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そういう哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
陽明学第3回ということで、今回もやっていきたいと思います。
今回は、知行合一という言葉をテーマにやっていくんですけれども、
知ると行うは一つに合わさるという感じですね。
前回の最後にもお伝えしたんですけれども、それも要注意ワードなんですよ。
要注意っていうのは、やっぱり知行合一っていうのを僕らは聞くと、
なるほど、知ることと行うことが一つだよね、と。
つまり、知ってるだけじゃダメで、要は行動しなきゃ意味がないんだ、みたいな、
そういう報道重視みたいな感覚で言ってられることが多いかなと思うんですよね。
陽明学のイメージって勝手にそんなイメージで持ってたら。
実践論みたいな。
そうそう、実践しなければ意味がない。
これ知行合一でやろうと思ってるんですけど、陽明学が日本に入ったときに、
そういう受け取られ方をして広まっちゃったりとかあるらしくて。
はいはいはいはい。
たぶん僕らのイメージはそこから来てるんだけど、本来の知行合一はそうじゃないんですよって話を今日はしていこうと思っています。
なるほどだし、学校でもより実践性を意識した学問ですみたいな慣れ方しなかった?
大陽明、陽明学?
陽明学。
どうなんだろうな、どうなったか覚えてない。
より実践みたいな。なんでだろうな。古典ラジオの吉田松陰のイメージが強いのかな。
学校に持ってきた受話記者とかはそうかもしれないね。
ああ、そうなんだ。その辺のイメージはある?
ある。どこまで考えてもいけないと思うけど、趣旨学に比べれば確かにより実践的なのよ。
もっと言うと、趣旨学はどこまで行っても、もちろん知るも行うも大事なんだけれども、やっぱり知るっていうことが大事だっていうのが趣旨学なんだよね。
でも大陽明さんは、その知ると行うは一つだって言ってるのよ。つまり、正しく行いなさいじゃなくて一つだって言ってるのね。
ああ、なるほど。
じゃあ一つって何よって話になるわけじゃない?
そうはね、分かんないね。だから今日の冒頭の今話している、行動をしなきゃ知とは言えないともちろん違うよっていう話はそこなんだね。
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一つだよって。
一つって何ぞやって。
それを今日はしていこうというところなんですけど、ここにね、すごい前回お話しした中で大事になってくるのが、現在っていうキーワードで、
前回、現実存在っていう言葉があったときに、真ん中の一つを取ると実存になって西洋っぽくなります。
上と下を取ると現在になるんですよって話をしたと思うんですよね。
普通現在って言うと、今の時間っていう話で捉えるじゃない?
大嫁さんの文脈での現在、ちょっとこれは前回も言った通り、それが中国語でも現在と言ってるのか、日本語に訳したときにそういうふうに言ってなかったか、ちょっとごめん、僕もちゃんとそこ分かってないんですけど、
要するに現にあるっていうふうな読み方で、現っていうのが今この瞬間にあるっていう、まさにそういうふうな存在性のことを現在っていうふうに言ってるらしいんだよね。
で、今言った、時効合一っていうのも、今この瞬間とか、そういう現在、今あるということの考え方とめちゃめちゃリンクしてます。
なので、そういうふうなことを念頭に置きながら今日お話を聞いていただきたいんですけれども。
まずね、ちょっと前回と同じように朱子学から入ってくるんですけれども。
朱子学ってさっき言った通り、地が先で行うが後ですみたいな話とか。
朱子学で言うと理っていうものは定局、要は本当の世界の始まりみたいな、ある種理っていうものがあって、それが人間の本性としての性にあるよっていうふうな話だと思うんですよね。
で、その中である種外の理だよね、つけなら竹の理っていうものを理解していくことで、僕らは本当の理に近づいていきますよと。
なので、要は本当に言葉で出ちゃうんだけれども、やっぱり外にある理をまず知る。
それを正しく知るっていうことがまずは第一で、それをある種行うというか、それに基づいて行動するっていうのはやっぱりその後みたいな、そういう修練のプロセスなんだよね。
これを工夫とかって言ったりするんだけれども、なのである種インプットとアウトプットをある種繰り返してやりましょうみたいな、そんなふうな発想が朱子学なんですよ。
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なるほど。だからインプットのほうが大事なんだね、どうしてもね。
どうしてもね。やっぱり両方もちろん大事。アウトプットを知らないとインプットはないというか、意味がないんだけど、やっぱりどうしてもそもそも時間のプロセスの中で、
まず学びましょう、そして実践しましょう、さらに学びましょうっていう、やっぱりそういう呪術なりというか、連鎖が起きてくるんだよね。これが朱子学です。
何回も言っている通り、ただそのプロセスの果ての果てには成人にはなれないっていう現実があります。
というのが朱子学の時間の感覚なんだよね。
なるほど。
で、やっぱり大辺さんここにも疑問を持つんですよ。何でかっていうと、分かりますよ、それを正しく知って、正しく行えば成人に近づくっていうのはもちろん分かるんだけど、
正しく知ってもやっぱり行えないとかさ、あるいは行ってはいるような竹の利を追求しようとして一生懸命、竹を本気で向き合ってるんだけど、
でもこれが本当に竹の利ですかって誰も保証してくれません。それが本当の地か分かりませんってことが起きるわけだよね。
うん、なるほど、確かに。
っていうときに、それは言葉では正しく知って正しく答えましょうってすごいいいんだけど、
本当に実践しようとか実現しようと思うときにやっぱり無理じゃんっていうふうに大辺さんは思っちゃったわけですよね。
そうなると彼は何を考えるかっていうと、自分は正しく知れないんじゃなくて、そもそもこういうふうに外の利と中の利を分ける。
それがまさに正則利じゃなくて真則利だって前回言った話なんだけど、外と中を分けるのがダメだっていう話とか、
あとは知るっていうことと行うっていうことを分けて、先に正しく知りましょうっていう、そういう分析的な発想自体がそもそも間違ってるんじゃないかっていうふうに考えるんだよね。
ここのイメージって沸くかな?
