〈私〉を取り戻す哲学について考える(その2)です。お前はもう確信でいる...


【今回の内容】

時代遅れという価値判断/サルトル vs レヴィ・ストロース/相対化=みんな違ってみんないい/相対主義が蔓延すると北斗の拳の世界になる/エポケー=判断を留保する/脳内メモリが溢れる/判断留保すると平静が訪れる/我々がやっているのは本質観取/主観→共同→普遍的確信/哲学者の仕事とは何か/フラットアース説(地球平面説)/違和感こそが哲学の第一歩/自分が間違っているかもしれない可能性を残せるか?/対話しようよ


◆「本質観取」実践パターン

https://note.com/iba/n/ncc1080b804d6


【パーソナリティ】

とよだ:富士通で働くビジネス哲学芸人。

ショーン:シリコンバレーのテック企業で働くデータの魔術師。


【番組へのお便りはコチラへどうぞ!】

https://forms.gle/zGGArQTnfGuKY6Pj9


※このラジオは、個人の見解に基づくものであり、所属組織を代表するものではございません。


#白米FM #哲学 #私を取り戻す哲学 #現象学 #本質観取

00:06
あとは、もう一個、この人がその価値観を入れてるなって思ったのが、すぐその後に出てきて、この動物的エゴイズムは時代遅れになりつつあるって書くのね。
だから、いや、なんでさ、その時代遅れってさ、多分ネガティブに判断してるんだけど、それ悪いんだっけ、みたいな。なんかその、時代を先取りしないといけないっていう価値観がそこに入ってるんだし、なんていうのかな。
それ、なんだろう、これ聞いて結構なんか違和感があるね。なんか、良い悪いがここにも既に入っている感じがして、この近年のトレンドはこうなんだよっていうことが言いたいだけ?
あ、なんていうのかな。自分は近年のトレンドはこうだよって知ってるとか、次はこうであるべきっていうのが、なんていうのかな。
なんか上手く説明できないな。なんででも、その動物的エゴイズムが悪い。ちょっと待って、上手く説明できないな、これ。
な、な、時代遅れがなんで問題なんだっけ? って感じかな。
あー、時代遅れ。
それ自体気にすることなのかなっていうのかな。なんか、この言葉遣いが多分引っかかってるだけなのかな、自分が。
例えば、今動物的化してます、これ問題ですっていうこと自体いいと思ってて、で、次はこういうふうなことをすべきじゃないかってそれに対して解決したことが提案あればいいんだけど、
その、なんか、理由付けとして、動物エゴイズムは時代遅れであるっていうのは理由にならない気がしたんだよね。
わかるかな。なんか、君やってることはもう時代遅れだよって、なんかダサいって言いたいだけなんだけど、なんか、批判の仕方としては、すごい、
幼稚というか、なんか、意味のない。 何で時代遅れなのかの説明をしていないってこと?
