1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #321 改めて知るカントの凄さ..
2025-05-28 45:41

#321 改めて知るカントの凄さ。経験論と合理論をどうやって統合する?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、カントを中心にデカルト、ロック、ヒュームの哲学的立場がどのように統合されるかが探られています。特に、経験論と合理論の違いや、それぞれの思想が哲学に与えた影響について考察されています。カントの哲学における経験論と合理論の統合が探求され、ヒュームの考え方が与える衝撃やカントが提案する新しい視点が紹介され、哲学の進化の重要性が強調されています。また、カントが経験論と合理論をどのように統合したのかについても語られており、特にカントの観念論が世界を認識するための枠組みとして機能する様子や人間の理性と経験の結びつきが強調されています。さらに、カントの哲学は理性と経験の統合を探求し、内面的な視点から変わりゆく世界をどのように捉えるかを考察しています。

哲学の導入とカントの再考
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学に馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の菅野翔介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
今回からカントということで、以前もカントは取り上げたんですけれども、改めて今回もやっていくというような話でした。
そうですね。振り返ってみたら、32回とかやってましたね、カントね。
だいぶ最初の方。
当時もね、カントの前に流れを掴みたいよねとか言って、その時はデカルとサンとケーゲル、マルクス。
うわー、重そうな人たちだね。
っていうのを繋いで話すっていうのをやってましたよと。
今から考えると、当時僕はあんまりロックとかヒュームは知らなかったんで、カントにどういうふうにそこが繋がっているのかって、正直わかんない話を喋ってたなとかっていうのを思い出すんですよね。
哲学的には、カントの次はヘーギルだよねとか、ヘーギルを使ってマルクスが社会的にやってよねとかっていうふうなものはあったりはするんだけど、ちょっと片手落ちだったなっていう反省もあり。
逆に、2、3年経って自分もなんとなくやらせていただく中で、もうちょっとやっぱり付け加えるなとか、カント、もうちょっと言えたよなみたいなことが常にあったんで。
今回はそういうところも踏まえながら、かつロックヒュームをやった流れとしてのカントっていうものをやっていきたいというふうに思ってたんですよ、というところですね。
なるほどなし。今の話聞くと、もう一回デカルトとかヘーギルとかその辺とか、人たちもう一回やってほしいね。
たしかにね。
何回でもやってほしいね。
ヘーギルはね、またやってもいいなと思ってて。
実は、これまたお便りちゃんとお伝えしたいと思ってるんですけど、お便りとかでも、次はフィフテとかそういう人もいるんだけど、次はそういう人たちですよね、みたいなお便りもいただいてて。
ほいほいほい。そうなの?哲学的にはそうなの?
そうそう、あるある。それでもご存知の方からすると、わかるわかるみたいな感じで思って聞いてくださっている人もいるんだなと思って、嬉しかったんですけど。
ただね、やっぱり遠い西洋哲学をずっとやり続けるのもあれなんで、一回またトロにも行こうかとか色々考えてはいるんですけど、とりあえず今回は関東ですと。
ロックと経験論の展開
はい、わかりました。
いきなり関東に行くのもあれ、関東をグッと入っていくのもあれなので、ちょっと振り返り的にはこれ何回やってもいいかなと思うんで、やっぱり今回ずっと問いかけているデカルトとかロックとかヒューム。
これがどういうふうに関東に繋がるんですかっていうところを、ちょっと繰り返しになっちゃうんだけれども、大掴みで今回お話しした中で、だから関東はこうなんだよっていうのを次回以降はちゃんとやりたいというふうに思っています。
はいはいはい。そうだもんね、前回のヒュームの中でもハヤトが、ヒュームとかロックをやる中で、リリース経験論をやる中で関東の面白さというか、関東を本当にわかってなかったことに気づいたみたいな話をしてたけど、その辺りの話を今回ちゃんと流れを組んでやってくれるみたいな。
そうですね、改めて。そうですそうです。
