哲学と風土の関係探求
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、今回も和知事哲郎さんということで、今回から和知事哲郎さんの哲学の中身、
そこに入っていくというような話でした。 前回はですね、風土みたいなパターンとして、モンスウム、これ東アジア
みたいなものと、砂漠、これ西アジアと、あと牧場ヨーロッパみたいなものがあるよっていうふうにお伝えをしたところと、
それがいわゆるいろいろ批判をされる中でも、地理的決定論、地理と人とかって単純に結びつくんだっけみたいな、
そういう批判があったよっていうところをお伝えしたかなと思うんですよね。 前回の話し分けだと、これで哲学です、バーンって言われても、だいぶ
え?ってなるよねって思ったね。 そうねそうね。
なので今回はその風土の中の哲学的な要素っていうのをですね、もうちょっと深掘りしていくんですけど、
前回お伝えした一部、少しお伝えしたんですけど、そもそもワティさんがなんでこんな本を書こうと思ったのかとか、
なんでその風土っていうのに着目したのかっていうところ、やっぱり肝になってくるかなと思うんですよね。
はいはい、そこはでもね、前回の最初にそこを教えてよって言ったけれども、まだ早いよねっていうところを前回と後々、最後にも少し話ししてもらったみたいなところだよね、ここが。
やっとそこに入っていくよっていう、なんかちょっと大歯向けしてしまったような感じなんですけど、でも多分前回の話だと分かりやすいかなと思って、もちろん考えてきてはいるんですけど、
繰り返しになっちゃうんだけれども、ワティさん自身がこの本の目的、これを書くことで、これを目指してますよって書いてるんだけれども、一言で言うとね、これがその
人間存在の構造契機、なんて言うのかな、あり方だよね、まあそこでざっくり言うと。
あり方のきっかけになる意味での風土っていうものを明らかにすることなんだっていうふうに言ってるんだよね。
要は人間っていうのは、ヨーロッパの哲学とかと比べて分かりやすいんだけれども、いわゆる個人とか人間が他のものと何でも規範されて、
ただ人っていう存在としてあるっていうことよりは、風土っていうのはその根っこにあるよねとか、風土っていうものの影響を受けてやっぱり人間存在ってあるよねみたいな、
そういうことをワティさんは前提として考えてるんだよね。
なるほどね、はいはいはい。
もっと言うと、これも前回言ったときはえ?って言ってたけど、自然環境がいかに人間生活を規定するかっていうことが問題なんじゃない?って書いてるんだよね。
前回めっちゃ自然環境が人間の生活とか考え方を定めてる話したやんけってなっちゃうんだけれども、
ワティさんはそれは問題じゃないと言ってると。じゃあ何が問題なのかっていうと、さっきもちょっとお伝えしたような自然環境。
これって要はその自然環境と人間って考えるときに、やっぱ結構二項対立というかさ、やっぱ別のものとして捉えることが多いじゃないですか。
まあそうなの、確かに確かに。
風土の概念とその広がり
特にその自然科学とかでいくと、やっぱり自然とある種分析の対象であるとかさ、人間が自然をまさに合理的に扱うみたいな発想、
それ前回牧場型とかって言ったと思うんですけど、そういうふうな発想じゃなくて、やっぱあくまでも人間と切り離せない、
もっと言うと日常的な生活を取り囲む、取り囲むっていうか、日常生活と共にあるものとしての自然というものを扱いたくて、
それをあえて風土という言葉で表現してるんだよね。
そこはそこか。明確にというか、ワティさんの中ではイメージが分けてあるんだね。
そうですね。だから自然とか環境とかじゃなくて、風土って言葉を使ってるのも意味があるんですよね。
なるほど、そっかそっか。そういう言葉を使っちゃうと、人の手が加えられたとか、人によってコントロールされずみの自然、環境みたいなものも入ってきちゃう余地があるからみたいなイメージなのかな、もしかすると。
それも風土に入ってるのかな?
