ロックとデカルトの対比
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今日もジョン・ロック第4回目ということで、やっていきたいと思います。
はい、前回ですね、人間知性論というロックの哲学の方により深く入りますよというところで、
なんでそういうことが生まれたのかとか、経験論と何かというところをお話ししたんですけれども、
正直、兄貴の反応が増えたものだし、自分の話した感覚としてもちょっと分かりにくいというか、
伝わりにくい部分も多かったかなって思うんですよね。
確かに、やっと最後の方で、なんとなく人間の価値観というか、そもそも当時の感じからこんなに変わったのかもねみたいな、そんな感じだったもんね。
人間観アップデートしたみたいなところがなんとなく分かった気がしつつも、
ロックがやってることって、現代の僕らからすると当たり前じゃんとか、それは人って平等だしとか、
350年前からするとすごいって言われても、分からんよみたいな感じになるんだろうなって思ったんだよね。
でもこの感じって結構久しぶりな気もするよね。
確かに確かに。
結構最初のうち、ソクラテスとかフラトンとかやってる時って、むしろこの感覚をどう乗り越えるかというか、この当たり前をどう乗り越えるかみたいな。
結構カロリー使ってた気もするよなって。
しかも最近結構日本の100年前ぐらいに哲学者やっていたから、わりと共感できるというかさ、確かにそういうのってあるよねっていうところで2ヶ月3ヶ月ぐらいやってきてたから、
急にまた中世とか近代西洋とかっていった時に、なんか分かるような分からんような未知な感じがあったなって思った時に、
哲学を掘り下げようと思ったんだけれども、ちょっとその前にね、一回当時の時代背景でもっと言うとキリスト教の流れみたいなところを、
ロックとかデカルトですよね。やっぱり前回デカルトを比較した時にロックのイメージが安いとかあったと思うんですけど、
そのあたりを一緒に押さえていった方がわかりやすいんじゃないかなと思って。
なるほど、そうなのね。なんか前回さ、勝手にデカルトを悪者にしちゃったけどさ、別にデカルトじゃないもんね、たぶんね、対立軸ってね。
そうなんだよね。デカルトを乗り越えたっていうのは間違いないんだよ、ロックのね。いい話乗り越えたのは間違いないんだけど、
デカルトもやっぱりいわゆるキリスト教の流れで、そのキリスト教って言っても、当時言うとカトリックがあったりプロテストントがあったり、
その中にピューリーちゃんがあったりとかって結構ややこしいんだよね、すごい。
なので、その辺を一旦整理してお伝えすることで、
なるほど、だからデカルトはこう考えてとか、逆にそれだけだともう足りないからロックはこう考えてみたいな、
そういうところの土台をちょっと一緒に見ていきたいなって思ったんですよね。
なるほどね、確かに確かに。前回割と後半は面白かった、そういうことだったのかみたいな感じはあったけれども、
割と妄想というか勝手にストーリー作ってた部分はあったもんね。
そうそうそう、僕らの中でね、デカルトは悪者で、悪者にしちゃってみたいな感じだったので、
ちょっと一回整理をした上で、もう一回人間知性論の話を次回行するっていう感じにしたいなって思っていますよと。
宗教改革の影響
はいはい、ありがたいです。
でもやっぱり、僕らからすると、いわゆるキリスト教を信仰しない日本人からすると、やっぱりその辺で分かんないじゃないですか。
あるいは余計分かんないみたいなね。
そうそうそうそう。でもあるんで、ちょっと一回話したいなっていうところと、
それに対してデカルトにとっての神様みたいなものとか、
ブロックにとっての神様みたいなものも、やっぱり捉え方が結構違うんだよね。
なるほど、はいはい。
その辺を今回お伝えしていきたいと思っておりますよ、というところなんですけど。
もちろんキリスト教の歴史とかって言っても膨大になっちゃうんで、あくまでも開通までなんだけれども、
前お話ししたエッサート地点で出てくる有名人なんですけど、
これはルターさんです。
ルターさん、覚えてます?なんか世界史とかでやったなみたいな。
あーそうね、宗教改革の。
そうそう、まさにその人です。
この人は時は1517年って感じなんですけど、ロックが生まれる約100年前ですね。
はいはいはい。
それにまさに宗教改革っていうので、当時の主流はカトリップって、キリスト教の中でもカトリップっていう宗派が主流なわけだ。
むしろそれがメインって感じなんですよね。
それが結構その教会が腐敗してとか、あいつらお金貯め込んでるじゃねえかみたいな話とか。
あとこれも歴史の教科書に書いてるんですけれども、いわゆる職優状とかあと免財布ですよね。
はいはいはい。
お金払ったら死後の世界ではハッピーになれるよみたいな、救われるよみたいな。
っていうので、売りさばいて売りさばいてめちゃめちゃ儲けてんじゃねえかみたいな、そういうことがあったわけですよね。
そこに対して当然不満がキリスト教の中でも溜まっていた中で、ルターっていう人が95科門の正門という有名なやつを張り出して、これおかしいよと。
もっと宗教的なとかキリスト教的なことってもっといろいろ良くできるよねっていうことを言い出して、そこにそうだそうだって言って人が集まっていくんだよね。
この辺の流れはぜひ古典ラジオね。
ああそうだね、詳しいよね。
もはや回し者なのかっていう感じだけど、詳しくやってるから、面白い。ルターもカトリックの中の人だったみたいだもんね。