復讐も早いねっていう感じで今日は話していこうと思うんですけど、まずやっぱりデカルトなんだよね、どこまで行っても、金星哲学はっていうのがあって。
そうなんだね。
ロック界とかでデカルトさん、ダメですみたいなさ、そんな考えちゃダメですとかって批判側で言っちゃったからだったんだけども、やっぱり哲学は歴史的に考えると、それまでにくしゃみっていうものが大前提になって、
神によって人間はまるで動かされてるんだみたいなところから、もちろんデカルトも神っていうものは大事にするんだけれども、やっぱり神以外の出発点が考える原点みたいなスタートラインを立てたっていうところがやっぱりすごいことなんですよね。
そこはデカルトがやってるんだ。
そうですそうです。それがやっぱり何度も言うけれども、我を思うゆえに我ありって。
あれって結局、我、コギトって見つけたってもそうなんだけれども、いろいろ疑って疑って、疑った結果、疑う我は残りましたとかって話じゃないですか。
結局、それまで神様から始めてた。神様が世界を作ったからとか、神様はこういうことを考えたから世界がこうなんだっていうのが順序だったんだけど、
どうせなくって、我っていうところから出発して世界を説明してみようとか、人間を考えてみようっていうところにスタートして持ってきたっていうところがめちゃめちゃ大きな転換なんですよね。
なるほど。その辺の話もっかい聞きたいね、ちゃんと。
だいぶ違そうだもんね、確かに確かに。人間の主語が神から人間になるってほどすごい変化っぽい感じするもんね。
そうなんです、そうなんです。そのときにやっぱり、物事を考えるっていうことがガラッと変わったっていうのが、中世と近代とみたいな感じなんだけれども。
やっぱりそこからデカウトが言ってるのは、やっぱり知識だよね。いわゆる人間の理性とか知識っていうものが、やっぱり主なんだよというか、理性の働きによって物事っていうのは人間を捉えてるんだよっていうふうな、ある種の理性、変調と言えば変調なんだけれども、そういうことを考えていくんだよね。
逆に言うとデカウトに言わせれば、やっぱりその感覚、何かを感じるとかって、冷たいものを触ってるはずのように熱いって感じることがあったりとか、ある夢を見てるときに現実だと思ってしまうみたいな感じで、やっぱり感覚ってやっぱり間違えることがある。
それでやっぱり感覚には頼らなくて、やっぱり理性っていうのを我々は信じるべきなんだとか。理性っていうものを大事にすると、僕らは本当に世界っていうのを見出していって、もしかしたら真理をたどり着けるんじゃないかみたいな。そういうことがデカウトがやろうとした、すごいざっくりなんだけれども、考えなんですよね。
うん、なるほど。
それはそれはやっぱり一理あるなと思うじゃない。
いやー、だから当時の当たり前を考えると、そしてそれを崩すと考えると、そうだそうだってなるよね。
そうそうそう。人間の理性をちゃんと掴むんだよみたいなね。
うん。
で、そういうデカウトがいたときに、それはでもちょっと違うんじゃないっていうことを言ったのがロックだったんですよね。
わー、イギリス経験論側ってことだね。
そうですそうです。
はいはい。
で、生徒関連とかって話はロックのときにしたと思うんですけれども、
まず人が生まれながら、要は生まれる前に、たとえば神がさ、もしかしたら1たす1は2とかもそうかもしれないけども、そういうものが既にあって、
それをある種思い出すっていう作業が、知識を得るとか、このことを考えるっていうことだっていうふうにデカウトが考えたんだよね。
やっぱりそうすると、結局なんだろうな、ロックのときに政治の変化とか混乱とかもさしたと思うんですけれども、
やっぱり人が生まれながら決まっているってなっちゃうと、やっぱりそれはそれで都合が悪いわけだよね、現実世界を見たときに。
っていうところからすると、本当に、かつ世の中を見たときに、みんながみんなどこに知識を持っているかって、もちろんそうではないし、
もちろん生まれたときにはなかった知識が後から生まれること、それこそ前回雑談でも話しましたけど、
生成AIなんて知識があったら僕らは持ってなかったわけですよ、生まれたときに。
でも今、生きている中でそういうものが生まれてきたとか、広がっていくっていうことを名の当たりにしたときに、
それって本当に全部理性で説明できるんでしたっけってことをやっぱり思うわけだよね。
それも正徳関連でしたっけっていうね。
そうそうそうそう。それの中で持ってたんでしたっけっていう。
そういうともちろんそんなことはないよねってなるんで、そうじゃなくて、生きていく中である種知識を身につけていくとか、