いや、まだイメージは沸いてないと思うね。
オッケー。
じゃあちょっと地方合一とお金が一つあるとどういうことかっていう話が、これもノートアップで話があるんだけれども、
例えばどういうことを言っているかっていうと、例えば美しいものがあったときにそれを好みますよねと。
悪臭、臭い匂いがあるときにそれは嫌ですよねと。
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それって要は美しいってのを知ったから好きになるとか、これは臭いっていうのを知覚したから嫌になるっていうふうな時間の連鎖じゃなくて、
そもそも何かを美しいと聞いたときには既に自然と好んでいるよねと。
つまり、綺麗だっていう認識とそれが好きであるっていう気持ちとか、そういうアクションっていうのって一緒に起きてるよねっていうことを考えるんだよね。
おー、なるほど。ちょっとイメージできた。
そう。なので、それって分けられません。知ることと行うことは分けられませんって言うんだけれども、
でもやっぱり弟子たち、要は子育てにハマっている人たちが嫌嫌って言うんだよね。
つまり、美しいとかはそうかもしれないけれども、
例えばそういう受教的に言うと、親にこうこうするとか、
そういう偉い人を慕うとかっていうことがあったときに、
それは世の中の方にそういうこうっていう考え方とかを慕うっていうふうなやり方があって、
それを知らないと、結局僕らはどういうふうに親を慕っていいのかとか、
偉い人を敬っていいのか分かんないじゃないですかっていうことを言うのね。
つまりそれは知る、その法とは何かっていうのを知って、それを行うっていうのが分かれてるはずなんだけど、
嫁さんは嫌嫌、違うんだ。そういうふうに抽象的な法と敬うっていうものがあって、
それを自分がするっていう発想はそもそも違うんだと。
つまり、その敬うものとしての自分とか、親にこうこうするものとしての自分っていうものが離れて、
法とか敬うっていう発想はないんだよっていうふうに考えるんだよね。
つまり、知として、要はみんな勉強するわけじゃん、私学。
嫁さんになるためにいっぱい勉強するんだけど、そういうふうにすると結局そもそも中にとか、
世の中のどこかにやっぱりそういうね、敬うことの理があるというふうに思っちゃうんだけど、
そうじゃなくって自分の心の中にその理は全部あるんだから、
それを自分だから出すっていうときには、知ってることと行うっていうことは常に一致してるというか、
お持ちに出てくるんだよっていうふうな発想なんだよね。
はいはいはい。あー、見えてきた。
ちょっと見えてきたかな、この辺で。
何気的に言うとどうだろう?
よく儒教をベースにしたものから、ここまで持ってっちゃいけないっていう感想なの。
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面白いね。
カントがコペルニクス的展開だっけか、なんだっけ、あったように、
応用でも儒教から伝わらないのに、儒教を朱子学に対するコペルニクス的展開をしているなと思った。
はいはいはい。でも面白いと思う。
どうしても多分儒教をベースにしてると、やっぱりさっきの敬うだったりとか、
あとはその儀礼だよね。誰かが亡くなったときにこういうふうにお葬式を挙げて埋葬しましょうみたいな、
全部がルール化されている。
さっき朱子学を学んだ人が、そういわれましても応用名産と、
例えば親を敬うとか、友達を大事にするとか、そういったのってどうすればいいかわかりませんっていう感覚も、
儒教をベースだと、それはそれでわかるんだよね。
そうね、そうそう。
全部が答えがあるから、全員世界観だからそれは。
うちらともうちょっと馴染みが欲しいかもしれないけど、さっき言った奉仕の礼儀、儀礼みたいなもの。
こういう順番でこういうふうにして、ここに棺を置いて、こういう風に傘付けをして、
花はこういうものを置いてみたいなものと、
同じレベルで親をどう読まればいいかとか、友達にはどうその礼を尽くすかみたいな話が、
全部答えがある世界観だと多分思っちゃってる人たちが、
応用名産に対して、どうすんのそれみたいな、
言ってることわかりません。
思考合一の意味がわかりませんっていうのはすごく自然なことだと思うんだけど、
一方でここで応用名産が言おうとした、
じゃあちょっと皆さん冷静に考えてください。
例えば、お葬式の儀礼にしても、
例えば友達を大事にする、親を報告するみたいなときも、
本来の本来の本来は、
例えば尊敬するとか、もしくは大事な、
王様が亡くなりましたと、
領主という人が亡くなりましたというときに、
みんな尊敬してるからこそ、
心から敬ってその人への気持ちを表現すればどうしたらいいかっていうのに、
水道家さんへの結果が出てきたのが、
儀礼における形としての儀礼じゃないですかね。
友達に礼を尽くすとか、親報告っていうのも、
やっぱり親は大事だと思った人が世の中にたくさんいて、
その関係を大事にしてきたからこそ、
皇みたいな概念とか、
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神みたいな概念が出てきたんじゃないですかね、みたいな、
儀礼ベースなのか、本質ベースなのかというか、
そこが逆転していて、ちゃんとそっちから持っていく、
本質の方から持っていくっていうスタンスを取り戻すんだ、みたいな。
そういうイメージがした。
そうね、そうね。でも本当にそれは近いし、
さっきナイキがプロニクス展開って言ってくれて、
それも引き継げすぎるわけにはいかないんだけれども、
やっぱり外にあるものじゃなくて、
自分の内側にも基準がある。
でも大山はそういう内側に基準があるか。
それにやっぱり言い切ってるとかもそうだし、
まさに本当にさっきの葬式の話もそうなんだけれども、
本当の意味で慈しむとか敬うとか、
そういうことをしようと思ったら、
ある種自然とそういう行動って起きるよねと。
