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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
儒教の基本概念
今回、朱子学第2回ということで、まずは朱子学に入る前に、儒教について見ていくという話でした。
そうですね。儒教といっても、朱子学と同じで正直わからないという方が多いと思うんですよ。
前回も名前を出してましたけど、孔子という人がいたよね。日本でいうと論語を15にして学を志してみたいな。
道徳とか礼儀みたいな、そういうふうな話だなっていうぐらい僕もあるんですけど、そのぐらいの印象じゃないかなと思うんですよね。
お兄さんとかどう?儒教とか。
儒教はわからないね。ただ、孔子の小説、宮城谷雅光が書いている「孔九」という上下観の小説があるんだけど、
それは読んだことがあるから、なんとなく人となりだったりとか、人生みたいなものはなんとなく忘れてる部分もあるけど。
じゃあ僕よりも孔子についてお兄さん詳しいと思うんですけど。
小説の分だけ。
そういう意味では、もちろん皆さんも詳しい方、知らない方いらっしゃると思うので、儒教というものをすごいさらっと抑えていくことで、朱子学をより深めて理解できるようにしていこうというのが今回の目的でございますよ。
前回も最後にお伝えしたんですけれども、人としては孔子、孟子、淳子という3人が、いわゆる儒教のめっちゃ有名な初期の人たちという感じなんですよ。
なので、この3人の思想の変化をたどりながら、大まかな儒教の考え方とか、あとは前回言った限界みたいなところ、あるいはなんでそれが朱子学に発展しちゃったのかみたいなところを大掴みで見ていこうと思っております。
孔子の教育と政治志向
まずですね、儒教の祖っていうのが、皆さんご存知、孔子なんですけれども、孔子は紀元前6世紀なので、紀元前500年だから今から2500年前の人なので、めちゃめちゃ古い人ですよ。
それこそキリストとかブッダとかの時代だよね。
キリストはね、0年だから。ブッダとかソクラテスとかでちょっと古いぐらい。
ソクラテス、そうか、その辺か。古代儀仕。
これ面白いんだけれども、孔子が来た時代はね、これも皆さんご存知、春秋戦国時代ですね。
秦の始皇帝とかが生まれる前の時代に孔子は生まれてるんですよね。
これはまさにキングダムとかね、読んでる方はご存知だと思うんですけれども、まずは戦乱の時代っていう感じで、いわゆるいろんな国の主君、君主たちが、おかえの学者とかを使いながら自分の国をどう強くしていくかとかさ、
どういうふうに他国を滅ぼしていって統一するかみたいな、そういうことをやってる時代なわけなんですよね。
諸子百家が活躍した時代だね。
まさに諸子百家ね。
孔子が目指していく時代の中で目指していったのは、彼の春秋時代よりもさらに500年古い、今からだと3000年前とかになってくる、
祝っていうね、ちょっと伝説的なんですけど、そういう王朝があって、伝説の王朝があったことは証明されてるんですけど、
その時代っていうのが孔子から見たときに、具体的にも人々の精神っていうものを見ても、すごい調和がとれてる、いい時代だみたいな。
いわゆる古代の理想の時代みたいな感じだよね。
っていうところを捉えたときに、その中に政治家として、いわゆる礼節とかの礼儀の礼ね。
そういうものを基盤にしてた時代があったというときに、それをちゃんともう一回取り返して、こんな荒れ果てた戦の世の中に戻って、
人々内面から、そういう秩序とか徳とか、そういう平和みたいなものを取り戻していこうよみたいな。
そういうことを考えてくるんですよね。
今の時代はもうそういうのがなくなされちゃって、中央朝の偉大なものがなくなってるから、
それを現代、春秋時代に復活をさせて、ちゃんと後世に残していきましょうよみたいな。
そういうことを孔子さんは考えるんだよね。
それをやることが、ある意味の天下統一というか、統一とまでいかなくても、この戦乱の時代で強くなっていくのに必要なことですよって考えてるってことだよね。
特に国のトップにとって。
そうなんだけれども、実はそれって晩年、50歳くらいからの発想らしくて。
もともと彼は教育者だったらしいんですよね。
なので、いわゆる古典、そういう中央朝のことは学ぶっていうことで、
もちろん社会秩序を立て直せるんじゃないかと考えてるんだけれども、
やってることは最初学校を作ったことらしいんですよ。
いわゆる中国最初の私立の学校を作って、3000人くらい教え子がいたんだって。
3000人も出てきたかなぁ。小説に3000人出てきたかな。
出てこないだろうけれども、もちろんね。
その中に有力な人が何十人かいたみたいな感じらしいんですけれども、
