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2025-07-23 36:06

#337 朱子学と陽明学、結局どっちが優れてる?2つの学問の関係を考える

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

本エピソードでは、朱子学と陽明学の違いや関係を考察し、朱子学の性創りと陽明学の情の位置付けに特に焦点を当てています。それぞれの学問の実践的な側面や社会での応用可能性についても議論が展開されています。陽明学の実践的な側面や朱子学の限界が主なテーマとなり、王陽明の思想が朱子の未完成な考えに響き、個人の内面に焦点を当てた教育方法が強調されます。朱子学と陽明学の比較を通じて、それぞれの学問の特性や影響力が探求されています。特に、陽明学の実践的な側面とその魅力が際立ち、歴史的な人物たちの考え方や実践が紹介されています。受講者は、両者の関係や特徴を深く理解することができ、次回は江戸時代の日本における朱子学についての考察が予定されています。

00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、今回陽明学最後ということで、楽しんでいきたいと思います。
朱子学と陽明学の比較
はい、これはですね、朱子学、まず初期の朱子学をやりまして、その後ね、それを乗り加えたよ、というような陽明学をやってきましたよと。
で、前回はね、心即理、知恐合一、治療治、みたいな陽明学のキーワードだったんですけれども、なんか朱子学にもいろんなキーワードあったじゃないですか。
なんか、生即理とかさ、博物自治とかさ、なんか覚えてる?そういう言葉やったの。
大局とかね。 あ、そう、大局とかね、そうそう。 博物自治なんだっけなぁ、もうあの、忘れちゃったな。
そうそう、まあ程度まであるかなと思うんで、改めて一応両方まあ、なんとなく見てきたよねっていう中で、やっぱりこれをちょっと比較してね、もう一回ちょっと、なんだろうな、整理するというか、両方を取り上げる形で、なんか両方、朱子学も陽明学もやったときに、なんか今こういうとこまでたどり着きましたよね、みたいな。
そういうものをちょっと1回分やって、まあちょっとね、エンドロール的なというか、お話にしたいと思ってますというふうな感じが今回なんですよね。
なるほど、でもありがたいね、あの、このまま終わるとさ、いわゆる朱子学がちょっと悪者な感じで終わっちゃいそうな気もするし。
うん。だし、やっぱりその、次ちょっと日本編をね、やろうと思って、映像の哲学でやろうと思ってるんだけど、やっぱり日本で広がってるのはやっぱ朱子学の方だったりもするんだよね。
はいはいはいはい。
そう、なのでちょっともう一回朱子学リバイバルじゃないけれども、そういう話をする中で、えっと、まあ、なんだろうな、よく理解をバランスよくしていきたいなっていうところと、あともう一個が、前回もちょっとだけお話ししたんですけれども、
その、王陽明さんのスタンスっていうか、実際、要はいわゆる、王陽明さんって最終的には自分も聖人になったという人なんだけど、
ほんといわゆるそういう聖なる、なんかもう仕事もバリバリできて思想的にも優れていて、なんか国民、まあというか大衆を率いたような人なのか、
意外とちょっと先導家とかではないけれども、ビジネス的なところがあって、自分を売り込もうと広げようとしたのか、みたいな、ちょっとそういう話もあるんで、
はい、その辺まで伝えることで、ちょっと王陽明編最後にしたいと思っております、というような感じなんですよね。
なるほど、あ、そうなの。そんなビジネス的な話もあるの、なんか。
朱子学の基本概念
ある。うん、面白いんだよね。なんで、ちょっとね、お話していくんですけれども、まず改めて、朱子学とはなんぞやりたいところから少しやっていこうと思うんですけれども、
で、これもちょっとね、覚えてる方もいらっしゃるみたいな感じなんですけれども、やっぱり朱子学、朱器の考えたことの基本にあるのは、性創りっていう考え方ですと。
