと、やっぱり主張が意味を持ってくるんだよね。
で、その観念って何よっていうのを直してもらおうかもちろん考えていて、
この観念を分けると、単純観念と複合観念っていう、要はよりシンプルなものと、それがくっついたものに分けられますよっていう風に言うんだよね。
観念の構造と組み合わせ
これちょっと色々調べたんだけれども、思った以上にその分け方とかって複雑だったりとか、明確にこれが単純観念でこれが複合観念とかって無かったんだけれども。
えー、そうなの。
そうなんだけど、一応ロックの言うことを見てみると、その単純観念っていうものが、何だろうな、観念の最小単位ですって。
ほうほうほう。
うん。で、いわゆるパズルのピースみたいなもので、例えばその経験でさっき感覚とか内製って言ったと思うんですけれども、そこから得られる、なんかそれ以上分解することができないピースだっていう風に言うんだよね。
うんうんうん。
例えば何かリンゴを見たときに、赤いとか丸いとか、あるいは甘そうとか美味しそうと思うとかも含めてあるんだけど、
うーん。
これって赤いっていうものをもっと細くしてくださいって、基本はやっぱりちょっと難しいじゃないですか。
うーん。
うん。で、丸さとかもそうだと思うんだけどっていう風に、こういう要素を単純観念という風に呼びます。
はいはいはいはい。
うん。で、僕らはそういう単純観念を組み合わせることで、より複雑な複合観念でも作るんだっていう風に言ってるんだよね。
うーん。
で、実際ロックが挙げてる例としては鉛、金属は鉛の例があるんだけど、
もしあるものがあって、それが鈍い白っぽさがあって、ある度合いの重さがあって、固さがあって、伸びたり溶けたりする。
それが単純観念なんだけど、それを組み合わせると鉛っていう複合観念になるんだみたいなことを言ってるんだよね。
はいはいはい。なるほど。
そう。で、これ難しいのは鉛って他に単純観念ないんでしたっけとか。
うーん。
でもそれだけだと他にも鉄もギリギリいけるんじゃないですかとかってそういうのに結構なっちゃうんだけど。
うーん。
あんまりそういう細かいことは置いといたとして、世の中っていうのは観念でできてる。観念を僕らは見てるんだけど、
そこに単純観念と組み合わせるってことで、それがいろいろ説明できるんですよっていうようなことを言ってくるんだよね。
そうだね。要素、変数をどうするかは理論の余地あるけれども、この感覚としては理解できるよね、確かに。
あ、そうそうそう。で、これを分けると何がいいかっていうと、これもちょっとイメージとして料理みたいなものが例え話であるんだけど、
例えば料理作りますよっていうときに、人参とじゃがいもとお肉がありますっていうときに、これは単純観念としますよね。
それを組み合わせることで、カレーができますとか、肉じゃがいもができますとか、いろんな料理ができていくっていうときに、
それに肉って書いておいて、同じ素材から違うものを作るってこともできるし、あるいは同じカレーでもシーフードですとかスープですとかっていう風に、
その中でもいろんな細かい違いを出せたりするじゃない?っていうときに、世の中っていろんな観念、いろんな出来事があるんだけれども、
それも結局組み合わせなんですよ。それがいろんな、例えば経験の違いだったりとか、あるいは工夫だよね。
っていうものを変えていくことで、やっぱり新しい観念が生まれたりとか、あるいは同じ観念っていうものを別の素材から作ったりとか、そういうことがいろいろできるんです。
知識の形成プロセス
そういう風に僕らの認識っていうものが働いてるんですよっていうことを説明していくんだよね。
はいはいはいはい。
さっき僕らはものそのものじゃなくて観念を見てますっていうんだけれども、観念っていうのは結局は経験から得た要素、感覚とか内省とかっていろいろ組み合わせるときにできる、
まさにそのイメージ次第というか。そういうものとして僕らは世界っていうものと関わってるんだっていう風に言うんだよね。
なるほど。
今風に言うと、僕らは世界をそのまま見てるんじゃなくて、ある種の見たいように見てるんだよみたいな。そういう風に言えるかもしれないね。
そうね。だから前回でもちょっとあった。ちょっとこれ間違えるとすごい個人主義に行くよね。
そうねそうね。
