倫理についての理解
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回では辻さん、最終回ということで、道徳とか倫理とかそういった話を見ていくというところでした。
はい、そうですね。前回までね、割とその地続きって話ですよね。人と自然とか、人と社会ってやっぱ迎えてるんじゃなくて、
フードとしての地続きだし、人間としてその中には社会性も個別性もあるよっていうふうな話をしてきたかなと思います。
そういうふうな、全体感を持つ松井さんの話として、倫理だね。
彼はもともと倫理学の教授として、倫理学者でもあったって話をしてきたと思うんですけれども、
その中でも特にちょっと信頼と良心というものについて書かれた論文があったんで、それを取り入れることで見ていきたいと思っています。
ただね、そもそも松井さんにとって倫理って何って話はあると思うんだけど、
ああ、まあ確かに。
彼が言われる倫理っていうものは、人々の間柄、前回言った間柄的存在とかって言ったと思うんですけど、
そういうような関係を持って生きているというところの道であり秩序であって、倫理があるからこそ間柄そのものは可能になるんだっていうふうに言ってるんだよね。
つまり僕らは倫理って言うと、なんとなく道徳とかそういうふうにした方がいいこと、決まりごとみたいなイメージなんですけど、
松井さんにとっての倫理って、彼が言う間柄的存在とか人間っていうものの根底にあるもの、もっと言うと彼の思想とか哲学のかなり根本にあるものなんですよ。
だからこそ倫理学、松井さん倫理学紹介しますとか言って、これが良いことです、悪いことですとかって言えないのは、
そもそも倫理みたいなことをめちゃめちゃ書いてる、ちょっとこれは僕も見たいっていう感じで、ちゃんと読めてないのでっていうのもあるんですけど、
この倫理そのものを伝えるっていうことはちょっと今できなくて。
はいはいはい。これ前回までの間柄とか話を聞くと、より、
じゃあ別分野で倫理の、じゃあ道徳の話をします、これを元にっていうよりは、
前回までやってきた間柄、個人と共同点と自然と風土みたいなところの、
今道っていう表現をしてくれたんだけど、よりそれを構造解析してますっていう風にしか聞こえないっていう感じがするよね。
本当にそう。倫理学の中の目次は今は手元にあるんだけど、
例えばその中にも、人間の学としての人間の学、学問としての倫理学とか、人間の存在と自然の存在とか、そういうことをいろいろ書いてるんですよね。
わー、もうわかんない、わかんなそう。
別のことを言ってるんじゃなくて、同じ政治の中で、今回は風土について考えますとか、風土との関係について考えますとか、
今回は社会との関係について、今回は倫理との関係についてみたいな、そういうことを言ってるんだよね。
だからこれあれだね、松井さんの思想じゃないね、赤信号はこういう時は渡っちゃダメだとか、そういう話じゃなくて、
この共同体はこうなってます、みたいな話をよりただ深く掘り下げただけみたいな話なのか。
まさにそういうことです。
倫理っていうものを、どっちかっていうと思想的なものなのかなと思ってたけれども、今回違うんだね。より世の中の話をしてくれるみたいなただただ。
そうですそうです。松井さんはこうしたらいいよとかいうことじゃなくて、それも一部あるんだけど、
倫理って何かが絶対正しいって言いにくいじゃないですか。
もっと言うと、西洋のほうはこれこそが善だというのが歴史的に言われてきたわけなんだよね。
例えばアリステレスでいくと、倫理として、例えば中洋ってものは大事だとか、極端ってのはダメで、中洋ってことは善だっていうときに、
それになると中洋イコールらしい、極端イコール間違いみたいな、ある種白黒はっきりつけちゃうんだよね。
中洋だいぶ広そうだけどね、グレーの範囲広そうだけども。
バランスはとれてるけれども、やっぱりこれが正しいっていうことは言います。
でもこれまで見てきた通り、松井さんって何かが常に正しいってことはないと。
そういうことは風土も含めて、やっぱり環境とかにとっても違うし、
その関係性とかにおいて、やっぱりこの関係性では正しいけど、こっちでは間違いだったかって、
仲いい友達には言ってもいいけど、初めての人には言っちゃダメ、悪口言っちゃダメだとかってあったりするときに、
悪口はダメか、冗談言っちゃダメだとかってあったときに、
