はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、今回はジョン・スチュアート・ミル第2回ということでやっていきたいと思います。
はい、今回ですね、そのジョン・スチュアート・ミルのやっぱりベースにある功利主義をやっていこうと思います。
前回のストーリー、お父さんとお父さんと仲良かったベンサムという人からも英才記憶をガンガン、
ガンガンというかなんだろうな、ある種、心が本当に病んでしまうぐらいやってたっていう感じがあるんですけれども、
ミルさん、なのでその功利主義もある種直系で受け継いでましたという感じなんですよね。
いやー、知らなかったね。なんかそれも教科書に書いてていいよね。もうベンサムの弟子の弟子ぐらい。
本当そうだよね。ただ一応その功利主義って使ってるんですけれども、
功利主義って何?って言われると意外とわかんないよねってやっぱ思っております。 はいはい、確かに。
手伝ってやっぱそういうことがあるなと思うので、今回と次回ぐらいで功利主義とは何ぞらだし、
もっと言うとそれをミルさんがどう受け継いで目指せなかってことにやっていこうと思ってるんですよ。
じゃあベンサムの話もしてもらえるんだね。
今回はミルさんの手前のミル以前みたいなところもちょっと触れていこうと思ってるんですけど、
功利主義はもちろんいろいろあるので、功利主義を一言で言ってくれるとかってすごい難しいんですけれども、
すごい平たく、本当に誤解を恐れずに言うと、
社会とかあるいは国とか世の中、世界でもいいんだけども、
そういう一つの国を考えたときに、より多くの人がより多くの幸福を得る。
これを望ましいんだというふうにする思想なんですよね。
これって当たり前のようにも聞こえるんだけれども、
やっぱり過去を振り返ると、一番特権階級の人だけが富とか権力とか、あるいは幸福っていうのを持っていて、
そこにある種、従う人というか奴隷とかも含めてだけれども、
そういった自分の幸福は自分で追求できないっていう時代っていうのは全然あったわけですよね。
はいはいはい。
だし、現代においても、いわゆる格差とかって言われたりしますけれども、
特定の人はすごいお金とか自由とか持っているけど、
やっぱりある人は食べるものにも困っていて、
やっぱり自分の幸福を追求するっていう、幸福追求権みたいな話だと思うんですけど、
それが満たすことができないみたいな、そういうことって全然あるわけですよね。
はいはいはい。
そういう時に、より多くの人、身分とか年齢とか人種とかっていうことも考え、
当時のベンサムとかミルがそこまでしたかってことは一旦置いておいたとして、
その思想の根本にはいろんな違いを超えて、多くの人が多くの幸福を得る。
それっていいよねっていう、こういったことがベースにあります。
はいはいはい。
で、僕が言うのはベンサムが当時、高齢主義が元祖みたいに言われてるんだけれども、
彼が言ったのが、最大多数の最大幸福っていうのがスローガンで、
すごいざっくり言うと、個人が何をするかみたいなこととか、
あとは政府の政策っていうものが、やっぱりそれがどういうふうに社会全体の幸福とか、
あるいは快楽って言われるんだけども、それともどれだけ増やして苦痛を減らすかっていう、
客観的な指標で見ていきましょうっていうふうな話を考えたんです。
おー、なるほどね。
うんうん。
で、なんでそんなことが当時のイギリスでわざわざ言われているのか、
どういうふうな時代から出てきたのかっていうところが見えてくると、
より、だからこういうことを言わなきゃいけなかったのか、
逆にこういう力を持っててなかったことが見えやすくなるかなっていうふうに思うので、
はいはいはい。
ミルさんの思想の、ミルさんが言うと、
小売主義っていうものを深掘りする前に、
やっぱり当時、あるいはその手前のイギリスがどんな感じだったのかを含めて、
お話ししようと思ってますっていうのが今回ですね。
はいはい、確かにそうだもんね。
なんでそもそもそんな考え方、小売主義みたいな考え方必要になったの?みたいなとこだもんね。
確かに。
そういうふうな話があるんだけれども、
さっきアナウンスで今日の本編に行くんですけれども、
ベンサムさんが小売主義の元祖、原理みたいなのがもちろん正しいんだけれども、
この小売主義っていう言葉の前に、世俗的小売主義みたいな、
そういう言葉をつけることができますと。
世俗的じゃないものは何かっていうと、
要は宗教的な小売主義っていうものがあって、
みんながより幸せになってほしい、
より多くの人がより多くの幸福を得られるみたいなことって、
もともと宗教的な発想があるんですよね。
へー、そうなんだ。
どういうことかっていうと、
ベンサムとかミルクが活躍するちょっと前、
1700年の後半ぐらいか、
