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  2. #116 未知との遭遇!?エポケ..
2023-06-04 49:11

#116 未知との遭遇!?エポケー状態で「他者」を直接経験してみよう!

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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幻想学の基礎
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も幻想学ということで、前回は幻想学の視点から、世界というものはどういう風に捉えることができるのか、みたいな感じだったと思うんですけれども、今回はどんな風になっていくんでしょうか?
はい、そうですね。これまでで、いわゆるエポ系というか、判断停止をした人がいて、その人が一印象的な視点から物事を見ていきますよ、というような根本的な幻想学の発想をお伝えしてきたかなと思います。
で、今そこにやっと世界というのがどういうもので、その中で時間と空間というのがどう現れて、ひめちゃんの話を経験として感じられたらしいと思うんですけど、ここでやっと物っていうのが出てくるんですよね。
ああ、そっか。そうだよね、前回世界の話しかしてないから。
まだ世界の話しかしてないから、その中にはまだ自分と世界しかないわけですよ。
そうだね。
これまでは説明の便宜上、いわゆる目の前にリンゴがあったときに、このエポ系をしてみると、とかって言ってたんだけど、そもそもリンゴっていうものの知識がない。
もっと言うと、幻想学って学問の基礎を作るとか、正しさを保証する学問的に、みたいなことを考える学問だから、例えば学術的にリンゴとナシはどう違うのっていうことをこれから初めて明らかにしますってなったときに、今持ってるリンゴとかナシの知識は使えないわけよね。
はいはいはい。
じゃあ、今、世界と時間と空間と自分らしいものでしかない世界にどうものを表していきますかと。
こんだけね、世の中にものが溢れてるのに。
まあこれね、そうだね、確かに前回もやっぱり感じたことだけども、そもそもこのエポ系状態から物事を見るっていうことの難しさだよね、そのアンラーニング的な意味で。
そうだね。
で、そこからまず世界を認識しました。で、次はリンゴとナシの違いを見ていきましょうって。やっぱりどこまで忘れればいいのかみたいなところだね、本当は。
たどり着けないよね、エポ系状態に入った人がさ、いつになったらリンゴにたどり着くのかみたいな話。たまたま知ってるからいいものもね。
そうそうそうそう。
まあいいのか悪いのかも分かんなくなってきてるけどさ。
だから面白いのが、僕らが普段周りにリンゴがあってみかんがあってナシがあってって言ってるのって、やっぱりすごく知識を前提にしている。そうじゃないと、普通はやっぱり生きていけない。
まあそうだよね、やっぱりほらうちの子供いるからさ、教えるじゃん、これリンゴだよ、これみかんだよ、オレンジ、赤とかさ、1、2とかって教えちゃうけど、それを一旦忘れろって話してるんだもんね、エポ系はね。保留しろと。
忘れるっていうか、停止するだから、リンゴという概念を忘れるっていうよりは、本当にあなたは今リンゴっていうものを本当に経験したと言えていますかっていうところに、ちゃんと反省しなさいよってことなんだよね。反省っていうのは、そこに視点を向けなさいよってことなんだよね。
そうかそうか、リンゴそのものを忘れる必要はないけどってことか、一旦ただそれは自分が経験してはいないかもねっていうところを思い出しなさいと。
他者との遭遇
そうそうそう、そこに思い至らせなさいと、そういう感じなんだよね。
すごい精神状態もね、忘れればいいというわけでもないっていうね。ごめんごめん、ちょっと復習だね、ごめんごめん。
そうそうね、それをどうやって成り立たせるかっていうところに実は現れてくるのが、他者、他人っていう存在ですと。
あ、そうなんだ。
それがなんでなのっていうのはね、今日大きなテーマなんですけれども、
例えばさ、いわゆるこれはちょっと自然的態度、まさにフースタルがちょっと批判したというか、それじゃダメだよって言った、いわゆる普通に生きている態度からすると、
当然、自分っていう人間がいて、例えばカンノ・キョウスケっていう、自分からしたら兄っていうような人間がいて、
それは自分とは違う客観的な存在としてありますよねっていうふうになるわけだよね。
ただ、もちろん兄貴が何を考えているのかとか、今どんなことを思っているのかっていうのは僕からはわからない。
だから、例えば現象学的なエポケ状態で、どんだけ兄貴を観察しても、兄貴のことは分かりきることはできませんってことは言えるよねってあったりしますと。
もっと言うと、例えば目の前にいきなり、どこでもいいんだけど、例えばアフリカとか、そういう自分からしたら全然違う文化の、
しかも奥地、例えば山奥とかに住んでいるような人がパッと現れたときに、価値観が近いすぎて、やっぱりその人が何を大事にする人なのかとか、
どんなふうに物事を考えるのかとかも、そもそもわかんないよね。
なるほど、文化の違いみたいなね。目の前でピースされたけど、それがもしかしたらお前殺すみたいな意味かもしれないっていうね。
そうかもしれない。
っていうときに、それって現象的に何が起きるの?