性っていうのは、王陽明編の第1回でもやったんですけれども、人間の本性っていうときに、人の心っていうものが性と情、いわゆる、なんだろうな、本質的な性質みたいなものと、いわゆる感情とか、なんだろうな、情動みたいな、
心っていうのはその両方があって、この情動的なものはやっぱりちょっと、なんだろうな、いわゆる欲求とかに近いから、少し低くやっぱり見ちゃうんだよね。
うんうんうんうん。
どっちかっていうと、やっぱりちょっとそういう何か、いいことをしようとかさ、子供を助けようとか思っても、自分の方が怪我するかもしれないとか、
はいはいはい。
あるいは、自分が損をするかもしれないとかって思うと、王陽明のような、この領地ではね、それが発揮できませんと。
うんうんうん。
やっぱりその情っていうものは、よくないものだよね。それを一旦抑えましょうっていうのが、朱子学的な考え方なんだよね。
うんうんうんうん。
で、そういう意味で言うと、やっぱりこの性っていう人間の本性をいかに実現するか、そのために自分というものをいかに訓練して鍛えていくかみたいな、そういうところがやっぱりあって、
なので、あくまでもやっぱり朱子の考え方でいくと、世の中の言葉理っていうものは、やっぱり自然の中に現れるもの、自分の外に出てくるものなんだよね。
うんうんうんうん。
だから人間っていうものは、やっぱりそういう情も性も両方持ってるから、やっぱり理想のものではないです。
うんうんうん。
そうじゃなくて、ある種やっぱり、これはちょっとごめん、朱子学の言葉じゃないかもしれないけど、自然ではね、竹の話とかもしましたけれども、
うんうんうん。
で、竹って別に情を持ってないじゃないですか。
持ってなさそうだね。
なさそう、おそらくね。
っていう意味で言うと、まさにその竹の本性そのものをある種見やすい、そういう単純化されたものにこそ、理をある種究明しやすいというか、探究しやすいというような発想もあったんだと思うんだよね。
ちょっとあの、博物知知思い出したけど、そういう話だったよね、確か、周りの理を知れば理の本質に至るのだみたいな、そんな感じだったよね。
そういうこと。
だからその竹を見るみたいな発想が出てくるみたいなね。
そう、やっぱりその、ものっていうものに至る、まあ書くというか至るっていう言葉なんだけれども、そのものを突き詰める、極めることで、理っていうものに辿り着けるんだっていう、それが博物知知って感じで。
はいはいはいはい。
うん。なのでやっぱりその外に求めましょう。
その理っていうものを、人間の理、いわゆる本性的なものとか、あるいは先人の言葉とかを頼りにしながら、外に求めていきましょうということが、やはり主治学の基本的なスタンスですと。
はいはいはい。
うん。それに脱節をしたのが大嫁ですって話をしたと思うんだけれども、そうじゃなくて、外じゃなくて家にあると。
そうすると、情っていうのが厄介なんだけど、その情も含めて、要は人間のある種心だから、その心そのものが理なんだっていうふうに言いくるめることで、その外じゃなくて家っていうことを、ある種ロジック化しちゃったんだよね。
うんうんうんうんうん。
さっきも言った通り、でも情ってある種性を曇らせるじゃんとかさ、情があることでできなくなる善があるじゃんとかって話なんだけど。
でもこれもある種、大嫁さんからすると、別に情が悪いんじゃなくって、そういうグラデーションだと悪くなっちゃう情もあるんだけど、当然それをより良くする、要は人を助けたいとかさ、人を役に立ちたいとか、そういうものも情なわけじゃん?
っていう時に、要はどっちを出すかっていう話だけであって、別に情そのものが悪いんじゃないんだよっていうふうな、そういう発想やってくるんだよね。
はいはいはいはい。
陽明学の実践的視点
うん。なので、自分の内側を見て、心には性も情もあるんだけど、両方をちゃんと捉えていいんだよと、そういうふうに言ってあげるのが、この大嫁さんの妖明学っていうような発想なんだよね。
はいはいはいはい。
なので、全然違うその朱子学やったことと、その妖明学やったことって、やっぱ物、要は情のない物を見るのか、情もある心を見るのか、全然違いますよっていうような感覚なんだよね。
ああ、で、やっぱ改めてこうやってその朱子学を思い出してくると、やっぱり朱子学も魅力的だよね。やっぱりあの、なんだろうな、すごく実践的?
