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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
朱子学の概念の紹介
今回は朱子学第3回ということで、前回は朱子学の前にまず儒教を見ていくというところでした。
そうですね。やっぱりそもそも朱子学自体が儒教を発展させたというか、
儒教というものをある種固定化したもの、前回お伝えしたと思うんですけれども、
それをアップデートするという形で、朱子さんが作り直したもので、そこの流れを見ていったというのが前回でした。
今回と次回で、ちょっとサラッとではあるんですけれども、朱子学って何なのよって、朱子学の世界観みたいな話と、
次回ではその世界観の中で、人間ってどうあるべきなのみたいな、人間観みたいな、そういうのを追っていこうと思っているんですよ。
今回はキーワードが2つというか1個ではあるんだけどもあって、それが「理」と「気」というやつです。
理っていうのは、いわゆる理覇の理とか、まさに理性の理だよね、っていう理っていうものと、
あと気は、気体とか空気とかの気、他の気っていうのがあって、
実は哲学自体がこの理と気っていうものをキーワードにして、
有機二元論っていうふうに言われることもあるんだよね。
へー、そうなんだ、ほうほう。
この後またちゃんと説明してくるんですけど、
この二元論っていうのも、いわゆる観と客観がバラバラにある二元論とかっていうよりは、
理と気っていう両方があって、初めていろんなものが成り立つんだみたいな。
だから、この理と気っていうのは別のものではあるんだけど、
でもお互いにセットで働いてるんだぜ、みたいな、そういうふうな世界観なんだよね。
ただこれが通るのはちょっと難しいところなんだけど、
理っていうのは理解とかの理で、気は空気の気ですとかっていうと、
なんとなくイメージが逆にできちゃうじゃない?
まあ、そうね、木の話をされると気候とかさ、
そういうオーラみたいなほうになっちゃう気がするね。
そう、それとは全然違うのよ。
あー、ダメなんだ。じゃあそういう、やっぱり潜入感はこの理と気に関して、
潜入感は禁止ね、これ。
禁止です、はい。今回禁止です。
なので、理解の理であり、空気の気ではあるんだけど、
まだ僕らはそれについて何も知りませんっていう具合で、
ちょっと今回聞いてほしいんですよと。
おー、OKです、OKです。
ここがやっぱり難しいんだよね。
おっしゃる通り木っていうと、なんとなく空気みたいなふわふわしたものとか、
オーラみたいなぼんやりしたものっていう感じになっちゃうんだけど、
それは全然違うんだよね。
あー、そうなんだね、はいはい。
なので逆に言うと、その2つをちゃんと押さえると、
なんとなくこの趣旨学ってこういうことを言おうとしてるんだとか、
こんな発想があるのねっていうのが見えてくるかなと思っております。
なるほどなるほど。だから前回の話の通り、
授業って講師が考えたというか、
講師が昔からのあった断りをみんなに説明して、
すごいねっていうことだったんだけれども、
それゆえに何もアップデートすることがないみたいなところ。
そこへの挑戦としてこのリトキーみたいなところから、
この趣旨学を作っていったみたいなイメージでいいんだよね。
そうとも言えるし、そうとも言えないところがあって。
木の性質と変化
なんでだよ。
前回の話で言うと。
理解できないっていう。
なんでかっていうと、この三つ書きっていう概念って、
言っている授業とか授学の話だけじゃなくて、
そもそも中国の一般的な思想というか、
物事を捉えるときに使われている概念なんだよね。
なるほど。それはこの趣旨学が作る前からの話ね。
すでにそういう概念はなんとなくあったみたいな。
そうそう、その通り。
なので、理屈だけがこういう機とかをやってたわけじゃなくて、
それは多分道教とか他の思想でも、
中国にそもそも木っていうものが何かみたいなぼんやりした感覚はあるのよ。
定理とかは違いどってことね。
そうそう、違いども。
でも大元になんとなくこういうもんだねっていうのがあったときに、
それをちゃんと取り出して、木とはこういうものだっていうふうに、
ちゃんと定義付けて授学の中に入れ込んだみたいな。
道教の中に入れ込んだっていうことをやってるんだよね。
なるほど。だから日本人が和美とかサビみたいなものをきちんと説明できないように。
感覚とか使い方は違うけど、
それ以外の使い方をされてたみたいなイメージがある。
例えばアワレとか。
アワレっていうときに、もちろん生み出した人とかあると思うんだけど、
それって日本の何の考え方ですかって言うと難しいじゃん。
なんとなく日本人だったら知ってるか知らないような。
なんとなくみんな使ってるとか、なんとなくイメージは持ってるかもみたいなね。
そうですそうです。
なのでさっき言った通り、今持ってるイメージで語ると危ないよっていうのはその通りなんだよね。
それはそれで危ないと。この修士学における木と木をね。
そうですそうです。
そこをこれからやっていくんだけれども、
ともにね、大雑把に理解しておかないとやっぱり難しいと思うので最初にお伝えすると、
木っていう方から先に言うんだけど、
木というのがね、いわゆるこの世界とか物事っていろいろあると思うんだけど、
目に見えてるものとか、あるいは出来事とかね。
そうやっていろいろあると思うんだけれども、
それを成り立たせている素材とか、なんていうのかな、
いわゆる粘土みたいなもの。
粘土っていうのはちょっとイメージ違うんだけれども、
でも粘土もさ、それをもとにいろんなものを作ったりできるじゃない。
そういうふうに木っていうものがいろんなふうに組み合わさったりとか、
形はわかるわけじゃないんだけれども、
そういうふうにいろいろ変形することによって、
世の中の物とかことがいっぱい生まれてますよっていうふうな、
そういう素材的なエネルギーみたいな感じなんだよね。
語弊はあると思うけど、原始とかそういうぐらい根源的なもののイメージ?