それをやってた時に、考えるわけで悩むわけですよ、孔子さんも。
結構頑張って、学校を作って教えて3000人くらい卒業生を出したけど、
ちょっと世の中変わんねえなと。
思ったように社会良くなんねえなっていうところで、
教育って間接的だよね。直接的に世の中変えたほうがいいんだねっていうところもあったりとか、
さっき言った通り優秀な人も孔子文科に出てたんで、
あの人すごいらしいぞと、いろいろ教えてくれて、世の中知ってるらしいぞっていう感じで、
ちょっと名声も高まってたんで、そこから政治家になろうって言って、返信するんですよ。
そこからがまさに孔子の政治家時代だね。
孔子の母国は魯国って言われるんですけど、そこで結構養殖に就いたりとかさ、
結構外交で成果を上げるとかってやってたみたいなんですけど、この辺の仕事自体が出てるのかな。結構派閥争いとか、
ああ、そうそう。
なんか君主から嫌われちゃうみたいなこともあって、
6年後か56歳くらいで国を奢れちゃうんですよね。
そこから魯王のためみたいな感じで、いろんな国が回ってさ、
僕のことを取り出してくださいとか、こんな理想の国を作りましょうとかって言うんだけど、全然受け入れられません。
弟子たちも一緒にいたんだけれども、結構普段の旅を続けていくわけなんですよね。
長かったな、確かね。
10年の時から。
本当にどこにも受け入れられずみたいな。
仁義と儒教の発展
一応晩年では君主が変わったことで、国は一応戻れて、
ただそこでも政治家というよりは貿易者というか、
政治家というよりは花開かずに仲張っていったみたいなエピソードなんですけれども、
それちょっと公私個人なことになってしまったんだけれども、
彼がそうやって国に解き続けたもの、いろんな国にまた解いたっていうものが、
さっき言ったような礼儀の礼とか、あとは仁だよね。仁義の仁みたいな。
という概念を続いて回っていくわけなんですよ。
これが授業とか講師のキーワードなんだけれども、
この礼っていうのは単なる人の礼儀とかマナーってことじゃなくて、
いわゆる典ですよ。中国なんでその典っていう思想が強いんですよ。
典とは何かとか言うとまたこれも長くなっちゃうんで、一旦常識的な範囲でいくと、
いわゆるそういう宇宙の断りみたいなものとか、
そういう典っていう人治を超えた働き方があったときに、
それが人の社会に影響をして、人間社会の調和とか安定っていうものをもたらすんですよ。
その典の働きで人間社会が調和になるっていう、
そういう働きとか規則みたいなものっていうのが礼なんですよね。
なるほど。
単純に礼儀正しくしましょうとか、人に良くしましょうってことじゃなくて、
典名を全うするみたいな。
そういうふうな発想がある種理想的な生き方として具体化されてるんですよね。
なるほど、そっかそっか。だからモラルとか道徳とかの話、人間社会の話をしてるんじゃなくて、
もっと大きな人間も含めた自然というか、
世の中そういうふうになってますっていうレベルでのあるべきこうあるべしみたいな、
ちょっとレイヤーが違う話してるんだ、この礼とか。
ただ、逆にこの礼っていうのは、いわゆる自然の在り方とか、
万物の動きとかそういうとこまでは別に考えてないんですよ。
そうなると、いわゆる抽象的な哲学というか、万物の根源的になってくるんだけれども、
彼らって別にそこは問題にしないというか、
国をどううまく成り立たせるかとか、収めるかって話だから、
天の働きで人間社会がどうなるかって、そこによくマルコも閉じてるんだよね。
はい、だから具体的すぎるというか、前回もあったけれども、
小説の話でちょっと覚えてるのが、
孔子が主君というか偉い人からアドバイス欲しいみたいな話があったときに、
例えばこのお墓、この人が亡くなっちゃってお墓建てたいんだけれども、
まずそもそもどこに埋めたらいいでしょうかって話と、
それを埋めるときの建てる杭の高さってどれぐらいがいいんでしたっけみたいな、
そういう相談を受けてたの、小説の中で。
でも孔子が言うところの宗の昔の杭の、いわゆる霊とか、
そういう儀礼、儀式みたいなものは全部伝わっちゃってて、
本の中にしか残ってないみたいな時代で、誰も知らないんだよね、それを。
孔子がそういうのをやる儒っていう職種の人たちだったんだけど、
だからどっちかというと結構馬鹿にされるぐらい、
もうあいつら儀礼のことしかわかんないぐらいの立ち位置だったみたいなんだけど、
でもその中で孔子の知識量だったりとかが半端なくて、
それどうしたらいいですかみたいな話から、
あとさっきの外交とかで言うと、あそこの国の人が今度来るから接待したいんだけど、
そそうのないように、ちゃんと礼節を持って儀礼的にやるには、
例えば席の順だったりとかさ、
何をあげるとか何をもらう、何をご飯としてやるとか、
あと立ち位振る舞みたいな、
