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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ヒュームの自己概念
今回もヒュームということで、今回は自分とは何かみたいなことに切り込んでいくという話でした。
そうですね。前回の因果関係というのは、僕らからするとそれはあるよねというか、疑いすらもしないもの。
それに対して、実は論理的には説明できないんだよとか、人間の心が繰り返し、経験の繰り返しというところの習慣によって生み出されたものだよみたいな話をしたと思うんですよね。
こんなふうにヒュームというのは、印象からすべてを始めようという、まさに経験だよね。
そういうところから進めていくことで、僕らが普段疑わないようなものとか、それはあるでしょみたいなものをどんどんどんどん切り崩していきますよと。
だいぶ、俯瞰で見させてくれるよね。
そうね。そんな挟まるなって感じなんだけれども、今回何か言ってくれた通り、私とか自分ってものっていますっけっていうことを見ていこうと思いますと。
ヒュームはもちろんそこについても考えましたよって話なんだね。
もちろん考えましたよって話だし、もちろん彼はいないって言いますよって話なんだけど。
そうなの?いないの?
流れ的にはね。
いるじゃん。目の前に手とかあるじゃんみたいなね。経験できるでしょ。
思うだけではそれをどういうふうに言いますかと。
じゃあ兄貴がね、50分後に自分ってものがいると思えているかどうかっていうのは勝負だね。
だからヒューム的に言うと、自分の印象ってあるんだっけないんだっけって話ってことね。
まさにその通りです。
ヒューム自身はこれを人格の同一性についてっていう表現で言ってるんですよ。
要は私って何っていうことであれば、人格、まさに人らしさのあったときに、
それって同一なものがあるって言えますかどうですかってことを問うていくわけなんですよね。
言葉が難しいな。
なのでちょっと私とは何かとか自己とは何かでいいんだけど、
結構割と早めにですね、その章でいろいろわーっと説明していくんだけれども、
結構前段の方でもヒュームはですね、
自己のいかなる関連も我々は持っていないって結構言い切っちゃうんですよ。
関連持ってない。
妄想としての自己
持ってない。印象がないからねっていう話なんだけど。
で、じゃあその関連がないって言うんだけれども、
それって本当ですかとか、その印象って見ていきましょうっていうことを考えていきますよと。
だから前回の話で言うと、その印象を通ってないものは関連と呼ばないだから、
自分たちが自分と思っているものは妄想だよねって言ってるってことだね。
まさに妄想されてる。
この妄想は一体何なんだっていう話だね。
そうそうそう。なんでそんな妄想を僕らは持っちゃってるの?っていうようなことを考えていくんだよね。
ただこれも普通に考えると、自分自身がいるとかあるってさ、疑いようもないじゃない。
いやだってデカルトさんも言ってたよね、確か。
そうそうそう。我を思う上に我ありじゃないですか。
って言うと、ある種の解議論と言われるようなデカルトですら、
その思っている我っていうのは疑いなよってことで、小人っていうものを大事にするわけですよね。
わ、そっかそっか。もう疑うことでは他の追随を許さないようなデカルトさんすら疑わなかった我だよね。
そうです。疑いきれなかった我だよね。
近代哲学の祖であるデカルトさんもいろんなことを疑った結果、疑っている自分と呼んだ疑いなかったわけだったよね。
でもそこはヒウムって実はそれすらも疑っていきますと。
実はないんだって結論つけちゃうんだよね。
デカルトが1600年ぐらいで、ヒウムが1700年の後半ぐらいとかなので、150年ぐらいの差があるかな、そこには。
という感じなんですけど。
例えば自分っていうものを考えるときに、もちろん今私が喋っているとか、
あるいは自分ってこういう人間だよなとか考えることって全然あるじゃないですか。
あるよ。だって美味しいもの食べたいなとか思ってる自分は誰なのだっていう。
なるよね。
っていうときに、それは日常的に思うでしょうなんだけど、
例えば自分の印象を探してみてくださいっていうヒウムの観点からね。
って言ったときに、
例えばヒウムも心が心地いいとか苦しいとか、
悲しいとか喜びだみたいなそういうものが普通に思うよね、感じるよねって言うんだよね。
そういう感覚とか感じは確かにありますよと。
でもそれをある種、全部保持してるよ。
悲しんでいるのも自分だし、喜んでいるのも自分だしっていうようなものが自分だとしたときに、
その自分って印象として見つかりますかっていうふうに考えるんだよね。
あー、うわー、なるほどね。
なんか感じた?
