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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
陽明学の概念
はい、今回は王陽明2回目ということで、陽明学の中身に入っていくというところでした。
はい。前回はですね、結構王陽明さんのどんな時代に生きてとか、朱子学から300年ぐらいかな、経って、
朱子学が形外化している中で、王陽明さんがそれをもう一回批判しながら乗り越えましたよ、というような話をしたかなと思うんですよね。
その左遷された先の隆乗かな、というところで、仏教じゃないから悟ったとはないんですけれども、
まるで自分の学問はこれだというのを自覚して、それで王陽明さんの陽明学みたいなものができていくというような話だったんですよね。
はいはいはい。
その時に、いわゆるキーワードがいくつかあるんですけれども、そのキーワードに沿って今回伝えていこうと思ってるんですけど、
その中で、心即理っていう、心すなわち理であるみたいなものとか、
あと、知行合一、知るのと行うのは合わせて一つだとか、
あと、知了知っていうのが、知っていうのが、いたす、いたしかねますとか、お願いいたしますみたいな時に使う漢字があると思うんですけど、
その、いたすと、了知っていうのが良い、知る、ちょっと知識とかって言っちゃうとちょっとずれちゃうから、
良いと知るで了知っていうことがあって、
で、この心即理、知行合一、知了知っていうこの3つが結構大きいキーワードって言われるんですよね。
うんうんうん。
心即理の理解
うん。で、そのちょっと順番で話していくよっていう中で、今日はその心即理、いわゆる心がね、
というものをちょっとお扱っていきたいんですけれども、
これまで非常に厄介な言葉でして、
心ってさ、僕らも普段使うじゃない?
うん。
ね、心が痛いとかさ、心がこもったとかって、もちろんいろいろ使うと思うんだけど、
やっぱりそのこの大陽明さんが言ってる心即理の時の心って、ちょっと意味合いがね、結構違うんですよ。
おー、なるほどね、はいはい。
なので、ちょっとね、今回は心、心即理について話すんですけど、
やっぱりその、僕らはまだその心を知らないという感じで、ぜひ聞いていただきたいと思っておりますと。
うん、わかりました。まだ理も知らないしねっていうね、それでいうとね。
理はまあね、ちょっとやったけれどもね、その両方をちょっともう一回話していくんですけど、
まあ、いわゆるすごい本編のところからいくと、その中国の思想における心とか心みたいなもので、
なんていうのかな、そのいわゆるこう人間の中にある知るとか、あと感情とか意志とか、そういうまあ全部を含む、
それ内面にあるもの全部を含み合わせるみたいな概念なんだよね。
うーん、ほうほうほうほう。
うん、で、その心がやっぱりこういわゆる天とつながってて、その天の理ってものを心で知るみたいな。
へー、ほうほうほう。
うん、そういうふうな概念があって、
前回その朱子学の時にも、その心っていうのは、いわゆる理と気が混ざって働くところだみたいな話をしたと思うんですけど、
なんとなく覚えてるかな。
うん、あったよね。
あったあった、そう。
で、ある種、心ってのは基本的にはその、なんだ、性即理だよね、朱子学では。
うーん。
で、その心、人間の本性っていうものは基本的にはもう理そのものなんだけど、
気っていうものがね、良い気があるとそれはちゃんと承知されるんだけど、悪い気があると淀んじゃうみたいな話をしたと思うんですけど、
そういう淀むとか清らかになるとか、そういうのが働くのが朱子学における心っていう場というか、概念だったっていうのは話をしたと思うんですよね。
感情と理の関係
はいはい、人間のね、性質みたいな話かな。
そうそうそう。
元からもあるね。
元からある、そうそうそうなんですよ。
なので、実は朱子学の時はそこまであんまちゃんと言わなかったんですけど、いわゆるこう、これはまだ朱子学の立場ね。
でいくと、心っていわゆる性即理の性っていう部分と、情っていわゆる感情的なもの、一度は哀楽とかさ、そういうものがまるでパセッパやというか分けられるっていうふうな考え方なんだよね。
へー、あ、そうなんだ。
うん。どういうことかっていうと、その性即理っていう、情はどこにいたのっていう話なんだけれども、
前回なかったよね、情ってね、朱子学の時に。
そう、ちゃんと話してなかった。
性が人間の本性だって話だけしたんだけど、これちょっと分かりにくいかなと思って外しちゃったんだけど、どういうことかっていうと、要は、
いわゆる喜怒哀楽とかってさ、いわゆる毒とか、人間を堕落させる方へもやっぱり繋がっていっちゃうじゃない?