そういうのもアドバイスとして一緒についていって、
めちゃくちゃいい感じに収めたみたいな話があって、
結構細かいところが決まってたんでね。
そういう話なのかなと思った。
そうだね、そうそう。
だから具体の現実を落とし込むと、
どこのマナーとか知ってるみたいになっちゃう。
行くまでも孔子が従事した礼っていうのはもうちょっと大きい概念だよっていうところから大事なんだよね。
そこから具体に落とす能力があった人っていうことだよね、知識と能力があったってことだね、孔子が。
そうだね、そうだね。
というのがある種の礼っていう概念なんだけど、
もう一つは仁義とかの仁っていう話があって、
それはどっちかっていうと、世の中の規範というよりは、
そういう人の側としてちゃんと人格を磨いていきましょうとか、
それらの徳を積んでいきましょうみたいな、そういうことを仁っていうふうに言ってらっしゃるんですよね。
例えばこれも世間的に言うと、
人の思いやる心を持ちましょうとか、
そこには性杖ありましょうみたいな、
そういうのってある種これもモラルとしてあるとは思うんだけど、
それもあくまでも孔子からすると、ただいい人になりましょうじゃなくって、
そういう徳を積んでいくことで、ある種社会を変革する人格者とか、
異性子になった時にもそれを正しくできるようになる。
天の働きをちゃんと自分として活かして、世の中を治めるっていう、
そういういい人になれ、いい人っていうか、いい異性者になれるよねみたいな、
そういった発想なんだよね。
ただ単純にいい人になりましょうではなくて、
そういう人を目的にして、
まず自己を向上させるというか、
身分けあげることである種世の中のために尽くす、まさに君子だよね。
そういう人になるんだよっていうふうな、
そういう人を育てていくんだぜみたいな、
そういうことをやってるのが孔子の霊とか神っていうところから出てくる儒教っていうふうな考え方なんだよね。
なので、孔子からすると、目指してるものはある種改革というか、
当時からすると、何ていうのかな、
古い宗王朝っていう、500年前とかの理想の制度みたいな感じなんだけれども、
それをある種現代に持ってくることによって、むしろ新しいみたいな。
むしろそれが、現代の戦乱の悩んだ世の中を伝える力になるんだみたいな。
そういったことを孔子が考えてるので、
儒教の始まり
ある種、改革者ではあるんだけれども、
一般としてはすごく何だ、太古主義というか、
昔のものを持ってきてるって感じなんだよね。
あの時は良かったみたいな、周りから見たらそう見えることもあるっていうね。
そうだね。
だから、そういう革新的なものっていうよりは、
まあ確かにそういうことあったよねとか、
なんとなく僕らも知ってるよね、当時の人からしても。
そういう価値観あるよねみたいなことだったりはする。
そういうふうなものが、この孔子の儒教っていうふうな始まりなんだよね。
なるほどなるほど。
っていうのは紀元前6世紀なんですけれども、
その次に出てくるのが孟子っていう人なんですけど、
この人は一応孔子の弟子筋ではあるんだけれども、
時代的には200年くらい後なんですよ。
だいぶ後だね。
だいぶ後、だいぶ後。
だから逆に言うと、そういう孔子の直継みたいなところが続いてるっていう意味では、
儒教って一定の力を持ったんだなと思うんだけれども。
はいはい、ちゃんと弟子が残ってやってたって話だね、先ほど3000人。
孟子の思想
3000人とかから派生するのをやっていくんだけれども、
やっぱり孟子といえば何ですかって言われたら、やっぱり出てくるのは清善説だよね。
ああ、孟子なのか、清善説。
そうそう、清善説。
ちょっと先読みすると、純子、さっき言った3000人の純子は性悪説なんですよ。
ああ、なんかあったね。
これも歴史の教科書とかでやってればいいと思うんだけど。
清善説って言葉では僕らもよく使うじゃないですか、性善説、性悪説みたいな。
これも一応読んで字の通り、人間の性悪、性っていうものが、
本来的には善だみたいな話なんだけれども、
これは結構やっぱり注意が必要で、
やっぱり完全に人間とは善なる存在だとか、
人間とは良きものだってことじゃなくて、
一応、どういうふうに平たく言うと、人っていう存在にはどんな人であれ、
ある種この良いもの、善っていうものを求める、
本みたいな気持ちというか、そういう種が埋まってるよみたいな。
アプリ用に似合うよってね。
確かにアプリ用だね、これはね。
本当そうです。
これも別に申しがすごいロマンチストだったとか、
めちゃめちゃ人の醜いところを知りませんでしたとかってことじゃなくて、
申しが来た時代はちょっと戦乱の時代なんですよ。
そうなの?戦乱の時代、はいはい。
もうちょっと待ってね、申しでいこう、何時代だ?