前回と一緒で、自分そのものって何ですかっていう話だよね。
そうですそうです。
自分のイデアみたいなのが言われたときに、ないかもって思ったんですよ。
早いな。
5分くらいで。
確かに。そう表現しちゃうと、そのものってむずい。
そうです。だから、自分のものを例えば探しましょうというときに、内面とか観念とか印象には向かっていくんだけれども、
それ見つかるので常に性の知覚要は正しいっていうこととか、喜びっていうことを感じるんだけれども、
それを貫いている自分みたいなものって知覚できますかっていうと、できないよねっていうふうにヒューマンは考えるんだよね。
なるほど。
これは前回因果関係の話と一緒で、例えば熱とか火っていうものとお湯になったっていうものを見たときに、それぞれはもちろん知覚できます。
そこの間とかその繋がりにある因果関係っていうものは想像でしかない、妄想って言ったじゃない。
それと同じ感じで喜んでいる自分と悲しんでいる自分ってもしかしたらあるかもしれないけれども、それを貫く自分ってありますかっていうと、それは妄想じゃねっていうふうにヒューマンは考えるんだよね。
なるほどね。前回の話からするとそうだよね。例えば、叩いたら音が鳴った。机を叩いたら音が鳴ったとの部分が因果関係で、実は存在しないものだとしたときに、
美味しいものを食べたら自分が喜んだみたいな話と同じだもんね。喜んだ自分は確かにいるかもしれない。音が鳴った机はあるかもしれないけれども、それを人間で考えたときに、机そのものだったらまだ言えるかもしれないけれども、
人間そのものは確かに、肉体そのものがこの人ですとも確かに言えない気もするし、机とは違ってね。
そうだね。今何か体とかって言ってくれると思うんだけど、時によく言われる哲学的な話があって、船とかって言われたりするんですけど、ある船がありますと。それが長い航海でボロボロになっちゃって、マストを変えますとか、艦舶を変えますかって伝えたときに、全部きれいに部品が変わりますと。
これって同じ船ですかっていう問いがあるんだよね。人間もよくやるじゃん。数週間とか数月ぐらいで全部の細胞が変わりますとかって言ったときに、でも僕らは同じ自分だと思っている。
でも体を構成しているパーツとしての細胞は全部変わってるってときに、どこに自分っているんですかって話をやっぱりよく言われたりするんだよね。
はいはい、それは聞いたことあるね確かに。
そうそうそう。でもそもそも実はヒュームから言わせると、そもそもその問いが間違いで。
え、あ、そうなんだ。
だって自分なんていないって言ってるからね。自分という丹念は妄想だって言ってるから、ヒュームからするとあくまでもそうやって作り出されるものなんですよ。
逆に言うと、そう考えると実はわかりやすくて、つどつど僕ら人間っていうものは自分っていう妄想をし続けて生きていますと。
それは別に細胞が入れ替わろうが、何か腕がなくなろうが足がなくなろうが、そういうことがあったとしても、自分が自分だという妄想っていうのは常にその瞬間瞬間で作り出せるんだよね。
はいはいはいはい。
存在しない自己の議論
そうすると別に自分っていうものがあるとかないとかって関係ないよねっていうふうなことを言えるんだけれども、
ヒューマンはこれどういうふうに言ってるかっていうと、それ描いてるのは人間っていうものは思いもつかない速さで次々と連続して起きることとか、絶えず変化していること。
あるいは動き続ける様々な知覚の束、あるいは集合に他なりませんっていうふうに言ってるんだよね。
悟ってるのかな。
ちょっと鳥っぽい確かにね。
だから、人間っていうものがあるんじゃなくて、いろんな嬉しいとか悲しいとか何かを見たとか聞いたとかそういうのがバーって動き続けている。
それを束にしたときに、人間っていうものを妄想してしまうというか、そこに事故というものを僕らは勝手にイメージしてしまうんだっていうふうに言ってるんだよね。
なるほどなるほど。
どう?この感覚。
前回からの繋がりで言うと理解できるよね、確かに。
さっきの時は確かに人間そのものって言われたら困るなーっていう感覚はすごい。
そうだよね。自分そのものとかね。
そうそうそうそう。ヒュームの言う、このいろいろな、なんだろうな。
あれ?でもちょっと待ってね。
どうぞ。
ヒュームの言う、次々といろんなことが起こる、変化する、動き続ける。その近くって言ってるんだけど、これってヒュームの言うと印象ではないんだ。
ほぼ印象と思っても大丈夫。
大丈夫なの?それは。
なんか冷たいとか暑いとかと同じような感覚で、
同じことだね。
人はある意味自分らしきものの喜びとか悲しみとか、いろんな動きみたいなものを、一応印象として経験はしている。
そうですそうです。
あれ?でもそうなると、
あー、オッケーオッケー。そっか。
それに基づいて、関連として自分がありそうだっていうのは思ってるんだけれども、
