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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回から日本の哲学者である西田さん、西田幾多郎さんを見てきたというところだったんですけれども。
前回から4つのキーワードがあるよという話で、純粋経験と自覚、場所と絶対矛盾的事故論について、4番目は重たい言葉ですけど。
というのがあるよという中の1つ目の純粋経験について話し始めたんですけど。
いわゆる主客身分とか、物が相互、物と我がお互いに忘れて溶け合うみたいな、そういう言葉で表せるものですよとか。
あとね、私がリンゴを見たとかっていう時にも、それも判断なので、その手前のそもそもリンゴとかっていうことを判断する前の経験というか、出会いみたいなものが純粋経験ですよって話をしてたかなと思うんですよね。
うんうん。
で、それ自体はね、よくわからんけど言われてみればそういうことも考えられなくもないかもねみたいな。
うん、そうだね。
うんうん。そういうのを感じいただけたんじゃないかなと思うんですけど。
まあちょっとよりもう一歩深いところで、この純粋経験はまさに言ってくれたような、唯一の実在であるとは何か。
そこからね、この世界全てを説明するって、結局どういうことなのとか、それって何なのみたいな話をちょっとね、より一緒に見ていきたいというふうに思っております。
そうですね。
はい。で、例によってやっぱり言葉を超えてるんですよ、この純粋経験って。
そうなんだ。
他をね、だいたい超えがちなんですけど。
うん。
なので、言葉にしようとするってなかなかもどかしかったり難しかったりするんですけど、そこもね、ちょっと一緒に久々に手伝って、そういうところもあるようにっていうのも楽しんで、
ついてきていただけて嬉しいなと思ってますっていう感じですね。
はいはい。だからこういう人たちから言わせると、この言葉だよね。
言葉っていうもの自体がすでにいろんな純粋経験に何らかの判断だったりとか、価値観だったりとかいうものを意味付けしちゃってるものだから、
いやー、そうなんだよね。
それを使って、それがないものを説明するっていうのがそもそも矛盾してるよねっていう話ってことですね。
そうそうそう。
例によって。
例によってね。でもやっぱりそれをやらないと実悪じゃないし、やっぱり人に伝わらないっていうのがあるから、やっぱりそこは悪戦苦闘しますっていう感じではあるんだけど。
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はい。じゃあ、そこで少しずつこの純粋経験の世界観みたいなものをですね、またお伝えしていこうと思うんですけれども、
実在っていう言葉ね、これが結構そもそもややこしくって、実在って言われたら物でしかないじゃん、僕らの感覚からすると。
そうね。
実在、何かがあるってことだと思うんだけど、西谷さんが実在を考えるときって、そもそも物から始めないんですよ。
どういうことだろう。
実在って言葉を使ってるんだけど、物として考えなくって、そもそもその物をね、物と理解するための心とか、また人間の認識とか、あるいはその理解するための経験だよね。
例えばAIとかもそうだけどさ、例えば猫っていうものを学ぶためにはさ、何千何万枚の猫みたいな写真とかを学習して、やっとこれは猫だとか、これは犬だから猫じゃないとかっていうのを判断するとかってあったじゃないですか。
そうね。
いわゆるそういう学習とか経験とかっていうのが近くって、人間も何かを物だと判断するって、そもそもその手前にいろんな経験があるからだよねっていうふうなのがちょっと近い。
それがイコール純粋経験ではないんだけど、発想としては結構近いんですよね。
もうあえて感覚を忘れている我々にとって想像するならば。
そうそうそうそう。
いつもの赤ちゃん状態で。
そうそうそう、まさにまさに。
なのでちょっとこれ前回の触れたんですけれども、やっぱりそういうリンゴでも別に、マイクでもパソコンでもいいんだけど、そういうものが完全に独立してあるみたいな、他のものと無関係にただそのものとしてある、まさにちゃんとのもの自体みたいな話だよね。
そういうふうなことっていうのは考えなくて、やっぱりそのリンゴというものがある、それ自体も経験だよねとか。
そういうふうに、そういう現象というか出来事みたいな、そういうものをより大事にしようというふうな考え方なんだよね。
さっきカントのもの自体もだし、あとプラトンのイデアみたいな、そういうものとは全然違うんだって話なんだね。
ある種の人間の現実とは離れたところに本当のものがあるとかじゃなくて、人間は世界の生活の中でしかないんだっていう話なんだよね、むしろ。
だから前回言った玉ねぎの感覚で言うと、リンゴがあるっていうものが一番外側の皮だとすると、それ剥いていくと、いわゆる意識とか知覚みたいなそういう作用が出てきて、
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さらに全部剥くと、純粋経験っていうものが何もないところにぼんやり現れてくるみたいな、そういう感覚。
物でもないし、意識でもないしみたいなね。
物でもあり、意識でもあるみたいな。
そういうやつね。
はい、オッケーです。