俺はこのもんだからこうだ!以上!っていうさ。一周回って同じこと言ってない?みたいなさ。
そうそうそうそう。結局ね。
そうそう。よりむしろそれを以上っていう人が増えてて、むしろ面倒くせえんだけどみたいなさ。収集つらいんだけどってなるかも。
それもある。だからやっぱり前提としてのその赤いっていうものは、これぐらい後からすると赤っていうものはね、自分とあなたの赤は同じですかっていうのはまた別の問題出てきたりするんだけれども、
僕らはそこまでは別に踏み込んでなくて、単純に。
その意地悪なところは一旦置いといてね。
一旦置いといて、赤い他で丸いっていうものは一体共通化できるでしょうと。
そこをつなげたときに作ったリンゴっていう観念は、ある程度共通のものとしてやっぱり持てるよねとか、
そこに共通理解を育むための三つ字っていうのは、ちゃんと通るよねっていうふうな、そういうふうな発想をしていくんだよね。
はい。そこで今僕らがロックの話を踏まえると、世界っていうものがあって、そこには人間とものがあったときに、
心とものそのものと観念っていうこの三つの関係で認識が成り立っているんですってところまでは来たかなと思います。
ただここまで聞いても、今回デカルト側の立場から批判的に聞いてる部分もあるんだけど、それも俺たちやってるから。
俺たちやってるし、神様が変数も、単純観念概念の要素も全部神様がやってくれてるし、俺たちそれも100%わかってるから、今更それ言われてもだし、
それ個人個人で言ったら間違えるでしょ?だから神様の言うこと正しいじゃんってまだ言えそうなんですよね。
うん、なるほどね。
そこを正しいじゃんっていうところがまさにこの大きな違いなんだよね。
要はロックはさっき言った通り、正徳観念はありません。人は白紙で生まれてきますって言ってるから、
別に正しいことだけを書き込みましょうとも言ってないんだよね、そこに。
なるほどなるほど。
じゃあ何を書き込んでいきますか?もっと言うと書き込まれるものって何ですかっていうと、ある種それがロックで言うとこの知識なんだよね。
へー、はいはいはい。
つまり観念を見るとかってさっき話をしたんだけれども、見てるだけだと別にそれに何だろうな、何も関わってこないというか、
例えば映画の話をさっきしたんだけれども、ただ本当に見るというか眺めてますというかさ、
視覚情報としては入ってくるけれども、何も残りませんとかってことは別にあるわけじゃん。
はいはいはい。
そうすると結局ストーリーを楽しむとかさ、キャラに感情を入れるとかってやっぱりできないじゃないですか。
ほうほうほう。
同じで、ただ観念だけを見ていても、そこから何かを得るとか、白紙である心に書き込んでいくとかできないんだよね。
わー、そっか、まだその段階の話をしてるのね。
そう、まだその段階なのよ。
単純、なんか複合観念でその辺のさ、どう感じるかを混じってる感覚があったんだけれども、まだその前の話なの?
まだその前、そっか、そうそうそう。
さっきカレーとかって言ったんだけど、カレーが美味しいとかカレーを食べるとかって手前の、
まだカレーっていう像がぼんやりと心の中にあるぐらいの状態。
わー、なるほど、はいはいはい、オッケーオッケー。
そう、スクリーンにカレーっていうのがジジジジジって出てきましたよ、というところが今だと思ってほしいよね。
はいはい、なるほどね。この茶色くて人参とジャガイモが入っててみたいなね。
それでこれはカレーだ、までか、の話か。
そう、まだそこまで。
そこに対してある種知識って言葉になってくると、それがまた変わってくるんだけど、どういうことかっていうと、
ロックにとって知識っていうのは、観念と観念の関係性を理解することだっていう風に言ってるんですよ。
すごい単純な、それこそカレーがあるとか、カレーは食べ物だっていうことも知識だってロックは言うんだけれども。
要はこれに対して食べっていう観念と、食べるっていう観念、これも観念だよね。
それからカレーっていう観念と、それが美味しいっていうこれも観念だとするときに、これがくっつくことが知識だっていう風に言ってるんですよ。
へー、そうなんだ。観念と観念のくっつくことの知識。
そうですね。本当に観念と観念の関係性を理解することが正しい。
