カントの哲学と理性の内面
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回関東の2回目ということで、関東の哲学に入っていくというところでした。
はい。前回ですね、デカルトロック9名みたいな流れを踏まえて、関東は何が違うのとか、どういうことをやったのっていうね、
外から中に見るものを取り入れるんじゃなくて、むしろ人間の内側、理性とか心っていうものが世の中を捉える枠組みを持ってるんだ、みたいな。
そういうのをポペルニクス的展開って言うんだよっていうのをお伝えしたと思うんですよね。
はい。前回は本当にこうスマッと全体を見たという感じだったので、もう一回関東の哲学にちょっと入り込んでいくという。
それより理解していこうというのを、今回関東編リベンジということをやっていきたいと思っております。という感じなんですよね。
はいはい。まあリベンジとは言うものの、こちらも忘れてるので、初めての気持ちでぜひお願いしたいですね。
そうですね。もう3年前とかなんで、ちょっとやっていくんですけど。
関東のですね、もちろんいろんな本を書いたりとか出したりするんですけれども、
3つの批判書、批判っていわゆる批判するっていう、何かを言うみたいなやつなんですけど、
そういう本っていうのがあって、それぞれが純粋理性批判とか、あと実践理性批判、判断力批判ってこの3つがあるんですよね。
うーん、そうなんだ。判断力批判って以前はやらなかったかな?
以前はやらなかった。そこまで取り扱うことができなかったのと、今回もそこまでやるかどうかっていうのはあるんですけど、
一応これが3つセットというか、これの3つ1つで1個の関東の主張だよっていうふうに言われることがあるんですよね。
ほうほうほう。
なのでちょっと最初にこの3つの関係と、あと批判、ここでそれぞれ批判っていうのがついてるんですけど、
批判って何なの?っていうところをちょっと見ていきたいなと思ってるんですよね。
で、ものすごい大雑把に言うっていう感じになっちゃうんですけども、
この3つの本を通じて関東って、地上意とか知識と感情の上と意志とかの意?
えー、はい。
あんまり聞かないかな?
そうね。
地上意っていうのがあるんですけど、それの基礎っていうのを打ち立てようとしてるんですよね。
うーん。
で、どういうことかっていうと、いわゆる知とか知識っていうのが純粋理性っていうように対応して、これがまさに知ることとか、そういうものを扱っていますよと。
で、2つ目の実践理性っていうのは、意志とか意欲っていう何かをするとか、人間がこういう行動をとりますみたいなこと。
それって知るっていうこととちょっと違う働きなんだよね。
ほうほうほう。
うん。それを実践理性っていうものを通じて磨かしていきますよと。
で、地上意の上っていうのはちょっとわかりにくいんだけれども、これは地と繋ぐものというか、
知ることとすることっていうものをどういうふうに統合しますか。
もっとカウント風に言うと、その純粋理性と実践理性ってどんなふうに繋がることができるんですかみたいな。
うーん。
それをこの判断力っていう言葉というか概念を通じて解き明かしていこう。
まあ、解き明かすっていうかなんだろうな、土台を作りましょうねみたいな。
うーん。
そういうことをやってるんですよね。
うーん、なるほど。そうなんだね。
なので、1個1個の本ではもちろん知識とか知ることは何かとか、そういうことを体系出してやっていて、ものすごい情報量なんだけれども、
それをこの3つの本を合わせると、この地上意っていう人間のほぼ全ての能力というか、
物を知るとか感情とか、何かを意識するとか意志とかね、そういうもの全部について体系的に語り尽くしましたよみたいな。
へー、そうなんだ。
そう。そういうことをやってるのがカウントなんですよね。
だからここだけ聞いても、前回からあったロックヒューム的な、そっちの話をさらに宣伝というかさせてる感はあるんだろうね。
人間ってなんだっけみたいなところをだいぶ深掘りして、みたいな話なんだね。
しかもそれをちゃんと思いつきとかじゃなくて、何て言うか、ロジカルに見たら、もちろん経営することとか、それに乗り越えることは今後もされていくんだけれども、
カウントさんがある程度語り尽くしてるよね、テーマとしてはみたいな。
おー、はいはいはい。
そういうふうになっていくんだよね。
なるほど。
それぞれについての批判っていうことはあるんですけれども、普段の日常的に言うと批判って何かを否定するとか、ちょっとダメ出しをするとか、
もうちょっと言うとダメ出しだけじゃなくて、より良くなるように意見を伝えるみたいな、そういうイメージがあると思うんですよね。
うん、そうね。
そういう意味で言うと批判批判ってなってるのでちょっとカサクシー感じがするんですけど、カウントが言うこの批判って実はちょっと日常的な意味とやっぱ違うんですよ。
うん。
で、これはこの批判っていうものでやろうとしてることって、やっぱり人間の持つ能力だよね。
理性だったりとか何かをするとか意志、意欲を持つとかの能力だし、そういうことに対してそれが、なんていうのかな、詳しく使われる範囲とか、限界だよね。
例えば理性っていうのはどこまでもやっぱり広がって世界の隅々まで覆い尽くすものではないよね。
人間の意欲とか意志っていうものも何でもできるわけじゃないし、そういうものに対してどこまではできるんだっていうのか、
どこまでは意志とか意欲とか理性っていうものを使ってよくって、何とかさっきはダメなのっていうところにちゃんと線を引くっていう、そういう作業のことを彼は批判っていうふうに言うんだよね。