そういうところで、いま言うと宗教的小売主義っていうものが広がっていて、
もっと言うと、
考えてほしいですよね。
みんなは自分の利益とか自分の自由とかを追い求めるじゃないですか。
それだけじゃダメで、
社会全体の利益とか幸福とか、
要は自分のことだけじゃなくて、
他の人とか社会のことを考えなきゃいけないって、
何でしたっけっていうような発想で、
やっぱり時代を越えるのも同じような問いでやっぱり続いていくわけなんですよね。
へー、そうなんだ。
元からあったってことはね、
ベンサムの時代に急に降ってはいった問題ではないってことね。
そうですよね。
もっと言うとイギリスで言うと、
イギリス経験論とかで、
ロックとかバークリー、ヒュームとかってあると思うんですけども、
やっぱり自分たちの利益っていうものを守るために国と契約するみたいな、
そういうふうな発想もあったと思うんだけども、
それからどんどんどんどん時代を進んでいくと、
そもそも国に頼らずに自分たちで静かにやっていいんじゃないか。
別にわざわざ他人に守ってもらわなくても、
自分でガンガン利益上げて、
自分で病兵とか雇って武力的に武装して、
他人を共同してでも自分が利益を追求するんだみたいな。
そういうことができるとして。
できるっていうか、東インド会社はそれやってたよね。
確かにね、独自の武力とか持ってね。
そうなった時に、なんでそれで自分たちの懐を肥やすみたいな。
だけどダメなんでしたっけ。
もっと言うと、それはいいかもしれないけど、
それを全員がやると、それはそれでものすごいカオスな世の中になるじゃないですか。
恐ろしいよね。経済活動してますって言って武力引き連れて衝突してたらたまんないよね。
足こちで戦争起きてんのかみたいな。
ホップスか、逃走。個人じゃないけどね、恐ろしい逃走状態で。
強豪の押しついてぶっ潰すみたいな。
ちょっと人理なさすぎるからね。
人とか義もそうだよね。要は自分たちの利益をもちろん追求するんだけれども、
やっぱり超えちゃいけない一線とか、共存すべきものがある。
それが単純にやったらやられるっていう幸福の発想だけじゃなくて、
世の中全体を豊かにするみたいな。
自分っていうことも関わってるよねっていう発想ってあるわけなんだよね。
適当に人理って言ったけど、今はやっとはちゃんとあれでしょ。
東洋哲学の中の人と義を。東洋哲学だよね、たぶんね。
そこまで行くとちょっと大元すぎるけれども、
いわゆる一般的に言われる人義で。
大丈夫?
一般的な感じで大丈夫。
人義を切るの人義のこと。
当時、18世紀後半とかだと、そこに神様っていう言葉が持ち出されるわけですよ。
キリストの神様っていうものがいたときに、
人間っていうものは神様が作りましたね。
神様っていうのは神様が作りあった人間っていうものの幸福っていうのは願っています。
なので、もちろん自分の幸福も大事なんだけれども、
自分を取り巻く周囲の人。
社会全体の幸福を増やすっていうことってことは、神様の意思にかなることで。
そうすると、それを進めていく人が神の恩恵を得られるし、
それを背いて社会を混乱させると神の罰が下るよみたいな。
そういうふうな発想があったわけなんだよね。
これ自体もわかりやすいっていうか、そうじゃないっていう感じもあると思うんですよ。
実際当時からしても、もちろん道徳的な意味として大事ではあるんだけれども、
新しい価値を生むっていうよりは、一般的な発想を、
そうだよね、そうだよね、それを宗教的な公有主義と名付けようみたいな。
そういうふうな発想の主張でした。
これに対して、ベンサムさんという人たちが唱えたのが、
宗教的というところと比較すると、世俗的というふうな言葉で表現されるものです。
つまり、神の意思っていうものを使うんじゃなくて、
もっと言うと、本当に現実的な政治とか法律とか、
そういうものを変えないと、実際に自分の利益と社会の利益って
両方を追求するっていうことはできないんだと。
もっと言うと、そういうふうなことを知っていくためにも、
政治とか社会とか法律とかっていうものを変えないとダメなんだっていう、
ある種政治運動のための思想的な土台。
もっとしてこの公立主義、世俗的公立主義っていうものを、
ある種磨いていくっていう感じなんだ。
はいはいはい、なるほど。
単純に思想的にいいですとか、
物事を深く突き詰めていった結果で生まれましたっていうことじゃなくて、
現実的に当時のイギリスの社会を変革しようとか、
便利なものにしようとか、
それが良いと思って考えられたようなものが、
この公立主義っていうようなものですっていう感じなんだよね。
だからもしかすると、ある意味その闘争状態みたいな、
ある意味何でもあり、人理なき戦いっていう時に、
それでちょっとやっぱ損をこむっちゃうとか、
それだとちょっと全員将来的に共倒れじゃねえみたいな、