はいはいはいはい。だから一個話を戻ると、さっき茶色くてジャーエモンとかニンジンとか入ってる食べ物って理解がカレーだっていうのは、これはもう知識の段階の話だよね。
それをカレーという観念として捉えることはまだ知識ではないんだよね。
へー、そうなの?でもカレーって知らない、知ってる人と知らない人がいるじゃん。初めてカレーを見たときに。
初めてカレーを見た人が、これはなんか茶色くてニンジンとジャガイモと肉が入ってるってとこまでは理解できる。
カレーの理解
でもカレーということは知らないという人。それをカレーとして知ってる人の差はあって、それって知識じゃない?ここでいう。
えっとね、カレーとして知ってるっていうのは何とするかなんだよね。つまり、カレーとは食べ物であるとか、カレーとは料理の一種であるっていうふうなこととして理解してると思うんだけど、
そこまでいくと知識です。それはカレーと食べ物であるという観念がくっついたりとか、そういうものが複合的になってるからなんだよね。
で、最初のなんか茶色いものがあって、これをカレーと言うらしいという時点の人は、まだ知識として他のものと全然結びついてないんだよね。
あー、なるほどなるほど。そこまで分けてるのか。
そう、だから単純観念から複合観念を作るとは言ったんだけれども、カレーにはジャガイモが入っているのも知識なんだよ。
わー、むずー。
むずいでしょ。
だから、ある意味、カレーってものをただ知ってるだけの人は、ジャガイモも単純観念だし、あとカレーっていう言葉も単純観念なんだ。
そうそうそうそう、そうなんだよ。これがこうやって単純観念と複合観念の難しさで、カレーっていう全体しか知らない人にとっては単純観念なんだよね。
で、それが組み合わさってカレーというまでしか、それが全部知識というか単純観念ベースでしか知らない人は、一応複合観念かもしれないけれども、いわゆる今ハヤトが言ってる知識っていう意味では違うんだね。
そうそうそう。
いや、むずい。
いや、ごめん。むずいし、あとごめん。さっきカレーも単純観念って言ったんだけれども、僕はそこまでは多分言ってないんだよね。言ってないんだが、本当は複合観念なんだけど、経験としての感覚から来るものとしては多分複合観念なんだけれども、
もし本当にカレーという相対しか知らない人、要はじゃがいもも人参も知らなくて、いきなりカレーというものだけは見させられてそれを理解しようとすると、それは感覚としてはそれ以上分解できないじゃない。
そうだね。
そういう意味では多分単純観念と言えるんじゃなかろうか。もし子供が生まれて初めてカレーという食べ物を見たときに、それまでに人参もじゃがいも見たことがありません、お米ももちろん見たことがありませんという状態でカレーを出されたら、それはカレーとしては言いようがない。
なるほど。この辺がやっぱり面白いね。たぶんこのロックの時代で、おそらく心って表現しているもの、ロックがここで心って表現しているものって、現代化すると目だったりとか耳だったりとか、もっと脳だったりとかさ、いろんな要素が出てきちゃってるから、ちょっと分かりづらくなっちゃうと思うんだけど、
このロックの感覚で言うと、その辺がごっちゃになってるっていうのが、うちらのずれで、そこがどこで区切るかが難しくなってるんだなと思ったんだけど、このロックの話から言うと、さっきのタイトの赤ちゃんカレーの例で言うと、赤ちゃんがカレーを見たときに、赤ちゃんというかもうちょっと大きくなっててもいいや。
そうだね。
茶色いと思う。米を見て白いと思う。人参と思う。そしてカレーと思うっていうのが全部並列なんだね。なかなかない。
そうだね。我々も試行実験的ではあるけれど、でもやはり白紙の状態に経験を書き込んでいて、知識があるっていうのはそういうことなんだよね。
単純単純としてこれ、カレーって感じることがある。面白いな。
それ以上分解できませんみたいなね。
いうふうな話でいくと、さっき言った兄ちゃんが言ってくれた、カレーでも知識じゃないかっていうときに、あくまでやっぱりカレーは○○であるって言えて初めて知識だっていうところもイメージ湧くと思うんだよね。
ごめん、ちょっと時間かけちゃったっていうところね。ちょっとなんか、この辺すごい微妙そうだからね。
ロックの知識論
そうだね。大事だと思うし。むしろここがやっぱりすごいわかりにくいけど大事なところ、ロックでいうと。