要は今僕はアフリカの山の奥に住むっていうことは、自分とは違う文化に生きているであろうから、その行動から意味を取るときには自分の常識に当てはめてはいけないっていう知識で全部喋ってるんだよね。
それを本当の体験として目の前に全く違う文化の人が現れたっていうことをどう原子力的に理解するかっていうのは全然違う話ですと。
なんかその違うよねっていうことは何だかわかるかな。
これまでの話でいうと、そこはたまたまその一般的な、一般常識と鍵に言うけれども、一般常識的な振る舞いとこのエポケ状態の振る舞いがたまたま合致する可能性が高いシチュエーションではあるって話なのかな、そこは。
そういうよりも、そもそも目の前の人が異文化圏の人であるっていうのは全部知識なんだよね。
あー、そっか。なるほど。前回の空間の話と一緒だね。空間ってものがあるって今思っちゃってるから、そこを犬が行ったり来たりしてるっていうふうに、
いわゆるその自然状態だよね。普通は認識しちゃうんだけれどもっていう話と。空間の話でいうとさ、それは実は逆で犬が歩いたからそこに空間があったんだねってことがわかるよねっていうのがエポケ状態だから、
今回も同じか。だからその人が違う、初めて見た人だから文化的な振る舞いも違うだろうっていうのはやっぱり普通の一般常識で、
他者との出会いを構築する
その人が初めて、そこもわかんないよね。異文化の人かもわかんないよねみたいな前提からスタートして、なんか自分が思ってるのと違う挙動をし始めたぞってことは異文化かもっていう順番で理解していくのがエポケ状態っていう。
むずいねやっぱりね。
でもよかったらわかってくれてよかった。そういうことなんだよね。だから今本当に言葉ってやっぱり難しくて、アフリカの奥地って言った瞬間に全部知識からしか喋ってないし、それって客観的なんだよね。
なるほどね、もうそっかそっかそっか。
だからエポケ状態で人と会うっていうのは、まさに体験から他者との出会いを構築するっていう営みになって、それってどういうことなのっていう話を今日はしていこうと思いますと。
なるほど、それがある意味自分の兄であってもそうなのではなかろうかっていう話なんだね。
そもそもデイダーの時とかにも話したかもだけど、兄と弟っていう関係に基づいて、例えば僕が一般的に弟は兄を敬うものだとか、むしろ兄を超えるものだとかいろんな価値観があると思うんだけど、
それを前提にしている限り現象学的に兄とは出会えないわけだよね。
なるほど、いいね。現象学的に兄とは出会えないっていう意味がちょっとわかってきたのが、ちょっと嬉しいね。今回5回目くらいからにして。
伝わると嬉しいよね。
なるほど、それは難しそうだと。
普通にやってるとね。
そう、普通にやってるとね。なのでちゃんとエポケという判断を提出するということが必要ですと。
そもそもフッサールは他者とか他人と出会うっていうのをどういういただみだって言ってるかっていうと、
他者を認識し経験する
そもそも他者と出会うっていうのを経験するためには何らか身体的な現れ、前回とは原出者とか原出って言ったと思うんですけど、
体を通じた現れとか原出っていうのが必要だというか、そこから始まるんだっていうふうに言うんだよね。
体っていうのがちょっとキーワードとして出てくるんですけど、まず体が大事ですと。
そこで体って何かっていうと、すごくフラットに考えてね。
そもそも自分自身が身体的、物理的、物理っていう言葉も一旦フラットに聞いてほしいんだけど。
知らない言葉としてね。
知らない言葉、一旦全部話すね。
自分自身がこの体っていうものを持っている。
その視点を持っていないとそもそも他者を認識することもできません。
要は目っていう物理的、身体的な機能がないとそもそも人を見ることもできないし、耳っていうものがないと聞くことができないしっていうような話ね。
ただその身体的、身体的に出会うからといって別に物理的なものに終始するわけじゃないですと。
要は体と身体が同じ時間とか同じ空間にいるからといってそれが出会ったっていうことじゃなくて、
その他者が身体性、体性とか物理性とか空間性をまとった主観性であるっていうことを丸ごと認識したときに初めて他者を経験できるんだみたいなことが起きますと。
うわーむずい。
例として満員電車とか混雑した状況とか思い返しててほしいんですけど、
要はどんだけ例えば満員電車ギューギューで自分と接触してる人でも、その人と出会ったっていうかっていうとあんまり言わないと思うのね。
仮に身体的にすごく近い位置にいたとしても。
でもその人が何かすいませんって言ってくるとか踏ん張られて痛いって思ったときに初めてその人が立ち会われてくるとか、自分の経験の中に他者として現れてくるみたいなことが結構分かり、僕の中ではそういう例なのかなっていうふうに今思ってるんですけど。
