フィヒテの自我と知識学
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でフィヒテ最後ということでやっていきたいと思います。
はい、前回はですね、最後結構ね、こうAIと人間の違いとはとかね、その自我っていうものがどのぐらいその人間っていうものを何だろうな、定めているのかどうかみたいな、
そういう話もしたと思うんですけれども、今回ちょっとね、雰囲気変わって、その後期フィヒテって言われるような、
そういうちょっと晩年の哲学とか思考っていうものを取り上げたいと思っております。
結構これも諸説ありみたいな感じで、今までやってきた自我が自己を定義するとかさ、非我が生まれてとかって話っていうのは、
フィヒテがやったのが哲学じゃなくて知識学だ、みたいな。そもそも知識とか知るとは何か、知とは何かみたいなことを追求しようって話をしたと思うんですけれども、
その土台になっている、結構その人生の前半期というか、その時代の思想っていうところをお伝えしたんですよね。
あれだっけ、関東とかの考え方を踏まえて、自分だったらこうだよ、関東はちょっと違うんじゃないっていうところを踏まえて、自分の世界観を作ったっていう話ですね。
そうですそうです。フィヒテっていうのは、やっぱり知識学とか知っていうものを大事にしたっていうことは生涯変わってないんだけれども、
フィヒテっていう人が、いわゆる人生の前半と後半、特に第1回でもお伝えした無神論論争みたいな。
フィヒテが書いた論文が、こいつ無神論だって批判されて、追放されちゃうみたいな話を覚えてるかな、あったと思うんですけど。
大学辞めさせられたぐらいの、もしくは辞めちゃったみたいな。
大学辞めさせられて、遠くに飛ばされたというか、その間近い、いられなくなっちゃったみたいな感じがあったと思うんですけど、
その前後で、フィヒテの考えってガラッと変わってるよねっていうふうな人もいれば、今の主流はこっちなのかな。
割とちゃんと根底では繋がっているに、同じとこに向いてるんだみたいな。
なんかやっぱり研究者によって捉え方も違ったりするんですよね。
主流はどっち?
主流はね、たぶんその根底では繋がっているとか、ちゃんと根っこの部分はあるっていう感じ?
うん。
なんですけど、今回はフィヒテの学術研究出ますから、その辺は一旦ふわっとしてるかもしれないんですけれども、
私だったのは、そのぐらい自我が自己を定めるとかって言って、割とカチッと作ったようなフィヒテさんなんだけれども、
やっぱりそこから悩んで悩んで、もっと違うんじゃないかとかってことをどんどん考えていくんですよね。
ほうほうほう。
なので、結構前回までも、自我っていうところから始まったら、
もちろん自我とは何かっていう問題あるけど、結構すっきりわかるよねっていう話をしたと思うんですけれども、
そこから更に一歩踏み込んで、フィヒテさん自身が自分の考えたことをどういうふうに乗り越えていったのかとか、
どういうところに課題を感じながら、思考とか哲学を深めていったのかっていうふうな話をして、
次回のシェーディングさんにつなげていきたいなというふうに思ってますっていう感じなんですよね。
他者と認識の問題
はいはい。まあそうだったよね。そうだそうだ。
フィヒテで終わりじゃなくて、これもヘイゲルまで続くシリーズだから、あんまりゆっくりしてられないよねっていう話してたもんね、そういえばね。
そうですね。それでも5回目だから結構やってないんだけれども。
その中で前回のAIと人間とはっていうところも結構絡めてお話しできるかもなとは思ったので、
今日はそういうところも伝統をよけながら聞いていただけたら嬉しいなと思っているんですけれども。
前回ですね、自我が自己を立てるっていうところから、自我と非我が別れるよっていう中で、
他人ってどうやって現れるのってことを前回お話したと思うんですよね。
そうだったね。
いわば、物だったら、まさに自分が内側から出てきてそのリンゴを捕らえるとか、
自分がそれがあるというふうに考えたからリンゴっていうものがあるんだっていうふうに言うのって、
別になくはないというか、まだ理解できると思うんだけど、
やっぱりカンのハヤトという人間が認識したからカンのキョウスケという人間がいるんだって言われちゃうと、
ロジック一緒だけどなんかちょっと腑に落ちないものってあると思うんだよね。
まあそうだし、そうだよね。じゃあ相手の立場に立った時、自分はどうなるの?っていう。
ああ、そうそうそう。
その自分の衝動がなくなっちゃうよね、その途端に。
相手から作られたものになっちゃうというか、自分が。
そうそうそう。そういうところがあるので、ある種フィフテっていうところは、
いろいろ自分のことをちゃんと考えていくと、
自分以外にもそういうふうに認識を通して世界を理解するとか、
そういうふうな自由がある存在っていうのがいるよね。
そうやって正論できるというところから、他者っていう存在を考え出していきますよね、
っていうようなことをおっしゃったと思うんですよね。
ただ、やっぱりそれで全部解決かっていうと、そんなことはもちろんなくて、
フィフテさんもそれに気づいちゃうんですよね。
そこでですね、これまで自我っていうものをあらゆる根本に置いてたと思うんですけれども、
そこから絶対値、絶対はまさに絶対的な絶対ね。
次は知識の値とか、それをさらに超える絶対者とか、
そういうものをどんどん考えていくんですよ。
なんかどっかで聞いたような。
逆に絶対値とかっていうと、ある種西洋哲学ではおなじみというか、
やっぱり完璧な存在とか、まさにこの世の根源そのものみたいなものとして伝えることが多いんだけれども、
そういうところに行っちゃうっていうふうな話がフィフテさんの大きな話なんですよね。
絶対者の探求
で、なんでとか、どういう国っていうところを今日話していこうと思っているんですけれども、
ちょっとわかりやすい例で言うと、
さっき言った通り、人間っていうのはフィフテさんからすると、認識したから何かが存在するみたいな。
認識とか行為が先で、その後に存在があるよっていうふうな話だったと思うんですよね。
はいはい。カントで言うもの自体っていうのは、ちょっとやっぱりおかしくて。
自分が言う衝動から出てきて行為するみたいな。
そっちが先だよみたいな話だね。
で、さっきリンゴならわかるけど、ちょっとネッサだとわからんよねって話をしたと思うんですけど、
もう一個進んで、自分がいるということがわかるっていうふうな言葉もあるわけじゃない?