実践的っていうのは、本当にその実社会で、具体的なシチュエーションをこなしていくというか、生きていくのにすごい使えそうだよな、というのを改めて思って。
うんうん。
この妖明学の方は、どっちかっていうとそういったところに接するときの根本の姿勢みたいな。
ああ、なるほどね。
自分の判断軸みたいな感じで、ちょっと単純な比較じゃないなーみたいな感じを今、改めてね、比較するとまた思ってきたね。
うんうんうんうん。
たぶんね、マニキュアは両方の良いところを取ってね、やろうとしてくれてるから、やっぱりどっちにも良いところがあるよね、とか。
で、あの、ある種ね、うまくむしろ混ぜたらいいんじゃないかっていう感じになった。
誰かこの後、この2つをさ、なんだっけ、弁償法的に統合してないのかな、みたいなさ。
はいはい。もしかしたらあるのかもしれないけれども、ちょっとね、それも調べてみたいんですが。
まあ、この2つがね、ちゃんと矛盾してるかも分かんないからね、そうそう。
そうなんだよね。で、ただね、その、なんていうのかな、数字学がやっぱり、良いものではあるから、だからこそやっぱり300年とか400年続いてくわけなんですよね。
うんうんうんうん。
で、どういうことかっていうと、やっぱりその、なんていうのかな、ある種やっぱり外に答えがあるはずっていうことは慎重になるわけなんだよね。
これは本当に答えなんだろうかとか、これは本当に求めているものだろうかと、やっぱ常にこう、ジャッジするというか、なんだろうな、そういう判断することがやっぱり入ってくるから。
はいはいはい。
そういう意味では、変にうぬぼれないんですよ。
確かにだし、今、早藤の話聞いて思ったのが、あの、客観性もありそうだから、あの、周囲とのさ、合意形成がしやすそうだよね。
あ、そうそうそう。うん。やっぱりそれをちゃんと共通化できる。何かね、竹なら竹ってものに対して、それが分かんないけど、でも大嫁さんも友達でね、やったときに、少なくとも分からなかったという共通認識を持ってたわけなんだよね。
はいはいはいはい。
そういう意味ではやっぱり、我々はまだ足りてないとか、そこに対してもっとこういうことができるんじゃないかっていう、まさにそういう共有するとか、一緒に探索するみたいな、
そういうふうなことにやっぱりつながりやすいんだよね。
うんうんうん。
うん。で、やっぱりこれがその趣旨学の苦しいところっていうか、やっぱり悲劇だなって思うんだけども、やっぱり過去に結びついちゃったんですよね。
あー。
お伝えした通りで、試験問題のいわゆるサブテキストみたいになっちゃって、これが教科書ですよってなった瞬間に、ある種、自分でやっぱり答えを探しに行くんじゃなくって、
朱子学の限界
もう既にある趣旨学の中にきっと答えがあるよねとか、やっぱりそういう、これが正しいはずだっていう、その正解探しが始まっちゃうんだよね。
なるほど。その趣旨学の実践性みたいなものがちょっと失われちゃったというか。
そうそうそうそう。やっぱりお勉強になっちゃうっていう感じになって、やっぱりどんどんどんどん生き生きとしたものはやっぱり失われちゃうんだよね。
なるほどね。
そんな感じで、趣旨学やっぱ正解探しとやっちゃってると、当然それが納得できないというか、そんなのしょうがないじゃないかっていう人が出てきたわけですよね。
はいはいはい。
それが大陽明さんなわけだけど、だからやっぱり外に探す、どっかにあるかわからない正解を探すんじゃなくって、ある種自分の頼りる心というものがあるじゃないかと。
それを頼りにもうある種自分の道を切り開いていこうぜみたいな、そういう逆転がやっぱりあったわけなんですよね。
なるほど。だからそういう意味では趣旨学もある意味ポテンシャルを発揮させてもらえないまま300年経っちゃったみたいなとこあったのかもしれないね。
ポテンシャルは発揮してたから300年も続いてるんだけど。
そうなんだ。ポテンシャルしか発揮してなかったのかな。