だからある種、肩にはまってそれをやるんじゃなくて、
本当の意味で今自分がやるべきと思うこととか、
今自分が本当にこの場にふさわしいと思う礼を尽くすっていうことをやっぱりやる。
それこそが、前回とさっきの純金100%みたいな話をしましたけれども、
まじり気のない自分の本当に善っていうものを発揮することなんだよと。
それがそのまま成人の道なんだっていう話なんだよね。
だからこれを分けて、例えば親が亡くなりましたよって時に、
じゃあ正しい葬式の仕方をまず知らなきゃとか、
本を読み解いて、こういう時にこういうことをするんだってことを知りましたって言った時に、
もちろんそれは普通に考えれば大事なことなんだけれども、
やっぱりそれってちょっと分断されてるよね。
自分の善を発揮するっていうところに対して違うよねっていう。
もちろんこれはかなり身近な例にしたって言うから、
病名だけを評価らせても違うよって言われちゃうかもしんないけど、
でも発想としてはそういうことだよね。
そうだね。やっぱそっちの方があまりに先行してる感じがする。
そうそうそうそう。
近いかなと思う。
それがないとダメだよって言いすぎちゃうと、やっぱり違うよねっていう発想になってくるんだよね。
なのでさっきのストーリー、いわゆる良い香りを入れる瞬間に好きであるみたいなことと、
相性のことはイコールではないけれども、
人間の何かを知って行動するっていうことを分断するって意味では、
やっぱり同じ概念なわけなんだよね。
そうだし、自分は同じだと思ったけどね、そこ。
本当?それもすごいありがたいな。
花を見たときに美しいと思うとか、
匂い、臭いものが嫌だと思うのと、
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同じだと思うけどね、出所は。
例えば人が亡くなったとか、大事な人が亡くなったときに悲しいと思う、
そうした時点でじゃあどう弔いましょうって、同じだと思う。
そこの感覚まで持ってくれてるのはすごいありがたいというか、
多分伝わりやすいと思う。
これもすごく難しくって、
出身家の人からすると、大嫁もそうなんだけど、
当然、仏教みたいなめちゃめちゃ難しい試験を受けて、
そこのために何時間も勉強して勉強して、やっと通ったみたいな話でいくと、
現代的に言うと参考コストがすごいわけよ。
要はそこに向かって自分の修練をしてるわけじゃない?
時間も費やして。
それを誇りたいとか、それを使って未来をより良くしたいっていう発想に容易になるわけなんだよね。
そうだね、わかるわかる。
今までこんなに勉強して、しかもこんなに社会的にもちゃんと使われている、
意味のあるこの修士学、この学問を否定された気になっちゃう人もいるっていう話だね。
そう、なっちゃうし、やっぱり気持ち的にはそれは避けたい。
やっぱり過去の積み重ねで今があるし未来があるって思いたいじゃない?
でも大嫁さんはそうじゃなくて、
前を成すとか、成人になるっていうことでいくと、今この瞬間こそが大事なんだと。
だから過去に何やってきたかとか、未来どうなるかっていうことじゃなくて、
その瞬間に自分のまさに心純金に築いて、成人になるっていう、それが勝負なんだよっていう話なんだよね。
そういう意味では逆に厳しいとも言える?
難しいとこはね。厳しい。
でも大嫁ほどの人だったら、今の話、今の観点だったら、ちゃんと対話で納得させられそうだけどね。
修士学、ガチ修士学勢にも確かに思わせることはできそうだと思うけどね。
そうね。思わせられるんだけれども、やっぱり大嫁さん死んだ後に2個ぐらいに分かれるのかな、陽明学の学派も。
え、そうなの?
そうそう。ちょっとこれ君にそれちゃうんだけれども、いわゆる陽明学、左派と右派みたいになって、
要は求心的に世の中を変えてやろうみたいな人たちと、もうちょっと恩恵派みたいに分かれちゃうんだって。
どういうことかって言うと、要は今この瞬間から変えていけるとか、
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この一つでやっぱり成人の道が開けるとかっていう、そっちに飛びついてしまうと、
結局は何かを積み重ねて頑張るんじゃなくて、社会的になるというか。
あー、なるほど。
だから、例えば儒教とか朱子学でいう、儀礼にも、これって陽明学側から考えても、
さっきの繰り返しだけど、本来的にはそういう思いを持った人だよね。
非常に思考合一的な思いを持った人が、いろんな人が作り上げてきた、
結晶とも言えるわけだよね、逆に。儒教とか朱子学の体系っていうのはね。
そこをあまりにも軽んじるのは危ないと思うよね。
そうなんだよね。
それはそれでいいし、陽明の言うことを何者だと思うかもしれないけど、
分かってない気がするよね、その人たちは。
確かに。
陽明さんがいるね、ここに。
お前の知ってる陽明さんは違うみたいなね。
どっから来たの?っていう。
確かに。
だから、本当にその通りで、過去を積み上げてきたものをある種、尊重できない。
否定してた方がかっこいいってなっちゃうわけだよね。
なるほど。
だから例えば、本来であれば、本当に善を成し遂げようとか、他の人と調和して生きていこうと思うと、
そういうものにも理解を示すし、神と既存伝統にも尊重しながら、
より良くしたらこうだよねとかってなっていくはずなんだけど、
そうじゃなくても既存の秩序はやっぱりぶっ壊せとか。
意味ないって。
否定してしまえみたいな、そういう人たちも出てきちゃったみたいなのよね。
怖っ。
面白いのが、そういうのを見て、同じ陽明学系の人からも、ちょっとそれやりすぎだよとか、
大陽明だってそういうこと言ってるわけじゃないんだよ、大陽明学派内でも言うんだけど、
そうすると素直の人からすると、お前らはそんなことを言っても史詩学と一緒じゃねえかみたいな、
過去を縋って、未来、今を生きてないじゃねえかとかって言われちゃうと、