そうですそうです。
確かに語弊はあるんだが、そういういろんなものとかことの奥に、
そういうだらきがあるよねとか、そういう素材があるよねみたいな。
意味では一緒で、
あとこれもちょっと話すんだけど違うのは、
やっぱり木って物だけじゃないんだよね。原始って基本物だけじゃない。
でも木っていわゆる心とか、
そういう目に見えないエネルギーみたいなものも含めて、
やっぱり木に含まれたりはするのよ。
ああ、なるほど。そこはかなり違うね。
そうそうそうそう。
なので、原始とかでもひろえがねなんだけど、
いわゆる根本にある素材的なものとか、
それが組み合わさっていろんなものが生まれてるっていう意味ではそちらに近いかな。
ああ、OKです。
っていうのが木っていう話で、
あと理っていうのがいわゆる、いろんな物事が起きるときの原理とか秩序、
これは断りみたいな言葉に近くなるんだけれども、
朱子学の核心概念
例えば水には水の断り、要は低いところに流れるっていうのがあって、
木には木の、例えばお日様に向かって広がっていくみたいな、
そういう言葉りがありますよと。
これは物理的に言えば重力化とか、
光を込む感覚というかホルモンじゃないか、
そういう細胞の伸び方とかってあると思うんだけど、
そういうことはもちろんわからないので、
そういうふうに水なら水として持っている根本的な原理とか、
その世界を成り立たせている根本にある原理っていうものを取り出して、
それを理っていうふうに名付けたんだよね。
なるほど、なるほど。
だからね、すごいざっくり言うと、
木っていう素材をどういうふうに組み合わせるかとか、
形にするかっていうことが理ですみたいな。
ああ、そうなんだ、そうなんだ。
勝手な今のイメージだと、
木が組み合わさってできた、
例えば命のない人形みたいなものがあったときに、
それがどう動くかが理みたいなイメージだったけれども、
そもそもどういうふうに木が組み合わさっていろんなものが、
さっきの目に見えない感情みたいなもの、
いろんなものを含むって言ってたけれども、
それを作るところから、
その組み合わせ自体も理のほうに入ってくるんだね。
そうです、そうです。
さっき理と木ってセットだよって言ってたと思うんだけれども、
木だけだと、いわゆる素材だけがあるけど、
要は形にする働きがないから、
だったと予測するとただ漂ってるだけとか、
本当にふよふよあるだけみたいな感じなんだよね。
なるほど、なるほど。
そこに理っていう働きとか、
いわゆる区切りをつけてあげることで、
これは水だとか森だとか、
木がいいかな、森だといっぱいになっちゃうから。
木だとか、あるいは人形だとか、
そういうものが生まれてくるよみたいな、
そういう感じなんだよね。
ほうほうほう、なるほど。
なので、ちょっとそういうイメージを持った上で、
ここから主主役の世界観がどうなりますか、
っていうのをお伝えしていきたいんですけれども、
まずはもう少し理と木の話からしていくんだけれども、
木っていうのはさっき言った通り、
いろんな存在、物事を含めた、
存在だけじゃなくてこととかも含めたものを構成する、
まさに素材なんだよね。
これ面白いのが、さっき僕粘土って言っちゃったんだけど、
固まってそこにドンってあるものよりは、
常に流動して動き続けて変化し続けてるものなんですよね。
ああ、なるほど。粘土っていうよりは、
木からちょっと引き寄せられ過ぎかもしれないけれども、
それこそ空気ぐらいの流動性を持ってるというか。
そうそうそう、漂ってるみたいな感じで。
宇宙の原理と対極
わかりやすい感覚で言うと、
言葉として中国で言うと、
例えば五行説とか陰陽とか陰陽思想みたいな、
そういうのって聞いたことあります?
なんとなくね。
これも実は中国に古代から伝わる、
儒学だけっていうよりも中国一般的な感覚みたいな感じらしいんだけれども、
はいはいはい。
いわゆる陰陽とか陰陽っていうのは、
まさに陰と陽、プラスとマイナスだよねっていう風に、
そういう質の作用があるって話なんだけれども、
これが実は木がプラスの方に行くとか、木がマイナスの方に行くとか、
そういう風な発想と結びつくんですよ。
そうなんだ、ほうほう。
さっき空気みたいなものって言ったけど、木にも性質があって、
もし弱いとかってなると木がポジティブな陽の方に行くし、
それこそ暗いとかしょんぼりみたいな方に行くと、木が陰の方に行くみたいな、
まさに陽気とか陰気みたいなものにちょっと近いんだけど、
そういう風に木の性質っていうものが、プラスとマイナス陰陽に変わっていきますっていうような発想があります。
ふつう、五行地図っていうのは、よく漫画とかでもあると思うんですけど、
木・火・土・金・水だよね。
5つの要素っていうのがあって、それが互いに循環し合うとか、
影響し合っていくよみたいな世界観なんだけれども、
実はこの五つある木・火・土・金・水っていうものも、それぞれのものがあるんじゃなくて、
木っていうものがこの時は火の性質を持ちますとか、
この時は土の性質を持ちますみたいな感じで、木っていうのは変化した姿なんだよね。