それはそうかもしれない。本質まで至らなかったっていう方があるかもね。
はいはいはい。
そんな感じでね、大陽明さんの趣旨学を当然批判し乗り越えたみたいな感じではあるんだけれども、
ある種の批判してしつくして否定しつくしかって言うとやっぱりそうではなかったりするんですよ。
どういうことかって言うと、大陽明さんはそれこそ50歳くらいかな。
前回も治療ウォッチっていうのは50歳くらいの発想ですよって言ったと思うんだけれども、
そのぐらいのときにね、大陽明さんが、これ本のタイトルらしいんだけれども、「趣旨・晩年定論」っていう本を出してます。
これはまさに趣旨学の趣旨ね。晩年はいわゆる年をとったからみたいな話で、定論って定まる論みたいな感じなんだけど、
これ何かって言うと、大陽明さんが改めて趣旨のことを色々勉強したときに、
あれ、もしかして主旨さんって俺と同じことを言ってね、みたいなことを語ってるみたいな本なんですよ。
どういうことかって言うと、改めて晩年に趣旨の本を手に取って読んでみたんだって、大陽明さんが。
そしたら趣旨自身も晩年にね、自分を振り返ったときに、若いときの思想が間違ってたってことに気づいたんだと。
みんなが学んでる趣旨学とか趣旗の話っていうのは、結構中期とかそういうまだ若いときの未完成の説であって、
本当は趣旗自身もそれを訂正して残そうと思ったんだけど、それができないまま死んじゃったんだと。
つまりみんなが言っている趣旗とか趣旨学っていうのは、未完成の中期の頃の趣旨学で、
実は晩年の頃の考えっていうのは、その趣旗の考えは、私陽明と同じようなことを言ってるんだぞっていうようなことを本にしたらしいんだよね。
へー、あーそうなんだ、へー。
うん。っていうふうなのがあって、陽明さん自身が、趣旗は晩年にそんなことを言ってるのに、なんでみんなそれを勉強しないんだと。
そう、いわゆる趣旗の言葉だけじゃなくて、300年ぐらい経ってるから、その後いろんな弟子たちの考え方もどんどん付き加わっちゃうわけですよ。
っていうふうに、要はそういうまだちょっと手に赤をついた趣旨学でみんな満足し、それをありがたがっていて、
なんで本当の趣旗のそういう磨かれた思想、イコール私、王陽明をたどり着いた思想なんだけど、
っていうものを勉強しないのか、みたいな、そういうことを言ってるんだよね。
わー、そうなんだ、はいはいはい。
うん。で、なんていうのかな。なので、ある種、陽明さんからすると、自分がたどり着いた境地っていうことに趣旗もたどり着いていたと。
っていう意味で、まあ趣旗学に戻るんじゃなくて、その趣旗っていう人の思想とかに改めて近づくというか、
やっぱりその儒教的な真実というか、誠実の道っていうことはこれでいいんだ、その領地とか頃とか、そういうことになるんだっていうふうに言っている。
うんうんうんうん。
っていう意味で、ある種、単純に批判して、あいつは違うとか、俺たちが正しいだけじゃなくって、ちゃんとその趣旗学とか趣旗の考えと自分の考えを統合するみたいな。
うんうんうんうん。
そういうふうに、ある種、より自分の説を高めていこうっていうふうな、そういう真摯さにもつながってるかなっていう感じなんだよね。
うーん、なるほどー。これはどっちかわかんないんだね。本当にそう思ってるのかもしれないし、
趣旗学をこっちに取り込んでやるみたいなさ、そういう、どっちかわかんないんだな。
いや、そういうのもあるんだよ。そういうのもあるし、実際ね、こんな言葉もあるらしくて、
これは王陽明さんが当てた手紙?書簡が残ってるらしくて、いわゆるね、自分がいろんなことを教えてたときに、
やっぱり当然批判も喰らえますと。
うんうんうん。
あのときは、やっぱり趣旗学の批判めちゃめちゃ喰らうんだけれども、なんかそれがあったから、そういう趣旗の晩年の考えをまとめて本にして出したんだと。
そしたら揉め事が収まったんだみたいな。
へー。
でも批判がやんで、しかも弟子たちが勝手にその本を出版しちゃって、そんなことしてくれないなってイライラしたんだけど、