えっとね、なんか時代遅れっていうことを使う必要ないんじゃないかなって思ったんだよね。
その、なんていうのかな、なんだろうこれ。えっとね、
時代遅れがどうしたっていう感じ?だから、次の新しいことを提案したいんだったらそれを提案すればいいんだけど、
なんていうのかな。例えば、
ガラケーを持っていて、それもう時代遅れだよっていうふうに批判するときってさ、先にあるものを僕は知っていて、
君はそれを知らないのかって言いたいだけだと思うんだよね。でも、本当に、なんか新しいものを知っていて、新しいものの方がいいと思ってるんだったら、こういうのもあるよって言えばいいだけなんじゃないかなと思っちゃうわけよ。
スマホっていうのがあって、こういう機能もあって、これもできるよって言えばいいのに、あえてあなたは時代に遅れているっていう表現をして、なんかこう、
03:09
バカにするというか、そういうふうに言わなくていいんじゃないの?って思っちゃうわけよ。
私、それに時代の先後ってあるんだっけ?みたいな。なんかそうなってるのかな。いちいちこういうのにつっかかっちゃうんだよね。
いやー、面白いなと思った。今のさ、このやり取りがさ、レビィ・ストロースがさ、サルトルを批判した。で、サルトルがそれでダメになっちゃったみたいな話したじゃない。
それとすごい構造的に似てるなと思って。
進歩主義みたいなやつだっけ?自分たちが進んでいると見る。
そうだね。サルトルは歴史っていうのはこういう流れあるよねと。これ、歴史的にこれが正しいよねとか、こういう方向に行くのが人類として正しいよね、いいよねみたいな正解があるでしょとか。
で、その中に自分の人生を投じろやみたいなことを言ったんだけど、で、レビィ・ストロースはそんなのないからみたいな。
お前が言ってるその歴史的に正しいのってただの西洋的な一面でただそう言ってるだけで、そんなのなんか全然違うよみたいなことを言って、で、そっからなんかもうサルトルがガーンってなっちゃって、なんかもうダメになってったみたいな。
近いものがあるかもしれない。なんか一面でしょっていうか、あなたから見るとそうかもしれないけど、別にそうじゃない指標の見方もあるし、別にポイントはそこじゃないんじゃないかと思っちゃうんだよね。
いや、僕サルトルすごい大好きだからさ。サルトル側で、たぶんしおくんはレビィ・ストロース側なんだよね。構造主義者なんだよね。
そういうことだよな。ああ、そっかそっか。なるほどね。
で、この人はだからそれで一旦そのレビィ・ストロースとかが、もう相対化したと。相対化したのが、もう今はマルクス・ガブリエルが出てきて、そうじゃないと。相対化は時代遅れで、もう普遍的な正しさみたいなのを求めてる時代に入ってるんだって言ってるのが、そのマルクス・ガブリエルが象徴してるんだよね。
レビィ・ストロースから始まるその相対主義的な感じ?ポストモダンというか。そういうのが、もう時代遅れだって言ってるのの象徴がマルクス・ガブリエルが出てきたことに示されてるんだけど。
なるほど。まあでも確かにそれが。
何回かキーワード出てきてるその相対化ってさ、一応意味をわかってるつもりなんだけど、確認したいなと思うのが、今僕の認識というか理解では、ある考えAっていうのがあって、さっき説明してくれたように、
06:10
数十年前までは、みんながいいと思ったAっていうのに従って国が動くとか、社会が動くっていうのがあったんだけど、最近はインターネットとかでいろんな情報が行き来できるようになった中、例えばマイノリティもちゃんと尊重しようとか、いろんな考え方があったり、人間の例えば特性とか違いがあって、
それは認めていこうよと。だからAっていう考え方もあるし、Bっていうのもいいよね、Cっていうのもいいよねってなるべくダイバーシティを維持しようとか、あくまでそれはAっていう考え方だよね、でも僕はBって考え方にするっていう、全部を一色にしなくていいよねっていうことに、そういう流れを相対化って言ってるのであってるのかな。
そうだね、そうだね。みんなそれぞれ、みんな違ってみんないいみたいな、たぶん、そういう感じだと思うんだよね。
そういう感じでいいんだよね。
うん、そうそう。
で、それが、
いけんす。
うん。
でもそれだけだと、
うんうんうん。