そうそうそう。
外からじゃなくて、中の人でちゃんとキリスト教を学ぶ人たちがいて、その中から出てきたみたいなね。そういうの面白いよねみたいなね。
真面目にやろうと思うほどやっぱり違うじゃんってなって、でルター派みたいなのが出てくるんだよね。
しかもあれだもんね、自分としてはこうじゃないでしょうかーみたいな感じで、幸福派みたいな感じになったのに、周りの人が盛り上がっちゃって、まつ毛上げられたみたいなね。
そこまでは僕もちゃんと知らなかったんだけど、ルターさんが別に。
まつ毛っていう感じじゃなくて、ルターさんすげー良いこと言ってくれたーって。
そしてワイワイワイワイワイって。政府とかも関連でワイワイみたいな。
めっちゃまつ毛上げられてるみたいな。こんなつもりじゃなかったのにみたいなね。
もっと真面目に議論したかっただけなのにみたいな。そういう面白いイメージがある。
そのぐらいで当時の勢いというか、止まってたんだろうなって思うんだよね。
そこからは民衆だけじゃなくて、両種というよりは偉い人たちとかも巻き込んで、
いや俺たちはやっぱりカトリックじゃねーみたいな感じで、プロテスタントって抗議する人っていう意味合いらしいんだけれども、
そういう派閥に分かれていくんだよね。
なんとなくカトリックとプロテスタントが分かれましたとか言うと、
隅分けというかさ、別の宗派ができたんだね。
日本で言うと浄土宗と浄土神宗とかさ、そんな感じで分かれたのかなぐらいのイメージだったんだけれども、
多分みなさんもそんなイメージだと思うんだけど、
当時って宗教の違いっていうのがありとあらゆる生活全般の違いにわたってたらしいんだよね。
どういうことかっていうと、たとえば普段買い物しますとかっていうのも、
カトリックの人はここで買い物する、プロテスタントの人はここで買い物するみたいな感じで、
同じ場所に2つの社会があるみたいな状況だったらしいんですよ。
そうなんだ。同じじゃんって思っちゃうよね。
同じキリスト教じゃんって思うんだけど、やっぱりそうじゃなくて、
教義の中でも、たとえば儀式にパンだけを使うか、パンとぶどう酒を両方使うかとかで、
めちゃめちゃ揉めますみたいな。
なるほど。
でもそれがもう許せない。あいつらぶどう酒なんか使ってやがるとか、
あいつらパンしか使ってないの何も分かってねえなとかっていうのでもいがみ合うみたいな、
外から聞くとそんな細かいことだよって思うんだけれども、
やっぱり信仰とか宗教っていう意味で言うと、それがものすごく大きな違いになっていくんだよね。
あと何ならさっき言ってた政治というかね、争いじゃないけども、違いみたいなところになっちゃうんだね。
それで言うと、カトリックの方が主流派で権力を持っているんだけれども、
それを良しとしない人たちもいるわけだよね。やっぱり自分たちがもっと実権握りたいとか、
もっと自分たちが好きなようにやっぱりしたいっていう時に、
プロテスタントってある種教会の権威を否定するような動きだから、
それにある種自分も乗っかって、うまいことやってやろうってやっぱり出てくるわけなんだよね。
そもそもルターは、例えば職友情とかそういうのが、
本来のキリスト教ってそうでしたっけ?みたいな話をただしてるのに、
周りの領主とかは、「そうだそうだ、この勢いに乗って潰しちまえ!」みたいな。
違いが変に一致しちゃうというかね。
そうなんだよね。乗っかっちゃうみたいな。
そういうのがあって、それが大騒動になって、
いわゆる宗教戦争っていうものがドイツで、
それこそ本当に100年直後かな、いろんな戦争が続けられますよっていうのは流れなんだよね。
面白いね。それで言うと、ロックが宗教改革から100年ぐらいに生まれたんですけども、
ルターはそこで、はい、宗教改革終了やって、
終了みたいな感じじゃなくて、結構王を引いてたんだね、長い間。
ずっと王を引いてて、やっぱり小ゼリヤがあったりとか、一回潰されたけどまた立ち上がったりとか、
そういうことが延々と繰り返されてるような時代でしたと。
イギリス国教会とピューリタン
これもドイツとは大陸側の話なんだけれども、
イギリスではっていう話で、
いわゆる王様自身が、ヘンリー八世っていう人がいて、
自分の離婚問題っていうところで、カトリックは離婚を認めないんですけど、
離婚したいわって言って、自分が宗教的なトップだっていう仕組みの宗教を作っちゃうんだよね。
宗教というか宗派を作っちゃうんだよね。
これがイギリス国教会と言われてるやつなんですけど、
本来カトリックでは王様じゃなくて、いわゆる教皇だよね、ローマ教皇とか。
そういう人が宗教的なトップなんだけれども、
その権威を否定して、自分が宗教的なトップでもあるというふうに言っちゃうんだよね。
なかなか無茶をやったねって話ですね。
でもそれもある種プロテスタント一派でもあるんだけど、
っていうふうにカトリックからいわゆる離反していきますと。
その流れの中で、かつこれがややこしいんだけど、
ロックはもともとキリスト教徒でピューリダンでした、聖教徒でしたって話をしたと思うんですよ。
このピューリダンっていうのもイギリスの流れなんだけれども、
これはイギリス国教会ではないプロテスタントのことらしいんだよね。
へー、そうなんだ。
つまりカトリックかプロテスタントかっていうのがあって、
プロテスタントの中にもイギリス国教会かそうではないかっていうものがありました。
わー、そうなんだ。はいはいはい。
なので、同じイギリスのキリスト教徒なんだけど、
このイギリス国教会からすると、ピューリダンって人たちはファルシュイタンというか、
