はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回で働くことと哲学の第4回ということで、いよいよ現代に近づいていくというところでした。
はい、前回はですね、マックスウェーバーだったりとか、ルーターとかカルバンとか、石田バイガーさんとかいろいろな名前を出しちゃったんですけれども、
やっぱり元々ね、働くって嫌じゃん、奴隷のやることじゃんっていうところから、いやいや、働くことこそが神の救いだみたいな、
あるいはね、心の修行だみたいな、そういうところに結構ガラッと変わったよみたいな、そういう風な話をしたと思うんですよね。
だいぶね、掛け合わしっぽかったけど、すごいボリュームだった気がする。
はい、聞いてたね。
面白かったな。
よかった、だいぶ走りすぎちゃったかなって確か思ったんだけれども。
今回、より現代の話をしていこうと思っているんですけれども、僕らってね、今働いている中で、
特にこの日本っていう話でいくと、よく言葉で奴隷のように働くみたいなことはあるかもしれないけれども、
本当の意味で奴隷として別に身柄を拘束されているわけでもないし、
いやだったら、もちろん辞めるのも大変だけれども、
いろんな理由で辞めることができない人もいるとは思うんだけれども、
一応、権利というか、物としては辞める自由とか、働く場所を選ぶ権利とかはありますよね。
はいはい、ここも話し始めるとなんか長くなりそう。
そう、長くなっちゃう。
面白いテーマだなとは思うけど。
一旦制度上はね、話し合った時に、
でもやっぱり、そうはいえ、僕らってやっぱりね、
なんでこんなところで働いてるんだろうってことで働いてしまうとか、
もっと言うと、神に救われたいとかっていう人もいるかもしれないけど、
そうじゃなくても、やっぱり仕事ってもうちょっと頑張った方がいいよねとか、
仕事を通じて自己実現をするんだとかさ、
むしろ仕事には意味があるとか、
僕もね、キャリアアドバイドとかそういった仕事をしてる中で、
仕事に対する意味ってめちゃめちゃ大事だと思っているし、
それがあった方が人生豊かになるとも思ってはいるんだけれども、
やっぱりそこってじゃあ、なんでそんな風に思ってるんだっけっていうのを問うことができるわけだよね。
なんでこんなルールになってるんでしょうかっていうね。
2000年前は奴隷のことだったじゃんみたいなのがあったときに、
ちょっと前回もおっしゃってたけど、今日はちょっと暗いというか、
わりと悲観的な話をするんですけれども、
そういった目で捉えたときに、現代の仕事とか労働っていうものをどう捉える目があるんですかっていうのをお話ししていこうと思ってます。
今村ひとしさんって日本の哲学者の方なんですけれども、
この人の発想でいくと、労働社会って言葉があってそれを見ていくんだけど、
もう一個がね、ビョンチョル・ハンさんっていう人がいて、
僕も初めてこの回を調べてるときに出会った人なんですけれども、
この人は1959年にソウルで生まれた方で、
ドイツで教えてる哲学者の方ですと。
この人は疲労社会っていう本を出してて、疲れる社会ね。
この今村さんの労働社会っていう言葉と、このハンさんの疲労社会っていう、
ちょっとどっちもポジティブな言葉ではなさそうな気がするんだけれども、
それを今日はお話ししていこうと思っていますと。
なんかあれだね、働きしもというか、
どっちも東アジア生まれ、
ビョンチョル・ハンさんはドイツか、ドイツで活躍してるっていう話だけど。
活躍はね、生まれはソウルだから、東洋というかアジア的な話ではあるね。
早速今村さんの方から言っていくんですけれども、
現代っていうものを象徴する言葉として、労働社会という言葉を言っている。
もっと言うと、この労働っていうものが、近代とか現代を作ったっていうぐらい今村さんやってるんですよ。
どういうことかっていうと、まさに今村さんの仕事っていう本の中でも、
過去、仕事っていうのは扱われてたっていう、今回話をしてるんですけれども。
中で1個注目した面白いのが、
人類の歴史の中でいくと、働かないっていうことがステータスだっていう時代がありましたよね。
