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2025-12-14 57:22

#378 仏教の悟り、ニーチェの超人とは違う?荘子が目指す境地「真人」

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、仏教の悟りと荘子の理念である「真人」について探求しています。特に「商用遊」という概念を通して、執着から解放された理想的な生き方を整理し、無体と有体の違いを考察しています。また、荘子が描く「真人」についての探求が行われ、仏教の悟りとの相違点も示されています。自由な存在として生きることの重要性や、道とつながることの意義にも触れられています。 さらに、仏教における悟りと荘子が目指す「真人」の境地との違いが探求されており、気ままに生きることの意味や病気を自分の運命として受け入れることについても深く考察されています。加えて、仏教の悟りとニーチェの超人がどのように異なるのか、荘子が目指す理想の境地である「真人」についても探求されています。荘子の教えが古代の生き方や価値観とどのように関連し、それが現代においてどのように受け取られるべきかについても深く考察されています。

掃除シリーズ最終回の概要
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、去年掃除シリーズ第5回ということで、今回が最終回になるんでしょうか?
はい、そうですね。ちょうど最後かなとは思っておりまして、今日はですね、これまででいくと結構いろいろキーワードがあったと思うんですよね。
第1回が無用の用みたいなさ、役立たないものが実は役立つんだみたいな話とか。
第2回は万物正道ですよね。区切りっていうのがなくて、善も悪も同じなんだけど違うみたいな。
ラーメンとカレーは違うけど同じみたいなさ。
うん、だけど違うみたいなね。
そうそうそう、っていう話をしたりとか。
はいはいはい。
第3回が震災と座望ですね、心をトラッポにするとかさ。
実生編的な。
そうそうそう。単なる関連的なものじゃなくて、ちゃんと身体とか現実に根付いてるっていう話とか。
前回は死生観やりましたよね。死ぬっていうことも、ある種その状態の違いだけなんじゃないかみたいな話をしたと思ってまして。
っていうふうに結構いろんなキーワードがあったんですけれども、今回はそれを踏まえてというか、その全体を捉えたときに、いわゆるこの相次の理想像みたいな話。
ほうほうほうほう。
ちょっと途中でも話したんですけれども、いわゆるニーテの超人みたいな感じで、相次の真人、真なる人みたいなのがあるってちょっと言ったと思うんですよ。
あーあったね、はいはいはい。
その真人、真なる人って何なのみたいな、そういうところをお伝えしていく中で、結局その相次が目指したものというか、こういうのが我々の生き方にとって一番いい状態なんじゃないみたいな、そういうものをちょっとお伝えしていこうと思ってるんですよね。
おーなるほど。はいはい。
うん。で、今日のキーワードがですね、ちょっと聞き慣れないと思うんですけど、商用遊って言葉なんですよ。商用遊。で、これちょっと説明すると商用と遊っていうのが分かれるんですけど。
あーそうなんだ、はいはい。
うん。商用は、いわゆる辞書的な意味で言うと、あてもなくさまようとか、気ままに歩き回るみたいな、そういうふうな意味合いなんだよね。
うんうんうんうん。
で、遊はいわゆる遊ぶ。遊具の遊なので、まあ気ままにブラブラ歩き回って遊ぶみたいな話なんだけど、ある種この状態が相次の遊、真人の状態であって、結構理想だよねみたいな、そんな感じなんだよね。
おーそうなんだ、はいはいはい。
うん。そうするとさ、なんか、うん、じゃあこうね、それこそ昼間ブラブラしてたらいいのみたいなさ、なんかまたちょっとイメージ分かんないじゃないですか。
なんか、うん、お花畑な感じがするね。
うん。
フワフワしてるなんか、うん。
そうそうそう。っていうのがあるので、じゃあこの商用遊って何なの?みたいな話とか。
うん。
じゃあその真人ってどういうもの?っていうところをまあ今日お伝えすることで、まあその相次の、まあ世界観のなんだろうな、総決算というか。
うんうん。
まあ総まもとみたいな感じにしていこうと思ってますよっていうような感じですね。
有体と無体の意味
おーなるほど、はいはい。
はい、というわけで早速いくんですけれども。
うん。
まずね、それを理解するためにもう一個ちょっと違う概念を出したくって。
うん。
これがですね、有体と無体っていう言葉があるんですよ。
うんうん。
で、文字でいうと、有体があるに待つっていう話で、無体はその逆でないに待つってなっちゃうんですよね。
うん。
で、無体ってその待つっていうのもあるけど、期待するとかさ。
あーはいはいはいはい。
で、そういうふうな言葉あるじゃないですか。
うん。
っていうときに、この無体っていう文字に、なんていうのかな、いわゆるこう、なんか外部のものを頼りにするとか、頼みにするとか、そういうふうな意味があるみたいなんですよね。
へーそうなんだ、はあはあはあ。
うんうん。
たぶん待つっていうのもさ、別に何かが来ることを待つとかさ、何かを、なんだろうな、やってくるのを待つみたいな、ある種ちょっと外側から打ち替えた感じってあるじゃないですか、イメージとして。
まあ確かにちょっとこう、受け身な感じというかね。
うん。
そうそうそう。
たぶんその待つみたいな意味を持って、その待つことがあるっていう有体と、待つというか、そうね、っていうものと、その待つことがないっていう無体っていうような文字があります。
うんうんうん。
うん、で、これそのイメージすると、要はそのなんだろうな、要は待つことがあるっていうのは結局何かをこうやっぱ期待するってことですと。
例えばね、なんだろうな、もっと胸があればとかさ、もっと身体が健康であればと、もっと平和であればみたいな感じ、やっぱりその、いわゆる欲求だよね。