それってやっぱり揺れ動くものなんだよね。
なので、そういうことを含めて、松井さん自身は倫理っていうのは、
自然の学問、要は世の中を分析したりとか、個人意識から出てくる、
要は何かロジックで積み上げれば正しいものが出てくるっていうものなんじゃなくて、
あくまでも人間、間柄っていう中で成り立つ人間の学問なんだよっていうふうに言うんだよね。
へー、そういうことなんだ、人間の学問と。
そうそうそう。
自然と人間を対立させた人間じゃなくて、松井さんが言うところの人間。
そっかそっか、そこは理解しないといけない。
そうなんです。この人間って言葉がややこしいんだけど、
前回お伝えしたような、社会性と個別性を含む人間として考えたときの学問が倫理学なんですよっていうふうな話なんだよね。
はいはい、納得。
逆に言うとそこまで言わないととか、そういう前提を話していると、
それ倫理は人間の学問だよね、人文学じゃんとかっていうふうに受け取られかねない。
あー、そことも違うのか。違うんだ。人文学とも違うんだ。
違う違う。文系の学問ってことじゃなくて、松井さんが言うところの人間の学問ですっていうこのニュアンスがすごく大事だろうなって思うんだよね。
はいはいはいはい。
信頼と誠の重要性
そんな感じで松井さん考えていくんですけれども、早速信頼とか領地の話をしていきたいと思うんだけれども、
この信頼に関して松井さんは、これは当たり前の話でも結構含むんだけれども、人間関係、もっと言うと間柄ですよね。
あるところには、実は同時に信頼も成り立っちゃってるんだっていうふうに言うんですよ。
つまり信頼っていうのは、かなり基礎の人間の関係性というか、そもそも関係あるところに信頼ありぐらいの感じで言ってるんだよね。
へー、そうなんだ。ほうほうほう。
これも僕らが普段思う、誰かを信頼するとか、信頼さんだかって言うと、ちょっと一旦割り引いて、
松井さんはそういうものとして信頼を扱ってるんだってところで聞いてほしいんだけど。
そういうふうに言っています。
当然、信頼とか人間関係って自然に成り立つものではない。
要は、ただ人と人がいたら勝手に関係が生まれるとか信頼が生まれるとかそうではなくて、
そのためには信頼に値するような行いとかが大事だよってことは言うんだよね。
もっと言うと、人間関係っていうものが勝手に出来上がるものじゃなくって、
やっぱり何がしかのやり取りを持って始めて生まれるものっていうふうにここでは前提してます。
どんな行為があると信頼が生まれるのに関係が生まれるのかっていうと、
松井さんはそれを誠というひらがな三文字で言ってて、
真実とか誠実、忠実みたいな日本的な発想でもあると思うんだけども、
そういうものを持って関係性を作っていきましょうっていうふうに言ってるんだよね。
これは当たり前の話かなとは思うんだけども、
面白いのは、松井さんっていろんなものを実際に考えてきたじゃないですか。
人間と自然の風土とかっていうときに、この信頼においても実はこれ実続きで、
信頼だけがあるんじゃなくて、実はそこには裏切るっていう可能性も同時に存在してますねっていうことを言うんだよね。
なるほど。前回で言うと、関係性がないっていうのとはまた違うよって話じゃないですか。
関係性がないんじゃなくて、関係性が繋がったということは常に途切れるっていう可能性がそこに同時に生まれちゃうよねと。
途切れるなり裏切られるね。マイナス面の。
逆に言うと、裏切る可能性がゼロなら信じる必要ってないじゃないですか。
要は、例えば強制して、例えばさ、よく悪の日、親玉とかであると思うんだけど、人質を取ってさ、
お前がやらなかったらこいつら人質を殺すとかって言われたら裏切る余地がないじゃない、その言われた方からすると。
言うと別に信じなくても、こいつは何かをするだろうっていうふうに思えるじゃないっていうときに、
裏切らないなら信じる必要はないっていうようなことを逆に言えるんだよね。
なるほど。そういう話が多いね、ワッシーさん。
これも実続きの発想です。信頼と裏切りは実続きです。
共同体なくして個人という感覚は出てこないみたいなのと似てるよね。
そう、まさに一緒。裏切りの可能性なくして信頼というものはないみたいな。
わー。逆に言うと信頼っていうのがあるってことは、そっかそっか。わー。面白いね。
信じるってことは裏切りの可能性も含んでるんだよね。