そう、入ってる入ってる。
もっとすごく広い概念だよね、風土って。
むしろね。
うん、むしろ。
例えばね、ワティさん自身が言っているのは、
ワティさん自身は風土っていうものを、ある土地の気候、潮、地質、地形、景観とかの総称だって言ってるんだよね。
単純に自然っていうふうな、周りを囲んでるものとかっていうだけじゃなくて、景観、どういう風な地形が見えているかとか、
地質とかも含めて、本当にその環境全体を含めてこの風土っていう言葉を使っています。
さっきも言った通り、環境のことだけじゃなくて、人間と切り離せない、日常的な事実、そしての環境であり自然っていうものを指して風土って呼んでるんだよね。
なるほどね。景観って言われるとだいぶイメージ湧く気がするね、確かに。
そうそうそうそう。
どんな材質でどんな家を作ってるかとか、そういうのも含まれてくるみたいな。
そうですそうです。
ただ丘があるとか山があるだけじゃなくて、それに対してどういう風に人が感じるかとか。
自然のまま放置してるのか、ちゃんと手を入れてるのかみたいな、そういうところを含めて。
そういうものが風土なんで、かなり広い概念なんだよね。
やっぱりこのある種の日常的な事実というか科学で言うと、西原さんの経験とか沖さんの生の哲学みたいな、そういう発想に近いのかなとは思うんだけれども。
松井さんはそういうものを捉えようという風にしてますと。
具体例が実はいろいろ挙がっているんだけれども、例えば寒気?寒い?冷たい?ってあるじゃないですか。
っていう時に、例えば客観的に言うと今日は0度ですと。
なので空気が冷えていて寒さを感じますねとかっていう風な話だと思うんだけど。
これって要は、僕らが普段生きている人間論的な自分がいて、外が寒くてその寒さを感じてますって言うのが文脈なんだよね。
ちょっと補足すると、要は寒さとか寒気みたいなのが独立したものとしてあって、個人というものが独立したものとしてあって、
その点と点が結びつくと寒さを感じるとかっていうことじゃないんだよっていう風なことを言いたいんだよね。
そうだよね。さっきの今日は0度だから寒いねみたいな話で言うと、
住んでる場所によってさ、「今日15度寒いねーかもしんないし、マイナス20度あったかいねーみたいなさ、それでもあり得るよねー?」っていうのは思ったから。
そうそうそう。そういう意味で言うと、やっぱり寒さっていう感覚があったときに、既にその中に自分もいるし、
0度とか15度とかマイナス20度っていうそういう風な環境というか気候条件、両方含まれているっていう風な話なんだよね。
うんうんうんうん。
なので、かじりさんが言うには、そういう寒さ、寒気って独立したものがあるんじゃなくて、
その寒さを感じる、その感じるっていうのがひとつの体験で、その中にやっぱり私は暮らしているんだというか、あるんだ、生活しているんだっていう風なことを考えるんだよね。
うんうんうんうん。
つまりこれって、要はそのやっぱり、物事を認識とか理解するときって、主観とか客観の構造とか、外にあるものを自分が辿り着いていて感覚的に理解するみたいな、そういう風な順番を辿るじゃないですか。
うんうんうん。
人間存在と風土の影響
じゃなくて、やっぱりかじりさんの場合は、私が暑さとか寒さ、そういうのを感じるっていうときに、それはもうそれ以上分けられない。
私と暑い何かとか寒い何かって分かれるんじゃなくて、私が暑さを感じているという体験としか言えないようなものが根幹にあるんだよっていう風に考えるんだよね。
あーなるほど。はいはいはい。
ちょっと分かってきた気がする。
見えてきたかな。
これ、哲学的には現象学にも近いですし、さっき言った通り、自然とかを客観的に分析して、例えばこの地域ではこの気温になると寒いとみんなが言うじゃなくて、
風土として、寒いね寒いねってみんな言ってるときに、寒いって言われるのがなんとなく0度ぐらいだったねっていう風に理解をしていくみたいな。
そういうことを捉えていくことで、わつりさんはこの風土っていうものと人間の関係っていうものをきちんと意味付けていこうっていうことを考えるんだよね。
ふんふんふんふん。
はい。この意味で言うと、わつりさんのこの風土っていうやつの思想って、人間が自然を支配とか管理するみたいな一方的な関係でもないし、
あとはその人間と自然が互いに影響し合うみたいな、そういう双方向でもないんですよ。
えー、違うんだ。
そう。双方向っぽいんだけど、それもどうしても二元論の発想になっちゃうじゃない。
おー、なるほどね。だからさっきの寒いとかで言うと、人間VS寒さみたいな話になっちゃうってことね。
そういうこと。対立っぽくなっちゃうんだけど、そう。じゃなくって、いかがでももっと踏み込んでね、その人間存在の中に人間を成り立たせる、そういう基盤として、風土っていうものとか環境っていうものがあるんだってことを考えるんだよね。
あー、なるほど。
自然とかって言っちゃうと、やっぱり人間を取り巻く舞台みたいなイメージになっちゃうと思うんだよね。
だからそういうステージの中で、人間っていうものが暮らしていけますなっていうふうな話で思えちゃうんだけど、
そうじゃなくて、そもそも人間の在り方の中に、そういう環境の中に生きているとか、そういう舞台の中に立っているとか、そういうことが含まれますよね。
はいはい。仮に、個人でもいいし集団でもいいけれども、そこを含めて私ですよね。そこを含めて私たちですよね、みたいな感覚ってことはね。
そうそうそう。そういうことそういうこと。
あー、結構確かに。これを具体的により説明しろって言われてもちょっと難しい部分になってくるね。なるほど。
そうだね。なので前回やっぱりモンスーンとかサバルとかって言ったときに、そういうモンスーンの舞台に生きる人間は、例えば需要的にありますとか、人種的にありますとかって話をしたと思うんだけど、
それは松井さんの感覚からすると言葉が足りないというか、本当に伝えたいことはやっぱりちょっと違うんだよね。
あくまでも、例えば日本というところに生きる我々の在り方として、モンスーンという気候とか地理的な条件っていうものがきっと切り離さないものだよねとか、
それぞれ基盤にあるものだよねっていうふうな、そういう分けられないという考え方っていうのが前提にあります。
もちろん自然というものを人間に吸収しすぎてもよくないとかってあるんだけれども、
フードっていう本によって松井さんは、あくまでも人間と結びついた自然、もっと言うと人間の関心と結びついた自然っていうものについて語ってるんだよね。
例えばさっきの寒さみたいな例で言うと、ちょっと古い日本人のイメージだと思うんだけど、例えば寒かったら土寺とかを焚き込んで焚き木とかを焚いて家族で集まって壇を取るとかするわけじゃない?