うんうんうん。
うん、ね。もっと欲しいとかさ、ちょっとこれ仏教っぽいかもしんないけど、何か執着するとかさ。
そうなった時に、やっぱりある種それを捨て去ってというか、そっちじゃない本当のいわゆる人間らしさとか人間としての本質、そっちが性なんだけど、
それっていうものをちゃんと働かせることで、理と直結できるよっていうふうな考え方が朱子学なんだよね。
うんうんうん。
逆に言うと朱子学として、いわゆる聖人になるとか、理を追求するっていうのは、
心っていうものを性と情に分けたとすると、その情の方をある種なくして、性の方を磨いていきましょうみたいな。
そういうふうな発想が朱子学のある種、朱子学の性創りなんだよね。
っていうことは、朱子学においての情っていうのは、ちょっとネガティブな意味で用いられてる感じなの?
あ、そうですそうです。
あ、そうなんだ。
ただ、やっぱそうなんだけれども、当然、本当に感情っていらないの?とかさ、そんな切り捨てることができるの?って思うわけじゃない?
あんま深くは立ち入らないけれども、朱子学でいう情っていうのは、喜怒哀楽みたいなのの、悪い方に出た方だけじゃなくて、別にいい方も含めて情なの?
そうだね。
例えば、すごい嬉しいとか喜びだみたいなことがあったもん、それって結局、嬉しいことがあったらやっぱりそこに執着したりとか、もう一回それが起きて欲しいとかっていうふうに、どんどん欲望にもつながっていくじゃない?
なので、基本的に情っていうものは、やっぱり理というか、人間の本性とは変わらないもの?それとは違うもの?っていうふうな発想なんだよね。
ああ、そうなんだ。じゃあ、それがどう働こうと、基本的にはネガティブな方に行きかけないよね?っていう意味でネガティブに使われてるんだ、この情っていうのはね。
そうそうそう。そうなんです。
結構この本はややこしくて、もちろん気代楽だけじゃなくて、主人公の時にもお伝えしたような、いわゆる子供が色に落ちるときに助けたいと思う、みたいな。これ、『スクイーンの女王』かな?
それも情なんだよね。だからそういう、やっぱり人間の根っこにある性善説っていう時の善だよね。善なる気持ちっていうもの具体は、もちろん主旗も否定しないし、主役でも大事にはしているんだけれども、
やっぱりそれに頼るんじゃなくて、ちゃんと勉強とかそういうものを通じて理想の政治になっていきましょう。そのためには、やっぱり情よりも性ですよっていうふうな、そういうふうな理解が朱子学にはあるんだよね。
わー、なるほどなるほど。ちょっと見えてきた気がするし、今話を聞いてパッと頭に浮かんでしまったんだけど、なんか前、ストアヘツナっていかなかったっけ、ストアハネ?こんな感じじゃなかったっけ?すごいストイックな感じ。感情を捨てて、異性で生きようみたいな、こんな感じじゃなかったっけ?近くない?
ちょっと似てるかも。ストアハネ、まさにストイックっていう言葉の語源になりましたよっていうふうな考え方だけれども、あれは感情を捨てましょうというよりは、自分にコントロールできるものとコントロールできないものを分けましょうなんだよね。
例えば、親しい人が亡くなって悲しいとした時に、でもこの親しい人が亡くなって悲しいということは変えられないけど、その悲しみを自分で抑えることはできるよねとか、それに深く沈まずに立ち直ることはできるよねとか、そういうふうな感覚なんだよね。
情を捨てようっていうよりは、あるいは自分でコントロールしようっていうほうがストアハネは正しいかな?