なるほど。自分が他者を認識するとはどういうことかっていう話を今してくれてるんでしょ。
そう、現状的に他者を経験するというのはどういう時に起きるのかっていう話だね。
なるほど、最初思ったのは身体的、物理的みたいな話をしてたから、もう視界に入ってくるとか、物として他者を見たときに他者を経験するとか認識するのかなと最初思ったんだけれども、
今のマイン電車の例で言うと、下手したら目には入ってるし、下手したら触れてもいるぐらいの人だけれども、それを他者として認識するのかって言われたら、
さっきハヤトが言った、そういう人がまとってる空間とか主観性だけか、物理的だけじゃないし、かといったから、他者の存在をどう規定するかって話だよね、今ね。
そう。
エポ系というか、現状学的にね。
これもっと言うとね、他者をどう経験するかって言うと、他者を経験するとは何かっていう今は話なんだよね。
ああ、むずいね。
現状学っていうのは、他者の存在を前提すると、それはもう客観的なものに至っちゃってるから、それは自然的態度なんだよ。
そうか、他者を定義するって言い出した瞬間に現象学的な態度ではないんだね。
他者経験に至るまでのステップ
えっとね、そこからは始まらないというか、その後なんだよね、定義できるのは。
まずは経験しないといけないから、そもそも他者がいるかどうかすらわからないんだし、エポ系状態だとね。
うわ、むずいな。そこを勝手に紐づいちゃってるというか、そこが自然的態度で見ちゃってるんだね。
そう、自然的態度になっちゃうんだよ。
今は経験の話をしてるんだと、定義じゃなくて。
うわー、そのステップがあるんだね。まず経験して定義できる、みたいな順番な気がした。なるほど、経験の話ね。
だから他者のものは難しいんだけど、すごくいい題材で。
まさに僕らは最初からその独我論みたいな話だと思うんだよね。
要は世界に自分しかいないとか、自分だけが特権的な主観とか、人間だっていうのは言い過ぎなんだよね。
でも現象的に見た時に、他人は確かにいると思われるけど、他人を経験するってどんなことなのかっていうところはすごく難しくて。
それが今言った、ただの身体性だけじゃなくて、その主観を伴った身体性っていうものを丸ごと受けたときに初めて他者を経験するんだってことが言えます。
なるほどね、すごいね。そこは徹底してるんだ。学問の正当性というか、正しさみたいなものをどう定義するかみたいなのと一緒で、他者の存在性みたいなものをどう捉えていこうかって同じ営みなんだね、これはね。
同じ、同じ。そこからしか始まらないよね。
今はまだ他者いるかわかんないけど、とりあえず経験した、いるのではなかろうかっていう場所ってことだね、エポケイから、状態からスタートしてね。
難しすぎる。
でもその難しさが伝わってるのが嬉しい。
現象学的なエポ系状態での他者の経験
これさあね、毎回毎回自然的な態度になっちゃうから、毎回毎回エポケイしてるかなみたいな順番を毎回考え直さないとすぐずれちゃうわ。
本当そうなんだよね。
じゃあもうちょっと進むね。今言ったみたいに、他者っていうのはそもそも前提としてはいけないから、経験したっていう時には身体を伴う主観性として経験されますと。
ただその経験ってどんな経験なのって言うと、実はこれっていうのは絶対に経験できないってことを経験するんだっていうような逆説でしか語れませんっていうことをふっさわるよね。
どういうことかっていうと、さっき僕が言ったように、アイネキが何を考えてるかとか、そもそも本当に主観を持ってるかとかっていうのは、自分観の生えたという人間の経験には絶対に現れてこないんだよね。
だから逆に言うと、もし兄貴の主観性を自分の観の生えたっていう主観性で説明できるとか経験できるって言っちゃうと、それは兄貴が自分であるとか、全部自分が作り出してもらって、それはもうドクラ論に過ぎなくなっちゃいます。
なるほど。
だから、いわゆる世界の中に他者はいなくって、自分が他者を作り上げていくんだとかっていうことじゃなくって、あくまでも存在はしてるんだけど、それを経験するっていうときに、その主観性っていうものをなんとなく感じて、それは自分の主観性では絶対に捉えきれないぞっていうものとして立ち上がるっていう、すごく入り組んだ形で出てきますと。
わーすごいね。これはすごい。デカールトかな。我思うゆえに我ありでさ、やっぱり思っちゃう他者とは何かってあるじゃん。自分が世界を作っちゃってるのかなとか、他の人って本当にいるのかねっていうところに、結構バシッとハマる回答な気がした、今のって。
へー面白いね。
あとね、もっと面白いのは、その本で書いてたんだけど、デカールトの方法的解義すら徹底してないみたいな観点とかもあって。
あーそのフッサル的に言うと?