なので、他の例で言うと、木とか氷っていうものと、暑いとかやっぱ冷たいって別の概念だよねって話があって。
例えばさ、仮にマグマは暑いとかって言ったときに、マグマの暑さを本当に感じた人って多分いないと思うんですよ。
でも、僕らはマグマって本とかテレビとかで見て、こういうものは理解する。
で、暑いっていうものは別のお湯とか火とかそういうもので理解するっていうときに、
このマグマの観念と暑いっていう観念を掛け合わせることで、
マグマが暑いっていう自分が体験したことない知識っていうのも得ることができるんだよね。
っていうふうに、それぞれの観念自体は全然別の経験から生まれてるんだけれども、
その観念と観念をくっつけると、まだ体験したことないことも知れるというか、知識として増やせるっていうことが、
この観念的な考え方との面白いところなんだよね。
へー、なるほど。それがロックが言う知識の話。
知識、ロックが知識を捉えるとそういうふうな発想になるっていう話かな。
そうなんだ。
そう。だから、そういったとおり白紙の、あるいは心にいろいろ書いてくるんだけど、
経験したことしか知れませんってことじゃなくて、
経験したことを観念とか知識にしていくと、その知識同士とか観念同士を組み合わせて、
さらに新たな知識を作れますっていうのがロックが考えたことなんですよ。
わー、そっか。ちょっとロックのヤバさがすごいね。
なんでそこまで分解できたんだって今思ったんだけど。
いや、ほんとそうだよね。
ごめんごめん。知識が観念と観念の関係性を理解すること。
これちょっと聞き流しちゃってたんだけど、
うちらって暑さ、単純観念だけを理解、経験することってあんまないよなと思って。
はいはいはい、そういうことね。
だいたいセットじゃん。日が暑いって。
それはそう、まさにそう。
氷が冷たいって。
セットで気泡吹きの観念だったりとか、経験も全部一緒にそれが起こっちゃってるから、
多分ここが混同しやすいんだなと思った。
まあ確かにね、確かに確かに。
そっか、経験って言っちゃうとそうだよね。
それこそりんごが甘い。りんごを食べたら甘かったっていうのは、まさに経験みたいな感じになるもんね。
そうそうそう。
そこを分解されると、っていう話を多分ロックしてて、
そうだねそうだね、確かに。
だいぶ人間の直感とか人間の普通の感覚を超えた話をやっぱりしちゃってるんだなって。
はいはいはい、あーそうか。
今感じた。
言われてみたらそうだね。
単純観念だよねーって言われても、いちらはそれ無意識だから、たぶん戸惑ったんだと思った。
確かにね、いやありがとう、確かにね。
ある種、そういう意味では世界を分けて考えるっていうのはすごくロックもやっていて、
それは当時の知識人というか学問的な主流として分解して理解していく、今でもそうと思うんだけど、
細かく分けていって分けていって、それを全体像としての世界を捉えていくっていう発想が強いんですよね。
ロックも観念っていうものをあくまでも最小単位というように分けていく。
暑いっていうピースとか冷たいっていうピースをそれぞれ単体で伝えるようにしていくんだよね。
それは例えば自然現象だけじゃなくて、例えば数学で三角形の内角度が180度みたいなことがあったときに、
それも三角形とか内角とかあるいは180度、あとで度数、みたいな観念っていうものがそれぞれあって、
それがくっつくことでこういう数学的な定理というか、そういうこともある種僕らは理解できるように知識として得られるようなことを言ったりするんだよね。
だからこれは自然との関係方だけじゃなくて、そういうまさに人間が生み出した概念とか、理解していたまさに過去の知識とかっていうものも、
そういうふうに僕らは後からこうやって追いついて理解することができますよっていうふうに言っていきます。
その根底には必ず何らかの経験とか、そういうふうにその暑さとか冷たさとかを感じたっていうこと自体はやっぱ必要だよね。
観念とその限界
これが経験論っていうふうな話なんだよね。
なるほど、はいはい。
ある種、経験したいと何もわかりませんとかっていうことじゃなくて、そういうとマグマの圧倒は一生わかりませんとかってなっちゃうから、
そうじゃなくて、経験を土台にして観念っていうものを作ると、その観念からいろんなものが作れますよね。