なるほどだけど、今回の嫁役からずれるけどさ、ストア派やった時にさ、子供を助けられなくて死んじゃった時とかに、おかじとかにさ、それどんぐらい嘆くかみたいなときにも、そこも全然心が一致し乱れぬみたいなさ。
それがある意味、ストア派の到達点じゃないけれども、あるべき姿みたいなときに、「いや、さすがにそれは無理!」みたいな感覚があったよね。だから、その辺りに実は徹底してるみたいなのがあったよね。
あったあった。当時言ったのは、いわゆる家事の家で子供が乗り残されているときに、ストア派の人はもちろん助けに行きますと。全力を少し助けに行くんだけど、それで助けられなかった。
不幸にもらわれてしまったときに、それはもうしょうがないとして割り切る。やることはやったんだって言って、なしまないっていうのが、ストア派の理想だよね。
そこがやっぱり、冷徹さみたいなものを感じて、ゾワッとしたっていうのを、今思い出したのが。
でも確かに、それがすごく面白いと思ったのが、主治学の成人、それこそ孔子とか孔子より前の時代の偉人みたいな人になろうってことを目指してるわけだけど、
ストア派もいわゆる賢人だよね。そういう自作的な発想で、やっぱりちゃんと自分を立するとか、そういうところを目指しているから、確かに目指しているものがちょっと近いのかもしれないね。
その構造としてね。
構造として。
今の女王の話、主治学における女王の話、少し思い出してしまう。雰囲気を、このゾワッとした。
確かにね。でも面白いね。自分の中ではなかったけど、構造は確かに似てるなと思うし、逆に言うと、例えばその時にもエピクロスみたいな、むしろ快楽主義というかさ、
別に、もちろんね、快楽に引き受けるわけじゃないけれども、むしろそういうのを大事にしましょうという人もいたっていう話をしたじゃない?
なんかいたね。エピクロスの庭だったかなんだっけな。
庭あるかな、確かに。
人集めて、なんかあれでもね。
そうそうそう。
ヒッピーじゃないけどさ。
コミュニティ作ってたみたいな。
そうそうそう。
すごい。キーワードやっぱ覚えてるもんだから面白いね。
なんとなくね、覚えちゃいたね。
それと近いわけではないんだけれども、さっき言った通り、要はそういう感情をちょっとある程度捨てましょうというかね、切り離しましょうって言った時に、本当にそれでいいの?みたいなことを思う人がいるわけですよ。
うんうんうん。
まさに、大陽明さんっていうところは、本当にそれでいいんだってっていうところに疑問を持った人なんだよね。
あー、なるほど。じゃあエピクロス側の人なんだね。
ごめん、ちょっとね、そこはあんまりつなげてるってよくないんだけど。
そこ退治させると、もうずれていくと思うんだけど。
ちょっとね、ぐちゃぐちゃになっちゃう。
心の切り分けと陽明学の視点
すみません、ちょっと思い出しちゃったからね、今ストア派の話をしたんだけれども。
もしね、良かったら、過去にストア派。ストア派だよね、多分テーマとしてね。
ストア派でやりましたね、うんうん。
そう聞くと面白いかもしれないです。
はい、良かったらね、そっちもというところなんですけれども。
ちょっとここまで主役の話をしてしまったんだけれども、大陽明さんに戻るとですね、
要は、なんていうのかな、まずそもそもそういうふうに心っていうものを切って、
その性と情に分けて、切り分けて否定するっていうことって、本当にそんな簡単にできるんだっけっていう話もあるし、
さっき言った通り、いわゆる子供を助けたいとか、愛情を持って一緒に接したいみたいなものって、
それ自体がいわゆる人間の本性だし、やっぱりその本質につながるものではないっていうふうな発想もあるんだよね。
で、なんでそんなふうに主役って分けちゃったんだっけっていうと、
やっぱりここに、すべやくんの問題だってずっと言ってるんですけれども、
やっぱり主役って政治になるっていうものをある種理想として置いたことで、本当に未来へ努力し続けるんだけど、どこまで行ってもなりきれないみたいな話をしてるじゃないですか。
主役ね、そうだね。
そうそう。それが問題だったし、前回もお伝えしましたけど、地形をね、大陽明さんが竹の本質を知るぜって言って、
7日間自分のことばっかり考えて、なんか気が狂っちゃいましたみたいな話をしたと思うんだけど、