人間が変わっていく、そういうふうなものを説明できる、思想とか哲学っていうのが大事だよねっていうときに、
白紙やタブララサですよね。アロックのときにタブララサっていうのも実は違うとかって話もしたと思うんですけど、
そこにある種サンクスというのが書き込まれていって経験になるんだと。
それが観念として、ロックとしてはそれを見出していくんだよっていう話をしたと思うんですよね。
これがある種理性から始まるデカルトと経験とか感じるっていうところ、
感じるというか物音を見聞きしたりとかするところから、出発点においてはロックっていうのが大きな違いなんですよ。
これもやっぱり繰り返しになっちゃうんだけど、スタートラインで違うよっていうことがすごく大きな違いなんだよね、これって。
スタートライン、はいはい。
理性っていうところから、要は疑い尽くした我っていうところからスタートするのか、
我々は私の心を持ってそこに経験をする、観念を持つってところから考えていきましょうっていう、
スポーツとスタートラインにするロックっていうふうな違いっていうところが、
やっぱりその後の考える社会とはこうあれべきとか、
神様はこういうものだとかっていうところの違いに関わってきますっていうところが、前回ロックのところでお話したことなんですよね。
なので、すごくざっくり言うと、頭で考えれば大ロッケっていうデカルトと、
そうじゃなくってちゃんと世界に触れていきましょうと言ったロックっていうのが違いがあるんだけれども、
それでやっぱりバンジーOKかっていうとそうじゃないっていうのがヒュームの話なんですよね。
ヒュームの経験主義の深化
はいはい、これ前のね、流れだね。
そうそうそう。
もうちょっと明確に言うとあれなんですけれども、ヒュームある種ロックの経験主義とか、感じるみたいなことを最後突き詰めていくわけなんですよね。
そうすると、要はすべてが経験になったときに、ヒュームは前回おっしゃった通り、印象と観念におけますと。
印象っていうのがいわゆる強い感覚、要はこれは暑いとか寒いとかもそうだし、明確においしいとか、これは灰色だとかなんでもいいんだけど、
そういうものをまず感じるっていうのがあって、それが観念としてコピーされて人間に蓄積されていきますと。
そういう印象っていうものはない。要は経験できるものがないと、経験できるものでないと、それは認めませんっていうのがヒュームの立場なんだよね。
そうね。
これによって、ヒューム界の復習ですけれども、神っていう概念とか、あるいは因果関係だよね。
例えば、火をつけたら神が燃えるとかっていうところで、僕ら普段火をつけたから神が燃えるんだっていう、そういう原因と結果を考えているんだけど、
でもその火をつけたからっていう、その本当の原因と結果の関係って僕ら見えましたっけとか、感じられましたっけっていうと、その印象ないですよねっていうことをヒュームは言ったわけですよね。
ただただ繰り返し、火をつける神が燃える、火をつける神が燃えるっていうことを、ある種経験として蓄積した結果、そこに因果関係めいたものを見出しているようにすぎない?
でもそれは印象がないから、僕らヒューム界はすると、それって因果関係でないよっていうことをやっぱり言い出すわけなんですよね。
ヒュームの影響とその問題点
そうだね。この部分はちょっと衝撃だったね。なんでそんな開く気がというかね、ヒュームの感覚が。
そうそう。やっぱりそれもあるし、前回雑談の時にもお伝えしたんですけど、極端に押し進めた結果があるんだよね。経験しかないっていうことをそこまでは言わなかった。
経験するんだけど、神様も観念としては一緒だし、火をつけたら燃えるとか、石が灰色だとか、全部それも観念だから、別にそれは全部あっていいんだよって言ったんだけど、
ヒュームはそれをもっと付け継いだ時に、いやいや神なんて経験できません。因果関係なんて経験できませんとかっていうふうに、ある種よりラベルを厳しく張り分けちゃったんだよね。
それはそれで、前回兄貴が感じてくれた通り、すごい日本にない考え方だよねとか、自分にない感覚だよねっていうところまでの学びにはなるんだけれども、実際それはそれで問題も出てくるわけなんですよ。
問題?ほうほうほう。
問題、そう。っていう問題に実は気づいたのがカウントっていう感じなんだけれども、
これはヒュームの時にお伝えしたんですけれども、やっぱりヒュームの人にめっちゃ衝撃は受けるんですよ。
で、ちょっとお伝えしたように、ヒュームによって独断のまどろみが目を覚まされましたみたいな。
要は自分が当たり前のように思っていた世界観とか、あるいはその知識の仕組みとかものをシルエットから見るとどういうことみたいな、