なるほど、はいはい。そういう感覚もあるっていうことなんだね、木というものに対してね。
なので、木が空気だって言ってしまうと、なんとなく空気っていう設定したものになっちゃうんだけれども、
木っていうのはあくまでも万物の素材なので、木が変化して土になりますとか、木が変化して金になりますとか、
そういうぐらい色んなものを構成している物質っていうのかな、素材っていう感じなんだよね。
うん、はいはいはい。
なので、趣旨学的な感覚とかでいくと、木っていうものが色々変化をした時に色んなものの形になっていきますよ。
こういう素材っていうものから世界が生み出されてますよっていうふうなまず発想があるんだよね。
で、これ面白いのが仏教と比較してみてほしいんだけれども、前々回かな、結構趣旨学主義さんがやったのって仏教へのサウンターというか、
そういう当時なんだろうな、やっぱり心の問題とかどう生きるべきかっていうものは仏教によるのだみたいなときに、
いやそうじゃない、やっぱ発想が大事だっていうふうな話をしたと思うんだけれども、
木っていうものを大事にして、それが色々変化して世の中を生まれていくよねっていうのは、
いわゆるあるかないかで言うと、あるの方の哲学なんですよ。
理と気の概念
あー、なるほどね。仏教の空とは全然違う話だね。
全ては空だから、例えばさっき木とか火とか土って言ったけど、それも極論何もないっていうふうにやっぱりいくじゃないですか。
あー、はいはいはい。
いろんな関係性があるっていうことは近いんだけれども、でもその関係性の方を重視して、本体はないとか実体はないっていうのが仏教的な感覚なんだよね。
でもやっぱり普通に生きて考えたときに、でもあるじゃないかと、存在とか物事っていうのが。
でもそれは確かに、火とか水って全然違う、全く真逆の熱いとか冷たいとかさ、全然違う存在があるっていうときに、
やっぱりあらゆる物事があるっていうのもちょっと違和感があるわけだよね。
っていうときに、実はその根底には木っていう素材があって、
それの配合とか、それこそ陰に行く、陽に行くっていうのはその時だけの状態とか、
そういうもののダイナミズムの中で世の中を捉えましょうっていうふうな発想がこの修士学に出てくるんだよね。
なるほど。だいぶあれだよね、1100年ぐらいか。
だからずっと多分その仏教的な空みたいな概念、感覚が多分多かった中で、
やっと万物は丸々ゲームが始まったみたいな、そんな感覚もするよね。
そうだね、それはあるかも。逆に言うと儒教とかだと別にそれって本当に問う必要がないというか、
世の中としてどういう君主が遂行かとか、どうすれば世の中が丸く治まるかという方に行くから、
別に万物の根源ゲームをする必要がなかったんだけれども、
やっぱり主義、修士学において仏教に対抗するとか、
修士学、もっと言うと儒教かっていうものを知識人にもちゃんと受け入れられるとか、
もっと言うと、修士学を通じて君主とか聖人、聖なる人になるっていうことをやるときに、
そのぐらいちゃんと原理原則から抑えないとダメだよねみたいな、
そういうふうな発想があったんだよね。
なのでこの木っていうものが、まるし宇宙の根本素材だという話なんだけれども、
ただ大事なのはさっきも言った通り、この素材だけだと世界って存在しないわけですよ。
これはさっきの理の話とつながってくるってことかな。
そう、まさにまさに。
ここからはその理の話をしていくんだけれども、
理だけだとその素材だけなので、変化したっていうことが起きるんだけど、
それが火であるとか、それが水であるっていうのは、
このであるっていう方に行かないんだって考えたんだよね。
さっき木は変化するという表現があったけど、それはどういうこと?
木は木のままでないかしか、その理の作用がなくても何かに変化してるってことなのかな?
ごめん、それでいくとさっきの陰と陽が近いんだけど、
木自体が例えばプラスの方に触れるとかマイナスの方に行くとか、
濃く集まるとか薄くなるとか、そういうふうな変化自体はあるんですよ。
なんだそれ、そうなんだ。
なんだけど、その濃くなるとか陰とか陽に触れたっていう時に、
それが何であるかっていうふうな定義付けというか、
そういうものは木だけでは説明できないんだっていうふうに言うんだよね。
つまり、これは水だとか火だとかっていうふうに定義付けてあげるもの。
例えばその火とは何かとかっていう原理原則っていうものが必要で、
それが実は理なんだっていうふうな、そういうふうな発想を持つんですよ。
ああ、そうなんだ。なるほど。
さっきの最初の木と梨の説明からすると、
そういった漂ってふよふよしている木みたいなものに、
この梨が作用して火を作るとか、
この梨によって水を作るみたいなイメージの方が強かったんだけれども、
今のハヤトの説明だと、ある意味勝手に流れる川が土を運ぶかのように、
勝手に木は木で勝手に集まって、
火みたいなもの、なんか燃えてるんだけど、みたいな木がいたりとか、
あとなんか水になっちゃってる木がいるんだけどとか、
そういう状態があってそれを定義するのも理だっていう、
どっちが正しいのかな、イメージとして。
そうそう、どっちも正しい。
どっちも正しいの?