王陽明の影響
でも書を読んだ人がどんどん悟っていって、これでいいんだ、やっぱり陽明の考えでいいんだっていうふうなことがあったんで、
これ思い訳ないことだったんだけど、なんか話をする手間が省けて良かったんだよね、みたいな。
ほうほうほう。
そういう手紙が残ってるらしいんですよ。
つまり、やっぱり単純に純粋な学問的な感覚から趣旗のことを学び直したっていうよりは、批判をやっぱり和らげるとか、
うんうんうんうん。
自分の説こそが趣旗学に連なる正当な学問であるみたいな、そういうふうに再編集したってやっぱり捉え方もあるんだよね。
なるほど。まあその手紙が事実かどうかわかんないけれども、その手紙の雰囲気からすると、それもわかんないね、でもね。
わかんない。
自分はね、そういう人はなかったんだけど、弟子には勝手にさぁ、みたいな感じもあるかもしれないしね。
そうだね。
そこまで含めてね、もうあの、実はね、しめしめっていうね。
ああ、そうそうそうそう。
手のひらの上かもしれないし。
そう、もうわかんないけど、まあ多分両方あったんだとはやっぱり思うんだよね。
多分学問的に純粋に趣旗に近づいた、あるいは趣旗が自分と同じことを言っていたって喜びもあっただろうし、
一方でそれを宣伝することで自分の説を高めようとか、自分の権威に近づけようってこともなくはないと思うんだよね。
はいはい、ある意味無用な趣旗学側からの批判みたいなものも和らげるね。
避けちゃおうと、そういう意味では欲も悪くも陽明さんの優秀さというか、舌高さだよね。
ただピュアに学問とかジョークを突き詰めたわけじゃなくって、
やっぱり主役に足りないものとか、自分が脱節した経験って、やっぱり乗り越えてそれを世に知らしめてやろうみたいな、
やっぱりそれをちゃんと思ったしできる人だったっていうところはすごさがあるなっていうふうに思うんだよね。
ああ、確かに。その辺の戦後性は、哲学者なのか、この人は内蒙なのかわからないけれども。
やっぱり政治家だね、大本は。
そこはすごい戦後性がある人な感じがするよね。
ちゃんとこういうことを言いながらも、自分でちゃんと成果も出してるから、説得力がありそうだよね、当時から。
そうそうそう。
だからやっぱりその意味では、陽明さんの個人的な捉え方で言うと、
やっぱりすごいピュアに政治の道になる。
それこそね、第1回の後敵みたいな感じで仏教とか儒教だけじゃなくて、いろんな学問もやった上で、
どうやったら政治になれるのかとか、自分の理想を継続できるのかってやっぱりやった。
ということは、ちょっと青年時代と、いろんな苦労をしてね、戦争に行ったりとか、反乱を鎮圧するとか、いろんなことをした上で、
やっぱり現実的に、ちゃんと自分の教えとかを知らせていくためには、こういういろんなことを使わなきゃいけない。
アーションのテレンテクダっていうのかな、そういう実務的な、やっぱりスキル技術が身についた陽明さんというところの、
やっぱり人としての多彩さというか、すごく優秀な人がやっぱりそこにたどり着いたんだなみたいな、そういう感覚がやっぱりあるんだよね。
はいはい、そうだね。面白いよね。
陽明学って多分朱子学よりもある意味理想論的な部分というか、
若干強い気もするんだけど、この大陽明の生き様というか、やってきたことだったりとか、
実績みたいなものを見ると、意外とそう見えないっていう、すごく実践的な、本当に実践的なものはじゃなかろうかと思わせてしまう魅力と、
その怖さみたいなものが絶妙なバランスなのかもしれないね。
そりゃありそうだね。やっぱりカリスマ性だよね。
大陽明先生は実際に言ってるし、やってるし、実現してるみたいな、やっぱりそれを見ちゃうと、
たぶんより引き込まれるとかってあるんだろうね。
そういう人はね、「やればできる!」じゃなくて、その人が自分がやってることを、しかもちゃんと俯瞰で把握しているから、
カリスマが自分を俯瞰でちゃんと見れて、それを学問っていうところにガッツリ落とし込んだすごさだよね。