ごめんごめん、どうぞ。
それなんかすごいいいように感じるんだけど、
うんうん。
それって結局、独断主義だよね。結局、私はこれがいいと思うから、これを信じる世界で生きるんです、他人は知りませんっていう独断主義で、みんなが独断主義になってると。
私はこれが正しいと思ってます、この世界で生きます。いやいや、私はこっちのこれが正しいと思ってます、これで生きますっていうのが、もうみんなバラバラですと複数あって、それがもう相対的に並んでます。
今そういう社会ですねって言っていて、
で、そういう社会だと何が悪いのかっていうと、実際の真実とか、これはもうみんな違ってみんないいんだけど、でもここは外せないよねとか、ここはもうみんな共通の普遍的な良いものでしょうとか価値だよねっていうところの合意が取れなくなると。
そうするとポスト・トゥルース、だから結局絶対的な真実とか、これがいいよねとか正しいよねみたいなのがなくなり、フェイクニュースとかが蔓延し、結局そういうみんな相対的にみんなそれぞれいいよねってなると、結局最終的にはリソースとかは有限なわけで、そのリソースを取り合うために力の強いやつ、暴力で解決するしかなくなると。
これっていいよねっていう合意が取れる、その取っ掛かりがもう全部なくなっちゃうとね。みんな違ってみんないいっていう世界が。で、そうなるとまずいよねっていうふうに言ってる。
09:05
これはね確かに面白いなというか、自分は気づかなかったなと思った視点で、自分もメタ認知できたというか、そうなるかもなとは思った。それを認識できてなかった。
なんか相対化の方がどっちかというといいのかなと思っちゃって、そこで思考停止というか留まってた気がして、その先にどこに向かいつつあるのかとかどこに収斂するのかは、ちゃんと考え巡らしてなかったなと思った。
これだからメタ認知の功罪と同じ構造になってると思ってて、メタ認知していった結果、全てが相対化されて、お釈迦様みたいにさ、別に大事なものなんか何もなくと。
自分の子供が川で溺れてても別にいいんじゃないかっていう社会になっちゃダメでしょって言ってるんだよね、多分この人は。
そうだよね。そうだよね。
だから多様性は認めつつも、その中でもここは合意できるよねとか、ここはみんなやっぱりいいと思うよねみたいな共通部分というか普遍的だと思える部分をお互い探っていって、それを合意して、そこから社会っていうのを構成していかないと大変なことになるぞっていう問題意識があるんだと思われる。
そう、そこがそのね、なんかここは合意できるよねっていうところはめっちゃ難しいなって思うんだよね。
多分その人、この人も後半で言ってる話だと思うんだけど、そこでこの人の価値観が入ってきて、そこは疑わなくていいんだっけとか、多分この後話せることだと思うんだけど、難しいかもなって思ったよね。
あ、その合意を見つけていく営みがってこと?
そうそうそうそう、だし、この人と何かを合意していくのとか、なんか大変かもなとかね、なんかしれっとこの人の価値観が入ってくるから、なんか。
そうそう、だからそのしれっと入っちゃうのはもうみんなしょうがないんだよね。しょうがないからエポケーしろっつってんだよ。
みんな入っちゃうと。みんな絶対入っちゃうから、一旦判断留歩して、この人はそういう前提だねっていうところを一旦脇に置いて、相手の意見をまず聞き、自分の意見と重ね合わせてみて、ずれみたいなのが見えてくると。
12:03
で、そのずれをまた対話を通して、そのずれをだんだん少なくしていくというか。で、ここは共通だよね、とか理解し合えるねっていうところを対話を通してやれよって言ってんだよね。
それは確かにアプローチとしてはアグリーできるよね。それ以外、自分の個人的な経験としてもなんか取れない気がするというか。
ハナからこの人の話は聞けないとか違うから、私が正しいって言ってるのだと、お互い閉じた世界にいるから何も進まないよねっていうことだよね。
なんか普通に知れたエポケーとかワード出してるけどこれ聞いてる人わかんのかなとかちょっと思っちゃったの今。
エポケーって言うと難しいけど、要は判断をちょっと待とうよって、保留しようよってことを言ってるだけなんだよね、エポケーって。
それ自体みんな意識的じゃなくても無意識的に結構やったりとかしてるんじゃないかなと思うんだけど、