つまり、自分というものに対してその知るっていうことを向けてみますと。
というときに、これ何かより難しくなるのわかるかな。
どういうことだろうな。
つまり、知るが先で、存在するが後だって話をこれまでしてるじゃないですか。
というときに、自分がいることを知るっていうと、
あれ?自分を知ったから自分が存在しているのに、
知るということを行ったはずの自分でいなかったの?みたいな、例えばね。
ん?
ん?ってなってる。
もう一回、もう一回。
自分が自分を知るっていうことがあるとしますと。
で、普通なら自分という存在があって、それを後から知りましょうっていうのは何も問題ないじゃない?
あー、感動的な世界観ね、それは。
感動的な、普通の僕らの生きてる世界観として先に存在してて、後から知るなら別にそれって問題ないですよね。
だって自分という主体がいて、それが理解するって話だから。
そうね、存在ありってことね。
そうそうそう、なんだけど、
てつやさんは、認識ありだとすると、自分が自分のことを認識する前は、自分は存在していないっていう風になっちゃうじゃないですか。
あー、ごめん、やっとわかったわ。
ごめんごめん。はいはい、そっかそっか。
自分が認識したことでリンゴがあるっていうことがわかるっていうものと、
自分が認識したことで自分がいるってわかるっていうのは、全然おかしくて、
自分が自分を認識してる時点でその自分って存在したでしょっていうおかしなことが起こってるよねっていう話ね。
そうですそうです。
おー、そうなんだ。でもこの衝動…。
時間が時空を定義するだけか、このPCの。
うんうん。
あーそっか、難しいね。同じことか。
だから、そもそもその衝動ってなんだろうねって、うちらが言ってたのと同じ話だよね。
そもそもその認識する主体って何っていう。
そうそうそう。
問題意識は同じだよね。
同じ。
そもそもそれどっから来たの、その第0法みたいな話ね。
そうそうそうそう。
で、それを自我って捉えて、自我の前にその衝動か。
第0法の衝動として、いわゆる知りたいとか、知ろうとするみたいな、そういう感情的なものはね、あるよっていうのは前々回にお伝えしたと思うんですけれども、
それでも何かがその衝動を起こすっていう、主体はある程度想像されるわけだよね。
いやーそうだよね。
そういうときに、自分を知ろうとする自分みたいなものを考えたときに、
あれどっちが先でどっちが後なんだっけとか、そもそも後先とかあるのかとか、そういうことがやっぱりグチャグチャしちゃうんだよね。
いやー、するする。さっきの衝動と同じ感覚で捉えればわかるね。
そのビッグバンと同じだよね。
そのビッグバンで宇宙が始まったのもわかるけど、その前は?っていうのと同じ感覚だよね。
そうそう、まさにまさにそういうこと。
逆にそこを兄貴がちゃんと今捉えてくれたってことは、やっぱりフィクションのことが考え方に馴染んできてるのかなとは思うんだけれども、
これがある種、自分だけとかリンゴだけとか、そういうふうに別々できていけばいいんですよね。
要は自分の知識とかリンゴの知識とかであれば、それぞれ別に一個一個考えればいいんだけれども、
例えば自分がリンゴを散るってなると、今度は自分とリンゴっていう違う知識が一個になってるじゃないですか。
なると自分についての知もいるし、リンゴについての知の出方も必要だしっていうふうに、
その知と知の関係性っていうものは今度問題になってくるんですよね。
へー、そうなんだ。
やっぱり、一歩一歩フィクションの世界観って進んでくることが多かったと思うんだけれども、
自我があって、事故が出てきてって、本当に何かを知るっていう手前にどんだけステップあるんじゃいみたいなのがあると思うんですけど、
自分がリンゴを知るとかってことに関しても、そもそも自分というものを知るとか、
それが知るという行為を通じてリンゴというものを知って、それがリンゴであるというふうに理解するとかっていうふうにいろんなステップがあるんだよね。
なるほど、なるほど、はいはいはい。
そうすると実は、自分についての知とかリンゴについての知っていうのは、結構細分化された細かい知のひとつであって、
その中に自分とリンゴっていう関係性の知識とか、
そういうちょっと統合されたような知っていうのが、どんどんどんどん上に上につながっていくっていう感覚になってるんですよ。
はいはい、なんかわかった気がする。
そうすると何が起きるかっていうと、これはちょっと考え方が難しいんだけれども、
自己と知識の統合
要はリンゴと自分っていうそれぞれの知識があったときに、
それって自分とリンゴ両方の統合された知識っていうところにある種の吸収できちゃうじゃないですか。
どういうこと?吸収っていうのは。
吸収っていうのは要は、そっちの知識があれば、リンゴと自分っていうそれぞれの知識って何だろうな、
それ一個一個保持しておかなくても良いというか。
あーそうか、そうなのか。
まあそうか。
ちょっとここは本当は厳密にいろんなことがあるんだけれども、
一旦、より上位の概念があれば、下の概念って重要性減るよね、ぐらいに思われるといいかも。