相当おかしなことやってるよね、そう考えると。
言われてみたらそうだし、そんな人がいたら僕もハマっちゃうかもしれないな、確かに現代にいたらね。
そこ、両方ある人ってなかなかいないじゃん、どっちかに何がちというか。
実践家はいるし、学問でそういう人もいるけど、確かに両立しようよってあんまりパッと思い浮かばないかもね。
そういうカリスマみたいな人が、自分の反省とか、自分の人生、自伝みたいなものって魅力的だと思うんだけど、
朱子学と陽明学の違い
それとはちょっとレベルが違いすぎるじゃん。
まあ確かにね。
自分がやってきたのはこうこうこういうことで、前の朱子学園はこういうのがあるんだけど、
自分はこういう方向でこう悟って、こういうふうにやってきたみたいな、もうちゃんとしたテキストになってる、やってきたことが。
確かにね、うんうんうん。
それってないよね、なかなかっていう。
だからあれかもね、歴史的に言うと、それこそ渋沢栄一さんとかは近いかもしれないね。
あれだけの会社を起こしながらも、まさにあれも論語だけどさ、そういう象徳的なこととか、やっぱり社会にいかに貢献するかを説いたみたいな話でいくと。
学問までは言ってないけど、例えば渋沢栄一さんとかはやっぱ近いのかもね。
異人レベルってやっぱり大嫁さんの方がすごい気がするな、でも確かに。
なんか、そうかね、その両方がっつりある感じみたいなさ。
そうね。
どっちかっていうともう大嫁って哲学者だとむしろ思ってたから、哲学者だからね、学問の人。
確かにね。
いろんな実践レベルというかね、撮影されても一つの場所をバッとまとめるみたいなさ、そういうカリスマ性じゃないけどね。
そこからさらにね、王道の方に戻った上でちゃんと生きていこう、なかなかねその、なんだろうな、例えばこれね、今回メインに出した松下幸之助みたいな人がいたとしても、
あれはちょっと近いかもしれないけれども、やっぱりちょっと違うじゃん、やっぱりその奮闘を受けた人たちが何とかそれを体系化しようとしてるだったりとか、
どっちかというと、いきなり治療値が大事ですよとか、どっちかというと若干精神失勢の部分が大きい気がする。
まあ確かにね、結論として出てくる言葉はね、たぶん近いというかそういう学びが多いとは思うけど。
その論議性だったりとか網羅性というかその学問性みたいなところで言うと、たぶんその一大でそれを自分でやっちゃってるヤバさみたいなのが結構ヤバさレベルがなんか超高い気がするよね。
そうだよね。まあ言うてもこの方もね、若くして核を受かってるからね。
うん。
そしたらやっぱり学問的にもすごいでしょうってなるし。
まあ比較するもんじゃないけどね、そのすごさは。
まあもちろんね、みなさんすごいからね。
ただちょっとその大嫁のすごさを考えるとね、確かに異次元だなっていうのを最終回にして改めて感じるよね。
大陽明の魅力
ね、やっぱりちょっと迫力があるね、大嫁さんという人に関して。だからそこは僕もね、もちろん知らなかったし。
でもさ、その第一項に確かちょっと言ったと思うんだけど、体は弱かったんだよこの人。
あー、そういえばそうだったね。
そう。まあでも逆に言うとそういう、なんだろうな、そのコンプレックスじゃないけれども、だからこそ何かを成し遂げればならぬみたいな、マイナスのエネルギーをプラスに転換するみたいな、そういうところもあったのかもしれないね。
ね、そういうのはあるかもしれない。
はい、まあっていうふうな感じでね、あの今回ちょっと最後ね、主旨役と嫁役を比較しながら改めて、
まあその、ある種主旗の晩年ということも取り上げながら取り込んでいった大嫁さんの、まあしさ高さというかね、そういう迫力みたいなものもちょっとね、触れられたかなと思うんですけど。
で、まあちょっとね、次回は雑談挟んでまた日本っていうところに行こうとは思ってるんですけど、なんか面白かったなってすごい、まあちょっとね、次回雑談でも話したいんだけれども、