なるほど。ダメとかっていうと何か倫理的な話になっちゃいそうだけど、どっちかっていうと使える、使えない的な。
そうそうそう。
もうちょっと客観的な話ってことかな。
そこにちゃんと線を引いてあげようと。そこから理性っていうものをダメ出しするんじゃなくて、吟味するみたいなほうが近いかな。
ここまではいけるけどここはいけませんっていう、そのラインがどこまでのギリギリなのかっていうことをまさに吟味していく。
そういうことを純粋理性批判とか実践理性批判とか、本能力批判っていうものを使ってやっていくって感じなんだよね。
ヒュームの影響と因果性の再考
なるほど。こういった営みを人間に対してずっとやってきたんだろうけれども、やっぱりロックヒュームで関東に至ってさらにそれがっていう感じがますますするね。
そうですね。
ある意味タブーだったのかな。ロックヒュームあたりの話もあったけど、神様がいて人間がいるから、どうなんだろうね。あんまり人間側を深くみたいなことってあんまりなかったのかな。
そうだね。タブーっていうか、そもそもそういう発想がなかったっていうのが近いだろうね。
そうだね。関東も生まれたのが1700年とかで18世紀の人なので、デカイトからすると100年ぐらい経ってるんですよね。
そういう意味では、全てが神っていうところから少し落ち着いてるとは思うんだけれども、
やっぱり人間に何かができるというよりは、神が与えてくれた能力を使ってた人間が生きてるっていうふうな発想は全然あったはずなんだよね。
あーなるほど。関東の時代も。
関東の時代も。
もちろん関東も神の問題とかって扱うんだけれども、これちょっと結論を先にしたいんだけど、やっぱり理性っていうものをある種吟味していくと、
神とかって直接は扱えなさそうだよねみたいな。人間の理性の及ばないところに神ってあるよねみたいなことを考えていくんだよね。
へー、なんかヒウムと近い感じがするね、そのスタンスはね。
そうそうそう。やっぱりヒウムの哲学ってめちゃめちゃ関東にすごい影響を与えていて、理性の使い方っていうのを考えるときに、
ヒウムの言ったこと、特に例としてはわかりやすいところなんですけど、ヒウムは因果性の話だったじゃないですか。
因果で、いろいろ経験したものがただ積み重なるから感じるだけで、世の中にはないよねみたいな。
そうしたときに、それは神とかって困るんですよね。
困るっていうのは、やっぱり当時でいくと時代的にニュートン力学っていうのが広まってて、
自然の法則性っていうものが明らかになりつつあるような世の中だったし、
自然な感覚としても、やっぱり神様がこの世界の秩序を保っているとか、作っているみたいな感覚とか、
前回も調査したけど、神がいなかったとしても、なんかそういう秩序とか法則っていうのがないと、
本当に自分たちが生きる土台が崩れ去っちゃうよねみたいな。
そういうふうな感覚なんですよね。
なので、ヒウムからすると、サバちゃんマッチを吸ったら火がつくみたいな。
それで神が燃えるとかっていうのって、火が神を燃やしたんだっていう風に僕は思うんだけど、
やっぱヒウムはそうじゃないと。ただ火がついた、燃えた、積み重なるだけで、ただ経験してるだけじゃないか。
経験というか、人間といって誤解してるだけじゃないかと。
それぞれの印象だよね。マッチを吸った印象と、火がついたっていう印象と、
その後神が燃えて灰になったっていう印象を、ただただ勝手にくっつけてるだけだよねっていうのがヒウムの因果関係の話だもんね。
うんうんうん。
やっぱり外から中へっていうふうな発想と、それって結構否定しがたいんだよね。
因果性とか神っていう印象をどこで持ちましたかって言われると、直接それは持ってないよねって言われたら、確かにって思ってしまいますよね。
まあ批判できないもんね。
そうそうそう。否定できないんで。やっぱりヒウムがあったからこそ、カントはその因果性とか、そういうものをどうやって取り戻せるかなっていうところをガンガン考えていくんだよね。
そこは前回の話なのか。
そうですそうです。
言ってカントが見るにヒウム先輩めっちゃ尊敬するけれども、世の中というか人間の挙動とか、
たぶんちょっとそうなってないかもねみたいな違和感があったってことだよね、カントからするとね。
そうね、そうそうそう。
前回もちょっとお伝えしたんですけど、ヒウムがヒウムへ行き過ぎているというか、
全てが印象だって言い切っちゃうのも、やっぱりちょっと極端だよねっていう感覚はあるのよ。
うんうんうん。
カントが実際にどう考えたかっていうのはあるんだけれども、やっぱり僕らって普段生きていて、何か原因と結果ってあるよね。
ああ、はいはい。
そうそう、ニュートンの物理学とかでも、やっぱりボールを転がしてこういうふうに進んでいくとかがあったときに、
それってどう考えても因果としか捉えられないよねみたいな、そういう実感はあるわけなんだよね。
そっかそっか、たまにこのスウェーデンスラジオで言うさ、何かの実験で摩擦は考えないものとするみたいなさ。
ああ、そうね。
カントからするとそういう感覚なのかもね。あるじゃん、摩擦みたいな。
そうそうそう。
風も吹いてるじゃんみたいなさ、そういう一旦ゼロに変数しますよみたいなのを、
多分ヒューマーはその因果関係をゼロにしちゃってるから、考えないものとするとかないものとするって言っちゃってるから、
いやいやっていう違和感はそこは強烈だったのかもしれないね。あるでしょそれはみたいな。
そうそうそう。パッと見るけど妄想じゃん、誤解じゃんっていうのがヒューマーだったとしたときに、
でもやっぱり何かしら、何かしらってあるよねと。妄想で切り捨てるにはあまりにも因果性とかって大きすぎない?っていうことを考えるんだよね。