OKです。だから、自分とリンゴっていうものがあったときに、
そこだけ考えると、自分とリンゴっていう一個のものが統合されたものがあった場合は、
リンゴそのもの、そのものって言うとおかしいけど、リンゴの知識という一つと、
自分の知識という一つ、それぞれは別にもういらないよねっていう話ね。
そうそうそう。
OKです。
なっても、リンゴと自分っていうものを理解、地にたどり着けるよねって考え方かな。
OKです、OKです。
今それ聞いてパッと思ったのが、リンゴの方は捨てていいけど、自分捨てちゃい、捨てていいのかなみたいな。
でもね、これはあくまで思考ゲームだろうからね。
自分と何かみたいなね、自分とブドウとか、自分と石みたいなものは常にあるだろうから、
そうするとね、自分と石、自分とブドウみたいな、いこいこあるから、
確かに自分を保持しなくても、どっかからたどり着けるからみたいなのは、
納得できるかなみたいなイメージかな。
ありがとう、ありがとう。
先にたどり着けるって言ってくれたみたいに、どっかのルートをたどればその知識に至れるよねみたいな、
それちょっと、あれは樹形図とか、あとちょっとトーナメント表みたいな感じをイメージしてもらえるとわかりやすいと思うんだけども、
絶対地の概念
あれってつまり、下に行けば行くほど細かくなっていくけれども、
上に行けば行くほど一つになっていくっていう風な図じゃないですか。
つまり、同じようなことを当てはめると、上に行けば行くほど地っていうものもより統合されて、
より大きくなって、よりあらゆるものを含む地っていうものがあるんじゃないかと。
おー、そうなの。ごめん、今の樹形図の想像が違かった。
あ、ほんと。どんなイメージだったの?
えー、えっと、今、ハヤトは一つに統合されるって言ったでしょ。
だからトーナメント表とか樹形図における、自分の場合はスタート地点だと捉えたんだけど、
あー、はいはい。
今のハヤトの説明だと、到達点だよね、どっちかというと。
えっとね、どっちが到達点って思ってる?上の一つにまとまる方か、下の分かれてる方か。
えーと、上を一つで下が分かれてるとすると、上がスタート地点。
一つ、一点、一点の部分。それはスタート地点だと思ってる。
あ、それはね、合ってます。合ってます。
合ってる?
うん。
でもなんか、ハヤトさっき統合、なんか一つに統合されるみたいな話をしたから。
あー、あ、そっか、ごめんごめん。
えっと、それはですね、説明の都合上、自分とかリンゴっていうところから話を始めちゃったので、
統合っていう話をして、上に上にっていう話をしちゃったんだけど、
えっと、本来は兄貴が今、なぜ兄貴がそう思ったのかちょっと分かんないんだけども、
その上にある一点の方がやっぱりスタート地点だっていう風にフィクションも考えてるんだよね。
で、いいんだよね。
うん、合ってる。
え、なんででもそこ兄貴はそっちがスタートだよねって思ったの?
え、そっちっていうのは一点の方がスタートだよね。
上の方、一点の方。
うんうん。
それで合ってるんだよね、でもね。
合ってる合ってる。
いや、だってまず衝動があってみたいな話からいくと、まずゼロスタートだからまず1から始まるでしょ。
で、そっから受験図とかトーナメント表が、次2つに、次2つじゃなくてもいいんだけどね。
次2つなり3つなりを枝分かれするっていうのが、自分とリンゴとの出会いっていう。
自分とリンゴっていうのは1個で枝分かれしていく。
で、自分と石みたいな枝分かれしていくみたいな。
で、自分とリンゴおいしいみたいな、さらに例えばその下にさらに枝分かれしていくみたいなイメージで、
どんどん枝分かれして広がっていくイメージなんだけど、
統合するって言ったから、枝分かれしていくのに、あれ?統合されちゃうの?みたいな。
はいはいはいはい。
OKOKありがとうございます。
たぶん兄貴がもう、本当に素直にフィクションの世界観のことを前提に聞いてくれてたから、
ゼロ褒めとか衝動っていうところが違和感ないからこそ、
良い印象だったなって今わかって。
統合っていう言葉に引っかかっちゃったみたいな。
そうそうそう。
素直だよね、お兄さん本当に。
いつも言ってくれるよね。
3年間くらいはいつも思うんですけど、
普通はそんなに素直にゼロ褒めとか衝動というところから考えられないんじゃないかと思っているんだよね。
ほうほうほう。
なのでちょっと説明の都合上、
1個1個の地っていうところから始めちゃったんだけれども、
まさに兄貴が言う通りです。
第ゼロ褒めというか、より根源的なもの、
ここで言うと根源的な地、これはさっき言った絶対地なんだけど、
そういうあらゆる地がまとまっているものとか、
あらゆる地が含まれている地点っていうのがあって、
へー、そうなんだ。
それが分かれていくというか、
その地がある種僕らの知識っていうところに変換されると、
その中で、これは私であると知るとか、
これはリンゴであると知るっていうふうな、
5個1個の地が出てくるよねっていうふうなことを考えるんだよね。
へー、そうなんだ。
さっきハヤトが素直だねって言ってくれたけどさ、
たぶん自分の理解今ので違うなって思ったんだけどさ。
え、違うの?