やっぱりそういう感情とかも否定しようと思ってやろうとしてもやっぱりやり尽くせるものじゃないわけだよね。
はいはいはいはい。
っていう時に、やっぱりこの分けて性だけを求めるって、論理的には正しいかもしれないけれども、本当にそんなことできんのかいって思っちゃうわけですよ。
あー、なるほど、そうか。同じなんだ。政治になれないのと同じように、情を捨てろみたいな、コントロール性を完全にって言われたとして、いや無理だしっていうね。
そうそうそう。
っていうところもあるし、かつそのね、ある種、主主役だったらね、竹みたいな外のものに理を求めて、それを知れば自分も知れるっていう話だと思うんだけれども、
やっぱりそれが無理だってなって、大陽明さん前回もちょっと言ったと思うんですけど、自分の内側にむしろその理があるよね。
それが真則理だって話をしたと思うんですけれども、その内側っていうのがいわゆるここで言う心なんだよね。
そういった時に、その心っていうのは当然性みたいな本性、本性系なものもあれば、情みたいなそういうちょっと暴れまわりのものもあります。
でもそれも含めて、自分の中にあるものっていうものを全部使って理に至るっていう方が、むしろ人間が政治になるっていう上では、ある種ちゃんとたどり着けるような道なんじゃないか。
そういうふうに自分というものを切り分けてるんじゃなくて、自分の全体っていうものを持って、その天命というか理に近づくっていう方が実現可能性が高いんじゃないかっていうようなことを考えるんだよね。
成人とその本質
それは何でかっていうと、今ちょっとここがすごく実は難しいし大事なとこなんだけれども、本陽明さんにとって成人へのなり方って、いわゆる努力を通じていつか実現するっていうものじゃなくて、
今この瞬間の我々の心というものが、むしろ成人の心であるみたいな、そういう今ここみたいな感じの人なんですよ。
前回チラッと話した大乗仏教観がすごいね。
ああ、そうね。禅語と遁語っていうのは、悟るにも爪上げていて悟るっていう話と、今この瞬間に法と悟るっていうのがあるよって話だと思うんだけど。
へー、そうなんだ。それは忘れてた。
それはね、たぶん大乗仏教観の時にしてるんですけど。それにたぶんちょっと近い発想としては。
僕は覚えてるので言うと、人間誰にも、いわゆる仏性がありますよみたいな。それさえあれば悟りの道は通じてますよみたいなさ。
あなたの中にも成人の種はもちろんあるんですよみたいなさ。そんな感じがちょっとした。
そうそうそう。仏教的な言葉で言うと、一切衆生失う仏性っていう言葉があって、あらゆるものは仏性を持ってますよっていう話なんだけど。
それはある種わかりやすく、実は陽明さんもそれと近いようなことをおっしゃってて、どういうことかっていうと。
成人としての在り方って、いわゆる純金、混じり気のない金みたいなものだと。
ただやっぱり普通の人はそこに鉄でもいいし、別に鈴でもいいんだけど、それやっぱり別のものが混ざっちゃってて、不純な金になってると。
なので成人なるっていうのは、何かそれに付け加えていくんじゃなくて、不純物をそぎ落としていって、純金を作るっていうふうな、そういうふうな例え話なんだよっていうふうに言うんだよね。
これ面白いのが、金がゼロな人っていないわけよ。
いなくて、誰にしても金を持ってるんだけれども、その金が、例えば1個の金を持ってる人もいれば、もしくは1gの人もいるかもしれない。
そういう意味で、自分が例えば孔子みたいなものすごい成人になれるかっていうと、孔子は金を1個持ってるとしましょうと。
自分も1個持ってるかどうかはわからんけど、仮に1gだとしても、その純金を純度100%の交りきなしの金にできたとするならば、それは孔子と同じ成人になったと言ってもよかろうっていうふうな、そういうふうな話で自分の考えてる成人っていうところを伝えていくんだよね。
ああ、なるほど。それはわかりやすいね。
そう。なので、さっきも言った通り、いわゆる純金を拾い集めて増やすっていうことじゃなくて、今この瞬間にも、鉄とか鋭とか混ざったものを落とそうと思えば落とせるんだけど、それがみんな、例えばそういうもっと、いわゆる趣旨学にさまった人だと、ずっと訓練しなきゃとか、もっと知識を集めなきゃとか、
そういうふうにどんどん外に外に求めちゃって、地球の異なりを知らないでとかっていうふうにやっちゃって、自分の中にある純金に気づきませんよねと。