が出てくるんですよ。なので、西田さん自身が言ってるんだけれども、個人、私っていうものも無関係にあるとか、私っていうものから始められないんだよね。
だからデカール・トラストは我を思うゆえに我ありって言ったんだけど、我っていうものもその手前に経験があるので、西田さんが何て言うかっていうと、個人があって経験があるんじゃなくて、経験があって個人があるんだっていうふうに言うんだよね。
わー、はい、はい。でも分かるよ。今まで説明してくれてるこの世界観で言うとそうなるよねっていうのは分かる。
聞いてる方からすると分かんないよって言う方も多いと思うんですけど、例えば今言った個人があって経験があるんじゃないっていうのは、私が経験するとかって言った私っていうものも、
やっぱりリンゴと同じように物になっちゃうんですね、私って言った瞬間に。そうじゃなくて、経験ってより大きなものがあって、すごくたとたろしい日本語だけど、私がリンゴを見るという経験をしたという経験があるみたいな。
で、時に経験があるっていうところを分解していくと、私とかリンゴっていう存在が立ち現れてくるよねみたいな。そういうふうな順番なんだよね。
はいはい、この純粋な経験の世界観から言うとね。
そうそうそう。
でもそうだもんね。何かがあって、あと意識があってリンゴがあるとかいう順番で考えると、自分と関係なしに、ここで自分って使ってるから今の話がややこしいってなっちゃうんだけども、
これなんだろうなーっていうふわふわーっとした何かがあったとして、これって自分なんだみたいな順番でしか自分っていうものの存在というか、近くできないと考えると、自分もリンゴも同じ順番で理解してるよね。
だから、自分が理解をしてるんじゃなくて、あ、理解したものが自分だったんだーっていうのを繰り返して、自我だったりとか自己意識みたいなものが形成されてるよねっていうふうな順番で理解すると、この純粋経験の世界観で自分っていうものだったりリンゴっていうものが同列に分かるねっていう感覚はある。
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そうだね、まさにまさに。今のイケイケとか本当にその通りで、昔は離れた存在するんじゃなくて、存在が離するのだみたいな話をしたじゃないですか。それにもちょっと近いんですよね。
おー、確かにこれ自分に置き換えるとすごく同じだね。
そうそう、自分が存在するんじゃなくて、存在から自分というものが立ち上がられていくって話なんだけど。
ただね、西田さんに言わせると、その存在すらも存在があるとか、存在するっていう経験をしないと、存在っていうものを語れないわけで。
やっぱりどこまでいっても、実在とは言ってるんだけど、あるっていうことも一つの経験だから、実在よりも経験、存在よりも経験を優先してるんだっていう感じなんだよね。
ここが徹底的に違うんだね。
そう、徹底的にそれはね、開けてるんだよね。
気をつけないと混同しちゃいそうだね。
経験が実在するって言っちゃうと、経験っていうものがあるとか、経験するという出来事があるとかって言っちゃうんだけど、そうじゃなくて、経験という働きとか経験するという流れみたいな。
そういうものから、まずやっく言った通り、流れの中に、今自分というものが現れてきましたとか、今リンゴというものが現れてきましたみたいな。
そういうことが一連の中で起こってますみたいな。それはもしかしたら刹那みたいな短い時間かもしれないけれども、起こってるねっていう感じなんだよね。
あくまでも物はないというか、そっち先じゃないよっていうのは気を捨てていかないとね。
なのでこういった立場って、いわゆる物よりも心を優先するっていう意味での優位心論。ただ心だけがあるとか、ただ意識だけがあるとかっていうふうな考え方なんだよね。
なるほどなるほど。
例えばそういうふうに言われると、純粋な経験ってなんだとか考えていくと、さっきヤニー君も言ってくれたけど、赤ちゃんみたいな何も分けないとか、あえて理解しないみたいな。
理解しないことの経験こそが純粋経験のことでもあるし。
実際に西澤さんもそういうこと言っていたりとか、または大人になったら別にありで、例えば熟練の音楽家みたいな人が演奏するときに、いわゆる上手い演奏とかに対して、音楽と音楽家が一緒になっているとか、音楽の神が音楽を通じて聴かせているんだみたいな、そういうふうな表現ってあるじゃない?
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だからどうかっていうときに、要はそれも音楽家と曲っていうのが分かれてない。
一つの状態になっているっていう意味では、四角身分の状態だし、あるいは自分が弾いているとも分からずにでも弾いているみたいな感覚があるとすると、それって純粋経験だよねとかっていうふうな話を言ったりしてるんだよね。
へー、そうなんだ。これ西澤さんが言ってる?
西澤さんが言ってる。
へー、そうなんだ。
このイメージってどうだろう?あんまり無茶でもないかなって僕は思ったんだけど、どうかな?赤ちゃんと音楽家みたいな話って。
どうしても頭でっかちゃん、自分みたいなやつが考えると、赤ちゃんの方しか分からないというか。
なるほどね、なるほどね。
っていう意味で、いわゆる熟練の音楽家でもね、ぼっとしすぎてるというか、音楽と楽器と、しかも一つになって自分もないみたいな、そういう感覚もこっち側なんだって考えると、
それは純粋経験なんだなーっていうのは、どういうことだ?