国教徒じゃねえじゃんっていう意味で非国教徒なんだよね。
へー、はいはい。
そう。で、いわゆる差別の対象になったりとか、
結構後の時代までピューリダンの人は、いわゆる国の仕事ができませんみたいな。
宗教の自由はあるんだけど、特定の公務員的な仕事はできませんみたいな。
そういうふうなものが法律で決まってたぐらい、結構違ってたんだよね。
わー、なるほど。すごいね。
王様の無茶って言ったけれども、権力やっぱすごいんだね。
いや、そうなんだ。無茶を通せるんだよ。
で、同じキリスト教徒とは言えないぐらい、差別する意識も強かったし、
どの宗派に生まれるかとか、どの宗派を選ぶかによって、
特に宗教戦争あたりとか、イギリスもいろんな革命というか、政権の後退があったときに、
自分の国の地位とか、そもそも生きやすさ、文字体がガラッと変わり合ってる状況があったんだよね。
わー、だから全然イメージなかったけれども。
ロックはイギリスでピューリタンとすると、マイノリティなのかな?数は知らないけれども。
主流派っていう感じかな。数としては結構いるんだけど、主流派ではないっていう感じかな。
権力からいじめられるほうの。
そうなんだけど、第一回でお伝えした通り、なんだかんだその権力者と繋がってとか、
一回ピューリタンが政権を取ったときもあるんだけれども、そのときはわりと中心人物近くってみたいな、
でもそれが人が没落すると自分もちょっと身の平を感じるとかっていう風に、
宗教的なところと政治家のところが絡まり合って、すごい翻弄されたっていうのがロックなんだよね。
なるほど。
なので、僕も第一回つくるときそこまで踏み込めなかったんだけれども、
デカルトとロックの共通点
宗教的なカトリック・プロテスタントとか国教とピューリタンっていうふうな区別がある中で、
やっぱり政治と宗教がごちゃごちゃになってこんな人っていうのはこの時代なんですよ、という話なんだけど。
こういった状況を前提とした上で、今回も改めてデカルトとロックの話を比較していきたいんだけど、
いわゆる定説として本で読んだっていうよりは、ちょっと自分なりに考えたことでもあるので、
若干話半分に、これが事実なんだっていうふうに思い過ぎずに聞いていただきたいんですけれども。
デカルトとロックが二人に共通することとしてなんですけど、
どっちも哲学者である前提で、やっぱりキリスト教徒なんだよね。
デカルトはカトリックの人で、ロックはピューリタンの人ですよ。
学校とか家庭とかも含めて、そういう価値観の中で座っていくんだよね。
ただどっちも、いわゆる単純に信仰しますとか、神様全てですとかだけじゃなくて、
ちゃんと理性とか知性っていうものを用いて世の中を捉えようとするみたいな、
そういう発想とか行為が持っていますっていうところが共通していますと。
それぞれの価値観のもとに、それを俯瞰する能力というかスキルという、
そういう情熱はあった人たちって感じ?
デカルトの神の存在証明
そうだね。情熱はあったし、やっぱり宗教に対するとはいえ健全な批判意識というか、
やっぱりカトリックの価値観は学んでるけど、ちょっとやっぱり現代に過ごわないよねとか、
やっぱり言ってる人たちが意外とちゃんと仕事してないよねとかっていうふうなことが見聞きしてるわけなんだよね。
なるほどね。ある意味政治利用だったりとか、いろんなものに利用されてるよねみたいなところは感じてるみたいな。
そうそうそうそう。
神っていうものは前提としながらも、全てなんだっけっていうことを考えていくというのをやっていきますと。
デカルトに関しては、デカルト会の時にもちょっとお伝えしたんですけれども、
いわゆる我を思うゆえに我ありという補儀徒だよね。そういうものから出発して、神の存在論的証明というのを行っていますと。
詳細はまたデカルト会でよかったら聞いていただければという感じなんですけれども、
ここで気をつけたいのは、このデカルトが証明した神って言うじゃないですか、神の存在証明って言った時の神と、
このカトリックにおける、いわゆるキリストとしての神って、微妙に違うんだよね。
あー、そういう話だったっけか。
当時はそこまで踏み込めなかったかもしれないんだけど、いわゆるデカルトが理性を持って証明した神というものの存在と、
宗教的に聖書というものが受け継げられて、存在しているよと言われている神様って、微妙にずれてるんですよと。
なので、デカルトがやったのは、いわゆる現実的にさ、いろんな主婦が分かれていて、
キリストって罪は一つでありながらも、主婦は分裂しているという状況があるわけじゃないですか。
それを統合しようとかってことじゃなくて、単純に哲学的な真理とか、その哲学的な発想から至ることができる神様っていうものを見出していくんだよね。
はいはいはい。
なので、キリストがいたとは言ってなくて、神がいたっていうことを証明しましたって話ですと。
なるほどなるほど。だからちょっと抽象的なんだね、神の存在もね。デカルトの話の中では。
だから、ここって多分すごく分かりにくいというか、神は神じゃんって感じなんだけど、
宗教的な神と哲学的な神っていうのがデカルトとは区別されてるんだよね。
それができるっていうのは、やっぱりよほどすごいというか、哲学者だなーって感じなんだね、その辺が。
まあね、でもそんなこと言うからデカルトも結構異端扱いされちゃってたりされるみたいなこともあったらしいんですけどね。
でもやっぱり、いわゆる誰しも人間というのは理性というのを持っていて、それによって真理とかその真理としての神様?