それを自分そのものだと思うのは、神がいるとか、正義そのものがあると、勘違いしてるのと同じことですよっていう論述なのかな。
そうですそうです。
あー、オッケー。そういう感じだったらわかるね。
前回の因果関係と実は同じ構造で、
要は因果関係もいろんな習慣の繰り返しで、そこに因果関係でも妄想してしまってるじゃないですか。
そして僕らが喜んだとか悲しいとか美味しいものを食べたとかっていう時に、
それを繰り返していくと、それをやる主体としての事故とか、
そういうものを望んでいるものとしての事故っていうものを勝手に妄想してしまうっていうふうに言うんだよね。
はいはいはいはい。
それはでも、因果関係の話で、そう考えずにはいられない心の傾向というか、
そういうものを人間が持ってるから、事故というものをある種ひとまとめにしちゃうんだっていうふうにヒューマン言いますと。
なるほどね。確かにケーキなんて100回食べても美味しいからね。
だからそのケーキが好きな自分というものを僕らは勝手にラベリングというかサバにしちゃうんだよね。
そういうふうに言っていくんだよね。
ヒューマンに言わせると、眠ってる時ってあるじゃないですか。
要は知覚を失い何かを見たり観したり、基本的にはしてない。夢とか見てるかもしれないけど。
そういう時は私自身っても当然観しないじゃないですか。
仮に事故があったとしてもね。
だから寝てる時はヒューマンから言わせると、事故って呼ぶのはそもそも存在しないと言えるんだよね。
でも普通の人が僕らからすると、寝てる時にも自分ってあるでしょとか、
そうやって自分が寝てる時は自分のことを自覚してないかもしれないけれども、
寝てたらまた自分っていうのがそこにあるでしょっていうふうに普通は捉えるんだよね。
それも経験則みたいなところね。
そうだね。起きたらちゃんと自分であるっていうふうなことを繰り返してるからね。
そうね、一応ね。
それを経験だって言えればヒュームなんだけれども、
それに対して普通の人は自分がとか私がとか妻がとか、
そういう概念をある種作っちゃうんだよね。
ヒュームの視点と自己の錯覚
そうかそうか。これは習慣的に明日も起きたら自分だろうってヒューム的に考えれば思えるけれども、
これをだって自分がいるんだから当たり前じゃんってことを言い出すと、
ヒューム的にはそれは妄想じゃないですかねっていうふうになっちゃうんだよね。
その印象ありますかっていうふうになっちゃうんだよね。
自分の印象ありますかと。
そうですそうです。
こういうふうに言われるとさ、結構人間が近くの束であるとかさ、
そういう次々と起こるものの、それをまとめた時に勝手に名付けちゃったもの、
妄想として見えちゃったものっていうふうな発想をイメージで置くんじゃないかなと思うんだよね。
そうだね。神、正義、人間、自分だね。
自分そのものだね。
そのものっていうところをそのものカテゴリーに入れるとすごくわかりやすいね、確かに。
そうそうそう。
もちろん前回の因果関係と一緒で、別に事故というものがあってダメとか言ってないんだけれども、
それもある種作り出されたものですよ、印象としては対応しませんよっていうことをヒュームは言おうとするんだよね。
これもちょっと余談なんだけれども、さっき兄貴もヒューム努ってるみたいな話をしたと思うんだけれども、
これって仏教的な発想にもある種紐付けて話すこともできるかなと思うんだよね。
例えば思いもつかない速さで次々といろんな出来事が起こるとか、
やっぱり仏教的な説で、瞬間に世界が滅んで世界が次の瞬間に生まれるみたいなことも近かったりするんだけれども、
その言葉だけで言うとね。
根本の発想は全然違うんですよ。これ結構僕は面白いと思っているんだけれども、
ある種仏教ってさ、物の本質がない、全ては空であるって世界じゃないですか。
その中でいろんな関係性というものに着目して、例えばそれこそ因果とか、
そういう関係っていうもので世界が成り立ってるよっていう話をしていくんだよね。
どっちかというと関係の方に注目するんだけれども、ヒュームはあくまでもやっぱり経験なので、
自分が世界をどう印象として持ったか。
そこで注目しますと。
そうすると逆に、いわゆるさっき仏教とかで言った関係性とか、持つものの間みたいなものっていうところは、
それってそんなに大事にしたいんだよね。
なるほど。
だからいろんな感じで次々と変化するとかって言うんだけれども、
今でもヒュームはその経験とか印象の変化っていうものを大事にしていて、
仏教の方はその関係の変化とか、そういう繋がりの変化っていうのを大事にしてるって意味では、
全然その主軸に置いてるものが違うんですよね。
面白いね。確かに確かに違う感じがする。
なのでやっぱりその因果関係っていうもので、前回ヒュームは捨てたけど、
仏教は大事にしていますと。
ただどっちも自分が見聞きしたこととか実感したこと。
仏教はさ、いろんな修行とか苦行を経て、これが真理だって言って取ったわけじゃない?