でもね、その疑問を持ってくれたのに、実は逆に嬉しくって、ここから純粋経験を今広げていくね。
今までは玉ねぎを剥いた時に何もなかったものとかさ、そういう存在でも根底にある、まさに経験としては呼べないものっていう、より根源的な話をしたじゃない。
それは、その純粋経験の手掛かりに世の中を説明していきますっていう方に、次のステップに行くんだけど、
そうすると今度は世の中のものが純粋経験であるということを説明しなきゃいけないわけだったよね。
あー、イコールで結ばないといけないって話ね、ちゃんと。逆からも。
そう、というよりは、包み直すっていう感じかな。
え?包み直す?
包み直す。要は、これまでは純粋経験ってものを掘っていった掘っていった、ありましたって言うようになったじゃない。
そうするとさ、ともすると純粋経験ってまさにそのもの自体みたいにさ、世の中と全然別のものとかさ、あるようなないようなよくわかんないものってなっちゃうじゃない。
今度はその純粋経験っていうもので、この世界に起きていることを説明し直さなきゃいけないわけなんだよね。
そうじゃないとそうだね。
西原さんは、いわゆる抽象的に宇宙とはとかって考えるんじゃなくて、やっぱりあくまでも自分が生きているこの現実とかこの世界っていうものが、純粋経験から成り立っているってことを説明したいので。
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変な話、じゃあ朝起きて歯磨きをするとか、そういうことも純粋経験と減らしたときにどう言えるのかとかってことは言わなきゃいけないわけよ。
わー、そっかそっか、そうだね。すべての話だもんね。
そう、すべての話。
あれか、水を分解して酸素と酸素にして、それをまた戻しますとはちょっと次元の違う話をしてるんだね。
全部作りますっていう話。
そうそうそう。原子核に手を入れてヘリウム作りましたみたいな。
一方で金作りましたみたいな。
そう、作りましたみたいな。そういうことをしなきゃいけないんだよ。
そっか、全部作りますってのをやらなきゃいけないんだ。
すごい話だな。
だからどれだけ途方もないことをやろうとしてるかって話なんだけども。
なのでここからは純粋経験の定義を広げていくと応用していく話になるので、
さっき言ってくれたような、ちょっとそれも純粋経験なの?っていうところを思いながら聞いてほしい部分ではあるんだけど、
今言ったのが赤ちゃんと音楽家ね。
次に出てくるのが、これは僕もわからんというか、その本の中でも実際どうなんて言われてるのがあるんだけど、
数学の問題を解く人があるんだけど、
西田さんが例えばそういう数学者が精神を集中させて数学の問題を解いているときも純粋経験だって言ってるんだよね。
これはさっきの音楽家とちょっと近い感じはするものの、
イメージしてみると、確かに集中して熱中して解いてるのはわかるけど、
そのときに問題と数学者が一体化してるかっていうと、そこまでのイメージは持ちにくくない?
いや、これはちょっと持てるかな。音楽家と同じレベルで持てる。
知ってる人に数学家の人がいて、白紙の人がいて、もうヤバかったね、世界観が。
すごいし、飯食ってても何してても頭の中で常に。
だから、いわゆる義務教育で与えられた問題を解くとはちょっと違う感覚じゃん。
今、タイトルも数学問題を解いているときって言ったんだけども、
こういう人たちが解くっていうのは、もう次元が違うじゃん。
新たなこの証明どうしようとか、これってこういう法則あるのね、みたいな。
そういう人の没頭感とか世界観を考えたときには、自分の場は理解できるというか。
確かに、そこまでいくと同じだねってなっちゃうと思うし、
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そうするとね、どういう例がいいのか。
天才とは言えないまでも、いわゆる不老状態ってあるじゃないですか。
いわゆる普通に仕事に熱中しているとか、遊びに熱中しているとか、
そういうものがあったときに、それも純粋経験だと言えるんだよ、西田さんからすると。
なるほど、なるほど。
いわゆる天才の技だけじゃなくて、いわゆる一般人の普通に物事に集中している瞬間とかも純粋経験だという風に言います。
そうそうそう。
そういうときに、これもイメージとして、人によって様々だと思うんだけど、
当然、仕事に対しても自分と仕事が一体化しているみたいに感じる人もいれば、
あくまでも仕事は仕事ですという人もいると思うんだけれども、
逆に言うと、そのぐらいふわふわしたものとか、そういうアバウトなものも
純粋経験で言っちゃっていいの?という風な話になってくるわけなんだよね。
そうだね。当初の定義とはちょっと違う感じがするね。
なってくるんじゃない。
そういうときにも、いわゆる数学の博士の人が近いかもしれないんだけれども、
大阪は問題を解いているみたいな、そういう風な判断ではなくて、
さらに一心不乱に問題を取り組んでいるとか、寝ても覚めても何かのことを考えているみたいな話。
ある種、熱狂的なところまでいくと、事実そのままの経験というか、
ある種何かを判断する手前として、対象と一体化しているみたいな、
そういうことは言えるでしょう。
一体化までは言っていなかったとしても、少なくとも、
ある種、現在、今ここにまさに意識が集中していて、
そのものだけに自分の経験というか意識が向いている状態があるとすると、
それは純粋経験と言ってよかろうみたいな、
そういうことをまずは考えて、少しずつその純粋経験の適応範囲を広げていくんだよね。
うーん、そうなんだ。ほうほうほうほう。
だからもう赤ちゃんの心だけだって言ったら、それ以上広がらないんじゃない?