あーはいはいはい。
うん、っていう時に、その欲っていうのって要は、もしなりないならっていう話って、ある種その条件付きのものというか、外部条件でもっとお金があればこんなことができるのに、でも今お金がないからできませんみたいな、そんな感じなんだよね。
うんうんうん。
っていうふうに、じゃあそのお金があるならばこれができるってなると、逆にお金がなくなっちゃえばもうできないっていう話になるから、結局はその優待、何かを頼っている、待っている状態って結構不自由だよねみたいな、そういうふうな発想になってくるんですよね。
うんうんうん。
この辺は結構仏教と近いと思うんだけども、やっぱり欲求があると執着につながって、結局それにとらわれてしまうみたいな。
うん。
そういうとこに結構近いかなとは思ってますと。
いやーそうだ、なんか煩悩とかと近いっていうか。
そうそうそう。で、結構ね、そこはまさに発想とは違くって、今回お伝えしていく商養有とかっていう話も、やっぱりその逆で、いわゆる頼るものがない、待つことがないっていう、無財っていうものはやっぱり大事にするんですよね。
おー、さっきの逆か、だから。
だからお金にも執着しないとか、別に健康とかもどっちでもいいってことはないんだけれども、気にしないとか。
ある種前回の話でいうと、生きてるか死ぬかすらも、もはやそれもどうでもよいみたいな、いい意味でね。
うん。つまりその、外部の条件とか自分の前提条件がどうあったとしても、ある種自分は自由であるとか、もっと言うと自分の精神とか自分の大事にしたいものっていうものは傷つけられないんだっていう、
そういうふうな状態のことを、ある種無財であったりとか商養有の状態っていうふうに捉えるんだよね。
へー、すごいね。これを、やっぱ仏教が中国に入る前にも、この草人が考えて話してるってことなんだね。
法と日暮らしの物語
うん。そうですそうです。全然仏教とは関係のないやつをオリジナルな発想として、こういうことを言ってるんだよね。
へー、すごいね。
これさえはね、たぶん発想としては確かになーとかってあると思うんですけど、どこまでこれを徹底して語ってるかっていうのは結構面白くて。
ほいほいほい。
この掃除なので、いわゆるストーリーとか例え話で言っていくんですけど、結構これも有名な話があって、
法っていう大きな鳥を、大法って言うじゃん。力士なのかな、もちろん。大きな鳥っていう意味なんだけれども。
はいはいはい。
で、このお話がね、掃除の内編とか一番最初に言ってるお話なんだけど、
もともと大きな海に魚がいて、そのコンっていう魚の大きさは何千里あるか、だからもうどんぐらいあるかわかんないぐらいでかい魚がいますと。
あるときその魚が、突然姿が変わって鳥になったっていうんだよね。
それを法って言いますと。
はいはいはい。
で、この法の背中の翼っていうのは、大空いっぱいに広がった雲のようだみたいな、ものすごいスケールの大きな鳥なんだよね。
ああ、じゃあ実在する大きいコンドルとか和紙とか、そういう話じゃないんだね。
そうそうそう。ここでいう法っていうのはある種伝説上のというか、スケールがでかすぎる話なんだよね。
で、海が荒れ狂うときに風も吹くじゃないですか。
その風に乗って飛び上がって、北の果てから南の果てに一気に飛んでいくんだみたいな、そういうふうな話をするんだよね。
なるほどなるほど。
で、そのイメージからなんだけれども、その法っていう鳥は、普通の風だと全然やっぱり大きな体を支えられないので、
その強い風に乗って飛び上がったときに、何千キロっていう本当に彼方の空まで飛び上がるんだみたいな、そういう話をします。
で、そこから一気に話が変わるっていうか、視点が変わるんだけど、日暮らしって言うじゃないですか、セミかな?
日暮らし?
日暮らし。
で、その日暮らしが出てきて、その法っていう鳥を見て笑うんですよ。
いや、あんな高く飛んで何してんの?みたいな。
我々日暮らしとか、ちっちゃい鳥とかは、別にその辺の木で飛び回っても十分だし、
全然生きることを考えても、ちょっとしたご飯とかあればいいんだけど、あんな大きかったらどんだけ食料とかいいんだよみたいな。
ほうほうほう。
で、そんなふうに壮大さがあるにしても、結局燃費も悪いし、飛びたいときに飛べないと、大きな風がないと飛べないっていうような感じだし、
あいつ全然大したことなくね?みたいな。そんなふうに日暮らしとか言うんだよね。
おー、なるほどね。
その視点もわかるじゃない。
まあまあまあ、そうだね。
でもある種掃除的にはそっちじゃなくて、当然大きな鳥、ほうほうがすごいって言いたいわけよね。
えー、あ、そうなんだ。
うん。っていうときに、今日は日暮らしを出した後で、一体どうしてこのちっちゃな日暮らしとか鳥、小鳩も出てくるんだけど、
小鳩には大きな鳥の飛び上がるっていうことの雄大さがわかるだろうかみたいな。
そういうちっちゃな目線とか知識では、大きな知識っていうのは想像できないよねっていうふうな、そんなことを書いてるんですよね。
えー、そうなんだ。ほうほうほう。
で、なんかいろんな解釈があって、いわゆる大きな鳥、ほうっていうほうが、いわゆる老僧思想みたいなやつで、日暮らしとか小鳩、小鳥っていうのは、いわゆるほうほうたちの授学だよね。
あー、ほいほいほい。
そういう決められたとか、たたがある知識の中で満足している学者さんたちと、それを飛び越えようとしている我々、老僧思想の人たちみたいな。
そういうところをちょっと揶揄したような話じゃないかとかっていうふうな解釈もあるんだけど、そういうふうに偉大な知識と限られた知識っていうのは別だよねみたいな、そんな話があります。
うーん、えー、これって、あれなのかな、ソウジが言ってることなのか、その後の人たちが追加したエピソードなのか、それはわかんないのかな。
うちのね、これはソウジが書いてあるであろうとは言われてるね。
へー、なんかさ、結構どっちかのほうが良いとかって言ってるのって、なんかソウジっぽくないよなーみたいな。
おっ。