デメリットとかネガティブな面に気づいた人たちとかが、
そこを構造から変えたいっていうところで、
考え始めたのがこの世俗的公立主義みたいなイメージなのかな。
実はそこまで遡ってもいなくて、
その闘争状態って、
そもそも人間が何もない社会に放り込まれたとしたら、
そうなるって言うはずじゃないですか。
これはそもそも論なんだけれども、
ベンサムとかは現実的な世の中を見ていて、
当時のイギリスっていうのは産業革命の真っ最中なんですけども、
いわゆる市民とか商人とかそういう人たちが対等していて、
世の中的には力を持っている時代なんだけれども、
政治とか法律とかっていうものが、
いわゆる特権階級の人たち、貴族とか、
そういう人の既得権益ってなっちゃってるんですよ。
要は接種制とかで貴族じゃないと政治家になれませんとか、
法律も、血筋という家系の人はいいけど平民はダメですとか、
そういうものがまだまだ全然残ってるのは時代なんだよね。
やっぱりそれっておかしいよね。世の中こんなに変わって、
貴族以外の人もこんだけ力を持っているとか、
いろんなことができる時代なのに、
それが伝統だからとか、昔からそうだったとか、
あるいは一部の人たち、貴族とかにだけ都合がいいみたいな、
そういうもので残っている、ある種ベンサムみたいな人たちからすると、
古い制度がある。
それを変えたいんだけれども、
古いとか時代に合わないっていうだけだと力を持たないので、
要は貴族が守ろうとしている制度って、
このイギリス社会に生きている我々、
人々の幸福を増やしているんですかとか、
それって本当に神の意思でもいいし、世の中の道徳でもいいんだけれども、
そういうものにかなってるんですかっていうことを、
ちゃんと論点として提示して、
否定、反論できるもんならしてみなさいみたいな、
政治的な言論として追求していくっていう感じなんだよね。
なるほど、ほうほうほうほう。
いわゆるこの公理主義、みんなで幸福になりましょうとか、
自由とかって、道徳とか倫理っぽい話なんだけれども、
もともとは政治の、
やっぱり一部の人が優遇されていて、一部はそうではないっていうところを変えにいきましょう。
もっと具体的に言うと選挙権を拡大しますとか、そういうことも特別だよね。
そうなんだ、ほうほうほう。
制限されてる中で、選挙に行ける人と行けない人がいるとか、
投票権を持ってる人と持ってない人がいるっていうので、
果たして本当に個人の幸福追求と社会全体の幸福追求というところに、
つながってるんでしたっけっていうか。
それなら全員が選挙に行ける世の中の方が、
より一人一人の幸福度は上がりませんかって言えたりするじゃないですか。
まあそうだね、はいはいはい。
そういう現実的な変革をするための、まさに理論的なバックボーンというか。
まさに理論武装だね。
そうそうそう。
その当時の社会を変えていく。
それを実現しようとするための思想だったというような感じなんだよね。
わー、なるほど。それは必要だね。
やっぱりこのように現実的などこか出てるんですけれども。
さっき、僕がベンサムの高齢主義をお伝えしたときに、
つまり全体の幸福っていう話と、あと快楽っていうことをちょっと差し込んだんですよ。
これは多分教科書とかにあるんだけれども、
ベンサムっていう人は、
快楽だっていうふうに解釈というか定義をして、
その快楽の量っていうものを測れるんだみたいな、
そういうことを考えた人なんですよね。
へー、そうなんだね。はいはい。
なんだっけ、これちょっとおめ…
雑談なんだけど、快楽を測れる機械まで作って、
その人の頭にかぶりとかだったかなんかわかんないけど、
そういうことをしたら、今この人は快楽を10感じてますとか、
この人は12ですみたいな。
だからこっちの人の方が2多いから、2の分優れてますみたいな。
そういうことをやろうとしたみたいな話を聞いたことがあるんだけど。
やろうとしたね。
作ったんじゃなくて。
作ったのか、作ろうとして失敗したかちょっと忘れちゃったけど、
そのぐらい快楽っていうものを量で表せる、
数学で表せるっていうふうに思った人。
へー、面白いね。その機械に作ろうとしたんだ。
そうそうそうそう。
これが結構ね、よくもらうと批判される部分なんだけれども、
やっぱりベンサム自身は量っていうものをすごく大事にしていて、
快楽の量が同じであれば、
子供が遊んでいる、クキピンとかおはじきで遊んでいるとかいろいろ言われるんだけど、
そういうふうな子供の遊びも、
いわゆる交渉の芸術を鑑賞しましょうとか、
こうちょっと言われているだね。
こういったような、いわゆる社会的ステータスの高そうな行動も、
快楽の量がもしどっちも仮に10だとすると、
その価値は同じだっていうふうに言うんですよ。
あとベンサム的にね。
ベンサム的にね。
これどう思う?