それが成り立たないかもしれないっていうことにカウントは気づくわけなんだよね。
それは今言ったみたいに、確かに因果関係とかって言われるときに、自然に受け入れたんだけど、
確かに疑えるよねとか、それ勝手に人間が作ってるだけかもねっていうふうに確かに思えてしまう。
っていうところで、それは確かにすごいわ、いい気づきだってなるんですよと。
なるんだけど、それをただ受け入れちゃうと、結局この世には因果関係とか法則とか何もなくて、
カントの新たな視点
ただただ偶然ある世界とか、ただただ繰り返されている日常を認識して受け取るしかない世界。
もっと言うと、当時まだ神様の時代なので、とはいえ。
神に支えられて、この世界というのが成り立っているという基盤が同式としてあるんだけど、
その基盤がすっかりなくなっちゃうっていうのは参考になっちゃうんだよね。
なるほど。カウント的にはそこなんだ。
そうそうそう。ある種、やっぱりこうなんだろうな、これはちょっと共通の感覚はわかんないんだけれども、
なんとなく世界を支えてくれるものとか、世界がちゃんと明日も続いてくれる確信でいたものがあってほしいわけなんですよね。
なるほど。
それが昔は神で、神っていうものが世界を支えてくれるとか、神っていうものが明日を保証してくれるから、
僕らある種生きていける。そこにあえて沼にはまらずに生きていけるんだけど、
神の経験論を突き詰めると、神もいないし、今日があって明日があるっていうふうな約束してくれる法則もなくなりますと。
なるほど。
それはやっぱり、サントみたいな物事をちゃんと考える人とか、世界とはってことを考える人からすると、やっぱり居心地がすごい悪いわけなんだよね。
確かにそうだよね。ヒューグは自分がいるのかどうかみたいなところまで話してたから。
そうそうそう。近くのタワーで、別に自分なんてない、自我なんてないんだとかって言ってたと思うんだけど。
そっちが先で、事故は後みたいな、結構ヤバい話してたもんね。
そうそうそう。それはヒューグの話で、人は確かに確かにって言えるんだけど、
我に返ると、あなたもいません。世界の法則もありません。この世はただただダラダラ続いているだけですって言われた時に、ちょっと待てよと。
本当に世界ってそんなあり方をしてるんだっけ?っていうふうに思うわけよね。
確かにそうだね。現実そうなってなさそうだぞ、みたいなところはあるかもしれないね。
そうそうそう。もちろんそれ以外にもヒューグの穴は当然あるので、そういうのを批判してあがってももちろんあるんだけれども、
大きな反転でいくと、ヒューグだけでも物足りないというか、自分の世界観とずれるという中で、
デカルトのような理性だけっていうところにももはや帰ることはできない。ヒューグが経験をこんだけ大事だって言っちゃったから。
カントって多分すごいんだよね。そこにヒューグの考え方にやばっ目覚めた、みたいなさ。
言うぐらい何かを感じ取ったぐらいの人だから、デカルトには戻れないしヒューグにも100%は賛成できないみたいな。
じゃあどうしようって思っちゃえるってことは、その先も考えられちゃったって感じだよね。
そうだねそうだね。それでやりきれちゃったって感じだね。
だから彼としては、それぞれスタートラインが違うデカルトのような理性重視の合理論というものと、ロックヒュームの経験論というもの。
本当はやっぱり理性と経験って全然スタート地点が違うので、もうちょっと言うと、例えば物を見ますっていう時に、何を見たのっていうことを大事にするのが経験論なんだよね。
すごく灰色のありありとした石を見ましたって感じなのか。それをどうやって見たのっていうのが、例えばそういう合理論的な感じで、
これは目でその対象としてそれを捉えて、自分の感覚として外部のものを内側に取り込みましたみたいな。
そういう機能とか作用っていうのを大事にするのがやっぱり理性重視。
どんな印象とか関連を受け取ったのっていう内容を大事にするのが、ある種ロックとかヒュームの経験論なんだよね。
はいはい、なるほど。
っていう時に、ちょっと考えたらイメージ分かるんだけど、さっきの目で見ているっていうそっちの作用の方と、例えば目で見た対象としてはリンゴっていうのがあった時に、
これをどっちかからスタートしましょうっていうのが合理論と経験論のあり方なんだよね。
ほうほうほうほう。
ちょっと考えてみてほしいんですけど、例えばリンゴを見てますっていう時に、
そのリンゴっていう目で見ているものと、そのリンゴを見ている自分っていうものとを両方同時に考えるって結構難しそうだなっていう感覚ないですか?