申しが来たのはね、後押しが来たのは春秋時代って言ったと思うんですけど、
その後に続く戦国時代、よく続けて春秋戦国時代とかって言ったりするんだけど、
戦乱のような後半っていう感じなんだよね。
ああ、そうなんだ。まだシーンできてないんだね。
できてないみたいなシーン。
シーンができたのが紀元前の200年っていう感じなので、それよりも100年くらい前かな、申しが来たのが。
だからどんだけ戦争とか映写してんだよっていう感じではあるんだけど。
ごめんごめん、ちょっとね、その生前説の話でいくと、
やっぱりまだまだ乱れてる世の中に対するアンチテーゼなんですよね。
要は人が殺し合ってるってのは日常なわけですよ。
でもそういう時代においても、やっぱり一人一人に目を向けてみると、
例えば他人の不幸を黙って見てられないとか、見つけたくなるみたいな、
そういう頃って人間にはあるよねと。
なるほど。
そういう気持ちっていうのは人間は持ってないっていうのを、さっきお伝えした孔子の神。
要は人って得を大事にするとか、そういうふうに自分を磨いていけるみたいな。
元々結びつけて発展していく。
なると、もともとある善なるもの、そういう性質、アプリオリのものを、さらに大いに発揮していこうぜみたいな。
そういうことを申し訳、考えていくんですよね。
へー、なるほど。
この善っていうものも、とはいえそれとはすごく分かりづらい。
良いことってじゃあ何?ってなっちゃうんで、
それを分解したっていうのが、これも一応申し上げると結構有名な話なんだけども、
四端説、四つの端緒、きっかけだよね。
っていう説っていう話があって、
その善っていうものを四つに分解して考えるんだよね。
へー、はいはい。
で、これがいわゆるって聞いたことあるかな?
仁義霊智とかっていう、並んだりするんですけど。
うーん、いやー、分かんないね。
こういうのがあって、さっきもこう調べたら、
仁とか霊が入ってるんだけど、そこに義と智っていうのが入ってたんですよね。
で、いわゆるして善が発揮されてる状態なんだけれども、
その仁義霊智のきっかけとか種みたいなものっていうのも、
四つあるよっていうふうに言ってて、
これちょっと面白い面をお伝えしたいんですけど、
例えばさっき言った不幸とか、誰かが苦しんでたらかわいそうだって思う?
これが仁っていうことなんだけれども、申し返すと、
その根っこにあるのが、救いの心っていうのがあるんだというふうに言います。
ほうほうほうほう。
ちょっと漢字難しいんで、よかったら四端節、四つの端所とか端っこの節でよかったら検索していただきたいんですけれども、
これが仁の根っこには救いの心があるよと。
で、あとは、例えば恥じらいではね、
例えば誰かが悪いこととか、不正を働いていて恥ずかしい、こっちもそんな良くないよって思う?
これが、いわゆる義。義憤とか義理忍者の義なんだけど、
その根っこにあるのが、宗をっていう、そういう恥ずかしい行いを憎む心。
宗を?
宗を。
えー、あれか。例えば列に割り込みしてる人を見て、あーって思ったときの感覚みたいな。
これが、そうです。根っこにあるのが宗の根っこで、それを感じたらいいんだよみたいな、そんな感じ。
なるほど。
で、次にあるのが霊なんだけど、これがね、申しで言うと、人に譲るとか、人を手に入れるみたいな気持ち?