フッサル的に言うと。なぜかっていうと、我思うっていう、その思うっていう経験がなぜ起こるのかとか、それっていうのは、我と思うの間に、なぜ我が思っているっていうことを疑わないのかっていうようなことに、まだ疑いを挟むことができるよねみたいなことを言うのね。
なるほどね。そこはちゃんと説明してないよねと。
そうそうそうそう。
はーはいはいはい。
だからその、ある種エポ系状態って経験の話だから、自分が思ったとか考えたってことも経験なんだよね。その経験ってなぜ生まれるんだっけっていうところに踏み込んでるというか。
うん、確かにすごいね。そっか。わー。その思うと思わされるの境界線を多分デカルトの我思うだけだと説明しきれていなくて、現象学だとそこすらも説明できるよねぐらいの感じがするよね。
そうだね。むしろデカルトも思わされてるんじゃないか、そういう神みたいなものはいるんじゃないかとかっていうことは考えた上で議論はしてたんだけれども。
そういう神とかってのを覗いたときに、そもそも自分が考えるとか思うとか経験するってどういう営みなんだっけっていうところから考えてるんだよねフッサルは。
あーそこはちょっと時代のやっぱ違いというか、なるほどねー。
やっぱ数百年の差がもちろん蓄積もあるし。なので、まず現象学的なエポ系状態で言うと他者っていうのは絶対に理解できませんと。
それをフッサルは私と他者、他人との間には現実には絶対に超えることができない深淵、深い溝、谷みたいなのが広がってるんだとか、
そんな言葉でも不十分なくらい自分と他者っていうのは分け隔たられているんだみたいなふうに表現したりしてますと。
へーすごい。だからこそ他者っていうものがいるだろうってことを経験できるってことなんだね。
そうそうそうそう。絶対に自分には経験できない存在として経験できるみたいな話があって。
これをいわゆるこの違い、自分と他人との差異っていうものを異他性、異なる他人の性質で異他性とかって言ったりするんだけど、
他者との関係性の定義
つまり僕らは他人とか他者っていうのを本当の意味で理解してるときって、この異他性、要は理解もできないし経験もできないし、そこには絶対にたどり着けないっていうことを経験してるんだと。
さっき言った通り、例えば目の前に兄貴がいて、アフリカなりどこかの全然違う文化っぽい人がいたとしたときに、その異質性っていうのは同じなんだよね、僕にとっては。
でもその異質性を埋める経験っていうところの差が、兄貴とアフリカとかオークション人たちとの僕との違いになってくる。
同じ言語で話せるし、何を考えてるかも同じ日本人とか同じ家で生まれて育ったものとしての近さを感じる経験として。
けどアフリカの人たちはそもそも言葉も伝わらんし、ジェスターとかでもわからないから、同じ異他性なんだけどすごく隔たりのある異他性を感じるみたいな。
なるほどね、その程度の話ね。
逆にこれはリンゴと兄貴が何が違うかっていうと、リンゴが自分でそれをある種理解しきれる。
分析したりとか、リンゴっていうのがなぜ生まれてきてここにあるのかとかっていうのを全部分析しようとすればできる。
なるほどね、主観を伴う身体性だっけか、なんだっけ。
そうそうそう。
っていう意味での主観っていう部分が、いわゆる物質だよね。リンゴにはないんじゃなかろうかって話だよね。
そうそう、そうだね、なかろうかだね。
おそらく経験した限りではその主観というものは見出すことができないっていうところまでは言える。
うんうんうんうん、ってことだもんね、しゃべんないし、一生じゃしてこないし、自分でも動くところを見たことがないしってね。
そうそうそうそう、身体性もないし。
そう、っていうのが現象学的に言うところの他者を経験するっていうことですよと。
じゃあさ、ここまで言うと他者ってすごい自分と分け隔てられていて全然違う存在だから、
全く自分とは無関係な存在なんじゃないかみたいな。
どうやって自分と他者っての関係を持つのかっていう話が次に出てくるんだよね。
まあそうだよね、確かに理解できないことで他者を理解するって言われちゃうとちょっと寂しい気もするもんね。
そうそうそうそう、まさに他者の存在の定義みたいな話なんだけど。
これはですね、ある種、さっきも言った自分と他人っていう二言論的な話じゃなくて、
他者との関係性、身体性、主観性
やっぱり自分の主観と他人の主観っていう主観同士の関係っていうものは定義でいうか、経験できるねって話をするのね。
自分っていう存在と他人っていう存在が同じように身体性を持っていて、
かつそこから何かが現出する、つまり表現されるとか表れてくるからこそ、
主観っていうものがそこに存在しているであろうっていうことを経験を通じて一定は確信できるよねって話をするのね。
この立ち現れるみたいなことが結構大事で、これはもう結論から言うと、
要はどんな他人とか他者であれ、結局は自分との関係、自分に対して何かが現れてくるっていうことによって存在していると。