まあね。
そういうだけじゃなくて、音楽家とか数学者とか、そういう天才だけじゃない一般の人でも、
何かに向き合っている瞬間とか、実際純粋経験とほぼ同じ意味で、
事実そのままの現在意識、ま、現在ってまさに今ね、
の意識だということも使っているんだけれども、
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そういうふうに、この一心不乱に目の前のものに向き合っているみたいな、
そういう状態も純粋経験だと言いましょう、みたいなことを言っていきます。
へー、はいはいはい。
で、ただね、ただそうなってくると、待てよと、せっかく資格、身分とかさ、
いろいろ定義して、純粋経験ですごそうなものだとのに、
なんか全然違くないみたいな。
いやー、そうなんだね。
有力だとないっていう感じがするじゃない?
めちゃくちゃするし、なんかね、その純粋経験を、
なんかね、フィルターとかかませるだけでいいじゃんってね、
なんか資料とかそういうのが多いけど、
そこを適用範囲広げるんだっていうところに、
ちょっとまだついていけないというか、
そうだよね、そうだよね。
なんでだ?ってなってる。
これがやっぱ結構難しくって、
西田さん自体は、ここでやりたいこと、この本、
全能研究という本でやりたいことを、
いわゆる純粋経験と非純粋経験に分けるんじゃなくて、
全部が純粋経験だっていうふうにやっぱり言いたいわけよ。
なので、彼はグラデーション的なことで考えていくんだよね。
つまり、純粋って言ってるんだけど、
純度100%の純粋経験を別に語りたいわけじゃなくって、
そんなものは多分なくって、
99%の純粋経験と、
1%の純粋じゃない経験とか、
折り混ざってるねとか。
それに、99%の純粋じゃない経験の中にも、
1%は純粋経験があるよね、みたいな。
へー、そうなんだ。
そういうグラデーションで考えていきます。
あー、なるほど。
どうした?どうした?
途中なんだけど、
はい、どうぞ。
さっき素人が簡単に言うじゃん。
純粋経験というものを定義したのであれば、
間にフィルターをかませて、
順番でやっていけばいいとか、
さっき入ったのが純粋経験と、
そうじゃないものを分ければいいじゃないか、
みたいな感じになっちゃうんだけども、
それをやり始めた時点で、
純粋経験自体と矛盾し始めるんだね、おそらく。
今のグラデーションっていう話で、
ちょっと納得しかけてる、今。
まさにそうで、まさにそうでっていうのは、
いわゆる玉ねぎの話に戻るんだけど、
例えば皮を剥いて、残らないけど残っているものが、
純粋経験についていったじゃない。
っていう時に、全部の玉ねぎを剥いて、
純粋経験が出てこないと困るわけよ。
こっちの玉ねぎ剥いたら、
純粋経験すらありませんでした、
24:00
非純粋経験でしたってなっちゃうと、
違うものは出てくるじゃない。
お前玉ねぎじゃないだろ、実はみたいな。
パイナップルなんでもいいんですけど、
パイナップルは違うけど。
そういう風になっちゃいますよね。
だかららっきょうの方がいい感じ。
らっきょうか。
ほんとね、らっきょうの方がいいね。
だかららっきょうとパイナップルを分けたいんじゃなく、
らっきょうと玉ねぎ。
パイナップルに言われて、
ちょっと固執しすぎじゃないですか。
食べたいのかな、ちょっと分かんないんだけど。
らっきょうと玉ねぎを分けたいんじゃなくって、
やっぱり全部が玉ねぎであるって言ってたわけよ、西田さん。
はい。
なので、その規模範囲を広げるっていうところを
矛盾してないって自分でも思ってるんです、実は西田さんって。
そこは苦心してるんだ。
苦心してる、めちゃめちゃ苦心してて。
実は、
例えば、純粋経験、あれもこれも純粋経験であるという中に、
例えば記憶も純粋経験であるとかって言ってるんだよね。
いやいやと、記憶ってどう考えても誰かの記憶じゃん。
そうなると、自分の記憶とかってなるから、
もちろん記憶を思い出してるのは、
例えば、今その瞬間の経験とか言えなくもないかもしれないけど、
結局、その人は本当に何でも純粋経験じゃんって思っちゃうのよね、普通に考えると。
でも西田さんからしたら、
いや、そうなの、何でも純粋経験なんだっていうことをやっぱり言いたいわけよ。
恐ろしいなー、なるほど。
二言論にしないためにどう説明したらいいのかっていうのをめちゃくちゃ苦労してるんだなー。
そうなんです、そうなんです。
分けてないんだよね、やっぱり。
だから僕らからすると、やっぱり純粋経験を理解したいと思うと、
いや、純粋経験じゃないものを教えてほしいってなるじゃない、そうなると。
うんうん、そうだね。じゃないものを分かんないと。
でも、それやり始めると二言論だし、だからある意味優位識とかで言っても、
例えば第何、あらゆる意識か、あらゆる意識とか前意識だった時に、
八と七分けてんじゃんみたいなとか、演技で言っても円と二分けてんじゃんみたいな、
それもやりたくなかったんだね、たぶん。
そうなんだよね、そう。
だからちゃんと演技なら演技、ある意味優位識なら優位識っていう全体で考えたいと。
玉ねぎなら玉ねぎで考えたいって話なんだよね。
27:01
徹底してるなー。徹底しすぎてるなー、すごい。
なんでだっていうよりは、苦悩とそこに妥協しなかった凄みみたいなものを逆に感じ始めてきた。
やっぱりなんとなく考えましたじゃない、哲学として自分の基礎をつけようとしたっていう営みを感じるよね、これは本当に。
なんとか自分の思っている世界を言葉で表現したい、それに純粋経験というものを当てはめたときに、
それでなんとかして全部を説明したいとか、それを仕切れるということを証明したいみたいな話だよね。
なのでさっきも言った通り、純粋経験って何か赤ちゃんとか天才だけの特別な優位する経験っていうことじゃなくて、