はい、だし実際の生活を見るともうそれなしでは基本動いてなさそうに見えるけどみたいなね。
そうそうそうそう。
もはや説明できないじゃん、現実をみたいな。
カントとアプリオリの概念
っていうことを考えたときに、これは前回もお伝えしたけれども、やっぱりその仕組み、要は因果性っていう仕組みが世の中、外の側にあるんじゃなくて、
人間の理性とか心っていう内側の方にあるんじゃないかっていうことを考えるっていうのが監督がやったことですよと。
そのままですね、ベルニックス的展開って話だね。
そうですそうです。
で、その辺まで前回の復習なんだけれども、ここから関東独特のことを言っていきます。
じゃあその、人間の理性の側と心の側にあるよねっていう話をどういうふうに説明していくかっていうと、
ここで登場するのがですね、覚えてるかな、アプリオリっていう言葉があるんですけど、この言葉に聞き覚えってあるかな。
あれでしょ、経験に先立つもの的な感じだった気がする。
そうそうそうそうそう。
言葉に、日本語にすると先見的、まさに経験に先立つとか、
めっちゃわかりやすいんだけど、創列論的っていう日本語訳が滅茶苦茶してて、
これはめちゃめちゃイメージしにくいんですけれども、
ひらたく言うと兄が言ってくれた通りで、経験に先立つとか、あるいはもっと言うとあらゆる経験に先立つみたいな、
そういうふうな意味があるんですよね。
はいはい、言葉としては覚えてるけどね、イメージはわかんないね。
難しそうだな、やっぱり。
どういうふうにやってるかっていうと、ロックとかヒューもこれまでやってきたと思うんですけど、
この2人の経験論という形でいくと、全部は経験から始まるという感じだったじゃないですか。
コントが経験は大事っていうのはそう言ってんだよね。
ロックとかヒューもやってきたように、経験論でいくと経験がすべての始まりなんだよね。
もちろんロックで言うと、神が与えてくれた認識力とかあるかもしれないけれども、
それは趣旨の状態で、そこに経験が積み重ねていくと意識になります。
っていうような話なんだけど、コントはそれだけで本当にいいんだけど、それだけじゃないよねっていうことを踏まえて、
経験の前に心に備わっているものとか、心の側で働くものというふうについて考えます。
例えば、前回3年前とかにコントを扱ったときにも触れたんですけれども、
数式の7たす5イコール12っていう計算が、結構純粋理性批判という本の中で扱われるんですよ。
なんていうことかっていうと、要は7たす5っていう計算をしてくださいって言われたときに、
何か外から経験を取り込まなくてもできると思うんですよね。
今この瞬間に7たす5を経験してって言ったときに。
なんかこういう話した気がするね。
した気がするでしょ。
できるけど、あれじゃない?
これはちゃんと小学校とかのときに習ってるっていう経験があるからじゃないのかなっていう。
そうそうそう。これはだから、
された経験って話と、今この瞬間の経験って両方あるんだけど、
9問のときって印象をもとに記憶とかが生まれて、
記憶っていうのは弱い数値を与えるものだみたいな話だと思うんですよね。
で言うと、関東の7たす5イコール12っていうのも、その記憶を取り出してるんじゃないかっていう話も確かに言えるんだけれども、
そこに対して、何か新しい印象加わってますかって言うと、別に加わってないよね。
今7たす5っていう計算をするときに、何か新しい経験が必要だとか、新しい印象を加える必要があるかって言うと、
それにしたら必要ないじゃないですか。
今現状の話ね。
そう、今現状の話。
これが過去に経験で学んだものから今それが計算できるものだとしてもってことね。
一旦そこは置いといて。
なので、いわゆる経験論でいくと、あらゆる年を重ねたとか関係なく、あらゆることが経験から始まるって言っちゃってるんだけれども、
今みたいな7たす5イコール12みたいなもの、別に経験っていうものを考えなくても成り立つことだよねと。
それを今自分が計算するっていうこと?
そう。これもアプリオリだっていうことを言うんだよね。
分析判断と総合判断の理解
へー、そうなんだ。
今回はあえて経験論側、HUME側から批判的に聞いてみてるんだけど、
HUMEとかロックオートキもさ、印象を持った上で観念を持つじゃん。
観念と観念をくっつけて、例えば黄金の山を想像するとかさ。
そういうのやるよね、できるよねみたいな話はしたんだけれども、
その黄金の山を想像することと、この7たす5イコール12をやることって同じな気がするんだけど。
なるほどね。
なんか違うのかな。
これが結構面白くて、アプリオリであるっていうことを考えた上で、もう一個別の区別を考えるね、観とは。
ほうほうほう。
それ何かって言うと、分析判断と総合判断って2つの判断なんだけど、
わー、なんかあった気がする。
あった気がするでしょ。
なんとなくあった気がするでしょ。
うん。
ねえ、えっと、そう簡単に言うと分析判断っていうのは、もう分かってることを繰り返すってことなんだよね。
分析がね。
分析の方が。
まあ、独身の人は結婚していないって言葉があったときに、独身っていう言葉の定義に結婚したいって言葉が含まれちゃうじゃないですか。
そうだね、はいはい。
なので、この主語、独身っていうものに含まれてることをもう一回言うっていう、こういう知識が増えないものが、そういう風な言葉使いを観とは分析判断っていう風に言うんだよね。
ほうほうほう、なるほどね。
そう。で、総合判断っていうのは、逆に新しい内容が付け加えられます。
へえ。
例えばこの、実際例とかで上がってるのが、例えばね、この石は重いかな?