うん、違う。
はいはい。
今ハヤトが言ってるのは、受験図のスタート地点だよね。
そこが絶対地って表現したでしょ。
うん。
それが分かんない。
そこから広がっていくと絶対地に至るみたいなさ、
わさわさわさーってさ。
あー、なるほどね。
はいはいはい。
ある意味ゼロ地点でさ、
何人ともぶつかってない、
何も知らないその事故だよね。
衝動事故が、
なんでイコール絶対地なの?みたいな。
はいはいはい。
あ、分かった。
もしかしてお兄さん、受験図全体っていうものを捉えて、
そっちが絶対地じゃないって思ってる?
だからわさわさで広がっていった後の方だよね。
枝分かりめっちゃしていった方をしながら、
絶対地に、
絶対地がまだ何か聞いてないからあれだけど、
それでただどんどん広がっていくのかな。
だからむしろスタート地点は空っぽのイメージだから、
そこがイコール絶対地ってなるとあれ?ってなったみたいな。
はいはい、あ、OKです。
ちょっと一回説明をなんだろうな。
衝動ってとことも少し違う感じで聞いてほしいんだけれども、
今までも衝動から自我が生まれてみたいなところは、
自我っていうものを前提にした話ですと。
で、もちろん結局自我っていうものを大事にはするんだけれども、
さっき言った通り自我から始めると、
自分を知る自分とか、
そういうことを考えたときに、やっぱりこう、
説明しきれないこととか、
あれどっちなんだっけっていうことが出てきちゃうんだよね。
っていうときに、ある種自我っていうものを超えた、
より根源的なものとして絶対地っていうものを考えようとするんだよね。
あー、なるほどね。
前提を乗り越えようとしてる話を今してるんだね。
そうそうそう。
その前提がちゃんと伝わってなかったら申し訳なかったんだけれども、
なので、自我っていう世界よりもさらに根源に至ろうとしますと。
っていうときにこの絶対地っていう概念を頑張って出すんだけれども、
それはどういうふうに考えるかっていうと、
さっき言った通り、地っていうものを人は大事にします。
地っていうものが突き詰められれば、
いろんな哲学だけじゃなくて他の学問に関しても、
人間が地をどう扱うかということで、
いろんな活動を基礎づけられるというふうに考えているので、
いろんな地っていうものが結局どこから出てくるんだっけ。
自分が自分を知るっていうことも一つの知識じゃない?
そうすると、それも含めて、
どこからくるんだいっていうことを考えるんだよね。
というときに、一個一個の知識を見ていくと、
自分に関する知識とリンゴに関する知識っていうものがそれぞれあったときに、
さっきの通り、自分がリンゴに関係するみたいな、
そういう二つをまたぐ知識っていうのもあるよね。
ということをどんどんやっていくと、
いろんなものにまたがる知識っていうものがあって、
自己認識の探求
その知識のほうが大きいよね。
より根源的だよねっていうふうなことをついて考えていくんだよね。
これむずいね。
そうか。
今、根源的とか統合みたいなものが、
多分、ハヤトが思っているものと真逆を想像しちゃってるのかもって今思って。
なるほどね。
なんとなく根源っていうと、
リンゴの知識とか、自分って何?っていう知識みたいな、
そっちのほうが根源な気がしちゃってるんだけど、
逆なんだね。
リンゴと自分とか自分が知っているっていう統合されたもののほうが、
より根源的な知識みたいなイメージなんだね。
否定的に言うと。
そうだね。だから、根源というよりは全体的とか、
そういうほうが言葉と確かに近いかもね。
なるほどなるほど。
もっと言うと、確かに兄貴が言う通り、
本当に何もないところからデカが生まれるっていう発想で考えてくれそうと思うんだけど、
この絶対値に関してはどっちかっていうと、
全てのものが含まれる地のアーカイブみたいなものがあって、
そういうふうなあらゆる地を含む地点というものを指して、
今、ごめん、僕は根源的っていう言葉を使っちゃってたね。
なるほどね。
ここは難しいね、定義がっていうか、それを理解するのが。
なるほど。
指し示すのは確かに難しいのと、確かに今言われて思ったんだけれども、
だからやっぱり冒頭言った通り、前期か後期で全然違うみたいな話をしたのも多分それで、
兄貴はさ、やっぱりこれまでのゼロ地点とか何もないっていうところから今、理解しようとしてくれたんじゃない?