真理とかその真理としての神様を見出していけるっていう点では平等だよね、みたいな。
そういうふうなことを切り拓いたという意味では先進的ではあるんですけれども。
とは言えね、このデカルトが言う神様ってやっぱり唯一絶対というか、唯一無二の神様とか真理なんだよね。
だからまずその明確な正しさがあるっていう感じでいくと、哲学的にはやっぱり誰しも理性を使えば一個の真実にたどり着けるっていうのはすごい理想的だしいいんだけど、
さっき言った現実世界、いろんな宗教が対立していて、ごちゃごちゃしてるじゃんっていうところに、理性を使って誰でも真理にたどり着けるという思想が入ってくるとどうなるかっていうと、
それがちょっと僕の仮定さか想像なんだけど、要は、なるほど、そういう風に理性を使って取り付ける真理があるんだとしたら、まさに自分たちこそが真理であるっていうふうな、そういう発想に繋がっていくよね。
そうだね、正義と正義のぶつかり合いが始まりそうな気がするね。
そうそうそうそう。より強い正義はうちだとやっぱりなっちゃって、逆に真理を知らない、わかんないけれども、例えばポトリックからしたときにプロテスタントの人たちがいるけれども、やつらはある種真理を知らない無知な相手なんだと。
そうだね、間違ってるんだもんね。
そうそうそうそう。それを立たさねばならぬみたいな、そういう風な発想にやっぱり繋がっていくんじゃないかってことなんだよね。
わー、だからバカにしてるとかじゃなくて、本気であの人たちかわいそうとか、あの人たちを強制しなきゃっていう風に本気で思う可能性が出てくるね、確かに。
そうそうそうそう。し、おそらく実際そういうのが活動として出てくるのがイエズス会って、日本にも来たザビレさんいるじゃないですか。
はいはいはいはい。
ザビレさん。それがイエズス会っていうところの所属なんだけれども、それはカトリックの中から出てきたカトリックをもっとより立たさねばならぬとか、確かに悪いところもあるから受け入れてより良いものにすればならぬっていう人たちなんだよね。
はいはいはいはい。
でも逆にそういう人たちがいろんな所に行って、侵略戦争とか起こしちゃったりするわけじゃない?
実際やってるの?
実際にやってる、うん。
なんか日本もね、割とそれでみたいな話は聞いたことあるけど。
うんうんうんうん。なんかね、やっぱりある種、武力を持ってでもカトリック、キリスト教をやっぱり広めればならぬっていう風な。
あー、じゃあ偵察とかそういうレベルじゃなくて、もう自分たちでやっちゃうみたいな。
そうそうそうそう。なので、やっぱりイエズス会っていう人たちが、まさに出どころは正義感とか自分たちの正しさを伝えればならぬっていう善なんだよね。
うーん。
当然なんだけど、そこに唯一の真理があって、それを知っている人たちは正しくて、知らない人は無知だとかっていうところがきついちゃうと、やっぱり結構暴力的になっちゃいますよね。
なのでやっぱりこういう世界観からすると、やっぱりね、いろんな宗教があるときに相手の宗派とか認めようっていう発作はなかなか起きにくいじゃないですか。
ロックの平等な神の概念
うーん。
で、ちょっとこれは別にデカルトが悪いとかデカルトのせいでそうなったとはもちろん書いてないし、そういうのを読んだわけでもないんだけれども、
やっぱり時代の流れとかを考えたら、そういう風な発想で結構対立したっていうのもあったんじゃないかなって思ったんですよね。
うーん。ありそうだね、それは。はいはいはい。
で、実際政治的にはっていう話でいくと、あるレストファリア条約っていうものがあって、
これが1600円半ばぐらい、それこそデカルトが死ぬ直前ぐらいらしいんだけれども、
その条約で初めてプロテスタントの信仰も一応条約として認められると。
あー、はいはいはい。
だから国家レベルではそういうプロテスタントがあってもいいよっていう話はなるんだけれども、
それとあくまでも国人というよりは国が認めたから、その国民がプロテスタントでもOKっていう話なんだよね。
うんうんうん。
逆に言うと、その国で生まれた人が、やっぱり私はカトリックになりたいとかって言っても、自由にできる感じはなかったです。
あー、なるほどなるほど。
だから、どっちでもいいよではないってことなんだね。
そう、どっちでもいいよではない。
多様性ではないってことね。
そう、多様性ではない。それ分けましたよね。一応存在してもいいよっていうことを認めたみたいな感じなんだよね。
はいはいはい。
なので、今ちょっとデカルトの話をしてたんだけれども、
デカルトは確かに人間の理性とか知性っていうのを重視して、それを広めたっていう意味でやっぱりすごいことなんだけれども、
ある人の現実のいざこざを見たときに、それを乗り越えるような人間感を提示するとかアップデートするみたいな、