それはグラデーションなので、例えばさっき言った意識とか近くって、その経験、純粋経験が出てくるものだよねとか言ったんだけれども、
それも純粋経験から出てくるものっていう意味では、純粋経験は一部なわけやっぱり。
前回西澤さんが言ったこととして、西洋哲学をもって東洋文化を基礎づけるとかって話だったと思うんですけど、
それと同じ共通の基盤を作るっていうときに、その純粋経験という共通の基盤を作ることで、
意識とか判断とかもそうだし、りんごとか私とかって存在も含めて、全部を共通の土台の上で扱えるんじゃないかっていうことをやりたいって感じなんだよね。
さっきの経験あって個人やるって言ったように、経験っていうものが元にあれば、いろんなものが説明できますよね。
純粋経験から出てくるものは全部純粋経験の一部だから、私とかっていう存在も個人に統一するわけじゃなくて、
やっぱりその純粋経験ってより全体的なものとか、より根源的なものと結びついてるっていうふうな話なんだよね。
西田さんは根源的統一力とかって言ったりするらしいんだけども、いわゆる西田哲学の神みたいなものだよね。
いわゆる一番大きなものみたいな感じだから。
さっきハヤトが言った玉ねぎを剥いたら残ってるものってことだね。
ないけどあるものみたいな感じで。
なので、言葉で意識も知覚も純粋経験だとかって言うと、なかなか見過ぎでどうしてもなっちゃうんだけども。
例えば、これもちょっとわかりにくい言葉だけど、私の意識っていうものを経験する。
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私が意識があると経験するという経験を生み出してくれる根源的統一力があって、
この根源的統一力というものも自分の経験を生み出す経験であるみたいなもの。
経験って何回言ったの?っていう感じなんだけど。
そういうふうに考えていくと、結局何をしても純粋経験って突きまとうじゃんみたいな。
そういうものはなんとなく見えてくるんじゃないかなって思うんだよね。
なんだろうな。周りくどいというか、ちょっと余計というか。
すでに前半でというか、この感覚は説明してくれてるような気がして。
最初にさ、例えば今回の話で言うと、自分っていうものは先にあるんじゃなくて、
何か純粋経験をした結果が自分であるみたいな感覚。
それで十分この感覚がある気がして。
だから絶対に二言論的にしたくないっていう結果なのかなってやっぱり思うんだけど。
そういうふうに言うと、何かを純粋経験をした結果、それがリンゴだとわかったとか、
純粋経験をした結果歯磨き今してますみたいなのって、
すでにこれまでの説明の中でイメージとしてはあったんだけれども、
これを多分有意識だったりとか、普通の哲学っぽくやると、
まず純粋経験っていうものがあって、それの結果、何か意識みたいなもので自分があって、
その自分がリンゴ、さらに結果が出てきたリンゴっていうものを判断してみたいな感じで、
やっていくと全て純粋経験が繋がってるんだけれども、
そういうふうに段階を踏んだ時点で、西田さん的にはアウトなんだよね、多分。どうなんだろうね。
段階を踏むのは多分大丈夫なんだけど、その段階が本当に繋がってますかっていうところがやっぱり説明しにくいところなんだよね。
しにくい。ああ、そうなんだ。
例えば、周りくらいっていうのが多分あって、こういったやっぱりいろんな批判を受けて説明してる部分もやっぱりあったりとか、
自分で、もちろん自分の考えを批判する中で、そうじゃなくてっていうふうに書いてる部分もあるんだよね。
例えば、やっぱり哲学でいうと、知覚化っていうのはあくまでも主体と略体があって、
それを捉えるって働きでしかないのよ、どうしても。何かを見るとか聞くとかってね。
っていう時に、純粋経験から諸君の状態の中に知覚があるとかっていう言葉は、やっぱり受け入れにくいんだよね、どう考えても。
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なるほど。自分の中でその世界観があったとして、それをめちゃくちゃ批判的に見てる人にも、
まあしょうがねえ、わかったって言わせるにはどうすればいいかっていう話をしてるのか。
そういうこと、そういうこと。
だから実際にやっぱり、いわゆるこういう批判と反論があって、やっぱりそういう、
知覚とかって主体と略体で分かれてんじゃんとかっていう時に、
ミシアさんからすると、それはある種、純粋経験は外から見てて、分析的に見ていて、
内側から見てないよねとかっていうふうな反論をするんだよね。反論するとか、そういうことも言いたくなるんだよね。
つまりさっきの意見も言ってくれたけれども、やっぱり純粋経験がまさに根底にあるものとかってすると、
その全体から個別の経験が出てくるじゃんっていうのはイメージしやすいと思うんだけど、
でもそれも、なんていうのかな、やっぱりこう、そう言っちゃうと、いわゆる悟りとかって変わらなくなっちゃう。
俺は悟れてるけど、お前は悟れないじゃんとかって一緒になっちゃうじゃない。
あー、そっかそっか。
だから西田さん、あんたがやってるのは宗教だよって言われかねないってことなんだよね。
そうそうそう、そういうこと。哲学じゃないじゃんっていうね。
そこは確かに自分の中では分かんないかも。
基本、肯定的に分かろう分かろうと思って聞いてるから、
そういった意味で、なんでこんな周り黒いとか、一旦分かったのにっていう意味でいうと、
やっぱりめちゃくちゃ批判的な人からすると、
もう好きだらけなんだね、おそらく。
そうそうそうなんです。矛盾だらけ、好きだらけ。
めちゃくちゃ批判的というよりは普通に読むと、めっちゃ矛盾しない?とか、
全然論理的に破綻しない?とかってなっちゃうみたいなんだよね。
ある意味、自分はそう思わないけどって言われた時点で終わっちゃう部分があるってこと?