まあ難しそうっていうか、そうはね、そういう風に考えたこともないよねって。
そうそうね。
そうそう。っていうかやっぱり基本的にはどっちかに軸が置かれちゃうんだよね。
うーん、はいはいはい。
うん。で、実はその、すごいざっくり言うと、その見ているリンゴも、それ見ている自分っていうものも、どっちもちゃんと両方扱いましょうねっていうのが、まず感動的な考え方です。
へー、そうなんだ。はいはいはい。
すごいざっくり言ってる。これ正しくないあえて言い方を教えたんですけど。
うん。
そういう風に、そのスタートラインが全然違う2つの合理論と経験論っていうものを、ちゃんと一つにするっていうか、その方法打ちで考えることができないのかっていうことが観音がやろうとしたことなんですよね。
うーん、そうなんだ。なるほど。
さっきのハヤトの例で言うと、そのリンゴを見ているっていう、自分がリンゴを見ていますっていう時に、自分が見ているっていう方、意識を向けるのがデカルト側だよね。
うんうんうん。
もうリンゴってものはあるし、自分はもうリンゴってものは知ってるから、ただこの自分がリンゴを見ているっていう風な状況を想定できるのがデカルト側で。
で、ヒュームとかロック、経験論から言わせると、自分が目の前にあるものを、なんだろうな、経験した。
そうだね。リンゴを見たっていう。
リンゴ。でもね、自分がどうこうじゃなくて、リンゴを経験したので結果リンゴだったみたいな。
うんうんうん。
そこの違いではね、ハヤトが今例えば、語弊があるけどみたいな言い方をしたけれども、一応その違いってことだよね、立場的に。
そうです。立場的に言うとね。で、もちろんそれってどっちも正しいんだよね。
自分がリンゴを見たとも言えるし、リンゴっていうのにフォーカスが当たるのも別に正しいですと。
どっちも正しいんだけど、でもやっぱりどっちかに立とうと思うと、なんか矛盾してしまったりとか足りないところがあるっていう風なのが、
それ前の語彙論とか経験論だったときに、それはある種ちゃんと、なんだろうな、矛盾がないように説明できませんかね、と。
うんうんうん。
とか、両方の良いところをくっつけて悪いところをしたときに、なんか新しいことできませんかねっていうことを、ある種ハヤトはやりきっちゃったんだよね、それを。
おー、そうなんだ。やりきった。はいはい。
思考の転換
そうそうそう。で、「確かにそう考えると、語彙論と経験論って一つになれるよね。」みたいな。
これはね、言って、やっぱり説得力を持ってやりきりました、というようなところでございますよ、と。
カントスすごいね。
すごいのよ。
出来なさそうだったじゃない、ロックのときってさ、やっぱりこうね、「デカルトとは無理だよ、仲良くならないよ。」とかってね、言ってたと思うんですけど。
あー、言ってたね、そうだ。
言ってた言ってた。そうそうそう。周知ロックは批判的だったから。
そうね。デカルトは負けたね、あのとき。そうだそうだ。
そう。やっぱり勝ち負けじゃなかったんですって話で。
で、カントがどう考えたかって話はまた詳細、次回以降ちゃんと話してくるんですけれども、
そこにざっくり理解しようと思うと、カントはね、よく言われる言葉があって、それにコペルニクス的展開って言葉があるんですよ。
コペルニクスっていわゆる天動説から地動説みたいな感じで、太陽が動いてるんじゃなくて地球が動いてるんだ、みたいな。
そういうふうに発想を転換した人っていうのをね、捉えてる言葉なんですけど、
これね、ちょっと、さっきの自分がリンゴを見てるっていう図を、ちょっとまた想像してほしいんですよ。
で、たぶんこれもね、想像もたぶん今想像してくださいってときに、いろんな想像をたぶんみなさんはしてると思うんですけど、
一旦今の自分の想像のほうもやってみてほしいんですけど、
別に僕らが物事、例えば外にあるリンゴを見るときって、今外で言っちゃったんだけど、
自分の中に心であれ理性であれ何であれ、そういうものが外の世界を映し取ってるっていうふうに考えるのが結構基本なんですよね。
外にあるリンゴを何か自分の中に持ってくると。
それがロックとかヒュームで言うと印象とか観念になるし、
特にデカイオートとかで言うと、自分の理性っていうものが外にあるリンゴっていうものをある程度捕まえるみたいな、