知識を増やせませんっていうのが発想が経験論ですと。
はいはいはい。
そういう流れでございましたと。
いろんな話をして何気なく深掘りしてくれたんだけれども、もう一回シンプルにすると、
今日一番おっしゃりしたかったことって実は、さっき映画の例で言った、僕らが認識しているのはあくまで観念の世界であって、
ものそのものの世界じゃないんだよっていうことなんですよ。
はいはいはい。
で、例えばさっき火は熱いっていうのを僕らが経験する、体験するって言ったんだけれども、
あくまでもやっぱりその火そのものの熱さっていうものは僕らがわかりませんよねっていうふうにロックは考えるんだよね。
はいはいはいはい。
ちょっとね、火がものかってのはちょっと難しい話はあるんだけれども、
あくまでも僕らは火という観念と、熱い、熱さっていう観念っていうものを後から結びつけてるのに過ぎないよね。
なので、本当に火そのものとか、火の熱さっていうものにアクセスしようと思うと、
それは無理だよっていうふうにロックは捉えます。
おー、なるほど。
これはさっきの映画の例で言うと、スクリーンの映像を見てても、実際その世界に入ってるわけじゃないじゃないですか。
一緒の話で、これって結構衝撃で、さっきもお伝えした通り、今から350年前くらいのロックの世界でいくと、
やっぱり理性を使えばそのものの本質っていうものにグッとアクセスできるとか、
それを理解し尽くせるっていうのが当時の常識なわけなんだよね。
その時に、そうじゃなくて、あくまでも僕らって映画を見てるだけかもしれないとか、
木そのものとかリンゴそのものっていうのにアクセスできるって言ってるけど、
それって違うねっていうことを言ってるって話なんですよね。
で、これが前回の最後にお伝えした、ある種人間の知性の限界とか、
人間というのは間違う存在であるっていうことにも繋がってきます。
っていうところが、ある種全部繋がってるっていう話なんだよね。
僕は今日の話を聞いて、確かにものすごく面白い。
チャンネル見てるんだったら間違えるよねみたいなことって、なんかイメージ湧いたかな。
今ちょっとこれデカルト側で想像すると、
これ戦争不可避だわ、これ。
折り上がらなかった、ダメだった。
ロックとデカルトの対比
無理だね、これ。
まあ無理でしょ。
これ無理だね。
無理でしょ。
分かる人は分かるというか、そうだねって思う人は多分ロック側に行って、
分かんない人は一生分かんないから、多分戦うしかなくなると思った、これ。
いや、そうなんだよね。
まさにこれは宗教戦争と一緒で、やっぱりお互いに愛入れないんだよね、どうしても。
デカルト側で考えると、
ああ確かにそういう考え方もあるかもってなるのかなって、今ちょっと想像してたんだけど。
無理だね、これは。
無理、だって生徒関連はあります。
神の理性、人間の理性に従って世の中というものは全て見通せますって思ってる人だから。
物自体みたいなものも全てあって、
あらゆる出来事とかあらゆるもの、人間も含めて、
全て絶対的な正解というか、存在としてあります。
こうあるべきです。
こうあるのです。
っていう、思ってる時に、このロックの話を受け入れると、
多分自分が死ぬ、崩壊する、存在が崩壊する。
アイデンティティがね、壊されちゃうんだよね。
無理。
無理だった?想像してみたけど無理だった?
無理でしょう、これは。
ただ面白いのは、その崩壊しちゃう本人たちは無理でしょうって戦うしかないんだけれども、
ロック側からすると、
ほらねと、あなたたちはそういう風に経験して育ってきちゃったから、
そんな頭硬い奴に育っちゃったんでしょっていう風に思えちゃうところで、
だいぶ負けてるなと思ってる。
そうだね、説明されちゃうもんね、その行動原理とかをね。
そうそうそうそう。
ちょっとこれ余談だし、次回どうしようかと思ってるんだけど、
やっぱりサントいるじゃないですか、カント。
サントがさ、よく大陸合意論と技術経験を統合しましたかって言われるんだけど、
なんかさ、無理じゃん今の話からすると。
だってデカルドとロックをさ、今兄貴からしたら絶対相入れない、
もうどっちか死ぬしかないって言ったものをさ、統合しましたとかって言われてもさ、
どうやってってなるじゃない?