どっちが最初なんだろうな。そういう話はしちゃダメなんだね。
それはしちゃダメなんだよね。
表裏一体だから、前回のニワトリ卵と一緒で、卵もニワトリだからとしか言えないんだよね。
そこはね、ワッシーさんの話の中では厳禁だね。
そう、厳禁です。因果関係とかじゃないんだよね。同時に存在している。
例えば、信頼に関わる行為として、約束をするとかってあるじゃない。
明日でどこどこで会おうよでもいいですし、これをしたらあれをくれとかでもいいんだけど、
その約束を結ぶっていう時にも、やっぱり人はそれを守ることはもちろんできるし頑張るんだけど、
やっぱり破ることもできちゃうんじゃないですか。これ裏切りね。
っていう意味では、約束をするっていうことは、やっぱり人はそれを守るか守らないかとか、
あるいは守りたいんだけど守れないかもとか、そういうことが当然出てくるんだよね。
ただそういう時にも、前回で社会性を否定して個人性が出てくるって話だったと思うんですけど、
そういう守れないかもとか破っちゃうかもとかっていう可能性を否定し続けることで、
約束を守るっていう行為になってくるんだよね。
裏切る可能性っていうものを否定し続けることで、信頼に伝わるみたいな話は一緒で、
ここにも否定の力っていうのが働いてきます。
ということでいくと、まさに社会と個人とかと近いものが、この信頼と裏切りってことにつながってきています。
いうことなんだよね。
これもちょっと繰り返しになってるんだけど、この信頼と裏切りも地続きだし表裏一体だし、
相互に信頼を否定すると裏切りになるし、裏切りを否定すると信頼になるみたいな、
そういうふうなことでは構造的には一緒だよっていうことを言うんだよね。
倫理に基づく行動
和田さんに言わせると、当然人間関係を成り立たせる間柄ってのは必要なわけだから、
信頼を作っていく必要はあるんだけれども、
この信頼を作るためにはまことの行動が必要になります。
お辞儀さんから言わせると、まさに倫理に基づく行為だとか、倫理っていうものを作っていくスタンスだっていう話なんだよね。
そこに出てくるんだ。
倫理が出てきて、ザッカブランに言うと、信頼に応える、約束を守るとか含めてやるって、
ここでまことに基づいて行動することが善であって、
この善を起こさないこと、要は信頼を裏切るとか、約束を破るっていうことが悪であるっていうふうな、
そういうふうに倫理っていうものを作っていくんだよね。
例えば例として出てたんだけれども、お医者さんが、
例えば神田さんに対して、ちょっと現代ではちゃうかもしれないけれども、
本当の病名を隠すとか、本当に気遅れになったときにそれを言ってもしょうがないから、
隠して、より人生が良くなるようなふうに伝えていくみたいなことってあるとします。
これって本来であれば嘘をつくとか、本当のことを言わないっていう意味では悪いことっぽいんだけども、
その人のことを思って、言わなくていいことを言わないとか隠すっていうこと自体は、一定真ことに通じていますよね。
ほうほうほう、なるほど。
なので、例えばそういうふうに、医者が患者に対して本当のことを言わないっていうのは、
普通に考えると悪っぽいんだけど、
この松井さんの考え方からすると全然善にもなり得るよねっていうふうな発想なんだよね。
うーん、なるほどね。はいはいはい。
それは、医者と患者という関係性とか、患者が、あるいは他の家族との関係性とかを考えたときに、
医者がこれが最善になると思っているからみたいな。
うーん。
っていうことが、さっき言ったような、これは正しい、これは間違いだというふうに、
すっぱり分け白黒をつけるものとは違うっていうふうな話がこういうところに出てくるんだよね。
医者と患者の関係性
わー、なるほど。今、医者がって言ったけれども、
それがそのコミュニティである程度そういう概念が共有されているっていう話だよね。
そう、まさにそういう話。
だから、もしかしたら、
例えば、医者であれ患者であれ、絶対に本当のことを言うことがこの教材では正しいんだみたいな。
あったとしたら、やっぱり隠すことは悪らしい。
乗っ取らないっていうことは間違いだっていう話なんだけれども、
つまり、逆に言うと、
信頼とか約束を守るっていうことが、
さっき言った全体性とか社会性の方に比重が重くなってるんだよね。
あー、そうだよね。
順番で言うと、そういう感覚?