そういうふうな感覚になるんですよね。
カントはその思想自体を進化させるんですよ。
どういうことかっていうと、外にあるものを中に引っ張ってくるんじゃなくて、
もちろん自分たちの心とか理性とか、そういうものが外の世界に枠組みを与えてるんだっていう内側外へってことを考えるんですよね。
長く言おうとしたことが分かるから、外から中へじゃなくて、中から外へにしますと。
だからあれでもね、面白いね。
もう外に世界があるじゃなくて、自分が世界を作っているのだ、みたいな感じだよね。
カントの認識論の基礎
そこまでの名言はしたいんだけれども、ある種、世界っていうものを捕らえるときのまさに、枠組みとか捕らえ方っていうものが、心とかにあるよねっていうことを言うんだよね。
例えば、リンゴっていうものを、今みなさん想像を改めてしてもらったときに、リンゴが例えば木に生えてるかとか、透明な何か空間的なところにあるかは分からないんだけれども、
でも何らかの、多分そういう空間めいたものの中にあるリンゴっていうのを想像してないかと思うんですよね。
もちろんリンゴそのものっていうのをイメージした方がいいかもしれないけれども、そのリンゴの何らかの白い空間とかに浮かんでるぐらいの感覚あるんじゃないかと思います。
いうときに、今言ったみたいな空間とか、あるいは時間だよね。
そういったものって外の世界にあるんじゃなくて、そういう形式でしか僕らって外の世界を捉えられないっていう意味では、
自分の人間の心とか精神っていうものが、空間とか時間っていうものを外の世界に透明してるんじゃないかみたいな。
そういうことを考えだすんですよね。
そうなんですよね。
なんでっていうのはまた次回からちゃんと話すんですけど、そういうふうに言うと、
例えばヒュームが因果性ないからとか、空間とかも、いわゆる部屋の印象は多分持てるよ。
部屋とか自然の印象は持てるけど、空間の印象を持ててるやつは結構難しそうじゃない?
難しそうだね。
抽象概念としてさ、空間とは取られてもわかんない、つらいそうなんだけれども、
そんな感じで因果性とかも、いわゆる印象ないじゃんとかって言ってたんだけれども、
ちゃんと考えられるとそうじゃなくて、確かに現実世界の方に因果性っていう印象が持てるようなものがあるわけじゃないんだけれども、
そもそも私たちが世界を認識する、その認識するという仕組みの中に因果性とかそういうものを使って、
物事を捉える傾向とか能力があるんですよ。
経験と理性の統合
ただ、それ外にあるんじゃなくて、自分たちが認識をするという行為において、
必然的にくっついてくれるものなんですよっていうことを考えだすんだよね。
わー、すげー。はいはいはい。
そうそうそう。小さいにすると、要はヒュームの印象ないじゃんということにあるじゃん論できるようになってくる。
うんうんうんうん。
ないけど、参画としてあるじゃんってヒュームはね、習慣っていうものを使って、あるじゃん、あるというか出てくるじゃんって言ってたんだけど、
それも、ただただ、ついでみたいに出てくるんじゃなくって、むしろそういうふた書きがあるから、
われわれとは世界を見たときに、あれとこれがつながってるとか、これとこれが時間的に制御をしてるとか、
そういうことを理解できるんだと。そういうふうな認識の根底にあるのが、因果性なんだよっていうふうに、
逆にそれを大事なものとして取り戻すことができたんだよね。
わー、なるほど。すごいね。すでに入ってますよと。
そうそうそうそう。プリセットですよと。
なるほど。前、ハヤトがこのヒュームを乗り越えるには別の道具を作らなきゃいけないみたいな話をしてたけれども、
見事に作り始めてるというか、作ったんだね。
そうそうそう。だからさっきのコプレニクス展開って外から中へって発想では無理だって言ったときに、
内から外へって簡単に見えるけど、やっぱりそれってすごく当時、
当時の状況もまたこれもちょっと説明すると長くなるんですけど、
基本的には神が作った世界の方に真理があり、人間も神の被造物として真理の一部ではあるんだけれども、
やっぱりそれってあくまでも神が主体で、それが作った真理でしかないんだよね。
でも神ってやっぱりそこに、人間の中にそういう世界捉え方とか、ある意味真理を与えるような仕組み?