だから現象的には自分と関係しない他人っていうのは存在しないんだっていうふうに言えるんだよね。
はいはい、さっきのあれだよね、満員電車のレートみたいなイメージだよね。
だから自分と無関係にギューギューに押しつこめられている人はもちろん世の中に存在っていうかいるんだけど、他人としては存在しない。
その中でたまたま会社とか学校の人が遠くにいるときに、そこには他人がいるんだよね。
みたいな感じなので、他人と自分は決定的に理解し合えないし、深淵とか深い溝はあるんだけれども、
でもそもそも定義上、他人っていうのは自分と関係している存在とか主観であると。
はいはい、なるほどね。
現象学的に他人って言ったとすると、なんだかの関係はある。自分が経験したことがある人っていう意味で、自分の他人フォルダには入っていると。
で、満員電車の知らない人たちはもうなんでもない。認識すらされていないみたいな感じなんだね。
経験できないって感じかな。
だからこれ、自分で考えてると面白いなと思ったのが、これ別に身体性っていわゆる体とか物理的なものだけじゃないなと思っていて、
他者との経験を通じた客観性の生まれ方
例えば印刷された手紙とかあったときに、人間味がないとかっていう話って例えばあったりするじゃない。
で、実際に新聞とかチラシとかだったら別にそこに他人とか多少感じないわけだけど、
例えば親しい人とか愛する人がいたときに、仮にプリントアウトだったとしてもその人を感じると思うんだよね。
その文字っていう一般的にはというか、一見身体性っぽくないものだとしても。
だからやっぱり逆に言うとそういう知識とか経験とか関係性があるからこそ、
そういう一定文字みたいな記号からもその人の主観性を感じられるみたいなのは、すごく僕は現象学的というか人間の本質っぽい感じがするんだよね。
極論で言うとあれだよね、さっき主観を伴う身体性ってあったんだけれども、その身体性っていうのをどこに見出すかって話だよね。
やっぱ最初見てた目の前にその人がいるとかだけじゃなくて、今のハヤトの話から想像したのが、
例えば文通でしかやり取りしてなかったと。何なら写真も見たこともないと。
そういう人でも、たぶんやっぱりその人がいるんだとか、その人に好意を持ったりとか、やり取りの中で嫌な気持ちになったり嬉しくなったりっての。
まさにそれだよね、ハヤトが言おうとして。
そうだね。ちょっと雑談になっちゃうけどさ、よくあるじゃん、映画とかでもさ、
そうやって文通で相手が実は亡くなってて別の人が代筆してましたとか、ロボットが書いてましたとかって言われてもそれはドラマになるわけだよね。
そこの主観性のずれとか自分の経験を疑い出すっていうところに、やっぱり何らかのドキュメンタリーがあるからこそそういうシナリオが生まれてくるんだと思うんだけど、
それってすごく現象学的だなって思うんだよね。
なるほど、そこを逆手に取ったお話ってことね。
人間の認識を逆手に取ったドラマティックな出来事みたいな感じだと思うんですけど、
これね、他者っていうのが減らされてるんだけど、そもそも自分と関係している人が他者であるみたいな定義に立つと、
これは何につながるかっていうと、実はこれが回り回って人間の客観性、つまり客観的に物が現れるとか存在しているとか、
そもそも何かを正しいと言えるっていうところの経験につながるんだっていう風に言うんだよね。
やっと最初のテーマみたいなところにつながってきたね。
やっと一周戻ってきたんだけど、まさにどうして学問っていうのは正しいのかとか、そもそも個人の主観がなぜ客観的な真理になれるのかって話だよね。
これ第1回か第2回でテーマとしてお伝えしたと思うんですけど、やっとここに戻ってきました。
ここにきてふっさわるっていうのは、他者、他人の主観的な経験、今は自分の主観と他人の主観があるって話をしたと思うんですけど、
他人が主観的な何かを経験するっていうことを私が経験するっていう、この構造の中に客観性っていうのが生まれるんだと。
つまり、僕からしたら兄貴がどんな主観を持ってるかわかんないんだよね。
わかんないんだけど、こうやっていろいろ話をしたときに、なんとなく一緒に絵ポケをして、なんとなく一緒に直接経験をするっていうことができたと。
そこに対して、例えば目の前の赤くて丸いものを見たときに、これは赤いし丸いし、食べたら甘いし、元気が出る気がするしみたいなものを全部一緒にやったときに、
自分もそう思う、自分も直結経験としてそれは経験できるってなったときに、その全然違う主観で経験したものを同じ経験として共有するっていう場が生まれるんだよね。
なるほど。
これを例えば自分だけじゃなくて、兄貴がいる、誰かがいる、誰かがいるってやっていくと、それはある種真理と呼んでよかろうとか、誰にも妥当する正しい経験としてよかろうというようなものが生まれてきて、