どっちも正しい、そう書いてるんだけど、
木がないと木は働かないし、逆に木がないと梨も働かないっていう風に、
相互依存の関係なんだよね。
なるほど、そっかそっか。
最初の話だと梨の方が種で、
ある意味木の方は何の意思も持たないし、何の変化もないみたいな、
柔の関係で想像したんだけど、
それは相互作用なんだ、勝手に木は木で勝手にいろいろやっちゃってるんだっていう。
そうそうそう。
これ面白いのがやっぱり、
これ東洋的な感覚で、さっき利器二元論とは言ったんだけれども、
個別の理の存在
全く別のものっていう風にやっぱり捉えないんだよね。
これもちょっと後でまた話そうと思ったんですけれども、
対極っていう概念があって、
独て極める、対極圏の対極か、
っていう概念があるんだけど、これがまさに要は、
梨と木がある種、根前一体となっている状態みたいな、
そうなんだ。
そういう感覚になるのよ。
やっぱり全く別の梨と木という概念があって、
それが、お互いに働きかけ合いますとかっていうよりは、
もともとは一つのものが分かれて見えるんですみたいな、
そういう発想がやっぱり東洋には多いんだよね。
なるほど。
今ゲーム、もともと対極の話につながるための要素の話をしてるから、
対極図の解説
どうしても知識的に伝えるとなるとこうなるよみたいな、
そうです、そうです。
感じはね、よくあるあるな気がする。
あるあるだね、確かに。
やっぱりまずは梨と木の話をしないと対極の話に行かないから、
こういう風に順番になっちゃうんだけど、
趣旨学的では本当はまず根拠っていうのが先に根本にあって、
それが働きとして分かれるときに、
梨と木というものが出てきますよみたいな、
実際はそういう感じなんだよね。
なるほど、なるほど。
なのでごめん、ちょっと階段を上っているような感じなので、
少しまだ見えない部分もあるとは思うんですけれども、
ちょっと今のところ振り返ると、
そういう木っていう素材があって、
それは濃淡とか陰と陽、プラスとマイナスが、
そういう違いっていうものが生まれますと、木の中でもね。
でもそれがどんな風に性質を持つのかとか、
それが例えば火である、水であるっていう風に、
どんな風に定義付けられるかっていうときには、
梨というものが働きますと。
で、ちょっとここからまた梨の話になるんだけれども、
梨っていうのはね、
言ってた通り、火とか水とか金とか石とかっていう、
それは別々の梨があるんだけれども、
そのもの自体に梨が働いているという、
その事実自体は一緒だっていう風に考えるんだよね。
はいはいはいはい。
なので、梨を持たないものはありません。
だから人には人の梨があるし、
あるいはもしかしたら感情には感情の梨がある。
またちょっとイデアっぽいって言ったら、
これもちょっと語弊があるんだけど。
ああ、でもちょっとイメージされたイデアな。
そうそうそう。
はいはいはいはい。
なので、これっていうのが面白いのは、
ただ、木なら木だからとすると分かりやすいんだけど、
いわゆる木になるものが別の世界にあって、
それを写しているとかっていう発想は、
この梨には全くないんですよ。
あくまでも木なら木のとか、
木なら木のとか、水なら水の内側というか、
その方向にまさにこの梨が働いていて、
その梨を正しく再現することが、
木らしさであり水らしさであるみたいな、
そういう感じなんだよね。
なるほど。
面白い世界観だね。
だからさっき言った木の方だよね。
木の方がある意味いろんな振る舞いをする中で、
濃くなったり厚まったり、
ふわっとしたりしている中で、
既に、例えば濃くなった時に、
水的な梨を内包していると。
そういうイメージなんだよね、たぶん。
違うのかな。
合ってる?
合ってる。
すでに内包しちゃっていて、
それを合わせて言語化するなら、
その木が水の梨を育えている状態だよ、
イメージで言うから。
合ってる、合ってる。
例えばやっぱり水にもさ、
いろんな水があるじゃん。
きれいな水もあれば濁った水もあるし、
冷たい水もあれば、
お湯になれば熱いとかってのもあるんだけど、
でもやっぱり水らしさとか、
水としての原理っていうものは外れてないんだよね。
同じ水なんだけど、
素材の側でいくと、
ある種、冷たくなってる水もあれば、
薄くなって、ちょっと火に近づいてる水もあるよね、
みたいな感じで、
木というものが変化することで、
同じ水っていうものにも、
深さ判別、多様さが生まれるよね、みたいな、
そういう風な感じなんだよね。
逆に言うと水と木の理は全く違うから、
それはやっぱり存在的にも違うよねっていう風な、
そういう捉え方で、
もっと言うと、
その理と木のある種バランスで、
いろんな物事を説明しようとしました、
理の概念
みたいな感じなんだよね。
はいはい、なるほどなるほど。
そういう意味では、
イベアと全然違うよっていう話だね。
そうそうそう。
理想とかそういうことじゃないって話だよね。
じゃない。
そうなってるぐらいの話だね。
現実世界がそうなってるぐらいの。
そうなってるってまさに断り、
そういう風になっている、
そういうものだっていうものを解き明かそうとしてるよ、
っていう感じなんだよね。
うんうんうん。
今イデアとか粘土みたいなイメージとしては出すんだけれども、
やっぱり全然違う概念なので、
ある種重ねちゃダメなんですよと。
うんうんうん。
なので、手がかりにしつつ、
でも全然違うって兄貴が言ってくれたのは良かったなと思っているんだけれども、
そういうまさに理と木っていう働きで、
物事が目指されてますっていうところがちょっとイメージ湧いてきたんじゃないかと思うんだよね。
いやー、そうだね。
確かにたぶんここが一番根底だから、
ちょっとくどいかもしれないんだけどね、
この辺をちゃんとたぶん、
誤解のないように言い返しておかないと、
後で困るかなーと思ってね。
あ、そうです。
そこが生じそう。
お互いの認識で。
本当にそうなのよ。
なのでやっぱり、ここからもっとさらに抽象的な方に行くのね。
うんうんうん。
で、例えば主旗さんからすると、
そうやって世の中のいろんな物事を、
ある種理と木っていうもんで説明をしようとしましたと。
さっきも言った通り、
やっぱりより根源とか、
こうしたなあにっていうふうにやっぱり行くのが、
主旗楽の特徴ではあるんだよね。
へー、はいはいはい。
そこがさっき言った、
太極、太くて極めるっていうような文字なんですけれども、
要はこれが、いわゆる一つの、
主旗楽世の中の根本原理として提出されます。
何かっていうと、
理ってあるじゃないですか。
っていう時に、
その理そのものはどっから来たの?っていうふうに問うことができるわけですよね。
わー、まあそうだよね。確かに確かに。
木に内包されているみたいな言い方を今してるから、
確かに人に分ける必要がないもんね。