そういうところがなかなか至ってなかったんだなというふうに、この宗教的な話と絡めるとやっぱ思うんだよね。
いやー、なるほど。確かに、前回デカルトを悪者にしたけれども、
大陸的な理性があればというか、理性を使って真実にたどり着いていくのだみたいなのが、
いまいちどういう感覚なのかなっていうのがピンとこない中で、勝手に言われるものにしてたんだけれども、
今日の話を聞くと、ちょっと納得だよね。それぞれのやっぱり正義になっちゃうみたいなところで、
それは決して悪気を持っているものではないみたいなところがまた、今の感覚からすると厄介だなと思うみたいなね。
そうだねそうだね。理想的には一旦宗教的な争いとかを置いといて、
みんな理性を使って正しい神をもう一回作ろうとか見出そうとかってことも、たぶん言えなくはないんだけれども、
やっぱりそれは無理だよね。今信じている人にその真実を信じているのを一見してくださいってやっぱり無理じゃない。
いやー難しいよね。エスペラント語を使いましょうみたいな話。
そうね。日本語とか英語とか全部捨ててね。
そうそうそうそう。話はわかるけどみたいな、いろんな現実的問題があるでしょうみたいなね。
ある種の理想を掲げてはいるんだけど、現実はちょっと遠いみたいな感じがデカルトにはあったのかなというふうに、この話だけで言うとね。
あーなるほど。デカルトはどっちの立場か知らんけれども、さっき言ったどれが正義とかにはしたくないというか、
もうちょっとフラットな感覚を持っていたはずだっていうね。むしろね。
あーそっか。デカルトごめんなさいだね。
そうね。もちろん完全に我々はできないんだけれども、そういった対比をある種したくなりますと。
その対比で言うとロックは現実においてちゃんと影響を与えたとか、そこにインパクトを与えたからこそ、前回全然か兄貴がおののいたように、やっぱりすげえってなるなって感じなんだけれども。
このデカルトに比べてロックはどうかっていうと、この文脈で言うとですね、第2回、政治の時とかにお伝えした通り、ロックの人間観でいくと、
個人の人ってまず平等っていうのがあって、個人のプロパティっていうと思うんですけど、所有物、例えば命とか財産とかも含むんだけれども、
個人の領域を持ってるねっていうところからスタートしていくんですよね。
はいはい。今さらってたけどね、みんな平等であってっていうのは結構ラディカルなっていうのは。
そうだね、大きな前提だね、これは。
本来はそうではなかった世界なんだけれども、デカルトが理性の平等みたいなものを言ったのに比べると、ロックは神っていうものにおいて人類は平等であると。
これがすごいプロテスタント的な発想らしいんだよね、やっぱり。
要は神がいて、王様とか教会の神に近い人がいて、それ以外の人間がいるっていうことじゃなくて、
神の前には王様であれ奴隷があるかわかんないけれども、いわゆる普通の人であれ、基本的には平等である。
同じように神様の前にいるっていうふうな発想をモットーにしていますと。
ああ、そっかそっかそっか。確かにあれだもんね、カトリックは神様がいて、
確か教会があって、教会が天国への扉を握ってるというか、鍵を持ってるみたいな話で、神様と直接っていうよりは教会とみたいな感じだったね、確か。
確か宗教改革を経てプロテスタントだと、神様と私みたいな、みんなが聖書を読めるようになったから、
宗教改革を通じて、今まである意味その社外秘事項だった聖書が、教会でしか勉強できなかったものが、
みんな見るようになったから、聖書を持って神様と私みたいな、一体性の関係が築けるようになったみたいなのは聞いたかな?
そうそうそうそう。まさにその発想を現実社会にも落とし込んだというのが、ロックの発想なんだろうね。
へー、ほいほいほい。
だからプロテスタントの中でいくと、そうだよねって言って、合意が取りやすいような発想ではあったでしょう。
ほうほうほうほう。
そこに平等というだけじゃなくて、所有権というものを立てるのがやっぱりロックのすごいところで、
それが神様に与えられた知性によって、人は個人の領域を持っていいんだよ、という風になっていくんだよね。
はいはいはいはい。
ロックの神概念
そこの部分というのは、第二回を打たせており、他の人とか、あるいは政府みたいなものを犯したらダメだよと。
個人の領域っていうものがちゃんと守らなきゃいけないという話をするんだけれども、
その中には実は神に対する義務っていうものも個人の領域にあるっていう風に考えられてるんですよ。
ほうほうほう。
これがさっき言った神と個人が直接繋がってるっていう話なんだけれども、
神に対する義務っていうのは人それぞれあるんだよっていう風に考えていくんだよね、ロックは。
へー、そうなの?それぞれ?