ふんふんふんふん。
だったときに、石っていうものって、確かに経験というか、過去のなんていうのかな、いろんなものを振り返ると、もう石って重いものじゃんっていう風に思ってしまいがちなんだけど、
うーん。
別に重くない石もあるじゃない。
そうね、うーん。
そういうときに、この石に対して重いっていうことを付け加えるっていうのが、総合判断。要は新しい情報が増えてるよねっていう風なことを考えますと。
うーん、なるほど。ただこの石は重いっていうのは、それ経験の話?
だってね、これは経験家とかが一旦置いといて。
置いとく、はいはいはい、オッケーオッケー。
それまでも、情報が付け加わってる総合判断だよねっていう風な話。
うーん、なるほど。
で、今ね、兄貴がいいこと言ってくれたんだけど。
うん。
実際に言わせると、経験っていうのは基本的に常に総合判断になるんだよね。
おー、あー、なるほどね。そうやって分解し始めてるね、いろんなものをね。
そうなんです。
今ちょっと言ってないんだけど、アプリオリの反対にアポステリオリっていう経験の後にとかっていう言葉があって。
だからこの4証言でアプリオリかアポステリオリか、分析判断か総合判断かって4つがあるんだけど。
おー、はいはいはい。
ただカントからすると、その経験したものでさつ情報が増えないっていうものはできないよねって考えるんだよね。
へー、なるほど。
なんでかっていうと、新しいやっぱり何か、今この瞬間に何かを経験するとか何か外部から取り込むときって、
やっぱりその、少なくとも何かが変化しているとか、状況が変わっているとかも含めて、何がしかやっぱり違いって起きてるじゃないですか。
なるほどね。そうか、瓦でこの石も軽い、この石も軽い、この石も軽いって言ったときに、
全ての石の形とか重さは若干ずつ違うはずだし、その場所もちょっと違う、拾った場所もちょっと違うみたいなところを含めると、
同じようなものでも若干は違いよねみたいな。
そうですそうですそうです。
あと、今日リンゴ食べて明日リンゴ、あー昨日も食べたみたいなのも、全く同じリンゴ食べてるわけではないしみたいな。
そうそうそうそう。
そういうことね。
そういうことです。
だから例えば、今日言ったこのリンゴは甘いと、明日言うはずのこのリンゴは甘いっていうのも、同じ言葉ではあるんだけど、
それでやっぱ違う経験としては、リンゴに対して甘いっていう情報が加わったこのリンゴに対してっていう意味では、総合判断だと言えるよねっていうふうな。
経験と理性の関係
なるほど。
そういうことを考えるんだよね。
へー、はいはいはい。
で、えっとね、ここでさっきの7足す5イコール12にまたちょっと戻るんだけれども、
それはでも勘とか言わせるとやっぱり経験によらないアプリ寄りな総合判断なんですよ。
へー、そうなんだ。総合判断なんだこれ。
そう、総合判断なんです。
で、これもどういうことかっていうと、要はすっきり話が出た7足す5っていうのがある種主語、独身にあたって、
うーん。
12っていうのが結婚していないっていうふうにあたる、物語にあたるんだけど、
例えば、その7と5の和っていうのが7足す5って意味じゃないですか。
うーん。
うん、で、7と5の和っていうものを、何らにこの定義というかこれだけを分析しても、12っていう数字自体は出てこないんだよね。
うわー、なんかデジャヴだね、この話した気がするけど、
どこに自分が驚いたかとか感動したかはもう忘れてるね。
そう、これね、全く同じことを多分ね、3年前も言ってるんだけど。
うわー、全然覚えてないやん。
7足す5はイコールだね。7足す5イコールっていうものに。
うん。イコールとか7足す5だね。
7足す5、ああ、イコール抜いてね。7足す5っていうものをいくら見ても12は出てこないよね。
そうです、そうです。
いやー、やっぱり分からんな。
どういうことなの。
つまり、その7っていう数字と5っていう数字と、それを足しますっていうことじゃない、今答えられてるものって。
うん。
っていうときに、なんだろうな、その7と5を足すっていうこと、僕らそれがもう足したら12になるっていうことを、
2人前よりやっぱり常に思っているから、
うん。
もうそうやって定義の中に出てるじゃんって思うんだけど、
うん。
でもよくよく考えると、7と5を足すっていう、そこでストップしたときに、
何ていうのかな、7と5を足すっていう、そこから出られないんだよね。
なるほど、ちょっと思い出してきたかもしれない。
思い出してきた、そう。
あれだね、ごめんね、今何の話してるんだっけ。
今は、7足す5イコール12っていうのが、経験によらない総合判断。
そうだね、これが何で総合判断なのかって話なんだよね。
うん、そうですそうです。
まず、そこは分かんないけど、7足す5で止まったときに、12とは別に繋がらないよね、みたいな話は、
数字として足してもいいし、7と5を横に並べて75みたいに書いてもいいし、
7と5を上と下に書いてもいいし、
7って書いた上に5って書いて、よくわからない記号みたいになっちゃってもいいみたいな。
結構色々想定は可能というか、よくある赤ちゃん的な話で言うと、
分かんないよね、みたいな感覚はわかるかな、想像はできるというか。
数式だとわかりにくいかもしれないんだけれども、さっき、石は重いっていう言葉が総合判断だって言ってたじゃないですか。
これと似たような言葉で、この石には広がりがある。ちょっと日本語として馴染まないんだけど。