仏教との対比
だから頭で考えるんじゃなくて、自分が経験したときに、
物も本性じゃなくてすべては関係だっていうふうに仏教は考えたし、
ヒュームはすべてが印象とすると、
三形性とかっていうものが、ある種妄想だみたいな。
っていうふうに同じ、ある種経験を大事にしてるんだけども、
全然違うことを言いながらも、やっぱりすべては変化だみたいな、
そういうテーマのことを言ってるっていう。
違うけど近いとか、同じだけど立ってるとこは全然違うみたいなところが、
すごい面白いなとかっていうふうに思ったんですよね。
わー、これは本当に面白そうだね。
今、ハヤトの話を聞く感じだと、
確かにヒュームの方が、いわゆる人間なのが、
人間そのものはいないとか、自分そのものはいないみたいな感じではあるんだけれども、
すごく自分とか、人間一人一人の可能性だったりとか、個人主義的な?
はいはいはい。
そういう、あと自分が成長っていうとあれだけれども、
自分が自分で道を切り開いていくのだみたいな、
そういう可能性というか、ちょっと個人主義との相性がすごい良さそうだな、みたいな感じがしました。
さっきの話だとブッダの方が、もうちょっとやっぱりその、
やっぱりその環境?そこの環境は、
若干虚無心というとちょっと語弊はあるんだけど、
あんまり個人が世界を変えていこうっていう感じじゃなくて、
このある世界の中で、このある自分みたいにさ、
もうちょっと自分が包摂されている世界の中に、
個人主義感の薄さみたいな感じがするよね、ブッダの方が。
そうだね、やっぱり実際にヒューブンは、僕はやっぱり社会っていうものとそれをまた接続しようとしていろいろ考えていくんだけど、
やっぱりブッダとか仏教はその社会っていうものじゃなくて、むしろそこから離れた存在として、
下脱を目指すとかっていうふうにやっぱり目的が全然違うじゃない?
そうだよね、革命起こしますって感じじゃないもんね、ブッダの方が。
だからそういう意味だと、やっぱりそのまさに目的、下脱をしたいのか、
世の中、どこが世の中を良くしようと思ったかはあれだけれども、
人間の根本を掴むことで、やっぱりより世の中に貢献しようとか、世の中の学問とか接続を進めようということを考えていたはずだから、
そこに対する違いっていうのは結構大きいだろうね、今僕も話して感じたけど。
確かに、ヒューブンの方がちょっとこう、世の中の啓蒙感があるよね、なんか。
そうだね、それは絶対あると思う。
ブッダは下脱しようみたいな。
そういう新しい手法を開発したという方が、やっぱりブッダは強いから。
手法なんだ。
手法だね、うんうん。
だから、その意味ではなんていうのかな。
当然、宗教としてだけで全然違うし、時代もね、もちろん遠いからなんだけれども、
ただね、そういういろんな違いがありながらも、ただ両方が事故は自分とは錯覚だとか、
そんなものはないよっていう視聴者になるとそれはそれで面白いなって思うんだよね。
そうだね。
逆に言うと、僕らまでどんだけ普段自分っていうものがあるとか、
そんなの疑えないって言ったとしても、
意外とちょっと疑おうとすると、脆いもんなんだぜみたいな。
そういうところをね、今日はちょっと話してもらえれば嬉しいなと思ってるんですよね。
そうだね、確かに確かに。
ヒュームに感じる、自分はないとかさ、あるいは一瞬一瞬変化し続ける。
それをただ自覚しているだけだって、確かにブッダと似たようなことを言っているんだけれども、
それが、自分も話しながら思ったんだけど、
虚無主義っぽくならないというか、転生?