っていうときに、土寺を羽織るとか焚き木を焚くみたいな構造もそうだし、そもそも焚き木っていうものを使うのも木材がさ、豊富にある、そういう資源があるからできる行為だとしたときに、
それ自体が前回で言うところの、モンスン的なフードっていうものに裏打ちされた行動だよねっていうふうに考えるんだよね。
それを考えると、単純に自然の中で人が生きているってことじゃなくて、どういう行動をするかとか、どういう資源にアクセスできるかとか、
その資源がある中でどういうふうに家族との関係を築くかとか、そういうことも含めて、全部その土材にフードっていうものが影響をしろよってことを和田さんは見ていきます。
木工などはどうだろう?なんとなくイメージはわかるかな?
どうだろうなぁ。難しいよね。っていうのが、今の話でも、前回のやっぱりこういう乾燥してるからとか、自然が限定されてるから争いが起きるのだ、みたいな、起きがちなのだというかね、それも。
はいはいはい。
それの枠から今の話だと出てない気がするんだよね。
なるほどね。
木が豊富だから滝ができる。
うんうんうん。
まあ、それだとまた土寺ぐらいは必要だよね、みたいなのが、今回厚井さんだったりとか、ハヤトが言ってくれた、人間と自然じゃなくて、自然&人間みたいなさ。
うんうん。一体化者もとしてね。
人間性の境界
そうそうそう。人間を作り上げるというよりは、もう何か、さっき牙みたいな話だったけれども、まさにそこも含めて、そういった行動原理みたいなものが作られているみたいな。
はいはい。
人間…なんだろうな。人間性と次元性みたいなものの境界をうまく分けるのって結構むずいなあと思った。今のね、ハヤトの話を聞いて。
はいはいはい。
一応わかってるつもりではあるけど、話の中身は。ただそれをどう説明しようというのは難しいね。
そうね。もう一個の例がもしかしたら役立つかもしれないなと思ってちょっと話したいんだけど、今さ、行動とか、気があるからそれを使うみたいな話の、割とアクション的な話をしたと思うんだけど、
それが、いわゆる心の方とか、気分とかにも影響するんじゃないかってことを厚井さん言ったりするんだよね。
はいはいはい。
で、どういうことかっていうと、例えばさ、仮に朝起きて、なんかすごい良い日差しですと。風もそよいでて、鳥も鳴いてますよときに、
あ、なんて今日はすがすがしい晴れやかな爽やかな朝とかって言ったりするじゃない?
うーん。
っていうときに、もちろんこの爽やかな朝っていうものが、一般的に存在してるわけじゃないですよね。さっきの寒さとかもしかしたらもうちょっと客観的っぽいかもしれないけど、
うん。
朝が爽やかであるっていうのはすごく、なんだろう、気持ち的なっていうか、心情的なものじゃない?
あー、確かにね、確かに。
うん。
あの、爽やかさ何パーセントとかってないもんね、別に。
そうそうそう。表現しにくいよね、というときに、えっとね、松井さんが言ってたら面白いなと思ったのが、このときその、
当然、そういう朝になったときに、我々自身、私自身が爽やかな気持ちであるんだけれども、
これって自分だけに留まんないよっていう話をしてるんだよね。
うんうんうん。
で、それを松井さんは、つまり、朝が爽やかであるみたいなことが挨拶になってるじゃないかっていうところから考察してるんだけど、
どういうことかっていうと、それこそさ、街で試合とかすれ違ったときに、爽やかな朝ですねとか、もっと言うと、いいお天気ですねとかって言ったりするじゃない?