なるよね。だって、ちょっとこう、出てきたこの考えから言うと、
デカルド側というか、理性最高側の方が劣勢な感じはするんだけれども、
哲学の強度としてね。
なるほどね。
理性と経験の関係
やるとしたら、劣勢である理性最高側の人たちが、
このロックの考え方を基に今の自分たちを再認識した上で、
自分たちがどうあるべきかを作っていくみたいな話をしないと無理で、
自己反省ありきみたいな感じかなとは思ったね。
そうね。だからカントの主張って、実践理性批判とか、
純粋理性批判っていう風に理性を扱ってるんですよ。
なるほど。理性についてちょっと反省しましょうみたいな感じの。
そうそうそう。それをちゃんと考えましょうって話なんだね。
あー、うわー、なるほど。面白い、そっかそっか。
立ち位置的にはデカイト側の人たちが、
ちょっとやっぱり一回考えましょうみたいな感じなのか。
そう。理性っていうものをどういう風に捉えたらいいのかっていうのを、
もう一回ちゃんと吟味しましょうっていう風な話になってくるんだよね。
わー、そうなんだ。カントもう一回やって。
そうね。自分でカントやってもいいかもなって思った。
そうなんだ。
ほんとに?あ、そうなんだ。思ったの?
うん。思った。
へー。はいはいはい。
多分前回取り上げた時よりも、もうちょっとね、
いちなり深く僕も理解できる気がするし、面白い気がする。
なるほど。
だって無理じゃん。今言ってくれた通りで、
制徳観念あります。ちょっと長めで言っちゃって申し訳ないんですけれども、
もっと言うと、理性の力で何でもできますっていう人と、
そこには限界があって、我々の知性とか理性は間違えることがありますっていう発想って、
どう考えても同じ土を踏めないんだよね。
いやー、無理だったね。
うんうん。
今回あえてというか、このロックの考え方が、
多分うちらの、どっちかというと基本の無意識側の価値観だから、
ちょっとその前回教えてもらったデカウト側の、理性最高側の雰囲気から聞くとどうなるんだろうなーっていうのも、
こっち側に聞いて、最後その、さあどうだデカウトたちに思ったのかの、
ぶん殴るしかない。
もう理解不…、そっち側からすると理解不動なんだよね、言ってることが。
あー、そうですよね。同じテーブルについてほしいですけど、まあまあそうだよね。
だからまあ本当に理解したとしたら、さっきの通り、もう自分が悪かったことを、負けを認めないといけない。
軍門に下るしかないよね。
そうそうそうそう。
そのぐらい、実はやっぱり隔たりがあるというか、やっぱりラディカルなことがやっぱりロックはずっとやり続けている。
で、ちょっとロックの話に戻ると、
例えばそういう風に知性の限界がありますとかさ、人間は間違えますっていう時に、
なんかもう人間はダメだとかさ、完全じゃない、不完全なんだとかって絶望しかけてもいいんだけれども、
ロックはそうではないんだよね。
あくまでも、何だろうな、完璧な知識は無理かもしれないけれども、そういう風に観念と組み合わせて色々経験していくと、
ちゃんと一定信頼できる知識が取り付けますよねとか、
さっき言った通り、これはリンゴだなしだとかっていうことも、ちゃんと議論ができるようになりますよねっていう風に考えて、
それがある種人間らしい知性の働かせ方だっていう風にロックは捉えるんですよ。
えー、やばいね。だって、あれパラグマティズムとかって割と最近じゃなかった?