確かにその理解だとさ。
そうそうそう、なっちゃうと。
どっから来てんだ?確かに。
そうそうそう。
っていうふうになるんだけれども、
実はそれの答えが明極ですっていうふうに言うんだよね。
そうなんだ。
じゃあこれはただやっぱり、ロジカルには難しいというか、
あくまでも世界観になっちゃうんだけれども、
やっぱり大極って、いわゆる全ての理の根源、
要は火とか水とか人とかいろんなものに理はあるんだけど、
その根本にある理そのものって、
いろんな理が混ざってるものっていう感じかな。
宇宙の原理と言ってもいいんだけれども、
そこにある種集約されてるよっていうような感覚なんだよね。
だからこれも面白いのが、さっきのイディアとの話で言うと、
イディアはその全のイディアっていう、
いろんなイディアがある中で、
一個のより優れたイディアがあるみたいな発想だったじゃないですか。
やっぱりその主主役はそうじゃなくて、
そのいわゆる理がまだ分かれてないというか、
火とか水とかっていろんな理になる前の、
その根前一体とした理の状態みたいな。
そもそも因と用とかそういうふうな運動とかも起きてない、
そういう本当に一番宇宙の始まりみたいなものがあったときに、
サンガレオの状態を大極っていうふうに言ってるんだよね。
そうなんだ。
さっき半端にその大極の話を最初聞いちゃったから、
そこそこ木の中にも理がない方をしているのだ、
みたいな感覚を勝手に持ってたんだけれども、
ハヤトがさっき抽象的って言ったのは、
まさに今の話なんだ。
例えば木が水の理をない方している。
木がない方をしているっていうのは、後から人間が観察した結果、
水だったねっていうことが分かるという順番だと思うんだけども、
そのものとして、
水の理をない方した木が存在したときに、
それが大極なのだじゃなくて、
それと大極は全く違くて、
大極っていうものでイメージすべきなのは、
もっと抽象的な話なんだ。
もっと抽象的。
水の理を木がない方をしているっていうのは、
僕らが自然な環境を見る中ではイメージしては合ってるんだけれども、
さっきも言った通り、木が理を含むなら、理も木を含むのよ。
人間の理と宇宙原理
なるほどね。
そこはどっちが先とか後とかじゃなくて、
理と木がまだ分かれてない状態っていうものが根本にあるんだっていう。
これ、いわゆる同型で言うとカオスとか、
本当に一の状態だよね。
すべてが分かれてない、そういう状態。
そっか。なるほど。
面白いね。
木を木のまま理解というか認識することはできないんだろうね。
できない。できないよね。
同じように、理を理のまま理解することも不可能で、
ただ、それぞれがどうあるかみたいな話で言うと、
対極の状態でもともとあるというか、そこだよね。
だからこそ対極が必要な気がする。
そうだね。すごく難しいんだけれども、
ある種、宇宙の始まりというものを想定したときに、
その宇宙は対極であると言えないんだよね。
その対極っていうのは、何か物とか一点みたいなものじゃなくて、
そういう、なんていうのかな、
何回も言っちゃったけど、
完全一体とした、まだ分かれてない何らかの状態というものとして、
存在していたって言葉としては。
難しいね。確かにそれを存在と呼ぶのかっていう。
じゃあそれで言うと、水みたいな、
一人が融合した水みたいなものがあったときに、
その対極からが分かれたものというか、
そこから出てきたものとしてのイメージになってるの?
ちょっとこの先の話かもしれないけど。
そうだね。実はそこも結構ちゃんと日明かされていてですね。
対極って図にして説明すると、図じゃないとわからない。
言葉だけだとわからないっていう発想があるんだけれども、
対極からいろんなものが生まれるっていうのを、
大きく5段階ぐらいで表してる図があるのね。
えー、5段階もあるんだ。
もし気になる方は対極図とかで検索すると出てくるんですけれども。
ちょっと待って、検索するわ。ちょっと待ってね。
あー、してみて。あー、そうね。
お兄さんもちょっと対極図見てもらって。
はい、見ました。あ、よくあるあれだね。
まがたまが2つ重なってる、よくある白黒のやつか。
ちょっと待って、それじゃないかな?
あ、こっちか。
こっちだ。
5つ出てくる。
白い丸があって、
まと当ての的がずれて重なってるような図があって、
その下にさっきの火とか水とか土の図があって、
それです、それです。
その下にまた丸と丸があるみたいな。
あ、全然違います。
あ、これは無理だね。
ビキペディアで対極って調べると、上の方に兄貴がやってくれた、
いわゆる音名の黒と白が重なったやつがあるんですけど、
下の方にスクロールすると、いま兄貴ってような、
5個の図が上下に並んでるみたいなのがあるはずなんですよ。
これは無理だわ。
朱子学の本質
無理だよね。
なので、もし時間、メモを使える方は一回止めて、
それも開いてみていただければと思うんですけれども、
言葉や耳の方にも少しお伺いすると、
今言った対極っていうものは、
上と真っ白の丸。
線は一応黒いんだけれども、
この線も書かないとわかんないから、
多分書いてるだけだと思います。
なるほど、なるほど。
これが無極にして対極とかって言われたりするんだけれども、
これもわからない。
僕も正直わかんないんですが、
いわゆる無でもあり有でもあるとか、
無でもあり善でもあるとか、
多分そういうふうな発想になってくるんだよね。
なるほど。
とりあえずわかったら聞きながら言いながら聞くね。
何かやってくれた水とか火っていうのは、
その先で、その手前にまず因と要っていうのがあって、
そういうふうに、
全体としていたものがプラスにいくとか、
朱子学の概念深化
ちょっとマイナスにいくとかっていうふうな、
揺らげみたいなものは生じるんですよ。
はいはい。
次の段階がさっき表現した、
その的当ての白黒の的があった時に、
それがちょっとずれて重なってるような。
これが因と要のっていうね。
はい。
それがさっき言ったまさに因用で、
次が誤行なんですよね。
へー、はいはいはい。
因と要っていうものがある種変わっていくと、
その因が例えば強いとか要が強いとかっていうところによって、
その変化が出てきて、
それが水とか土とか、
そういうふうな性質を帯びていくんだっていうふうな、
その中にいくんだよね。
うーん。
はい。
で、そっからがまたちょっとね、なんだろうな、
あのー、
あ、でもそうね。
そっからはちょっと省くんだけれども、
その、
さっき言ったようにバランス、
いろんな水とか土とか因とか要とかっていうバランスがかみ合わさったときに、
いろんなものにある種になっていく。
はいはいはいはい。
それが金になることもあれば、
もしかしたらパソコンになることもあればっていうふうに、
あらゆる物事っていうものがそっから分かれて生まれていくんですよっていうふうな、