うんうんうん。
これって別に天気がいいことを伝えたいんじゃなくって、そういう日であるという挨拶というか、そういう共通の言葉として使ってると思うんだけど、
はいはいはい。
でもこれっていうのは、こういうふうな、例えばね、日の光の差し方とか、気温とか鳥がさえずってるとかっていうことを含めたときに、
我々、たぶん日本人っていうものは、私もあなたも基本的に爽やかさを感じますよねっていう、そういう共通理解があるよねっていうことを指してるんだよね。
うーん、そうね。はいはいはい。
つまりそういうお互いに同じ、まさに文化でもいいし、そういった感覚の中である種生きている、そういうことを了解してますよねっていうことを語ってるわけなんだよね。
だから、例えばじゃあ今日爽やかな朝ですねって僕が言ったときに何気が、俺は言うだけだねとかって返すのは、事実としては正しいかもしれないけれども、関係性としてはやっぱりちょっと違う?
っていうときに、その爽やかな朝みたいなものを感じる気持ちってもしかしたら、その気温とかっていうものと自分って分かれてるように感じるかもしれないけれども、
ちょっと大きな概念として、爽やかさを感じる文化の中で生きているとか、これもフードなんだけど、共同体の中で生きているとかっていうことは、やっぱりなんだろうな、それが一体となっているっていう話なんだよね。
さっき兄貴が言ってくれた二元論と次元論って、説明しにくいっていう話なんだけれども、朝の穏やかな日差しとか、冷たい空気とかっていうのを感じたときに、爽やかであると感じる文化圏とか共同体で生きているということ自体は、
一つの枠というか、円の中にあるよねっていうふうな発想なんだよね。
はいはいはい。だから、一個多分前提が必要な気がしたんだけれども。
はいはい。
クヒさんの生きの構造とかの時とかと、たぶん似た感覚なのかもしれないけれども、今回言うとワツジさんのこの人間とは何かみたいなね、人間の構造ってなんだろうねみたいな話をしたときに、
おそらくだけど、人間のイデアだよね。
はいはい。
人間の理性とはこうなっているはずであるみたいなものの、
人間っていうものって、そんなにこうなんだろうな、世界共通とか哲学的人間の根本をそんな簡単に規定できないんじゃないの?みたいな、そういう感覚を感じたね、このワツジさんの話から。
なるほどね。
例えば、ディーシャの哲学者が、人間の理性とはみたいな話をしてると。理性だったらもうちょっとドイツとかでもいいのかな、ドイツフランスとかで理性の話をしてるときの、
人間とはそもそもね、みたいな話をしてるときと、日本で今我々が、ワツジさんとかが、人間の理性とはみたいな話をしてるときの、
人間ってものが意外と違うんじゃね?みたいな。そこの共通理解をするのって結構ムズくね?みたいな。
人間と自然の関係
はいはいはい。
特にもしかしたら、違和感を持ったときに、持ったとすると、この話ってすごい理解しやすいなと思って。
はいはいはい。
どこに人間を規定しますか?その根本を規定しますか?っていうときに、西洋哲学、そこの源流というか、
なんていうの?そのトップの人たちというかさ、主流の人たちが人間とはって語ってるときの、その主流派の人間って、木上型の人間の話でしょ?みたいな。
はいはいはい。
そこを理解しとかないと、そこがスタンダードだと思われても困りますよ?みたいな。困るとは言ってないかもしれないけど、ちょっとおかしくなるよね?と。話がね。
っていうイメージで聞くと、なんかすごい納得した。
うんうん。なるほどね。いや、ありがとう。確かに、今埋まってない部分を埋めてもらったなと思うんだけど、
西洋でデカルトとかの話をしたときに、要は人間ってみんな理性を持ってるから、正しく理性を使えば全員が同じように発想できるっていうふうな話をしてたじゃない。
うん。
そういうときに、今兄貴が言ってくれた通りで、どうしても哲学、特に西洋のそういった哲学の流れでいくと、やっぱり人間とか、もっと言うと個人っていうものって、なんていうのかな、
本当に独立したというか、他と関係なく理想的なものとして描かれがちなんだよね。
うーん。
で、第1回も少しだけお伝えしたんですけれども、この松井さんってフードを描くにあたって、タイネッカーの存在と時間っていう本からめちゃめちゃ影響を受けていますと。
はいはいはい。
タイネッカーさんは人間っていうものを、まさにいわゆる西洋的なことをした人間だよね。
うーん。
っていうものを時間っていうものから解き明かしていったんだけれども、松井さんはそれを見たときに、すごいんだけど、空間っていうものが置き去りになってませんか?とかってことを考えるんだよね。