世から離れるって感じにならずに、むしろそれが前向きな方に成長とかさ、
革命って言ったらちょっとあれだけど、一人一人が自分でちゃんと考えて生きていくとか、
そっちにつながる。
前向きっていうのも価値観だからあれだけど、
そういうふうにつながるのって、ちょっと意外なんだなって思った。
自分の中で意外だったというか、初めて思ったというか。
普通ね、自分はないとかさ、そんなものは妄想って言うとだいぶネガティブなふうに感じると思うんだけど、
そうじゃなくって、実際にこれ、ヒュームの表現で面白い表現があって、
だからインファークトと一緒に、事故もそれがないって言ってるわけじゃないんだよ。
それに印象がないって言ってるだけだから。
自分そのものはないけど、事故は観念として持ってもいいよみたいな。
観念としては持っちゃダメ。
ダメなの?
だって印象はないから。
あ、出た。うるさい。そっか。
概念としては、そういうものはあってもいいよねと。
そこをちゃんと聞い分けましょうねっていうか。
聞い分けましょう。
まだヒュームをちゃんと学べてないね。そっか、観念ではないんだ。
観念ではない、そう。
自分の観念は作っちゃダメで、作ってると思ってるので、それは妄想だとわかりましょうねって話。
そうです、そうです。
ただ、世の中の人はそういう妄想に基づいて生きてるよねとか、別にそれ自体が人間の傾向として陥りやすいということ自体は別に否定してないっていう感じなんだよね。
僕が面白いなと思うのは、例えば事故というものは、想像、それは観念だから、妄想できます。
それを考えたときに、それっていうのが一つの共和国だったかって言ってるんだよね。
共和国って何かっていうと、まずは王政じゃない、いろんな考えがある人が国を運営してますよねっていうときに。
共和国っていうのは、メンバー、要は議員さんとかがいたらそれも変わるし、法律とか組織とかも別に変わるじゃないですか、日本とかを考えてもね。
でも、その国、日本っていう国が、例えば総理大臣が変わりましたとか、政治の体制が変わりましたって言っても、日本だということは変わらないじゃない。
それと同じように、人間の事故とか魂みたいなものも、性格が変わりますとか、何かそういう人柄が変わりますかってあったとしても、その人だって同一政治というのは失われないんだっていうことも言ったりするんですよ。
逆に、これさっきの話と一緒なんだけれども、特定の機質といえば、彼に財大さんは優しい人だねとかって言ったときに、優しさの方に事故が仮にあるとすると、優しくなくなったらその人は別人になるんですかっていう話になってるじゃない。
僕はさっきのテセレスのフレンドと一緒で、仮に脳でも心でもいいんだけど、どこに事故があるとしたら、脳移植したらその人ってその人じゃなくなるんですかっていう話になるわけだよね。
記憶と自己の形成
そういうときに、実はそうじゃないんだと。そうじゃなくって、事故は妄想でその都度作り出されているものだからこそ、いろんな変化が起きたとしても、その人っていう同一性はちゃんと担保されるんですと。
そういう意味では共和国っていう話はそうだけれども、いろんな変化を受け入れつつ、それでも自分としてあり続けるとか、そういうふうな妄想なんだけど、それを持って生き続けられるっていうところは、実はヒュームの論をたどると意外と希望があるというか、そういう変化する自分というのを構成できる発想やっぱり繋がるんだよね。
はいはいはい、なるほど。
だからある程度それ自身が人間の自由とかに繋がっていくから、ヒュームってどうしてもラディカルだし根本化を否定するんだけれども、やっぱりロックみたいな、いわゆる人類は平等であるとかさ、
そういうことを考えた人の後継者というか受け継いでもいるから、そういう意味ではちゃんと人間というものをより良くしようとか、より良い社会を作ろうという発想に繋がっていると、本当にそこがあるんだよなと感じるんだよね。
うんうんうん、いやーそうだね。
うんうん。みたいな感じで、さっきの兄貴が感じてくれた明るさとか前向きさというところが、実際ヒュームの本でも感じる部分かなとは思っているんですけれども。
うんうんうん。
話をまた戻すと、結構兄貴は素直に、確かに事故ないか妄想かもとかって言ってたりすると思うんですけど、でも例えばそういうまだ事故があると主張したい人がいたときに、例えばそうは言っても確かに人間と変化するかもしれないし、
いろいろね、それで繋がれないかもしれないけれども、我々には記憶があるじゃないかと。
うんうんうん。
さっき言ったように昨日寝たときの記憶と、今日起きたときの記憶というか現実のときに、それをちゃんと繋ぎ合わせることで自分というものってちゃんとできるよねとかって言えたりするよねと。
ほうほうほうほう。
そういったことも言えるんですけれども、結局に言わせるとそれは逆なんだみたいな話をするんだよね。
逆。
逆。つまり記憶ってものがあるからこそ、人間っていうのは事故っていうものを作り出しては錯覚しちゃうんだと。
うんうんうん。
記憶と観念の関係
つまりこれ繋がりっていう話をしたから、逆に今日の前回の話を聞いてる方からすると、そうだよって思っていただけるかもしれないんですけれども、記憶ってこれは観念だよね。
うーん、ちょっと待ってね。だからこの印象とか観念とかさ、その辺の切り分けがやっぱりまだスムーズに全然できないから。
いや、難しいよね。
記憶は観念?