一気にでも絶対値って全てがあるというか、全てが含まれてるみたいな、
なんか本当にゼロと無限みたいなさ、
フィヒテの絶対値の考え
そういういきなりスケールの違いが出てるなって話しながら思ったんだよ。
そうだね、スタート地点が全く変わったんだなっていうのを今やっとね、
気づいたっていうか、分かった気がするけど、
だから自分が知ってる言葉で言うと、絶対値ってつまりその全知、全知全能の全知ぐらいの感覚なんだね。
そうだね、そう思ってた方が今は捉えやすいと思う。
なるほど、オッケーですオッケーです。
はい、でも確かにそこのゼロは大きかったかも。
多分ね、この4階、ここまでの4階を真面目に聞いていただいてる兄貴みたいな人ほど、
本当にここのギャップは乗り越えにくいかもね。
衝動と絶対値を多分同じようなところからスタートさせちゃってるからね。
確かに確かに。
でも今ちょっと、なんとなく絶対値っていう全知的な感覚が今ナチュラルにできたかな、少しずつ。
そうね、ちょっとイメージできて、いわゆるフィフテ前期の自我が自己を提示するか、
できたところとのやっと別れた。
はいはい、分かった。
そうなんですよ。なので、まとめると、ゼロ時点からのスタートではなく、
まさにあらゆる知が含まれるそういう概念というものを絶対値と彼は呼んでいて、
彼は知ることが存在させる、行為が存在先立つということを言っているので、
絶対値があることで、この世のあらゆるものっていうのはその値の働きを通じて存在できるよね、みたいな。
これがまさに関連の要は、知るとか認識するということは先に存在があったという世界観なんだけれども、
ということをどんどん徹底させていくのね。
この絶対値ってちなみに、主語というか、絶対値は人それぞれにあるのだという感覚なのか、
絶対値っていう、次元も人間も超えた抽象的なものがこの世界にあるのかみたいな、
何となくそれぞれにあるような感じで聞いてるんだけど、どっちなんだろうね。
いい着眼点ですね、本当に。
考え方的には絶対値っていうのは、全人類というか、すべての存在に対して一つのものなんだね。
カントが言うところの、アプリ折に存在するみたいな、人に。
そういう枠組み、型として、人にはそもそも生まれながら絶対値があるのだ、みたいな感覚とは違うんだ。
アプリ折って先見的とか経験によらずにって話だと思うんだけども、
それは人とか認識する存在にとって型があるっていう話なんだよね。
型の場合は別に人間の存在を疑ってはいなくて、存在するときに認識の仕組みとして型をそれぞれ持ってる。
時間とか空間とかね。そういうふうな話なんだけど、
絶対値に関しては人間とと関係なく、そもそも地を働かせるときにはこういうまさに電池みたいなものがあって、
そこから個人個人の地の働きっていうものが働いていくんだ、みたいな。
そういうことを考えるんですよ。
なるほど。
なのでこれがちょっとずつ、宗教っぽくて言ってもあれだけども、
全知全能の存在とかを彷彿とさせるなっていう感覚になってこない?
そうだね。カントとかが人間をスタンドアローンな個別の存在として、
それぞれがニセを持っている、それぞれがそういう枠組みを持っているみたいなとこから、
また人間はクラウドコンピューティングじゃないけどさ、
ひとつのところから出ているあらやしとかまなしとかじゃないけど、
全てひとつでそこから人間ひとりひとりの個性みたいなものがいっぱい出してくるみたいなさ、生まれるみたいなさ、
結構社会観が違う感じがしてきたね。
そうなんだよね。僕はこの辺りから、前回の生成AIと人間みたいな話がなってくるなと思っているんだけど、
イメージとして、いわゆる生成AIとかって何兆とか、そのぐらいの知識、テキストっていうものが聴くのをされていて、
それぞれのブラウザとかアプリのUI上において、その質問にはこれを返そうとかっていうふうに、
一個一個知識を返してくるじゃないですか。
つまり、絶対値ではないんだけれども、この生成AIの中には自分がアクセスできる値の限りっていうものがあるわけだよね。
それが莫大だからこそ、いろんな質問に答えるっていう話なんだけれども、
結構それに近くって、その絶対値っていうのは限りのない知識っていうものがどこかに、
あるってこれ、もうちょっと怖い言葉なんだけれども。
いやー、そうだよね。フィクターどう表現したんだろうね、それをね。あるのか。
だからもう絶対値って書いてある。絶対値っていうものが考えられて、それによって僕ら個人の人間の値というものが働いているっていうふうなものがあると、
知ることと存在の関係
要は自分が自分を知るというのは、この絶対値っていうものがあって、その絶対値の働きによって自分が知られるみたいな。
つまり主語が自我とか自分から絶対値の方に移せるんだよね。
あー、なるほど、了解です。
なんか主語ふわふわしてるなって思ってたんだけど、どの視点で世界を作ればいいのかってイメージすればいいのか混乱してたんだけど。
なるほどね。ここで主語変わっちゃうのか、絶対値側にね。
そうなんです。つまり絶対値の知る働きの中において、自分というものが知られるというか、自分ということも知ることができるとなると、
さっき言ってた、自我が自己を立てればまだいいでしょうと、多いだからね。
でもやっぱり自分が自分を知るっていうことによって、結局悩んでたった循環を絶対値っていうものを立てることによって、絶対値の知る働きによってっていうふうに変えれる。