いやー、それはハイテッカーと違う文化圏内、フードから来た人のあれではの視点になったのかもしれないね。
ある種、時間っていうものと個人というものの関係じゃなくて、そもそも人間、これはまさに松井さんが考える人間って、まさにそういう空間的なもの、家族でもいいし国家でもいいし、別に自然、木々とか山でもいいんだけど、
そういうものに包まれたものとしてあるとしたときに、いわゆる裸の、孤立した独立した人間というものじゃなくて、すでにいろんな社会とか文脈の中に置かれて、そういうものと関係を持っている人間っていうものを考えなきゃいけないよね、っていうふうに思ってるんだよね。
生の哲学的なことからすると。
そうそう、発想で言うと。
そのいろんな文脈があるっていうところの根本を考えたときに、松井さんはフードじゃないかと。
人間関係とかもいろいろあるかもしれないんだけれども、その根本にフードっていうものがあって、それによって、前回みたいに家族との絆も変わるだろうし、集落とか部族がどういうふうな力を持つかが変わるよねっていうときに、
そこの分析を抜きにして、人間の分析でできないよね、というか、人間を考えようと思うとフードを考えなきゃいけないよねってことを言ってるんだよね。
そうだね。
文化的背景の影響
いわゆる個人だったりとか、この世界に適応するにあたってって話だよね。
よく話をする実験室の話じゃないけれども、松井さん的には、ただしフードは考えないものとするっていうのはありえなかったんだね。
ありえない、ありえない。
それ抜いちゃうと、そこまで抜いちゃうと、あまりに現実と離れすぎてるというか、そんなに人間いませんって、みたいな感じになっちゃうんだろうね、ちょっとね。
なっちゃう、うん。
さっきね、人間というものを成り立たせる基盤としての自然って話をしたんだけれども、やっぱりその基盤を離れて人間は存在しないよねと。
だから本当にアイキー言ってくれた通りで、フードはないものとするっていうのは、もう前提として無理なんだよね。
そうはね。
ただし、さっき言ったような行動、そのね、焚き木を焚きましょうとかさ、そこに集めましょうとかっていうところも、
自然環境の中で人間がそういうふうに順応しただけじゃなくて、やっぱりそういう家族との距離感だったりとか、そういうことも含めて、要は人間の根底にフードっていうものが影響しているんだと。
いうことからすると、そこってただ影響を受けてるだけじゃないし、逆に人間が自然の中で上手くやってやろうとかってことでもなくって、
本当に無意識的にというか、これもやっぱりちょっと自然なって言葉を使っちゃうんだけれども、そういう避けられない形としてそういう振る舞いをするよね、みたいな。
はいはいはいはい。
っていうふうなところで、人間とフードっていうものの関係性を捉えてるんだよね。
なるほどなるほど。そこは確かに難しいかもね。
どこまでが人間がコントロールしてて、どこまでが構造なのかみたいな話だよね。
そうだね、そう。
そこの線引きを、松井さんは結構多めにとってるというか、フードっていうところで、さっきの滝木をたくとか、土寺を切るとか、そこになんとなく人が集まるみたいなところまで含めて、
実はコントロールしてるんじゃなくて、そこまで含めて自然だよみたいな、そこで持ってきてる感じがするっていうイメージなのかな。
そうだね、それは本当にそうなんです。
やっぱり難しいのは、今僕ら日本っていうところで行くと、門前型っていうのは変わらない。
要はね、夏場ジメジメしてるし暑いんだけど、でもそれぞれの部屋にエアコンがつきましたとかさ、
もうずつれじゃなくてコートを着てますとかってあったときに、その中での現れ方とかフードとの関わりってどうなのとかってもちろんあるんだよね。
そっちも常に変化してますよっていう話ではあるんですかね。
そうそう、変化してますよっていう。
単純に門前型だからとか、家族のつながりが近いからとかってことも言えなくなってきてはいるんだけれども、
やっぱり和田さん自身は、ちょっとこれも実際に家?家屋?って話言ってるんだけれども、
やっぱり家の作り方とかっていうのはすごくフードと関わってるねと。
家っていうのはやっぱり寒さを防ぐ道具でもあるし、やっぱり暑さを防ぐ道具でもある。
っていうときに、暑い方にやるか寒い方にたわれるかによって、やっぱり全然作り方が違うことも考えてるんだよね。
これよくあるじゃないですか、関西とかの方、北海道とか二重窓で寒さに対応してるけど、やっぱり南に行けば行くほど暑さ、太陽水位になるから冬は寒いみたいなさ。
今の日本でもあるとは思うんだけど、そういうときに、やっぱり暑さ寒さだけじゃなくて、洪水とか地震とか火事とかにも耐えなきゃいけないし、