例えば平安貴族とかもそうだし、王様とかもそうだよね。
もちろんいろんな儀式とかあるかもしれないけれども、
それはいわゆる働くとか労働っていうことじゃなくて、
まさに神に使えるような神聖な儀式だったりとか。
また平安貴族でいうと、自分が障がいを管理するんじゃなくて、
代理のものを立てていって、その人にやらせていく。
自分が歌を読んだり、そういった旧中の遊びというか、
それはもちろん政治的なことだから、仕事と言えなくもないんだけれども、
通常の意味では働くではないという階級がいましたよね。
つまり、働くとか労働をするっていうのは、
当時の科学でいうと、いやしいものとか、自分たちではやるものではないっていう発想で、
労働の外にいるっていうこと自体が、むしろ自分たちの教養の高さとか、
役職の高さとか、そういうところにつながっていくって発想があったわけなんだよね。
ただ当時、近代、1900年くらいになってくると、これっていうのがいなくなります。
つまり、貴族というよりは王室であったりとか、政治家でも別に社長でもいいんだけれども、
結局、自分はいつに働いているかとか、いかに自分が忙しいかだよね。
それをアピールしないと、社会的な承認も得られないし、正当性もないみたいな、
そういう時代が来ましたよね、というふうに言うんだよね。
この可能性ってどうかな。
すごいわかる。確かに改めて考えてみると、みんな働いてるね。めちゃくちゃ働いてるね。
なんかね、暇はダメとかさ、もちろん最近カウンターとして、むしろ暇なことが良いとかさ、
空白も大事とかってあるかもしれないけれども、そう言われるのも結局は、
むしろ予定が詰まっていることは良いとかさ、そういう発想があるから、カウンターとして生まれてきてるわけだよね。
つまり、もともとは本来、歴史の中で働かないっていうふうな自由を享受している人とか、
むしろそういうふうな労働の外にある自分っていうふうな立ち位置があったんだけれども、
それがなくなっちゃって、みんな誰も彼も労働っていうような枠の中で動いてませんかねと。
これがある種、今村さんが言わせると、労働っていうのは神になってるよねみたいな話とか。
もって言うと、あれより人間が奴隷化されてませんかみたいな。
そんなぐらいまで言っちゃってるんだよね。
なかなか激しい表現を使ってるね。
そうそう。
なので、これはもういろんな価値観とかあるんだけれども、やっぱり働かないっていうことはイコール働けないっていうことで、
社会的にちょっと外れてるんじゃないかとか。
働かないということを選択することが、ものすごい意思決定に思えるとか。
こういうふうな時代になっちゃってるねというふうな感じなんだよね。
そうね、はいはい。
うん、ね。
そういうところでいくと、働くっていうのは、むしろ隅々まで浸透しきった社会に僕らはいますよねっていうふうな発想を今村さんの指摘なんだけれども。
さらにここにね、より悲観的なというかつらいなっていうのを話すのが、ハンさんの疲労社会って話なんだけれども。
これ何かっていうと、前回お伝えしたプロテスタンティズンみたいな話も含めて、やっぱり働くことの正当性とかって外にあったじゃないですか。
つまり神様のお墓示しであるとか、要は資本主義っていうシステムの中で生きていくためには働くっていうことをある種しなきゃいけない。
あー面白いね。外だね、多少。
あるいはイシャワイガンさんの修行っていうものでも、もちろん内側から出てくるものではあるんだけれども、
それによって仏の道に近づいていくとかっていうと、そういった目的に対して働くっていう手段を作ろうみたいな、使おうみたいな、そういうふうな構造があったわけなんですよね。
なので逆に言うと、働かざるものを食うべからずみたいな感じで、そういうふうにやりたいんだったら働かなきゃいけないとか、
そういうふうな規則とか規律に従った時に、労働っていうものが定義された時代だったんだっていうふうにハンさんは言うんですよ。
なるほどなるほど。
でも現代は違うって言うんだけど、どうだろう、じゃあ現代はどんな時代ですかって言われたらどう思う?