記憶は観念です。出来事を思い出すっていうことは、その印象に基づいているから。
え、でもあれじゃない、妄想に基づいた偽観念もあるでしょ。偽記憶というのはないのかな。
ありますあります。
妄想からの記憶にも名前つけた方がいいかな。
そっちはじゃあ偽記憶としようか。つまり仮に印象がないもの。
例えば自分っていうものが今、例えばじゃないって言われてるけど、自分がいるっていう記憶をもとにしたらそれは偽記憶だよね。今この場で言うと。
そうだよね。その妄想の中で作った観念らしきものだから偽記憶。
あ、そうですそうです。
観念を覚えてるものだから。
そうそうそう。そういう時に、例えば昨日の夜布団に入ったっていうことが印象として持てるじゃない。
そうね。だから今回その自分はないのだみたいな話をしてるから、そんなない奴の経験なんて全部妄想だって言っちゃうと、それはあまりに。
それは絶対に言わないヒュームは。
やりすぎで。
そう。あくまでも経験から来る印象っていうのはすればOKって言うから、自分がないから経験もないっていうのはむしろ自分を大事にしてる人の発想なんだよね。
自分を大事にしている。
だって経験をするってことは自分という受け皿が必要だって思ってるわけでしょ。
自我の錯覚
受け皿がなくなったら荒れる経験は無意味だっていうふうな発想をするっていうことは、受け皿の方を大事にしてるんだよね。
なるほど。自分そのものがあるって考えてないとそういう発想にはならないんだ。
ならない、そうそうそう。別にヒュームは自分というものがなくても別に人は経験をするし、その瞬間瞬間の知覚っていうものを基づいて行動できるって考えるから、自分のものはいらないんだよね。
キモ!ヒュームキモいなー。どうすればその感覚になれるんだろうね。
ね、本当すごいよね。それは発狂もそうだと思うよね。
いやー、ノイローゼイね。確かに一回自分が崩壊させないとできないからね。
そうそう思う。
だから、自分そのものみたいなものはない感覚になると、今のヒュームのまず印象ありき、まず経験ありきみたいな感覚が自然になるわけね。
その結果として、あなたは自分らしきものを認識してるんだから、自分がないと経験というか印象を持てないっていうのは、言葉として成り立ってませんよ、そもそもと。
そうですそうです。
おかしいでしょこれ。
そうだよね。たしかに今僕も言ってて思った、まず自分をなくしてくださいって、おかしい前提だと思ったんだけど、
これね、さっきのデカイトンスは、やっぱり我を思うゆえに我あり、日本語で言うとね。
それはヒュームにとっては絶対間違ってるんですよ。
なぜなら、我を思うの我っていう主語を先に言っちゃってる時点で、もうダメなんだよね。我を前提にしてるから。
神そのものがある。私そのものがあると同じレベルで、そこ申し入りしてる状態だから。
そうそうそう。我を思う、我っていうのは後から出てくるものなので、
多分ヒュームに言わせると、これはヒュームが別に書いてる訳じゃないんだけども、まず思うと。ゆえに我という錯覚とか妄想が生まれるっていう風な感じなんだよね。
でも思うっていうことは別に我ということを想定しなくてもできると。
うわー。
うん。いう風な発想でございます。
すごいね。改めてすごいね。
ね。
すごい発想だよね。我ってなくてもいいんだ、みたいなね。
うん。無理だよ。
無理か。
うわー。うわー、でもだから、自分なんかさっき言ったやつだから、そもそも思えないじゃん、とか印象ないじゃん、みたいな風に感じちゃうのは、まさにヒュームからしたらニヤリ、下着顔だよね、ヒューム的には。
そうそうそう。自己の妄想に捉えてるねっていう感じなんだよね。
うわー、怖っ。
でも今の話で、自分が捉えてるものが少しわかったかも。
また一段見えた気がするね、確かにね。
ちょっと話を戻すと、記憶があるといったときの記憶っていうものも、私の記憶っていうんじゃなくて、何か、例えば布団に入ったときの冷たさでも温かさでもいいんだけど、そういうものとして感じた記憶っていうものは観念としてありますと。
はいはいはい。
その観念と、今起きた、で、日の光を浴びて、例えば爽やかだと感じるとか眩しいと感じるっていう観念もありますと。
その布団に入ったときの記憶の観念と、今起きたという観念っていうものを結びつけることはもちろんできるんだけど、