この石には広がりがあるっていう言葉を仮に言ったとしたときに、これは分析判断なんですよ。
どういうことかっていうと、石っていうものを示すときに、そもそも何がしか空間を占めるとか、広がりを持つ。
石の特性と判断
どんなに小さくても何がしかの空間的な位置を占めるっていうことは言えるじゃないですか。
なので、石っていうものを示したときに広がりがあるっていうことは、石に含まれるようにっていうふうに言えるんだよね。
逆に、この石は重いっていうのは、さっき言った通りで、別に重い石もあれば軽い石もあるよねとか。
逆に、この石には重さがあるって言うと、これは分析判断っぽくなる。
なるほど、なるほど。そういうことか。
はい。っていうふうに、ちょっとこれは分析がどこまで妥当かっていう話はあるんだけれども、
その主語、石とか毒神とか、7-5とか、それだけを見て判断できることって何かねっていうことを考えていくんだよね。
はいはいはいはい。
なので、さっき兄貴言った通り、7-5っていうのも、それを足し上げると12だっていうのは、やっぱりワンステップ飛びすぎてて。
7-5って読めたときに、じゃあ7と5を横に並べようとか上に並べようとか、そういうこともいろいろ別にできちゃうはできちゃう。
足すっていうものが、これを通識的に足し上げて別の数字にすることだって判断のことは、やっぱり操作としては後なんだよね。
なるほどね。だから、なんだすごいこれ12って当たり前じゃんみたいな。分析判断じゃんっていうやつは、石を見たときに必ず重いか軽いかを判断するみたいな。
これは重いとかって思っちゃうのと一緒で、石だけ?石だけ見たときに投げるものかもしれないし、
つけ物石として使うやつかもしれないし、コレクションとして集めたいかもしれないしみたいな。だから石それ自体には、実はその、
それを見たときに内包する、必ずしも石イコール○○の○○って決まってないよねっていう意味で、この7-5を捉えると近いかなみたいな。
あーなるほどね、確かにね。やっぱりいろんな意味合いを付与できるよねっていうときに、それは石っていう定義からやっぱり情報が増えてるっていう話になっていくから。
そういう意味で言うと、本来7-5イコール11っていうのは7-5っていうとこから情報が増えてるよねっていう。
なるほど、あーやっと。待って待って、ここに行くまでどんだけ話したのって感じだけど。
めちゃめちゃ難しいだよ。大事なのよここ。
ここが大事なんだね。
でもやっとこの7-5イコール12の違和感、やっと分かってきた。
分かってきた?もう一回言葉にしてみてもらっていいですか?多分聞いてる方もここって悩ましいと思うから。
これちょっと繰り返しにはなるかもしれないんだけれども、数式で7たす5イコール12ってあるから余計わかりづらいんだけれども、
わかりづらいし、だからこそ多分この数字で、この分析判断と総合判断の違いをちゃんと理解しておかないとダメなんだなと同時に思ったんだけど、
さっきと同じこと言うけど、仮に石イコール〇〇だった時に、その総合判断は情報が増えるよ、分析判断は情報増えないよっていう、
その観点から見ると確かに石イコール重いは情報増えてる。この石イコール重いは情報増えてる。
この石イコール漬物石に使うも情報が増えてる。
あと例えば石、一般的なね、石イコール重いだと、そのイコールが成り立たないから軽い石もあるし、だからそこは分析として成り立ってないそもそもみたいな、
そういうことが言い始めて、その観点からいくと、7たす5っていう石が落ちている。だから7たす5イコール〇〇の時に、
うちらは勉強しちゃってるから、7たす5イコール〇〇って言われたら12が入っちゃうんだけど、さっきの石と同じ感覚で7たす5とイコール〇〇っていうのを見た時に、
この〇〇には結構いろいろ入るんじゃないみたいな。例えば7たす5イコール12でもいいし、同じ、どうしても数学で考えたいんだったら、7たす5イコール10たす2でもいいわけで。
そうすると7たす5イコール12は、これまでの感覚からすると分析判断っぽい当たり前じゃんみたいな、だけど違うと。12はこの〇〇の答えの一つであって、7たす5イコール10たす2っていうのも一つの〇〇だし、
7たす5イコール、人によっては1だーす、そこに飛んじゃうみたいな。それは一つの情報が増えてるもんね、7たす5イコール12みたいな。
だからこれは難しいね。今言いながら思ったけど、7たす5イコール12って、そういう意味では情報が増え、7たす5に内包されてるって思っちゃいがちなんだけど、それはちょっと、分析判断総合判断からすると、ちょっと頭の固い考え方というか、囚われてる考え方なんだね、自分の知識みたいなものにね。
カントの因果性の概念
そうだね。今言ってくれた通り、それだけじゃないとか、それを7たす5っていうものが、何て言うんだろう、何て言うのかな。
石は重いに囚われてるのと一緒だよね。石って重いじゃんみたいな。
重いものであるっていうのと同じで、7たす5とは12でしかないっていうのは、やっぱり思い込みだと。これが総合判断だっていうのは、一旦よしだとしたときに、これって経験ですか、経験じゃないですかっていうと、
石との違いとは分かりやすいんだけど、重いっていうのはそれを持ってみるとか、測ってみるとかっていうふうなことで分かるんだけど、7たす5が12なのか10たす2なのかっていうことは、経験とは関係なく、頭ん中というか、人間の能力として判断する、判断というか決めることじゃないですか。