そうなの?前回最後で言った、当初は思想と技術というか思いが。
はいはい。技術と倫理とか思いだよね。その後どっかに広がるよっていう。
言うと、いわゆる進行期間とか忘れられたとしても、いわゆるその仕組みとして、システムとしては残ってるよねみたいな意味で、
外的なものに支配っていうと強いかもしれないけど、やらされてるよねっていう意味では変わらないのかなと思うけどどうなんだろう。
はいはいはい。っていうのがね、要は外に基準があるっていう話なんだけれども、
外じゃなくてやっぱり内になってませんか、内側に来てませんかっていう話をハンさんは言うんですよ。
これは失敗したのは自分のせいだ、逆もしっかりこれ成功したのは自分がうまくいったからだみたいな風に思わせられるようなシステムになってるよねっていう話をこの話をしてるってことね。
そういうことです。
すごいわかると思うそれは。
これが実は面白いのが、
結局風光って言うじゃないですか、哲学者。
風光は結構キリストが規則っていう外部の力によって人間が動かされているっていうそういうふうな仕組みを暴いたんだよね。
でもハンサンは実はそれを乗り越えて、そのキリストが規則っていうものももう今力を失い始めていて、
実は現代っていうのは今言ったような肯定性、要は自分で自分を盛り上げていくとか、
自分で自分に高い目標を立てて、
よく見ると自分経営者であるみたいな、自分というものを経営するよみたいな発想ってあると思うんだけど、
経営者である従業員とかってもう無理じゃんみたいになってくるわけよね。
でもそれが良しとされるとか、そこにむしろそれって良いことだよね、肯定的だよねっていうふうな評価がついてくるっていうことが行き着くと、
ハンサンの炎っていわゆるバーンアウト、燃え尽きてしまうとか、
あるいは過労を含めてそういうふうなことって起きてるじゃないかと。
でもそれって要は誰かに強制したってもちろんあるんだけれども、
自分で自分にそれを強いてしまっている、そういう構造に変わっちゃってるっていうことを言うんだよね。
あー面白いね、そっかそっか。
本当にここちょっと繰り返し言うけど、
人間がそもそも自分を追い詰めるというか、
今回の話で言うとね、そういうものを持ってるんじゃなくて、
仕組み的に育ってるでしょってところをこのハンサンはすごく多分指摘してるんだよね。
そうそうそう、そういうことそういうこと。
ここはでも表現がむずい。表現っていうのは、そこを俯瞰で見るのって意外と難しいかもしれないよね。
難しいと思うし、やっぱり国によっても多分違う。
あーなるほど。
韓国の人っていうのはちょっと面白いなと思ったんだけど、
社会人、仕事だけの話じゃなくて、多分勉強にもめっちゃ言えるんだろうなって思うんだよね。
はいはいはい。韓国って受験がすごいって言うもんね。
すごいのかすごかったのかみたいな、ちょっと現状まだわかんないけどイメージで言うとね。
日本もそういうイメージあるじゃん。ちゃんといい大学、いい系みたいなさ。
あるね。
勉強も似てるじゃん。できるはずだからもっとやれみたいなさ。
あーそうだね。
やればやった分だけできるようになるはずだみたいなさ。
はいはい。
結構、ちっちゃいううちからあえて呪縛って言うとさ、
呪縛だったりルールに向かってると、社会人で言ってもその感覚でいくと結構辛いよなって。
怖いえ、それが自分も周りも当たり前として回ってる環境だと、まあそれは確かに再生産されるかみたいな感覚はあるよね。
そうなんだよね。これもね、ちょっと次回を込めて言うけれども、やっぱりその仕事で転職っていうシーンとかに対して、
やっぱりこう、あなたのポテンシャルをもっと発揮しましょうとかさ。
もっとこんな風に、あなたの力を発揮できる環境がありますよとかって、例えば言ったりしますと。
それ自体はもちろんいいことと思って言ってはいるんだけれども、
でもある種その肯定性の輪にハメているんじゃないかっていうことも言えるわけだよね。
そうなんだよね。その肯定性の輪にハマらないで自分で意思決定した上でそれを望んでるならいいんだけど、
転職したい人がね。で、転職させようとしてるというか、早いところの立場の方も、
それを分かった上でアドバイスしてればいいんだけど、このシステム上の上でお互いが、
私もっと頑張らなきゃダメなんです、もっとできるはずなんですとか言いながら紹介する方も、
いやあなたならもっとこっちを目指した方がいい、あなたにもっといい職場があるはずだって。
結構信号の4個まで出てきてもおかしくないぐらい面白い話だよねっていう。
そうそうそうそう。やっぱりそこって結構込み一重じゃないですか。
だからやっぱり今僕らが無意識的に使い勝ちな、まさにもっとできるはずとか高みを目指そうとか、
もっと頑張れるみたいな話っていうところも、やっぱりこう、どうすると内側からの矯正というか、
人から言われれば外側からの矯正なんだけれども、自分で自分にする言葉かけていやしませんかねという話があるわけなんだよね。
で、なんでこういう変化が起きちゃったのかっていう話なんだけれども、
一般的にいろんな分析の中でっていう話でもあるんだけれども、