それを結びつけた瞬間に図法っていう錯覚が生まれてくるよねっていうふうな、そういうことをヒュームは考える。
だから自分があるから結びつけるんじゃなくて、結びつけたから自分が生まれるってやっぱ順番なんだよね、どこまで行っても。
わー、それがさっきヒュームが言ってた、いろんな近くの束の交差要素だったはずね。
社会との関わり
例えば2つがあるとか。
布団に入ったというものと、起きた眩しいというものを重ね合わせたときの束。
とか、カーテンを開けるときの手の感触だったりとか。
そうそうそう、そういうことそういうこと。
シャーッとかね。
そうそうそう、それがまさに近く。
それは近くなんだ。
誰か知らんけど、裸足で床を歩いてるとか。
誰か知らんけどね。
そうそうそうそう。
ただ誰か知らんけどの全部統合すると、自分っていう妄想が生まれるわけね。
そうですそうです。
もっと言うと、これは多分すごい面白いんだけど、誰か知らんけどって思っている人すらないのよ。
まあまあ、それ思ってないからね。
そう思ってないから、それないから。
歩いている、冷たい。
その印象はないから。
誰か知らんけどっていう印象はないからね。
ないから。
そのカーテンを開いているシャッという音がする。
でも全部聞こえたときに、それを感じている自分というものが生み出される。
おーおーおーおー。
っていう感じかな。
はいはいはいはい。
うん。
でも結構これは、もしかしたらなんかそういう、例えばダンスとかなんだろうな、
そういう身体的な活動をしている方とかはもしかしたら感じやすいかもしれない。
あるじゃん、傍観状態とか、自分がない中で身体だけがただ踊っているとかさ、動いているという感覚って。
像を持っている。
そう、まさにまさに。
そういう人からするとすごい話しやすいかもしれないね、こういう感覚っていうのは。
なるほどなるほど。
うん。
はい。
あってな感じで、やっぱりヒュームからするとその事故というのは錯覚であると。
で、それは悪いことじゃないんだけれども、因果観察と同じようにそこにやっぱりロジックはないし、
それは前提で考えちゃダメだっていうことをここまで言い切るんだよね。
わーすごい。
うん。
で、これが面白いのが、冒頭ちょっとお伝えしたんですけれども、
やっぱりヒュームは事故とは何かってことじゃなくて、人格の同一性についてっていうふうに言ってるんですよ。
うんうんうん。
この同一性っていうのがまさにここでいう問題で、
要は変化し続けてますよねとか、その時々の印象とか近くは違いますよねと。
うん。
だから僕らはそこに同一性、要は同じ私観の生えている存在が見たり聞いたりするって思ってしまいますよねと。
うーん。
うん。で、これは人間だけじゃなくてあらゆるものもそうね。
動物とか植物もそうだし、修理される船とかもそうだし、石ころとかも全部変化してるよねと。
はいはいはい。
でも変化してるんだけれども、その変化に気づかない限り、人間ってそれを同じものとしてみなしますよねと。
うーん。
うん。
例えば実際、これも例としてはあって言うんだけど、例えば何か塊、石の塊だった時に削りますと、釘でポンって削った時に、
だから凹むじゃない、本来は。
うんうんうん。
でも人間はそれを気づけないとした時に、それを僕らは削れた石じゃなくて同じ石の塊だったように多分思うんだよね。
あーはいはいはい。
うん。っていう風に、僕らがやっぱり持ってる印象ってそのぐらいちょっと雑と言えば雑なんだよね。
なるほど。
うん。でも別にそれでいいじゃないかというか、そういう風にむしろ人間っていうのは世界を捉えてるんだよっていうことを正面から見せましょうっていうのが言いたいことですよと。
うーん、そうなんだ。
うん。
だから理性からするとちょっと削れた石を見た時に、その削れとか変化を捉えられないのはダメだとかさ。
うーん。
それに気づけないのは世界を誤って認識してることだとかって言いたくなるんだけど。
うーん。
だからあくまでもそれに気づけない時に、それを同じ石だ、その石って変わってないよねとか、同じものだっていう風に言うのがむしろ人間の認識なんですと。
うわー、はいはいはいはい。
うん。それをむしろちゃんと認めましょうねっていう風な話なんだよね。