割と最近ですね、アメリカに渡って1500年、800年くらいかな。でもその根底なんだよね。
あ、そっかそっか。でも100年前、100年、200年前くらいの発想か。
200年前くらいかな。
みたいなこと言ってるよね、なんか。
そうそうそうそう。だから絶対に正しい知識、真理じゃなくて、ある程度確かなしい知識でいいんだと。
でもそれも、やっぱり神が握られてくれた知性の力だし、それを駆使して現実世界を生きていけばよくって。
それは社会的な政治の部分であって、あとはやっぱりその宗教的な永遠のいわゆる生命というか、
知識の限界と現実
そういうところがそっちはそっちでやりましょうよっていう風に、ある種負けちゃうんだよね。
はいはいはいはい。
というところが、まるですごい現実的とか、その当時の時代に沿ってはいるし。
逆に言うと兄貴みたいなデクラウド側の人からすると、「何言ってくれてんねん。」っていう風になるっていう。
そうだね。
そうそうそうそう。
っていう風な話でございます、というところなんだよね。
まあ、ロックはやっぱ想像以上に、なんだろうな、想像というか、そんなすごい人なんだとも知らなかったね、単純に。
そうだね。僕も知らなかったし、逆に兄貴の反応を聞いては、確かにやっぱそんだけすごいことやってるよなみたいな、当時の主流派からすると。
やべえことやってるなってやっぱ感じるよね、なんか。
この反応で。
この反応です。
自分で読むときはフンフンとかって読んでるからさ、あれなんだけど。
はいはいはい。そうだね、ロック側というかね。
勘弁してよってなるね。
なのでやっぱそういう風に人間がね、物事とか世の中を理解する仕方一つとっても、やっぱ本当に全然違うことを言ってますっていう話なんですけれども。
次回ね、このロックの最終回として、じゃあその、いわゆる知識観とかね、知性と何かっていう、中の延長線で語られる、
じゃあ世の中ってどうあるの?要はさっきリンゴとかさ、ものそのものって言ったけど、そうやってどんな風に存在してんの?っていうことまで語ってるんですよ、ロックは。
そっち側にも行くの?
そっち側にも行く、うん。
想像つかないな。
想像つかないと、そうそうそう。
心が物を捉えますってときに、じゃあなんで捉えられるの?とか、物っていうものはどういう風に心に作用するの?っていうことがやっぱ分かんないと。
えー、はいはいはいはい。
そう、突き詰めていけないじゃないですか。
すごいな。
ね、すごいでしょ。
うん、やばいやばい。
っていうときにちょっと理科っぽい技なんだけど、その粒子とか、あとね力能、これパワーって英語なんだけど、
力と能力、うん。
で、力能っていうような言葉が結構キーワードとしてあって、これもね、結構面白い発想なんだよね。
うんうんうんうん。
やっぱそうなると、じゃあ世界って見たもののものなの?とか、じゃあ色とか味ってどこにあるの?みたいな、
そういうあり方、話まで結構深く入り込んでいくので、それもね、また面白いんじゃないかなって思います。
うわー、確かにすごいね。確かにこれバーッと出てきて、これで反論できないし、
いやそうなんだよね。
しようと思ってもめっちゃ時間かかりそうって思ったら、ここまでやられちゃうと恐ろしい。
うん。
いやほんとそうなんだよね。だから、人はこういう存在ですよ。で、こういうふうに世の中と関係していて、その世の中ってこうなってますよ。
全部をやっぱ提示されるから、
うーん。
それを批判しようと思ったら、それを全部、ちゃんと批判し尽くさないとというかね、
うーん。
聞き返さないといけないっていうのはめちゃめちゃ大変だよね。
うーん。
だったらやっぱりね、殺しちゃおうってなるよね。
ダメです。ちゃんとね、政府はそれを禁止してるんで、安全をちゃんと担保しないといけないんで。
まだね、それが担保されてない世界でこれをやっちゃったらやばそうだよな。
そうね、いやほんとに。
はい、という感じでね、やっぱロックの凄さがね、ひしひしと声を出して伝わってるんじゃないかと思っているんですけれども。
うーん。
次回最終回で、その次にさっき言ったより関東をやるか、そのロックの後に後継者みたいな感じでヒュームっていう人もいるんですよ。
ロック、バークリー、ヒュームっていう系列があるらしいんだけれども。
うーん。
そのヒュームさんぐらいまでちょっとやって、経験論もう一段深めた上で関東に行くのもいいかなと思って。
はい、そこをすみません、考えてるんですけど、まずは次回とはいえまだロックさん続きますので、ぜひ楽しんでいただきたいというところですね。
はい、分かりました。
次回も引き続きロックですね。ロックの世界の在り方の方を引き続き楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いいたします。今回もありがとうございました。
51:36

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