そうそうそうそう。
単なる自分の考えになっちゃうんだよね。
なるほど。
例えば、イメージの世界でね、さっきの玉ねぎもそうだし、
でもさ、それは経験って人それぞれじゃないかと。
例えば100人いて、100人が同じ夕焼けを見た時に、経験って違うじゃないかとかっていう風に、
イメージによって言うことはできるんだけど、
でもそれも果たして本当かってやっぱり疑えるじゃない?
違うっていう違いってどうやってそれを明らかにするのかとか、
本当に100人が見た夕焼けって違うのかってことを突っ込まれた時に、
それをロジックで言えないとダメなわけなんだよね。
はいはいはい。
うん。っていう時に、純粋経験ってものは内側からしか見れませんとか、
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純粋経験っていう主役に身分化っていうものが、
もう前提となっているって言われちゃうと、
本当にそれって、ただただ一元論的に考えられてるだけじゃないっていうところで、
要は新しさとかもないんじゃないとかっていう風に言われちゃうんだよね。
わー、はいはいはい。
なので、やっぱりそもそも西田さんがやろうとしている、
純粋経験がまず唯一の実在であるとか、
そこから全てを説明する、
あるいはそれを東洋文化で続けるみたいな話って、
結局はそういう言葉にしにくいものができないもので、
いかにロジックを組み立てるかっていう、
そもそも無理ゲーをやろうとしてる感じなんだよね。
はいはい。だからもう前提から基本的には、
え?どういうこと?ってなっちゃう話をしてる。
そうそうそうそう。
やっぱり分析できない個人の経験とか、
言語化できない純粋経験っていうものを、
どこに分析して語るようにするかとか、
それを哲学の学問として位置づけるかみたいな、
ってことにまさにチャレンジをしてます。
あれでもね、顕微鏡とかのレベルが発達してない中で、
ほら原子あったよって言えない中で、
誰も見えない、ウイルスとか見えない中で、
ほらウイルスあったっていうことを見えない中で、
技術が追いついてる中でみんなに、
だからウイルスあるんだとか、
やらせることの難しさみたいな話なんだよね。
まさにそういうこと。
だからこそやっぱりどうしても周り苦毒もなっちゃうし、
どうしてもやっぱり多くはなっちゃうよね。
それがウイルスある無しだったらまだあれだけども、
全てこれでできてるんだって話をしてるんだ。
早く言った通りね。
あれもこれも純粋経験ですね。
やばいよね。あれは純粋経験ですならまだしも、
あれもこれもって話をしてるから、
そうなんだよね。
難しさが出てくるんだね。
そうです。
これはこうかもしれないけどあれは違うでしょみたいなことを、
一個でも言ったらアウトっていう話を。
そうそうそうそう。
っていう意味で無理ゲーなんだね。
無理ゲー。反証可能性がありすぎるから。
あ、オッケーですオッケーです。
そういうことをやっぱりやろうとしたとか、
やろうとしていってやっぱり成果をちゃんと出したからこそ、
やっぱり西田さんすごいねとか、
西田哲学っていう風に名前を冠した一文屋っていうものが、
扱われるぐらいになったっていう風な話なんだよね。
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ただの宗教家とか、
いわゆるただ思想を述べてるとは違う、
哲学をやりましたっていう蕎麦があるって話なのね。
そうですそうです。
だからさっきも言ったんだけど、
そういう難しさとか、
自分のやろうとしてることって困難だし矛盾も強いってこと自体は、
西田さんも気づいていた節があって、
実際いろんな批判とかも受ける中でか分かんないけれども、
2番目さ、自覚っていうキーワードがありますって言ったじゃないですか。
そうだった、まだ1つ目だったキーワード。
まだ1つ目なのよ。
まだこれからなんだけれども、
自覚っていうのはまさに困難。
要は純粋経験っていうものをどうやって語るかとか、
どうやって人に伝わるようにするかっていうものをやろうとしたのが、
自覚っていう概念だって言われてるんだよね。
わー、はいはいはい。
ちょっと先取りで基本的に言うと、
自覚っていうのは何かを自覚する、だから分かるとか、
認める、何かがあると認めるとか、
そういうことを含めて自覚って予定すると思うんだけど、
この時に何が何を自覚するかっていうと、
その純粋経験自体を自覚するっていうことを考えるんだよね。
つまり、純粋経験を外から分析する、
要は私がリンゴを見たっていうものを、
誰かが分析するとそもそも無理筋だし、
自分が分析したとしても、
自分の純粋経験を自分が外から見るってまた経験だって別の経験になっちゃうよね。
つまり純粋経験だから遠ざかっちゃうので、
それも無理筋です。
どうしたらいいのって言うと、