それを対極図っていうもので表現してるんだよね。
はいはいはいはい。
で、ちょっとややこしいのは、
今言う対極っていうのは、
この対極図の一番大元に書いてある白い丸なんですよ。
ふんふんふんふん。
なるほど。
なのでこれが定極。
あー、なるほど。
ってことね。
うん。
はい、なのでごめんなさい。
あの、ちょっとね、見えてない方は分かりづらいかもしれないんですけれども、
えっと、今ちょっとお伝えしたのは、
その対極っていうものが何かっていうときに、
ここは今、利と貴っていう発想が入っちゃったから、
それが組み合わさっているものとか、
利と貴という別々の概念があってって思ってしまうんだけれども、
さっきも言った通りそうじゃなくって、
そもそもまず対極っていう、
もう本当に大いなる一みたいな、
そういうふうなものがやっぱり根本にはありますと。
はいはいはい。
それが揺らぎがあって分かれていく中で、
利と貴という働きとか素材とかに分かれていくっていうふうに説明すると、
僕らの今生きているこの世界っていうものが説明できますよねっていうふうな、
そういうふうな発想なんだよね。
はいはい、なるほどなるほど。
はい。ちょっと難しいよね。
なかなか普段考え方とか世界観なので。
まあ、そうだね、確かに。
でもまあ、言われれば、
イメージは可能っちゃ可能というか。
うんうんうんうん。
ね。
というふうなところがありますよと。
はいはいはい。
ここまでの世界観っていう話なんだけれども、
じゃあ対極と僕らの今生きている世界ってどんなふうにつながっているんですかとか、
これまで利と貴の横のつながりを話したんだけれども、
そのつながり、まさに今ご覧いただいた方はそういう対極図の上から下へっていうふうな、
その流れっていうこともやっぱり考えたくなるんだよね。
まあそうだよね。確かにその対極図がまさにそれってことだよね。
そうですよね。
そういう対極があって、それがどういうふうな道筋をたどって、
そのうちらが認識しているものになってるのかっていう図なんだもんね。
そう、そうなんです。
そういったときに、これもちょっと新しい言葉を入れちゃうんだけれども、
四字熟語で理一文種っていう言葉があって、
理はまさに理ね、今回使っている。
で、一は一、数字の一ですと。
はいはい。
で、文は分かれる。
で、種っていうのは特殊の種なんですけど、
特殊って要は他のものとは違うとか、
ある種は一般的なものじゃなくて、個別のものっていう感じの言葉なんですよね。
はいはいはいはい。
なので、この理一文種っていうのは、
理は一つ、さっきの対極みたいな感じで根源的なものがあるんだけれども、
それが個別のものに分かれて持たされている。
なので、水には水の理があり、木には木の理がありっていうふうに、
本当は一つなんだけど、それぞれのものでは持っているっていう、
そういう概念を理一文種っていうふうに表現してるんだよね。
うんうんうんうん。
つまり、さっきとおりその対極は対極で、そっから分かれたって話なんだけど、
でも、本当は一個一個の理っていうのは、
その対極にある根源的な理と繋がっているっていうふうな、
そういう円環構造というか、上から下の流れだけじゃなくって、
上から上への流れもあるよっていうふうな話を考えてるんだよね。
うーん、そうなんだ。ほうほうほう。
なんかイメージ湧くかな、ここ。
うーん、いや、ちょっと湧かないかな。
もっと言うと、例えば、これまた次の回の話も入るんですけど、
まず水の理とか火の理っていうのがあるじゃないですか。
うんうんうんうん。
でもその水とか火っていう理を突き詰めていくと、
この根源的にある理そのものだったりとか、
対極としての理っていうものに行き着くはずだっていう発想なんですよ。
うん、そこまではオッケーだね。
その対極っていう概念があることで、そのイメージは持てるよね。
はいはいはい。
なので、一種その上から下への流れだけだと、
もう根本的な理っていうものは消え去って、
世界は分かれたままですとか、バラバラになっちゃいましたっていうふうな感じになっちゃうんだけど、
実際僕ら生きててもそうじゃん。やっぱり水と火は全然違うしとか、
まさに人間と魚っていうのは全然違う種族だっていうふうに思ってるんだけど、
でも実はその奥には理っていう共通の働きがあって、
その意味では実は火と水も人間も魚も同じだっていうふうな、
そういう一体化した世界観っていうのをこれで表現できるんですよ。
うーん、なるほど。なかなかピンとこないけれども、
言おうとしてることは分からなくもないっていう感じかな。
はいはいはい。
どこがピンとこないんだろう。
うーんとね、例えば火と水がそれぞれの理を持っている、
マリーとキーは持っているけれども、元を辿ると同じ理に辿り着くというか、
対極にまた戻るみたいなところのイメージはもちろん可能っちゃ可能というか、
対極っていうものを信じるとしたらというか、
そうね、そういう世界観で。
そこからもともと来てるものだし、ある意味その理そのものみたいなものがあったとすると、
そこからいろんなことがあって火が出てきた。
そこからいろんなことがあって水が出てきたっていう意味では、
理自体にも例えば原始みたいなものが存在するというか、
イメージだよこれは。理の組み合わせじゃないけれども、
そういう意味では根本みたいなものがあってもいいよね。
理をこういうふうに組み合わせると火になるし、理をこういうふうに使うとというか、
組み合わせるとというか。
使うとの方が確かな。理を組み合わせるという発想はあんまりないかもな。
ない。
組み合わせるというと、相当しか表現できないんだよな。
そうなんだ。
じゃないと、例えば火とか水、何なら人間とか生き物とか土とか全部、
土は根本のやつだからもうちょっとあるけど、
それは全部同じ理になるっていう感覚が持てないよね、イメージとして。
そう考えないと。
だからそれはどっちかというと、木の方のイメージでしょって言われるかもしれないんだけれども、
理そのものがあるって言われちゃうと、難しいよね。
なるほどね、オッケー。わかった。
イメージ、これもちょっとイメージの端だったんだけれども、
1個書いてたのが、理というものは、いわゆる大きな海ですと。
大きな海で水がたっぷりありますと。
その水をきっぷに入れたらコップの中の水になるし、たらいに入れたらたらいの中の水になるしっていう風に、
要は水というものは同じなんだけれども、どういう風に入れるかとか、
入れ物を入れるかによって区別することができるじゃないですか。
結構理っていうのは、そういうものだっていう話があったんだよね。
だから水というものを組み合わせて別の理を作るっていうよりは、
違う入れ物に入ってるから、このそれぞれの水って違うよねっていう風な、そういう感覚?