難しいよね、快楽の量を客観的に決めるのは。
そもそもね。
難しいなあと思う。
主観で言えばそれに成り立つんだけど、
どっちもね、子供は子供でめっちゃ楽しいらしい。
その芸術、美術館とか行ってさ、
見てる人もめっちゃ楽しいと思ってたら10でいいかもしれないけど、
それを客観的に見てどっちも10って定義するのはどうかねとは思うよね。
それって測れるんですかとか、
測ることにどこまで意義があるんですかとか、
そういう話だよね。
だからそのポイントだよね。
10ポイントみたいなさ、こっちは20ポイントみたいな、
そこにめちゃくちゃ恣意性だったりとか、
そこで今度また喧嘩の味装備って思った。
だからベンサムはそれを測れる機械というものを作ろうとしたっていうのはそこなんだよね。
いやー、開発してほしかったね。実現してほしかったな。
アインシュタインとかと組んでね、それこそ。
そうね。科学の発明、世紀の発明ですみたいなね。
これはもちろん良語で表すってどこなんだみたいな批判はめちゃめちゃ食らうんですけども、
ある種ベンサムからすると、ある種やんごとなき事情っていう理由があるんですよ。
あのー、わかってるよって話ね、ベンサムも。
わかってるよっていうか、そうする必然性があったっていう話。
基本はね、さっき言った通り政治を変えましょう、世の中を変えましょうっていう話をベンサムはしてます。
法理主義がどれだけ厳密かっていうことよりも、それによっていわゆる論的だよね。
そういった人たちをどうやって、ある種克服させるかというか、
主張を通しますかっていうことをやっぱり大事にしてるわけなんだよね。
あー面白いね、そっか。
哲学的な審議よりも、どっちかというと思想、哲学と思想の違いもあるわけれども、
めちゃくちゃそういう意味での実用性が第一だったんだね。
ここは言い過ぎで、もちろんベンサムからしたら、これが本質だとか、
法理主義としてこれがベストだと思っていた可能性もあるけれども、
それは何によってベストかっていうと、政治をちゃんと変えようとか、
そういうことに対するベストなはずなんだよね。
なるほど。
逆に言うと、今の役やったとおりさ、主観的かしら難しいよねとか、
世の中的に、本当にその快楽って全部同じ基準できるのかっていろんなことがあるんだけれども、
そっちの議論をしてしまうと、結局はまた主観の問題になってしまって、
いやいやこっちの快楽は定俗でこっちが公証だとか、
逆に言うとエリートの人たち、要はベンサムからすると論的な人たちからすると、
やっぱり貴族たるもの、こういうふうな立ち並みを持っている人こそが快楽としてより優れていて、
より幸福で、貴族の仲間に入れない平民は不幸だとかってなっちゃうと、
結局は身分差みたいなものをどんどん増やしてるじゃないですか。
なので何が公証かとか定俗かっていうふうなことを議論するんじゃなくて、
あえて中身は問いません。子どもの遊びであれ、お妻とか貴族なんかであれ、
全部一緒だと。一緒なので、当然子どもにも幸福を追求するっていうことは重要だし、
貴族も重要なんだけど、その重要さは同じであろうと。
面白いね。そういうふうな組み立てであれば通じにする意味だったりとか必然性はあるよね、確かに確かに。
逆に貴族が嫌なわけよ。そんな自分たちの公証なというか、
特権的なものが子どものおはじけ遊びと同じにするなんてありえんみたいな話なんだけれども、
でもそのありえんっていう反応を引き出すこと自体が大事というか。
はいはいはい、罠だね。それありえんですか?みたいなね。
じゃあ反応してみてくださいよみたいな話になってくるわけだね。
そうそうそう。それに対していやいや伝統的にとか、
じゃあもうそれは現在の幸福を見てませんねとか、
一緒に生きているこのイギリス社会の人たちって言ってもない場所にするんですよっていう話になっちゃうから。
そういうことも含めて量とか、ある種質をあえて問わないっていう。
そこに対してのある種の平等性っていうものを出していったっていうふうな反応なんだよね。