なのでこういう意味で、この7たす5っていうのは、この瞬間には経験によらない。経験によらない判断であるってことから、これはアプリ寄りな総合判断だっていうふうにちゃんと言うんだよね。
はいはい、4小言の中でね。
違うって話なんだよね。
うーん、そうはね。
うんうん。
これがまずカントが言ったことですと。
なるほど。厳密だね。
なんていうか、ロックがやっていた観念をヒュームはその印象と観念に分けましたっていう話で。
そうだね。
で、1つが2つに分かれたよね。
うんうんうん。
で、そこに来てカントはそれをさらに4つ、マトリックス図、4小言の図に分けました、みたいなさ。
はいはい。
どんどん分かれてるね、なんかね。
まあやっぱりね、分析分かるって分けるだからねって話はあると思うんだけど、やっぱりカントは経験だけじゃないっていうところをどう補うかっていうふうにこういうことを考えだすんだよね。
うんうんうん。
で、こういうふうなアプリ折とか総合判断とかっていうものを使ってどんどん進んでいくんだけれども、そこに今日もお伝えした因果性っていう話が出てくるんですよ。
はいはいはい。
で、繰り返しなんだけど、ヒュームは因果性っていうものを経験の繰り返しでしかないと。そういうふうな誤解だっていうふうに言ってるんだけれども。
カントはこの因果性っていうものを、それは実はアプリ折な総合判断なんだっていうふうに捉え直すんだよね。
どういうことかっていうと、要は経験の結果、因果性っていうものが生まれるとかじゃなくて、そもそも経験を成り立たせるために、この因果性っていうものを僕らの心とか理性とか持っていて、その枠組みで世の中を捉えてるんだっていうふうに言い出すんですよ。
はいはいはいはいはい。
どういうことかっていうと、例えば紙は燃えるみたいなことを言ったときに、紙が燃えるっていうときに、紙っていうもの自体を分析しても、燃えるっていうものは、もちろん科学的にとか物理的にも厳密にやったら出てくるかもしれないけれども、
紙の属性だけで燃えるっていう定義って出てこないです。
なので燃えるっていうのは情報が加わってるんだけれども、この紙が燃えるっていうことの加わることに対して、
僕らっていうのは因果性っていう、さっきで言うと7-5イコール12っていうのは数の計算するとか数えるとかそういうものを付与して判断するってことをしてたんだけど、
この紙が燃えるっていうのに関しては、いわゆるまさに因果性を持つっていうことを付与して、この経験を捉えてるっていうふうにカントは考えるんだよね。
なので因果性っていうものをどこから持ってくるんじゃなくって、そもそも人間はそういうふうに世の中を捉えて物事を判断するっていう仕組みが、それだけを持ってるんじゃないかっていうことを言い出せますと。
感性と誤性の役割
はいはいはいはい。
なので、やっぱり世の中のどこかに因果性があるっていうふうに捉えるんじゃなくって、僕らが普段感じている、どう考えてもこの経験って因果性で説明したくなるようなとか捉えられるようなっていうものを、そもそもそういうふうな働きを人間の心が持ってるんだって考え出すんだよね。
はいはいはいはい。
で、もっと言うと、例えば僕らってさっき兄貴がさ、ヒュームは6より分けたし、カントはもっと分けてるって話をしてくれたんだけれども、
まさにカントって、何か世の中を経験するための能力として一つのことを考えるね。それが感性と誤性っていう二つなんだけど、感じる性質と、誤性っていうのは知性と言ってもいいんだけれども、何か知る力ね。
はいはいはいはい。
で、感性っていうのはまさに、世界から何かを受け取る感覚。それこそ光でも音でもいいし、温度、暑い寒いとかダメなんだけれども、そういうものを感性が受け取って、ある種素材としてゲットしてきます。
この素材っていうものを使って僕ら経験をするんだけれども、その素材をどういうふうに組み立てていって経験するかっていうと、それに使うのが誤性なんだよね。
すごいざっくり言うと、誤性っていうのは外から受け取った素材、あるものを整理して、ある統一的な世界、要は、例えば石が重いとかって話でいくと、これは石であると認識するのも何とか言わせると誤性の力なんだよね。
へー、そうなんだ。
石があるって言っちゃうと、石というもの、そのものというか、外部の世界から石っていうものが自分に飛び込んだキャッテリーになっちゃうんだけど、ファンタはそうは考えないんですよ。
何か丸さとか重いとか、そういうちょっとずっしりした感覚っていうものが入ってきて、それを誤性でいろいろ整理をしたときに、これは石であるとか、これは重たいというふうに感じるとか、そういうものは後から付与していくんだよね。
へー、なるほど。
そういうふうに、構成的とかって言ったりするんだけど、まさに経験を構築していくっていう働きをファンタは考えます。
へー、なるほど。だからこの感性と誤性の境目は結構、なんだろうな。思ったよりも早いっていうか。
はいはいはい。
だいぶ直接的な感覚の方を感性と呼んでる感じがするね。
そうそうそう。だから経験に先立つっていう話はまさにここで、要は経験探査としては後からできるものなんだよね。その後って何?っていうと、まず感性が外の情報を取り込みますと。
石を例えば見るとか持つ、この石は石ではないね。何か丸いものを見たとか触ったとかっていう情報を取り込みますと。
それを誤性が組み立てて、これは石だとか、これは丸いとか、そういうものを追加えたときに、丸い石を持ったっていう経験が生まれるっていう風な。