なるほど。
しかもその純金っていうのは、いわゆる性っていう本質的な部分だけじゃなくて、そういう善悪っていうのを見極める心とか、人が苦しいという時にそれに寄り添う共感性とか、そういう感情も含めて全部純金なんだと。
はいはいはいはい。
やっぱりその自分の持っている純金に気づいて、それをちゃんと自力のないものにしなさいっていうのが、ある種真創り、その真ってイコールという話でどこのこの純金を持っているっていう話なんだよね。
心の複合性と批判
これはすごいわかりやすいね、なるほどな。
そうそうそう。だから学説って、いわゆる弟子の問答だからそういう話が出てくるんだけれども、そういう意味で自分の中にある持っているものっていうものを否定しない、そういうふうな方向性として、
その朱子学は、心っていうものを性と情に分けて性だけを取ったんだけど、私応用名は真っていう、これ全部をちゃんと理として捉えますよっていうふうな、そういうちょっとアンチテーゼ的なというか、俺らは朱子学とは違うぜっていうことを主張したんだよね。
わー、これは面白いね、なるほどなるほど。さっきのハイトの例えで言うと、朱子学の方は、みんな頑張ってその理の方、世の中の理を知って、みんな純金を1トンまで集めましょうみたいなさ。
そうね、そうそう。
それが成人で、いや1トンも無理だよね、普通に考えていれば、普通にというかどんどん頑張ってもっていうふうになっちゃうけれども、この応用名の方はまたアプローチが全然違うってことなんだね。
そうだね、そう。
金の量じゃなくて金の割合に着目したっていうルール変えてるね、これもね。
そうね、質だね。なので、まさに言ってくれた通りで、やっぱり成人になるって時に、その成人とは何かとか、自分が成人になった時にどうなるのか、そういうことを転換させてあげるんだよね。
やっぱり弟子とかでもいるわけよ、自分はその孝子みたいにはなれませんとか、成人になったらやっぱり無理ですっていう人もいる、そういう人は質問をするんだけど、
そこに対して、別に俺も孝子にはなれないよ、みたいなことを応用名さんは言うじゃんね、別に。
もうチャレンジしてるからね、既にね。
そうそうそう。で、無理だったってことは分かってるから、その時系の話でね。
まさにね、言ってくれた通り、その割合とか質、分岐率とかっていうことは全然できるし、むしろそれはみんなが持ってることだから、そう。
なんかそれで全然努力というか、そういうふうに捉えたらできるんだぜ。
それっていうのは、いわゆる外にやっぱり求めにいくとか、未来にその成人になるっていう目標を置くんじゃなくて、
今この瞬間、これ面白いのが、現実存在っていう幼児受講があったときに、
この真ん中の数を取って実存ってすると、西洋の実存主義になるんだけど、応用名さんの文脈で言うと、これを現在っていうふうに言うらしくて、
実存を?
実存を、うん。つまり、現にある、現、今この瞬間にあるもう年の心、これっていうものを大事にするんだっていう意味で、
その現在っていう言葉を使って、この大切さっていうのを表現するんだよね。
これちょっと和訳の問題なのか、実際中国語というか、原本でもそういうふうに言ってたから、ちょっとごめん、そこまで分かってないんだけど。
その現在っていう言葉で言うことが多いですというところなので、やっぱりその辺りが史学と全然違う。
一文字違うだけじゃんって思えるんだけど、やっぱりアニケーターってやっぱり成人の捉え方とか、なり方とか、
やっぱりその、いわゆる積み上げていって未来に成人になるんじゃなくて、今この瞬間からむしろ成人となれるというか、そういうものを持ってるんだっていう話。
そういう意味で結構大転換させてるんだよね。
へー、すごいね、はいはい。
はい。っていうところなんだけども、当然こういうことを言うとさ、いろんな批判を史学側からも受けるわけよ。
まあありそうね。
例えばよくあるのがさ、やっぱり女王を勧めましたよね、あなた。
ここの神って言って、我々は聖って言ってるけどあなたは神って言いましたねと。
じゃあ女王までも理に含まれるとすると、やっぱり人ってね、そういう作家っていうのはさ、喜んだとしても執着するとかさ、欲望があるとかさ、
あるいは勝手に怒るとか、別に人のためっていうよりは、自分があるしイライラするから怒るとかさ、そういう人もいるわけじゃない?