なるほどなるほど。確かに今の比較で言うと、
その10ポイント20ポイントをつけるっていうところに恣意性みたいなものが出ちゃうよねみたいな話をしたんだけれども、
その前提として、量じゃなくて質的な話をしてしまうともう絶対そうなっちゃう。
もうその恣意性とか客観性がほぼないっていう世界しか基本なくなっちゃうので、
それよりは度量的な10とか20とか数字で表しちゃった方がいいよねというか、
わかるよねみたいな。
そうそうそうそう。
ちゃんとそこを、現実はちゃんとつけつけられるよねと。
快楽な話をしたけれども、快楽を増やすって話や普通を取り除くって話は両方あって、
例えば変な話、貴族が一食ご飯食べれませんっていう話と、
貧しい子供がご飯食べられませんとかっていうときに、
一食食べれないっていうことに対する苦痛とか辛さとかひもりさっていうことは、
もちろんベース、いろんな違いはあるけれども、本来同じでしょうと。
だとすると、一食が食べれませんっていう人に対してご飯を食べるようにするっていうことは、
貴族であれ平民であれ大事なんだから、
ご飯を食べれないっていうことに対して口を取り除くっていうことって、
社会が目指すべきことですよっていうふうなことも言いやすくなる。
なるほどなるほど。
もしかしたら当時の人からすると、そんな貧しい人が食べれないなんて当たり前だとかさ、
そもそも食べるご飯がないんだから別に、
今日食べれないんだったら明日食べれなくてもその苦痛って減るだろうとか、例えばね。
神様どこ行った、神様。
そうそうそう、ってことかね、思ってたとしても、
でもそれは違うんですと。
一食食べれないっていう、仮に苦痛があったとするとそれは同じなんですっていうふうに言えるとしたら、
それってちゃんと正さなきゃいけないですよねとか、
そういうことも含めて言えるようになるみたいな。
そういうふうなことがこのレインさんの公理主義にはあるんですっていう感じなんだよね。
なるほど、今食べなくていいってところの例えがいまいちピンときてないんだけど、どういうことだ?
例えば、さっきのストーリー、
貧しい人は当然食べるものも少なくて仕方ないと。
例えばね。
なので、一食塗りだとしてもそれはもともと食べる量が少ないんだから、
普通は少ないはずだ、みたいな。
そういうロジックも成り立つようと思えば成り立つじゃないですか。
貴族側からしたときね。
どうせ大食ってないんだから、いいだろうみたいな、一食ぐらいみたいな。
そうそうそう。
それは仮に当時の貴族がそう思おうとしたら思えるってことね。
なるほどね。
パンがなければケーキも食べればいいじゃない、的な。
的な発想かな。
その発想はちょっと準備なかったから。
ちょっと原理主義すぎた。
自分貴族じゃないからそういう考え方ができなかったっていう。
ちゃんと一食は一食だよっていう感覚で生きてるからさ、
そんな眩しい奴は食わなくても同じだろうみたいな。
恐ろしい。
その辺の草も食っとけよみたいな。
ワンピースの天竜人みたいな話になっちゃうよな。恐ろしい恐ろしい。
でも本当そういう感じだよね。
やっぱり自分たちと違う人間であるみたいな、もっと言うとね。
そういうぐらいに思っていたとすると、
そうじゃない、同じ人間なんだと。
そこにちゃんと目を向けましょうっていう話なんだ。
テレビとかまさにそうだよね。
彼らは自分たちと違う人間だと思ってるわけじゃん。
そういうものが当時あったんだと思うんだよね。
それが特権階級とか、そういった身分の違いっていう話なんですよ。
その人たちに対して質っていう視点で議論してたら一生重ならないというか、
平行線だけど、量、数字っていうものを持ってくると、
ワンチャンちょっとあるね。
同じ投票で話し合えるね。
それをちゃんと納得させようとか、
自分たちの議論に目を向けてもらおうというところで、
ベンサムっていう人が法理主義というものを、
接続っていうと悪い意味に聞こえるけれども、