それって良いよね?悪いよね?みたいな感覚が、
どっちかというと、これまた怒られるかもしれないけど、
の方が先にありそうだよね?と思うけどね。
はいはいはい。
どうなんですか?そこを評判にいったいなのか。むずいね。
これちょっとまた、次の良心の方でもより話すんだけど、
ていうか、よりクリアになってくるんだけど、
やっぱり全体性の方に正しさがあるよねって、
めちゃめちゃ怖い発想なんだよ、実は。
まあ、そっか、そうだよね。そこで優劣というか、
因果か作っちゃうと、個人が否定されちゃうんだもんね。
そうそうそう、そうなってくる。
個人の感覚が。
さっきも言った通り、社会性って個人を否定することから生まれるし、
信頼も裏切りを否定することから生まれるんだけど、
つまり、お前裏切らないよねってイコール、
お前集団に所属してるよね、個人をある種殺してでも、
社会に馴染んでるよねっていうことに繋がっちゃうんだよね。
いやー、恐ろしい。なるほど。
恐ろしいでしょ。
だからそれが、何だろうな、一個一個の選択だらまだしも、
もう生きてる時の感覚でそれが行われてしまった時の不幸さたるやみたいな話だね。
そうそうそうそうなんですね。
なんでこの大きなもとは生まれてきちゃったんだっていうレベルに。
いや、ほんとそうなんだよね。
これは両親のほうを見てくると、よりイメージ湧くと思うんだけれども、
本来はワツリさんにとって両親、良い心は何かって話なんだけど、
これね、良いって書いてるんだけど、結構中立なんですって話なんだよね。
両親って、自分の行動に対して善悪の判断を行うものですと。
へー、そうなんだ。
いろんな定義があるかもしれないけど、ワツリさんにとってはすぐに定義していて、
他人の行為に対して、それは違うでしょとか、それはおかしいでしょとかっていうところは、
どっちかというと道徳的判断みたいな感じで、両親とはちょっと違うんですっていう風に言ってるんだよね。
あー、確かに両親が痛まないのかっていうのは、そういう感じがするね。
そうそう、お前の両親がって感じじゃない?
うん。
逆に、誰かが悪いことをしてるのを止められないっていうことに対して、両親が痛むとかってことがあったときに、
止められないのは自分だから、あくまでも自分の行動に対する判断なんだよね。
はいはいはい。
両親っていうのは、今みたいに良いことをしよう、一日一善とか、ゴミ箱落ちたら拾いましょうとかってことだけじゃなくて、
何か悪いことをしよう、例えばゴミをポイ捨てでもいいし、人に悪いことをしてやろうと思うときに、それを止める。
そういうことをする、自分を責めるみたいな、これも両方のバランスの働きがあるんだよね。
はいはいはいはい。
これは前半の方で言うと、両親に従うみたいな話だと思うし、後半の方で言うと両親のような過酌だよね。
責められる両親に心が痛むからやらないみたいな話があるっていうときに、
両親ってさっき言ったように、病って良いって言葉がついてるから、良い心って思っちゃうんだけれども、
これ自体は善でも悪でもないんだっていうふうな話をしてるんだよね、松井さんは。
はいはいはい。
どういうことかって言ったら、善悪の判断を行って、その物差し自体に善悪があったら、それって歪んじゃうじゃない?
ん?どういうことだ?
要は、これが善です、これが悪ですって判断するのが両親だって言ったじゃん?
うんうんうん。
っていうときに、その両親自体が良いとか悪いとかって言っちゃうと、
その判断するもの、善悪を判断するものに善悪の色がついちゃってるってなっちゃうから、
あーなるほど、両親自体が良いものか悪いものかって話をしてるってことね。
そうですそうですそうです。
そこはやはり中立なんだよね。
うんうんうん、OKOK。
じゃないと、そうなのね、両親って良いものだよねってすると、
確かにそこ通ったもの全部良し、みたいな。
そうそうそうそう。
だから、両親と悪心みたいなものを作ってくれないと、バランス取れないよねみたいになっちゃうもんね。
そうですそう。
よくあるじゃん、善意の行いこそしんどいとかってのがあったりするときにさ、
自分は両親とか善意でやったんですって言われて、
それが全部善なんですって言われるとさ、
それはそれでちょっと窮屈というか、恐ろしいよねっていう風にもなっちゃうじゃない?