これが自情とかって言うんだけど、自情の心っていうのがあって、それは根っこになりますよっていう話とか。
あと最後、知はまさに知識とか、汁に火がついてるやつ?知恵とかの知なんだけど、これはまさに善悪を判断するみたいな感覚で、
これを是非の心、是と非って、ある種イエスかノーに分けるみたいな話だよね。
4つの種があって、これをどんどんどんどん広げていきましょうっていう感じなんだよね。
イメージでいくと、今、植物、根っこって言ったの、タレって言ったんだけれども、
そういう善なるものか、人間の内側から泉とか、コンコンと湧き出ますよね。
それをどんどんどんどん湧き出させて、四方八方に広げて、海にしてくるのは無知不意な。
そういうふうなイメージっていうものを持って、教育とか、そういう修練っておっしゃったみたいなやつだよね。
なるほど、人間にはもともとこれがあるよっていう前提で、物事を教えていくだったりとか、
価値観っていうものを共有じゃないか、育てていきましょうねっていう話なんだね。
そうです、そうです、そう。
外からこういう規則があるとか、ルールでやっていくんだとかじゃなくて、
こういう四つの即位の頃とか、是非の頃があるから、気づいて発展させていけば、
自然とというか、きちんと人っていうのがいい存在になっていくんだみたいな。
そういうプロセスっていうものを大事にしていくのがいいんだよっていうふうに孟子は考えてるんだよね。
へー、これが戦国時代だからこそ、孟子は思ったっていう部分があるって話だね。
教育と人間の善
そうです、そうです。
言うてあるでしょ、これ、みたいな、切実な願いみたいなものも、もしかしたら。
願いじゃないけどね、そういう感覚なのかもしれないね。言うてみんなあるっていう。
そうそう。そこに共感してくれればみんな頑張れるんじゃないかっていうのも当然あったと思うんだよね。
ただね、これだと面白いのが、そういうふうに考えたら結局、悪いことをしてる人、
要は例えば、人殺しは戦争だからしょうがないとしても、
例えば君主ってのを見たときに、私理主欲ですごい物騒を食べてるとかさ、
絶対勝てる見込みのない戦のようにやって、すごい人の命を無駄にしてますとかってあったときに、
あれ?って思うわけだよね。要は人ってそういう4つのところを育てていけば善になるはずなのに、
全然そういう善なる存在じゃないじゃん、この君主はっていうことも評価できちゃうわけですよ。
そうね。
そうすると、要は申しからすると、
要は君主が暴食になっちゃったりとか、暴れ民とか、善悪を判断できないとすると、
それは、もう君主個人の問題というよりは、そこに全体として善なる性質が失われているんだと。
ってことは、この善なる性質を取り戻さればならぬってことになるんだよね。
そうすると、もちろん君主が戒心すればいいんだけど、
それは無理だんだったら、新しいやつ出るしかねえじゃんっていうことにつながっていくのよ。
わー、なるほどね。
というふうにして、要は、当時の巨流派というか、体制側からすると、
ちょっとあいつやべえこと言ってるぞと。
そうだね。
授業とかで、神とか霊とかでさ、ある種規則正しくやっていきましょうかって言ってるのに、
それを発展させたら、気づいたら革命とか解いちゃってるこいつの時代が感じになってて、
だいぶ評判当時は悪かったらしいんだよね。
あー、危ないよね。
何回か前にやったデカルト大陸号理論のさ、
理性うまく使えない奴はダメだ、みたいなさ。
人にあらず、みたいなさ。そこまで行ってないかもしれないけど。
そういう怖さを感じるね。
兄貴が言ってくれたロックの時ではね、
所有権というものがあって、国が守んないようになったら革命で抵抗してもいいみたいなさ。
あー、はいはいはい。
何気なくロックやべえって言ってたと思うんだけど、
それが西洋と1600年くらいなんですよね、ロックが活躍したのが。
なので、申し言はさ、そこから1900年までか。
紀元前作品とかなので。
ロックの時代からさらに1900年くらいに、
こういう空手ダメだったら革命してもOKみたいな。
とか、もっと踏み込んでるのが、
神の方が尊くって、空手っていうのは軽いみたいな。
今からすると、国民主権という意味ではあるし、
日本愛的な感覚なんだけど、
それを今から2300年くらい前に言っちゃってるんだよね。
なるほど、それは結構ラディカルというか。
かなりラディカル。
本来的にはイメージとした天イコール君主ぐらいの気持ちなのかな?
普通の感覚としては。
まあでもそうだね、天からそろそろ与えられたものによって君主というものが成り立ってるから。
代理人というか。
天の働きである霊とか神とか、発揮されていないとするならば、
君主っていうのはダメだよね。
天の石を反映したいよねっていう発想がわかるけど、ちょっと怖いよね。
そうだね、あなたはもう器じゃありませんみたいだね。
君主からしたらこいつの口を塞げってなっちゃうんだよね。
なのでなんとなく生前説って言うと柔らかい優しい雰囲気なんだけれども、
厳しいんだよね、そんぐらい人間に大物であるということが。
できないやつはやっぱり見ない、修練が足りない、復習が足りない、向上心が足りないみたいな、そういう風にもなっちゃう。
なるほど、ちょっと思い出してきた。ロックもあれだよね。もっと早く排除させればよかった、ロック王って思った。
そうそう言ってた、お兄さん言ってた。
というのがこの申しですと。
さっきも言った通り、割と危険しそうされて評判悪かったんだけれども、
ちゃんとその申しに目を向けて再評価したのが実は主旗なんだよね。
そうなんだ。
内なる心の育成
革命云々とかっていうよりは、そういう内なるものをちゃんと育てることで、やっぱり人って良いことになっていけるよねとか、
これってさ、前回言ったような、要はどういう風に自分に向け合うかとか、自分の心を育てるかっていう話でも繋がるじゃない?