そうじゃなくて、ちゃんと知事の足のついたというか、
現実を変革するものとしての法理主義というものを作っていたっていう話。
そういったものが土台になって、
今回のテーマであるミルの話を今日もしていくんですけれども、
ミルさんに関しては、今言った質の問題、
これってことも実は大事だって言ったってことが一番大きいんですよ。
ベンサムは量で推したんだけれども、
当然いろんな批判も食らうし、そんなわけないってこともなる。
やっぱり前回お伝えした通り、
ミルさんが20歳の時に精神的に参ってしまって、
果たして自分が突き詰めてきたこの法理主義というものは、
今実現されたとしても、
自分は本当に幸せになるのかというときに、
違う脳だっていうふうになったと。
芸術みたいな話をするんだけれども、
やっぱり自分の感情に向き合うとか、
自然の豊かさを感じるみたいな話って、
どこにも量に変換できるんだっけとか、
質って思って、ミルさん自身の経験として大事だよねっていう、
そういうことを自分の経験からちゃんと導き出すんですよね。
ミルさんですね。
ベンさんから受け継いでっていう話なんだけれども、
前回お伝えした通り、自分自身が20歳の時に、
精神の危機みたいな感じで病んでしまうわけですよね。
なんでかっていうと、
仮に自分が追求してきた法理主義というものが、
今この瞬間、世界に実現されたとしたときに、
自分は幸せだろうかと考えて、
明確に違う脳だみたいなことに気づいちゃうわけですよね。
法理的に言ったら、
法理主義というものを実現して、
みんなが幸福を追求して社会が幸福になるっていう、
それが実現されれば本当はハッピーなはずなのに、
それを幸せだと思えない自分に対して、
病だけで考えたら絶対にプラス1以上になってるじゃないですか。
幸せじゃないっていうことは、
どうしても質の問題を考えなきゃいけない。
これがある種ミルさんが立ち直るために、
芸術とか詩とか、
そういう人間の感情とか自然の豊かさみたいなものに
救われたっていうのもあるんだけれども、
それに救われるっていうことは、
それから受け取る何らかの質っていうものが、
自分をより幸福にしたっていうふうに捉えざるを得ないじゃないですか。
苦悩とか自分自身の経験っていうところから、
量だけじゃないんだと。
やっぱり一定の質っていうものを大事にしないと、
自分の合理主義っていうものが、
うまく説明できないというか、
大事にできないんだっていうふうなことを考えるんですよね。
これで有名な言葉があるんだけれども、
聞いたことあるかな。
満足した豚であるよりも不満足な人間の方がよく、
満足した愚か者であるよりも不満足なサクラテスの方がいいみたいな。
聞いたことある。
これはミルさんの言葉なんだよね。
そうなんだ。
そういうことを書いてるんですけれども、
さっきの話だと、ご飯食べましょうっていう時にさ、
ある種、豚はちょっとかわいそう、
ここでヒカリに出すのはかわいそうなんだけど、
満腹の豚と満腹の人間と、
人間の中でも哲学的に強いという、いわゆるサクラテス。
あった時に、
両方だけで言うんだったら、全員一緒じゃん。
満腹な豚も満足した人間も、
哲学ってことだったらサクラテスも、
みんな同じ幸福を感じてるんだったら、それはもう一緒ですよね。
っていうのがベンサムの話なんだけど、
ミルはやっぱり違うんだと。
そこに対して、
サクラテスはある種例だけれども、
人間、知性でもいいし、想像力とか、
何かを愛するでもいいけれども、
そういうことにちゃんと向き合っている人間っていうものの方が、
やっぱり快楽の質が高まるんだと。
サクラテスって単なる動物的な快楽?
いわゆる寝る、食べる、飲むとかみたいな話も含めて、
そういうものとはやっぱり次元が違うんだよっていう。
そういうことを大事にしたかったのがミルさんです。
なるほど。
だから、
サクラテス的な感覚というか、
モテるように頑張れ、成長しろ、みたいな。
そういうのとはまた違うの?