純粋経験で純粋経験を見たらいいじゃんって考えるんだよね。
それもロジックは分かるけどさ、
で、それって何?ってなるじゃん。
さっきの演奏家とかのように行くのかねっていう話だよね。
そうそうそうそう。
そもそも演奏家がさ、
自分が今聴いてるって思った瞬間に、
視覚、身分、状態が離れちゃうわけじゃん。
とか、感覚が今こういう状況だというふうに意識が伸ばした瞬間に、
それはもう一体化しなくなっちゃうわけじゃん。
なっちゃうんで、
それってできんのって話なんだよね。
なんか帰ってこれなくなりそう。
純粋経験を、純粋経験で自覚したじゃん。
確かにもうそのまま爆発しながらじゃんみたいなね。
42:03
そうそうそう。
っていうことがあるんですけど、
まさにそういうことを考えて発展させたのが、
まさに西田さんの哲学的な出点っていう感じなんだよね。
今日の哲学者の苦悩みたいな話を聞くと、
すごい、わーって思うね。
すごいことをやってるなっていう。
そうね。
やっぱり一個作ったものを壊すとか乗り越えるって生半可じゃないんだけど、
ちょっと先走っちゃったんですけれども、
その純粋経験で話を整理すると、
さっきも兄貴が言ってたストーリーで、
その純粋経験を唯一、
まさに唯一とも言ってるからね、
これだけしかなくって、
この一個で世界を説明しようって、
やっぱり結構無理すぎなことを、
そもそも考えてるんだけど、
それをやろうとしてますよと。
そこに取り組んだのが、やっぱり哲学的な凄さですよっていう話だし、
この純粋経験は赤ちゃんの意識でもあり、
演奏家の経験でもあり、
数学を集中しておく時の経験でもあるという話なんだけれども、
いろんなグラデーションにおいて働く、
ある種の現在意識というか、
その瞬間瞬間に没頭しているとか、
集中しているみたいな、
そういうことも含めた意識・経験のことですよという話なんだろうね。
その経験というところからより分かれていくと、
私とかリンゴとか、
意識とかそういうものがいろいろ出てきて、
それがある種、僕らが生きている世界の主役人間的な、
前回、地の構造とかだったと思うんですけど、
いわゆるものを知るとか聞くとか見るというふうなものが働く世界というのが、
その純粋経験から現れてくるんですよみたいな。
そういうふうなことを、
ある種この純粋経験というところから考えているんだよね。
なので、ある種この世界はものがあるんじゃなくって、
そういう生み出す働きとしての意識とか経験、
まさに心だけがある世界で、
そういったある種精神的なものが優先で、
自然の、いわゆる物理的なものというのが、
獣というか種獣というか、
日常的なものだというふうな発想なんだよね。
なので、これ繰り返しになっちゃうんだけれども、
いわゆるものとしてのリンゴが無関係に、
ただそこにポンってあるんじゃなくって、
やっぱりリンゴがここにあるという経験という自体は、
いろんな他の物事とも関連しているとか繋がっている。
そういうふうな世界観の中で、
私がリンゴを植えたという、
そういう判断を伴った経験を、
根源的統一力の中に置いて経験したみたいな。
やっぱりそういう周りから言い方しか言えないようなことが、
45:01
西田さんの世界観としては持ち上がってくるんですよ、
というふうな話なんだよね。
しかもあれだよね、今私がって主語を作っちゃってるけれども、
リンゴを見たのが私だったぐらいの話だもんね。
私も含めてだもんね。
そうです。
ただ、経験をした。
それはリンゴを見たという私を認識し、
みたいになっちゃうよね。
まあ、そうだね、認識。
というふうな感じで、
純粋経験というのを触れてみたんですけれども、
どうだろう、なんとなく理解までは行かずとも、
そういう根源的なものがあって、
そこから世界が立ち上がってくるんだみたいな、
世界観というのはイメージ湧いたかな。
そうだね、その世界観はめちゃくちゃ、
わかるつもりというか、
これはね、たぶん仏教、
有識的な話に近かったりすると思うんだけど、
哲学的な話で言うと理解はしてないとは、
今回思ったんだけれども、
でも今回何よりそれだよね、
西田さんの苦悩的な話。
哲学としてやるっていうね。
そこが重要なんだろうなと思ったから、
変にこれを理解してるのも良くないのかなっていうね、
もうちょっと批判的にというかね、
わかんない前提で聞かなきゃなっていうのも、
今回思った部分はあったけれども、
だからまだわかるようでわかんないね。
純粋経験っていう世界観、
何もないところの経験、
ありきっていうとこはいいんだけれども、
全部が純粋経験ですよ、
その純度何パーノンみたいな、
100パーノンとか1パーノンとかっていう、
感覚はちょっとわからないっていうところかな。
そこは。
なるほどね。
オッケーです。
そうだね、
やっぱりそこって、
どこも突き詰めて理解しようと思うと、