なんかね、全然知らなかったからこそ、こんななんか魅力的な人とか思想があったんだみたいな。
もちろんね、あやうさんも含んでるねってことも含めて、なんかもうちょっとやっぱり学んでみたいなって思ったな、嫁役は。
へー、あ、そうなんだ。
うん。それこそね、兄貴がさっき言ってくれたさ、そのじゃあ嫁役、大嫁さんが死んだ後にどう発展していったんだろうかとかさ。
あー、なるほど、うんうん。
そうそうね、どんなふうに主役との批判ってのを乗り越えていったのかとかって絶対あると思うから、まあその辺まで見ていくと面白いだろうなーってちょっと思った。
うん、そうだね、確かに確かに。このKFが今どうなってるのかみたいなね。
陽明学の実践的側面
そうそうそう。
そういう話はありそうだし、そんぐらいの力というか魅力というかね、引力というか、オーラを感じる。
なんだろうね、ちょっともう聞くたびに忘れちゃうからあれだけど、西洋哲学でもね、たぶん似たような感覚を持った学問もあったのかもしれないけど、
結構なんだろうな、生き方とはとか理想とはっていう頭でっかち側、要素がだいぶ少ない気がするもんね、確かに。
この陽明学に?
うん。
あー、なるほどね。それはね、やっぱあれだよ、道行く人はみんな聖人であるっていう、そっちを引き下げたからだと思うね、やっぱり。
そうだよね、それをきちんと陽明の言うように受け取ったとしても、ある意味自分に都合のいいように受け取ったとしても、どちらにせよちゃんと行動につながるというか、
はいはいはい。
聖人なりにちゃんと、ちゃんとじゃないか、まあ聖人の中ではか。
聖人なりにだね、たぶんね。
聖人なりに何かしらの行動に生かすことができるというか、指針になり得るっていう、そこの強さが大きいのかもしれないね。
確かにね、確かに。やっぱりある種、それこそ今日ずっと話してた陽明さんも政治家であり実務家だから、
かつやっぱり、いわゆる朱子学に困っていて、要は使えないといった人たちはまさに政治家たち、その主体句って言われるような朱子学を学んで格を受けて政治家やってるけど、
でも何かやっぱ物足りないみたいな人に刺さるような悪夢がこの大陽明の陽明学だから、
そういう意味での上手い使いやすさというか、生かせる感覚っていうのは他の哲学より強いのかもね。
かもしんないよね、確かに。じゃあ、カントのアプリ寄りの総合判断をするのだ、みたいなのを自分の軸に今日からしようみたいなさ、には多分ちょっと難しそうだもんね。
まあ遠いと思うな、やっぱり。
即その発祥を聞いて、アプリ寄りセミナーがあるから行ってみようぜって言って、そこでアプリ寄りやべえって洗脳されて、
そのままアプリ寄り信者となって生きていくって、ちょっと想像つかないもんね。
そうね、その人は多分もうね、素養がすごいアプリだと思う。出会うべくして出会ってるね、それは。
多分その辺が違うんだろうね。ある意味なパジュアルさというか。
やっぱり広がりやすさとか受け取りやすさとか、やっぱり自分なりに受け取れてしまう、良くも悪くも。
っていうところの敷居の低さというか、これもやっぱり陽明さんのスキルだと思うんだけど。
そうよね、だいぶ良い意味でというか、何というかいやらしい人だね。
そうね、それもあるよね。だから上手い人。
人の心をやっぱり掴むとか、浸透するのがやっぱり上手い人だし、やっぱりそういう強さもあるしっていう感じなんだろうね。
いやー、ちょっとね、やっぱり大陽明さんをちょっと絶賛するような感じになってしまいましたけれども。
絶賛というか、そうだね。すごい魅力やから、やっぱりこれ宗教なんじゃないか、ギャグも出てくるね、これ下手するとね。
出てくると思う。やっぱり自分は聖人になるっていうのは神一人だよね、やっぱりそれもね。
まあ、そのね、当時の中国でいう聖人の定義もまたあれだけれども。
逆にやっぱりそれをちゃんと知っておくというかさ、やっぱりそういう魅力的な人たち、魅力的な学問だからこそ危うさもあるよね、みたいな。