大きいほうには大きいほうのものがあるし、小っちゃいほうには小っちゃいほうのものがあるから、そこになんかすごい明確に勝ちづけしてるなーみたいな違和感は感じるね。
あのね、それ感じ方が嬉しくて、僕もね、まさにそこを思ったんだよね。
そう、それこそさ、以前お伝えした通り、小鳥の夢っていうと、ソウジが自分か、鳥が自分かとかってのときに、どっちでもあるし、どっちでもあるよねみたいな。
で、ソウジならソウジとして生きるし、鳥なら鳥として生きるしっていうふうな話をしたときに、ここってやっぱり、大きな鳥には大きな鳥の生き方があって、ひぐらしにはひぐらしの生き方があるでいいじゃんって僕も思うんだよね。
道との繋がりと尊さ
で、一応ここでなんか言いたいこととしては、やっぱりその、なんていうのかな、とはいえ、いわゆる大きなその、世の言葉りというか、これまでの話でいくと、僕らが見ている世界とか言葉で表現できる世界の、やっぱりその外にね、道の世界があるっていう話をしたじゃないですか。
そういうときに、やっぱりその道の世界とつながるっていうことは、やっぱり尊いことで大事だよっていうふうな発想はあるんだよね。
まあ、そうだよね。そうだよっていうのは、たぶんこれまでもあったけれども、前回で言うと、ほら、奥さん亡くなったときに、めっちゃ葬式で歌ったり踊ったりみたいにさ、めっちゃやりましたみたいなエピソードとか、書き方。
あと無用のようでもあったけどさ。結構、たぶん今の常識の完全に反対側みたいな話し方をして、で、みんな気づけよ、その間のプラットに行くんだぞみたいな順調で語ってるとすると納得はするというか、そういう感じだよね。
だから、今回主人公というか、たぶん目線がそのちっちゃいセミとかハトだとすると、言うて、じゃあこの掃除の話を聞いて、さっきの無体とか有体だっけか、話を聞いて、じゃあその学ぶことをやめて、今生まれ育ったその環境で、
ただただ楽しめみたいな、満足しろって言ってるわけでもないんだぞみたいな。
そうだね。
だからその、どういう環境に生まれても違う環境のこともちゃんとわかった上で、プラットに、何てしょうよう言うか、っていうところにやっていきましょうねみたいな、順番に落ち着くのであれば理解できるかなみたいなね。
うんうんうんうん。
感じかな。
そうだね。
結構そこがすごく難しいというか、やっぱり両方混ざっちゃってるとか何気ないストーリーで、やっぱり今の常識に捉えてる人に伝えようとすると、やっぱり区別っていうものから入んないといけないみたいな。
うんうんうんうん。
そういうのもあるかなって思いますと。
で、この話で大事なのって、日暮らしとか小鳩がいるときに、いわゆるカエラが大きな鳥をバカにしてるんだよね。
そうね。実際そういう考え方されてるんだ。
実際そういう考え方されてる。
はいはいはい。
いわゆる道の世界を知って、大きい鳥でもいるし我々もいるけど、我々は日暮らしとして生きていこうじゃなくて、
あいつなんかよくわかんない高さまで飛んでるけど、あんな人あんのかね、ふぐみたいな感じだとしたときに、やっぱそれって、やっぱりちょっと弥生も入ってるけど、いわゆる知識が少ない人とか、偉大な道を知らない人ってやっぱりそういう象徴なんだよね。
まあまあそうだよね。それはそれをこり固まってるからね。
なので、やっぱそれをこり固まりをほぐして、ちゃんと大きなスケールで考えようとか、僕らの生きているこの言葉で話せる世界だけじゃなくて、もっと広い世界があるっていうことにちゃんと至ろうよみたいな、やっぱそういうふうな話ではあります。
真人の概念
いうところの話でいくとイメージ湧くというか、その導入として理解はできるかなとは思うんだよね。
そうだね。
で、例えば宇宙飛行士の人が、やっぱり宇宙から見たときに地球に国境はなかったみたいな話ってあると思うんだけど、やっぱりそういう天の視点、天っていうとちょっとイメージあれだな。
いわゆる超越した視点から見たときに気づくものとか、逆に見えてくるものってあると思うんだよね。
で、やっぱりこの大きな鳥、ほうっていうものが、その相似の、ある種その世界観の象徴にも合ってるんだけれども、
これが面白くって、さっきその有体と無体の話をしたじゃないですか。
で、無体って頼るものはないよっていう話だとしたときに、
面白いのが、実はこの大きな鳥のほうですら頼ってるじゃねえかっていうんだよね。
やっぱりさっきも意図的にちょっと言ったんだけれども、この大きな鳥のほうさんは、
ちっちゃい風というか、そのようなものだと、それに乗れずに飛べないんですよ。
ああ、なるほど。
なので、大きな風が吹けば、それに乗って飛べるんだけど、
つまりそれは風を期待しているとか、風に依存してるんだよね。
うんうんうんうん。
つまり、この大きな鳥ですら、やっぱり自由ではないと、本当の意味でね。
なるほど、なるほど。
うん。で、どういうふうに言うかっていうと、
そういった外部条件も、風でも波でもいいんだけど、
そういうものさえも必要とせずに、ある種どこにでも行けてしまうとか、
この宇宙のあらゆるところに自分のありかを探せるとか、
そういうふうにある種、自分をそういう存在として、宇宙に揺さでられる人。
そういう存在こそが、実はそのソウジが言う、真人、真なる人なんだっていうような話なんだよね。
ああ、なるほど、そっかそっか。その順番でこの真人を語ってるわけね。
ああ、そうそうそう。
だからその日暮らしみたいなちっちゃいものと、大きな鳥のほうみたいなものを出すんだけど、
さらにそれを超えた真人みたいな、そういう存在がいるんだぜっていう話なんだよね。
もちろんそういうふうに書いてるわけじゃないんだけど、
ソウジを解釈していくと、そういうふうな繋がりが見えてくるっていう話なんだよね。
ああ、なるほど、そっかそっか。
そうやってここにたどり着くのであれば、さっきの例え話みたいなね、
本、鳩とかね、蝉、確かにいろいろなこともね。
そういうところがあるので、やっぱりその真人って、いわゆる超越者なんだよね。
本当の意味で、あらゆる外部条件に依存しない人間って基本いないじゃない?