なんだろうね、これはあえてやっぱりエポケーって言った方がいいのかな。
何が違うんだろうね。普段なんか例えば理解できないことがあってしばらく迷ってますとか、頭が追いついていかないみたいなのもある意味エポケーになってるのかなと思ったんだけど、頭が勝手に判断できないから。
意図的な方を言うのかな、エポケーっての。
たぶん、理解できないと人はもうこれ理解できないわっつって、捨てちゃうというかもう自分の頭の中から弾き出しちゃうんじゃないかなと思っていて、
ここでエポケーしろっつってんのはカッコに入れろって言ってんだよね。だからそれが分からないっていう状態は分からないんだねっていうことをちゃんと認めつつ、
一旦脇に置きつつ、たぶん忘れないでちゃんと脳内のどこかのメモリーに保持しとけよっていうことなんじゃないかなと思う、エポケーは。
もう使わないキャッシュだからもう捨てちゃっていいやじゃなくて、取っとけよってことなんじゃないかなと思ったんだよ。
カッコに入れてどっかに置いとけとすぐに取り出せるようにっていうことを言ってんのかなってきました。
今聞いてさ、思ったのがさ、最初のでもSNSの情報はさ、どうしたらいいんだろう。そのメモリーが足りなくなるっていうのが問題意識としてあったじゃん。
15:01
で、頭のキャッシュにどんどん無意味な情報が入ってきて、埋まっちゃって洪水に埋もれますみたいな。だからそもそもキャッシュしたくないよねと今、できないよねっていうところがあって、
エポケーをするのは意味のあるものを主体的にエポケーするっていう、そういう違いがあるのかな。
そうだと思うよ。自分がちゃんとそこに意思を向けて、情報に向き合ってるときにできるのが多分エポケーで、
SNSとかでもなりふりかまわず、とりあえず情報がブワーって降ってくるものはエポケーとは言わないし、エポケーできないんじゃないか。
でも何が違うのかなと思って、そもそもSNSを見てる時点で、何かの意思とか興味とか意図とか少なくとも過去にはあったり、
それがちょっと続いてる延長で、毎日例えば見てると思うんだよね。
だから関連してる情報、自分たちがもともとは意味のある、ありそうだと思って得てる情報なのかなと思うんだよね。
で、それをなるべく捉えておこうと思ってエポケーしようとしてる状態とも言えなくないのかな、今は。
でもやっぱり現実問題、エポケーしきれないから疲れるというか、そういうことではない。何が違うんだろう。
そこは何か違う気がするんだよね。情報がいっぱいあって疲れちゃうって話と、何だろうね。
難しい、ここはちょっと何とも言えんな。
まあでも、そっか、SNSとかでどんどん来る情報もエポケーすればいいのかな。
エポケー、エポケー。
とりあえずは多分するべきなんだと思うんだよね。
SNSとかで自分と全然違う意見を見て、自分の信念とは全く反してる意見みたいのに見ると、それに反論とか反発して相手を叩きたくなるとか、
前も話したけど、そういったことになっちゃうから、まずそういった意見があるっていうことは受け入れつつ、それを一旦括弧に入れて判断を留歩しろっていうのは多分正しいんだよね。
判断を留歩していくと、確かにそれは脳みそにずっとキャッシュとして溜まっちゃうのかなと思ったね、確かに。
18:02
何が違うんだ?
えー?
いやでも、メモリじゃなくてストレージの方に入れとけってことなのかな?括弧に入れた状態で。
あ、そう。もうちょっと長期保存の方に。
そうそう。
じゃあなんかノートに書いたり、なんかした方がいいってこと?
うーん、なのかな?わかんないな。ちょっと難しいね。
えっとね、このエポケー関連で面白いなと思ったのが、なんかの哲学者の言葉が引用されている部分があって、懐疑主義者はもともと自分の心を平静にしたいために、物事を疑って哲学っていうのを始めましたと。
でも哲学を始めていろいろ疑っていくうちに、あれこっちも正しそうだなと、こっちも正しそうだなっていう複数の正しいと思われる現象が拮抗していると。
だからこっちも正しいと思うしこっちも正しいと思うみたいな一見矛盾しているように見えるものを目にして、そうするとどっちが正しくてどっちが間違っているみたいなことは判断つかないので、仕方なく判断を留保すると。