なるほどなるほど。さっきのあれだね、〇〇イコール〇〇の連続な感じがするね。
連続、どういう感覚だろう。
例えばこの感性の話をすると、〇〇があるよね。あるというか〇〇に触れるみたいなときに、まず触れるじゃん、〇〇に触れる。
丸いとか、触れるというか感じる、だから目で見たり感じたりするっていうところを含めると、丸いものがある、結構ずっしり重いぞみたいな、〇〇を見る、〇〇を触る、イコール石じゃん。
はいはいはい、そうだね。
だから〇〇イコール石っていうのは、これって多分経験だから総合判断だよね。〇〇は石かもしれないし、〇〇は虫かもしれないし、草かもしれないみたいな。
そこをまず1個突破する。で、この石は〇〇であるみたいなさ、さらにやっていくじゃん。これは水切りの石に使おうかなとか、帰って行ってコレクションしちゃおうかなみたいな。
カントの理性と経験
で、それの一番最初の部分というか、自分の体を使って、だから想像でじゃなくて自分の体を使って何かを経験する場合のところが完成なのかなみたいな、その最初の〇〇イコール〇〇部分みたいな。
そうだね、確かにそういう意味で言うと繋がってるっていうのはすごくイメージとしてわかりやすいかもね。だから〇〇とか〇〇からすると、もう経験した瞬間にそれが印象になるというか、石を持ったっていう風に石っていうものも外国にやっぱり存在していて、入ってくるという感覚なんだけれども、
関東はあくまでも内側から外に行って理解するっていう風なことを考えるから、やっぱり石そのものが落ちてるんじゃなくて、それは僕らが石という風に定義付けているとか、意味付けているっていうようなことを考えるんだよね。
で、その時にやっぱり感性と個性って両方大事だよね。その感性が働くにあたっては、ある種、どうはいえ本当に何もないと、ゼロから全部作んなきゃいけないじゃないですか。
ああ、そうだね。だから毎回これなんだってなるって話だよね。 そうそうそう。やっぱりなっちゃうんで、最低限の仕組みとして関東は考えたのが、少なくとも時間と空間っていうものはあるとしましょうと。もっと言うと、時間と空間っていうものは人間の働きなんだけれども、そういうものを通じて人間は世界を理解していますと。
ほうほうほうほう。 うん。なので、外のものをやっぱり理解するときに、僕らっていうのはそれをそのまま取り込んでるんじゃなくて、まず時間と空間っていう風な舞台を作り上げて、人間の心としてね。
その中に何かある丸いもの、丸々があって、その丸々っていうのを受け取ったときに、自分が生きている時間と空間において、このものがあるよねっていうことをその都度ずつ組み立てていく。
そこに早く言ったように、今日の記憶としてはこれは意思というものであるとか、知識とか。そこがどんどん付与されてはいくんだけれども、そういうことを言って毎回やってるんじゃないかっていうのが、関東的な発想なんだよね。
はいはいはいはい。やっぱすごいね、やっぱりね。時間と空間。だから無意識にもって話だね。無意識的にもっていう。
そうですね。無意識というか、その土台の上でしか僕らは意識というか、理性とかを使うことができないっていう感じだね。
あー、なるほど。無意識的にそれを捉えてるとかじゃなくて。
そうそうそう。
あー、そうか。そうなっちゃうとヒュームとか外にある時間とか空間を認識してる感じになっちゃうから、そこが違うんだ。
そうそうそう。
だから、すごいわかりやすい世界なんだけども、テレビとか見てるときにさ、僕らってテレビの枠はそんなに意識しないじゃないですか。中に映ってる映像を意識するのであって。
そういう意味では確かに意識が出てこないって感じなんだけども、やっぱり枠がないとテレビって基本成り立たないですねっていうときに、
その枠っていうものが時間とか空間。
はいはいはいはい。
これはもう、テレビのモニターというものを生成するためには絶対に必要だっていうのと同じ意味で、時間と空間というものはないと、僕らはそもそも外の世界っていうものを認識もできないし、理解もできないし、触れることすらできないっていうふうにカントは考えるんだよね。
えー、なんで考えたんだ。すごいね。
これ言われたら当たり前だけどさ、今のような話を考えて考えてここにたどり着いてるんだもんね。
いや、そうそうそう。
どういうことだ。
だから、やっぱりそれはある種ね、世の中、それまで時間も空間も外にあるというか、世界っていうのはまずあって、住みが作った世界があって、それをいかに理解するかっていうのがやっぱり外から中への順番なわけだよね。
やっぱりそれを内側から外へとやろうとしたときに、じゃあ何から始めるのとか、どこが出発点なのっていうときに、この時間と空間ってそもそもここを土台にしようと。
この働きを人間が世界を理解するときに使ってるってことからいろんなことを理解しようっていうのがね、さっきのアプリをいわば経験ユニーズに置き去っているとか。
それは数の考え方もそうだし、因果設定もそうなんだとか。そういうものを徐々に徐々に増やしていくみたいな感じなんだよね。
不思議だし、あれだね。なんだろうな。うちらからすると、多分普通の感覚、今の普通の感覚だと思うんだけど、関東の前の世界かな?もしくは合理論的な世界か、どっちかというと。
合理論の世界って、ドラクエとかさ、今のポケモンどうかわからないけどさ、RPGを、ゲームを、すごい俯瞰から、主人公とかがマップを歩いてる。街とかのマップを歩いてるみたいな感覚で、すごいイメージしたんだよね、今。
関東よりも前の世界?