そうだね。
そこまでは言わないというか、
次回ちゃんとお伝えしていって、
ミルが言うところの、
質の的な快楽が高い人ってどんな人なの?とか、
こういったミルの効率的な中で、
どういうふうなことを実現すると、
真に幸福を実現するとか、
提供するとか、
次回にお伝えしようと思ってるんですけど。
単純にみんなで実学をしようとか、
目指せっていうことじゃなくて、
質的な快楽が大事っていう世界観の中で、
どう生きるのかみたいな。
そういうことを考えていこうっていう話なんだよね。
ある意味ミルさんが難しいと、
無理だと思った質っていうものを、
この効率理論の中に取り入れていくのね。
そうそうそうそう。
これはある時ベン様がいたからできることというか、
さっきまでそれより、いきなり質の話で、
動物的な快楽は低くて、
精神的な快楽が高いとかって言っちゃうと、
惚れ見ろと、貴族からすると。
我々貴族の方が精神的に高いんだみたいなさ。
やっぱりなっちゃったりするでしょ。
お前ら豚は黙っとれってなるよね。
厳しくなっちゃうんで。
そういう土台がちゃんとあった上で、
やっぱり質が大事っていうところで、
より効率理論を深めていくというか、
効率理論に対する反論にさらに反論をしていく。
なるほど、土台ありきだね。
例えばって話なんだけれども、
見るが質が大事とかって言ったりするじゃん。
それを仮に良しとしても、
人間が生きるにあたっては、
快楽っていうものじゃなくて、
もっと大事な正義でもいいし、
信仰心でもいいんだけれども、
そういうものがちゃんとあるじゃないかと。
そういう時に快楽が密かって言い出すんだったら、
幸福を追求するっていうことから離れちゃってるから、
快楽を追求するみたいな話になると。
幸福とはまた違うんだね。
逆に言うと、シンプルな量とか数だとすると、
快楽の数が多い人の方が幸福であるっていう風に、
間違ってるかもしれないけどシンプルに言えるじゃない。
快楽の質とかって言っちゃうと、
快楽の質は100なんだけれども数は1っていう人と、
快楽の質は1なんだけれども数が100っていう人がいます。
掛け算してどっちも100じゃんって言えるのかって問題出てくるよね。
なるほど、なるほど。
そういう時にどっちが幸福ですかとか、
どっちが快楽としてより良いんですかとか言ってしまうと、
結局よくわかんなくなってくるし、
そこに対して、
例えば快楽、自分としては心地よくないかもしれないけれども、
やっぱり正義に準ずると。
信仰心を持って厳しい生活かもしれないけれども、
心は豊かであるとかって人がいたときに、
果たしてその人って本当に幸福かどうかとかって、
よくわかんなくなってくる。
でいくと、結局それって氷主義。
要は個人個人の幸福っていうものを追求した上で、
社会全体の幸福を追求しようってことができなくなってくる。
はいはい、そうだね。
いわゆる理論的な方での操作が意味をなさなくなるよね。
そうそうそうそう。
やっぱりそれって氷主義じゃないんじゃないとか、
氷主義にこだわる理由なんかあるんだっけみたいな。
あー、はいはいはい。
そういうふうになって批判をしていくわけなんだよね。
これに対して見るのが面白いなっていうのが、
氷主義っていうのが見えやすい、
私は氷主義者だっていう人だけじゃなくて、
実は多くの人が発想を根っこに氷主義的なものを持ってるんだ。
どういうことかっていうと、
美徳を大事にするとかね、正義を大事にして、
自分の見返りも求めずに、
自分は不幸に近づいて傷ついたりとかさ、
辛い思いをしてでも人を助けるとかってあったときに、
快楽っていう意味からすると絶対マイナスなんだよね。
でも正義を実現するとかってことがあったときに、
でもねと、正常さすがに手段として、
自分が傷ついても正義を守るために人を助けるとかってやつとしても、
繰り返していくと人間っていうものは、
正義を備えている自分とか、
美徳を大事にしている自分とか、
そういうことに喜びを持っていくんだ。
正義を実現できない自分に対して苦痛を感じるようになるっていうときに、
正義であることこそが、
快楽とか幸福につながっていって、
正義から離れることが苦痛とか快楽を減らすことになっていくのとすると、
正義を追求している人も、
結局はその正義というものを通じて、
快楽と幸福というものを追求しているんだみたいな。
そういうことをみるは発想として考えていくわけだよね。
なので、いかに正義とか、
崇高さみたいなものに準じているんだ、俺はみたいな。
別に自分の幸福を投げ打ってでも、
世のために尽くすんだとかって人がいたとしても、
その行為自体がそういう人にとっては快楽になっていくし、
その先には幸福があるんだと。
ということで、要は快楽とか幸福というもので、
ちゃんとそういう別の価値観、正義とか崇高さとか、
そういうものも扱えるんだよっていうことを考えていくんだよね。
なるほど。
なんか伝わるかな。
なかなか快楽と幸福の関係が難しいね。
はいはいはい。
ここはね、逆に言うとあんまり考えすぎないほうが多分良くって、
幸福とは何ですかとかって結構難しくなっていくというか、
その定義がやっぱり大変になっていく。
でも快楽って心地よさとか、
ある種自分にとっての良い感覚。
あと快楽って言うと、
いわゆる主治肉林的な、
そういう乱畜騒ぎっぽい感じもあるから、
ちょっとイメージしにくいかもしれないけれども、
いわゆる自分にとっての心地よさを増すことが快楽で、
心地よくない状況になるというのが苦痛みたいな、
そういう感じで捉えるといいかも。
そうした時に、
どうせ心地よさが増えるっていうことが大事。
公理主義的には。
それが真っ直ぐというか、
いわゆるシンプルにそれが多いほうが幸福だよね。
で、心地よくないこと、
嫌なことが少ないほうが幸福だよねっていう、
結構そういうシンプルな発想なんだよね。
それはどっちも、ベンサムもミルも共通してってこと?