この瞬間に初めてそういう客観性っていうものが立ち上がってくると。これをフサルは相互主観性、要はお互いに主観を持ち寄ってくるみたいなことっていうふうに呼ぶんだよね。
主観と客観についての考察
なるほどね。いろんな人を主観性の集まりだという話ね。
そうそうそうそう。だからすごい平たく言うと、いろんな人がこれはリンゴだとか、ある種食べられるって言ったら食べられるよねみたいなことなんだけど、
でもこれでいわゆるなぜ主観が客観にたどり着くのかとか、なぜ一人一人の経験っていうものがみんなが正しいと言えるものになるかっていうところの第一歩を踏み出せるんだよね。
わーすごいね。これもやっぱり空間とかさ、今日の他者の存在と一緒で、客観性ってものがあるって思っちゃってるんだけど、
このエポ系状態から客観性みたいなものにたどり着くっていうのは、これ面白いね。
面白いでしょ。
そう言われればそうだっていう。ここまでの説明を受けて今の話をされると、すごく納得するねこれは。
そうそうそうそう。
すごく回りくどいしややこしいんだけど、何が正しいかをやる手続きとしては、すごく一つの王道というか、
巨神単海に物事を取られる時に、みんながそういうのだったらそう言いましょうっていう、すごく民主的というかね。
そうだね。意外とたどり着いた答えがトッピーじゃないというかさ、結構自然的態度だよね。
普通に考えてても、みんながそう言うんだからそうでしょみたいなのとか、みんなが同じようにやったら、
手続きを踏めば同じ結果になるものが真理みたいなのって、結局ここにたどり着いたっていう意味で、それは面白いね。
そうそうそうそう。やっぱりそのためにはエポケという、さっきマヌキが捉われたら、すぐ自然的態度でやっぱり言っちゃうから、
ちゃんとそれを判断・定義するっていう、手続きをちゃんと踏むっていう、そこがやっぱり肝なんだよね。
じゃあフッサールすげえってなった時には、当然フッサールの批判だったりとか、
この相互主観性っていう言葉にはもっと分析とか深い技術とかをフッサール自身もしてるわけですよ。
本当にそこまでいくと時間がどんだけあっても足りないみたいになるので、そこは一旦踏み入らずみたいな感じなんですけど、
もう一個僕自身が面白いなと思ったのが、やっぱりこういう他人とか他者、もっと言うとそのいたせい?
自分とは違う存在性に出会うっていうのは、やっぱりエポケ人間からするとこれは恐怖なんですよね。
ちょっとこれはサルトルっぽい感じなんだけど、自分と違う存在が自分の世界の中にいるっていうのは、
すごくエポケ人間、世の中をこれから一個一個経験して作っていくぞっていう人からすると、経験できないっていうことが分かってしまってるわけだから、
それはもう穴が空いてるみたいな話なんだよね、本当にそれこそ自分の世界に。
ただ実はそれによって初めて自分が生きている世界の広さっていうのを理解することができるよねっていう話もあります。
そっちの客観性の話だよね。
多分ちょっと違うと思う。
分かりやすい具体的な例で言うと、例えば海外とかに行って初めて日本を意識するとか、
さっき言ったようにアフリカの奥地に住む人を出会って初めて日本ってどれだと思うとか、
逆にもしかして日本で生きるっていうのは幸せじゃない、堅苦しいんじゃないだろうかみたいなことを思うとか、
自分が立っている地点とか土台とか世界観とか文脈っていうものって、自分とは違う他者と出会って初めて相対化されるというか、
そこに地点が置くんだよね。
なるほど。単純な客観とかっていう話じゃなくてってことか。
単純な客観とかじゃなくて、それもまさに空間とかと一緒で、本当はあるんだけど覆い隠されている空間そのものっていうものと同じように、
本当は自分が立脚点として立っているんだけれども、それを忘れている自分の文脈とか世界っていうものを一人ひとりの人間が絶対持ってるんだよね。
それは自然的態度は絶対出てこない。なぜなら自然的態度っていうのはその世界を前提にして物事を捉えちゃってるから、
自分がどんなふうに世の中で生きているのかっていうことを変えりみるっていうのはすごく難しい。
なるほど、なるほど。
でもそのエポ系状態、原初学の地点に立って他者とか異質性、異他性と出会うときに、自分はこの世界に生きていると。
あるいはその異他性を理解するとか取り込んだ、経験したときに自分の世界が広がるっていうことが生まれるんだよね。
はい、はい、はい。すごいね、なるほど。
ライフレット生命の哲学
確かにこの視点、いわゆる自分で世界を構築していくんだっていうスタンスって、
確かに一人弱になる可能性って多分にあると思うんだけども、
確かにこのちゃんとエポ系状態みたいな原初学的な態度を徹底していると、
意外とそこには陥らないんだよねっていうことも言えるって話か。
そうだね、陥りにくいと思う。
世界を消すわけでもないし、世界を否定するわけでもないから、純粋に経験していくと自分と違うものがあるっていうことから始められる。