うん、それぞれ。
例えば僕が神に対して負っている義務と、兄貴が神に対して負っている義務は違いますと。
だからこそ、例えば世の中での仕事が違うとか、立場が違うとかってことが起きるんだけど、
それぞれの立場とか仕事も、ちゃんとそれを果たすことで神様に義務を果たしてるんだ、貢献してるんだとかっていう風な発想になっていくんだよね。
はいはいはいはい。
そうじゃないと、国の仕事をしてる人は偉いけど、農業の人は偉くないとかって、そっちはそっちはまた差別になっていくんじゃない?
まあ、だしそれが当たり前だったよね、たぶん当時のあの城ね。
当時で言うとそうそうそう。やっぱそれも含めて平等だっていう風なことを考えていく。
だからそういう意味で確かにラディカルなんですよね。
いや、そうだね。だいぶいろいろ崩してる感じがするね。
そうなんです。なのでやっぱりロックはそういう風に考えるから、
あくまでもデカルトっていうのが哲学的な神、抽象的な神というものと理性というものをつなげていくっていうことをしたんだけれども、
あくまでもロックは現実の今信仰されているカトリックとかプロテスタンとかピュリタンという中での宗派における神様と人間との関係っていうものを、
それをちゃんと知性で説明しようっていう風にしたんだよね。
だからさっき言った通り、同じ神様とのつながりではあるんだけど、
つながってる先の神様が違うっていうところがたぶんめちゃめちゃ大きくって。
ここが僕自身もあんまちゃんとわかってなかったりとか、あんまり別にそういう風に説明してる本があるわけじゃないんだけれども、
それぞれの話を学んでいくと、やっぱりそれの違いが結構大きな主張の違いだったりとか、
どこまで現実世界に影響を持ったかっていう違いになってるんじゃないかってやっぱり思えちゃうんだよねっていうふうに考えましたと。
デカルトと抽象的な神
恐ろしいね。
これもどう解釈していいかけど、
さっきのデカルト的な理性を持って、
自分の正義になっちゃうかな、むしろそれを突き詰めた正義になっちゃうみたいな話だと思うんだけど、
その話から、その感覚から言うと、
このロックがやってることはピューニタンだよねっていう文脈の中で、
めちゃくちゃ強固な正義を作っちゃって、
他の正義が圧倒的に対抗できなくなっちゃったんだなーみたいな、
パワーバランスめっちゃ崩れそうだなーみたいな、崩れたんだろうなーっていう気がするね。
そうだねそうだね。
たぶん今兄貴の話で言うことを僕らに言うと、
みんな違ってみんないいっていうことを、違ってる側が言ったときに、
他の人たちはやっぱり認めざるを得ないというか、
ある種自分たちピューニタンっていうふうな違いがあるんだけど、それでいいでしょとか、むしろそれっていい価値観だよねっていうことを、
逆に打ち返しているような感覚がするんだよね。
認めたくはないけど確かにそうかもって思っちゃうし、
さっき言った国単位みたいな話で言うと、
なんか割と民衆めっちゃ同調してるんだけど、そっちになびいてるんだけど、みたいな感じになりそうだよね。
ある種抑えきれないとか認めざるを得ないっていう話もあったと思うし、
かつここにちょっと前回振り返った経験論という立場を話していくと、
これまた次回以降ちゃんと話すんですけど、
生まれた時に作詞であると、そこに経験というものを積んでいって、いろいろと学んでいくんだよって話をしたと思うんですけど、
さっき言った通り、神に対する義務っていうもの自体も肯定的に生きている中で経験して培っていくんですよね。
そういうんだ、なるほど。
今まで天命というか、生まれた時から決まってるわけじゃないんだ、それは。
じゃない、そう。
デカルトはそうなんですよ。神の義務って生まれた時からあるよねとか、
生まれた時からカトリックだよねとか、プロテスタンだよねとかって多分当時あったと思うんですけど、
そうじゃなくて、そうじゃなくて、自分の神に対する義務を果たすために一番相応しい宗派を選ぶとか、
なんなら別に自分で作るとかも全然許容できちゃうよねっていうのは、どんな剥がし方をロックはするんだよね。
自分で作っていいとは言わないんだけど、普通に読んでいくと、それもアリじゃんって思えてしまう。
うんうんうんうん。
っていう風になります。
それだと何でもアリになっちゃうし、結局やっぱり無法者になってしまうので、
信仰の多様性と選択
ロックは制限として、ある種自分の心の内で完全に納得できるとか、
信じたものをある種自分の宗教とせよみたいな風に言うんだよね。
わー、だからそこの適当な個人主義、そこに対するアラートもちゃんと書いてるんだ。
うんうんうん。
勝手に俺が隅田とかって言うのは、本当に確信してるんじゃないけど、
何百年って歴史のあるカトリックとかプロデューサーとかの流れの中で、本当にそれを確信できますかってことはちゃんと問うんだよね。
はいはいはい、まあそうだよね。そこは確認作業が必要だよねっていうね。
そうそうそうそう。