公理主義の根本にある。
例えば正義を実現しようとして自分が気づく人がいたとしたら、
本当に公理主義に反射に見える。
要は自分で苦痛を受けてるから、
快楽が減っている。
でも正義を実現するっていう人って何なの?
っていう話になるんだけど、
ミルに言わせると、
正義を追求する、実現しているということが、
その人にとって快楽なんだ。
良いことにつながっていく。
そうすると、
それも質っていうものを取り上げたとしても、
ちゃんと公理主義の枠内に収まるよね、みたいな。
取り上げるっていうのは、
質っていうものを導入したとしてってことだよね。
そうそうそう。
そういうものを考慮に入れたとして。
なるほど。
なので、ある種ミルに言わせると、
何らかの価値観とか、
アイディアみたいなものに基づいて、
世の中を良くしていこう。
例えば世の中に正義が大事だとか、
神の崇高さが大事だとか、
それが何でもいいんだけど、
そういうものを実現しようとする人が、
実はその奥には、それを追求することが、
その人にとっての快楽であり、
幸福につながるんだっていう、
公理主義的な発想を実は持ってるんだっていうふうに、
ある種反応するんだよね。
反応。はいはいはいはい。
そうすると、
公理主義なんて捨てちまえっていう人に対して、
いやいや、そう言ってるあなたの方が、
実は公理主義に取り込まれてるんですよね。
あー、なるほどなるほど。
あー、なるほどね。面白い。
同じ土壌への削り込み方が違うんだ。
面白いね。
そうそうそうそう。
反論相手からすると、質っていうものを取り入れると、
公理主義っていうものは成り立たないって言うんだけど、
ミルからすると、質っていうものを入れることで、
実は公理主義の範囲が広がるんだ。
あー、はいはいはい。
そういうふうな議論をすることで、
自分は公理主義者であるっていうことを守りながら、
ベーンさんを乗り越えるというか、
自分の実感っていうものをちゃんと盛り込んでいくっていう、
そういうことができる人なんですよね、ミルって。
あー、なるほど。
すげー難しかったと思う、これ。
なるほど。
ちゃんとベーンさんがやらなきゃいけなかった、
天竜人と自分たちだというか、
市民の同じ土俵になんとか引き継ぎ込むっていうことを、
ベーンさんはしょうがないと、質は捨てて量でいくぞみたいな話で、
ミルはそこに対して、
ちゃんと質っていうものを持ち込んだ上で同じ土俵に引き継ぎ込むっていう、
そのロジックを作ったって話で、
あ、そういうこと、そういうこと。
あなたもそうでしょって言った時に、
ムムムってちゃんとさせるっていう質を盛り込んだ上でねっていうね。
うわー、ちょっと難しかった。なるほど。
確かにね。
それはすごそう。
確かにごめん、だいぶ掛け足でバーってやっちゃった感じがあるので、
次回ね、もうちょっとちゃんとミル自身がどういうことを言ったのかとか、
ミルの行為が何かっていう話をしていくと、
今回の話もより分かりやすいのかなと思うんですけど。
はいはいはい。
うん。
そうだね、ちょっと今回は掛け足でやっちゃったかも。
うんうんうん、なるほど。
まあどうも、今回ベンサムのっていうところで言うと、
時代背景だったりとかね、
あえて要みたいなここにこだわった理由っていうのは分かった気がするね。
うんうんうんうん。
そこはやっぱり嬉しいなと思います。
やっぱそれをベースにすることで、
やっぱりミルの質を大事にするとか、
やっぱりある種の快楽っていうものがそもそも何なのかとか、
それを追求する仕方が何かみたいな。
話もね、より見やすいかなと思うので。
はいはい。
次回そこをですね、掘り下げるっていうところで、
ミルの公理主義っていうものをちゃんと深く見ていきましょう。
そういうようなことを思っているというふうにですね。
はい、分かりました。
次回ですね、公理主義をより深く見ていくというところで楽しみにしていきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。