っていう時に、本当にそれでもいいのかみたいな、そういうふうな反論があるわけだよね。
うん、そうね。それこそ不純物じゃないかみたいな。
そうそうそうそう。そうやってやっぱり理と遠くない?みたいな。そんな理って執着もあるものなんだってみたいな話なんだけど。
たぶんもちろんこれは、ある程度ちょっと表層的というか、割と言葉尻を捉えた反論なわけなんだよね。
まあそうね。
陽明学と人間の本性
で、ある種お嫁さんもそういう誤解が生まれるのはわかっていたというか、やっぱりそういうふうに捉えるよねっていうのもあったわけで、
ちゃんと説明してるんだけど、やっぱりちゃんと別に情報も大事なんだけど、別に好き勝手、感情のままに動いてもよいとか、
自分がこうしたいからこうするっていうのも理だとかっていうふうに言ってるわけじゃないんですよと。
で、どこだかっていうと、やっぱりお嫁さんにとってもポンポン的に大事なのは、これをイコール性上なんだけど、
性善説なので、人間の本性は本来善である、大善って言われるんですよ。
さっきの金の例えだとわかりやすいよね、それが。
そうそうそうそう。金100%あるよね、それがイコール善みたいなものなんだけど。
だったりとか、とりあえず誰でもそれは持ってるよね、1グラムでも。
そうそうそうそう。うん、そうですそうです。
それから人間っていうのはそういうふうに、ある種もう天から作られているから。
初心者の時にもう人間ってその気がいいというかさ、いろんな生き物の中でもそういうのが高い存在だっていう話をしたと思うんだけれども、
そういうふうな人間観っていうのはやっぱり共通はしてるんだよね。
はいはいはいはい。
なので、僕の情っていうものも、そういう怒りとか勝手に気ままにやるとかっていうことじゃなくて、
ちゃんと世の中にそういう善を打ち出していこうとか、何かそういう人の辛さとか大変さに触れた時に、
やっぱり良くしてあげようっていうふうな、それが善なる情なんだよね。
なので、それを普通に発揮すれば、それは当然利にもかなうし、良い成人にも近づくでしょうと。
逆にそれを悪いように取ってしまうとか、悪いように発揮してしまうとしたら、
それは心が悪いんじゃなくて、それをまとわれついている気の悪さなのか、
さっき言ったところで言うと、その鈴とか鉄が入っちゃってる。
やっぱそっちが悪いんだと。
後付けの悪さがあるから、それは別に心そのものが悪いんじゃないんだよっていうわけで考えるんだよね。
成人への道
うんうん。確かにそれも話としてはわかるよね。
そうそうそう。
なので、ある種主役からの情を本当に入れていいのかっていう反論に対しては、そういうふうにまた再度反論します。
で、結構この相入れない部分というのは、そんなことは言ってもされたことはお互いにはあるんだけれども、
逆にそういうふうにちゃんと自分の説を伝えていくことで、自分たちは主役とは違うとか、
そういうことはやっぱり乗り越えている形で、成人といえば目指していくんだみたいな。
そういうふうな話になっていくわけなんだよね。
なるほどね。はいはいはい。
で、そういう意味でいくと、当然論としてはそういうふうに違うんだけれども、
やっぱり現実世界を見ていくと、そういうふうな大嫁さんの考え方ってどんどん広がっていくんですよ。
前回もね、大嫁さんが亡くなったときにちょっと主要に背いちゃったから、死んだ後ね、名誉がちょっと穢れたみたいな話だったと思うんだけれども、
で、やっぱり弟子たちは先生を慕ってめちゃめちゃ不況をしていくわけですよね。
はいはいはい。
そういうときに、なんでそんだけ弟子がいたかっていうと、すごい不満に応えていたというか、
現実の生きていくことを考えたときに、やっぱり成人を目指すけど絶対になれないみたいなところって、
やっぱりしんどいわけなんだよね、学んでいる人からすると。
ああ、そうだろうね。
うん。っていうときに、やっぱり遠くにあるよくわかんない理みたいなものじゃなくて、
今自分の心の判断、要は今自分が例えばすごいそういう善なる心を発揮したとなれば、自分は成人に近づいていると、もう成人かもしれないって思えるし、