屋根とかも、やっぱり地震を考えると屋根は軽い方がいいんだけど、やっぱり風を考えるとある程度重くないと飛ばされちゃうとかっていうことを思ったときに、
そういうふうな制約条件の中で家っていうのはできていると。
環境が人間に与える影響
これっていうのは、もちろん合理的なこととかもあるんだけれども、その前提にあるのって風土というか、その土地がどういう土地かとかどういう気候かとかってことでやっぱり関係してるので、
単純に独立して人間が家というものを考えるとか作るとか、そういうことではないんだよっていう話を言ってるんだよね。
なるほどなるほど。そういった制約条件みたいなものがね、ほんとにまさに。
そうだねそうだね。
それをある種環境として捉えると制約条件になるし、風土として捉えると基盤だよね。
その土台にある考え方として、僕らの在り方をやっぱり支えているとか、ある種規定しているとかっていうふうに言えますよねっていうふうな感じかな。
なるほどね。はいはいはい。
確かにこれが難しいよね。風が強いから家を丈夫にしましょうとかって、ちょっとだいぶ環境っぽいんだけど、
あくまでもその本体にあるとか根っこにあるっていうふうな発想を言葉にしようとするときに、今めちゃめちゃ難しいなって思いながら喋ってる。
そうだね。すごく意識したことがない境界線の話をしてる気がするもんね、なんか。
そうだね。
なるほど。ちょっとなんだろうな、そういうゲームあるのか知らんけど、なんかシムシティみたいなイメージだよね。
シムシティで、ある程度さ、街でもいいし水槽とかでもいいんだけど、石はこんぐらい入れて砂はこんぐらい入れて、
天気がこうするとこういうふうな生態系が出来上がるみたいなゲームありそうだよね。
あるよね。街がこういうふうに発展していくんだとか、あるいは病院建てると健康が上がって人が長生きするとかってなったときに、
それ自体がひとつのまさに環境になっていくというか、その人のあり方を変えていくよね、それ自体がやっぱり。
だから、もちろんこの風土っていうのはやっぱり自然環境っていうものではあると思うんだけれども、
それもっと広げていくと、まさに人間が作ったものだよね。
まさに病院とかさ、もしかしたら土寺かもしれないし、そういうもの自体もすごく人間のあり方の根幹にまた入り込んでくる。
いやー、そうだよね。
だから自然だけじゃなくて、その自然というか制約条件みたいな基盤の上に作った文明みたいなものも含まれてくるんだよね、どんどんね。
そうだね、そう思う。
だからさっき生えてもらったエアコンが開発されたらとか、そういうとこもどんどん含まれてくるというか、どんどん積み重なってくるみたいな感じなんだね。
そうだと思う。
これちょっと面白かったので今思い出しちゃったんだけど、最近AIとかすごいじゃないですか。
たまたまのケンスさんって知ってる?
うん、知ってる。
よくSNSとかで発信してる人がいるんだけど、もうXで流れてきたんだけど、AIを使うと頭が使えなくなるとか、考えしか弱くなるみたいな話ってよくあるよねみたいな話をしたときに、
それって車が発展すると足腰が弱くなるとか、自転車が発展すると人は歩かなくなるってことと一緒だよねみたいなことを書いてて、
それは確かにそうだよなって思ったんだよね。
AIとかってものも人間だって環境だし、それが基盤になってくるってときに、やっぱり人間の在り方も変わるよねと。
それが今から見ると、やっぱり頭を使わなくなるとか、考える力が弱くなるって言えるかもしれないんだけど、
このフードみたいな考え方からすると、むしろそこから生まれる人間の在り方って何だろうとか、人間と人間同士の関係性って何だろうみたいな、
そういうことを考える方が建設的というか、いろんな未来につながっていくんじゃないかっていうのもあるし、
文明と人間の関係
そこにこの松井さんのフードっていう考え方って応用しようと思ったらできるのかなとかって今ちょっと思ったんだよね。
なるほど。確かにそういう大きな節目みたいなものはあるんだろうね。
人間の変化としてね。
その意味でいうと、今回冒頭で松井さんのこの本の書いた目的、そして人間存在の構造契機、人間の在り方のきっかけとか基盤、
そしてのフード性を明らかにすることなんだっていうふうにお伝えしたと思うんですけれども、
これやっぱり前回のモンスーンとか砂漠でやったように、ただ単にフードパターン分けしてわかりやすくやるんだってことじゃなくて、
それまでもフードによってやっぱり人間の在り方が変わってくるから、
そういう話をしたときに、今は松井さんが見えている範囲でいうと、モンスーンってフードとか、