へー、なるほど。
伝わるかな。
そうはね、コップに入れたやつを水と呼びます、たらいに入れたやつは火と呼びます、みたいな。
例えばね。
プリンのカップに入れたやつは人間と呼びます、みたいな。
そういう話ってことね。
そういう話、そういう話。
だから組み合わせみたいにしちゃうと、ちょっとイメージがやっぱおかしくなっちゃって、
そのあれがままのそのものみたいなものの切り取り方ぐらいのイメージの方がイメージとしてはしやすいよって。
そうだね、切り取り方っていう方が近いかな。
オッケーっすオッケーっす。
そうすると、つながるね。対極側から個別のものにもつながるし、
その個別のものから対極の理も一緒ですよ、元を正すと一緒ですよっていうのもすごい納得だよね。
そのプリンのカップから戻せばいいからね、じゃーって。
そうそうそう、そういうことですよ。
逆に言うと、これはプリンのカップに入っているってことが見えれば、
プリンのカップというものに包まれた理というものだっていうことが理解できるみたいな、そういった感じだよね。
逆にそういう状態でしか我々では認識できないよとも言えるって話だね。
そうです、そうです。
オッケーオッケー、だいぶごめんね、時間かかっちゃったけど理解にした。
難しい、やっぱり難しいってことが、世界観が新しすぎてね、僕らとしては。
そうだね。
なのでもうちょっと趣旨学の言葉で言うと、
アニケイというか理そのものは見えないし分かりませんって。
それが理という働きを通じて、例えば水は流れるとか、
水は冷たいとか、そういうことがあったときに、
そういう厚くなることもあるよねっていうことも含めて、
木というものが僕らに分かるように表現されているから、
その奥にある水らしさ、水の理っていうものがある程度想像できるというか、
捉えにいけるよねっていう風な考え方なんだよね。
じゃあさっきのコップとかたらいとかプリンのカップが木ってこと?
違う。
違うの?今そういう話してなかった?
いやごめん、違うんだよ。
今木の話してたでしょ今。
木の話をしてたんだけれども、難しいね本当にね。
違うの?
違う。
木がね、そのたらいのカップを形をしてて、そこに木が入ると木取りが一緒になってさ。
ニュース的じゃ物事。
そうなんだけど、難しいねやっぱり説明するってね。
その話を踏まえると、プリンのカップの中に水があります。
これを理の状態としたときに、
木っていうのはその水のあり方とか、例えばそれが、
ほうぎ少ないとか、つい冷たいとか、そっちの状態のほうを火っていうほうがたぶん近いんだよね。
そうなんだ。
なぜならさっきのとおり、木ってあくまでも素材じゃないですか。
で、そのプリンのカップとかってそっちは型になっちゃうじゃない。
わかる。例えばさ、粘土って言うけど、粘土を作るときに、粘土の型、星の型とか、カードの型っていうものは粘土じゃないじゃん。
あー、そっかそっか。
えーと、その、なんだろう。
だからここで言う理だよね。木のほうに作用するというか、そんご作用してるんだけど、作用するための理の話を今してる中で、
まず基本対極なときは、理は海みたいなもので何かわかりませんと。
はい、区切りもないです。
で、区切ってこれが理だって言える状態、水性だ、火性だ、人間性だみたいな理だけの話をしてるときに、
プリンのカップで作ったものが人間の理だって言った場合、そこにはまだ木の概念は存在していませんよって話がある。
オッケーです。オッケー、わかった。むずっ。
いや、確かに難しいね、これね。
オッケーオッケー。まだ理だけの話をさっきしてたから。
そう、さっきは理のだけの話をしたから、ありえない話をしてたのよ。
でも面白いね。今さ、たぶん50分まで経ってるんだけどさ、最初理と木の話をしますっていうときに、まさかこんな話をされると思わなかったでしょ。
全く思わなかったし、場所場所というか、についてはたぶん理解はしているはずなんだけど、それがまだ繋がってないっていう、この感覚、なかなか久しぶりで面白いなと思ってる。
確かにね、確かに確かに。
たぶんそれは、やっぱりどうしても主主役の世界観、宇宙観っていうものが特殊っていうのもあるし、さっきね、今理一文種って話をしたと思うんだけれども、やっぱり理は一つなんだけど、それぞれのものにそれぞれの理があるっていう、どっちなのってやっぱり普通思っちゃうと思うんだよね。
一つなの?いっぱいなの?みたいな。
さっきのストーリーや、海も一つだけど作った水は分けられるじゃんっていうふうな、そういう発想で同じだけど違うみたいな、どうしてもそういうロジカルにいかないというか、分かりにくい発想になっちゃうのが東洋的、中国的なんだよね。
はいはいはい。だからあれだもんね、その理だけの話をハヤトはこっちに伝えてるつもりが、こっちとしてはああ、もう気がカップね、みたいな勝手に分かりやすく混同しちゃうというか。
しちゃう、うん。
っていうようなところがあるんですけれども、単純に今日の話で、理と機って僕らが思ってるイメージは全然違うものだし、それぞれとして働きよりはそういう原理原則が区切るっていう働きを持ってて、
機はその素材なんだけど、その素材自体が変化をする、因とか要に増えるっていうときに、それぞれの相互作用っていうのはただある、要はきっともう切り離さないんだと。
そういうふうな、いろんなものをつながった世界観っていうのは少し伝わってられたんじゃないかと思うんですよね。
で、これ何が新しかったかというか大事だったかっていうと、これをやることで、要は、例えば人間の理がありますと、人間にも人間のあり方原理原則があるよねっていうときに、