判断を留保すると、全く想定してなかったんだけど突然平静が訪れると。
もともと心の平静を得るために疑い始めたんだけど、これはちょっと疑いきれんなっていうものに直面したときに判断を留保すると、平静が訪れるって言ってるんだよね。
思わぬところから。これでこっちが正しいんだ、あっちが正しいんだみたいなのをそこで突き詰めちゃう。判断を留保せずに、これが正しいんだみたいなところまで行っちゃうと、その人は常に心が乱されるっていうふうに言っていて。
例えばAとBっていう2つの反発する概念があったとして、Aが正しいみたいなふうに仮にしたとしたら、でもそのAが正しいBが正しいっていうのは状況によって多分入れ替わるんだよね、コロコロコロコロ。
で、その状況が変わったら、いやAが正しいんだって思ったのが、実はAじゃなくてBが正しいみたいになると。それで常に右往左往すると状況に応じて正しさっていうのがひっくり返るので、右往左往するからその人は心が乱されると。
絶対的な正しさを求める人は常に心が乱されるんだが、判断を留保する人間は平静が訪れる。なぜなら何も判断してないから。すべての判断を留保してるから平静でいられるみたいなことを説明していて、これ俺すげーわかるなっていうふうに思ったね。
21:09
なるほどね。でもそれはすごいわかる気がするし、自分も判断を留保っていうか、あるシグナルみたいなのがあって上下にブレブレ、ノイズが乗ってブレるものがあったとしたらさ、
その、どうせ上下に動くんだから真ん中ら辺にいようかなみたいな、ちょっとどっちかというと怠惰なだけかもしれないんだけど、いちいちそれに追いかけるの疲れるなみたいなのがあって真ん中にいようみたいなのが自分のマインドセットとしてあったりするときがあるのね。
はいはいはいはい。
もしくはなんか並んでて、なんかお店かなんかに、で、めっちゃ並んでると。で、その列がくねくねしてるんだけど、飛行機の入るときにさ、なんか搭乗口からさ、めっちゃ列流れてて、すごい端の方にこう遠くまで行ってる場合さ、搭乗口で待ってればいずれこう列がこう短くなっていって、自分は動かなくてもその列の最高位に来れるじゃん。
いつか待ってれば。
うんうん。
なんかそれと近いというか、自分は結局ここに動かなければ、物事は上下してたり振れ幅があるから、一番こうブレなくて済むのはここら辺かなみたいなところを取りがちというか取ってる自分がいることにたまに気づくときがあるんだよね。
うんうんうんうん。でもそれはやっぱなんか生きる知恵というか、なんじゃないかなって気がしたけどな。
うん。なんかノイズが乗ってるときに振り回されないようにしようとする自分が多分いるの、いるっていう、そういうことなのかな。とよだくんのもそれに近い。なんか。
うーん。
保留して、あえて保留してるのか、それともそのなんか生きる知恵として保留してきたの?
うーん、なんだろう。やっぱり結構やっぱ中学生ぐらいから、やっぱ哲学的な人間だったと思うんだよね自分がね。
ほほほほ。
で、いろいろ疑って疑って、疑った結果なんか、自分がこれが正しいみたいなのか思ってたのか何度もこうひっくり返されるというか。
あー。
そういう経験が多分結構あったんだと思うんだよね。だからその結果、なんだろう、本当にこれって言えるものってもう何もないんじゃないかなみたいな。
あー。
感覚になっていって、それが多分その前なんだっけ、メタ認知?メタ認知できるようになって、なんか心が楽になったとか言ったと思うんだけど。
うーん。
多分その影響だと思っていて。
うんうんうん。
で、うーん、そうね。メタ認知できるようになって、心が楽になって、その平静が訪れるっていうところは、なんかすごいわかるなーっていうか、気がしたんだよね。
24:13
うーん。
うん。
他にはね、なんか気になったこと、結構まあ面白い、そういうなんだろう、気づきというか、表現とかはね、所々あった気がするんだよな。
うん。
今ちょっと、過去に線を引いたところと、メモを見返してるんだけど。
うん。じゃあ、エポケーつながりで、思ったことをもう一個述べるとすると、現象学の話が出てきて、もともとエポケーもフッサールが現象学で言ってる概念だと思うんだけど、
現象学が特徴的なのが、その客観的な何か、物事っていうのが、本当に存在しているのか存在していないのかみたいなのを、多分、デカルト以降のフッサール以前の哲学者たちは考えていたんだが、