これによって1個より、何だろうな、愛しく本源的というか、そういうところに移せるよねっていうようなことを考えるんだよね。
はいはいはいはい。
はい。ところで、1個この難問をクリアしたに見えるんだけれども。
これはね、前回も言ったけど泥沼だったりとか板地ごっこな感じするよね。
そうなんだよ。これがね、さっき言った絶対値っていう話で、今度はより言えるじゃないですか、絶対値っていうものはあるというか、絶対値っていうものはいいでしょうと。
でもじゃあその地全体っていうものがあるとしたときに、地をあらしめる働きってどこにあるのとか、
っていうふうにどんどんどんどんそこが昇っちゃう。つまりさっきは自分が自分を知るだったんだけど、
次はじゃあ地が地を知る。で、どうなのっていうふうにやっぱり言っちゃうんだよね。
そうだよね。絶対値が絶対値たらしめてるものって何ですかって結局聞かれちゃうもんね。思っちゃうだろうし。
そうなんだよね。やっぱりフィフティはそれを思ってしまって、やっぱり突き詰めたときに絶対値っていうのは至っちゃうんだよね。
至るんだね。
これはただ面白くって、絶対者という何か特定の存在がいるとか、神みたいな、神みたいなとは言っているんだけれども、
いわゆるこの絶対的な唯一の罪がいて、それが世界を作ったとはやっぱり言わないんだよね。
ここがめちゃめちゃいわゆるプラトンのイデアとか、後は古代芸術者であったような、
一社みたいな完璧な存在というか、そういったものがあって、世界を生み出している。
ここがちょっと違いなんだけれども。
まずフィフティがどう考えるかっていうと、
自我が自己を立てたみたいな感じで、いわゆる何かを生み出すっていうことをこれまでずっと考えてたんですよね。
自我が自己を立てるとか、絶対値がそれぞれの一個一個の知識っていうものを生み出していくとか。
っていうふうに関係性。
やっぱり彼は行為っていうものを大事にするから、生み出すとか立てるっていうことを大事にするんだけれども、
この立てるっていうのを考えたときによくよく見てみると、立てられたもの、
例えば事故とかっていうものよりも、立てる働きのほうがより根源的というか、いわゆる高い次元にあるっていうふうに考えるんだよね。
これごめん、ちょっと僕さっき言葉間違っちゃったんだけど、立てたものではなく立てるという働きが高い次元だというふうにフィフティは考えますと。
これ難しいんだけど、一回キーワードとして事故ってことと行うって言葉で事故っていう概念をフィフティは作ったよって言ったと思うんですけど、
彼はやっぱり知るとか認識することとある、存在するっていうことをほぼ同時、瞬間的に同時に起こるって考えてるんだよね。
やっぱり自我っていうものも、自我があるというよりは、自我という働きがあって、それが働いて事故を立てるっていうふうな、固定的なものじゃないんですよね。
へー、面白いね。なんかちょっと東洋というか仏教的な。
そうそう、常に揺らいでいるとか動いてるみたいな感覚があって。
一瞬一瞬壊して作り続けるみたいな感覚に近いのかな。
そうそうそうそう。その時にこの絶対者っていうのも、いわゆる固定的なドーンって積まれてる紙みたいなものじゃなくって、
そういうあらゆるものを生み出し続ける働きとか、そういうことをし続ける根源的な動きみたいな、
そういうことを指して絶対者というふうに考えるんだよね。
はいはいはいはい。
つまり絶対地っていうものも、別に固定的なあらゆる地がって言っても、地って普通に増え続けていくじゃないですか。
本当に絶対者、いわゆるあらゆる全知全能の神がいて、全ては神は知ってるけど人間は知らないだけだっていう世界観というよりも、
日々僕らが生きている中で、いろんな科学技術も発達するし、いろんな人が生まれては死んでいく中で、いろんな地も生み出されていく。
この働きっていう、生み出していく働きそのものが、実は地というものの根源にあるんだと。
はいはいはいはい。
それを指して絶対者っていうふうに彼は考えるんだよね。
おー、なるほどなるほど。
これによって、つまり守護とか、要は何が知っているのとか、何が知っているのって、その何がっていうものを固定することを避けて、
地は生み出され続けるのだという絶対者。
それを絶対地という働きで、僕らとつなげているっていう、そういう構造がこの世界にあるんだっていうふうに考えていくんだよね。
自我と絶対者の関連性
おー、なるほどなるほど。
なんかこのつながりはどうだろう、ちょっと兄貴の中でも、なんだろうな、しっくりいってくれてる感じもするんだけど。
ここのつながりは、絶対地っていうものがそもそもあるんかいみたいな話になったときに、その答えとしてというか、
乗り越えるものとしてのこの絶対者だよね。
しかもこれは存在そのものとかではなくて、絶対地みたいなものを絶対地たらしめる働きなおであると。
絶対地が増えたり減ったり、いろいろするよね。それをたらしめている働きなおである、みたいなのは話としてはわかるよね。
はいはいはい、よかったよかった。
そういう世界観っていうものがやっぱり彼のテキストの中でどんどん広がっていくとか深まっていくっていう感じなんだよね。
これ大事なのが、地がどこ行ったのっていう話なんですよ。
そうだね、だいぶ遠くに行っちゃったよね。
そうそうそうそう。でもその感覚すごい大事で。
自我と絶対者って、これね、この感覚みなさんも聞いてきたら嬉しいなと思うんだけど、遠いじゃないですか。
自我と絶対者の関係
遠いっていうのは、自我から始まるって言われるとやっぱり自分っていう存在を誇って、さっき兄が言ったようなスタンダードアローンな人間って読むのがいて、