ただ逆にそれを本当に確信してるんだったら、もうそれもやむなしと言わざるを得ない。
なぜなら経験論として、生まれた後に作っていくものだよっていう風に言っちゃったから。
なるほどなるほど、自分の経験だったり感覚を元に本当にそう思ったんだったら仕方ないよねっていうね。
そうそうそうそう。
まあこの言葉めっちゃ重いけどね。
重い、重いよね。
あんまりいなさそうだけどね。
俺が神だって言ってる人のうち、何人いるんだって。
この辺りはロックも苦肉の策というか、やっぱりそういう風にバランスを取らなきゃいけなかったって話だとは思うんだけれども。
でもやっぱりさっきのデカウルトの、いわゆる哲学的な神とかっていう捉え方からすると結構違いって明らかだと思うんだよね。
まあそうだね。
とはいえやっぱりデカウルトの凄さも際立つよね、こうやって。
まあそうだね。
際立つというか理解できるというか。
やっぱりロックも生まれたよね、イリースでピューニタンとして生まれた中で、ここまでフラットな、ある意味プロテスタント的な価値観を持ちながらも、
もちろんそれを補強するような内容ではあるとは思うんだけれども、それだけじゃなくて、
ちゃんと宗教から離れた世界なんていうのを、哲学的なさ、ちゃんと俯瞰からフラットに考えようとしてる。
それをちゃんと成し遂げてるんだなって感じがするし、さっきのデカウルトの話も聞いて思ったけど、
デカウルトもデカウルトで、カトニックでみたいなさ、その中で上手く、上手くというか、その中でちゃんとフラットに。
ただそっちを補強するような感じではあるけれどもみたいな。
ところがさ、まさにさっきロックが言った、自分が本当にそう確信するみたいなレベルにやっぱり達してる人の重みがあるよね、どっちも。
そうだね、それは絶対あると思う。
今の兄貴の話を聞いて思ったんだけれども、やっぱりプルビタンとして、なんで人々ってオアジキリストっていう神を信じながらも、
やっぱりこんだけ分かれて争ってるんだろうとか、宗派っていうのがやっぱり分かれちゃうんで、そっちにどうしても問題意識が向いちゃうと思うんだよね。
だからそれはある種理論づけるというか、その違いっていうものがあるのは、こういうふうにまさに人が白紙で生まれてくるからだよねとか、経験で培っていくからだよねっていうふうに言っていくんだと思うんだよね。
で、逆にデカルタの場合はカトリックってより主流派の中にいるから、より正しい神の在り方はとか、より人間としてある種信頼できる神の存在の仕方とはっていう、そっちをアップデートしに行ったのかなって思うと、
ちょっとこれもね、本当とか分かんないけれども、なんでそういうふうに方向性、思考が向いてるのかっていうのもイメージしやすくなるのかなって思ったんだよね。
そうだね。
なので、前回、今回に向けてある種ロックを引き立てるためにデカルタをちょっと悪者っぽくしたけれども、やっぱりどっちもやらざるを得ない理由もあっただろうし、
そこに対して自分としてなんとか神様だったりとか、その現実的ないろんな違和感とかズレだよね、っていうものをちゃんと説明したいとか、ちゃんと自分の中で腹を刺させたい言葉として表現したいというものがあったんだと思うんだよね。
そういうふうな形で、神様と哲学ってこの時代、やっぱり切っておきなさいんですけれども。
ロックの、いわゆる経験する中で自分で宗教とか選べるよねっていう話の発想なんだけれども、これも別に突然ポッと出てきたわけじゃなくて、
この根本のところにロックが、人間ってこういうものだよねとか、人間の知性、その人間知性の話になっていくんだけれども、人間の物事を捉える仕方ってこういうふうな仕組みだよねっていうところが出てきてる話なんですよ。
それをちょっと次回以降またちゃんと話していくんだけれども、一個より根本的なところを言うと、ある種ロックって人間の知性とか理性、これには限界っていうものがあって、間違う可能性があるんだっていうことをちゃんと主張してるんですよ。
これもう当たり前じゃん。人間ってそんな正しいものじゃないじゃんって話はあるとは思うんだけれども、やっぱりデカルトはそうじゃないよ。正しく理性を使えば、世界ってもう全部知ることができるっていうふうに当然デカルトは主張してるわけで。
それ以前の世界に関しては、人間はわからんけど神はもう正しい。神は絶対だから、その神に近い人間もある種の絶対な属性を持ってるっていうふうに考えられてたんだよね。
そういうふうな時代においてロックは、いやいや人間には限界があると言ったっていうところが、これもラディカルな違いなんだよね。
わー面白そうはね。でもこれもまた主流派に属するデカルトの価値観と、いわゆる非主流派であるプロテスタント側からすると、
いわゆる反対性と言わないまでも、そっちから見た時に、いやいやと国のトップの人たちとかお偉いさん方が本当にデカルトの理性っていうものをちゃんと持ってるのであれば、
もっとちゃんと物事を判断して、もっとちゃんと宗教的にもちゃんとしてるはずだっていう現実を感じちゃってるんだろうね。