それが正しい、正しくない、存在している、存在していないっていうことを問うのではなく、それぞれの個人の主観の中でその物事がどう確信されてるかが重要なんだっていうか、どう確信されてるかっていうことを考えろよっていったのが、現象学フッサールが言った新しいことだっていうふうに書いてあって。
うん。
もともとは何かその唯一の客観的な何か真理があるのではないかみたいなふうに思ってました、哲学者たちも。
でも、そうじゃなくて、全てはもう主観、その人の認識に過ぎないから、それぞれの認識によるそれぞれの真理というか、があるんですよっていう状態になって、
でも、あ、違うか。だから全ては相対的だから客観的な真理なんか存在しないよっていうふうになりましたと言ったの。
その後フッサールが、客観的にその真理が存在するか存在しないかはもう誰も何も言えないんだが、
でもその人それぞれの主観の中でそれが確信されてる。それが例えばあるとかないとか正しい間違ってるって確信されてることは確実にあるよねと。
その確信があるってことが重要なんじゃないかと。
その確信の度合いをお互いに対話によってお互い言いますと、私はこれを確信してる、いや私はこれを確信してるっていうのをお互い出してそれを対話で話すことによって共通しているものが見えてきますと。
27:01
それをやるのが大事だよっていうふうにフッサールが言っていて、
これがまさにその問いのデザインでさ、言われてるそのなんだっけ、哲学的対話だっけ。
うーん。
なんだっけ、哲。
なんだっけ、なんとか観取だっけ。
あ、本質観取か。
本質観取だね、本質観取に近いのかな。
そのなんだっけ、問いのデザインでさ、我々が好む問いは、哲学的な問いだっけなんだっけ、名前忘れちゃったけど。
そうそう、哲学的な問い、何々とはとか。
それが正しいか正しくないかじゃなくて、お互いの納得度をさ、頼りに共通している部分というかを探しに行くことを我々はやりたいんだよね、みたいな言ってたじゃない。
うーん。
だからまさにこのフッサールが言ってる営みがまさに我々が今これやってる、このポッドキャストでやってることなのかなって思ったんだよね。
そうだねそうだね、現象学のこの本質観取をやってるよね。
そう、やろうとしてると。
で、その中で3つの言葉が出てて、この本の中にね、主観的確信、共同的確信、普遍的確信って3つの段階があると、その確信にも。
で、主観的確信っていうのは本当にもう自分だけ、自分の世界、自分の中だけで確信されてることがありますと。
それを対話によって、例えば僕としおくんの間でお互いに話すことによって、それでお互いが確信できたことは共同的確信にレベルアップするよねと。
で、それを多分いろんな人を巻き込んで、いろんな人のその確信を集めていくと、それがだんだん普遍的確信にレベルアップしていくんだっていう風に言ってて。
で、我々がやってるのはまさにこの流れに沿っていて、まず自分の中でこういう確信があって、それをここで話して、で2人の間で共通している部分を見つけて、
それをポッドキャストで公開してるってところが、僕は普遍的確信に近づけるための重要なファクターなんじゃないかなと思ったんで。
その2人だけの間だけじゃなくて、我々が話してるってことを公開することによって、それを聞いてくれてる人がさらに自分の確信してることと我々が話してることを比較して、
さらにここはそうなんじゃないかとか、ここは違うなとかっていうのを繰り返していく活動が、よりこう普遍的確信を高めていくための営みであって、まさに我々はそれをやってるんだっていうことを理解したっていうことでございます。
いや、この僕も3つのね、確信のとこは線を引っ張っていて、なんかね、いやそうだなと思うんだよね、今とよだくんが言ってくれたこと。
30:12
1個これも見てて、なんか聞いてみたいなと思ったのがさ、最後の普遍的確信で、誰もが普遍的に共有する存在確信ってあるんだけど、その中の例として、なんか世界が存在すること、数学や自然科学の共通認識などであるって書いてあるね。
はい。
で、誰もがっていうところとか、なんかすごいもう自分の中ではこう、なんかもやってする言葉で、なんかこれどうやって、どうやって誰もがとかさ、なんかすげえ曖昧だなと思って、気持ち悪いなと思っちゃったんだよね、なんか。