やっぱり現在で僕らは価値を置いているとか、何か正しいとか間違ってるっていうのを判断するときの基準として、
よくあるかなと思うのが、いわゆる計算ができるとか予測ができるとか、
あるいはもっと合理的であるみたいな。そういうことの価値っていうものが、かなり今まで強いと思うんですよね。
はいはい。不確定性強い方がダメだよねっていうことね。
そうそうそう。だから仕事においてもさ、この仕事がうまくいくかどうかわかりませんっていう人と、
うまくいきます。なぜならこうこうこうとかしているとしたら、当然後者の人のほうが評価されるじゃん。
だからやっぱり仕事とか利益とか考えたときに、やっぱりこういったコントローラブルであるとか予測が立つっていうことが評価されやすいんだよね。
あともっと言うと、あることを行うっていうことは、例えばこの目的のためであるとか、
この目的を達成するためにもっと効率をよくしましょう、利益を上げましょうみたいな。そういうものが善である、良いのであるみたいな話が、
なんか僕らの無意識の中にかなり埋め込まれてくるわけだよね。
まあそれが評価されるルールの中で生きてるからね。
そうそう。もちろんそうじゃない。例えば別にそんな効率とか言わずに、やることやってればいいですっていうふうな世界にいればそこは多分ないとは思うんだけれども、
そこはやっぱりその構造がありますね。そのときに、例えば今僕らが仮に効率を高めましょうとか、目的のために手段というものを磨きましょうとかってなっちゃうと、
よくあるのが、例えばさ、最近こういう本もあるじゃん。なんか特殊な本を揶揄するわけじゃないんだけれども、
なんか究極の休み方とかさ、趣味も仕事になるとかさ、例えば。
はいはいはい、あるんだ。
あるある。そう、本屋さんとか言ったらあるんだけれども、
休むっていうことも、要はより仕事へ成果を上げるための手段であるとか、
趣味っていうものも、何かそこから利益を引き出すための投資であるとか。
あー、なるほど。
うん。
あ、面白いね、そこそこ。わー、すげー面白い。
何?
今一瞬その、そういう本というか、そういう考え方って、
今回話している疲労社会というか、労働社会的なところへの、
次のステップっていう、カウンターが出てきたんだよっていう持ってき方かと思ったんだけど、
違うね。その中にめっちゃ取り込まれていく、別の流れの話をしてるんだね。
そうそうそうそう、そうなんです。
つまりさっきさ、積極性とか肯定性って言ったじゃない?
つまり例えば一日仮に8時間働いているとしても、
残りの16時間、究極の睡眠をして、次の8時間のために備えましょうとかさ。
はいはいはい。
この食事っていうものも、この3食をこういうふうに食べることで、
自分のパフォーマンスを最大化して、もっといい仕事をしましょう。
それをしないってことは、仕事を怠ってるってことなんですみたいな。
うんうんうん。
そうなったらさ、もう取り込まれまくってるじゃん。肯定性の罠に。
なるほどね。だから趣味やるにしても、趣味やってると自分のポテンシャル?
稼ぐっていうポテンシャルを既存してますよねみたいな話、持って帰ってるんだねそれは。
そういうことそういうこと。
面白いね。
そうなると結局全てがやっぱり手段になってしまいますと。
目的は稼ぐこととか、より良い仕事をすること、もっと言うと自分のパフォーマンスを発揮すること。
これって一見悪くなさそうに見えるけど、今日の話はめちゃめちゃ怖いことに思えてこない?
まあそうだね。私はちょっと今回の話、この働くみたいな話に借りて言えばというか、
自分はそこに対しては生まれてから怪異的な方だから、自分のテーマに近い。
何なこの世の中は?っていう。
なるほどね。だからもちろんそれを否定するというか、そんなの嫌だよっていうのであれ、自分は違うっていうのであれ、
一定でもこういうふうな発想とか構造があるっていうことは否定しにくいと思うんだよね。
そう、そうなんだよね。そこからただ抜けるっていうのはもう不可能で、その中でどう泳ぐかだったりとか、
抜けるんだったら相当の覚悟がないと、そのソロの方に行かないとさ、相当の覚悟がないと死ぬよっていうぐらい強固なシステムだな。
だから前回か、マックスウェーバーが言ってた鉄のオレンジの焼煉が良くないみたいな話があったかもしれないけど、
穴勝ちだとは思うよね。
なるほどね。やっぱりそこに閉じ込まれているというか、そこが出るには厳しいよねっていうイメージもあるんだね。
穴勝ちね。焼煉が正しいとか、バシッとはまるから別として。
はいはいはい、確かにね。
さっきの山村さんの労働社会っていう話もしたけれども、何かを判断するときに、やっぱり働くとか労働っていうものがかなりの範囲まで出てきてしまう。
優先度というか重要度としてね。
これは当たり前じゃないというか、もっと言うとこの200年ぐらいの近代・現代っていうところの特殊な考え方なんだよっていう話なんだよね。
見ないところになったときに、第1回で覚えてますかな、ハンナ・アレントさんの話をしたと思うんですけど、ほんとなんか覚えてる?