それはそれで苦しい反論なんだよね、確かに。
言われちゃうと。
すごい腑に落ちない顔してる。
わかるね。もうちょっとここは深く考えないとわかんないな。
でもやっぱり、大陽明さん自体はバランス学ももちろんあったし、大事にしては語ってはいるんだけれども、
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受け取り方次第でそういうことにもなってしまう。
それからさっき言った現実存在、現在を大事にするイコール過去を否定するわけじゃないっていうところの難しさというか、
やっぱり捉え方っていうのはあるんだなって思うんだよね。
確かにね。ここまでの話だと、さっきの求心派というか標高派みたいなふうにも全然使えるような形ではありそうだもんね、確かに。
そうなんだよね。
今少し話がされちゃったんだけれども、
今回言ってる思考合一。もっと言うと、さっき言った知ると行うのが一つであるっていう話は何となくイメージ湧いたかなと思うんですよ。
ちょっとだけ繰り返すと、要は知るっていうこと、美しいものを見るとか、親、親子でいけば亡くなるっていうこと自体がすでに一つの世界との関わりなんだよね。
その時に綺麗だって思って、それをもっとじっと見て近づくとか、嘆き悲しむとか、親しい人の別れっていうものを正しく行おうとするとかっていう行為も全部本当の一つ。
要はそこって切り離さないんだっていう話なんだよね。
これがまさに前回言った親創りみたいな話で、要は心も性と情ってあるかもしれないけど、これはやっぱり切り離しちゃダメなんですよと。
これ全体がぴとつの禅の働きであるから、そういうふうに分けて情を切り離すみたいな、父子分けの考え方っていうのはあんまりロジカルかもしれないけど現実的ではない。
同じように知ると行うを分けて、正しく知りましょう、正しく行いましょうっていうのもロジカルなんだけど、実践しようともっと正しくない。
そういう意味では、兄貴が言った応用名は実践的だっていうのは、そういうところから切るのかもしれないね、イメージとして。
なるほど、なるほど。そうだね。そういうふうにすればいいけど、その実践を最初の行動こそが、みたいにやっちゃったらおかしくなっちゃうってことだね。
そうそうそう、そうなんです。ここはすごく難しい。
やっぱり僕らってどうしても二言論的なというかさ、外と内とか感情と理性とか、やっぱり知ると行うとどうしても分けて考えちゃうし、それが知性の働きだって思ってるじゃない。
分析するとか分けて考える。分けるは分かるみたいなこともあるし、それも一定真理なんだけど、少なくとも応用名さんの考え方からするとそれを分けない。
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その知るっていうことが行うっていうことをまず包んでいるし、行うっていうことが知るってことを包んでいる。そういうふうにお互いに影響し合ってるものだっていうことが、
まさに知恵合一って一つに合わさるっていう言葉なんだよね。というところが知恵合一の意味なんですけれども、じゃあねっていう話なんだけど、
そういうところで言って知恵合一の話はできたりするんですけど、もうちょっとこれを深めようというか、ちゃんと応用名さんの考え方を理解しようというところでいくと、
さっきまでと言うと、知って分かるとか分けるみたいな話で近いと思ったときに、僕らって知るって情報をまずインプットするとか、それを正しく把握するみたいな、
結構頭の活動として捉えがちじゃないですか。やっぱり頭で理解して体を動くっていうふうに、頭と体を分けるか、そういうふうな発想は結構強いと思うんですけれども、応用名さんはそれが全然違うんだっていう話なんですよね。
つまり、もともと当時の発想で言うと、心が、前回言った通り、いわゆる理性とか意志とか参上とかって全部の場だって言ったじゃないですか。
なので、何かを知るっていうことも心の動きだし、それに対して何かを思うとかっていうのも心の動きなんですよ。なので、知恐合一っていうのは、それがイコール全部心の働きであるのというものが土台にあるって話なんだよね。
さらに、心俗意論って心が全て理じゃないですか。いくと、いわゆる何かを知ったり行ったりするっていう、それ自体がイコール理に繋がってるんだよね。この繋がりってイメージは。
だから、朱子学は外にあるものだよね。折り返すことでどんどん理に近づいていくのが、みたいなさ、あらゆるものを知ってくる。
自分が知恐合一っていうスタンスで物事といろいろ関わり続けることで、自然と理に繋がっていくのだ、みたいな感覚に近いのかなって思った。
これちょっと前回の補足になっちゃうんだけど、前回、心っていうものをテーマにすることで、自分で判断ができますとか、それについて議論できるようになりましたって話をしたじゃない?
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したっけか。
したんです。朱子学だと基準がわかんないけど、基準がわかるようになって、証人欲求が満たされるようになったみたいな話をしたと思うんですけど、
その流れで、その流れでたときに、心の動きが表に出たものが、こうなんですよ。何かを知るとか何かを行うって分けられないからね。
だとそれが理だっていうときに、要は、表に出た何かを見る、知るっていうふうな行為、まあ特にそれが行為なんだけど、
それをちゃんと正しく捉えられると、その人の心も捉えられて、それが理に近いか、理とちゃんと繋がってるかっていうことがわかるみたいな。
そういうのが一方に繋がるんだよね。
はいはいはい。そういうことがわかると思う。
そう。で、これちょっとこれ、大山さんそこまで言ってるかってちょっと今わからないまま、
ちょっと今僕の中で繋がったから話しちゃってるって思ってるんだけれども、
なのでその、前回ちょっと心側理と知行合一と治療合一って3つはキーワードですって言ったじゃない?