そうね。
だから、そうじゃなくって、ちゃんと両親に従うこともできるけど、
ただ、それも含めて、本当にそれでいいのかとか、
両親に従うってことで問題はないのかって振り返られる。
働きがあることでバランスをとって、
自分の行いの善とか悪をちゃんと判断できますと言うんだよね。
うんうんうん。
両親の役割とバランス
さっきにここにも、いわゆる両親の従うとか自由みたいな話と、
それを責めるとか、それを振り返るっていう風な両方の話があって、
ここはまさに地続きだっていう風な話をするんだよね、やっぱりバツリさんは。
はいはいはいはい。
これも風土とか社会とかさっきの信頼とかと一緒で、
だから、両親って良いものがあるんじゃなくって、
その中に自由とか過剰っていうバランスがあって、
自由を否定すると責めるとか、それを制限するっていう話になるし、
制限するっていうのを解いていくと、
より自由にいろいろできるっていう風な、いわゆるグラデーションになっていくっていう風な話をしていきます。
はいはいはい。
ここは、もともと両親のイメージに対する、もっとフラットだよっていう話なのかな。
もともと両親って良いものだみたいなイメージがあったってことなのかな。
あったし、今でもあるんじゃないかな、やっぱり。
ただ、バツリさんの中で言うと、フラットですよ、バランスですよっていう話を前提してますよっていうところなんだけれども、
バツリさんは常に二元性というか、
矛盾して見えるものが実は表裏一体だよねとか、実際だよねっていうことを語っていくんだけれども、
そうすると常に白黒を作るとかできなくなっちゃうんだよね。
要は、自由でもあるしでも制限もかかるとかっていう、
どっちなのよとか、さっき兄貴が言ってくれたグレーの状態が常に出てきますと。
良くも悪くもなんだけれども、そうなると、今この瞬間何がベストなんですかとか、
私にとっての両親って何ですかとか、そういうことが常に問題になっちゃうんだよね。
まあそうだね、アリストテルスがね、中庸こそ善であるって言っても、その中庸どれよと同じ話だよね。
そうそうそうそう、そうなんです。
だから逆に言えば、いやいやそうじゃなくて、時々ね、極端に振ることも大事じゃんとかって言えたりするわけよ。
へー、はいはいはい。
ある種、バランスを取った倫理というか、
そういうふうに時々でオッケーってなっちゃうと、
私の倫理を考えるとそういうことも言えますと。
はいはいはいはい。
ある種、こういう西洋的な常に成り立つ善みたいな話と、
時々の関係性とか状況で成り立つ善を語ってもらったときに、
そうやって前回お伝えした、いわゆる完全に独立した個人みたいな話と、
社会における、社会との関係性を持った人間というものと、
同じようにやっぱり対比されているというか、比較できるようになっているというような感じなんだよね。
ふーん。
うん。なので、あれ前回かな、今回の冒頭で言ったからなんですけど、
この人間というものをどう扱うかっていう話と、
人間がどう生きるかという倫理の話というのは、
分けても考えられないというところがこういうところに出てくるんですよね。
ふーん。そうね、そこは。はいはい。
なので、この和泉さんの倫理学という中では、
まずは持続のものというのがいろいろ取り扱われていくんだけれども、
さっきもちょっと言った通りで、
この発想って、和泉さんが解けた場合によると、かなり暴力的なものになっちゃいます。
ふーん。
うん。さっき信頼の時にもお伝えした通りで、
和泉さんって信頼というものも全体性とか、いわゆる共同体とかの方に、
ちょっと比重を置くんだよね。
ふーん。
世の中でこれがいいと言われているということを、個人もやりましょうというような話なんだけど、
ふーん。
それは両親に当てはめるとどうなりますかというようなことでいくと、
つまり、いわゆる共同体、国でも家でもいいんだけど、
そっちの方により正しさとか善があるよねというような発想に、
結構簡単につながっちゃうんだよね。
うん。
和泉さんの倫理観
いろんな文脈があるとは思うんだけど、
実際和泉さんが書いている言葉として、
やっぱり国ね。
ふーん。
というものが、
ここにおいては一切の自由をさえも自ら投げ捨てて、
究極的な人間の全体性に没入するところの、
究極的な女子、自分を去る、私を去る。
ふーん。
というものが要求されるのだというふうに書いてるんだよね。
ふーん。そう、欠かされてるんじゃないのこれ。大丈夫?