それを見つめると、実はそれが宇宙の根本原理につながるんだ、みたいな、そういう道筋ができるんですよ。
はいはい、そこでOKだね。プリンのカップをジャーって戻せばいいから。
そうそうそうそう。で、それが実は新しくて、これまで、例えば前回やった孔子とか孟子とか順子の話でいくと、
彼らはあくまでも人として、例えば良いことをしましょうね、人とか霊を大事にしましょうとかさ、
得っていうものを重視しましょうっていうふうな感じで、で、それが宇宙の根源とか、それこそね、そもそも万物とかっていうことはもう一切関係なかったわけよ。
そうだね、そういうもんですで終わってたってことだもんね。
そうそうそう。だからね、それはすごく現実的ではあるんだけれども、
なんで得が大事なのか、なんで人とか霊っていうものは人に備わってるのとかっていう、その原理は説明にはやっぱりならないんだよね。
でもここにきて、主規さんは、実はそれが人間の身なんだと、原理原則なんだと、それっていうのは得を深くするとか、人とか霊を大事にするとかね。
はいはいはいはい。
で、もっとそれは人間だけの利ではあるんだが、その利というものは宇宙の根本原理とつながっているんだってなっていくと、すごく宇宙の在り方と人間の在り方っていうのはリンクしてくるよね。
わー、うん、あのー、する。
そうそうそうそう。で、つながってくるし、しかもさっきの言った通り、じゃあ今人間だからプリンのカップでやってるけど、
それを火についてやるならたらいをやれば良いとか、水についてやるならコップでやれば良いとかっていう風に応用して、全部を扱えるような気がしてくるじゃない?
そうだね。
っていう、宇宙の体系と人間の在り方っていうものをどっちも説明できる原理を作っているのが、このシュピさんのすごいところなんだよね。
いやー、恐ろしいね。そっか、誰か偉い人が言ってるとか、いるかいないかわかんない神様というか、昔の人が言ってました、みたいな。
とは、いわゆる納得感みたいなものがまた違うんだろうね。
そうそうそう。もちろんやっぱ大局ってのは僕らからすると、いやいやもうそれも神みたいなもんじゃんっていう感じではあるんだけれども、
当時の中国の感覚からすると、大局を持ってきたのねみたいな、大局でわかるわかるみたいな感じもあって、
やっぱりそういう馴染みのあるものとか、そういう自分がなんとなく持ってる、さっき冒頭で哀れみたいなこと言ったと思うんだけど、
そういうなんか哀れっぽいなんとなく知ってるものが一気に、それを使えばよかったんだーちゃんとか褒めるみたいな。
はいはいはいはい。
そういう感覚をやってのけた人っていう感じなんだよね。
なんか信仰とかよりはかなり学問とか。
そうそう、まさにまさに。
そっちに近い感覚で、当時の人たちが理解することができる話だったってことなんだ。
そうですそうです。やっぱり朱子学、やっぱり宗教じゃなくて学問だってのはそうなんだよね。
今回はまさにその理解、朱子学の宇宙観みたいなところと、それが僕ら人間とどう繋がるかっていう話を最後ちょっと掛け足したんですけれども、
やっぱり朱子学ってやっぱり儒教なのでどこまで行っても。
やっぱりただ世の中を徹夜化しましょうとか自然を知り尽くしましょうじゃなくて、やっぱり人としてどう生きるかとか、
どういうふうにやると世の中をよりよくできるかって、そこにどうしても繋がるっていう、むしろそっちが本領なんですよね。
はいはいはいはい。
なのでちょっと次回はですね、この離島記っていうもので作られた世界観とか宇宙観っていうものを土台にしながら、
どういうふうに人が生きていくのが良いのかとか、そこにどんなスタンスが求められるのかっていうことをお伝えしていきます。
短いんだけど一旦朱子学に関しては次回で終わりにして、次陽明学っていうのがそこ出てくるんですよね。
陽明学は実は朱子学にはやっぱりいろんな限界があって、それを乗り越えて批判しようとしたっていうような動きなんですよ。
そうなんだ。
なので結構一体的な部分も、一体で理解したほうが分かりやすい部分もあるんで、
朱子学、陽明学編的な感じでちょっとまとめて、たぶん7回か8回ぐらいでお伝えしていきますみたいな。
そんな感じでお理解いただけるとありがたいなと思ってますという感じですね。
おーわかりました。
じゃあ今回で離島記の話は一旦おしまいね。
一旦おしまい。おしまいなんだけど、実際これがベースになるんですね。
じゃあこの概念をもうちょっと深めるとか、今回は森の方は最後海みたいな比喩でなんとなくイメージができたけど、
木の方がまだバシッと来てないし、その関係もバシッと来てない部分もあるから、そこについては引き続きちょっとこう、
次も含めてちょっとずつイメージが固まればなぐらいの感じで大丈夫?
大丈夫です。
よかったですよかったです。今回全然その辺がまだ、自分でちゃんとイメージできてない不安があるんですかね。
そうだよね。うんうん。
そのままで大丈夫ってことね。
大丈夫です。
よかった。
今回もそういう理とか木とかを使いながら、より人間でいうとこうだよねっていうふうに具体化していくので、
そしたら聞いていただけるとよりイメージが湧きやすいかも。
わかりました。じゃあ次回ですね。今回の話を踏まえつつ、より深く趣旨学に踏み込んでいくというところで楽しみにしていきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。