本当に難しい話だっていくんだけれども、
インターポイントに関しては、
なんとなくその世界観に馴染めそうだなとか、
ちょっと仏教的な参画を踏まえると、
こういうことが言いたいんだろうなっていうところが見えてくれば、
十分というかね、
行きたいところがこれだかなとは思っていますと。
で、なんでかって言うと、
まだ3つあるじゃないですか。
いやー、そうなんだよね。
自覚と場所と、
絶対矛盾的事故同一って、
まだ3つがさらにあって、
こっちはやっぱりなかなか、
普通の感覚でやっぱり理解しにくいというか、
多分これまでの蓄積だけじゃ立ち打ちいかないようなところが出てくるんだよね。
48:02
どうなんだろう、
全く別の話をしていくのか、
西田さんのこの世界観を、
やっぱり誰が見ても納得するための武器としての話なのかって、
どっちなんだろう、これからのキーワードは。
後者で、
西田さんが言いたい言葉は変わらず、
純粋経験という言葉じゃなくなるんだけど、
やっぱりそういった唯一のもの。
変わっていくんだ。
変わっていく。
そういうので、
世の中を説明したいという話と、
東洋文化を密着で基礎付けたいという、
この2つというのは基本的には変わらないので、
なるほど。
その中で、言葉とか概念とかが洗練されたり、
発見していったりしていくという感じなんだよね。
なるほど。
そうか、じゃあ現段階ではだいたいこのぐらいで、
むしろOKって話だね。
ここからさらに西田さんがいろいろ洗練して、
いってるよって話なんだね。
そうです。
手伝うこともどんどん深まっていくので、
それを一緒にたどっていくと、
こんなことまでやったんだとか、
純粋経験の時にもすごいと思ってたけど、
さらにここからこんな発展ができるのね、みたいな。
そういうふうなことも面白くなってもらえるんじゃないかなって思うんだよね。
OKそうです。
ある意味安心というか、
この段階で西田さんの純粋経験の世界観が完全にわかりました、
って言えるわけがないって話だね。
わけがない、わけがない。
OKです、OKです。
私、さっきの批判にもあった通り、
あくまでも、
俺の純粋経験はこうだがたりになっちゃうんだよ、
どうしても今の方向性だと。
哲学で客観性を持って基礎づけるとか、
論理立てて伝われていくみたいな。
そうやってまだまだこの段階だと、
エリキリティないよねっていうことも言われたりするので、
そこをやっぱり乗り越えていく。
それを自分の中で発展させていった、
自覚っていう概念をお届けする中で、
よりこの西田さんの世界観を深めていきましょう、
というような感じですね。
わかりました。
面白いね。
哲学者が哲学を作ることの難しさも含めて、
今回感じさせてもらってる感じがするね。
生半可じゃないよね、やっぱりね。
今まではなかったかもしれないよね。
もうちょっと出来上がったものを教えてもらってた気もするから。
確かにね。
4ステップに分けたとかっていうのはやっぱりやりやすいというか、
わかりやすくて、
もちろん単純ではないんだけれども、
51:03
人から見ると、やっぱりこういうふうに西田さんが
自分の思想を乗り越えたよねとか、
自分自身もそういうふうに言ってるよねって、
結構残ってたりするらしいんですよね。
なので、僕らもそれを追いやすいというか、
追体験できるんだけど、
やっぱり哲学者の人たちって、
基本的には自分の出来上がったものっていうか、
それを理解するだけやっぱり精一杯だから。
精一杯できるのかって話はね。
できるのかって話もあるから。
基本的には1個のもの、1個の考え方をお伝えするんだけど、
西田さんはそういういろんな考え方があるんだけど、
基本的には同じ思いというか、向き合う姿勢があるから、
やっぱりそういうふうに理解しやすいっていう人でもあるのかもしれないね。
なるほど、なるほど。
わかりました。
久々にこういう話をして、
だいぶ集中してるなという感じがあるけど、
実はあれなんだね。
今キーワード4つのうち1つ目がやっと終わったぐらいの感じなんだね、実は。
はい、おっしゃる通りです。
わかりました。
日産3回もだいぶ長くなっちゃうかもしれないけど、
それはそれでいいなというか、
ここからまた西洋に戻るかとか、
もうちょっと日本の人やるかとか考えてるんだけど、
でもやっぱり園児さんが言ってくれた、
日本人の哲学だから共感できるとかも確かあるのかもなって思ってて、
そういうのももうちょっと広げていきたいなって今思ってるんで、
西谷さんやって、
この弟子たちというか、
そういう人を扱うとかもいいのかなとかちょっと思ってますね。
わかりました。
では引き続き次回、
2つ目のキーワード、自覚ということで、
より深めていきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。