逆に今すごい自分の欲求だけで動いちゃったとかってなると、今成人が遠ざかったみたいな、そういうことも自分で判断できるわけだよね。
っていうふうに、基準は外じゃなくて中にしたことで、ちゃんとそれについて反省ができるとか、それについて議論ができる。
はいはいはい。
前回主役ってやっぱり基準がないから、じゃあ俺成人になりましたって言っても誰もそれをある種評価してくれないというか、判定違いって話をしたと思うんですけど、
弱みわけでやっぱりそれができるんだよね。
ああ、なるほど。
やっぱりそれを使って、じゃあちゃんと成人になっていこうとか、あるいは今この瞬間自分は成人になるってことを自覚したときに、それをちゃんと他の人にも言える。
お互いにちゃんとやりとりができる。そういうふうな世界観というかコミュニケーションが生まれていくわけなんだよね。
はいはいはい、なるほど。だから、この部分だよね、いわゆる実生活だったりとか社会生活、ビジネスというか仕事の場で、
必要なニーズみたいなものを埋める思想というか埋める学問みたいなものが、
なかったし、朱子学科とそれはずれてたし、仏教とかだと、いわゆる実生活方向、本当に結果を出しますみたいな、
ちゃんと完了としてバリバリスキル発揮していきますとか、戦でめっちゃ武功立てますみたいな、
のが仏教とは多分ちょっと違いそうだから、本当にちょうど空いてる場所だったんだろうねっていうのを思うね。
今でいわゆるブルーオーシャンみたいな話だと思うんですけど、やっぱりまさに仏教は出家しなきゃいけないし、
それこそ欲望とかも全部廃りましょうって話じゃないですか。そうなると、いわゆる朱子学って元々官僚になる人が学ぶっていうと、
やっぱり政治家とか、大嫁さんも戦争を言って平定したとかあるけど、やっぱりそういう武人というか、そういう文人か、
とかっていう人でも、やっぱり自分の寄って立つ思想は欲しいわけだよね。
っていう時にまさに大嫁言った通りで、ちょうど自分の生活を送りながらでも成人に近づける、自分の勝ちたいとか偉くなりたいとか、そういう欲求もあるかもしれないけれども、
それも全て別に利とつながってるんだよ。それも大事にしていいんだよっていうふうな発想は、すごい助かるって思った人が多かったなと思うんだよね。
陽明学の実生活への適用
いやー、だろうね。だってさ、今ビジネスをそれだとしたときに、全員が松下幸之助レベルにならないと評価されない世界になったときに、無理じゃん。
無理だね。
なんだろう、ビジネス的に周りから認められるのがそこしかないという時に、基本無理と。
まあそうだね。
じゃあ、とりあえずある程度企業というか、会社なり事業なり作って一通り回してればOKですよと。
もちろん松下幸之助は及ばないかもしれないけれども、ちゃんと持ち場で、社会の必要なところでちゃんと成果を出してますっていう意味ではそれでOKですって言われるのと、
全然違うもんね。
違うね。松下幸之助って経営の神様って言われてる方でしょ?
うんうん。
お前のサビになれって言われたら、それはさすがにちょっと無理っすってなるよね。
同じレベルに至らないと、お前の存在価値はないみたいなさ。何にも至ってないんだって言われたときに。
いや、無理だな。
もう鼻から竹見るまでもなく、もうやーめたってなるよね。
もう自分なんかみじんこですってなっちゃうじゃん、そんな。
そうそうそう。
でも実際そうだと思うから、こうしてもそうだし、行春雨みたいなさ、そういういわゆる古代の聖人という人がいるわけ。今偉人だよね。
中国にはいるわけなんだけど、まさに神様レベルなわけよ。
はいはいはいはい。
やっぱりそこに至ろうと思うと、やっぱり大嫁さんみたいに無理だって諦めちゃうわけだよね。
やっぱり諦めたからこそ、自分にも踊れる聖人の道というか。
そういうところを作ったっていう話はすごく救いになってるし。
やっぱりそれによって、自分もこれでいいんだみたいな。
やっぱりちゃんと肯定してくれる。だから今で言うあれじゃない?今で言うかちょっと前のゆるキャラみたいな感じじゃないかな。
どういうこと?
今、いろんなキャラクターがいると思うんですけど、肯定ペンギンとかさ、あと花丸おばけって知ってる?
おばけ?