やっぱりそういうバランスをね、お伝えできるのがやっぱりソイレスラジオのいいところじゃないかって僕は勝手に思っているので。
まあ、そうだね、確かにそこにあいに飛びつかないというかね。
そうそうそう。
本質が折り返せよっていうのはなかなかね、難しいから、あれだけれども、そこがあるってしとくだけでね、その距離感とかね。
一個質問を挟めるというかね、これは本当にこういう人はわかってるのだろうか、自分はわかってるのだろうかっていうね。
どっちだね、自分はわかってるのだろうかだろうね、多分大陽明さんは本当にわかってただろうし、それこそ仏陀であれさ、そこがあってたら多分そうなんだけど、
でもじゃあ自分は仏陀を完全に理解しました、とかさ、大陽明を完全に理解しました、やっぱりとても…じゃないけど言えないじゃん。
そうね。
やっぱりともすると、陽明がそれができそうになっちゃう教えだから、あなたの心が美ですっていう。
恐ろしいなあ。下手すると大陽明もさ、その辺の道を歩いてる人に、マジで肩を組むことを許してたかもしれないもんね。
全然あり得ると思うよ。
戦略的にね。一緒一緒同じ心だよねって言えちゃう、言葉では言えちゃうから。
忍び込むぜって言ってね。あなたも聖人、私も聖人みたいなさ、聖人、聖人みたいなさ。全然なんかその、それをやる懐の深さ、それをやることで全然その大陽明自身の権威も何も失われないし、なんなら高まるっていう、やっぱりちょっと恐ろしい人なのかもしれないね。
矛盾しないもんね、学説とその行動はね。
そうそうそう、その人自身がさ、何も矛盾してないんだよね、その道行く人と肩を組むことに。
いやあ、それ怖いね。もしそっちだとしたら怖いね、やっぱりね。
うん、恐ろしい。
だからホイホイついてっちゃうね、たぶんね。
いや行けちゃうね、うん。なんて気さくな人なんだとか、なんてこんな私たちにも手を差し伸べてくれるとかって、やっぱりなっちゃうね、それは。
ちょっと、だから、今日さ、夜さ、無料で面白いパーティーがあるからさ、ちょっと行こうぜって言ってさ、行って大陽明がいて、大陽明と握手したらもうおしまいみたいな。もうおしまいだよ、もう。抜けられないよ、もう。
怖え。
ちょっとこれ雑談で話そう、なんかいろいろ思うところはあるわ、それは。
いやでも面白かったですね。
朱子学と陽明学の理解
だからこそこういうものを知っておかないとね、こういう人は大陽明かもしれないっていう、その、なんだろうな、取り込まれない、その一瞬のその自分のガードじゃないけど、俯瞰ポイントというか冷静ポイントを作るっていう。
やっぱり反陽明だね、やっぱそれはね、ちょっとね、なんだろうな、あの、惹かれる気持ちがあるからこそ、やっぱりね、闇が、光が強いこそ闇も大きいみたいな、やっぱりどうしてもあるのでね、惹かれる気持ちが大きいほど、やっぱり冷静に捉えましょうっていう感じですね。
いいですね、なんか初めてね、朱子学、大陽明、陽明学学学んで、ここまで行き着くとは思わなかったんで、なんかね、全然思わなかった。なんか皆さん、中にも残ってるものがあると嬉しいなと思うんですけれども、ちょっとそんなね、あの名残も踏まえながら次回雑談とするとね、あの日本の朱子学の美容みたいな話をもっと江戸だね、江戸の日本の思想っていうところをやろうと思っているので。
そう、ちょっとそこもぜひ、僕ももちろん初めて今回学んでるんですけど、江戸の朱子学ってそのままズバリみたいな本もあったんだよね。
あるんだね、ちゃんとね。
ある。江戸もあるので、ぜひ皆さんでまた学んでいこうと思ってますので、よろしくお願いいたしますと思っております。
はい、わかりました。では一旦、陽明学ですね、今回で終了ということで、次回以降ですね、また雑談挟んで日本の方を見ていきたいと思います。では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
36:06

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