そう、前の世界。合理論側の世界。エディンス経験論とかでもなく、合理論的な世界ってそうなってて、そうするとさ、主人公とか歩いてるとさ、あっちに村人いるからあっちに行きなよとかさ、
あっちに木が生えてるからあっちに行けばいいじゃんとか、宝箱があっちにあるからあっちに行けば宝箱が開けられるはずみたいなさ、もう世界が決まってて、あとは自分がそこに宝箱を見つけるだけみたいなさ。
なんかそういう感じがするじゃん。すごい俯瞰から見てる感覚。なんだけれども、この経験論に入っていって、この関東にいたり、その一人称してのゲームに変わったな、みたいな。
なるほどね。はいはいはい。
だから、その同じゲームでも一人称になると、今この立ってる目線から言うと、あの奥に見えてるのが木なのか、家なのか、なんかわかんないみたいな。
しかも宝箱がどこにあるかも今の時点では見えないみたいなさ。なんかそういう視点の違いがめっちゃあるなと思っていて、今うちらこの一人称の視点が当たり前に感じてるんだけど、実はその、
で、俯瞰の方がすごそうな感じがするんだけど、実はその俯瞰の世界でありきみたいな方が先だったんだなーみたいな、すごい不思議な感覚に今なってるというか。
あー、なるほどね。うん。
それは多分あって、やっぱりその、関東以前みたいな、まあちょっと大きく隠れてしまうけれども、やっぱり世界とは何かとか、世界とはどういうものかっていうふうにやっぱりそっちを説明しようとするものはやっぱ強いんだけれども、
関東は世界をどう見ているかとか、世界に対して人間ってのはどういうふうに関わっているのかっていうことをまさに問題にしてるんだよね。
たぶんやっぱり何か言う通り、ある種昔のゲームとか、今もそうだけど、やっぱり俯瞰で見てまさに三人称視点だよね。神の視点から世界を捉えるっていう話なんだけど、
さっきFPSとかもそうだけど、やっぱり自分の視点で世の中を見ていくとか、探検していくとかっていうゲームが増えたときに、そっちが多分関東に近いし、僕らの普段の考え方にも近い。
それはあくまでも関東がこういうふうなことを考えて、人間の内から外へっていうものをある種定理したからっていう話もあるんだよね。
だから、そうすると三人称的なところと時間・空間もあるというか、考えてもないみたいな。そこを捉え方がこんなにも変わる。
自分、一人称目線だと時間・空間も三人称目線ほどは感じられないというか、意識はしない中で、とはいえみたいなところがだいぶなんかこう、
すごい、ハヤトがポペルニクス転換っていう話をしたけれども、よっぽど多分転換した上で辿り着いてるそうだな、みたいな凄みを感じる。
そう。これは本当に今日はヒューマンの因果性っていうものに関東がどう向き合ったのかっていうところも、せめてこういう話をしてきたんだけれども、
やっぱり関東の参画として、因果性って幻想じゃないと。僕らはそれを感じるんだけど、それってどこで?っていうのを考えたときに、
それは明顯にすげだってあるんだってことに、やっぱり気づいたというか、言っちゃったってやっぱりすごいことなんだよね。
ヒューマンはすべてが経験からだから因果性も経験から見出せるならいいけど、それはないから因果性とはないと言ったんだけど、
そもそも関東は経験というものを成り立たせるために因果性という働きがあるんだと。
だから、どんだけ経験というものを分析しても因果性はないのも当たり前で、それは経験よりも先にあるものだからだということで、言ってやっぱり説明をつけちゃったんだよね。
なるほど。そこまで言われるとそうだもんね。
じゃあヒュームを包み込み始めたというかさ、ヒュームさんの言う印象とか経験みたいなところって、
この関東の言うアプリオリだね、経験より先のものとしての因果関係かっていうものがないと、
そもそもその印象だったり経験側に人間の挙動、そっちに映らないじゃんみたいな感覚が確かに分かると思った。
そうだね。逆にこれを経験論の人が批判しようとすると、そんなものはないとか、経験先立つ判断がそういう仕組みとはないんだということを言わなきゃいけないから、
それはそれですごく難しいよね。経験を成り立てるための仕組みがない時に、じゃあ経験というのは僕らはどう感じるの?みたいなことを言うと、
やっぱりそれってすごくまた難しくなってくる。
そうね。もうそこからさっきはぶん殴るしかなくなるっていうデカルトとフロックの時の話になっちゃうね。もう分かり合えないとこに行っちゃうからね。
という感じで、今日はだいぶ長くなってしまったんですけれども、最後に一言まとめると、
サントってやっぱり世界ってどう知るか、その知るっていう営み自体がどういうふうになり立っているのかっていうことを、純粋理性観っていう最初の本でやり尽くしたっていう感じなんですよね。
で、そこがやっぱりさっき言ったように可能性と誤性という2つの働きがあって、これがちゃんと一緒に働くことで世界というのを僕らは知るんですよと。
だから可能性っていわゆる外部の情報だけでもダメで、誤性がまかに理性だとしたらデカルトが言うような理性だけで全部知り尽くせるっていうのもダメで。
両方がなきゃダメだっていうのが、いわゆる合理論と経験論の統合というか、それをある種一緒にしましょうっていうふうな話に近づいてきているというようなところなんだよね。
経験のメタ認知
なるほど、なるほど。
ただ、今日の話だけでもやっぱりそうやってやり尽くせてないわけですよ。
もちろん次回も一応純粋理性観のこういう話をするんだけど、もちろんそれだけでも解き尽くせないものはあるんですよね。
へー、そうなんだ。
ただ、そう分けていくと、やっぱりまだ足りないものがあって。
例えばそれって、いわゆる理論が否定した理科ってあるじゃないですか。
理科は資格の束だっていうときに、カントも経験をいろいろして、経験を作り出すわけなんだけれども、
それに対してその心とか理性を持つ私ってどういうふうに捉えられてるのとか。
そもそも誤性の働きって言ったけど、それって何なの?みたいな話。
そういうところを次回またきちんとお伝えをして、
このカントの考え方っていうものをもう一度深く理解していけないというふうに思っています。というような感じですね。
わかりました。そこそこは今回、感性・誤性の話少ないなと思ったんだけど、次回きっくりやってくれるので。
次回の予告
そう、そこで次回も一回やります。
これでわかったよねっていう回だと思っちゃった。
そうだね、ごめんごめん。次回くらいまでこの話を続けて、その次で最初に言った実践理性違反化。
要は人は何をするかを触れながらカントを書いてお届けしたいと思っています。
わかりました。ちょっと長くなっちゃったけどね。
今回でわかんなきゃみたいな感じでいろいろ聞いちゃったんだけれども、
次回その辺りは引き続きより深めていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。