それはそうだと思う。でもそれで実が良く思ってる立場からすると、単純に相手には相手の事情があるってなんでわかんないんだよって思っちゃうもんね。
カサリックは別にいいけど、プリタンである我々のことをちゃんと汲み取ってくれよとか、そういうことを思った時に当時はプリタンだから仕事つけませんとか、ダメですみたいなふうにバシッとしただけでなっちゃうとすると、やっぱそれっておかしいよねってどうしてもなるんだよね。
まあそうだよね。じゃあどうしようってなるよね。
そこまでして理論武装をするという時に、ロックは人間と間違う可能性があると。それを正面から見せる時に初めて自分とは違う宗教の人とか、自分と違う思想を持ってる人、あるいはもしかしたら自分と違う神を信じてる人とかに対しても、それはそれで正しい可能性がある。
自分が間違ってる可能性があると思って初めて相手の正しさを想像できるじゃないですか。っていうふうに、ある種現代からすると当たり前の感覚かもしれないんだけれども、さっき言ったように神は正しいとか、人間の理性は正しい、真理だって。
これをちゃんと主張したロックっていうところがすごさっていうものが見えてくるんじゃないかって思うんだよね。
まあそうだね。だから多分、当時の人みんなこれを言いたいと思ってたんだろうけど、言えないと思ってたっていうかね。ロックがこれを言語化した時のそれだ感が半端なかったんだろうね。
それだよ!みたいな。
そう。流行語大賞みたいなのやってくるんだったんだよね。人間質疑論みたいな。そんなに当時から読まれたかわかんない。急にもう。
確かに読んで理解できるのかっていうね。難易度は知らんけど。
でもやっぱり当時からロックと言えば、当時の第一流の知識人というか、そういうふうな人ではあったから、やっぱりその時代に受け入れたっていうのは間違いないんだよね。
ああ、そっかそっか。あの人こんな本出したんだって、こんなこと言ってるんだって、みたいなのがバーっと話題になっちゃうんだね。
なので、やっぱりちょっと今回で寄り道する形で、キリスト教の流れっていうのも踏まえつつ、神とデカルトの理性みたいな話とか、その神とロックの考え方っていうところをお伝えしたんだけれども、
デカルトとロックの神の違い
この土台があると、確かにそれぞれデカルトロックの立場によって発想が違うよねとか、行き着く先の神様ってのは違うよねっていうところもイメージ湧いてくるんじゃないかと思うんですよね。
いやー、そうだね。前回まではここの違い、今の感覚とロックの感覚とデカルトの感覚っていうのは全くわかんない中で、なんとなくピンとこなかった部分があったんだなーっていうのをちょっと感じるね。
だからやっぱり改めて、近代日本、現代に近い日本人やるときと、やっぱりこういった西洋の哲学やるときの難しさというか、神の関係だよね。
これもさっき言った通り、キリストの神とデカルトの神は違うんだとかっていうのも、僕も今違うって言ってるけど、どのぐらい違うのかとかって、やっぱり聖人には正直わかってないわけよ。
っていうふうなところからでも理解していかないとなかなか難しいんだなっていうのは、ちょっと改めて、さっき兄貴も言ってくれたけど、久々にこの感覚を味わってる気がするよね。
いやー、そうだねー。
今回話したことで、改めてロックがなんで人間ってものを改めて捉え直したんだろうとか、さっき言った通り、人間の知性には限界があるって言ったときに、どんなふうに考えていったんだろうっていうところのテーマというか問題がちょっとハイレースがあるかなと思うので。
はいはい、まあそうだよね。ある意味、ここまで話してきたロックが、哲学的にこういう話をしてから今の話に至ったのだっていう、深掘りしていくんだよね、これからね。
そうですそうです。そこから入ってくる。
そういう意味ではね、掘るスタート地点分かんないみたいな話だったね。
そうなんだよね。まだ地表に見えている神様と人間の関係とかって話してるんだけど、その奥にはそもそも人間の知るとは何ぞやとか、この世界とは何ぞやっていうところが土台になってるっていう、まあまあそれはわからんよなって話なんだよね。
危ない危ない。あとそこ知らずにね、いきなり掘った先に到達しても、これ何に使う?みたいな話になっちゃうんだよね。
なんか出てきたけど、箱出てきたけど何これ?みたいな。
ダイヤモンドっていうものを見つけたんだけど、これ何だっけ?みたいなね。価値わかってないみたいな。
ちょっと急遽一回追加台本的にはしちゃったんですけれども、今回踏まえて改めて次回ですね、より人間知性論というものを取り上げて、
踏まえてロックの哲学っていうものをちゃんとまた次回以降入り込んでいきたいと思ってますので、ぜひ一緒に楽しんでもらえれば嬉しいなと思っております。
はい、わかりました。では次回ですね、ロックの哲学と真髄の方ですね、より深掘っていきたいと思います。では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。