いや、もう全然覚えてないです。
全然覚えてない。
次回はアレントさんの話を引き出して伝えていくんですけれども、当時は人間の活動っていうものを3つに分けて、もうちょっといろいろあるんだけれども、
生きるっていうものの中に活動的性っていうのがあって、その中に労働と仕事と活動っていう3つまであった話だと思うんですよ。
あーはいはいはい、あったね。
労働っていうのは、いわゆる生きるのに必然的に必要なものだけをさせようと。
食べて寝るとか、そういうことをやるっていうのがある種の労働で、これはほぼ動物と変わらないっちゃ変わらないねみたいな、そういう話をしたと思うんだよね。
で、その真ん中の仕事っていうのは、人工物を作り出す、机を作りますとかさ、そういう人間が住むための場所を作っていくんだけれども、
これもある種、なんていうのかな、やっぱり手段なんだよね。快適に住むために机を作りますとか。
あるいは、もっといい仕事をするためにいい睡眠をとりますとかさ。
っていうふうに、それは要は、自分の人生っていうのは仕事化していくこと、要は手段化していくことに過ぎないってやっぱり感覚があって。
そういう意味でいくと、やっぱり現在っていうのは、このハンサムな疲労社会ってことを踏まえると、現代人っていうのは常に仕事をし続けている。
労働って生きるためだけのものではないかもしれないけれども、自分自身っていうものを商品として磨き上げるとか、
自分、経営者みたいな時に、自分の資本力を高めていくとかってなった時に、
それはもう自分の人生っていうものをどんどんどんどん仕事化して手段化していくものですっていうふうな、そういうふうな発想につながっていくよね。
そういうふうなことにつながってくるんだよね。
どうですか、前回駆け足できてて、結構今回もバーッと話してきたけど、そんなに違和感ないというか、言われればっていう感じじゃないかな。
まあまあそうね、早藤は暗い話になるって言ってたからさ、怖い話になるんだって思ってたけども、
たぶん、現代の人は働くとか、人生に対してどういう違和感だったりとか、辛さとか楽しさとか、それはもちろん人それぞれだと思うんだけれども、
その根底にあるものはこうですよ、みたいな。どこには共通するんじゃないかなっていう話だったのかなとは思ったね。
あー良かった良かった。まさにその共通の土台を見出していくっていうのは哲学的な発想と思うし、もちろん人によってはいやいやそんな仕事なんて、
本当に給料もらうためだけで、趣味とか自分の休憩っていうのはもう一切仕事関係ないですよっていうのもいると思うんだよね。
そうね、それはもうこの労働社会における一種の悟りと言っていいかもね。本当にそこ100%できてる人は。
そうね、100%できてるならね。やっぱりどこかにはとはいえもうちょっと頑張った方がいいのかなとか、
例えば外部起立として、やっぱり生きるためには働かざるを得ない。さっき言った、生きるために食べるとか寝るとかっていう活動をする延長線上で仕事をしてしまっている人、
これは悪いことではないんだけれども、このアーレンとの分類でいくと、やっぱり労働とかに近い働き方とか仕事との変わり方をしている人も当然いると思います。
一つの話でいくと、多くの人は仕事っていうやっぱり手段化されたものとか、ある目的のためにやるものっていうふうな形で仕事を捉えてるんじゃないかねっていうところがあって、
その生きていく先が自分自身が手段になってしまう。自分の人生が手段であるっていうふうな世界というか、自在だよっていうふうな話なんだよね。
今さっき割り切ってさ、仕事は食うため、割り切って、後は趣味とかに勤しむよ、みたいな。
あと、さっき悟ってるかもねっていう話をしたんだけれども、多分結構、この辺が割とハンナ・アーレンとの活動っていうところの肝になっていきそうだなって思ったんだけれども、
さっきの人はたぶん悟ってるか悟ってないかはそれだけじゃわかんなくて、最低限食う、飲食留するためには仕事をして、それぐらいの時間を完全に自分のステア用に使えますよっていう、
一種の悟り的なムーブをしたときに、その空いた時間で例えばだよ。例えばこの資本主義の中で行われている娯楽に消費、あるいは浪費をする。
もしくは、なんでもいいや、例えば投資をするだよね。商店会社にコードを作って、相対的には投資をしています。自由として言ってると、それは多分社会のルールの中の話だから、多分悟れてないと思ったんだよね。