で、心側理がちょっと半分で、知行合一がわかるとそれが全体見えてきますって感じだと思うんだけれども、
つまり僕らって心っていうものと知るとき行うっていうものって、要は別々のものが捉えてるじゃないですか、普段生きてるとね。
そうね。
だから知は頭の働きです、で心は感情だし、行うは体だしっていうふうに分かれてるんだけれども、
大山さんの中で言ったらそれが全部一つなんだよね、言葉が違っても。
なるほどね。
なので、今伝えたいなと思ったのは、やっぱりそういう知ると行うのが一つであって、
それを適切に発揮していくっていうことはイコール心の善が出てるってことだから、
外から見ても、やっぱりその人の心の純度というか、純勤の質っていうのがわかる。
で、それが理につながってるかってこともわかるって意味で、やっぱりそれがすごく実践的というか、
ただ学んで知識を蓄えるだけとか、ただ知らんぷりして動いてるだけってことは全然違う。
うん。
っていうところの、やっぱり趣旨学との違いっていうのはあったんだなっていうのを、
今改めてすごい自分で腹落ちしたんだよね。
何と何の違いだ?
趣旨学の、やっぱり知って行うっていうふうなプロセスの違いと、
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プロセスと陽明学の知恐合一、それは心の働きであるっていうところの違いが、
本当に思ったより違うなっていうのを、ちょっと今自分の驚きを伝えようとしてるんだけれども、
自分が思ってたよりも違うんだっていうことを今気づいたんだけど、
それがどのぐらい違うかっていうのは表現できないなと思って。
はいはいはい。
ちょっと今、すごい分かりにくい話一回しちゃうかもしれないんだけど、
前回と今回、キーワードとして現在っていう現にある、今この瞬間にあるよって話をしてると思うんですよね。
それが陽明さんの特徴だよってお伝えしてるところがどこまで伝わってるかっていうのは、
ちょっと僕も自信がないんだけれども。
はいはいはい。
何かっていうと、知恵はやっぱり分かりやすい。
要は、さっきも言った通り、知ると行うっていうのはプロセスにして、これより未来が良くなるとか、
ここは自分は無知だったかもしれないけれども、その知識を得ることで政治に近づいていくっていう、
現在未来っていうふうな発想がすごく強いんだと思うんだよね。
趣旨学だとそれが分かりやすいんだね。
趣旨学はそれは分かりやすいし、僕らの普通に生きてる感覚としても成長するとか、変化していく。
どんどん良くなっていくっていう感覚ってあるとしたときに、そこにすごく馴染みやすい。良くも悪くも馴染みやすいんだよね。
今回のシリーズでいうと、趣旨学と陽明学どっちのほうが今のうちらっぽいかって言われると、
趣旨学のほうがちゃんと物事を知ってから正しく行動しましょうみたいな、そのほうが馴染んでる気がするよね。
そうそうそう。
やっぱり当時の人たちも趣旨学的な発想、要はまず知りましょうとか、まず世の中に基準となる敬うやり方とか例がありますよね。
それをちゃんと知るっていうことが大事ですよねって当時からすごいあったわけなんだよね。
僕らが知識を得るとか何かを知るっていうときに、外にある血を中に入れるっていう感覚って実はめちゃめちゃ強いと思ってて。
つまり自分の中にないものを外から得るっていう感覚だよね。
それが強すぎるわゆえに、僕らって今大陽明さんの言ってることのすごさがわかってないんじゃないかって今思ってるんだよ。
あー、なるほど。早く伝えようとしてるものの土台がわかった、今。
わかった、うん。
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まずね、前提で。
前提として、あまりにも僕らは趣旨学っぽい発想で生きているがゆえに、陽明さん言ってることを何ら言葉は理解してるけど、そのすごさが本当に腹の底からわかってないかもって今思ったのね。
これね、今すごい面白いことやってると思う。
っていうのが、当時の趣旨学やってた人たちが、この大陽明が話してることをどれだけ理解しづらかったのか、腹に落ちなかったのかっていうのを、今、技術体験うちらはできてるって話だから、多分面白いと思う。
そうなんですよ。
だからあれでしょ、今のハヤトが言った前提で、趣旨学的なプロセスではね、正しく知って正しく行うっていう形で、陽明学を正しく知って正しく陽明学を行おうとすると、おかしなことが起こるんだよね、多分ね。
おかしい。それも趣旨学なんだよ。
っていうことでしょ。
そういうこと、そういうこと。陽明学じゃないんだよね、それは。
そうやって学んだ陽明学は陽明学にはなり得ないっていう話。
なり得ない、そう。
っていうふうな話があるなと思うときに、陽明学って何っていうと、まさにそもそもあなたの心が善であることを知りなさいと、それが理であることを知りなさいと。
それを本当の意味で理解できたとすると、あなたの何かを知るとか行うっていうことも全てその心の働きであるっていうことが自覚されますよねと。