砂漠っていう、あるいは牧場ってフードっていうものによって、まさに違った人間の在り方っていうのがあるよねと。
ということを、ある種具体的に言おうとした結果、ちょっと決定論っぽく伝わっちゃったみたいな、そういうふうな話なんだよね。
なるほど、なるほど。そこを説明しようとしたときにってことはね。
そうそうそう。だからさっき言った難しさにもあると思うんだけど、そういう意味で言うと前回言った話が、
だから松井さんこういう三つに分けようとしたんだとか、フードってものを取りやすかったんだとかっていう、なんかちょっとイメージとして繋がったかな。
いや、まあそうだね。私、今回はやっぱり人間ってものをどう捉えるか、どう規定するかみたいなところの、
その違和感みたいなものがもしあったとすると、すごい納得感があるなっていうところかな。
そうだね、確かに。だから、人間と自然を対立して捉えるとか、人間という子っていうものに集中するんじゃなくって、
そういうふうにやっぱり一体化してみる。きっと切り離したいよねっていうところで考えていくっていうのが、
本当に小松井さんの独自の視点というか、そういうやり切ったってことなんだと思うんだよね。
いやー、そうだね。だからこの後、そういう話が出てくるかもしれないけれども、
最初の導入会でさ、やっぱり時代的にも、日本がより2つの大戦を経験してるというかさ、むしろそこの、なんだろう、その間にさ、
東京大学の日本の倫理学、何倫理学やっけ?
国民道徳論かな、大学で教えたっていう。
立場的にもさ、影響力があるというかさ、
そうだね。国の中枢だからね、東京体育大学っていう。
日本の道徳とは何かを規定していく人、考えなきゃいけない人が立場だったわけで、
そうするとやっぱり、今回みたいな話とか視点がすごくあるとか、
自分の中でスタンダードになってるみたいな感覚ってすごいわかるよね。
日本はどうあるべきかとか、日本って何なんだろうって考えたときに、
同時に哲学者として、西洋哲学に増えたときに、ハイテッカーの人間と存在?
存在と時間かな。
存在と時間みたいなものの違和感って、確かにそりゃそうだよなっていうね。
日本で考えたらとか、自分が考えたらとか、
いやそれってあなたたちの考える存在ですよねみたいな、
その違和感をたぶん強く感じるとか、もしくは感じざるを得ない。
もしくはそういう視点で考えないと、日本にうまく物事を還元できないみたいなときに、
これはたぶん西田さんとか福木さんにも共通するなとは思ったんだけれども、
じゃあ自分たちって何なんだろう?じゃあ日本人って何なんだろう?
じゃあ自分って何なんだろう?と思ったときに出てくるところかなっていう意味で、
すごい納得感がある話だったかなと思うね。
ほんとそうだね。やっぱりそれまでかつ、
今僕らは日本人として日本の哲学者を取り上げてるけれども、
これは他のクリエイターたちも同じだと思うんだよね。
例えば前回言ったような砂漠型とかっていったときに、ちょっと色々調べたんだけれども、
さっき家の話をしたけど、乾燥した砂漠ってレンガで家を作るらしいんですよね。
基本的には崩れたらまた直せばいいじゃんっていう話で、
レンガの素材はその辺にタダで広げるから、別に何か作り込まなくていいんですよというときに、
やっぱりそういうふうな生活様式とか、住むとか家とかっていう捉え方に関しても全然違うわけだよね。
っていうときに、今山瀬愛家が言ってくれたけれども、
それをある種切り捨てて、人間っていうのは全部一緒だとか、
プラスでこういうことが最高だとかって言えないんじゃない?どう考えても。
そうでもね、プライベートスペースみたいな話だけど、そういうのも全然違うんですよね。
例えばさ、暑いとこだと窓めっちゃ多くてさ、何なら外と中の境界って曖昧でもいいじゃんっていう。
で、なんか外から人が覗いて、よーって言っても全然青すぎてさ。
それはやっぱ寒いとこだとどうしてもピッチリ作らなきゃいけないから、中と外の環境とか境界線がめちゃくちゃちゃんとしたりとかさ。
で、外から覗かれてたらキモみたいなさ。よーって言うよりはキモみたいなさ。
そういうのもそこだけじゃないだろうけどもね。そういう組み合わせは結構、この3つだけじゃなくて、そのグラデーションとして無限にあると考えると結構複雑な話というかね。
逆に言うとそれがあるっていう前提がない中で、俺たち人間同じなんだみたいな逆にね。
俺たちみんな同じみたいな視点から、「そうだねそうだね。」みたいなさ、その前提がないもんだと思ってコミュニケーショントローラーがやばいじゃんみたいな話になるよねって思った。