いないと思う。それは人間なのかっていう。
そうそう。それこそ生まれることですよね。
自分の良心があってとか、というふうに議員は届くことができるわけだし、
自分が生きている中で、あらゆるものと関係を持っているわけだけど、
それも独立して何者とも関係してないじゃなくて、
逆で、本当の意味で道と繋がっている。
そういう人が真人であるっていう話なんだよね。
なるほど。独立してるとは違うよってことね。
これがやっぱり難しいんだけど、
学者さんの話を聞いて引いてくるとですね、
三藤さんっていう、もう亡くなってる中国の研究者の方がいらっしゃるんだけども、
その方が、「真人とは何か?」とか、「小妖精、特に遊ぶって何か?」みたいな定義をされてるんですよ。
ここからそれを引いて、ちゃんとしたことをお伝えしていきたいと思うんですけど、
福永さんがおっしゃるには、遊ぶっていうのは、別に単なる娯楽とかゲームをするってことじゃなくて、
とにかく自由に動けることなんだっていうふうに言うんだよね。
なるほど。
これがさっきの優待とかみたいに繋がるんだけども、
自由って何かっていうと、ある種、何者にも引っかからないとか、
本当に、やっぱりちょっと抽象的になっちゃうんだけど、
水が流れるようにとか、雲が漂うようにみたいな感じで、
そういう何者にも縛られずに、ただあるがままあるみたいな、
そういうふうな状態のことを遊ぶだっていうふうに言うんだよね。
その境地を生きる新人が何かっていうと、
その新人っていうのは、とにかく道っていうものは一つになってます。
なので、僕らが普通は理解できない、言葉で説明する世界、外にある世界と繋がっていて、
その世界の中で、外の世界に焦点を合わせて生きているような人で、
かつ、ただその現実世界においても、ちゃんと自分の人生を人生として楽しんでいる。
そういうふうな存在が新人なんだっていうふうに言うんだよね。
なんか、思った以上に仏教の悟りっぽいというか、
さっきも言ったけど、多分中国に仏教が伝わる前だから、
そこを比較しちゃダメなんだろうけど、すごく似てる感じがするよね、悟った感じと。
でもね、それはめちゃめちゃあると思う。
ここで重要なのは、世界の真実を知りましょう。
それはある程度悟りだと思うんだけど、
その上で自分の人生をちゃんと楽しみましょうっていうところに焦点が立ってるのが、
かなり相似のポイントがあったと思うんだよね。
なるほど、そっかそっか。バランスなんだよな。
仏教との比較
うちだからするとバランスとれてるように見えるというか、
仏教だと、自分はソルテツラジオを通じて、
いろいろ仏教会とか聞いてる中で、
やっぱり仏教って、執着も話して、全部苦行、修行みたいな。
悟るのだ、みたいな、すごい修行感が強いというか、
下手したら虚無になるよね、みたいな話がしてるけど、
どうしてもそっちになっちゃうイメージがある中で、
勝手に悟った後は、とはいえ、
また属性ともうまくつながりながらっていうことは自然にできるんだろうね、
ぐらいの感覚だったんだけど、
仏教では別にそこまでは行ってないみたいな感じなのか。
そうだね、もちろんいろんな考え方はあるけれども、
基本的には執着を手放して、
もちろんこの世界は空であると。
それは大乗仏教だけれども、そういったところをまずはちゃんと悟りましょうなんだよね。
そうすると、やっぱり喜怒哀楽みたいなものも揺らぎだから、
そういうのも手放していって、静かな境地。
それ自体が安らぎであり、言葉として楽しみであるとは言えるかもしれないけれども、
積極的に自分の人生を楽しみましょうっていうふうに、なかなか言いにくいんだよね、仏教では。
へー、なるほどね。
やっぱりそこは悟りっぽいっていうのもあるかもしれないけれども、
あくまで今回の話を通じた、
僧侶はこの新人をどういうふうな感じでっていう、
僧侶の話をそのまま理解するっていうのは面白そうだね、そういう意味では。
やっぱり似てるけど違うとか、
やっぱり似てるからこそ違いが際立つってところがあるなと思ってるんだよね。
人生を楽しむって何?みたいな話があるんだけれども、
これもここまでお話しした通り、
僧侶って感情を別に感じることは悪いことじゃないって言ってるじゃないですか。
奥さん亡くなった時に自分も悲しいんだと。
悲しいんだけど道と繋がることを考えると悲しくない。むしろ喜ぶというか。
向き合い方をもっと自由でいいと思ったっていう話だとしたときに、
楽しむって結局、
本当に一言で言うと、やっぱり自分であるこれまでできた幅とか、
自分の枠みたいなものがあったときに、
それにぴったりと重なって生きていくっていう話なんだよね。
おー、なるほど。
それはつまり道そのものになるとか、
自分の人間としての道、感の肌としての道ってものを歩んでいく。
それが楽しみなんだよっていう話なんだよね。
おー、なるほど。はいはいはい。
楽しんでいいんだって言って、
ギャンブル行きますとか、マンガ読みますとか、別にそれもいいんだけど、
そういう娯楽をしましょうってことじゃなくて、
自分の人生をそのまま見つめて、それを生きるということを楽しんでいくっていう。
そういう境地がこの新人だっていう風なのがソウジの話なんだよね。
あー、なるほど。
だからあれだよね、ここに至った後であれば、
さっきのセミだよね、セミとかが大きな鳥を馬鹿にすることはなくなって、
この木からあっちの木に飛ぶの楽しいっていうのは、
それはアリというか、そうなってくると話は変わってくるんだよね、
今日の前半のエピソードと。
そうそうそうそう。
だからあいつは飛んでいくけど、俺は日暮らしとしてこの木と木の間を生きていくと。
仏教の悟りと相対主義
それが自分の道であり、楽しみであり、自分の人生だなって思えたら、
それはより良いな知識に近づいてるって感じだよね。
はいはい、なるほど。
ごめん、今回ちょっといろいろ挟んで申し訳ないけどさ。
いいよいいよ。
こうなってくると、これは逆になのかな。
仏教的な共主主義から、逆に相対主義というか、
なんでもありの世界に今度はこうなってくると陥りそうだなみたいなさ。
おーいいねいいね。
すごいね、どっちもなり得るっていうか、
すごいバランスというか、面白い話してるんだろうね、やっぱり。不思議だね。
それどのあたりが相対主義というか、なんでもありっぽいなって思った?