そうすると、その自覚したあなたは何をやるにしても常に理と繋がっていますとか、常に善というものと接続されたあなたになります。
それってもう聖人ですよねっていう発想。
はいはいはい、あーめっちゃわかる。
で、自分というものをある一瞬のうちに作り変えられるというか、世界が本当にガラッと変わってしまうぐらいの発想になるなって思ったのよね。
はいはいはいはい。
それはやっぱり大陽明さんが、本当に死ぬ思いをしてこれってやっぱり思ったことなんだって、1回の時も言ったけど。
だからちょっと笑い話っぽいけど、たてを7日間見たっていうのが、一覧はもう以上にガチだったって話だね。
そうそう、それもガチだし、撮影祭で子供通じない、土曜かも違うところで石の部屋を作って、そこで修行をそういうふうに誘ったわけなんで、自覚したことなわけなんだけど。
はいはい、そこでめっちゃ考えてるのも苦行というか、本当にね。
そうそうそう、本当に苦行というか、死ぬ思いをしてやってたんで。
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はいはいはい。
その果てに出たのが、自分はやっぱりそんなに求めたからダメなんだと。一生できないから、だから内側、今この自分に求めるんだっていうこの疎通転換っていうのは、すごい設立は終わったはずなんだよね。
っていう時に、今僕話しながらすごいちょっと震え肌立ってるんだけど、やっぱりその自分の中に本当に天につながる道筋があるというか、むしろつながってるんだけど、それ気づいてないだけだみたいな自覚が本当にできたとしたら、それも素通りだなってやっぱ思ったんだよね。
そうだね。だから朱子学を、たぶん応用名があると思うんだけど、朱子学的なその儀礼とか知識みたいなものを否定した、倒した上に自分応用名が立ってるんじゃなくて、むしろそういうのを大事にしてきた人たちだからこそ、この応用名の考え方を自分の心ではね。
そっち視点に移すことで得られる自由とか、そういうひとつだからこそ、一瞬で、いわゆる大局とか儀礼みたいなものとつながる感覚を得やすい感覚って、たぶん応用名はある気がするんだよね。
確かに。
わかる?この感覚。
わかるわかる。やっぱりそれは朱子学的な場合とか、そういうようなまわびがあるからこそって話だよね。
こそ。だから逆に言うと、用名学しか学んでない人も一方で、その応用名の感覚を持つのは意外と難しいかもっていうことが起こると思うんだよ。
本当それはそうだね。
たぶん今、かやとか鳥肌立ってるっていう話があったから、たぶんこの話、わかると思う、伝わってる気がするんだけど。
ちょっと難しい話になってきてる。
聞いてるパターンにね。
なんか上手く言語化できないんだけど。
大野兄貴の話は本当にそうで、たとえば先ほどね、いわゆる応用名さんが死んだときに別れるよ。旧神波濤、さはとるはにって言ったじゃないですか。
もし、仮に応用名さんの用名学がめちゃめちゃ流行って、初めて今朱子学系やったことないけど用名学を知りましたって言ったときに、過去の積み重ねとかないわけじゃん。
学びとか学習とか。
でもその人が何にもない中で、よし俺は今から聖人になれるんだって言って、いろんなものを持たずに、自分の心は聖人で理に繋がっているから、俺も聖人だって言い出したら、それは全然違うよねって思うんだよね。
42:07
でもそれはもしかしたら、朱子学的な過去の積み重ねがあってこその聖人だっていうのに捉えているかもしれない。
だからこのバランスがめっちゃ難しくって、本当は過去なんか関係ない、積み重ねなんか関係なくって、今この瞬間あなたは聖人になれるっていうのは本当なんだけど、
でもそれを言うには、自分の心を磨くとか、純金であることの大事さっていうことを本当に思う瞬間では大事だったはずで、
その経験をやっぱりいかに持ってるかどうかが、この陽明学を正しく使えるかどうかなんだろうなっていうふうに思ったっていうのが、何か言った話に対する自分なりの言語化かな。
うーん、そうだね。さっき陽明学だけ学んだ人も難しいみたいな話をしたけれども、たぶん難しいんじゃなくて、今早く言った本当に自分が純金になっていくのだとか、
金があるのだっていう感覚、だから自分の中に心があるのだっていう感覚を持った人は、朱子学を知ってるとかそういう表面がどうだとか、そういうの関係なしに、自然とたぶんそういう知識みたいなものも求めて、同じようなところにたどり着く感覚はあるかなと思った。
本当に自分の純金を大事にするという気持ちになればってことでしょ?
そうそうそう。そういう感覚の人が、いわゆる社会的な一般常識だったりとか、マナーみたいな、儀礼とか、
別の文脈で磨かれてきた、そういった歴史的な良いとされているものを、無批判に受け入れたり、それのことをちゃんと知らずに、逆に打ち壊そうとしたりはしないはず。
いや、そうだね。これってあれだわ。成人になりたいっていう思いをちゃんと持って学ぶかどうかだね、本当にこれは。
あー、思いを持って学ぶか。
うん。要は、朱子学とかがんばったかっていうと、自分が成人になるとか、その境地に至るっていうことはやっぱり本気で追求したからじゃない?