構造があるっていうふうに考えるっていうのは、やっぱりぶっ飛んでるんだよね。
それはそれでね。
そうそうそう。
そうすることによって、さっき言ったような、世界ってただただ続いてるだけで偶然のものなの?とか、
世の中を支える通常ってそこに行っちゃったの?っていうものを、
因果性はちゃんと人間が認識する仕組みの中にあるんだっていうふうに言うことができる。
そうすると、世の中もちゃんと続いていくっていうところに土材が持てるよねみたいな。
それとも我々人間が生きるっていうところにおいては、持てるよねっていう話になってくるんだよね。
なるほど。今日言ったけど、カントもまだ神の世界の中で生きてるとして、
もちろんその中で生きてるけれども、さっきぶっ飛んでるって言ったのは、
割ととはいえ、だいぶ人間側というか、
突飛なことは言ってるんだね。
言ってる言ってる。
ある種デカイトは、疑いけない我っていうもの、理性っていうものをまるで捉えたときに、これが全ての始まりだって言ったんだけれども、
やっぱりカントがすると、理性だけでもダメなんだよね。
やっぱり頭の中だけに全てが関係するとも言えない。
でも一方で経験っていうものだけ、外から中へって言うだけでもダメっていうときに、それもちゃんと両方大事だ。
その両方大事っていうのはなぜなら、内側から外に出るってことをしたときに、両方が必要だからだよっていうことをある種言えるようになっちゃうんですよ。
だからそのスタートラインの置きどころを、理性なの、経験なのっていうことじゃなくって、
人間の内側にある理性と経験の組み合わせでっていうふうに言い直しちゃった。
というところが、すごいざっくり言ったときの、カントが両方を統合しましたっていうような感覚なんだよね。
これはすごいね。そっかそっか。
新しい認識の枠組み
これはもう妄想の話だけど、デカルトがロックに負けたというか、もう反論できないと。
割とデカルト側の概念、考え方をロックが包み込んじゃってる感じでしたから、
譲ったよね。
もう無理だよと。デカルト側の挙動が全部ロック側の話から説明されてきちゃうから、これはもう勝てねえやみたいな感覚になったんだけれども、
このロックヒュームをもう一回包み直してる感じがするもんね、このカント。
本当にそうそうそう。
ロックが印象はないですとか、その観念作れませんとかっていうときに、
それは外の世界から中へという感想で見てるからであって、
うちから外へって言ったら別に、行けるじゃんとかって言われたら、確かにってなっちゃうよねみたいな。
確かに行っちゃうよね。
そうそうそう。そういう意味ではやっぱり、普遍してるとか、ちゃんと受け継いで広げてるってやっぱりそういうことなんですよね。
へー、はいはいはい。
これ聞いてちょっと面白いなと思って台本に入れたんですけど、このデカルトの大陸合理論って言うじゃないですか。
合理論。
カント以降の実学だと、こっちは観念論とかって言われてるんですよね。
観念の中に入ってた気がする。
これで観念ってロックとかヒュームの言葉じゃないですか。
あー、確かに。
そうなっちゃうと、結局印象みたいなものとかさ、観念ってやっぱり頭の中に思い浮かべるものだったりするから、
そういうところが主なの?とかって思われちゃうなって逆に僕も疑問に思って調べてみてたんですけど、
あくまでも別にカントはそういう観念の方が大事とか、経験論的なところに軸足を置いてとかってことはやっぱりないんですよね。
この観念論が何かっていうと、結局は僕らが知ることができる世界っていうのは、
あくまでも心の枠組みとか理性の枠組みを通して得られるだけの世界なんですよと。
思っていると、物自体って言葉はネコ兄貴も使ってくれると思うんだけれども、
世界そのものとかリンゴそのものっていうものは僕らは見れませんよと。
あくまでもそれを自分の心の仕組みを使って捉えた、まさに現れとか現象とか、
そういうものを僕らは認識して生きてるんだよっていうことを指して、観念論っていうふうに言ったりするんだよね。
なるほど、だからさっき説明したポペルニクス展開?