だからダメだっていうのは客観的な評価の話だし、
自分と違うものは排除せよっていうのは、違うものは自分に害をなすことがある可能性があるという知識から動いてるから、
それを一旦全部停止すると、まずは違うよねってところから始められる。
そうだね、確かに。
こういう人によってはめちゃくちゃそれが怖くてね、人と話したくもないし、出会いたくもないし、
いたせいには触れたくもないっていう場合はあるかもしれないけれども、
そうだね、経験した結果ね。
そこはできるとすれば、毎回そのいたせいとか初めて会うもの、初めて会う人とかと出会う度に、
相手もそうだし、自分自身も相対化して知ることができ続けるみたいな、そういう広がりがあるんだね。
そういう生き方になるっていう感じかな。
だから、それをちょっと思い出したのが、ライフレット生命っていう会社があってさ、
そこで立ち上げたりとか、大学の学習をされている出口さんっていう、結構有名だというか、
多分本を読んだ方もいらっしゃると思うんですけど、それこそ歴史とか哲学に関して、
すごい造形の深い方がおっしゃってたのが、
ちょっと細かい表現が違うかもしれないんだけど、
人間が変化するとか、そういうのには人と本と旅の3つが大事なんだというか、3つしかないんだみたいなことをおっしゃってるんだよね。
それも、いわゆる偉大性みたいな話で解かれやすいなと思ってて、
つまり人であれ、人はまさに他者だよね。
本っていうのは他者が表現したものと書いたものだし、
旅っていうのはまさに他者の生活空間っていうのは、
つまり全部自分の主観を偉大性にさらすことだなっていうふうに思うんだよね。
そうすると怖い思考になったりしたりとか、理解できないとかってなるんだけど、
だからこそ自分のある種立ってる世界っていうのは相対化して、
主観を相対化して決断する
その相対化したときに初めて変えるか変えないかっていうことを判断したりとか、それを決断することができる。
兄が言ってくれた通り、経験した後にやっぱりこれは嫌だって排除するとか、
自分には関係ないってすることも全然いいんだけど、
そこにワンクッションあることで本当に自分の意思としてそれを選ぶことができる。
つまり人生が広がるとか成長するとか変化するっていうことだよね。
思っていると自分の世界だけで生きてると変化が起きない。
ただあんまりにも大きな偉大性、
本当に一切理解できないこの人みたいな、それこそサイコパスみたいな、
ちょっとこの言葉がいいかわかんないけど、
人がいたときにそれを理解不能だって言って遠ざけられればいいんだけど、
その人があまりにも近くに行き過ぎれば自分の世界が壊れちゃって、
それがもしかしたらトラウマとか打つとかそういう精神の病気になっちゃうかもしれない。
やっぱり生身の自分で世界に触れ合うってすごく大変なことなんだよね。
そこだけでね。
そこだけで。
やっぱり知識ってのは自分を守ってくれるんだけど、
やっぱり時にはそういう判断停止とかエポケイとかをして、
本当の自分として物事を経験したときに、
自分っていうのは何が起きてるのかとか何を経験するのかっていうことをやるっていうのは、
これ普通にフッサイロが言ってることじゃないけど、
やっぱり人生君的にその生き方でしか見られない景色とか経験とか、
出会えない人がいるっていうのは覚えておいて損はないし、
冒頭お伝えした現象学を知ってると、
普段の自分とはちょっと違う考え方とか頭の使い方が、
もっと言うと生き方、物事の経験の仕方ができるよっていうのは、
そういう意味合いでしたよと。
確かにデグリッチさんのこの一本旅っていうのを聞いたことがあるけれども、
確かに今回のこの文脈で言われると、
素直にそういうのを楽しめるというか、出会える気がするね。
難しいところもね、やっぱり人と会った方がいいんだ、
本を読んだ方がいいんだで、ただ読んじゃうと、
エポケ状態じゃなくてね、読んじゃうとね、
ただやっぱりその自然的態度というかさ、
そっちの一般常識だけが増える場合もあると思うから、難しいね。
やっぱり悟りと一緒でさ、やっぱりその修行と一緒で、
修行すれば悟れるものではないんだけれども、
でもやっぱりその、何だろうな、
この例えばデグリッチさんがお前はやっぱり人と本と旅と、
これを経験した方がいいってアドバイスをしたときに、
難しいよね、この現象的に言うとこうだから、
こうこうだから、ちゃんと旅に出なさいとかって言っても分かんないし、
まずは身体的理解も大事だよっていう、
そのバランスだよね、やっぱね。
ここはやっぱり込められてるんだなっていうのが、
すごい面白いなと思った。
本当にそれがそういうのが、さっきも言ったけど嬉しくて、
多分その言葉だけで、確かに異質性っていうのがあって、
その異質性と出会うことが大事なんだよってことは言えるんだけど、