わからない。欠かされてるのかもしんないけどね。
ふーん。
うん。
でもそれも自分の倫理学っていう本で書いていることなので。
はいはいはいはい。
和泉さんの意見としてやっぱり世の中には広がるわけだよね。
まあまあそうだよね。
うん。
うん。
ここまで言われちゃうとさ、やっぱりちょっとそれは嫌ですというかさ、
あれなんか人間ってね、社会性と個人性両方あるって言ってたけど、
なんか社会性の方に傾きすぎてやしませんかねみたいな。
そうね。今話した通りだけど、同じ人が書いたとは思えない。
はいはいはい。
うん。
そうだよね。
うん。
でもこの和泉さんの倫理、考え方からすると別にこれも間違ってはいないというか、
全然導けちゃう発想ではあるんだよね。
まあなんだろうな、さっき言ったグレーの中の一つのパターンとしてっていう意味ではね、っていう話だよね。
そうね。そうそうそうです。
言いなくプロに近いグレーみたいな、そういう話だったけどね。
うん。
いうところもあって、やっぱりこれはなんだろうな、
さっきまでさ、自由と過酌に対して両方バランスよねとかって言ってたはずなんだけど、
うん。
自由がどんどんなくなっちゃって、要は攻めだよね。国家に背くことは罪だとか、
全体性と違うことをすることは悪だみたいな、そういうものはどんどん強調されてしまう。
うんうんうん。
兄が言ってくれた通りで、
東大の教授でさ、第二次世界大戦間近だったら、そういうのを言わされてんじゃないのとかってもあるんだけれども、
それでも間柄っていう、本来的にはもっと広がりがあってさ、
バランスを取れた世界観だよって言ってたよね、やっぱり人が。そこから出発して、
結論としたら全体主義みたいなところにも至れるみたいなことが、
ある種可能であるというか、そういう哲学、倫理学を作ったのもやっぱおじいさんなんだよね。
まあだから生の哲学がゆえに、みんなこうしろっていうのを納得感がすごいんだよね、たぶんね。
そうそうそうそう。
すごくできちゃうというか。
できちゃう、うん。だってあなたの中にも社会性とか国家性持ってる日本っていう国があるでしょって言えちゃうじゃない?
うん、だって今こういう流れでさーって。
そうそうそうそう。
今そうでしょって言われたら、確かにーって。
なっちゃうので、やっぱりね、このある種、哲学が思想のやっぱり強さであり恐ろしさ?
うん。
っていうのがすごく感じたし、やっぱりその主張の背後にある、なんでそういう主張をしてるのとか、
どういう構造?今回で言うとやっぱり、この矛盾するものをある種一つにするとか表裏一体にすることで、もちろんいろんないいことが言えるんだけど、
なのでそういう全体と個人っていうものを変に一触たりしたらやっぱ発想も出てきちゃうよねっていう風な。
全体主義の危険性
うん。
やっぱそういう構造を見抜いていくことも、やっぱり哲学を学ぶ意味なんじゃないかなって、なんか僕自身も改めて感じたんだよね。
そうだねー。だから、こんだけ頭いい人が、だから、実際ね、どういう意図があるかとかは置いといてというか。
うん。
だけれども、この松井さんの本でさっきのように全体主義っぽい話を書いてからそう広がるんだ、みたいな話ももちろんそうなんだけれども、
今回松井さんの話をね、バーッといろいろ聞いてきた中で言うと、ちゃんと松井さんのこの話を聞いた人は、
はいはい。
ちゃんとここに違和感を持って自分はこうしよう。で、今この自分が重複している共同体はこんな感じ。
はいはい。
その中で、議員議会は今こんな感じになってそうだ。で、その中で自分はこうしようみたいな、ある程度軸が持てそうな気がするんだよね。
はいはいはい。
だから、そういう意味で、松井さんはそういう仕掛けをちゃんと自分の本というか哲学にはちゃんと織り込んでたのかなみたいな感じはするよね。
あー、なるほどね。
ちゃんとこれ読んだ人には、ここの違和感に気づく鍵はちゃんと置いてますよ。
はいはいはい。
ちゃんと読まない人は、変に流されちゃったり、変に同調したり、変に嫌悪したりみたいな。
なるほどね。
これはね、何でも言えるとは思うけどね。
うんうんうん。