それぞれが世界にどう立ち上がれますかっていうところが理解がしやすいと思うんだけど、
絶対者って読むのがいて、そこから絶対地を通じて自我が働きますって言われちゃうと、ちょっと待ってみたいな。
それって結局、何の話してんの?みたいなやつだと思うんだよね。
しかも今はやっと絶対者がいてって言ったけど、絶対者はいるとかあるじゃないから、絶対者っていう働きがあった上で絶対地っていうものがふわふわとあってね。
その結果として、その衝動みたいなものもそのあたりからふよふよと言われても、多いってなるよね。
この俺は何なんだよって。
一回さ、衝動とか事故を提出するでさ、よし俺いるって思ったのにさ、いやもうどこ行ったんだよ俺ってなるよね。
そうなんだよね。なので、そこの捉え方がすごく大事というか面白くて。
この前期、これまでの話でいくとまさに自我っていうことは、ある種世界を散ろうとしただけがあって、そこに存在を立てるっていう意味での、本当にこの世の始まりみたいなところだったところが、
その中期とか後期になってきて変わっていって、それはやっぱり自我も絶対者とか絶対地から生み出されます。
でもそれがある種生み出されるっていうことはやっぱりそこから繋がっているので、
人間はこの自我っていうものを通じて、あるいはそれが生まれてくるとか働いてくるっていうことを実は自覚していくと、
その先に絶対者という働きがあるっていうことを、要は知識を重ねていくことで知ることができるとか、
それを想像することができる。で、これ面白いのが、絶対者を知ることはできないっていうふうに聞いてはかかるんだよね。
まあ、そりゃそうだよね。
地を生み出す行為っていうことは、地ではやっぱりたどり着けない。だからやっぱり、ある種ちょっと物自体っぽくなっちゃうよね、この絶対者って。
いやー、難しいよね。それを物じゃなくて働きだとは言ってるけれども、働きがあるのだって言った瞬間、まあ、物だもんね。
どうしても言葉の定義と概念的な定義が難しいんだけれども、
これは面白いのは、やっぱり自我っていうものが我々にあるとか、
そういう働きが絶対地とか絶対者とつながっている働きだからこそ、
我々人間、あるいは知的生命体っていうものは、そういった絶対者というものに何らかアクセスするっていうのが正しいのかな。
知ることはできないんだけど、それの働きというものを感じることができる。
つまりこれがいわゆる神というものを、宗教的に言えば、信じる理由になるとか、
信じることができるっていうのは、そこにつながっていくっていうふうになるんだよね。
AIと哲学の対比
はいはいはい。
なので、さっきのAIとかの話でいくと、
例えばAIは、仮に絶対知的なものすごい膨大な人間一人一人でも明らかに多い知というものを持っているよねと。
その意味では、やっぱり人間よりもAIの方が賢いよねとか、
言えるかもしれないんだけれども、
おそらくAIはこの絶対者というものを取り付くことができないはず。
これはなぜなら自我というものを持っていない、その肖像というものを持っていないキャラだっていうふうな。
そういうふうにこのフィフティのロジックで言うと、すべてはできるだろうねっていうふうに思うんだよね。
はいはいはい。だからこの絶対者へのアクセス権を持っているのは、やっぱり衝動であり自我であり事故であって、
それを持っていないんだよね。
持っていないAIに関しては絶対者にアクセスできないから、
そういった意味でやっぱり、生み出すものとか、
考えることっていうのは、人間と同じにはなり得ないよねっていう話だよね。
フィフティのロジックで言うと、そういう違いがあるよねって感じだね。
どうですか?今兄貴の言葉はすごく説明できてる感じがしたから、
なんか理解してくれたのかなと思ったけど。
いやー、でも理解したかはわかんないけれども、
どうなんだろう、フィフティってさ、この関東への違和感だよね、物自体って、
いいんじゃない?みたいなところからスタートして、
たぶんすごい独自の世界観を作ったと思うんだけど、
どうなんだろう、フィフティやりきって死んだっていう感覚はあんのかな。
結構悩みながら、時間足りなかったなーみたいな感じなのかな。
悩みながらって間違いなくあって、さっき言った無心論論争で終えられちゃったみたいな話もあるし、
それからシェリングっていう人扱うよって言ったんですけど、
もともとはシェリングはフィフティの弟子というか、
関東フィフティっていう流れがあるみたいに、シェリングもフィフティのことをある種学んでそれを展開してたっていう感じなんだけど、
途中でシェリングの方がフィフティさん違うわってなって、
めっちゃ批判とかして、やっぱシェリングの方がすごいよねってなっちゃうみたいな感じなんだよね。
ああ、そうなんだ。
フィフティさんとしても、このままじゃダメだけど、でも自分の論をどうやったらもっとちゃんと伝えられるんだろうとか、
そういうふうな苦悩もあったはずなんだよね。
なるほど。ちょっと大きな哲学の流れ的な話で言うと、
このフィフティがそこそこ名前が残ってるというか、評価されてる点っていうのは、
もう完璧だと思われた感と、ここに対してみんなが納得できるような違和感を作った上で、
さらにただ違和感を伝えたわけじゃなくて、
それを乗り越えられたかはここまで聞くとちょっと微妙だなとは思ったんだけど、
ちゃんと世界観を作ったっていうところ、そこが評価されてるみたいなイメージでいいの?