部分のことを観念みたいなふうに表現してるんだね。
それによって得られる世界とか、僕らが日々見ているイメージっていうものを観念として読んでるっていう話かな。
これは無理だね、確かに。観念って言われても、想像の中でって思われちゃっても仕方ないよね、これはね。
そうそうそう。どういうことかってなっちゃうんだけど。
逆に言うと、どうやって世界そのものをありのままに見るかとか、
世界の隅々まで知り通すかっていうことだとデカいわけを考えたわけなんだけど、
バカンとバカンとそこに一定の制限をちゃんとかけちゃうんだよね。
そういう意味ではやっぱり人間には限界があるとか、理性だけではダメだって言ったらブロックとかヒューモンの流れっていうのにすごく近いんですよ。
理性で全部できるとは言わないから。
でもちゃんと理性っていうものもいい役割を果たしてるとか、むしろその役割があるからこそ、僕らは世界というものを捉えられる。
っていうふうに、ちゃんと積み込んだのがまさにロハントさんとなんですよ。
すごいね。経験に一旦寄った上で、もう一回理性の方がやっぱ大事だねって言わせそうな感じがするね。
ちゃんと理性ありますって。
そうですそうです。やっぱりどっちも大事って言った時に、どうすると説中案っぽくなっちゃったりとか、どっちかになっちゃうんだけども、
そういう内から外へっていうことをやることで、そこに一本筋が通って。
よく僕らセオテザブで言うときに、古代芸者だと世界の根源と何かゲームをしてましたとか、そういうのをいろいろ言ってきたと思うんですよ。
あるいはデカイオートとかロックヒウムっていうのは、やっぱり世界をどう認識してますかとか、どうやって理解しますか、ゲームではあったんですよね。
はいはいはい。
それは理性だとか経験だとか言ってたんだけれども、ある種カントの観念論っていうのは、私たちは世界をある種捉えてると。
捉えてるんだけど、それってなんでこんなふうに捉えてるんですかねっていう、捉え方とか、そこに働いている仕組みで何だろうねっていうところに、やっぱりまたゲームを変えちゃったんだよね。
はいはいはい。
そういう意味で新しい道具ももちろん作るし、全然違和化されてくるんで、やっぱりこのカントってすごいよねとか、カントって次のステージに行ったよねっていうふうに言われがちなんです。
まだ導入だからあれだけど、確かにね。ヒウムとかロックだと、経験論で言うと、ともすると相対主義的な方に行っちゃいそうな感じがあるんだけど、そこをバシッとまとめる感じがするもんね、理性って感じだと。
そうですそうです。ヒウムは会議論じゃって、神様とか宗教とかにもやったと思うんですけど、やっぱり神の信仰もうまくいかないし、理性でやろうって言うのもダメだよねみたいなことで、結構バサバサ切っちゃったりするじゃないですか。
じゃあ結局何なのっていうところに、やっぱり答えにくいってどうしてもあるんだよね。
はいはいはいはい。
カントの理性と経験の統合
でもカントは、結局は理性と経験の共同作業ですって言えちゃうっていうところが、やっぱりまた揺り戻しというか、ちゃんとそこでバランスを取ってるって感じはあるよね。
うわー、ロックもヒウムもそれぞれすごい納得感のあるさ。そうだそうだって。
一週間前ぐらいね。
その瞬間にヒウムは一旦崩されてさ。カントがそうだそうだって。やっぱ、なるんだな人間はっていうね。
まあね、それは確かに。もちろんそれを時代の中で、数十年単位の中で一人ひとりの人生ってやってるわけですけど、
それで僕らが学ぼうと思うと、こうやって1ヶ月ごといろいろ学ぶときに、すごい揺さぶられるみたいな。
これすごいと思ったら全然違う人がいるとかっていうふうなのが出てくるわけですよね。
なので結構ね、今回カントの大掴みの何をしたのか。僕はPKの合議論統合したってどういうこと?っていうときに、
コプレニクス展開か、外から内へじゃなくて内から外へですっていう話をしたとは思うんですけど、
やっぱりね、これで終わるともう足りないというか、結局それって世の中、なんでやっぱりそんなことを考えたの?とか、
どういうふうな思考回路でとか、議論の中でそういうことを言っていたの?っていうところを見ていきたいなと思うわけですよね。
なので次回以降、まさにカントが、結論としては今日みたいな話に近づいていくんだけれども、
実際カントがどういうことを考えていったんですか?とか、どういうふうな議論をしていったんですか?っていうところを、
ちょっと1回ずつ丁寧に釣り上げながらやっていきたいと思ってますっていう感じですね。
了解。だから今日の例えが、自分で世界を作るのかみたいなさ、そこは分かんなくても、そこどころを多分哲学的にガッツリやってくれるってことはね。
そうですそうです。
ある種、内から外へっていうふうに、そこからスタートしたときに、世の中とか人間とかでどう見えるの?とか、
どういうふうな存在として捉えられるの?っていうところを見ていきたいと思ってますっていう感じですね。
わかりました。では次回ですね、このすごそうなカントの中身をより見ていくというところで、楽しみにしていきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
45:41

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