だってさ、第1巻言ってたとおりさ、この本を書いてる人がさ、奥さんにさ、戦争になったらそっち行かずにあんたのとこ戻るよみたいなステップはしてるわけじゃん。
そうね、そうですそうです。
全体主義じゃない、やっぱりその人間性を個人としては持ってるわけじゃん。感覚をね。
うんうん。
そこがまた面白いなと思うよね。
あーそうだね、確かに。
だからこそ書けるっていう。
そこもあるかもね。やっぱりそのね、すぐ後遺的なね、今の話でしたと思うんだけど、やっぱりこれをね、東大の教授っていう立場で発信することの、やっぱり社会的な影響とかもちろんあっただろうし。
いやー、そうなんだよね。
だからそこの難しさとか、実際にそこに対する批判とかもあるんだけれども、ただやっぱり確かに今言ってくれたように、僕ら受け取るべきはそういう風な構造だよね。
やっぱりその状況とか世の中とかそういう自分がすごくしてる集団とかに対して、やっぱりその時々でいろんな倫理があるし、まさにどんな風に生きてるかによって自分も変わるしっていうことがあったときに、それをちゃんと見に行きましょうとか、それを見に行けるってすごく幸せなことだよねっていうのもあると思うんだよね。
いやー、まあね、私、じゃあ今回もね、今回はハヤルとの話を聞くまでに読もうとも思わなかったし、あと直近で言うとさ、今思い出したのが、例えばコロナとかってさ、やっぱああいう突発的なというかさ、大きなイベントってさ、ちょっと似てるなと思ってさ、
たとえばワクチンを何回受けましょうみたいな話があったときに、たぶん頭のいい人たちがこういうことを考えてくれてるんだよね、たぶんめちゃくちゃさ、今西洋ではこうなって、西洋っていうかね、今こうなってて、最先端ではこうなってて、こうしてこうしてこうしたらこういうワクチンが作れて、それに関しては何回こういう感じで打つべしみたいなのがあったとして、
ただやっぱりこっちに、一般市民に出てくる情報って、よしワクチン準備できたから、じゃあ順番にこういう順番で何回打っていきましょうみたいな予約してくださいみたいな話になるわけじゃん、それでさ、いやそんなものは信頼できないから打たないとか、いや早く打ちたいとか、順番まだかみたいな、
そういう状況で、こういうさ、その根底の部分だよね、その偉い人が、頭いい偉い人が書いた論文というかさ、そう読んで、自分はこうすべしみたいなさ、言えるわけないのかなーみたいな、やっぱりその難しさも今同時に感じてしまったね。
そうね、ならないよね、それは本当に。
その過虫で、そのリアルタイムの最先端のさ、全員のハイデッカーが生きてる時にさ、ハイデッカーはこういうことをめちゃくちゃ考えてて、存在はこうで、人間とはこうで、みたいなさ、そこまで全員さ、考えた上でフラットに考えましょうみたいなのって、ちょっとアマチュロすぎるなと思う。
思ったね、確かに。
思った、自分で言ってて思った。
やっぱりね、これはね、さてたちは聞いてくださってる方もそうだと思うんですけど、やっぱりそういう、自分なりにやっぱり物事を考えてみたいなとか、なんかその奥にあるもの、さっきのコロナの話でいくと、じゃあワクチンを打てとかっていう時に、じゃあ打つのを打たないのとか、なんでじゃあ今なのとか、ワクチンなんか種類あるけど何が違うのとかって、やっぱ全部頼りにくかったら本当は無理じゃない。
無理無理。
無理なんだけど、やっぱり自分の中で何か納得感を得たいとか、自分の中で理解をして行動をしたいっていう時に、やっぱり哲学ってすごく役に立つ。ワクチンのことじゃなくて、世の中で生きていくってことに対してね。
あるいは哲学じゃなくても、専門家の知ってることとか、何がしかその検証とか、いわゆる専門家か、別に専門家ってことは全部正しいとは絶対に思わないし、でも思考停止だけど、何がしかのやっぱりきっかけというか、観点になるよね。
あくまでもワツイさんも、一個の観点でしかないってないんだよね。子はない、いわゆる西洋の個人っていうところに比べて、人間っていう社会と個人と両方を持ったものを提出したっていう意味では、これも一個の立場でしかないじゃないですと。