もしかすると、離れている活動に空いた時間を全振りしてるとしたら、もしかしたら悟ってると言えるのかなみたいな、そういう可能性を今感じてるんだけど。
いいですね。まさに次回この活動って何だっけってことをちゃんと掘り付けたいんですよ。
第1回の話で説明したのは、これは唯一の自由の部罪なんだと。老働も仕事も自由ではない。
それに何か外側である内側である強制されていて、そこには自由意志はないって話したんだけれども、活動には自由があると。
これっていうのはハンナー・レントによると、言葉とか行為っていうものを通じて、社会の前に自分の存在を表すんだみたいな。
何か新しいことが始まる、資源って始めるとか、原因の源で性質って資源性って言葉があるみたいなんだけれども、
そういったものを発揮する、新しいものを生み出すことがまさにこの活動なんだっていうふうに言ってるんだよね。
今の話でいくと、例えば投資活動をしますっていうときにも、それが何か新しいことにつながっているとか、何か世界に新しいものを生み出しているならば活動であろうと。
でも、あえて悪く言うと、口座開けました、投資しました、お金が減りました、増えました、以上だと新しくはなさそうじゃない?
まあ、そうだよね。
うん。なので、もしかしたらそれは労働かもしれないし、仕事かもしれませんね、みたいな。
やっぱりこの隅一重がここにもあります。
アーレント的には活動が良いとしているから、その活動が良いっていうのは何でなんだっけとか、その活動ってなんだっけっていうことを軸にしつつ、
他のこともいろいろ踏まえながら話すことで、じゃあ僕らの労働とか仕事とかもっと言うと、
なんか知らんけど仕事って思うに取り憑かれてるんだよね、みたいな感覚があったとしたときに、
それを乗り越えるような地点とかってあるのかね、みたいな。
はいはい、まあそうだよね。
そういう話を次回して、一応この働くことと哲学ってのを最終回にしようと思ってますっていう感じなんだよね。
はいはいはい。わー面白そう。
これが哲学の面白いところ、難しいところというか、哲学に限らないんだけど、
例えばじゃあ、羽根という活動こそが良いんだ、みたいなさ。
はいはいはい。
今度活動社会に入るじゃん。
そうなんだね、結局ね。
で、その上で活動疲弊社会みたいになるでしょ。
そういうこのカルマはどうしたらいいんだろうなっていうのもまたなんだろうな。
はいはい。
これはネガティブじゃなくてさ、純粋に面白いよねって思うよね。
あーそうそうそう。
で、一方で反乱アレント的な、今回のこの話が、ある意味自分たちが囚われてるなのか、
自分たちが嫌顔なしに参加しなければならないルールで、
そういうものだったよねっていう土台だよねとか、
自分たちがどういうところに住んでるのか生きてるのかっていう場所を把握する、
っていう手段としては、多分めちゃくちゃ機能するっていう場合は、
確かに反乱アレントのこの話はすごく意味があるよねっていう風には思えるかなっていう感じかな。
そうだね、本当その通りで、マスジで活動するぞとかって言った瞬間に活動目的になってまた手段が出てみたいな、
結構同じ構造になっちゃうんだよね、本当に兄貴の言う通りで。
なのでそれを乗り越えるかってのは僕もわかんないし、むしろ迷ってるぐらいでもあるんだけれども、
まさに現在地を捉えるとか、自分が理解した上で、今は労働とかでいいんだよと、別に生きてくるのが大事だし、
そこに対して全然自分で選んでるんだよって言えるならそれはすごく素敵なことだと思うんだけど、
なんか知らんけど追い込まれてるとか、ちょっとまず僕みたいになんか知らんけど息苦しい辛いみたいな、そういう状況が一番しんどいじゃないですか。
なのでそこに対して今回の第4回5回分の話ぐらいで、そういうことかと自分は今仕事っていう内側からやってると思ってたけど、
肯定性の力によって地球が動かされてるから例えば辛いんだみたいなことがあったときに、
それを言語化するとか理解できるというだけでもめちゃめちゃ一歩進むと思ってるんだよね。
いいね。確かに今回の話であと今思い出したのが、ビョンチョル・ハンさんの中に多分出てきたと思うんだけど、
やっぱりそのバウンアウト。さっきのなんか辛いっていうのが、もうご主人と奴隷的に話してると、
市民にめちゃくちゃ鞭打たれてとか、めちゃくちゃ強制されて辛いっていう辛さじゃなくて、
バウンアウト的な辛さ?で、確かに今の社会特有というか、そこ無意識のバウンアウトみたいなこと、
結構行きづらさだったりとか、なんか辛いみたいなところの原因?