今のところ。
タオだよね。ある意味、信心的な感覚を経た上であればという前提が本当はあるんだけど、
そこを無視してね。そこを無視して表面的に、
あなたはあなた自身の気ままに生きればいいのです、みたいなさ。
オンリーワンです、みたいな悪い意味でのね。
そっちにも取れそうだなって今思い始めた。
そこがマジで面白くて、今やっぱ掃除推しになってる僕のポイントなんだけど、
気ままに生きていいって言ったけど、実は気ままに生きるのも違うんだよね。
なぜなら、これ楽しむっていうとさ、いわゆる喜びとかポジティブな感じするじゃないですか。
そうね、遊ぶとかって感じもね、見ちゃうと。
でもこれ実はめちゃめちゃ冷酷な話なんだよね。
人の道って実は、仮にそれを運命みたいなことだとしたときに、
それが仮に決まっているとしますと。
そうすると、その道にのっとって生きるっていうのは、
そういった当然ね、楽しいことだけじゃなくてつらいこととか、
厳しいこととか嫌なこととか、いろいろ起こるわけだよね。
それもある種、自分の道であるとか、
それと向き合うっていうことも、自分の自由な選択であるっていうふうな、
そういうふうな発想につながってくるんだよね。
実際こういう話もある、掃除の中にあるんだけど、
病気になってさ、苦しんでますと。
治療した方がいいねとか、いろいろやるんだけれども、
病気になった人が、この病気もある種、天が自分に授けたものだと。
天とか道か。
授けたものだから、別にジタバタして抵抗してもしょうがないみたいな。
それで死ぬなら死ぬで、それまでだし、生きるなら生きるで、それでOKだから、
この病気の状態っていうものも自分なんだっていうふうに言ったりするんだよね。
これって結構危ういじゃない?
要は、全然吸い込んだら治るから、治ってほしいって思うじゃん、普通は。
まあそうね、そういう状況というかね、技術があるならね。
そう、そう、そう。
でも、健康であることが良いって言って、もうそれと区別しちゃってるじゃん。
まあね、はいはいはい。
つまり、健康であることも病気であることも同じ道であるならば、
病気であることを嫌がるっていうことはしちゃダメなんだよね。
いや、おかしくない?それは逆に凝り固まってない?
そうそうそう。
だって、裏返せばさ、健康であることも同じなんだから、同じぐらい健康になっていいはずじゃん、みたいな。
そう。つまり、なんだろうな、ここがめちゃめちゃ難しいところで、その掃除のね。
だし、簡単に掃除最高って言うところなんだよ。
だから、ハヤトが今回その幅っていうね、表現を気に入ってくれたけれども、
その人によってその幅があるとしたら、決まってるとしたら、
自分にとっての健康と、病気というか不健康の幅ってどこなんだろうねっていうところがわかんないと、
さっきのこの病気に従いますも、もっと健康になりたいから薬飲みますっていう判断も、
この新人的な意味で正しくできてるかが誰にもわからないっていう状態になっちゃうってことだね。
そうそうそう、そういうこと。
なるほど。
今、病気の話をしたけどもっと激しいのもあって、ちょっと今出てこなくてバッって言っちゃうんだけど、
腕が例えば猿になりますとか、足が牛の足になりますとか、ちょっと詳細が違うんだけど、
そういう変化が起きたとしても自分は受け入れるぜみたいな、そのぐらいのことを言ってる話もあるよね。
それはちょっとピンとこないな。
ピンとこない?要はそのぐらいの変化があった、要は自分が人間でなくなるとしても、
それが道の定めなんだとしたら自分は受け入れるって話なんだね。
ああ、まあ、新人になった後であればっていうね。
そうそうそう。自分がその新人とか小葉友っていう状態で生きるとするならば、
そのぐらい道と一体化しています、話をしますと。
だろうね、っていうのはわかる。
だからこれ遊ぶとか楽しむとかって言ってるから、なんかハッピーな感じするんだけど、そうじゃなくて、
そのぐらいの変化だったりとか、これは一般、僕らの普通の目から見た変化とか、
つらさ、病気になってつらいじゃんとかっていうことも、
いやいやそれも含めて全部道の働きとか現れだから、それも楽しみますぜっていう、
やっぱりちょっとおかしい、言い方がちょっと狂っちゃうんだよね、やっぱり。
そうだね、確かに。狂ったようにしか見えないね。
そうね、普通の目から見るとね。
でも新人の目からすると、いやだってそれが道の現れなんだから、何も変わらなくないっていうふうに言えてしまう?