やっぱり僕はどうしても、個人があると個人しかないとか、子というものから社会が生まれるとかって考えちゃってるから、そうじゃない構造とか観点としてのワツイさんを知ることの意味とか広がりとかあるんじゃないかなっていうのは、今日は兄貴の話でもすごく感じたし。
僕自身も今回台本作る中で読んでて、深み系じゃないなって自覚もあるから、またいつかやりたいなとは思うんだけど、そういうところのエッセンスは自分でも感じたし、少しお届けできたんじゃないかなって思ってたんですよね。
倫理学の役割
いやー面白いね。だし怖いなとも思ったね。ある意味子の限界じゃないけれどもね。最後ちょっと感じたな。
ちょっと最後の恐ろしい全体主義みたいな話もだし、個人がどこまでいけるのかみたいな話もあってしまったんですけれども、一応ワツイさんからここでおしまいにしたいなとは思っています。
いつかまたちゃんと倫理学読んだよみたいなところも含めてお届けできる機会があればなぁなんて思ってるんですけれども、
ワツイさん人間臭さ、奥さん大好きなところからフードとか人間とか、今回の倫理とかっていうところを何となく大掴みで見ることができたんじゃないかなというふうに思ってます。
はい。そんな感じでね、西田太郎さん、久喜修蔵さん、ワツイ哲郎さんと繋がった日本の近代・現代哲学者っていうのも一旦おしまいにしまして、
いろいろ迷ったんだけど、300回記念のときにいろいろ5人あげた、違う7人ぐらいかあげたと思うんですけど、ロックですね、イギリス経験論、ここに飛んでみたいなと思いますと。
はいはいはい。
そろそろ正義を得たいなっていう話と、今回も近代の個人っていうものを批判してとか、それを乗り越えてとかって話をしたと思うんだけど、そもそも近代の哲学何だったっけってなってるんですよね、僕も。
へー、あ、そうなの?ちょっと忘れてきた。
皆さんもそういうことあるんじゃないかなと思うんで、改めて、この日本人の人たちが出会って批判し乗り越えようとした近代の哲学ってなんだっけっていうところをやっていきたいなと。
すごいなんとなくデカルト・カント・ヘーギルやりましたって言っていいのかわからないくらいだけども、一応テーマとしてやったじゃないですか。
そっちはやる大陸側の人たちで、イギリス経験論ってまさにやってないなっていうこともあったんで、自分もあんまりその辺分かってなかったりするんで、
できれば改めて、哲学とかイギリス経験論と大陸合理論ってなんだったっけとか、そういうことも含めて扱っていけるといいのかなと思っておりますという感じですね。
はいはいはい。確かに今回は悪者とはいかないまでも、わっちりさんの批判の対象にはなってたから、実はめちゃくちゃそっちはそっちでというかさ、そっちはそっちのフードの中でめちゃくちゃすごいものを乗り越えてきた人たちみたいなさ、
はずだからね、ぜひそこをまたね、感じられたらいいなとは思うね。
やっぱりそれをそのまま今に生かすかっていうとちょっと別だけれども、まさにその時代のそういう状況でこう考えたんですね、すげえっていうのは当然ある人たちだから、人って思想だから。
そういう意味では生の哲学な感じはするよね。その時点、その場において、その時代において。
それはそうだよね。さっきのデカウトさんも悪く言っちゃったけれども、どっちかっていうと、そういううまく考えないとか物事をちゃんと人間として考えたいという時に、そうか全部疑ってみればいいんだっていうふうにいろんな苦戦苦闘とか、まさにデカウトさんの生の体験が入っているはずだから、そういうところはやっぱりあるだろうなと思うよね。
人間って本当になんだっけみたいなね。神様に従えばいいんだっけなんだっけみたいなさ。
そうですね。そこも含めてね、また久々に西洋の世界観というか、考え方にも馴染んでいくようなところで楽しんでいければと思いますので、ぜひ次回以降もよろしくお願いしますという感じですね。
次回予告
はい、分かりました。では次回ですね、ジョン・ロックのイギリス経験論ということでまた西洋を楽しんでいきたいと思います。では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。