これは面白くて、ネットとかにあるスタンフォード大学の作った哲学辞書とか、
最近それとかも翻訳で読んでるんだけど、
そこに書いてるのは、もともとフィフティって関東から平原に至る1個の通過点としてしか評価されてませんでしたみたいな、
そういう辛辣なことが書いてるのね。
いつもお伝えする岩上の辞典とか見ても、正直この後期のところとかってちょっと違和感あるよねとか、
相手批判されてきてはねみたいな捉えられ方でもあるのよ。
そういう意味で言うとフィフティそのものの哲学っていうよりも先に関東から平原に至る流れの中に落ち進めたみたいな、
そういうふうな評価がもともとはされてきたっていうふうに書かれてるんだよね。
あー難しいね。そっか、超優秀な踏み台ってことだよね。
まあ、言葉悪いけどね。
悪く言うと。
ある種でフィフティの哲学そのものがものすごく重厚されたか、もちろん影響を与えてるんだけれども、
それを軸に何かすごい哲学が生まれていったっていうよりはやっぱり平原に至る道みたいな感じになっちゃうんだよね。
ただ、諸説ありますけど、とはいえその発展の中にフィフティ自身の中にやっぱりもっとすごいものがあるんじゃないかとか、
フィフティはもっとちゃんとこういう超優秀なことを言ってたんじゃないかみたいな、そういう研究はそれはそれである。
なるほど。確かにある意味で関東の方が、
例えば哲学の使い方っていろいろあると思うんだけど、
例えば自分の生きる価値観の指針としますっていう時には関東の方がやりやすそうだよね。
はいはい、そう思う。
フィフティはちょっと難しそうだよね。
アプリ用にいろいろあるとかさ、戻したりがあるじゃなくて、
衝動ってものが俺にはあるんだ!みたいなところから、
自己を俺が提出したのだ!みたいな感じで生きていくって、
ちょっとやっぱ難しいかもしれないよね。
そうなんだよね。
ちゃんと呼び込めば何かあるのかもしれないけど。
やっぱり大学から言って、やっぱり頭であるとか、
根源を追求して、やっぱり全てを統合して、
それこそ関東の実践理性と純粋理性を統合して、
やっぱり一個にして、よりシンプルにしていこうとか、
より根源的なものを作ろうっていうふうに考えるんだけど、
やっぱりそれにはやっぱり難しさとか悩ましさがいっぱいあるし、
結局ね、よく丸くも絶対者的な、
そういうものが行き着いてしまうっていうことで、
やっぱり良し悪しもあるから。
はいはいはい。
そういう意味では、
やっぱり富士手自身がそれに完全に納得して、
満足してやり切ったと思ってたのかっていうのは、
正直わからんよなとは思うよね。
そうだね。
そうそう。
そう。
ですから周囲はやっぱりそれを、
やっぱりやり切った、体系化された哲学だというよりは、
それによってやっぱりヘイゲルにつながっていったよねって、
そっちにどうしても目が向きがちだったっていうところが事実って感じなんだよね。
はいはい。わーありがとうありがとう。
なるほどね。
そうか、そうなるとやっぱり余計ね、
次シェリングだったな。
あ、そうそう。
で、改めてヘイゲルみたいなとこ。
そこを流れを知ることでまたなんかね、
富士手って何だったんだろうって。
そうだね。
戻ってこれたらいいかなって思った。
うんうん。
だからよくも悪くもだけど、
やっぱり富士手はここまで突き詰めての自我というものとか、
自分っていうところから、
あるいは知っていうものに進んでくれたがゆえに、
それおかしくないって言って、
知じゃなくてとか自分じゃなくて、
むしろ世の中の方とか自然って言われるものから、
考えた方が良くないっていう、
それがある種シェリング的な発想なんだけれども、
へー、はいはいはい。
そういうものが生まれていくんだよね。
あー、うんうんうん。
そういうのもあるんで、やっぱり極端が出ると、
次の極端が生まれやすいみたいな意味でも、
はいはいはい。
やっぱり役立ち方もあったと思う。
まあ確かにね、そっかそっか。
さっきは踏み台って表現しちゃったけれども、
あの、叩き台だよね。
あーそう、ほんとにほんとにそう。
よく言うと。
うんうん。
はい、というような感じで、
ちょっとねごめん、今回その割と認識の、
思ったより違うなっていうところが、
ちょっと僕も疲れてなかったから、
衝動とか自我っていうゼロポイントから、
絶対一というか、むしろ全てがありますみたいな、
全てを生む働きがありますっていうところのね、
やっぱり世界観の違いがあったんですけど、
逆にそのぐらいの触れ幅があったんだねとか、
あるいはそこまで、なんだろうな、
やっぱり考えを突き詰めていっちゃうんだねっていう風な、
そういうところはちょっと味わってもらえたんじゃないかなとは思っています。
はいはいはい。
という感じですね。
面白いね、うんうんうん。
うん。
はい、なので、
ちょっとね不意識解を今回一旦後ろになるんですけれども、
次回は雑談とね、ちょっと一個企画を挟んで、
次シェーディングにまた行こうと思ってるので、
うんうんうん。
ちょっとね、その企画がないかとかっていうのをまた次回雑談でもお伝えしますので、
よかったらね、またそちらも聞いていただいて、
楽しんでいただければ、楽しんでいただければなと思っております。
という感じですね。
はい、わかりました。
では次回ですね、雑談挟みつつシェーディングに移っていくということで、
楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回はありがとうございました。