はい。花丸おばけって三流のキャラクターで、最近出て、奥さんとか娘が好きで、僕も最近見てるんですけど。
要はあなたが頑張ってるっていうことを肯定してくれるわけなんだよね。肯定ペンギンとかもそうなんだけど。
その肯定ね。はいはい。
肯定ペンギンはあなた、そうそう。で、花丸おばけは花丸をあげるって言って、あなたの頑張りで花丸をあげるっていうキャラクターなんだけど。
そういう場合にやっぱり自分を肯定してほしいとかさ、別に全然すごいことやってたりとか、世の中的に評価されてるわけじゃないけれども、やっぱり自分の思ってることやってることを認めてほしいって欲求ってあるじゃない?人間って。
はいはいはい。
そう。でもそういうところに沿ったのかもなって、今兄貴の話を聞いて思ったね。
でも確かにそうだよね。さっきのさ、竹を1週間見るみたいなさ、大洋の友達は3日間で挫折したけども、それを矯正してくれるようなキャラというかさ。
うん。
いやついたらちょっと怖すぎるもんね、確かに。
なるほどね。三里洋から竹三つ目のキャラが出てきたってことね。
うーん、そうはね。そういう意味でもゆるキャラだったらすごい良かったと思うから。
そうだね。
で、かつ、ちゃんとどうでもいいとか、誰でもなれるとかどうでもいいってわけじゃなくて、ちゃんとこうなりたいんだけどその自信がないみたいな。
うん。
頑張りたい人に向けての。ちょうどいい立ち位置だったんだろうね、その陽明学っていうのはね。
そうだね、そういうのもあると思う。で、ただね、これ次回にも続く話なんですけれども、やっぱり当然陽明学がゆるいとか楽だったっていうわけではないんですよね。
あー、違うんだね。はなまるわけではないんだね、陽明学。
違うんだね。はなまるわけではない。自分で言っちゃダメなんだけど。もちろん陽明学、朱子学に比べれば、いつか成人の、いつかというかちゃんと成人になれるとか、ある種現在っていう時間をちゃんと大事にするっていうところでいくと、もうちょっと親しみやすかったと思うんだけれども、
でもやっぱりそれを、あ、なるほど、迅速利ですねと。心はすべてそのまま利だから、自分の心のままでオッケーなんですね、ぐらいでやっぱりやっちゃうと、いやいやっていうふうにやっぱりなっちゃうわけなんだよね。
いやー、そうだよね。そのままだったら、あんただって全然濁ってませんみたいなね。金の配合を見てみろよ、自分の。みたいな話になっちゃうもんね。
知行合一の解釈
そうそうそう。で、今あるので、これ次回のまたテーマなんですけれども、冒頭でもお伝えした2番目のキーワード、知行合一ってあったじゃないですか。知ることと行うことが一つに合わされてましたんだけど、これもね、ちょっと実は誤解されやすい言葉で、
知ってても行わなきゃダメですとかさ、知識はやっぱりやってこそ意味がありますとかっていうふうに受け取られがちなのよ、実はこの言葉って。
はぁはぁ、行動で示せみたいなね。
そうですそうですそうそう。
違うんだ。
通俗的にはそう、今は多分言われるとそういう意味に聞こえるんだけれども、いつもウェスさんが言う知行合一って違う意味なんだよね。
へー、はいはいはい。
なので、ある種その神即利っていう教をお伝えした心っていうものは、そのね、正と譲があって、でもやっぱ譲も捨てません、それも善ですみたいな話。
その知行合一っていう、現在にまさに生きる我々が知るとは何か、行うとは何かっていうこと。
これをセットで多分捉えられると、もう少しね、大陽明さんの発想というか、そういう立場で物事を見てるのねっていうことが伝わるかなと思うんで。
ちょっと次回、3つの規模の一歩で少し半分ぐらいあったイメージなんだけど、その知行合一ってことをお伝えすることで、大陽明さんそんなふうに捉えたのねっていうことはより見えてくると思うんで。
ちょっと次回そこをお伝えしていく中で、よりよりですね、この大陽明さん、陽明学っていうものを深めていきましょうというふうな感じで思っておりますということですね。
次回の予告
はいはい、わかりました。じゃあ今回ですね、新作にということで、陽明学の世界観というか基盤みたいなところを見たところで、次回はその後のところですね。
知行合一を見ていくというところで楽しみにしていきたいと思います。では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。