はいはいはい。
なんかこう自分の周りをみんな確認したら、これみんなやってるよねみたいな、なんかそういうすごい雑なというか感じがして、自分が見えてる範囲の世界の大体はみたいな、そういう感じに聞こえるんだけど、なんかそんなんでいいんだっけというか、なんかこの普遍的確信ってどうやっても達成できる気がしないような気がして。
たぶんね、今それを聞いて俺思ったのは、哲学者の仕事っていうのは、たぶんね、理想状態、理想像をこうだよねっていうことなのかなと思ってて、でその理想状態ってたぶんね、どう頑張ってもたぶんそこには到達できないんだよね、たぶん。
人間が物理的な肉体を持って、なんかいろいろ制限があるじゃん、限界があるわけよ。
限界はあるからそこには到達できないんだけど、できないんだけどそっちに向かうのが正しいよねみたいな、永遠に到達できないゴールというか、永遠に到達できない場所を見せるというか語るっていうのが哲学者の仕事なのかなと思っていて。
だからなんだろうな、そこに到達できるかどうかはたぶん、あんまりこう重視してないのかなって思った。
そこに向かおうとする意志というか運動が重要なのであって、そこに到達できるかどうかは、まあ到達できたらいいんだけど、たぶん誰も到達できるとは思っていないということなのかなと思った。
あとはその世界が存在することを本当に誰もが普遍的に共有するかというとしないんじゃないかなとかさ、数学とか自然科学もさ疑うじゃんと思ってて。
なんかなんだろう、これそもそも僕ですら哲学者という立場を取ったら、これを疑った方がいいんじゃないかなとかさ、なんか、
33:09
一般論的には確かにそうなんだけど、哲学的な話をするときにはこれをそういう括りで確信できてるよねって言っちゃっていいんだっけとかね、思ったんだよね。
分かる?今の言ってる意味。すごいふわっと、なんか共有できるよね、君と僕って言われてる気がして、それいいんだっけ、そんなふうに合意とっちゃってみたいな感じがするんだよなと思って。
共有できる、これも多分さっきと一緒で、共有できる、完璧にやっぱ共有できないんだけど、共有しようとする意思が大事だってことなのかな。
なんか最近さ、俺ツイッターのさ、ツイッターってフォローしてる人だけのツイートを見れるのと、フォローしてない人のツイートがこういろんなのがバーって流れてくる、なんか2種類あるじゃない。
あるね。
で、俺ずっとフォローしてる人のやつのタブばっか見てたのね。で、ここ数日、そうじゃなくて、いろんなフォローしてない人の今ホットなツイートとかが流れてくる方を最近見るようになって、なんかすげえ面白いなと思ってね。
なんかそのいろんな国とかいろんな世界のなんか面白動画とか、なんかそのハプニング動画とか、なんか結構驚き動画とかなんかいろいろそういうのが流れてたりとか、で、ちょうどさっき見たのがね、その地球が丸い、地球が丸いっていうことを信じてない人のツイートみたいな。
フラットアースの人ね。
そうそうそうそう。が流れてきていて、で、確かにその人が言ってるのは、確かに地球が丸なんて普通に生きてたら観測できないじゃんっていう。
だから、あなたたちが信じてるのは本当ただ教科書にそう書いてあるから信じてるだけじゃないですかみたいなことを言ってたね、言っててさ。
でもそれってなんか反論できないというか、なんかそういう人たち、そういう人たちっていうか、でももしかしたらその人が言ってることが正しい可能性もあるなーとか思っちゃったりしてさ。
なんかそういう人たちとどう普遍的な確信をこうなんて言うんだろうな、作っていけばいいのかっていうのは、無理だなってちょっと思ったんだよね。
無理だと思うんだよね。だから僕もそういうふうに言うと、誰もがっていうのがすでになんか無理なんじゃないかなとかさ、そうじゃない人がいるっていうような気がして。
36:09
うん。
うん。なんかこれはどうなんだろう、なんかそういうもやもやはあったよね。
うん。だから、まあ無理かもしれんけど。
概念的にそういうことを定義したっていうだけなのかな。
うーん。いやでも普遍的なものはあるよねっていう前提で話されてるよね。でも、普遍的なものがあってほしいっていう願望?