なるほど、確かに。
仏教も自分の心を見つめて静かにしていくっていう発想なんだけど、
仏教的に言うと、むしろ見つめて育てていくとか、ちゃんと自分の持っている能力を設計していくって感じになってくるんだよね。
なるほど、空に行かないでね、ちゃんと育てていくところに目が向くんだね。
そうなんです。そういうプロセスっていうものを主旗はやっぱりもう一回取り上げて再評価していくんだよね。
そういう意味で、前回言った趣旨学、主旗と儒教の繋がりっていうと、やっぱり主旗はこういう講師とかもちろんちゃんと勉強して、
そもそも家教でやってるんだけど、いわゆる単なるお勉強じゃなくて、ちゃんと自分の中に生きた学問として捉え直すってことでやっていったんですよって感じなんだよね。
はいはい、お勉強じゃなくてね。
はい。っていうような感じで申し上げたんですけれども、3人目の隼士ですね。
この人はさっき言ったように性悪説なんだけれども、要はアンチ申しなんですよ、この人って。ほぼ同時代の人らしいんだけれども。
申しが同じ時代に、儒教っていう中で性善説性善説って言ってる時に、それはねえだろうって性悪説性悪説って言ったみたいな、そんな単純ではもちろんないんだけれども。
儒教の変わらない教え
そういうふうに、いわゆる対比される人なんだよね。
もちろんさっきの性善説と同じで、この性悪説っていうのも、いわゆる人間は悪だとか、いわゆる原罪的なものがあるんだとかそういうことじゃなくて、
すごい平たく言うと、人って弱い存在だから本望に任せちゃうと、ある程度自己中心的になって、一言考えらんないよねみたいな、そういうふうな感じなんだよね。
そっちの方が大元にあって、お腹が空いたら食べたいしとか、疲れたら寝たいしとかさ、そういう根本にあるのがむしろそっちのちょっと怠けたいみたいな、そういう気持ちなんだよ。
だから孟子は根本には善、さっきのような4つの良いものを目指す心があるって言ったんだけど、善者はいやいや、そういうものっていうのはやっぱり後からちゃんと意識して向き合わなきゃいけなくって、人間は基本的には放っておいたらだらけちゃうんだみたいな、それぐらいのことを言ってるんだよね。
なんか表現の違いみたいな気がするよね。この異議論的な感じだと。ヘイゲル読んでいきたいよね、ここに。お願いします先生、ヘイゲル先生お願いします。
統合してくださいって?これ確かにね。やっぱり難しいよね。じゃあどっちが先かというと結構悩ましくない?いざ統合しようとして。
本当にどっちが先なんでしょうみたいなね。どう統合するっていうね。そもそもこれが矛盾してるかどうかから検討しないといけないからわからない。
ヘイゲルさん呼ばれてもふーんってなっちゃって困っちゃうと思うんだけど。
一理あるじゃん。確かに人間って弱いよねとかさ、行くたりやろうっていう気持ちはもちろんあるかもしれないけど、迷ってるとか困ってるから助けたいって思うけど、
いざ実際に助けるかっていうと、自分に余裕があったらとかさ、自分にある種急いでなかったとか、そういうふうなことも思っちゃったりするわけじゃない?
っていう意味ではそういう弱さもあるって感じなんだけど、他人で考えるとそういうこともあってもしょうがないよねって。
時々やっぱり辛い時ってあるよねって感じなんだけど、やっぱり社会に生きる万人がそうなっちゃうと、やっぱり世の中が乱れますよね。
なのでやっぱりそれは成り立たない。国とかね、社会として成り立たないんで、純粋に言わせると、やっぱり人間っていうのは例。
法書だったら例っていう、そういうふうな規則によって欲望を抑えて、ちゃんと学びながら自分を鍛えて、そういう弱い心とか怠けたくなる心っていうのを、
それだけでいけないよっていうふうな、そういうことになるんだよね。
それだけで言うと、別に制約説っていう言葉で言うと人間は悪だとかっていうよりは、そういうふうなこととして人間を捉えて、ちゃんと生きていきましょうっていう意味で言えると、
全然まあ確かにそれも納得できるかなって感じだと思うんだよね。
そんな感じであるして、申しっていうのは公衆が立てた儒教というのを受けて、人間の善を伸ばしましょうというふうに協力していきましょうという感じだし、
純粋にとっては、いやいや人間とは弱いものだから、そういうものを変える、ある種、強制するというか、先直してやるぞみたいな。
そういうふうなものは教育の在り方だみたいな感じになってくるんだよね。
なのでそういう意味で言うと、純粋なやっぱりそういう発想って、今で言うと法律?もちろん違うんだけど、外の規則とか規範から人を抑え込みましょうとか、
いい行動をするようにやっぱり仕向けましょう、そういうふうなシステムを作りましょうっていう意味ではちょっとやっぱり法律っぽい感覚もあって、
それが儒教っていう、本来、霊とか人というふうな人の心に近いものが、
順子があるしね、法家、図家とか道家の、まず初心者やっぱり違法家っていうのはあるんだけど、
その法家に影響を与えたらこの順子だというふうにも言われてるんだよね。
そうなんだ。はいはいはい。
そういうふうにある種繋がりがあったりしますというところなんだけども、
このふうにして、それこそ法師からいったら今2600年くらいか2500年くらいか、
続いてるような学問であるんだけども、そういうふうな儒教というのはね、脈々とくっつかれていくんだけども、
まずはやっぱり大きな壁にぶつかるんですよ。
そう、何かっていうと発展すぎじゃないっていう問題なんだよね。
へー、そうなんだ。
うん。よく考えるとさすがに、今の孟子とか順子の話も結構発展してるっぽく見えるじゃない?