だからある種相対主義っぽくなっちゃうんだけど、そこにフードっていうものを置くことで、単なる何でもありじゃなくて、ちゃんとフードっていうものの影響のもとにこうやって考えられるというふうな発想にもなっていくし。
逆に言うととおり、じゃあその何でもありというか、全部一緒。もっと言うと全部制度正しくて、それ以外のところは遅れてるとかっていう発想も、やっぱり当時の日本からすると賛同できないというか。
自分たちはやっぱり自分たちの文化だったりとか、もちろんそういった思考があるよ、哲学があるよっていうふうに言わなきゃいけないわけだから。ある種違いを認めつつも、そこにどういう共通の基盤を捨てるかみたいな。
そういうとこで、やっぱりこの松井さんはフードっていうものに目を向けたっていう感じだったんだろうなと、今話して思ったね。
なので、ある種こういった発想って今から当たり前っぽく聞かれるというか、それは地域とか環境が変われば変わるよね。人間の在り方も変わるねっていう話なんだけれども。
そこをちゃんと自分の所感だけじゃなくて、哲学的にとか、そういう意見として出したのが松井さんだっていう話だし。
変わりゆく人間の在り方
またさっきも言った通り、それってもう決まりきったものじゃなくて、やっぱり時代によって変わっていく。
100年前と100年後、今の日本人ってやっぱり全体違うだろうし、ここから100年経ったらまた多分日本人というふうな分け方ともしかしたら違うとかってなってるかもしれないと思うときに、
やっぱりそういう自分の基盤にある風土とか環境っていうものと、自分との関係を捉える視線を持っていると、そこにちゃんと自覚的になりやすいよねとか、
なんとせれば見つめた上で、じゃあ自分は今これを大事にしようとか、こういうふうにやっぱり振る舞っていこうっていうことが、より考えやすくなるんじゃないかなっていうふうに思うんだよね。
さっきハヤトのAIの話があったけれども、人工AIについてはこれからだからさ、どう変わっていくかわからないんだけれども、今生きてる人たちが一番最近経験したのってインターネットだと思うんだよね、それで言うと。
インターネットって確率性って多分アップしたような気がするから、だからこそ今こういう話を聞いて、その違いってやっぱあるんだよねみたいなとこ。
で、その上にインターネットっていう新しいフードというかね、ものが積み重なってるんだよっていう、地層みたいなもの、積み重ねみたいなものが、実は忘れちゃうと意外とまたこのまま行くとさ、人工AI、インターネットみたいなさ、どんどん人間がちょっと置いてきぼりになるというかね。
またこう、変に白紙を持ってっちゃう感覚って、変に植え付けられるというかさ、変に持っちゃう可能性があるなと思うからね。そういう意味でも面白いなと思ったね。
そうだね。本当に言った通り、個人の1世代で変わるものっていうよりは多分何世代もかけて変わっていくものかなとも思うんだけど、今その変化が早いじゃない、やっぱり。
5年10年本当に変わっていくから、そういう時に自分がどういう関係性の中にあるのかとか、どういうふうに環境とかフードに囲まれているのかっていうのを考えていくのが大事だっていう話。
そういった意味ではね、今回フードって環境的なことの話を取り上げたんだけれども、実は第1回でもお伝えした通り、もう1個のキーワードとして、間柄っていうふうな言葉があるんですよね。
どっちも哲学っぽくないんだよな。
まあね、生きとっぱも近いと思うんだけど。
これって話の中でも、個人じゃなくてやっぱり関係だよねとか、爽やかさも自分だけが感じるんじゃなくて、私たちが感じるっていうのはあると思うんだけど、
やっぱり、まさに人じゃなくて人間間ではね、みたいな話があった時に、和水井さんってそういう、まさに子ではない、そういう繋がりを持った存在として、やっぱり人間感って強いんですよ。
はいはいはいはい。
なので、この人間っていうほうの、この原のほう、間っていうほうに込められた意味を見ていくことで、ある種、和水井さんのより人間理解、どういうものを人間として捉えていただくかっていうのがわかるかなと思うので、
今回のフードっていうものを土台にしながらも、もうちょっと一般的なというか、広がりのある言葉としての間柄っていうものをもうちょっと見ていくことで、和水井さんの哲学思想っていうものを深掘りしていこうと思ってますっていう感じですね。
はいはいはい。いやー、わかりました。では次回ですね、この間柄ですね、見ながらより和水井さんの哲学の中身を深めていきたいと思います。では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。