そうだね、うん。なんだろう。
ぴったりと自分ありのままの、そこのさっきの手が猿になったとすると、
手が猿になるのと自分の手の境界線をピンポイントで把握しているから、そうだよねって言えるっていう。
普通の人にはやっぱりできない芸当だよね。
そうそうそうそう。
あ、猿になってきちゃったってみんな多分思うよ、それは。
いやそうだね、普通はね、そう。思うんだけど、でも新人からすると別に猿と人の区別もないし、
自分の手が猿になることに関しても別に何も変わらない?
そうね、ふーんっていうね。
それによって自分の本質が脅かされているわけではないから、っていうふうに捉えましょうと。
本質が脅かされているか、それが本質そのものだからとかじゃないんだ、別に。
本質そのものと同じだからとかじゃなくて。
自分の本質というものは別にある、あるいは全てに置いてあるから。
これちょっと難しいな、ごめん、もう一回言うね。
今は分けちゃだめだよね、多分ね。
分けちゃだめ。
つまり道っていうのはあらゆるものに浸透している原理ですよね。
なので、例えば彼に自分の腕が人間から猿に変わりましたっていう時に、
あれは自分の本質が脅かされていないとも言えるし、そもそもそこにも本質があるとも言える?
あれはそもそも脅かされる本質などないのだとも違うの?
とも違う。それはどっちかっていうとブックなんだよね。
やっぱりすべて枠であって、その実体がないっていうのがブックだから。
その実体がないから脅かされることもないっていうのがブックなんだよね。
ないって言っちゃうと、あるのを反対だから、それもまた違うのか。
そうそうそうそう。
だから本質がこのようにあるって話だね。
そうだね。やっぱり掃除は道というものがあるから、その本質はありますと。
仏教はそのないということすらないっていうのが空だから、
ある意味そこを考えた瞬間に固まっちゃうよっていう話。
ああ、なるほど。
なので、似てるようでその根本が全然違うんだよね、やっぱり。
掃除の哲学
だったりとか仮にだけど、たどり着く境地が同じだったとして、その方法が結構違うんですねっていう感じだね。
そうだね、そうだね。目指してるところとかは近いと思う。
いわゆる悟り的な雰囲気とか、やっぱり囚われないように生きていこうということは近いんだけど。
って感じだね。
わあ、これなんか面白いね。
この掃除的な意味で悟った新人か、新人と仏教的に悟った人。
掃除と仏陀に対談してもらえばいいんだよね。
そしたらめっちゃ分かる、分かるみたいな。
だけどその道筋が結構違うみたいな面白さが出てきそうで。
あるかもね、ちょっとGPとかやってもらおうかな、いつか。
先頭兄さんじゃないけどさ、そっちの仏陀と掃除のバージョンをぜひ。
厳しそうじゃなくてね。
3人でもいいけどね、3人で対談していただいてもいいですけど。
確かにね。面白いと思う。やっぱりなんか、お互いやっぱり近いよねってなるのか、
ある種道俗言語的には近いけど違うってそっちが出るのか、そこそら分かんないよね。
だから、仏陀とキリストだから成り立ってたあの関係が、仏陀と掃除だといきなり契約になる可能性もあるっていうね。
確かにね。まあまあでも、そのレベルで言ったらもうね、ある種すべては同じだから別に多少の違い、
なんていうのはもうそれぞれの道、それこそ幅だから、お互いの幅を生きていけましょうになるとは思うけど、
多分もうちょっと、質問に答えたけど、2段階ぐらいしたというか。
まだ悟りきってない人たちだよね。
そうそうそう、私が話すと、なんかすごい喧嘩とか殴り合いとかになりそう。
いや、こわー。
違うみたいな。
そう、っていうことがあるので、いろいろ話しちゃったんだけれども、
やっぱり遊ぶとか楽しむっていうことのイメージからはちょっと外れる、
やっぱり僕らからしたときの狂気とか、さすがにウジが猿になったらそれはオノノクでしょみたいなことも、
いやいやそれも道の表れだから一緒だよっていうふうにさらっと言えるかどうかみたいな話。
っていうところがやっぱりこの掃除の、やっぱりある種バランスで、
そのバランスを取ろうとしたときの、やっぱりある種狂気でもありみたいな。
そんな感じがやっぱあるんだよね。
なるほどね、あのミギーもびっくりだよね、もうね。
ミギーもびっくりそうだね、あの寄生獣ね。
だからミギーが狩りに出たとしても、一緒一緒いつもと同じって言えるかどうか。
あなたも僕みたいな。そんなことはないか。
ないけど、そうだったら物語進まないよね。
進まないね。
なるほどね。
さっき手紋主義にも行くし、相対主義っぽくも行くみたいな話したけど、
本当にやっぱ難しい話を実はしてるんだね。
そうだね、相対主義には絶対ならないね、掃除は。
ならないんだ。
なぜなら相対するものがないから、だって万物制度なので、概念を100することができない、本質的に。
そういう意味では、ある種、インドとかの時にも話したと思うんだけど、
ウパニシャットみたいな話で行くと、いわゆるブラフマンという根源的な位置があって、
あらゆるものはそこから現れてくるアートマンというものだみたいな、そういう話があったじゃないですか。
そこにちょっと近い、やっぱりその根本に何かがある道だったりとか、ブラフマンみたいなものがあるっていうのは近いんだけど、
でもこの道っていうのは言葉を超えていて表現もできなくって、そもそも人間が理解できませんって言われちゃってるから、
あるのないのみたいな感じに、やっぱりその区別すら超えてますよねみたいな、
感じがたぶんソウジの一番いい理解な気がする。
病の受容と道
はいはいはい、なるほどね。
わーすごいね、結局5回やってきてさ、無用のようとか、いろいろ結局違くても同じだよねみたいな、
なんとなく理解してきたっぽい感じだったんだけど、最終回でまた全然わからなくなったね。
そうだよね。だいぶカオスはあって、僕今喋りながら思っている。
だいぶまた地球落とされたよ、どっかに。
そうね、はしご登ったと思ったら全然登れてなかったみたいなね。
そうそうそう、そうだね。立ったと思ったら全然違うところだったかもね、みたいな。
確かに。それが逆にやっぱりソウジの魅力だよなとも思ったりするし、
やっぱりこう、ほんと見るとバランスとれてて、なんかすごいいい感じなんだけど、
一回めくってみると、やっぱりカオスでした、ごめんなさいってすぐ閉じたくなるみたいな。
そういう風な魅力があるなーと思うんだよね。
はいはい、なるほど。どうなの?これでいうと、ソウジは新人だったのかな?