意外とそこにあるようで中にあるみたいな、その面白さが確かにあるのかもっていうのは面白かったね。
そうだね。これも難しい話で、何でもかんでも自分に原因を持つのもそもそも良くないとかってあるじゃない?
ある種の気楽さとか適当さも大事ではあるんだけれども、やっぱりそれが求められたことは逆に言うと自分で自分を作っちゃってるとか、
自分で自分をその限り追い込んじゃってるって絶対あったりはするから。
だからそこの、法定性の罠があるかといってあなたが悪いんですって言ったわけでもないし、
でも環境のせいだけでもないって、やっぱこのバランスをどう捉えるかが今のバウンアウトみたいな話、
ちょっとめちゃめちゃ大事だし難しいなって思ったな。
そうだね。ただ僕の場合はたぶん環境要因は、たぶん薄く認識されてるというか、認識されてないんだよね、たぶん。
確かにね。
僕はそうかなと思った。
なんだろう、こんな辛いのは外のせいだみたいなのよりも、そこそこ仕事できないとか、
なんか馴染めない私みたいな。どうなんだろうな。
どっちが多い少ないの問題じゃないけれども、
どっちがいせいをそうなりやすい構造だと思いながら自分を得るべきはずって思ってる人って、
自分もあるけどさ、あんま見たことないなって思ったから、
今回の話、この構造議会、そういうふうになりやすいルールの中で生きてるんですよ、みたいなことを認識するだけでだいぶ楽になるんじゃないかなっていう。
あーそうだね。
取っ掛かりができるんじゃないかとは思ったね。
確かに確かに。
目に見える、つぶんが感知できる事故の内面とか環境、目に見える、例えば一緒に働いてる人とか仕事ってだけじゃなくて、
そもそも今時代の流れ的にこういう労働社会とか疲労社会っていうふうなものに落ち込んじゃってて、
やっぱりそういうふうになりやすいんだぜ、みたいな。
それが大きすぎて、じゃあどうしようって話はあるかもしれないけれども、そういうことを捉えたときに語れることとか見えてくることはあるかなと思うんだよね。
そうだね。じゃあどうしようって結構、速攻性のあるとか、すぐはやっぱり難しいと思うから。
難しいね。
どう読むかどう、より少しでも快適になるかっていうことしか多分、正直難しいとは思うんだけど。
そうだね。ちょっと中止ときの話は終わっちゃってるんですけれども、次回はじゃあどうするみたいなところは答えはないので、
アーレントさんの活動みたいなものを通じながら、僕らが働くっていうことは大事だし、
もちろん人生にとって結構重要なことであるのは間違いないと思うんですよ。
100年くらいは。
そのときに仕事ってどう向き合っていくのかとか、今すぐ仕事を辞めますって言う人ってほとんどいないと思うから。
という中で、やっぱりどういうふうに向き合っていくのか。
ところを、次回は僕も考えながら言ってなっちゃうと思うんですけれども、お話ししていけたら嬉しいなと思ってますっていう感じですね。
あともう一個だけ話していい?
今、いわゆる現役世代と言われる組織で働いている人とか、労働して働いている人の話をメインにしてたんだけれども、
これから働く人とか、もう働き終わった人とか、いろいろいるじゃないですか。
その中でも、やっぱりこの労働社会っていう発想は全然あるよっていうか、薄いかもだけ関わってるって話があるかなと思ってて。