願望があるのが普遍なのかな、その普遍的にみんな共有できるものがあるよねっていうことを信じたいっていう性質を人間は普遍的に持っているのではないかっていうことを言っているのかなと思った。
でもなんかとよだくんさっき別に全員が全員世界を良くしようとか社会をどうしようと思ってないみたいなのと一緒で、そんなのに微塵も興味を持っていない人もやっぱいるんじゃないの?
いると思うね。
いるよね。だからそんな変なものがあってほしいなって思ってない人もいるよね。
うーん、そうだね。
まあまあちょっとこれは僕がだからこういう重箱を突くような感じになっちゃうんだよね。ちょっとうって思うとこが、だからあんまりポイントじゃないかもしれない。
いやでもそれが大事なんだと思うんだよね。その重箱の隅を突くというか、自分がすんなり受け入れられないなっていう違和感が多分哲学の一番最初のきっかけなんだよね。
だからそれで俺はさ、それが自分から導き出せないわけよ。納得しちゃってるからさ。すんなり入ってきちゃってるから。
そこを重箱の隅を突いてくれると俺はすごい嬉しいわけよ。あ、そうかと。そこが確かに見落としてたなとか、確かにそうだよねみたいなのが見えるようになるから、それをまさにね俺は期待してる。
あとはさっき言った経験から見えることに基づこうよみたいな。確信について基づこうよっていうアプローチ。
で、なんかちょっと危険な気もするなとか思ってて、フェイクニュースとか陰謀論を信じちゃう人と同じような気がするわけよ。
自分が見えてるものを基に信じようとすると、やってること変わんないような気がして、それでいいんだっけとかね。そういうのもちらっと頭にはゆうぎったりはする。
39:03
えっと、自分が確信してるもの?
そう、現象学に基づいて自分が見えてるものを基に、自分が確信があるものを基に論理を構築していくっていうことだと思うんだよね。
それってフラットアースを信じてる人もやってることは全く一緒だったり陰謀論を信じてる人も全く同じようなことがある気がして、
で、自分はすごいけどその人たちは違うって言ってるだけな気がして、でもやってることは一緒なんじゃないかなとか、
なんか、だから結局自分たちやってることも、見る人からすれば同じことをやってるじゃないかなと。
陰謀論とかフラットアースを信じてる人は、それが正しいというふうに確信しているんだが、それを対話で、自分の考え間違ってるかもしれないっていう可能性を残してるかどうかが大事なんじゃないかなと思うんだよね。
やっぱりみんなそれで確信してることはあるんだが、それはあるでしょうと。
でも、その対話によってそこがもしかしたら確信が揺らぐかもしれないっていうのをどんな概念に対して持ってるっていうことが大事なんじゃないかなと思ってて、
我々からするとフラットアースってバカバカしいなみたいな感じがするんだけど、でも彼らの言ってることも一理あるなっていうふうに自分の中で余白を残しておくというか、
フラットアースなんてもうバカなこと言ってるんじゃないよって思いがちなのを判断を保留して、確かにフラットアースの可能性もあり得るよねっていうのを常に持っとけっていうことなんだと思うんだよな。
すべての多分主観というか認識確信してることは多分平等で優劣はないと思うんだよね。
相対主義だねそしたら。
それだけだと相対主義になっちゃうから、対話をしてフラットアースを信じてる人と地球が丸いって信じてる人の間で共通で合意できる部分を対話によって探ろうよって言ってるんだけど、それが実際できるかどうかはまあ難しいでしょうと。
難しいんだが、まあ対話しようよって言ってるんだろうなと思った。
やっぱ難しいねそれは。現実問題は結構難しい。
現実問題はね難しいけどって。
だからそれが理解できて納得できる人の間ではまずそれをやればいいんだと思う。で、そこからちょっとずつ輪が広がって、もしかしたら世界の半分ぐらいはそれが理解できるようになるかもしれない。
42:13
そうなったらもう御の字じゃないですかみたいな。そんな感じなんじゃないですかね。
次回へ続く。
42:35

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