いや、違うね。
違うんだ。あー違うんだ。
やっぱりその、なんていうのかな、あくまでこれ理想だと思うんだよね。
さっき言った通り、やっぱり本当の意味で道と一体化するって、なんていうのかな、
彼ができたとしても、やっぱり他の人から見て、あの人は道と一体化した、みたいにならないと思うんだよね。
あー、はいはいはい。
なので、あくまでもその、理想としてとか、目指すべきものとして置き続けていて、やっぱりそこを生き続けるとか、そこに向かい続ける。
そういう意味ではね、前回のピエー・ラダーさんやったと思うんだけども、生きてる間の修行、
ソウジやったら生きてる間も死んでる間もたぶん一緒だけども、
そういう、何かそういう状態にある間、常に新人というものはやっぱり目指しましょうとか、
そういう状態に近づくっていうことが、まあいいよね、みたいな。
そういうふうな発想なのとは思うね。
なるほど。はいはい。
だからまあ、関東の超人と似てるね、そういう意味では。関東も別に超人じゃなかった。
ニーチェかな?
ニーチェか。関東はあれか、人格。
関東は人格だね。
関東も別にそうじゃなかったもんね。
そうだね。だから、やっぱり理想のキリストとしての人格というものがあって、
っていう話と自分がそういう存在であるかって別だなと思う。
ニーチェもそう。ニーチェも別に超人じゃなかった。
違うと思うなあ。
そこら辺はあれか、人によるみたいな評価はね。
そうだね、たぶん聞いてる方いると思うけど。
ニーチェの超人もね、やっぱり、なんだろうな、
ちょっと最後、そうするとまとめっぽくなってくるんだけど、
ニーチェの超人って、これもニーチェからまたやりたいのは実は思ってるんだけど、
やっぱりある種、神がない時代、神が死んだといった時に、
やっぱり人間の根本とか、どこに土台を置けばいいのかっていう話が出てきたわけだよね。
っていう時にニーチェは、ある種、永劫回帰っていう、
永遠に繰り返す自分の人生というか、
そういったものにおいて、よしもう一度って言って、
この一瞬一瞬を構成し続ける。
その永遠の繰り返しの中に、自分の人生っていうものの土台を置いたわけだよね。
一回きりの人生だと、やっぱりなんでこの人生生きてるのかとか、
じゃあ別にね、いずれ死んだら別に何してもいいじゃん。
生きてる間は別にね、悪いことしてもさ、なんか迷惑かけてもいいじゃんってやっぱりなったりするじゃない。
じゃなくて、永遠に繰り返すっていうことがあるから、
今この瞬間を、未来の自分のためにも、ある種過去の自分のためにも、
よく生きようって思うってことができるわけだよね。
っていう意味での土台があるんだけど、
当時はある種、別に永遠に繰り返すとかは言わないんだよね。
むしろ常に、生きていても死んでいても変わらずあるというか、
その存在する何かが仮にある、それが自分としたら、
それそのままとして生きようねっていうふうな話なんだよね。
だから、同じ理想を目指すとか、自分の人生の土台を作るってところはあると思うんだけど、
発想としては結構違うかな。
哲学的な探求
はいはいはい、なるほどだし、それこそ2000年くらい違うわけだからね。
まあね、土台も全然違うからってあるけど、
生きる中での自分の理想を作るとか、
そこに外部の、それこそさ、
相次が生きた時代で、自学っていうのがめちゃめちゃ暴起化していて、
儀礼とかそういうものによって生きるのがベストだって思えた時代だから、
そういう時代にそうじゃない人生観とか生き方とか世界観とか、
それをちゃんと作って提示したってやっぱりすごいことだなっていうふうに思うんだよね。
確かに確かに。
っていう感じなので、やっぱり相次ね、無用の世から始まって、
今回、生養有って新人の話をしたんですけれども、
やっぱり、ファンタンではないというか、むしろほぼ生きてる間に実現はできない。
何者へも頼らずに生きて、言葉を超えた道といったやつってやっぱりできないんだけれども、
そういう世界観になった時に、ある種全てを諦めるのでもなく、
とはいえ全てを頑張りすぎるのでもなくみたいな、
そういうふうなバランスが結構あるんじゃないかなって思ったんだよね。
はいはいはい、なるほど。
なので、自分にとっては結構この相次の方向性って、
ある種自分の人生の指針にできそうだなとか、
ちょっと狂うほどの深まりはないとしても、
目指すものとして、自分の生き方のOSになるかもなーみたいなことを今は思ってるんだよね。
はいはいはい。確かにね、合わせよこうせよっていうところのバランス感覚が確かに今回絶妙な感じがするし、
絶妙すぎてその新人っていうポイントは多分見つけられないと思うんだけど、
バランスの感覚はなんかいい気がするね、確かに。
そうそうそう、そうなんだよ。だからさっきも言った通り、新人が何かっていうと、
未知と一体化してるんだけど、ちゃんと自分の人生を自分のものとして楽しんでいる、生き抜いているが近いかなっていう話をしたときに、
ともするとさ、未知と一体化したらそれでよしみたいなんで、
それこそ大きな鳥みたいに宇宙目線でいったら、人間のイサカナってちっぽけだとかさ、
この人生なんて意味がないとかっていうこともできるんだけど、
それだとやっぱちょっと、距離を取りすぎてるから、ともかく今この生きてる自分をどうすんだよっていうことがやっぱり分かんなくなってるじゃない?