まあ、そうね。
孔子の話を受けてって感じなんだけれども、儒教の基本的なスタンスとして、
やっぱり過去の成人、異人に学べっていうスタンスなんですよね。
へー、そうなんだ。
さっき孔子の時にも言った通り、孔子が何かを考えました、発明しましたっていうよりは、
やっぱり昔のものを持ってきますっていう感じなんだよね。
あー、そっかそっかそっか。
うん。
なるほど。自分のオリジナルのアイディアっていうよりは、忘れられていた当時、孔子が生きていた、忘れられていた異物みたいな、
そういうものをみんなにただ教えたっていうだけとも言えるよね。
言えるというか、孔子自身がそう言ってるらしくて、論文の中には述べて作らずって言う言葉があるらしいんだけど、
要は自分が昔の成人のことを使ったらいいけど、そこに何も加えてない、つまり作ってないよっていうふうに言ってるんだよね。
あー、じゃあわざとそうやってるんだ。むしろ。
そう、わざと。
兄貴が言った通り、オリジナルじゃないですとかってことじゃなくて、
オリジナルって言うんねんとかってことじゃなくて、もしかすると、
イニシエの完璧だった論理とか仕組み、それは何も加えるものも取るものもないんで、
それをまっすぐ伝えましたよって言ったら、スターさんも。
あー、なるほどね。
オッケーです。それは難しいだろうね。
じゃあ応用してください、はいって言われるとなかなか難しそうな感じがする。
そうなんです。
ある意味それを粛々と受け取るしかない。これがまさにお勉強っていう感じだよね。
それは良いとか悪いとかじゃなくて、そういうふうにしなさい。
思想の限界
だから当初のスター生って革新、開学して社会をより良くしたいんだとか、
もっと世の中を変えて安定した世界にしたいんだっていうものはあるんだけど、
思想自体は古いんだよ、どうしても。想像性も革新性もないし、
時代に合わせると柔軟性もないんだよね。
はいはいはいはい。
あくまでも正しく古典、昔の人の言葉をどう解釈するかとか実践するかだし、
論語、僕らが今一番親しい論語ですら、
孔子の思想じゃなくて語ったことを伝えたらやっぱり孤独なんだよね。
あー、そっかそっか。弟子が残した系のやつだね。
そうそう、かけまとめた。
やっぱり新しい思想を解きましたじゃなくて、
ただ孔子先生が教えてくれましたっていうのはまさに授業のログなんだよね。
そこには真新しさっていうものは正直ないし、
ましてや孔子ではない弟子たちが、
俺は授業をこういう風にアップデートしましたとか、
自分の発想をこういう風に付け加えましたって、
もちろんゼロではないと思うんだよね、歴史的に事実で見たら。
もちろんないと思うんだけど、やっぱり大元だってそういう風なことってやっちゃダメなんだよね。
っていうのが儒教にそもそも内包されているというか。
そうです、そうです。儒教の始まりからそうなんだよね。
はいはいはい。
だからある種、やっぱり支配者からすると都合がいいのよ。
前回その徳川家康がそれを使ったって言ったと思うんですけど、
安定政権を作るときに主治学というか儒教を持ってくると、
儒教は変わらないわけだから、その発想でやり続けなさい。
要は上のものを敬いなさいとか、家族を大事にしなさいとかっていうのをとにかく真実でやれば良いっていうのが、
支配者からするとやっぱりすごい楽なんだよね。
まあそうだね。
そういう意味では、後々やっぱり使われる、そういう角度とかにも、
ちゃんと投与されて良いのが可能になるっていうのはそうなんだけれども、
逆に言うと思想としての生き生きとした感じとか、時代に合わせて発展していくっていうのはどうしてもないんだよね。
なるほどなるほど。
前回もお伝えした通り、時代は変わっていくけどやっぱり儒教は変わらないとか、
人の悩みは変わるけど答えてくれない?