うん。
やっぱりその思いがどこかにあれば、やっぱりこう、何だろうな、下向きを持ちながらも、でも今この瞬間に自分が成人とつながってるっていう感覚を大事にできると思うんだよね。
うん。
45:00
なんかそれがゆるいとか、なんとなくみんなが成人になるとかさ、ほいって言われるかどうか、俺もやってみようぐらいの感じだと、やっぱりすごいふわふわしちゃうというか、
やっぱりそのスタンスってものが応用名の朱子ゴーイスとかね、新束理っていうものの実践にめちゃめちゃ影響するなってやっぱ思った。
あー、そうね。だからその状態で言うと、今回の言葉を使うと、いわゆる朱子ゴーイスの段階で、自分の心で行ってないじゃん、それ。
あー、なるほどね。確かにね。
だから朱子ゴーイスが成り立ってないって思うんだよね、それ。
あー、はいはいはい。
自分の感覚で朱子ゴーイスの感覚じゃなくて、誰かの感覚だったりとか、誰かがかっこいいって言ってるからっていう感覚で、例えば花は綺麗だと思わされてるとか、言わされたりとか、花は綺麗だと言わなきゃいけないんだ、みたいな。
はいはいはいはい。
そこが濁っちゃうんだと思う。
うん。あー、確かにね。それはそうだね。
だからやっぱりすごい難しいなって改めて一周回って思ったのが、思ってもあまりにも、本当に純粋無垢なものとして大嫁は捉えてるんだよね。
だし、その点で言うと多分、ナチュラルに大嫁はそういう心を持ってたから、もちろんね、弟子とかの問答で、こういうケースもあるんだ、こういう人もいるんだっていうのはめちゃくちゃ多分もうわかったと思うんだけど、そこはナチュラルに持てたんだろうね、と思うよね。
うんうんうん。そうね。いやー、面白いなっていうか。今ね、今日こうやって話してる中で、大嫁に一段深く理解できたと自分は思ってるんだけども。
でも、それがみなさんにも少し伝わってたら嬉しいなと思うのが、前回のシーン削減ってなって、今回の地口合一でやりましたっていうときに、それをもちろん僕らは、今こうやって話しながら聞きながら学んで勉強していくんだけれども、
やっぱりその、それに留まってたらダメだというか、やっぱりそれを話しているこの話すという行為とか、それによって地域を見るという、まさに地っていうものをちゃんと連動させていかないと、本当の意味で読めなくてわからないなっていうのを感じたんだよね。
難しいね、共見がね。
そうとしか言えない。だって上手くやらなきゃ開けられないんだもんなって。
だからさっき話してた趣旨学、うちらは主旨学の立場だから、やっぱりその視点から応用、読めなくても知る難しさの話。
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僕ら何かを学ぶっていうときに、そういうやっぱり構造に、このときは優先しちゃう。外にある正しいものを受け入れるっていうことを優先しちゃうから、うちにある正しさを発揮しようとか、そういう風な学び方をやってないんだよね、僕らはやっぱり。
でもこれってめちゃめちゃ怖いし、めっちゃ大事だって。特に子育てとかそう思うんだけど、外にある正しさを詰め込むっていうのは教育だって思っちゃうけど、子供の本当のやりたいことを引き出してあげるとか、思ってることをやっぱりなさせてあげる。
そういうのが近いと思ってて、教育っていう観点で言うとね。そういう風な学び方も大事なんだって、今めちゃめちゃ腹落ちしたなって思ってるんですよね。
そうですね。これは面白い題材だし難しい題材だなってテーマかと思ったんだけど、うちらが一般的に修士学的な、学ぶ方がみたいな感覚はたぶん馴染んでるというか、
高くて、いわゆる職人の世界だったりとか、あと伝統芸能的なのとか、武道、武術でもあるんだけど、ここに肩から入ることで、それって重点的じゃん。
その根本の思想は、まずいいから真似ろと。まず真似ろと。その中できちんときちんとやっていくことで、最終的にそれを通じて、身体的なとか表面的な型を通じて、その本質に至るのだ、みたいな。
それはそれで一つのルートではあると思うから。ただ、それだけになっちゃうと、この陽明学は理解しづらくなっちゃう。
そうだね。できないね。
あと、修士学みたいなものをちゃんとやった人が陽明学を理解すると、その本質部分がインストールされてとてもいい感じになるみたいな。
リーとかと接続された感覚になるっていうのは、まさにさっきの肩をちゃんと理解した人であれば、その本質に至る可能性があるっていうところの、きっかけみたいな。
このようなすごくなりうるっていう意味での陽明学の面白さみたいなものを、修士学視点から考えると感じた部分。
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だからこれもバランスの話だなとは思うけど、だからこそ難しいんだろうけどっていう。ごめん、自分もうまく伝えられてるかわかんないけど。
ちょっとごめんなさい、最後混乱してしまったというか、僕らもまだ言葉にできないものを言葉にしようと思ってしまったんですけども。
面白いなって思ったものを、ただただ。
少し話をまとめていくと、最初は知恵と合一っていうテーマがあったときに、いわゆるアクションが大事とか、行うことで知るということが強化されることじゃなくて、知ると行うことを分けない。
知ると行うっていうのもイコール心の働きだから、心とイコールだしって繋がるし、それが真則理で理にも繋がるっていう、やっぱりこの本等のところが、大陽明学のやっぱりすごいことなんじゃないかっていう話を発見させていただきましたと。
本で書いたわけじゃないから、僕は勝手に今言ってるんだけど、でも間違ってないと思うんだよな。
で、いうときに、やっぱりそうなんていうのかな、今回も言ってた分けないとか、内側から見たときに、匂いを嗅ぐ、香りを嗅ぐっていうことと、それを好むってことが分けない。
そういうふうな発想で生きたときに、やっぱり見えてくるものとか、自分の中でやっぱり湧き上がってくるものってあるよね。
どうか、結構今回は面白いポイントだったんじゃないかというふうに思っております。
そういう意味ではね、今回は大陽明さんをどう感じたかって話だったんだけれども、実はそれに近いというか、
その心ってすごく純粋に捉えたんじゃないかとか、大陽明さんの心は揃ったんじゃないかって話をしたと思うんですけれども、
実はその心っていうものをさらに説明するときに、もう1個の最後のキーワード、この治療治、
致すとか、お願いいたしますを至るに良い治っていう、このキーワードが効いてくるんですよ。