でもその異質性を体験するって何なのっていうのって、
やっぱりなかなか分からない。
でもある程度幻想学とかフッサールは、
それを言葉で説明しつくしてるとか思ってて、
それがすごい。
そうだね。
いわゆる身体的な理解だったりとかっていうものの、
マニュアルじゃないけれども、
きちんとその段階、変数に分けて段階を踏んで、
経験状態からこんな感じでこんな感じっていう風に、
ちゃんと言語化してくれてるっていうのは本当ありがたいね。
すごいね。
まあむずいけど。
むずいけどね、とはいえむずいけどね。
僕がこれを読んでた時に、
そもそも理解の仕方が違うんだとか、
そういう経験が先なんだっていう風にスイッチした瞬間に、
幻想学すげーってなった瞬間があって、
その時にちょっと分かった気がするって思ったんだよね。
本当に身体的理解だったりとか経験っていうものが、
身体的に分かった瞬間みたいな。
これはちょっと変な言い方だけど、
ガイドブック片手に持って、これが歴史的な建物だとか、
写真誌に載ってたものだって、
自分の知識を消耗するような旅は、
やっぱり旅としてはもったいないっていうのは、
この観点から言えると思うんだよね。
もちろん楽しいし、それはそれでいいんだけど、
やっぱり自分がむき出しの位置地点に出会うとか、
自分をそこにぶつけていくみたいな方が、
自分の世界を変えたいとか、
もっと新しいものに出会いたいっていう人からしたら面白い。
だからそれはモチベーションの違いだと思うんだけど。
でもそこも面白いよね。
今回話す内容じゃないかもしれないけど、
そのスタンスすらも自分で意識してますか?
っていうところまで取り込めると思うからね。
旅の経験に対する異質性の重要性
なんとなく消耗するのが旅の楽しみっていう風な、
一般常識の自然的態度で旅をしちゃってる人みたいなさ。
もういるだろうしね。
だけどそんな自分がちょっとって思いながらも、
ボケ状態に入れないみたいな苦しさってあると思うから、
それがこの現象学に触れる面白さだなと思った。
別にいいんだよ。
むしろ自分の知識を消耗するっていう体験を楽しむってこともできるから、
それはそれで全然ボケ状態もできるんだけど、
それが自然的態度でなんとなく行えることなのか、
自分の主観を通った上で経験したことなのかっていうのは、
経験の重みっていうのは多分変わってくる。
今後の話題への導入
4年みたいな話でした。
結構難しい話が続いて、
どうしようと思ったけど、
今日の着地点は、
最初の学問の正当性みたいなところと、
バシッと着地した気がして、
5回目にして興奮してきた。
その辺は雑談でまた話すんですけど、
今日もだいぶ長くなっちゃってるので、
ここまでという感じなんですけれども、
フッサールの現象学については一旦おしまいにしようと思います。
1回雑談をいつも通り挟んで、
いよいよハイデガーに進んでいきたいんですけど、
フッサールと現象学的世界
いよいよっていうのは、
フッサールの冒頭でもおっしゃった通り、
ハイデガーは20世紀最大の哲学者っていう人もいるぐらい、
結構すごい人なんですけど、
ハイデガーは完全に現象学を土台にして考えてるんだよね。
そうなんだ、完全に。
フッサールの弟子だったし、
これも次回ちゃんと言うんだけど、
たまたま分かっちはするんだけれども、
現象学的な考えを土台に、
自分らで哲学を突き詰めた人みたいな感じなので、
すごい人だよ。
これがシャープだったりとか、
そういうことねみたいな瞬間の面白さ、
アハ体験があるなと思うので、
エポ系状態の維持と意識の切り替え
フッサールからハイデガーに人は変わるんだけど、
現象学の素敵な世界っていうものを、
引き続き味わっていきたいなと思いますので。
いいね、そっかそっか。
エポ系状態を維持できるようにね。
電動力みたいだけど、
状態を維持してみたい。
分かればというか、
別に僕もできてるかわかんないし、
お前できてるぜみたいな、
国系師匠さんとか言われたわけじゃないから、
分かんないけど。
できてるような立場から話してるけどね、今回ね。
そうそうそう。
でも一定できてるんじゃねえかなっていう観点からして言うと、
1回掴めば自転車みたいなもので、
切り替えれる感じかなって思ったりするので。
念能力みたいな感じでね、
そういう意識的にね、ちゃんとね。
なので、ぜひ今回のフッサルと次回のハイデガーとかを通じて、
皆さんもそういう感覚を味わえると、
楽しんでいただけるんじゃないかなと思うので、
引き続きよろしくお願いいたします。
はい、了解。
次回はいよいよハイデガーということで、
引き続き倒しんでいきたいと思いますので、
よろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
49:11

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