まあやっぱバランスというか、なんだろうな、よくね、前も言ったかな、鳥の目、虫の目ってのがあったときに、
客観的に鳥の目とか虫の目を持つんじゃなくて、鳥なら鳥として生きるし、さすが虫なら虫として生きるみたいな、
この両方をちゃんと持ってるっていうのは結構やっぱ大事なポイントだって思うんだよね。
はいはいはい、なるほどなるほど、そうだね、確かに。
てな感じでございますというところがね、今回の掃除編の最後っていう感じなんだけれども、
詳細というかまた雑談でも話したいなと思うけど、
どうだった兄貴のこの極意を経た、さっきも言った通り掃除のイメージというかさ、
掃除を語ろうとしたことってどんなふうに伝わったかな。
そうはね、だから今回途中でもあったんだけれども、
たぶんその同居だよね。
はいはい。
その老死早死ってまとめられた上で同居の怪しさみたいなものが、
とかあと前回もたぶんこういう話はしてくれたのかもしれないけれども、
やっぱりもうちょっと捉えどころないのかなーみたいな感覚だったんだけれども、
今回5回聞いてさっき言った通りこの絶妙なバランス感覚だから、
こうすべしとも別に言ってないというか、
もちろん新人になれとは言ってるとは思うんだけど、
その至り方がだいぶこうなんだろう、
悪い意味でこれを信じれば救われるのですみたいなさ、
悪い意味で。
はいはいはいはい。
じゃなくて、なんかちゃんとある程度こうなんだろうなー、
もちろん哲学的にどうかはわかんないけれども、
思想としてある程度納得性のある形でちゃんと組み立ててたんだな、みたいな。
うんうんうんうん。
そういう意味で掃除の解像度だったりとか見え方みたいなものが、
どっちかというとスピリチュアルな感じから、
ちゃんと哲学っぽいなっていう風に。
そして意外と仏教とも通ずるとか、
さっきのブラフマンアートマンみたいな話とも通ずるというか、
2000年前の時代にここまでの話を、
この掃除と比べるのがさ、
仏教も同様哲学だとして、
さっき言った超人とかニーチェの近代というかさ、
かなり最近の人じゃん。
で、関東の人格みたいなさ、
比べるのがその辺?みたいな。
はいはいはい。
で、結構やばいことなんじゃないのかなと思うよね。
やばいというかすごいことなんじゃないか。
いや、そうだよね。
そこと比べても全然議論ができるぐらいの概念って話だから。
そうそうそうそう。
確かに。
その発想なかったけど言われてみれば本当にそうだよなと思うし、
当然その後の時代の編集とかは含まれてはいるとは思うんだけども、
やっぱり第一回でおっしゃった通り、
やっぱりその掃除が戦国時代においてどう生きるかとか、
やっぱり本当に乱れに乱れた世の中において、
いかに自分として生きていくかっていうところに、
やっぱり真摯に向き合った結果なんだろうなって思うんだよね。
いやーそうだね。
兌換の感覚
うんうん。
なので実際に掃除、読んで結構、
図書館とかにもあるのでもし気になったら読んでみていただきたいんですけれども、
やっぱり読んだらわかんないんだよね。
結構物語調が多かったりもするし、
何言ってんだってなるんだけれども、
多分今回の話はちょっと念頭において聞いていただけると、
こういうことを言いたかったのかなとか、
掃除の考えてることってもしかしてこういうことから伝わってくるのかなとか、
っていうのは感じていただけるんじゃないかなと思うので、
いわゆる実学者的に難しくて読めないっていうことはないから、
物語調だしね、
そういう意味ではすごく入りやすいというか、
チャレンジしやすい本かなと思うので、
もし気になるなっていう方がいらっしゃれば、
掃除の内編ってやつですね、
外編とかっていろいろあるんだけど、
内編っていうとこ読んでいただけると結構面白いんじゃないかなって思いますね。
なるほど、
わかりました。
だいぶなんかあれだね、
さっき言った通り、
掃除の自分の生き方とつなげられそうっていう意味での親近感がだいぶ湧いたね。
嬉しいな。
ちょっと距離感があった気がするのに、だいぶ近づいた感じがする。
嬉しいです。
多分それは本当に僕の距離感で、
2年前とかかな、前もやりましょうって言ってたけど、
その時って掃除が全然わかんなくて遠い存在だったから、
なんか多分お腸に落ちた時の時期そういうこともあったと思うんだけど、
やっぱり今すごい掃除大好き。
今掃除の本5冊ぐらい手元にあるんだけど、
解説本とか含めて、
それでも全然少ないけど、
そういうのを一旦読んでる自分との距離感も多分あるから、
そこが兄貴だったりとか聞いてる方にも伝わったら嬉しいなと思いましたというところと、
あとね、次回雑談なんですけれども、
僕めちゃめちゃ好きな話が1個あった、掃除の中で。
なんかすごい悲しいお話があるの。
っていうのがあるんで、それをお伝えしながら、
雑談っぽくね、掃除って何言いたかったんだろうねとか、
それこそ兄貴が言ったら、僕らのこういう生活にもつながりそうだよって話をしつつ、
掃除編第6回プラス雑談みたいな感じで、
次回やっていきたいなと思ってますっていう感じですね。
はい、わかりました。
では掃除は今回で一応終了ということで、
次回ですね、雑談が挟みつつまた楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
57:22

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