そうなんだ、ほうほうほう。
というとこの良知っていうのがいわゆる心の在り方っていうか、ちょっと別名的な感じらしいんだよね。
そうなんだ、ほうほうほう。
なので、さらにその心っていうものを深く知っていくとか、今やっぱり思考を行うことと知ることと同じだよねとか、
人と繋がっていわれていると、心が結局、大陽明さんにとって一体何だったのか。
これがちょっと晩年というか、さっき言った通り左遷されたところで、いわゆる自覚したっていう話をしたじゃないですか。
さらに10年後ぐらいにこの治療治っていうことを発見して、めっちゃテンション上がったみたいな感じらしいんだよね。
ああ、そうなんだ。その実践の末で身体的に理解した感覚なんだね。大陽明自身も。
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どうなんだ、身体的な覚醒はちょっとわかんないんだけど、治療治って至ってやっと自分の言いたいことが言えたとか、本当に表現したことが表現できたっていうことだったらしいんだよね。
はいはいはい。
なので、前回と今回の話を踏まえながらこの治療治、僕もこれまだ言葉としてちゃんと理解できないんで、また勉強して次回台本作っていくんですけれども、
これを話す中で、より大陽明さんの残酷というか、そういったものをみんなで理解していきたいと思ってますという感じですね。
はいはい。わー、ちょっと今回面白かったね。
ねえ、この面白さ伝えてほしいなと思ったんですけど、完全に僕の中には、なんだろうな、一歩大陽明さんに近づいた感覚があったから。
何かは生まれた感覚があるんだね。
あったね、うん。
あんま長くしゃべらないけど、さっきのさ、バランスが難しいみたいな、陽明学的な心重視というか、知恵合一の感じと、
数字学のインプット優先、バランスが難しいみたいな話があったんだけど、
でも、今回陽明学だからそっち目線というか、そっちに重視を持って話すと、やっぱりこの知恵合一か、
感覚を持っていることのメリットというか、大切さみたいな話で言うと、
さっきハヤトが政治になりたいかどうかって大事だよねって話とここを繋がる気がしたんだけど、
例えばさっきの職人にレシリースするでもいいし、何か伝統芸能的なものをちゃんとマスターしていくでもいいんだけど、
それを、その型を勉強していくっていう時のスタンスとして、
趣旨学的にというか、あんま考えずにこの型こそが大事なのだっていうふうに、ある意味妄信して、
バカ真面目にそれをただただインストールというか勉強していくスタンスと、
知恵合一的な感覚で、自分はこうなりたいのだ、教えてもらった方ってこう感じるな、みたいなものを一個一個自分の中で咀嚼しながら、
この型を学べばいつか何かにたどり着くかもしれないと思っている。
それでその二つがあった時に、いわゆる習熟速度だったりとか、
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その本質に至るとか、気づくとこの深さ、速さってかなり変わる気がして、
よく昔話でもいいし、小説とかでもいいんだけど、何かを学ぶときに、天才的に早い人とかっているじゃん。
この剣術、なんとか流で剣術を2年で習得し、その次はこちらのなんとか流を3年で習得しみたいな人いるじゃん。
だからね、本当は10年かかるものみたいなやつね。
そうそう、もう一生かかってもお師匠さんから免許書いて2年でもらうみたいなさ。
そういう人は多分この至高両一モードを発動しながら、そういう型みたいなものとか、いわゆる儀芸的なものっていうかさ、
向き合う人なのかなって思った。
なるほどね。ありそう。今バランスって言ってくれて、これ最後にしようと思うんだけれども、
本の中にまさにそういうのが書いてあったなと思って、さっき大嫁さんが亡くなった後に、右派と左派で別れてって話をしちゃったじゃないですか。
これ亡くなった後じゃなくて、嫁さんが生きてる時からそういうのってあったんだって。
結構弟子から、どっちが本当に正しいのみたいな。
要は右派と左派は別れてってるけど、どっちが大事なんですかとかって言われるときに、一方を選ぶってのはしなかったんだって。
嫁さんが言ったらしいのが、右派、いわゆる恩恵派というか、ちゃんとやっていこうっていう人たちは、ある種能力に劣る人たちが右派だと。
で、才能に恵まれてるなら左派でもいいって言ってるらしいんだって。
わー、面白い。
つまり、才能があれば別に積み上げがなくても、その瞬間にやっぱり、ここから自分の成人と人生が始まるって思うよねっていう。
多分そういう感覚があったんだろうね。
そうだね。だから、社員の再発明にならずに、本当にお兄さんがそういうものを作れるって話だよね。
そうそうそう。才能があればね。
うん、あれば。ない人とかでも、おい1たす1、2なんだってよ、みたいな人が出るかもしれないじゃん。
うん、そうね。
才能ない人はっていうね。
うんうん。
簡単な話。
そうそう。で、やっぱりその、ただその本で書いてるのが、おい陽明さんからすると、なんでそんな風に分けちゃうの?
なんでそんな風に右と左で別れるってことを、やっぱり思っちゃうの?っていうところが、多分彼の苦悩だったんじゃないかって書いてるね、この本の筆者は。
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いやー、面白いね。
ねー。
でも主人覚的な方が常識だったとすると理解できるよね。
そうそうそうそう。
どっちが大事なんですか?どっちが早く至れるんですか?
いや、そうなんだよね。それはやっぱり人によるよ、才能によるよっていうのは、まさに今兄貴が言ってくれたことに多分近いよね。
はいはいはい。わー面白いエピソードだね、それは。
ねー。というのもあれだよね、今回第3回にして我々二人も結構おい陽明さん、余命学にだいぶ深く入ってきる感じがするんですけれども。
うんうんうん。
ちょっとね、まだ長さと続けようかなと思っているので、次回ですね、この治療地っていう3つのキーワードを扱う中で、ちょっとこれ今から台本付きなんですけれども、
よりおい陽明さんの世界を広げていきたいなと今僕も思ってるので、そこで一緒にぜひ楽しんでいただけると嬉しいなと思っておりますというところですね。
はいわかりました。では次回ですね、引き続きこのおい陽明の治療地というところでさらに深く楽しんでいきたいと思います。では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。