すごい、そっか。だから時代背景考えると、だいぶ、あれだね、神から宗教から、さっき個人主義みたいな言葉を使ったけれども、だいぶ人間の立場を上げるというか、変えてるね、なんか。
変えてる、そうだね。やっぱり人間、中心主義ってあえて言うけど、やっぱり人を基準にしてちゃんと物事を見ていきましょうって。
これはね、僕らがすると当たり前なんだけれども、当時の発想からするとやっぱり全然違うんだよね。
うんうんうん、そうだよね。
みたいな感じで、やっぱりロックがまさに神と人の関係っていうのを変えたからこそそういうものが生まれてきたってあるんだけれども、こんな感じでね、今回の事故とは何かとか、自分とは何か、それあるのかないのかっていうことをヒュームとともに考えてきましたよと。
で、やっぱり僕らの当たり前にあると思っている自分っていうものが、ヒュームからすると単なる知覚の束。
で、やっぱり妄想、後から扱えた妄想というか、錯覚に過ぎないんですよと。
で、そうなると自分なんてないのかっていう話なんだけど、そうじゃなくて、そもそもそれを想定しなくても僕らは全然いろんなことを見聞きできるし、生きていける。
ということでいくと、確かにやっぱり自分的にこだわらなくても、もっと変化していいのかもとか、もっと自分というものを広く捉えていいのかもとかっていう風に繋がるっていう意味では、
マイナスにちょっと怖くもあるけど、まさに希望もあるというか、そういう風な発想に繋がるっていうのも感じていただけるんじゃないかなっていう風に思うんだよね。
だから宗教もそうだし、ある意味身分とか世襲とか、そういうのも含めてだいぶ開放される感じはあるよね。
そうそうそう。やっぱりそういう意味で自分というものをどんどん開放していくような時代としても来てるなって感じるんですけど、
そういう風に自分の事故とか自分というものをマイナスに見ていたときに、個人の話をするじゃないですか。
そうすると今度はやっぱり社会の話をしたくなるんですよね。
いやーすごいねー。
ね。そう。なのでやっぱりどういう風に他の人と関わって生きていくのか。
道徳ではね。何が正しく何が間違ってるのかとか、そして何が善で何が悪かっていうところがテーマにもなってくるので、
こういうところをですね、次ちょっと見ていきたいなと。で、さらに次でまさに宗教っていうものまで増えていって、
ヒュームの哲学と存在
ヒューム界。まさに道具をまず印象と関連というものを見ましたっていうところから、因果とか人間とか事故というものに来て、社会と宗教っていうようなところを貫くような形で見ていくと、
ヒュームのやっぱり全体感が見えてくるかなと思うので。
わー。何か隙がないね。何か、何だろう、そこそこ包丁とかね、そういうまな板とかだときに。
うん。
言うて包丁、すげーってさ。包丁ね。
包丁って何?
あれ増えた?包丁っていう。
ちょっと気になっちゃった。
え、包丁じゃない?包丁って言っちゃうね。
あ、え、そうなんだ。それもあんのかな。
でもみんなに言われるので、こっちが間違ってると思うんだけど。
言われてるのは方言なのかな?
ごめんごめん。あれで入れちゃった。
いや、同じだなと思ってね。やっぱり使おうと思ったら人も消えるじゃん、包丁って。
あーそうね。
他、今回の自分はないんだとか、あと印象が大事って、やっぱり前のロックの時もあったかもしれないけれども、
その人がさ、「いや、俺はこう思ったからこうなんだ。」みたいなさ、やっぱ言えちゃう部分、言えそうな部分。
そうだね。
悪用も可能というかさ。便宜がゆえにというか、協力がゆえに。
そこを取り扱い注意みたいなところまでちゃんと話してるんだなと思って。
うんうんうんうん。
やっぱりね、ともすると自分がこう感じたっていう風に主張して、やっぱりすごく独我論とかでは、自分だけが良ければってなっちゃうんだけど、そうじゃないよねと。
うんうんうん。
やっぱりちゃんと考えている人なので、あと2回分くらいかな、ぜひヒューブの世界観を触れていって、
ここをイギリスの経験論って、なんとなくこんなものだったんだというところを一緒にまた見ていきたいという風に思ってますという感じですね。
はい、分かりました。
では次回ですね、次は自分から社会の方に目を向けて見ていきたいというところで楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。