そういった欠点がどうしても出てきちゃうんだよね。
面白いね、なるほどなるほど。
かたや仏教はものすごい発展をしていくわけじゃない?
そう。こういう時どうすればいいですか?ああいう時どうすればいいですか?みたいなのが、
ちゃんとアップデートされてるというか。
いろんな議論が積み重ねられて、それはすごい構造だとか思想だとかが乗り越えられて、
そんな発想があったんだとか、どんどんどんどん変わっていくと、
やっぱり当時の知識人というか、宗教とか哲学の思想的な深みを求めた人からすると、
儒教はどうしても物足りない。
その空白を埋めるのが仏教とか道教。
いわゆる老子とか宗子が建てたような、
やっぱりそういう世界とは、
太吾であるみたいな、道であるみたいな、道とはこういうものだみたいなところの方が、
やっぱり満足感が高いんだよね。
わかる気がするね。
そうそうそう。やっぱり多くの人々もこれを使いますよという話なんだけども、
逆にこの辺りが、やっぱり宗教というものを、
ソウルデッドラジオとしてもこれまで哲学とか思想として扱いにくった部分なんだよね。
なるほど。
こういうことを論語で書いてました。で、こういうふうに解釈ができますとか言えるんだけれども、
やっぱりそれがどんな人間感とか世界観につながってますかっていうところは、
正直言いにくい。もちろん調べたらあるのかもしれないんだけれども。
僕ももちろん論語のこととか勉強したりしたこともあるんだけど、
思想としてすごい魅力的だとかっていう感じはやっぱりちょっとないんだよね。
でもやっぱりその宗教の限界というか、
やっぱり形式的なものになってしまった、もともとの要因的な感じなんですよ。
というふうなところなんですよね。
何なんだろうな、その解釈の余地がありすぎるっていう言い方ができるのか。
それがある。
というのもやっぱりファイブとであったと思うんですけど、
地獄って漢字文化なので、
その漢字の意味がどう取れるかによって真逆のことを言ってるんじゃないかとか、
あと漢文なので、
儒教の教えの再考
どこで点を打つかによっても、言葉ではどういう単語か熟語とかって変わったりするんですよね。
そういう意味ではあっての違いがあるし、
やっぱりそういうことをやってるのが主旗なんだけれども、
それまではある種でこう読むんだってガチッと決まってて、
それ通りにやっぱりやるっていうことが正しい。
それ以外やっぱり認めないって漢字だったみたいだね。
ある種自在自在に合わせて柔軟に解釈をするっていうことをしたけど、やっぱり機能をしてなかった。
っていうのが、主旗以前、趣旨学以前の儒教っていう漢字なんだよね。
逆に言うと、1100年っていう、孔子からしたら1600年後か。
遥かな年月が経ってやっと、主旗っていう人が儒教っていうものをある種ちゃんとアップデートして、
時代に合わせて、まさに柔軟性のないものをなんとか柔軟に仕事として、
こうやって直したみたいな、そういう偽みなんだよね。
そこにやっぱり儒教っていうのは使えるんじゃないかっていうところに、主旗ある人が書けるわけなんだよね。
あー、なるほど。そっかそっか、もう最初から全部見えたとかではなくてね。
掘ってみたら、めっちゃ掘れたみたいな感じなんだね。
そうそうそう。
それを掘って掘って掘り続けて、やったりついたものが趣旨学って言うとやっぱり体系で、
これは本当にある種、さっき言ったまま倫理とかさ、人間の心とか持つそうなんだけれども、
この宇宙、世の中はどうなっているかとか、そういうところも含めて、
この儒教的な発想、モチーフにスタッチにしていきましたっていう感じなんだよね。
あー、どうなるんだろう。楽しみだー、趣旨学。
良かったね。なので、趣旨学っていうね、ある種なじみのないものとか、名前だけっていうものをね、
ちょっと今回と前回で膨らませていただいたんですけれども、近いからね。
いよいよこの趣旨学って何?というところで、根本的な概念として、
理と気っていう、理って理科の理とかことわりね。
あと気は、気体とか気温とかの気。
っていうこの2つのまさに文字というか、概念がかなり根本にあるらしいんですよ。
なので、この根本概念の理と気っていうものを扱いながら、
趣旨学って何ぞやとか、趣旨学ってどういうことをやったのっていうのを、
次回からちゃんと見ていこうと思ってますという感じですね。
根本概念の理解
なるほど。わかりました。
こうなってくるとね、またどこかで儒教の中身をじっくり聞いてみたいなと思うし、
あとはね、この趣旨学がすごそうっていうところの興味とかも少なっているので、
その辺聞いていきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。